道徳的動物日記

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読書メモ:『フェミニストの理論』

 

 

 

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 先日に英語論文を読んだジョゼフィン・ドノヴァンが1985年に書いた単著の『フェミニストの理論』がAmazonで安く売っていたので、せっかく論文を読んだのというのと前後に世界女性デーがあったということで(女性デーのテーマカラーと同じくこの本の表紙も黄色だし)、ひさしぶりにフェミニズムの本にも目を通して見るかと思って買って読んだ次第。

 ……とはいえ、出版されたのは約40年前で、少なくとも日本ではとくに定評があったり有名であったりすわけでもないような本だから、内容はまあ大したものではない。いちおうアメリカのフェミニズムを中心にしているが、イギリスやフランスの重要な思想家(メアリ・ウルストンクラフトやシモーヌ・ド・ボーヴォーワール)も満遍なく取り上げられている。しかし書き振りがどうにものんべんだらりとしていて、思想史の説明と理論の説明とが混ざっている感じが強く、全体的にあまり明瞭ではない。……これはこの本自体の欠点というよりも、この数十年で(とくに英語圏の)哲学入門本や各学問の理論を解説するタイプの本を執筆する際のセオリーやシステムが確立して、昔に比べてずっとわかりやすい入門本が出版されるようになった、ということなのだろう。

 

 本書の目次は以下の通り。

 

  1. 啓蒙運動のリベラル・フェミニズム
  2. 文化フェミニズム
  3. フェミニズムマルクス主義
  4. フェミニズムフロイト主義
  5. フェミニズム実存主義
  6. ラディカル・フェミニズム
  7. フェミニストの道徳ヴィジョン

 

 わたしも最近のフェミニズム思想をフォローできているわけではないので印象論になってしまうが、このなかだと「フロイト主義」や「実存主義」は最近では影が薄くなっている気がする。また、「文化フェミニズム」という言葉を耳にする機会もかなり減った。

 そして、「ケアの倫理」を主とする道徳哲学や規範論が最終章に持ってこられていることや、またケア倫理を文化フェミニズムに連なる流れに位置付けているところがこの本の特徴でるだろう。前回に紹介した論文を読むとドノヴァンは自分自身を「文化フェミニスト」と自認しているようなので、類書に比べると文化フェミニズムが強調されたり評価されたりしているような気がする。

 

最後に、私は、この本が、未来のフェミニストの理論の定式化の手助けになってほしいと願っている。この本を書きながら、私が到達した悲しい結論のひとつはフェミニストたちが幾度となく、おなじ車輪を再発明してきたということだ。一九六〇年代後期、七〇年代初期に展開された理論は、当時は私たちの多くに一種の啓示としてやってきたのだったが、それ以前のフェミニストの運動について学ぶにつれ、こうした「ラディカルたち」がいわなければなかったことで真に新しいものはほとんどない、ということがしだいに明白になってきた。その多くが、一世紀以上まえから、くりかえしいわれてきた。フェミニスト理論のこの腐蝕が、ふたたびおこってはならない。

(p.5)

 

「まえがき」のこの部分だけを読むとラディカル・フェミニズムをディスっているように聞こえるが、実際には、「リベラル・フェミニストとして括られる初期(第一波)のフェミニストたちの考え方には後のラディカル・フェミニズムに通じるところがあった」という指摘が、第一章にて幾度かなされている。

 また、とくにウルストンクラフトなどが啓蒙主義的な「理性」に対してかなり強い信頼や情熱を示している、というのは詳しい人にとっては常識の範疇に属することなのだろうけれど、改めて描き出されると(後に文化フェミニストたちが「理性」に反旗を示していくというところとコントラストにもなっていて)印象深かった。本書には登場しないが、新ストア派とも称されるマーサ・ヌスバウムがリベラル・フェミニストの系譜に連なる存在だということも再認識させられた。

 

とはいえ十九世紀のフェミニストの理論には、おなじように重要な他の鉱脈、啓蒙運動のリベラル理論の根底から理性主義的で、法律尊重主義的な推力をこえて進むので、「文化フェミニズム」のラベルのもとに一括されるであろう理念がある。政治的変化を照準するかわりに、こうした理念をもつフェミニストたちは、より広い、文化的変容を希求した。批判的思考と自己開発の重要性はつづけて認めながらも、こうした人びとはまた、理性とは異なるもの、直観的なもの、そしてしばしば、生活の集団的役割の側面を強調した。男と女の類似性を強調するかわりに、こうした人たちは、差異を強調して、究極として女性的資質が、そのひとの強さの誇りの出所であり、公の再生の源泉にもなりうるだろうと断言する。これらのフェミニストは、リベラルな理論家たちが、多かれ少なかれ手つかずのままにのこした制度ーー宗教、結婚、家庭ーーのオルタナティヴを想像した。世紀の変り目までに、このフェミニストの理論の鉱脈は、女たちの諸権利をそれ自体が目的とみる見解をこえてすすみ、それを、結局はより大きな社会改革を効果あらしめる手段と見た。フェミニストの社会改革論は、女たちの道徳的パースペクティヴが、腐敗した(男性の)政治世界の浄化に必要だから、女は公的領域に参入して、投票権をもつべきだし、またもたねばならないと主張した。

この文化フェミニストの理論の根底にあるのは、母権制のヴィジョンだった。根底から女性的関心と価値観によってみちびかれる、強い女たちの社会の理念だった。もっとも重要なことには、これが、平和主義、協同、異なるものの非暴力の共存、公的生活の調和ある規律をふくみこんでいた。十九世紀の後半に、このユートピアンのヴィジョンが、母権制時代の理論、人類学者たちが前歴史時代に存在したと想定した、母親支配の時期の理論に表現された。それが、当時の女たちの文学にフィクションの表現を見出した。いちばんいきいき描かれたのは、シャーロット・パーキンズ・ギルマンの母権制ユートピア『ハーランド』である。

 

(p.55-56)

 

 本書のなかでもとくに感心して、印象に残ったのは、以下のくだり。

 

歴史研究と人類学研究ーーその多くがこの本[ヴァージニア・ウルフの著書『三ギニー』]に引用されているーーが、女たちが、男とはちがって、ほとんど普遍的にその経験のもとに生きてきた、かずかずの決定的な経験構造をあきらかにした*1。なによりもまず第一に、女は政治的抑圧を経験してきている。彼女らは、社会でこれといった政治力をもたず、その生涯を形成した現実をコントロールできずにいた。

第二に、ほとんどあらゆる場所で、ほとんどあらゆる時代に、女は家庭の領域を割りあてられてきた。前産業社会では、公的労働と私的なそれの区分が、産業化された国ぐにほど硬直でないのは確かだが、それにもかかわらず女たちは、記録ある歴史をつうじて一貫して、家庭の領域と家庭の義務ーー育児あるいは母親活動(マザリング)をふくむーーを割りあてられてきた。

第三に、史上、女の経済機能は、使用のための生産であって、交換のための生産ではなかった。使用のための生産は、Ⅲ章で述べたように、売るとか交換するとかではなく、食料、衣服など、直接に家族によって消費される物質の製造を意味するので、それは当然、その抽象的価値ないし交換価値のために評価されるのではなく、それ自体のためにーーその直接物理的な価値のためにーー評価される。

第四に、女たちは、男とは異なる意味深長な肉体的事件を経験する。そのもっとも重要なものが、ほとんど全部の女がいつかは経験している月経と、多くの女が経験する出産、授乳である。最後に、フロイト派が指摘してきたように、核家族での子供の成熟プロセスは、男と女では非常に異なっているようにみえる。

こうした異なる条件のもとでの暮らしの経験が、特定の意識、特定の認識論、特定の倫理、特定の美学の形成にいたらしめた。以下では、私は、主として、そこから派生した女たちの認識論と倫理に焦点をあてようと思う。

女たちの判断が、根本において、偶然のなりゆき、環境の文脈、具体的で日常的な世界の尊重にもとづいていると示唆する証拠は、かなりの量で見出されている。女は男よりも、環境の「声」の多様性と、その現実の有効性をうけいれる、受動的様式を採用する気になっているようにみえる。女は、その文脈をねじまげたり、それに異質の抽象をおしつけたり、知的に、また物理的に、それを屈服させる用具をつかったりする気が、男よりも少ないようにみえる。このような認識論が、非帝国主義的な倫理、生命肯定的な倫理、生活の具体的細部を尊重する倫理の基礎を供給する。このような倫理が、イギリスの哲学者で小説家、アイリス・マードックによって発言されてきたが、それはのちほど、この章で紹介するつもりである。

以上に概略した経験構造を考えると、女たちが、どのようにして環境知覚的な、もしくは全体論的なヴィジョンを発展させてきたかを想定するのは困難ではない。無力さという第一の条件は、必然的に、女たちが生き残るためにその周囲に気を配っていなければならなかったことを意味する。というのは、その環境がーーそれが父権制的である限りーーたえず女たちを侵害しつづけてきたからである。前に引用した論考で、メレディス・タックスが指摘したように、「女は、その周囲に対して超感度をもっている。女は、そうでなくてはいけないのだ。スイッチをいれないで街の通りを歩いてごらん。あなたはほんとに危険だから」。

家庭の領域では、女は自分自身の別個の空間を切りとり、別個の文化的伝統をたもつことができたけれども、にもかかわらずそこでさえ彼女たちは、たえずその主人の指図のままになっていた。女の計画に基本的な「中断可能性」がまた、環境の影響力に個人として傷つきやすい女の感覚に貢献し、その世界をコントロールするというより、チャンスに、状況に縛られているという感覚をやしなってきた。その結果の意識が、柔軟性、相対性、偶然性の意識であるにちがいない。

おなじように、毎月の月経の経験と、比較的効果のあるバース・コントロールが実現する最近まで、女は妊娠のリスクなしには男と性交できなかった事実が、ひとの計画を侵害する肉体の現実に縛られているという感情に寄与してきたにちがいない。女は、この身体の文脈を無視できなかった。それは”そこに”あった。それは彼女の生活の一部だった。

 

(p.265 - 267)

 

 上記の引用はやや本質主義的ではあるし、たとえばわたしが疑わしいと思っている精神分析の観点が入っている一方でわたしが(ある程度までは)妥当だと思っている進化心理学的な観点がないように、評価する人ごとに受け入れられない要素や前提などが存在するだろう。まあ全体的に古びているとは思う。

 ……とはいえ、自分の生きる環境を支配されるという経験や「無力さ」が女性ならではの柔軟な細やかな認識論や倫理を生み出した、という考え方は、わたしにもかなり同意できるところだ。「無力な人のほうがそうでない人よりも正確な認識ができたり真実に達したりできるんだ」というところまでいってしまうと『「社会正義」はいつも正しい』で批判されていたような応用ポストモダニズムになってしまうので節度は必要だが、ネガティブな経験をすることや傷つきやすい状況に生きることでそうでない人たちにはできない発想や感性を獲得する、というのはふつうにあり得ることだろう。