道徳的動物日記

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「思いやり」があれば正しいってもんか?(読書メモ:『ケアの倫理と共感』)

 

 

 この本は邦訳の発売直後、2021年の年末に当時もらった図書カードで購入済だったのだが積んでいたところ、先日の日本哲学会のワークショップに向けて、『もうひとつの声で』に続いて読んだ、という次第である。……ちなみに原著は10年ほど前、大学院生時代に指導教授と一緒にゼミで読んでいる。しかし例によって内容はさっぱり覚えていなかった。また、この本の内容はなかなか難しく、ゼミで読んだときにはわたしだけでなく指導教授もピンときていないというか微妙な反応をしていた記憶がある。

 

 ケアの倫理ついて書かれた本といっても必ずしもいわゆる「規範倫理学」とか「倫理学理論」とかについて書かれているとは限らず、代表的なところでは『もうひとつの声で』はインタビューに基づく心理学の本であり、規範に関してはかなり曖昧なことしか書かれていなかった。

 また、ネル・ノディングズの主張は規範倫理学理論として扱われることもあるが、なにしろ思い切りがいいというか過激なところも多いのでフェミニストやケアの倫理に共感的な人からも「ノディングズはちょっと…」という扱いをされることがあるようだ。  

 わたしのイメージでは「倫理学理論としてのケア倫理」を提唱している人の代表はヴァージニア・ヘルドであるが*1、彼女の本は日本ではまだ翻訳されていない。エヴァ・フェダー キテイやジョアン・トロントなどの政治哲学系の人の本は翻訳されてきたが、自他共に認める「倫理学理論としてのケア倫理」として書かれた本が邦訳されるのはこれが初めてではないか……それが男性の書いた本だというのは、ケア倫理が成立した経緯を考えるとちょっとどうかと思うところもあるけれど。

 

 著者のマイケル・スロートは From Morality to Virtue という本も書いている「徳倫理学」系の人であり、そのなかでもアリストテレス的なロゴスやエウダイニモニアを重視するタイプの徳倫理学(新アリストテレス主義)ではなく、デビッド・ヒュームとかアダム・スミスとかの系譜に連なる「感情主義的徳倫理学」を唱えてきた人である(訳者解説を参照)。

 なお、ケアの倫理学者としても有名な女性哲学者であるアネット・ベイアーはヒューム研究者でもあったりするので*2英語圏の伝統の道徳感情論とか道徳心理学とかをケアの倫理に結び付けること自体はスロートに特有の発想というわけでもないようだ。

 

 そして、現代の徳倫理学がやたらと難解になっているというご多分に漏れず、スロートの議論もかなり難しい。

「訳者解説」ではスロートの主張がなんとかまとめられているので、引用。

 

……スロートの感情主義的徳倫理学においては、「気遣い」「配慮」「思いやり」といった個別の他者への温かい心情に根ざす関心ーーすなわちケアーーが中心的な徳とされる。また反対に、他者への冷淡な無関心、心ない対応、悪意に満ちた態度などが悪徳を構成することになる。そして細かい特徴づけを抜きにして言えば、こういった相手への温かい心情に根ざす関心に動機づけられて行為しているとき、その行為は正しいとされる。

このようなスロートの感情主義的徳倫理学を、新アリストテレス主義的徳倫理学と比較した場合、以下の二点が両者の違いとして重要である(ただし両者の優劣に関しては棚上げにしたい)。第一に、新アリストテレス主義と異なり、感情主義は、具体的な他者に対して、いっそう直接的な関心を向けており、人間固有の開花繁栄という形での人間的完成を中心に据えるわけではない。第二に、新アリストテレス主義においては、賢慮といった思考ないし実践理性に関わる徳が中心的であるのに対して、感情主義においては、思いやり(ケア)といった心情に関わる徳が中心的である。

 

(p.236)

 

 また、スロート自身もこう述べている。

 

「ケアの倫理によれば、行為の正・不正は、その行為において示されているものが、思いやりのある態度/動機か、それとも思いやりのない態度/動機かによって判断される。」

 

(p.33)

 

 さて、上記の記述だけでも、わたしはスロートの議論をかなり警戒してしまう。

 思いやりのある人は思いやりのない人よりかは良い人であったり善人であったりするだろうから、だれかの人格を評価するときには思いやりの有無を見ることは大切であるだろう。また、自分が良い人生を過ごそうとしたり善い生き方をしたいと思ったりしたときにも、たぶん思いやりがあったほうがいいだろう。

 つまり、価値や善(Good)について考えるときには、思いやり=ケアは、他の徳……勇気とか知恵とか……に並んで大切だと思う。なので、価値や善に関する理論としての徳倫理学、あるいは人間評価であったり人生哲学に関する議論としての「徳」論であれば、わたしはもっともらしさを感じるしそういう議論が必要だと思うし、「ケア」論だって人間評価や人生哲学の一部として必要であると思う(ケアという徳が他の徳を凌駕したり、ケアには他の徳よりも一際重視されるべきだったりするほどの大切さがあるかどうかはわからん)。

 しかし、徳論にせよケア論にせよ、それを行為等の正(Right)に関する議論に結び付けようとすることには賛同できない。

 ……また、なぜ多くの哲学者がそういう議論をしたがるかということも理解できない。単純に考えて、誰かが思いやりがあるけれど不正な行為をしてしまうこともあれば、誰かの行為には思いやりがあまりなかったけれど正しかったということはいくらでも起こり得そうなものだ。

 

「思いやり」のあるなしや共感の有無に基づいて行為の正/不正を論じることの誤りが端的に示されているのは、「妊娠後期の胎児よりも胎芽・初期の胎児を中絶するほうが、道徳的には適切である、もしくはましである」「初期の胎児や胎芽の中絶よりも妊娠後期の胎児の中絶は、より道徳的に悪く、受け入れがたい」(p.29)という主張をケアの倫理に基づいて支持・正当化しようとする箇所だ。

 

第一に、胎児をフィルム・写真・超音波診断機器・テレビカメラなどで視覚的また聴覚的に捉えられるようにしても…(中略)…こうした胎児への関わりは、私たちが新生児に対してもつような関わりと比べると、それほど直接的ではない。新生児はそこに、まさに私たちの目の前に存在している。そして、私たちはその子を抱くことができ、直に見て接することができる。…(中略)…赤ちゃんの泣き声は、共感的反応を呼び起こすのに寄与しており、胎児または胎芽が私たちに働きかける際は、それに匹敵するような効果的な手段は存在しない。

この事例においても同様に、ケアの倫理の観点からすれば、「新生児殺害が、胎芽や胎児の中絶に比べて、健全な人間の共感がもつ方向性や傾向性にいっそう強く反する」という事実は、新生児殺しがいっそう不正で道徳的に許容しがたい行為であることを示唆するものとして理解できる。

 

(p.29 - 30)

 

 一般的に、胎児の殺害と新生児の殺害は同様に悪いと論じる主張では、胎児と新生児はだいたい同じような感覚能力や認知能力を持っているから、殺される側にとって与えられる危害とか奪われる権利とかがだいたい同じになるので同じように悪い、と論じられる(だから「胎児を殺すべきではない(中絶は悪い)」とされることもあれば「胎児を殺すのが許されるのだから新生児を殺すことも許される」とされることもあるが)。

 それに比べると、思いやりや共感を重視するはずのケアの倫理は、相手が目の前にいるかどうかとか相手に共感が抱けるかどうかなど、行為者の側の観点からしか話をしていないようだ。

 そして、中絶や殺害という問題においては、殺される側が被る危害というポイントは、殺す側が相手に対して共感を抱けるかどうかというポイントよりもずっと重要であると思う。わたしだけでなくかなり多くの人がそう判断すると思うし、泣けなかったり成人の目の前に存在できなかったりするという理由で殺される羽目になる胎児はとくにわたしに同意してくれるだろう。

 本書では動物の問題はスルーすることが明示されているが、実際のところ、スロートの主張を動物の問題に当てはめれば「飼い猫やアザラシの赤ん坊を殺すことはかわいそうだし嫌悪感を抱くからダメだけどネズミやウツボを殺すことには嫌悪感を抱かないから殺してもいい」といった、ノディングズによる(評判の悪い)主張と同様のものになりそうだ*3

 もちろん、「猫やアザラシを殺すことにもウツボやゴキブリを殺すことにも全く同様の感情を抱くし、ゴキブリが殺されるのを見るのと同じように猫が殺されるのを見てもわたしの感情はほとんど乱れない」と言い張る人がいたら、わたしはその人のことを(まずは「しょうもねえ逆張り野郎だな」と判断してバカにして相手にしないだろうけれど、そうじゃなくて本気でそう主張していると知った場合には)人として大切なものが欠けていたりどこかおかしいと判断するだろうし、友達になったり関わりあったりしたくもないのでその人のことを避けるとも思う(しょうもねえ逆張り野郎のことも避けるけど)。……だから、人格とか人物を判断するうえでは、ある人がまともに/適切に思いやりや共感を抱ける人であるかどうかということは重要だ。わからないのは、何故それを行為の評価とか正/不正の判断に持ち込もうとするかである。

 冒頭でも触れたように、ケアの倫理は必ずしも規範倫理学理論として提唱されるとは限らない。ギリガンも含めて、多くの論者は「従来の倫理学や正義論では理性や自律などばっかりが重視されるけれど、感情や依存関係などを重視する考え方があってもいいんじゃないか」「従来の倫理学や正義論では掬えないところを扱う考え方も必要なんじゃないか」といった、従来の理論に取って代わる理論を提示するというよりも従来の理論に対する批判的な視点を提供したり従来の理論を補完することを目指すような主張に留まっている。

 それらに比べると、スロートの議論は、他の規範倫理学理論に取って代わることを目指すものであるようだ。だから、「正/不正の判断もケア倫理でまかなえますよ」と主張するしかないのだろう。義務論や功利主義など他の倫理学理論では可能である正/不正の判断がケア倫理ではできないとなると、規範理論としては不十分であり他の理論の代替にはならないことになってしまうからだ。

 

 しかし、スロートの試みはやっぱり無理筋であるように思える。

 単純に言って、代表的な規範倫理学理論……義務論、功利主義、徳倫理……はそれぞれカントとかベンサムとかアリストテレスに遡るわけであり、歴史の試練に耐えられている。それに比べると、ケア倫理は1980年代に降って沸いたものだ(前述したようにヒュームやスミスに紐付けることもできるかもしれないが、彼らも「ケアや思いやりが一番大事だ」という素朴な主張をしていたわけではないだろう)。

 規範倫理学理論には人々に行う行為や判断、あるいは制度や政策などの正しさを測るという重大な役目が託されていることをふまえると、よほど精緻で優れた議論を提供してもらわない限り、これまでに重荷を担ってきた理論から俄かに登場した理論に乗り替えることには慎重になるべきだ。

 

 本書の第5章では倫理学理論だけでなく政治哲学理論としての自由主義リベラリズム)もケアの倫理と対比させられているが、そこでも同様の問題は起こっているように思っている。

 たとえばヘイトスピーチ規制の問題については、自由主義者ヘイトスピーチの被害を受ける人に対する共感から自分を切り離して判断しようとするが、ケアの倫理であればヘイトスピーチの被害を受ける人の感情に寄り添った判断ができる、といった議論がされている。

 スロートも「ケアの倫理に基づけばヘイトスピーチは必ず規制すべきだということになる」とまで主張しているわけではなく、ヘイトスピーチを規制することで正当な言論まで規制されてしまうという「滑りやすい坂道」の問題を考慮しなければならないとかどこに境界線を引くかというのはケア倫理学者の間でも違っているしその相違について議論することもできるとか論じているのだが……共感や思いやりがあればいいとか言っている割にはずいぶんと頭を使っているというか理性的な議論をしているような気がするけれど、それは置いておいて……言うまでもなく、ヘイトスピーチ規制というトピックには「被害を受ける人の感情」という問題のほかにもかなり重大な問題がかかっている。

 たとえば、ある社会で表現の自由が制限されてしまうと、いまその社会に住んでいる人やその社会に今後生まれる人からは、なんらかの価値が奪われるかもしれない。自由や自律が損なわれるだけでなく、その社会で生産される知識や行われる議論の質が担保されなくなるかもしれないし、自由な表現や議論ができないことで公共心のようなものも損なわれることになるかもしれない。

 しかし、これらの価値が奪われることについて多くの人は苦痛を感じないかもしれないし、価値が奪われていること自体について気付かないかもしれない(表現の自由が規制された時に子どもであったりその後に生まれてきた人にとってはとくにそうだ)。このことは表現の自由に限らず自由全般に当てはまるだろうし、たとえば緩やかな全体主義国家に住んでいる人たちは自分たちに自由がないことに苦痛を感じないだろう。

 共感すべき苦痛や感情が存在しないのだから、スロート流のケア倫理に基づけば、表現の自由が規制されることや緩やかな全体主義国家の存在は問題視するにも至らないはずだ。……しかし、もちろん、わたしたちはそれらを問題に思うし、共感だけでは対処できないこれらの問題を扱うために自由主義をはじめとする諸々の理論が発達してきたのである。

 すると、ケア倫理は歴史を逆行させる考え方であるように思える。

 

 本書では「道徳教育・道徳的発達に関する体系的な説明や、道徳的な性向がどのように教示され、獲得されるのかに関する体系的な説明」(p.6 - 7)として、『共感と道徳性の発達心理学―思いやりと正義とのかかわりで』などの著作がある心理学者マーティン・ホフマンの理論がたびたび参照される。

 ただ単に哲学や倫理学を述べているだけでもなく、専門的な心理学に裏付けさせようとしている点も、本書の特徴だ。

 ……とはいえ、本書で参照される(ほとんどがホフマンの研究に基づく)心理学的知見はスロートの議論にとって都合良くチェリーピッキングされているように思える(ただまあ、わたしが書いた『21世紀の道徳』に対しても同様の批判はあったし、科学的知見のチェリーピッキングというのはガチの科学哲学や心の哲学以外の哲学の議論ではありがちな問題ではあるのだろう)。

 具体的には、原著の9年後に出版された心理学者ポール・ブルームの『反共感論』は、本書の議論にとって致命的なポイントを指摘しているように思える(たとえば、遠く離れた人々の具体的なニーズに応答する「人道主義的なケア」(p.237)が共感に基づいて成立する訳がない、それを成立させるのは理性である、とブルームなら論じるだろう)。2007年の時点でも共感の限界や道徳感情の問題点を指摘する心理学の文献は多々存在していたはずであるし、全体としてスロートの議論は「進化論的暴露論証」に対してかなり脆弱であるようにも思える。……まあこの辺りは『21世紀の道徳』の第8章で他のケア倫理に対する批判としても行った議論なので割愛。

 

 思いやりや共感を伴わない行為が正しくないのであれば、共感能力に欠けている(とされている)自閉症アスペルガー症候群の人には正しい行為をすることができない、ということになりかねない点にも注意が必要だ。

 スロートは、「自閉症の人々は他者に共感することができないにも関わらず道徳的な判断や行為ができている」という議論に対して「実際には自閉症の人々も共感をすることができる(だから道徳的な判断や行為もできているのだ)」という反論を試みているようだ(p. 181 - 182)。しかし、ここの議論は「共感」にこだわるスロートが強弁しているように見えて苦しい。

 また、スロートは「男性はテストテロン値が高いために女性に比べて共感能力に欠けており、道徳的に劣っているかもしれない」という議論も行っている。

 

仮に男性が、女性よりも共感の面では劣っているとしても、今日の男性はかなり共感的でありうるし、また、教育や子育てに関する実践が改善されることで、男性が全体として現在よりもはるかに共感的になる可能性を否定する論者はいない。(また今後、女性が全体として、現在の女性よりもいっそう共感的になりうることを否定する論者もいない。)そこで、極めて共感的になれる能力をもつ男性がいると仮定して、その後に、テストテロンが男性の共感を軽減させ、性別/ジェンダーとしての女性がそうなる以上に、他者に対して常に攻撃的になる状況について、どう考えるのかを尋ねる場合を想像してみよう。彼は、テストテロンの影響による攻撃性によって危害・苦痛を被った人たちに対して共感を覚え、共感に基づいて気遣うからこそ、率直に、こうしたテストテロンの影響を嘆き、また遺憾に思うのではないだろうか。仮に十分に共感的な男性/男であるなら、誰もが、この男性に見られるテストテロンの影響を遺憾に思い、場合によっては罪の意識さえ感じるのではないかと思う。そして、もしそうだとすれば、彼は、「男性が女性よりも道徳的に劣っている」という考えに、抵抗感や憤りを覚えたりすべき根拠は全くないだろうし、そういった気持ちにも全くないだろう。この結論によって、彼の自我は傷つき、大きな衝撃を受けるかもしれない。しかし彼は、男性のテストテロンが過剰であることでもたらされる害悪を認識し、それを遺憾に思っているので、その衝撃を受け入れるべきなのかもしれない。

 

(p. 110 - 111)

 

 上記の議論には、半分くらいは賛成だ。

 わたしも、テストテロンの影響などによって男性が道徳的な行為や判断に失敗したり非道徳的な行為をしたりしてしまうことはあると思うし、少なくとも一部の領域においては「(平均的な)男性は(平均的な)女性よりも道徳的に劣っている」という考えを受け入れている。そして、この考えに対してつべこべ文句を言ったり男性差別だと騒いだりする男性が多々いることも知っているが、スロートと同じく、わたしは男性たちはこの考えに対して抵抗感や憤りを抱くべきではないと思う。

 ただし、わたしが上記のような考えを持つに至ったのは「共感」や「思いやり」のおかげではなく、知識を参照したり自分の感情を批判的に吟味したり他人のことにも配慮したりしながら不愉快な事実でも受け入れるという「理性」のおかげだ。

「テストテロンの影響を遺憾に思い、場合によっては罪の意識さえ感じる」男性というのは、十分に共感的な存在ではなく十分に理性的な存在なのではないか?……というか、ここでスロートが示そうとしている、メタ的な認知や判断を伴っているような「共感」って、ふつうの人なら「理性」と見なすものだろう*4

 

 また別のところでは、「自分が家族に対して抱いている愛情にさえ批判的な検討が必要だ」というマーサ・ヌスバウムの議論に対してもスロートは反論を行なっている。

 これはバーナード・ウィリアムズが「思案過多」として提起した問題でもあるが、わたしとしては(自由主義者であるだけでなくストア主義者でもある)ヌスバウムの議論のほうに賛同したい。……とはいえ、「批判的に警戒する必要がない状況でそのように警戒する場合は、実質的には、最も充実した理想的な愛情を妨げることになる」(p.121)というスロートの主張も、たしかに一理ある。ここは宿題としたい。

 

*1:

 

 

*2:

 

 

*3:

yonosuke.net

*4:要するに、議論の都合に合わせて「共感」を拡大解釈して、共感に「理性」的な要素も取り入れさせてしまっているということだ。これもケア倫理ではありがちな問題である。

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