道徳的動物日記

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【翻訳希望!】『資本主義の倫理学』

 

 

 

 さきほどの記事で書いたように、この4月は引越しに伴う作業と会社の仕事とでなかなか読書・執筆の時間が取れなかった。……とはいえ、そんななかで日々の楽しみを提供してくれたのが、The Ethics of Capitalism : An Introduction (『資本主義の倫理学:入門』)。

 出勤前や会社の仕事が終わった後などに時間を見て1章ずつ読んでおり、まだ11章と12章も読んでいないのだけれど、どの章も議論の内容が実に明晰に整理されていて、読むたびに思考や気持ちがスッと落ち着いていった。常々思うのだが、良質な哲学書や入門書・解説書って鎮静効果があると思う。

 

 各章のトピックは以下の通り。

 

  1. 本書の概要
  2. 古典的な思想家たち(アダム・スミスジョン・スチュアート・ミル)による資本主義の擁護論
  3. 封建主義の問題点と、現代の社会にも封建主義の要素が残る理由
  4. 市場の自生的秩序と市場の失敗
  5. 社会主義(とその問題点)
  6. 低賃金と劣悪な仕事(労働疎外)
  7. 福祉国家とその代替となる候補(ベーシックインカムや財産所有制民主主義、メリトクラシー
  8. グローバルな貿易(比較優位の説明や貿易に対する批判論の間違いの説明)
  9. 地位財(教育競争の過激化など)
  10. 労働の自動化や機械化、労働時間の短縮や余暇の分配(がなぜ起こらないか)
  11. 市場は環境を破壊するか?
  12. お金で買えないものが存在するべきか?

 

 倫理学(Ethics)と銘打たれてはいるが、本書の議論はどちらかというと政治哲学や公共哲学に近い。資本主義という制度そのものは規範的に正当化できるかどうか、市場や経済に伴う様々な問題についてどのような道徳的な懸念が出されていてその懸念についてどのように考えるべきか、富や余暇や尊厳に関する(分配的な)正義とはなにか、道徳的な懸念や正義を実行に移そうとした場合に生じる経験的な問題点はなにか……といったことがいろいろと論じられている。

 本書の著者たちは、自分たちの議論を「政治経済学」と表現している。スミスやミルなど初期の経済学者たちが使っていた呼称であるが、20世紀になって学問の専門化や分業化が進行する以前、倫理学的・政治学的な規範的議論や政策に関する具体的な議論(「社会哲学」)を含んでいた頃の経済学者たちの展望や問題意識を現代に復活させる、という意味合いが込められている。著者らはオーストラリアの大学で働いており、「アメリカやイギリスのようにアカデミアの規模が大きい国では、哲学者と経済学者との関係が断絶し過ぎていて、本書のような本を書くのは無理だっただろう」ともコメントしている。

 また、本書で追及されるのは「経済的正義(Economic Justice)」である。「経済に関する現在の制度をどのように修正すれば正義に適ったものにできるか」という問題に関する議論であり、基本的には他の正義論と同じように理想理論である一方で、実現不可能な提案は退けて修正の方法を具体的に考えるという点では非理想理論な要素もある。そして、とくにこの「悲理想理論」の部分では経済学の発想や知見をしっかり参照しているという点が、本書を際立たせている。

 ……というのも、非・経済学者が経済や資本主義に関する規範的な議論を行なった場合には、「経済学の発想」そのものが問題の原因だと決め付けて経済学を参照せず、その結果として問題の分析が的外れになり問題に対する処方箋も見当違いで実現不可能になる、という事態に陥ることが多々あるからだ(これはデビッド・グレーバーのようなラディカルで非哲学的な議論を行なっている人だけでなく、マイケル・サンデルのようにオーソドックスな政治哲学の議論を行なっている人にも発生している事態だ。フェミニズム経済学とかのオルタナティブ系の経済学や、一部のポピュリスト的な経済学者の議論にも存在する問題である)。

 また、本書の議論は基本的には分析哲学的なものであり、思想家の権威やレトリックに頼らない、論理に基づいた議論がなされている。比較優位といった複雑な概念や労働価値説といった直感的には正しそうな考え方の間違いなどについても数式などを使わずに文章だけでわかりやすく説明されているのだが、ここら辺の経済学的思考と哲学的議論の相性の良さはジョセフ・ヒースの『資本主義が嫌いな人のための経済学』を思い出させるところだ。その『資本主義が嫌いな人のための経済学』も、賃金に関して「社会の認識」を云々する発想の間違いや二国間の貿易を「競争」と捉えることの間違い、「公正価格」という発想の誤謬を解説するくだりなど、本書でもたびたび参照されている*1。経済的正義に関する議論ではヒースもしっかり参照されているのだ。……その一方で、ヒースの著作は文体の問題から(論理的ではあるが)議論を追うのが難しかったり主張を把握するのが難しかったりするのに対して、本書はどんなトピックについても実に平易でstraightforwardな説明がなされているのがありがたい。

 

 本書が分析哲学的な議論をベースにして書かれていることは、ほかにもいくつかの長所をもたらしている。

 英語圏の哲学の議論に馴染みのある方ならわかるだろうが、分析哲学においてはおよそどんな理論や概念についても「ああでもない」「こうでもない」と(重箱の隅を付いたようなものや屁理屈的なものも含めて)異論や反論があらわれるものであり、なんらかの理論や概念が批判無しで受け入れられるということはほとんどない。この構図が、本書では「搾取」や「福祉国家」といった、社会問題について考えるときにはお馴染みの概念にも当てはめられる。そのため、「こんな仕事をさせられることは搾取に決まっているでしょ」とつい感じてしまうことでも「搾取」という概念を厳密に考えていくとそうとは言えないかもしれないことや、福祉国家は必ずしも絶対的に正しいものとは限らずベーシックインカム制やメリトクラシーにも福祉国家と同じだけの理論的根拠があるかもしれない、という点に気付かされることになるのだ。

 また、本書の著者らは哲学者であるために、経済学者たちなどに比べて「議論の質」といったポイントにこだわっている。たとえば、「社会主義と資本主義のどちらがいいか?」という議論は、「理想の社会主義と現実の資本主義」または「現実の社会主義と理想の資本主義」を比較したうえで理想が参照されている側に軍配を上げる、というアンフェアで低質な議論になっていることが多い、と言うことが本書のなかで度々指摘されている。そして、資本主義や社会主義を否定するにせよ肯定するにせよ、規範的なレベルでの議論であるか経験的なレベルでの議論であるかをはっきりさせたうえで、それぞれのレベルに応じた論証を行う……という姿勢が本書では貫かれている。

 冒頭で「右派/左派という発想は経済的正義について考える際にはノイズだから持ち込まないようにしなさい」と忠告されているなど、学生向けに書かれた入門書なだけあって、特定のイデオロギーや考え方を植え付けるのではなく読者を考えさせたり賢くさせようとしたりすることを目的として書かれているのが伝わってくるのがよい。

 なお、全体的には様々な主義や思想をフラットに紹介するバランスの取れた議論を行なっているなかで、第8章では、重商主義的な発想に基づいて貿易やグローバリズムを批判する現代のポピュリストについてかなり批判的に論じているのも印象深かったところだ。日本でも「経世済民」を掲げながらポピュリズム的な経済論を提唱するタイプの学者や論客は多々いるが、経済的正義に関して問題意識を抱いていると言う点では過去の政治経済学者たちや本書の著者らに近いとしても、論理よりやエビデンスよりも直感とレトリックを重視して情念に阿る議論をしているという点では正反対かもしれない。

 

 分析哲学的な内容でありながらも、思想史や思想家紹介的な要素もしっかり取り入れられている点も、本書の長所だ。

 とくにアダム・スミスジョン・スチュアート・ミルカール・マルクスの3人が経済的正義の議論に関する様々な発想や考え方を提唱したり問題やトピックを指摘・発見したりした創始者的な存在としてフィーチャーされている。言うまでもなくスミスは資本主義を肯定する文脈で(必ずしもそれだけではないが)、マルクスは資本主義を否定する文脈で登場するのだが、この2人にミルが並んでいるところが、わたしとしてはとくに興味深かった。『自由論』は読んでいても『経済学原理』は読んだことがなかったが、本書で何度も取り上げられる彼の政治経済学はなかなか含蓄に富んでおり、ミルに対する興味がますます湧いた(また、教育競争に関するくだりで『ミル自伝』が引用されているあたりなども印象的だ)。

 上記の3人のほかにも、政治学者としてはジョン・ロールズがかなりフィーチャーされている(いままでピンときていなかった「財産所有制民主主義」の概要や背景にある問題意識についても本書のおかげで理解が深まった)し、エリザベス・アンダーソンやジョナサン・ウルフもたびたび登場する。ハイエクケインズはもちろんのことマルサスリカードといった古典的な経済学者たちも登場する一方で、ロバート・ライシュやトマ・ピケティやタイラー・コーエンやロバート・フランクといった現役の経済学者たち、さらにはスティーブン・ピンカーまで登場するので、経済学か哲学のどちらか一方にしか興味がない人にとってもお馴染みの人物に出会えるはずであり、そういう点でも入門がしやすい本だと言えるだろう。

 

 ……まとまりのない紹介になってしまったが、とにかく良書だと思うので、ぜひ日本語にも翻訳されてより多くの読者に読まれてほしいと思う。

 あとさっきの記事にも書いたけれど次は。Very Short Introductionのジョン・スチュアート・ミルを読んで紹介したいのでどなたかよければ買ってください。

 

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