先日に引き続き、「フェミニズムと動物倫理」というテーマでお勉強。
今回は政治哲学者のアラスデア・コクレーン(Alasdair Cochrane)のAn Introduction to Animals and Political Theory(『動物と政治理論:入門』)の第7章「フェミニズムと動物」に書かれていることをまとめる。
なお、本書では、「功利主義と動物」「リベラリズムと動物」「共同体主義と動物」「マルクス主義と動物」という章もある。また、ただ単にまとめるだけではなく、コクレーン本人は功利主義と権利論やリベラリズムの折衷的な主張を支持しているために、そうでない共同体主義・マルクス主義・フェミニズムについてはけっこう辛口な批判が加えられているところが本書のおもしろさだ*1。とくにマルクス主義やフェミニズムについては、勢いよく牽強付会や美辞麗句を唱える思想に対して地味で穏当なリベラリズムの立場からマジレスを行なっているという感じであり、ウィル・キムリッカの『現代政治理論』を彷彿とさせる*2。
また、本書では Extend Justice to Animal という表現が多発するし、Animal Right や Animal IssueではなくAnimal Justiceという表現がされることも多い。直訳すると「正義の対象を動物にまで拡げる」とか「動物の正義」だが、面倒なので今回は文脈によって異なる訳語を当てている。まあもちろん細かく見ると違うのだけど、「動物の権利」も「動物倫理」も「動物の正義」も「動物の問題」もだいたい同じような意味で用いられていることが多いし。
・フェミニズムと動物
本章の冒頭でまずコクレーンが指摘するのは、(イギリスにおける)動物愛護運動や動物の権利運動は発祥の時点から労働者を守るためのマルクス主義運動や女性を守るためのフェミニズム運動と結び付いてきた、ということ(代表的な動物愛護運動家や動物愛護団体は、労働者や女性の保護活動にも熱心であった)*3。そして、数多くのフェミニストが、フェミニズムと動物の問題は理論的にも結び付いていると主張してきた。
フェミニズムによる動物の権利論は三段階の構成に分けられる。
①:女性に対する抑圧と動物に対する抑圧は結び付いている、という指摘。
②:(西洋の(男性的な)哲学の前提にある)「理性」を重視する発想では女性の問題にも動物の問題にも対処できない、という批判。
③:(「理性」に基づく規範に代わるものとしての)「ケア」や「感情」に基づく規範の提案。
ただし、すべてのフェミニストが「ケアの倫理」を支持しているわけでもなければ、すべてのフェミニストが動物の問題に関心を抱いているわけでもない、とコクレーンは付け加える。そもそもフェミニズム自体が多様な思想であり、「女性に対する抑圧はどのように起こっているか」という論点にしても「その抑圧はどうすれば解決できるか」という論点にしても、リベラルなフェミニストとラディカルなフェミニストではそれぞれかなり違った議論を行なっているのだ。さらに、動物の問題について語ってこなかったというのは功利主義/リベラリズム/共同体主義/マルクス主義の思想家たちの大半に当てはまることであり、フェミニズムに限られることでもない。
そのうえで、フェミニストのなかでもとくにケアの倫理を主張している人たちのかなり多くは、動物の問題について実際に語ってきた、という点をコクレーンは指摘する。
・動物に対する抑圧/解放と女性に対する抑圧/解放の結び付き
多くのフェミニストは、動物と女性に対する抑圧…というよりも全ての周縁化されている(マイノリティである/弱者である)存在に対する抑圧は結び付いている、と主張する。
また、女性と動物に対する抑圧の結び付きを主張する理論のなかにも、いくつかのバリエーションが存在している。
ひとつめは、「自然に対する搾取」と「女性に対する搾取」を結び付ける、エコフェミニズムの理論。その代表として、コクレーンはジョゼフィーン・ドノヴァンの論文を挙げている*4。自然に対する搾取は動物に対する搾取ということでもあり、家父長制や「理性/感情」の二分法による被害者という点で女性と自然と動物は陣営を等しくする、という議論だ。
ふたつめは、肉食を優遇する文化は動物だけでなく女性も抑圧する、という理論。肉食文化が女性を冷遇するという発想は一見すると奇妙であるが、キャロル・アダムズの著書『肉食という性の政治学』では、狩猟採集社会では狩人が肉の分配を通じて経済的社会的な権力を握り、そして狩人の大半は男性であるということから男性支配が確立した、と論じられている*5。……そして「肉食」と「男性の優越」の結び付きは現代にも残っており、肉を食べることは「力強さ」や「男らしさ」と結び付けられている。したがって、肉食の文化から脱することは男性の権力を解体することでもあり、動物だけでなく女性の解放のためにも必要とされる、と論じられるのだ。
みっつめは、動物への抑圧と女性の抑圧は「言語」を介して結び付いている、という議論。(英語圏では)女性に対する侮辱表現として動物が持ち出されることが多いが(chick, cow, bitch, dog など)、ラディカル・フェミニストのキャサリン・マッキノンは、この種類の侮辱語は女性の地位を貶めるのと同様に動物の地位を貶めると指摘した(女性の地位を貶めるために動物を持ち出すことは、同時に動物の地位の低さを再確認することになるから)。また、アダムスは、通常の場合に動物は「それ(it)」と呼ばれるが「彼(he)」や「彼女(she)」と呼ばれないこと、あるいは人間が恐怖を感じるような動物(ライオンやオオカミ)に対しては「he」が用いられて、他の動物に捕食されるか弱い動物には「she」が用いられる、といったことを指摘する。これらジェンダー化された言語の使い方を改善することが動物/女性の解放には不可欠である、という主張だ。
よっつめは、女性と動物は共に「モノ化」されている、という議論。屠殺場における動物の扱いとレイプされる女性の扱いは、(男性の)目的のために主体性や自己決定権を奪われて肉体を利用される、という点でモノ扱いである。また、ミスコンと動物ショーでは女性も動物も称賛されはするが、その見た目から快感を引き出されるという点でやはりモノ扱いされている。さらに、法律上でも、動物だけでなく女性も男性の所有物と位置付けられてきた。現代では形式的には女性は男性の所有物とはされていないが、モノ化の長い歴史はいまだに女性に対して影を差しているのであり、動物/女性に対するモノ化の制度や慣習を転覆しなければならない…という主張。
これらの議論について、コクレーンはある程度の価値や妥当さを見出しながらも、「動物に対する抑圧と女性に対する抑圧に類似性があったとしても、類似していることは本質的な関係性があるということを意味しないし、女性の解放と動物の解放は必ずしも相互依存的ではない」と指摘する。
たとえば、ドノヴァンは「理性・合理/感情・非合理」の二分法が「男性・人間/女性・動物」の二分法に重ねられてきたと論じる。しかし、女性を非合理や感情に結び付けるのは事実的に誤っている一方で、動物を非合理や感情に結び付けることは必ずしも誤りではない……たしかに動物の知性は過小評価されがちだが、動物が人間のように合理的ではないこともまた事実であるのだ。つまり、「女性は男性に比べて感情的で非合理的な存在である」という主張が全くの誤りであるのに比べると「動物は人間に比べて感情的で非合理的な存在である」という主張には真実も含まれている。……すると、「理性・合理/感情・非合理」に「男性/女性」の二分法を重ねる発想を撤廃しながらも(事実と異なるので)、「理性・合理/感情・非合理」に「人間/動物」の二分法を重ねる発想を残存させることは可能であり、女性の解放は動物の解放を抜きにして行えるのだ。
また、肉食文化と女性差別の結び付きは不明瞭であるし、肉食文化が残存させながら女性差別を撤廃した社会を成立させることは明らかに可能だ。女性の解放のために菜食主義が不可欠なわけではない。さらに、肉食が男らしさに結び付けられてきたとはいえ、ベジタリアンだってミソジニーになり得る。そして、狩人が優遇された狩猟採集社会とは異なり現代では女性も経済力を手にすることは可能であり、女性は肉食を止めるのではなくむしろ畜産業の経営に介入して経済力を得たほうが自分たちを解放しやすくなるかもしれない。
言語を介した場合にすら、女性に対する抑圧と動物に対する抑圧は必ずしも必然的なものではない。女性に対してだけに限らず、男性に対する侮辱語にも動物が持ち出される場合はある(weasel, sloth, rat, pig, sheep, donkey)。これらの表現を用いることで動物の地位の低さが固定化されてしまうかもしれないが、女性の地位は影響を受けない[むしろ男性の地位を低めることで相対的に女性の地位が高まるだろう]。また、女性に対する侮辱語のなかには動物が関係ないものもいっぱいある(whore, which, jezebel, wench)。つまり、動物と女性のうち片方の地位を低める言語を撤廃しながらもう片方の地位を低める言語を残すことは可能であり、これらは相互依存的な関係にはなっていないのだ。
そして、たしかに動物と女性はどちらもモノ化の被害者となりひどい苦痛を受けているが、両者に対するモノ化が結び付いているかどうかは不確かである。現代の先進国では女性はもはやモノ扱いされていないが、動物はいまだにモノ扱いされている。「人格」と「財産」という[法的な]ヒエラルヒーにおいて、女性は前者に位置する一方で動物は後者に位置付けられているのだ。これは、女性に対するモノ化と動物に対するモノ化は異なった事象であることを示している。
結論として、フェミニストの思想家たちは動物に対する抑圧と女性に対する抑圧の類似性を描き出すことには成功したが、これらの抑圧が本質的に結び付いていることを証明するまでには至っていない、とコクレーンはまとめる。その他のマイノリティも含めて、女性についても動物についても彼女らが置かれている苦境に関心を持って彼女らを保護するための運動を行うことは重要であるが、実際問題として、ある集団を解放させることが別の集団を解放させることと相互依存しているということは全くないのだ。
・理性の失敗
ケアの理論家たちは、正義に関して理性に基づいて論じる伝統的な倫理学や政治哲学の手法では動物の解放は達成できない、と論じる。多くのフェミニスト思想家はピーター・シンガー(功利主義)やトム・レーガン(権利論)の思想について、動物への義務を論じるのに理性や論理に頼り過ぎであり感情を軽視し過ぎだと批判している。コクレーンは、理性に基づいて動物に対する正義を説く議論に対するケアの理論家たちの批判を五つに分けて紹介する。
ひとつめは、「理性は失敗し得る」という批判。たとえば、動物に対する正義という問題について功利主義で論じることもできればリベラリズムや権利論で論じることもできるし、共同体主義やマルクス主義で論じることもできるかもしれないが、これらのすべてが正解であるはずがない……仮にこのうちのひとつが正解であるとすれば、他のすべては不正解だということになる。
たしかに、理性(reason)に基づいた議論が間違うことはあり得るし、わたしたちが行う推論(reasoning)も、誤った信念や論理の乏しさや偏見などに影響されて見当違いの道を進んでしまうことがある。しかし、だからといって、理性を捨てるべきだということはならない。理論や原則を論じるには、自分が推論を間違えてしまう可能性を常に意識して、理性の能力を過信せず、自分の理論に対する異論や挑戦を常に受け付けながら、然るべき場合には自分の主張を改善する必要性を認識しておかなければならないだろう。しかし、間違う可能性があるから理性を捨てるべきだ、ということにはならない。そもそも、ある推論が誤っているかどうかを判断するためには、理性が不可欠なのだ[ここらへんはジョン・スチュアート・ミルやスティーブン・ピンカーの議論を思い出す]。
ふたつめの批判は、感情を抜きに道徳判断を下すのは不可能であり、「自分は理性に基づいて議論している」と自称している人たちも実際には感情に基づいて議論しているのだ、というもの[こちらはデビット・ヒュームやジョナサン・ハイトの系譜に連なる主張だ]。たとえば、「限界事例からの議論」は「他の条件がすべて同じならば、等しい条件を持つ存在は等しく扱わなければならない」という論理的一貫性に訴える議論であり、論理的な動物倫理の理論家から多用されるが、この議論は「乳幼児や重度障害者は道徳的な配慮の対象とならなければおかしい」という論理以前の感情的な判断を前提にしなければ成立しない、とケアの理論家たちは指摘する*6。
しかし、上記の批判は、シンガーにせよリーガンにせよ、動物についてだけでなく乳幼児や重度障害者についても、彼らに対して抱く感情に基づいてではなく「感覚[利益]を持つ存在に対する平等な配慮」や「生の主体」などの原則や理論に基づいて道徳的配慮の必要性を説いていることを見過ごしている[もっとも、ケアの理論家たちはそれらの原則や理論の根底にも感情…苦痛を感じている相手に対する共感やいたわりなど…が存在しているし、その感情がなければ善悪の判断は成立しない、と再批判するだろうけど]。
みっつめの批判は、理性に基づく動物倫理の議論は、動物のために活動している人たちの考え方や動機から全くかけ離れている、というもの。ブライアン・ルークは、動物の権利活動家は動物虐待が非合理で不公平な種差別だから活動しているのではなく、動物虐待が恐ろしくておぞましいから活動しているのだ、と論じる。動物の権利運動は動物の苦痛に対する感情的で同情的な反応に基づいているのであり、動物の権利運動を支持するための理論はこの事実を反映しなければならない、とルークは主張するのだ。
とはいえ、そもそも、動物の権利運動にせよ他のどんな社会運動にせよ、運動の参加者たちはそれぞれ異なった動機を抱いているものだ。たとえば、奴隷制撤廃運動を行なった人たちの動機は「奴隷制はキリスト教に反しているから」「奴隷制は基本的人権を侵害しているから」「奴隷制は苦痛を引き起こすから」などとバラバラであった。この点をふまえると、動物の権利活動家たちの動機と動物の権利の理論が結び付いてないことはたいして重要な問題ではないかもしれない。また、理論家と活動家の違いを過度に強調してもならない。シンガーにせよリーガンにせよ理論だけでなく運動にも多大に貢献してきた。実際、『動物の解放』を読んだことをきっかけにして活動家になった人は多数存在するのだ*7。動物たちに対する同情や愛着と同じように、論理に基づく哲学的な議論も、人々を動物の権利運動に参加させる動因になっているのである[……もっとも、実際のところ、論理よりも感情のほうが人々を動かす力を持ちやすいということはハイトを始めとする多くの心理学者が指摘するところだ(ハイトは『動物の解放』を読んでも食欲には抗えず肉食を止められなかったというエピソードも書いている)]。
よっつめの批判は、リーガンのように「権利」という言葉を用いる議論に対するものだ。一部のフェミニストは、権利とは誰かに対する要求であるがゆえに対立を前提にする発想である、と論じている[Aさんが権利を主張することはBさんに義務を負わせることである、という権利-義務の対称関係に基づく議論に対する批判]。マーティ・キールは、権利という概念は敵対や競合が存在する環境でなければ考えつかない発想であると指摘したうえで、人間や動物がそれぞれどのような権利を持つかを考えるのではなく、権利という概念が必要にならない共同体を築くことのほうが重要であるとした。つまり、人間も動物も、誰かに対する要求をしなくてもまともに生きていくことができるような、調和の取れた社会を目指すべきなのである。
もちろん、調和の取れた社会を目指すことに反対する人なんていない。しかし、キールらの主張は権利という言葉に対してかなり偏った見方をしている。過去にも現在にも、ある個人が自分の利益のために別の個人を犠牲にするという事態は起こるがゆえに、社会はしばしば調和という理想から外れてしまう。そして、この単純な事実に対処するためにこそ、各個人が他の個人に対してとれる行為を制限したり他の個人に対して負っている義務を明確化したりするための「権利」という概念が必要になるのだ。つまり、権利という概念が敵対や競合を生み出しているのではなく、社会における個々人の利益の衝突を予防したり修正したりしているのである。
最後の批判は、理性に基づく議論は動物たちの価値を利益という単一の概念に還元するという点で本質主義である、というもの。
この批判はさらに四種類に細分化できる。
ひとつめは、なんらかの形で意識能力を持つことを動物を正義の対象に含める単一の条件とすること[シンガーやリーガンの主張]は、正義を考えるうえで重要になるはずの個々の関係性を無視してしまう、という主張。わたしたちは友人や家族に対してはそうでない人に対してよりも強い義務を持つ、というのはごく普通の発想だが、義務の対象となる側の能力だけや性質だけを見ていると関係性に基づく特別な義務について論じられなくなる、という批判だ。……とはいえ、まず「正義の対象に含まれるかどうか」を意識能力に基づいて決めることと、その後から特定の個人や動物に対してわたしたちが抱く具体的な[特別]義務について考えることは両立可能である。また、わたしたちの個人的な生活においてならともかく、政策や法律の領域にまで関係性という発想を持ち込んでしまうと、アウトサイダーとして扱われる存在に対して不公平な結果がもたらされることになる(これは女性や黒人や同性愛者などが実際に経験してきた事態だ)。政策や法律の領域においてはある程度の抽象化と偏りのない公平さは不可欠であるのだ。
ふたつめの批判は、動物の価値を意識能力に基づいて判断することは、わたしたちに動物を利益の器であるかのように見なさせて個々の動物たちについて考えることを妨げさせる、というもの[ジョン・ロールズが「人格の別個性」に基づいて功利主義を批判したのと似ている]。この批判の問題点は、動物たちがそれぞれの個体ごとに独自の特徴やニーズを持っているからといって、政策を決定する際において個々の動物たちの違いが重要であるとは限らないという点だ。動物たちと同じように人間たちも個人ごとに独自の特徴やニーズを持っているが、政策を決定する際に全ての個人の全ての特徴やニーズを個別具体的に判断することはできず、基本的なニーズや利益を一般化することが必要になる。一般化に基づいた政策では特定の個人の具体的なニーズを捉えることはできないかもしれないが、資源が限られていることや実務上の問題を考えると、政策決定において一般化を行うことは全くもって許容可能なのだ。
みっつめの批判は、利益という観点のみに基づいて動物を評価することは、より多くより強い利益を持つ動物たちをそうでない動物たちよりも上位に置くようなヒエラルヒーを形成する、というもの[クジラや大型霊長類がニワトリやブタやネズミより上位に置かれる、など]。しかしながら、このような文脈における「ヒエラルヒー」という言葉の使い方は作為的でありミスリーディングだ。理性に基づいた動物論では競合する利益の調整が行われるし、その際にはより強力な利益のほうが優先されるが、このこと自体はなんら問題ではないし、ヒエラルヒーを形成するとも限らない。たとえば、新しい空港を建設するか否かについて検討するとき、わたしたちは空港の建設に関連する数多くの利害を考慮したうえで、利害の間の優先順位を付けたりバランス取りを行う必要がある(建設予定地の住人が被る騒音被害、二酸化炭素排出による将来世代の被害、飛行機の利用者がより安く便利な航路を利用できるようになること、空港建設に伴う経済効果、新しく雇用されることになる従業者たちの利益、などなど)。この際に最も強い利益を優先することは全く分別のあることだし、それは他の種類の利益を無視したり弱い利益を持っている人々をヒエラルヒーの下層に置くことを意味しない。ただの、妥当で公平な意思決定に過ぎないのだ。人間たちと動物たちそれぞれのなんらかの利益が衝突する場合にも、時と場合によっては前者の利益のほうが強いから優先されることになり、時と場合によっては後者の利益のほうが強いから優先されることになるだろうが、このことは人間と動物のどちらがヒエラルヒーの上でどちらがヒエラルヒーの下かという発想を一切伴わないのである。
しかしながら、よっつめの批判は、理性に基づく議論は競合する利益のバランス取りを行う、ということ自体を標的にする。批判者たちによると、利益の比較衡量には科学的な方法論が用いられるのであり、科学的な方法論とは工場畜産や動物実験を生み出したものでもあったのだ。そして、工場畜産と動物実験は、人間にとっての重要な利益(安価な食料と人命を救う医療)を生み出すからという理由で正当化されていたのだ。……とはいえ、利益の比較衡量が動物虐待を正当化するためにも用いられるという事実が、利益の比較衡量という考え方自体にとって致命的なものになるとは限らない。シンガーが指摘しているように、工場畜産と動物実験が正当化された背景には種差別に基づく誤った比較が存在していたのであり、種差別を排して比較衡量を行ったら[工場畜産の廃止や動物実験の大幅な制限などの]全く異なる結論を導き出せる。「利益の比較衡量は過去に誤った判断を生み出してきた」という理由から利益の比較衡量という発想そのものを捨ててしまうことは、産湯と共に赤ん坊を流してしまうようなものだ。
結論として、ケアの理論家やフェミニストたちによるシンガーやリーガンの議論への批判は不公平なものであり、動物への正義についての理性に基づく議論は批判者たちが想定している以上のものを提供している、とコクレーンはまとめる。
・ケアに基づく、動物への正義に関する議論
ひとくちに「ケアの倫理」といっても、「理性よりも感情や感傷や気持ちを重視する」「他者に対する義務について考える際に関係性や偏愛[partiality]を重視する」「抽象化よりも具体的な文脈を重視する」など、様々なバリエーションに分かれている。コクレーンはローレンス・コールバーグの道徳発達段階理論を批判したキャロル・ギリガンの『もうひとつの声で』の概要を紹介したのちに、ネル・ノディングズの『ケアリング』の概要を紹介する*8。……ここらへんは日本語でも調べたらいっぱい情報が出てくるので紹介は省略。重要なポイントは、ギリガンの主張はたまに批判されるほどには本質主義的なものではないということと(ギリガンはケアの倫理が男性的な哲学の世界で無視されたことは指摘したが男性=正義の倫理で女性=ケアの倫理と結び付けるような主張はしていない)、ノディングズは「自分は飼い猫に対して義務を負っているが自分以外の人たちが自分の飼い猫に義務を負っているわけではないし、自分のペットでもないネズミに自分が義務を負っているわけでもない」と主張したという点だろう[ケアの倫理が関係性や偏愛に基づくとしたら、ノディングズの主張はごく当たり前に想起されるものである]。
ノディングズの主張の問題点は二点。まず、わたしたちは自分が関係を築いた相手にしか義務を持たないとすれば、わたしたちはアウトサイダーたちに対する義務を持たないということになる……そして、歴史上、人種やジェンダーや宗教や階級やセクシュアリティに基づく差別をもたらしてきたものだ。この事実があるからこそ、多くの理論家は、義務は人々の関係性にではなく個々人の利益に基づかせるべきだと論じてきたのである。次に、個々人が行う倫理的な判断というミクロな領域にはある程度の偏愛が必要になるとしても、政治的な共同体というというマクロな領域における政策決定はできる限り不偏的[impartial]なものにすべきである[この議論は本書の5章で詳細に行われているが、まあ一般常識としてそりゃそうだということにはみんな同意すると思うので説明は割愛]。これら二点の問題を考慮すると、関係性や偏愛に基づくタイプのケアの倫理には警戒すべきであるし、とくに動物の問題においては普遍性を伴う理性に基づく議論のほうが妥当であると判断できる。
ただし、ケアの理論家のなかにも、自分たちの主張を関係性に基づかせることを否定する人は数多くいる。ドノヴァンは、わたしたちは遥か遠くの国の人のことも気にかけられる[ケアできる]ことを指摘して、動物に対する義務をペットに限定させる必要はなく、すべての動物に対して[ケアに基づく]義務を拡大すべきであると主張する。……この主張の明らかな問題点は、人々が気遣いを行う能力はドノヴァンが想定しているほど深遠なものではないかもしれない、ということだ。実際のところ、気遣いに割いている時間や努力や資源を見てみれば、わたしたちは見知らぬ他人や動物のことを自分の家族や友人やペットほど気にかけているわけではない。これをふまえると、気遣いとは、[ペットではない]動物たちに正義を与える根拠としてはかなり薄弱であるのだ。
この批判に対してドノヴァンが持ち出すのが、ケアの倫理に"政治的な"分析を加えるアプローチだ。つまり、わたしたちが見知らぬ人や動物を気にかけることは、政治や制度や宗教や経済や文化によって制限をかけられているという主張……逆にいえば、本来なら私たちは見知らぬ動物たちのことをも気にかけられたはずだ、という主張である。ルークも同様の議論を行なっており、わたしたちは本来なら動物たちに対して同情を抱けるはずが、畜産業や動物実験業界が振り撒く虚構などによって動物たちのことを気にかけないようにさせられている、と主張する。
ドノヴァンやルークによる議論の問題点は、彼女らが言うところの「本来の感情」がほんとうに存在するかどうかが疑わしいというものだ。たとえば、ルークは自然な状態なら人間は動物に対するケアを抱くものだと主張するが、彼の議論は根拠に乏しい。まだ社会的な影響を受けていないであろう幼児や子どもを見ても、動物に対して大いに愛着を示す子どもがいる一方で、猫をいじめたり虫を分解して殺したりする子どももいる[もっとも、「それらの子どもや幼児はすでに社会化されているのだ」と反論してくるだろうけど]。近現代的な政治や経済や企業の影響力から免れており西洋の宗教も伝わっていない人たちも、動物を崇拝することがある一方で、動物に多大な苦痛を与える儀式を行うことがある。端的に言って「自然な状態なら人間は動物に対してこのような感情を抱く」という議論は成功する見込みがない。したがって、ここでも、わたしたちが動物に対して抱く感情を問わずに動物への義務を説く議論……すなわち理性に基づく議論を手放さないほうがいい、ということが示されるのだ。
結論として、感情や同情は道徳において全く役割を果たさないわけではないが、わたしたちが他者や動物に対して抱く義務を確定する際には理性のほうに最終決定権を渡すべきである、とコクレーンは論じる。まず、理性に基づかない感情は偏見や差別を助長することがあるし、不適切な感情を修正するためには理性が必要になる。次に、感情の行く先は不確かであり、同じように同情に満ちた人たちであっても、同じ道徳的問題に対して全く異なる答えを出すということがあり得る。そして、政治的な共同体などのマクロな領域においては一般化に基づく抽象的なルールは不可欠であるのだ。
……後半は時間と集中力の問題から駆け足になってしまったが、まあこんなところでいいだろう。この章を読むのも約10年ぶりであったが、改めて思ったのは、ケアの倫理に対する「理性」側(功利主義や権利論やリベラリズム)からの批判は、ジョセフ・ヒースやスティーブン・ピンカーが批判理論やポストモダニズムやラディカリズムや特権理論などに対して著書で行なっている批判とかなり重なっている、ということ。とくに『人はどこまで合理的か』を思い出した。