道徳的動物日記

『21世紀の道徳』発売中です。amzn.asia/d/1QVJJSj

「普遍的な道徳」は存在するか?(読書メモ:『道徳性の発達と道徳教育』)

 

 

「ケアの倫理」を最初に提唱したキャロル・ギリガンの『もうひとつの声で』の批判対象として有名な……というか、哲学・倫理学界隈では「ギリガンに批判された人」というイメージしか抱かれていないおそれもある、教育心理学者兼哲学者のローレンス・コールバーグさんの本。

 この本には1980年代にコールバーグが廣池学園モラロジー研究所の関連機関)で行なった講演と、1971年に彼が執筆した代表的な論文(「道徳教育の基盤としての道徳性の発達段階」)などが収められている。講演に関してはモラロジー研究所廣池千九郎へのヨイショ的な文言も差し挟まっていて、割り引いて読まなければいけない感じがある。また、別々の機械になされた複数の講演と論文とが収められているため、一冊の本のなかで同じ話題やトピックが何度も繰り返されたりするなど、読んでいるうちに飽きが来るのが早く、読みものとしておもしろい本ではない*1

 書かれている内容自体もたいへん堅苦しいが、コールバーグの真面目さは伝わってくる。とくに、なぜコールバーグが単なる教育学や心理学ではなく道徳哲学に基づいた「普遍的道徳」を探究する議論を行なっているかという動機が冒頭の講演で明確に示されており、後の章を読む補助線にもなっているところがいい。

 

…一九四五年の秋、私は合衆国商船隊員としてヨーロッパに到着しました。

私が衝撃を受けたのは、戦争による建物と生活の破滅ばかりでなく、ナチによるユダヤ人やジプシーや他の非アーリヤ人の大虐殺を生き延びた人たちの苦境でした。これは、破壊と恐怖であったばかりでなく、私には世界がかつて知らなかったほどの不正と思えました。もし船が私を広島や長崎に連れてきていましたら、原爆投下というアメリカの恐るべき不道徳を知って、おそらく私の道徳研究は多少違った方向に向かっていたかもしれません。

ともあれ、私はアメリカの商船隊員としての任期を早々に終えました。そしてユダヤ人難民を満載した船を、非合法ながらイギリスの封鎖をくぐり抜け、当時イギリスの統治下にあったパレスチナに上陸させるため無報酬の技師として志願しました。大虐殺を生き延びたものの、帰るべき故国もなく、追放難民キャンプに移されたユダヤ人たちにとってきわめて不当と感じられたイギリスの法律を破ることについては、私はなんら道徳的葛藤を覚えませんでした。ですから、私たちの小さな船に乗った二千人の難民を見るとうれしくなりました。その船とは、後にイスラエルの陸海軍となったユダヤ自衛隊ハガナが購入したアメリカ海軍の古い砕氷船パドゥーカ号でした。

[……中略……]

戦争が終わると、私は学部の学生としてシカゴ大学に入りました。それまでは、大学に入りたいとは思っていませんでした。しかし、私は道徳の問題、つまり正義の問題に取り組んでいる自分に気づいたのです。人を殺したり暴力を用いることは政治目的として正しく、公正だったのだろうか。幼い子どもたちが死に、大人たちは強制連行所へ連行されましたが、ハガナの目的は政治的なものでした。すなわち、イギリス軍にパレスチナを出ていくよう国際的な圧力をかけることが目的だったのです。

正しいと思う目的のために暴力的手段を用いることが許されるのは、どのような場合なのか。あの場合、普遍的道徳などというものはありえたのだろうか。それとも、すべての道徳的選択は、文化や国によって異なり、相対的なものだったのだろうか。後に私が研究対象とするようになった多くの学部学生と同じように、当時の私は相対主義の混乱した状態にありました。

 

(p.7-9)

 

 コールバーグによる「道徳性の発達段階」理論では子どもの道徳性の発達は六つの段階/3つのレベルに分けられている。第一段階と第二段階が「慣習以前のレベル」、第三段階と第四段階が「慣習的レベル」、そして第五段階と第六段階が「慣習以後の自律的、原理的レベル」である。

「慣習的レベル」の後半である第四段階は「「法と秩序」志向」とされており、正しいこととは「既存の社会秩序を秩序そのものために維持すること」であると考える思考……ひらたく言えば権威主義だ。この権威主義の段階から一歩先に出てより「高次」な思考をすること、つまり自分自身の利益や都合のことはもちろん既存の権威をも相対化しながらもほんとうの意味での道徳や正義とはどのようなものであるかを考えられるようになることこそが、文化や時代を問わずに普遍的に「優れた道徳的思考」の特徴とされるものであり、すべての人がこの段階に辿り着けるというわけではないが充分な知的能力があり真剣に思考をした人は(どの国や時代の人であっても)第五段階や第六段階に辿り着ける……とコールバーグは論じている。

 

 本書を読んでいて伝わってきたのは、コールバーグがとくに批判したいのは「権威主義」と「相対主義」である、ということ。

 後者については、レベル3の人は「法と秩序の目的は、正義の擁護にあることを知っています」(p.82)と論じながら市民的不服従を支持しているあたりに、顕著に表れている。コールバーグ自身の人生経験とともに、時代的な部分も影響を与えているのだろう*2

 また、子どもを教育する方法というより具体的な問題に関して、コールバーグは「…知的発達の見地からすれば、非常に無駄に見える集団、賞賛、力が、子どもの道徳性発達の必要条件であると主張する」(p.63)エミール・デュルケームの理論を強く批判している。

 デュルケームの発想は「校則そのものの正当性や論理性などに関係なく、なんらかの校則によって子どもを律すること自体が子どもの成長に貢献する」といったタイプの機能主義に基づくものであり、「道徳」とは集団への適応や集団の秩序維持に関するものである、という集団主義も含まれているようだ*3。そして、教育現場における権威主義集団主義の根っこには相対主義が存在している、とも指摘されている。

 ついでに書いておくと、後にコールバーグの普遍主義に対抗して「道徳基盤理論」を提唱して異文化間での道徳の(ゆるやかな)相対主義を主張したジョナサン・ハイトは、自身の議論のなかでデュルケームを持ち出している*4

 

 以下は1971年に書かれた論文からの引用だが、現代のポストモダン思想やそれに基づく教育論に対する批判としても成立しそうなところだ。

 

公立学校で毎日行われている隠れたカリキュラムのデュルケーム式の哲学的、心理学的展開は反発を招くようですが、道徳的価値の文化的、歴史的相対性という大多数の社会科学者に共通する中心的前提に立つかぎり、これこそ計画的な道徳教育に対する、論理的に首尾一貫した唯一の理論的根拠であるということを論じることにしましょう。そこで道徳教育に関する別のアプローチを考察する前に、価値相対性の問題を考えてみなければなりません。

子どもの発達と教育における道徳的価値について論じている現代の多くの心理学者や社会学者は、普遍的で、非恣意的な道徳原理など存在せず、各個人は自分自身の価値を自分の外にある文化から獲得するという前提に立っています。[……中略……]こうして、発達は子どもの外にある文化的諸規範の直接的な内面化と定義されます。成長する子どもは、社会の規則や価値に従って行動するようにしつけられるのです。

相対性の前提から出てくる第一の教育的立場は、デュルケームの集団的規律による道徳的教化の主張です。この立場によれば、すべての価値は相対的であるけれども、子どもは、自分自身の適応と社会の存続のために、属する社会の支配的な価値を受け入れることを教わらなければなりません。そしてこの過程において、学校は必要な役割を演ずるのです。

アメリカにおいて価値相対性の前提から出てくる第二の立場は、公立学校が、子どもにアメリカ社会の道徳的価値を教えれば必ず少数集団の権利を侵すことになり、したがって、価値の教育は、特定の価値体系を教える学校を公的に援助し、そしてカトリックの教区学校や黒人民族主義的な価値を教える学校などのどれに子どもをやるかは、親の自由に任せるべきだとする立場です。

相対性の前提から出てくる第三の立場(「私は、子どもを善くする代わりに悪くしてしまう張本人は道徳教育であると信じている」と主張するA・S・]ニイルの立場)は、道徳的価値は恣意的、非合理的なものだから、学校で教えたり強制したりすべきものではないという立場です。

実際には、倫理の相対性を信じている現場の教師の多くは、直面する状況に応じて、上の三つの立場を往き来しています。彼らは子どもに伝えるべき普遍的な倫理的原理の性質について確信を持っていませんし、そうかといって完全に倫理的中立を保つこともできません。その結果、慣例的となっているのは、普遍的で重要な事柄よりも、取るに足らない身近な事柄に焦点を当てて道徳的教示を行うことです。それは、このようなやり方によれば、哲学的ないし倫理的正当化で頭を痛めることが少ないからです。

 

(p.68 - 70)

 

 確たる信念もなしに「三つの立場(権威主義、善の多元性に関するリベラリズム、価値相対主義)を往き来する」というのは、1970年代のアメリカの学校教師に限らず、現代の日本人の多くにも当てはまりそうだ。

 

 本書の別の箇所でも、表面的には賢しらに聞こえる相対主義が実は思考の未熟さや未発達を表している、という議論がなされている。

 

…わたしが相対主義的立場という場合、それは次に示すボブのような立場を意味しています。ボブは、「この問題[ハインツのジレンマ]の考え方は百万とあるよ。ハインツは道徳的決断をしなければならないのさ。盗むのが悪いか、妻を死なせるのが悪いかって?僕の考えでは、ハインツをとがめることもできるし、大目に見ることもできるよ。この場合、僕は盗んでもよかったと思うよ。しかし、おそらく薬屋は需要と供給の資本主義的道徳で行動していたんだろうよ。」(私は、さらにボブに尋ねました。「ハインツが盗みをしないとしたら、それは間違っているのでしょうか」と)。ボブは答えました。「それは、ハインツが道徳的にどういう考えを持っているかによるよ。もし彼が自分の妻を死なせることより、盗みのほうを悪いことと考えれば、彼のしたことは悪いということになるだろうよ。すべて相対的なんだよ。僕だったら薬を盗むよ。でもしれが正しいとか、間違いだとかいえないし、誰もがそうすべきだなんて言えないよ」。

ここで、ボブの相対主義は、いくつかの考え方の混乱に基づいています。第一の混乱は、寛容や良心の自由は、それ自体、相対主義を意味しているという考え方です。第二の混乱は、人はそれぞれ異なる道徳価値を持っているという社会科学で想定される事実としての相対性と、人はそれぞれ異なる道徳価値を持つべきだという主張、つまり、すべての人に対して正当化しうる道徳価値はない、という哲学的主張としての相対性を混同していることです。

 

(p.21)

 

 上記の、事実と価値の分離に基づく相対主義批判は倫理学のなかでもかなり基本的な議論であるが、本書を読んで改めて思ったのは、コールバーグの議論は想像していた以上に(西洋の)倫理学に依拠している、ということだ。

 1971年に書かれた論文では、ヘンリー・シジウィックの三つの公理やR・M・ヘアの普遍的指令主義やイマニュエル・カントの議論に触れられているし、1980年代の講演では「黄金律」の重要性を指摘したりジョン・ロールズの『正義論』が讃えられていたりする。

 第六段階に位置付けられる最終的な道徳原理の候補として、平等と公正を優先する「正義」の原理と最大多数の最大善や最大善を優先する「慈悲」の原理(功利主義)を並べたうえで後者を否定するなど、コールバーグ自身の考え方はロールズにもっとも近いようだ。「無知のヴェール」から正義の二原理を持ち出す議論についても、「…ロールズは第五段階から第六段階の道徳を導き出し、さらに社会的、政治的な選択によって定義されるかぎりでの第六段階の道徳を体系づけるために、形式的な議論を用いたのです」(p.118)と評されている。……これは功利主義にシンパシーを抱いているわたしとしては納得がいかないし、第六段階でも通じるような功利主義的思考というのはいくらでもあり得そうだとも思う*5

 ただし、道徳性の発達段階理論で重要なのは、各発展段階の子どもや大人がどんな主義主張を採用しているかではなく、架空のモラル・ジレンマや実際の社会で起きる問題について問われたときにどのような論理で答えるかという、具体的な答えではなく考え方の形式であるという点は失念すべきではないだろう。

 同じジレンマであっても文化的背景の違いによって回答のディティールが異なったり優先順位が変わったりすることもあるかもしれないが、その答えを正当化する際にどのような議論や理屈を採用するかということについての、各個人の知的成長に伴う順序は、欧米であろうがアジアで他の国々であろうが変わらない、というのがコールバーグの主張のポイントだ(「慣習レベル」にまで至った人は「慣習以前のレベル」の論理を用いないし、「自律レベル」にまで至った人は「慣習レベル」の論理を用いない、ということ)。

 

 言うまでもなく、ギリガンやハイトの他にも数多くの論者が、この五十年間で様々な方面からコールバーグの議論を批判してきたのであろう。

 道徳や人間の思考の「普遍性」を説く議論は進化心理学の発展に伴い説得力はむしろ増している側面もありそうだが、それと同時にハイトのように論理的思考そのものの無力さを指摘する論者も増えているし、さすがのわたしも諸々を考慮してもコールバーグの議論はやや西洋哲学に影響され過ぎているのではないかと感じはなくもない。また、コールバーグが理想とするほどの道徳に関する知識と思考を現場の教師たちに要求するのは無理があるだろうし、学校における民主的主義を賛美する彼の主張にもいまとなっては疑問符を付けられるかもしれない。

 それでも、普遍的な道徳を求める本書の議論は真摯で爽やかであるし、一読の価値はあるだろう。自分の考え方がどの段階にあるかを自省しながら読んでみるのも一興だ。

*1:コールバーグの本は他にあまり出ていないようだし、読みものとしておもしろくないためにギリガンに比べて存在感が薄いという可能性もありそうだ

*2:

コールバーグの話は、60年代に若者に遵法精神がなくなってきて問題になっているときに、良心的兵役拒否などは普通の違法行為とは違うという認識が高まり、それを説明する理論として第5レベルや第6レベルの話が出てきたのだ、だからあれは左翼の思想なのだ、という政治的な解釈もあるようだ

https://twitter.com/s_kodama/status/1237487838813458432

*3:p.68では「機能主義社会学の一派」が槍玉に上げられている。

*4:

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*5:とくに、「人間の生命の道徳的価値に関する考え方の六段階」という項目で、安楽死を支持する議論が第五段階に位置付けられているのに対して「人間の生命は神聖であるという信念」が第六段階に位置付けられているのは気に食わない。