道徳的動物日記

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動物倫理における「有感覚主義」(読書メモ:『アニマル・スタディーズ 29の基本概念』①)

 

 

 先日に発売された『アニマル・スタディーズ 29の基本概念』を図書館で入手してきたので(とても個人で購入できるような値段ではない)、気になる章をいくつか読んで読書メモを取っていく。

 

 まずは、倫理学者ゲイリー・ヴァーナーが執筆した第24章「感覚があること/有感覚(Senticence)」から。ヴァーナーはわたしのお気に入りの哲学者であり、このブログでも何度か紹介してきたほか、『21世紀の道徳』の第3章でも引用している*1。しかしこれまで彼の本や論文が日本語に公式に翻訳されてきたことはなかったはずなので、今回の『アニマル・スタディーズ 29の基本概念』で短いながらもヴァーナーの文章が翻訳されたことは喜ばしい。

 

 ヴァーナーは、「感覚があること」という言葉はしばしば明確な定義抜きで使われており、以下のような多種多様な意味が含まれている、と指摘する。

 

一、意識がある conscious

二、知能がある  intelligent

三、自己認識力がある self-aware

四、選択の自由や自律性 freedom of choice or autonomy をもつ

五、パーソン/人格 personhood に該当する

 

 (p.611)

 

 ピーター・シンガーは『動物の解放』のなかで、ある存在が「利益に対する平等な配慮」の原理の対象になるかどうかの境界線を「感覚があること」に設定した。その際、シンガーは「感覚があること」という言葉が様々な意味で使われ得るという点を意識したうえで、「苦しむことや楽しむことを経験する能力の、精確ではないが便利な略称」という但し書きを与えている。

 ヴァーナーは「痛みを感じる能力は感覚があることの十分条件だが、必要条件ではない」と指摘している(p.613)。SF作品に出てくるアンドロイドや、現実世界の先天性無痛症(C I P)の人々などは、痛みを感じることはないが喜んだり楽しんだり苦しんだり落ち込んだりするなどの感情を持っている。……この点は、シンガーの議論に対するイチャモンじみた批判を招き寄せてきた*2。とはいえ、シンガーの『動物の解放』や『実践の倫理』は現実の問題について考えたり対処したりするための本であり、フィクションの世界やごく特殊な事例を捨象して一般論に基づいた指針を提唱するのはごく妥当なことであろう。

 

[世界中でCIPと診断されている人はわずか百人ほどであることを指摘したうえで]だから現実世界ではーーSFを除いてーーわれわれは通常、何らかの感覚をもっていてあたりまえの有感覚者なのに身体的痛みを感じる能力がないという個人には出会わない。そんなわけで、身体的痛みを感じる能力は、一般的に有感覚の範囲と一致するものとして扱われ、どの動物に感覚があるかの科学的研究は特に、どの動物が身体的痛みを感じられるかという問題に的を絞って行われてきた。

 

(p.614)

 

 人間以外の他の動物(生物)たちのうちどの動物が痛みを感じられてどの動物はそうではないか、ということを確認するのには困難さがあることはヴァーナーも認める。痛みの「主観的な感じ」や意識的な「苦しみ」それ自体は観察することも科学的に測定することもできないから、「類推による論証」を行うしかないのだ。

 

類推による論証は、身体的痛みの主観的な感じのように、直接観察できない特性にかかわるさまざまな文脈で使われる。ある動物種の痛みに関し、類推による論証の一般的な骨組みは以下のように表すことができる。

 

一、われわれは、<人類>と<動物種S>がともにa、b、c、……nという特性を有すると知っている。

二、われわれは、<人類>が意識的に痛みを感じると知っている。

三、したがって、<動物種S>もきっと痛みを感じることができる。

 

こうした論証は、演繹的に妥当ではなく、帰納である。つまり、その前提が真であっても、結論が誤りである可能性は除外されない。<動物種S>が痛みを感じるという結論にわれわれがどの程度確信をもつべきかは、a、b、c、……nという特性が痛みを感じる能力とどの程度関連しているかによる。

 

(p.615)

 

 研究の結果、現時点では、「侵害受容器を有すること」や「侵害受容器が脳とつながっていること」、「痛い刺激に遭遇すると内因性オピオイドが分泌されること」や「有害な刺激に対して、刺激を避けたり傷ついた部分をかばったりすること(痛みを感じている人間と同じような反応をすること)」などが、ある動物(生物)が痛みを感じるかどうかと関連している、と考えられている。

 

 そして、人間や動物に対して道徳的に配慮する際には、「痛みを感じる」ということのほかにも様々な能力が関わってくる。たとえば「知能」だ。ひとくちに「知能」と言っても、様々なものが有り得る。「数学の問題を解く能力」と「音楽理論を理解する能力」はどちらも知能といえるが、前者を多く持っているが後者に乏しい人もいれば逆の人もいるだろう。数学の得意な人でなければ、数学の難問を解く楽しみも、難問に取り組んでいる苦労も感じられない。音楽に詳しい人でなければ理解できないような複雑な良さを伴う楽曲もあれば、逆にふつうの人なら耐えられるが音楽に詳しい人には人には低質さが理解できて耐えられないような楽曲もあるだろう。

 

[…]このようにして、さまざまな種類の知能は、それらの知能を欠く生き物にはできないやり方で、感覚のある生き物が楽しみかつ苦しむことを可能にするのだ。

このため、多くの人々は、感覚がある生き物はすべて道徳上考慮すべきだが、感覚がある生き物の中でも一部の生命は他よりも道徳上意義が大きいと信じている。つまり多くの人々は、そもそも道徳的考慮のために個体という資格を与えるものとは何かということと、葛藤や順位づけ[トリアージ]がある場合に、諸利益の間で優先順位を決めることを正当化するものは何かということを、きちんと区別しているのである。

 

(p.618)

 

 シンガーの議論や動物倫理全般に対して、「知能の高さによって動物の間にランクを付ける発想だ」という批判がされたり、「人間に近い知能を持つ動物ほど優遇してそうでない動物ほど冷遇する発想であり、結局は人間中心主義から脱せていない」という批判がされたりすることがある(さらにキリスト教とか健常者中心主義とかに結びつけられたり)。

 しかし、ヴァーナーやシンガーの議論は、知能には様々な種類があることを認めている……つまり、別に「人間に近い知能」でなくとも、それが楽しみや苦しみと関連するようなものであれば、平等に配慮されるのだ(もっとも、実際には痛みだけでなく知能についても「類推による論証」によって測るしかないという側面があるだろうから、なにかしら人間と共通点があったり人間に理解可能なタイプの「知能」しか発見されることがなく、したがって人間に近いタイプの知能のほうが配慮されやすいだろうが、それは理論の原理的な問題というよりも実際の世界の制約や実践上の都合に拠るものである)。

 また、先ほどの引用文で「多くの人々は〜と信じている」とヴァーナーが書いているのに対して「いやわたしはそんなことを信じていない」と拒否する読者もいるだろうが、ここは、「人々の普段の言動や思考を批判的・反省的に分析してみたら、(表面上の自己認識はともかく実際には)こういう信念を多くの人々が抱いているだろう」といった意味合いで受け取るべきだろう。

 

こうして、有感覚主義者[センシェンティスト/sentientist]は、次のように主張できる。身体的痛みを感じる能力は個体に道徳上適格性を与えるのに十分だが、さまざまな認知能力は個体に他のさまざまな意識的な苦しみと楽しみを経験する能力を与えうる、と。問題が身体的痛みを与えることに関してではなく個体生命の価値である時、有感覚主義者は何の矛盾もなく、特定の認知能力を有する個体の生命はそれらの認知能力を欠く個体の生命よりも道徳上意義深いと主張できるのだ。

有感覚主義の流れをくむ哲学者たちはこういった見方を擁護してきたが、その中でしばしば、<パーソン>の概念と何らかの自律性を引き合いに出す。たとえばシンガーは後の著作で、<パーソン>を「理性的で自意識のある」存在者と定義し、時には「理性的で自意識のある」を「伝記的な生」を送ると言い換えた。これは、生の「物語」を生きようと選択し努力するという自律性の概念を示唆するものだ。種々の出版物で、シンガーはそのように定義された<パーソン>を「自意識」や「伝記的な生」を欠く個体とは異なり、「かけがえのない」個体と表現している。ただしシンガーは、<パーソン>の生に特別な道徳的意義があると考える理由を他にもいろいろ挙げている。

 

(p.620)

 

 そもそも、「有感覚主義」とはシンガーの議論を批判する環境倫理学者によって導入された、批判的・冷笑的なレッテル貼りの意味合いを持つ言葉であった。自然環境や生態系や生物種などにも本質的価値を認めて、(ときには動物を犠牲にしてでも)それらを保護する必要性があると考えるタイプの環境倫理学者にとっては、道徳的配慮の対象を動物までにしか広げないシンガーのような主張は不徹底で恣意的だと見なされるのだ。

 しかし、ヴァーナーのように、現代では積極的に「有感覚主義」を自称する倫理学者もいる。彼らは有感覚主義は恣意的ではなく妥当な考え方だと見なしたうえで、有感覚主義に対する異議に応答しているのだ。