道徳的動物日記

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ローリー・グルーエンの「からまりあう共感」論(読書メモ:『アニマル・スタディーズ 29の基本概念』②)

 

 

 本書の編者でもある倫理学者のローリー・グルーエンは、第9章「共感」を執筆している。

 この章の議論はグルーエンの単著 Entangled Empathy: An Alternative Ethic for Our Relationships with Animals で彼女が述べていた主張の要約版、という感じ。Entangled Empathyについては三年前にこのブログでも紹介している。……そして、当時に抱いたのと同じような疑問や違和感を今回も抱くことになった。

 

 

 

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 グルーエンが倫理において共感が重要であると考える理由は「動機づけを行なう潜在能力」であるから、ということ。

 意見や知識に基づく理性的な倫理理論は「自分がすべきこと」を教えてくれはするかもしれないが、実際にそれをするような気持ちにさせてくれるとは限らない。しかし、グルーエンの定義するところの「共感」は知覚や内省などの認知的な側面と気遣いなどの感情的な側面が切り離せなく結び付いたものであり、きちんと共感を行っている人は、「他者が幸福な状態を経験するためには何ができるか」ということに注意が惹かれており、何をすればいいかということを知りたがるだけでなくそれに基づいた行動もしたいという意欲も抱いている。

 

共感者は、内省的に自分自身を他者の立場になって考えるように想像をはたらかせ、自身の視点と他者の視点をなんらかのかたちできちんと分離しておく。次に共感者は、その他者が置かれている状況が、その他者の精神状態や幸福にどのように寄与するかについて判断を下す。そして共感者は、注意深く状況を査定し、どのような情報がその人物を効果的に救うのに適したものとなるか判断を下す。

 

(p.252 - 253)

 

私はこのプロセスを、からまりあう共感と呼ぶ。ここでは、私たちは、私たち自身と、私たち自身の状況と、私たちが共感している同胞との間の類似性と差異の双方に着目することになる。まさに、この経験的プロセスにおいて私たちは、他者と関係していることを認識し、他者が必要としているもの、他者の関心事や欲望、他者の脆弱性や希望や感受性に対し注意を払うことによって、この関係に応答[レスポンス]し、かつ責任をとる[レスポンシブル]よう求められる。私たちは、私たちの視点と、私たちが共感している人の視点との間を行き来する。ここでは、私たちは、関係性のうちにあるという感覚を維持できるし、また他者と同じ視点のうちに溶けあうことはない。これを首尾良くこなすには、個人に固有の経験や状況、そして個人の人格を理解しなければならない。とりわけ、非言語的他者あるいは言語による接近不可能な他者の場合、専門知識や注意深い観察なしにこれを行うことはふつう困難である。

 

(p.253 - 254)

 

 前回と同じく、今回も思ったのが、「それって"共感"と言えるの?」ということ。なんというか、「心」ではなくずいぶんと「頭」寄りだし、感情的側面よりも認知的側面が強すぎるような気がする。

 

からめとられている共感者は、社会的、政治的、そして種を基盤とする異なる権力下における、他者、人間、人間ではないものを理解するための複雑な過程を克服しようとする。これは、複雑で、時には私たちが他者を「一瞥する」ことしかできない危うく、間違いを犯す可能性がある危険な過程である。しかし、私たちが、共生関係のうちに深くからめとられていることを考えてみれば、この理解のための努力は望ましいものであるだけでなく、私たちの主体性にとって重要なものとなる。ごく簡単に言えば、私たちの主体性は関係的である。私たちは、社会的あるいは物質的なからまりあいによって、共生関係をむすばされているのである。社会的なからまりあいは、多くの場合、人間を超え、私たちの物理的位置をも超えて広がっている。物質的なからまりあいは、社会・経済的機会の広がりを伴うとともに、人種や階級によって形成される機会への障壁をも伴う。さらにここに含まれる、私たちのからまりあいの対象には、私たちが手に入れることのできる食べ物、私たちの物理的環境の安全性、私たちが消費するものによって、その労働や身体が搾取されるところの動物や人間たち、気候変動難民を生み出す温室効果ガス排出活動などがある。これら全てが、私たち自身の一部を構築している。特定の時代における私たちの行動様式は、空間、種、物質をめぐる多様な関係とのからまりあいの表出なのである。

 

(p.257 - 258) 

 

 この段落に至っては、よくある「インターセクショナリティ」論のように、サヨクが気になっている問題(人種、階級、環境)を「からまりあい」というふわふわワードの下に雑に結び付けているようにしか思えない*1

 ……たとえば、環境保護運動は時と場合によっては労働者階級の運動や動物の権利運動との対立する場合があるが、「からまりあう共感」で問題間の優先順位を付けて「その問題よりもこちらの問題のほうがさらに重要だ」といった指針を提示したりすることはできるのだろうか?一貫性や論理性に欠けているためにモラル・ジレンマに答えを出すことができないというケアの倫理に特有の問題は、グルーエンの議論にも健在であるように思える。

 他にも思うところはあるけれど、これまでに他の記事で書いたことの繰り返しになりそうなのでこの辺で。なんというか、読んでいて「真面目にやる気あんの?」と思ってしまった。ピーター・シンガーなどが『動物の解放』なの著作で倫理に伴う様々な難問に苦心しながら答えを出していったのに比べるとずいぶんとお気楽な議論をしているような気がするし、流行りのワードやふわふわしたワードで固定概念を再確認しているだけの中身のない文章だという気がどうしてもしてしまう。