道徳的動物日記

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読書メモ:『ヘイト・スピーチという危害』ほか

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 

 前回に引き続き、来たる6月13日の「左からのキャンセル・カルチャー論」トークイベントに向けて、表現の自由というトピックに関して復習中*1

 

 最近に読んだり再読したりした本は以下の通り。

 

 

 

 

 

 ウォルドロンと志田の本はどちらも初読。前者はアメリカの法哲学者が書いたものでヘイト・スピーチ規制がはっきりと打ち出されているもので、後者は日本の憲法学者判例や事例を紹介しながら法律上の「表現の自由」の意義と実際の運用について解説したもの。ウォーバートンの本については以前にもこのブログでメモを取っているが、3年半でわたしの考えもだいぶ変わったということもあり新鮮な気持ちで読むことができた*2

 これらの本を読んでいて改めて思ったのは、表現の自由原理主義や絶対主義……なにがあっても無制限に表現の自由を認めること……はさすがに厳しいな、ということ。たとえばウォーバートンの本では第一章の時点で以下のように釘が刺されている。

 

ある厭世的な発明家が入手しやすい家庭用製品からきわめて効果の高い神経ガスを作り出す簡単な方法を発見したとしたら、あなたはどう言うだろう?[…]この危険な発明、すなわち人類に何ら明白な利益をもたらし得ず、多くの代償を強いる可能性のある発明に関する言論の自由に対する彼の権利を擁護したがる人々はごく少ないことだろう。[…]もしあなたが言論の自由はあらゆる状況で擁護されるべきだと信じるなら、この事例においてすら、それは擁護されるべきだと信じなければならない。

[…]となると、「私は言論の自由に賛成です」と宣言することは、どこにその限界が存在するかに関する観念なしには相対的に情報不足であるし、ほとんどの人々にとって「私はいかなる状況の下でも絶対的に言論の自由に賛成です」ということを意味しない。しかしこの限界線を正確にどこに引くかを決めることはまったく簡単な作業ではない。その決定は、何らかの競合する価値がこの自由に優先するのはどのような場合かを決定することを意味する。

(ウォーバートン、p.15 - 16)

 

 また、志田の本では、(日本国における)法律上の表現の自由は「人格権」や著作権などに対する侵害となる場合には規制され得ること、その他にも具体的な事情(公共の施設で特定の政治的意見を発信することは認められるかどうかやヘイト・スピーチや性的表現の「社会的効果」に対する懸念など)によっては規制が認められるかもしれないということが詳しく説明されていた。

 

 さて、ウォルドロンの『ヘイト・スピーチという危害』では、人々の「安心」と「尊厳」は表現の自由を上回って保護されるべきだという理由に基づいてヘイト・スピーチは規制され得るべきである、というウォルドロン自身の主張が展開されている。

 しかし、わたしとしては、ウォルドロンの本は…主張や議論の内容もだけれど、いかにも頑固で教条主義的な左派らしい押し付けがましさとか、自分と対立する意見を紹介するときの冷淡さややる気のなさといった全体的なトーンなどが…ぜんぜん好ましく思えなかった。

 

 表現の自由…さらには自由一般…を規制する理由として最もよく持ち出されるのが「危害原則」、つまり「(原則として自由は最大限に認められるべきだが)ある人の自由な行為や表現が別の人々に対して危害を与えることにつながる場合には、自由を制限してよい」という考え方だ。

 とはいえ、一般論として、表現というのは物理的には誰かに対して危害を与えるものではない。「言葉の暴力」という言い回しはあるものの、手やバットで殴ったら相手に痣を残したり骨折したりできるかもしれないが、言葉にはそういうことはできない。表現が物理的な危害を与えるというのは、混雑した劇場で「火事だ!」と叫んでパニックを引き起こして劇場の出口に殺到した客たちがケガをさせる場合や、「あいつはわたしたちに害を与えているからとっ捕まえてリンチしてやろう」と喧伝して暴力を扇動する場合などに限られるだろう。

 他方で、他人の製作した表現物などを勝手に使用する場合には、その表現物を使用することで製作者が得られたはずの経済的利益を奪うという点で「危害」になる。つまり表現は他人に対して経済的な危害を与えるかもしれず、法律上の著作権などはそれらの危害から人を保護するためのものである。

 だが、表現が与える危害として多くの人が懸念しているのは、物理的なものでも経済的なものでもなく、もっと感情的・精神的なものであるだろう。暴力の扇動はしないが他の人々を侮辱するような表現のことだ。この場合にも、表現の対象が特定の個人であるなら名誉毀損となり、人格権で保護される対象になる(ほかにも、表現は個人のプライヴァシーを侵害して、そしてプライヴァシー侵害は精神的な危害を引き起こすだろうが、個人のプライヴァシーもまた人格権で保護される対象である)。

 しかし、表現のなかには、特定の個人を対象にしていないが一定数の人々に感情的・精神的な危害を引き起こすものがある。特定の人種や宗教や性的嗜好といった属性に対する差別表現(ヘイト・スピーチ)はそうであるし、ポルノグラフィや一部の広告表現などについてもそうだという人がいる。…しかし、物理的な危害や経済的な危害、あるいは特定個人の名誉やプライヴァシーに対する侵害という具体的な精神的危害に比べると、差別表現やポルノグラフィがどんな危害を引き起こすかは曖昧だ。

 そして、表現の自由は個人の人格の発展や幸福追求や自律などには欠かせないものであるし、人々の自由な表現が守られることは民主主義の健全な運営や真理の探求といった社会的な価値ももたらす。だからこそ表現の自由はできるだけ守られるべきだし、「検閲」はできる限り避けられるべきだ。……しかし、繰り返しになるがヘイト・スピーチやポルノグラフィがもたらす危害は曖昧なものであり、これらの危害をもとに表現の自由を規制しようとすることは「危害原則」の濫用に繋がりかねない。

 たとえばヘイト・スピーチやポルノグラフィがもたらす危害としてもっともわかりやすいのは「それらの表現を人を不快にする」ということであるが、いちど不快感に基づいて表現の自由を規制してしまったら、「この表現だって人を不快にしている」という訴えが相次いで、かなり多くの表現が規制されることになるだろう。不快感に基づく訴えには濫用の危険がある。また、たとえばマイノリティに対する侮辱的な表現とマジョリティに対する侮辱的な表現とでは前者のほうに後者よりも深刻な問題が含まれている、と多くの人は考えるだろうが、不快感に基づく訴えは原理的にこれらを区別することができないかもしれない(侮辱表現によって実際にはマイノリティのほうがより多大な不快を受けている可能性が高いとしても、マジョリティのなかにも繊細で傷つきやすい人はいるかもしれないので)。

 ……というわけで、ヘイト・スピーチやポルノグラフィなどの規制を主張する人は、不快感とは異なる危害の存在を立証しなければならない。ここでウォルドロンが主張するのが、ヘイト・スピーチやポルノグラフィは対象になる人々の「安心」を損ない「尊厳」を傷つけるという議論である。

 

…何が問題であるかを、私たちは二つのやり方で記述できる。第一に、包括性という、私たちの社会が支持し、コミットしている、ある種の公共財が存在する。私たちは、エスニシティ、人種、外見、それに宗教に関して多様である。しかも私たちは、こうした種類の差異にもかかわらず共に暮らし、働くという壮大な実験に乗り出している[※ロールズの「協働の冒険的企て cooperative venture for mutual advantage」のこと]。各々の手段は、社会が彼らだけのためのものではないことを受け入れなければならない。しかし社会は、他のすべての集団と一緒に、彼らのためのものでもある。そして各人は、各々の集団の各々の成員は、他人による敵意、暴力、差別、あるいは排除に直面する必要はないという安心〔assurance〕とともに、彼または彼女の暮らしを営むことができるべきである。この安心は、それが効果的にもたらされるときは、ほとんど気づかれない。それは、人々が呼吸する空気のきれいさや、泉から飲む水の水質のように、だれもが当てにできる物事である。私たち全員が住んでいる空間におけるこの安全さの感覚は、ひとつの公共財である。そしてよき社会においては、この感覚は、私たち全員が、本能的なほとんど感知されないような仕方で、それに貢献しそれを維持する手助けをするものである。

 

(ウォルドロン、p.5)

 

何が問題であるかを記述するもうひとつのやり方は、ヘイト・スピーチによって不確かなものとされてしまう安心から恩恵を受けるべき人々の観点から、ヘイト・スピーチに目を凝らすことだ。ある意味では、私たち全員が安心から恩恵を受けるはずである。しかし、脆弱なマイノリティ、近い過去において同じ社会の内部の他の成員から憎悪され嫌悪された経験を持つマイノリティの成員にとっては、安心は彼らが社会の成員であることの確証を提供するものである。安心は、彼らもまた、しっかりした立場をもつ社会の成員であることを確証してくれる。彼らが周りの他者と共に、公共の場所で、通りで、商店で、仕事場で、何ごともなく普通に交流し、社会の保護と関心の当然の対象としてーーほかの誰とも同じようにーー取り扱われるのに必要なものをもっていることを確証してくれるのである。こうした基本的な社会的地位を、私は彼らの尊厳〔dignity〕と呼ぶ。ある人の尊厳とは、たんに何かカント的な輝かしさではない。尊厳とは、彼らの社会的地位である。社会の通常の働きの中で平等な存在として扱われる権限を彼らに与える基本的な評価の根本にある事柄なのである。彼らの尊厳は、人生を生き、仕事をし、家族を育てるときに、彼らが当てにできるものであるーー最善の場合には、暗黙のうちに、わざわざ大騒ぎしなくても。

 

(ウォルドロン、p.6)

 

 そして、ウォルドロンによると、安心や尊厳を保護することとは不快感から保護することとは異なる。

 

しかしながら、人々が不快な思いをさせられるのを防ぐことが、ヘイト・スピーチを制限する法律の狙いであるべきだとは、私は考えない。人々の感情を不快感から防ぐことは、法律の適切な対象ではない。本章で私は、ヘイト・スピーチまたは集団に対する名誉毀損に対する立法のための、尊厳に基づく理由が、集団の成員が何らかの批判や攻撃にぶつかったときに受けるかもしれない不快感に基づくアプローチとはどのように異なるかを明らかにしようと努めるつもりである。そして私は、法律は尊厳の侮辱と不快にすることの間に引かれた線を守ることができるという主張を擁護するだろう。

その区別は、大部分、一方における、ある人の社会の中での立場がもつ客観的または社会的側面と、他方における、傷つき、ショック、怒りを含む感情という主観的な側面の間の区別である。人の尊厳または評価は、社会の中で物事が彼らとの関係でどうあるかとかかわるのであって、物事が彼らにとってどう感じられるかとかかわるのではない。あるいは、少なくとも第一義的にはそうである。もちろん、自分の尊厳に対する攻撃は、痛みに満ちた、力を奪うようなものとして感じられるであろう。さらに、他人の尊厳をこのようなやり方で攻撃するものが、一定の心的効果を与えようと望んでいることはーーマイノリティの成員の間に、自分たちは信頼されていない、通常のシティズンシップに値するものとみなされていないという悲痛な感覚、差別的で恥辱を与える排除と侮辱に対して自分たちはいつも脆弱なのだという感覚を培養しようと望んでいることは疑いの余地がない。そうした感情は、当然のこととして、尊厳に対する攻撃にともなうだろう。けれども、そうした感情は問題の根源ではない。

 

(p.125 - 126)

 

尊厳と不快感の間のこの区別を強調することによって、尊厳に対する攻撃の感情的な側面に対して私は無関心であることを伝えようとしているのではない。尊厳はただの飾りではない。それはある目的のために支えられ、支持されるものである。第四章で強調したように、個人の尊厳の社会的な支持は、人々にとって、彼らが生活を送り仕事をするときにまともな扱いをうけ尊敬を受けることについての一般的な安心の基盤を供給する。こうした尊厳へのいかなる攻撃も、傷つけ、苦しみをもたらすこととして経験されざるを得ない。そしてその苦しみを理解しないかぎり、集団に対する名誉毀損の何が問題なのか、それを法律によって禁止することが適切であるのはなぜかについて、理解することにはならない。人々を彼らの尊厳に対する攻撃から保護することは、間接的には、彼らの感情を保護することでもある。けれども、尊厳に対する保護が感情の保護でもあるのは、尊厳の保護が人々をひとつの社会的現実ーー地位を根本的に引き下げ安心を傷つけることーーから守るからであり、この社会的現実がたまた、彼らの感情にどうしても影響力をもつからである。誰かの感情が傷つけられるということは、多少なりとも、不快にするとはどういうことかを定義する。しかし、尊厳を傷つけるとはどういうことかを定義することはない。ショックを受けること、苦しむこと、または感情が傷つけられることは、尊厳を傷つけられたことを表す症状であることもあれば、ないこともある。それは、こうした感情の原因となる、あるいはそうした原因と関連している、社会現象の種類に依存するのである。

 

(p.127 - 128)

 

 長々と引用してきたが、どうにも、わたしはウォルドロンの議論に色々と納得できない。ま

 ず、これはたしか綿野恵太も『「差別はいけない」とみんないうけれど。』で言及していたが、結局のところ「安心」とは「安心感」のことであり、要するに感情なのではないかという気がする*3。そして、グレッグ・ルキアノフとジョナサン・ハイトの著書『傷つきやすいアメリカの大学生たち』や諸々の「ポリコレ批判」のニュースやこのブログの過去記事でも示してきたように、安心感とは主観的なものであるために、安心に対する要求はインフレしがちである*4。相手がマジョリティであろうがマイノリティであろうが、どこかの段階で「あなたはこの社会に対して不安を感じるかもしれないが、それは社会が配慮すべき事柄ではなくあなた自身で対処しなければならない事柄だ」と言うことのできる線引きは必要になるだろう。そうでなければ「危害」という単語に含まれる範囲はどんどん拡大して「セーフ・スペース」への要求はどんどん非合理なものになっていく。

「尊厳」についても、「ある行為や表現がある人の尊厳に対する攻撃である場合、同時にその人に対して不快感を引き起こすことが多いのもたしかだが、尊厳侵害と不快感との結び付きはあくまで偶然的なものであるし、問題となっている行為や表現の悪さの本質は不快感を引き起こすことのほうにではなく尊厳侵害のほうにある」という議論は、そもそも「尊厳」というものが感情保護とは独立に存在することを前提にしている。……だが、わたしには、特定の種類の攻撃や表現が引き起こす諸々の感情的な危害の総称が「尊厳侵害」であり、その危害から人々を保護するために「尊厳」というものが仮定されてきたんじゃないか、と思える(「権利」というものに対する功利主義的な観点と同様)。この観点からすると、ウォルドロンの議論は、便宜上の仮定や速記表現に過ぎないはずの「尊厳」が本当に存在するかのように物象化してしまい、それに振り回されて本来の目的を見失ったものであるように思われる*5

 ウォルドロンの理路は現代の日本でもよく見るものだ。企業がなんかやらかして炎上したときに謝罪文に「不快な思いをさせて申し訳ありませんでした」と書いたら、批判者たちが「これは人権の問題(または公正の問題とか多様性の問題とか)であって不快を与えたかどうかは関係ない、そんなことを書く時点で問題の本質がまだわかっていない証拠だ」とさらに噴き上がるという、ああいった光景である。……わたしとしては、「不快な思い」こそが、大半の炎上問題とか社会問題とかの本質であると思う。先述した通り不快感に基づく訴えには濫用の危険があるし、主観に基づく訴えがインフレして要求が理不尽にならないように線引きも必要であるが、それらは、「不快感は深刻な問題にはならない」ということを意味しているわけでもないのだ。

 

 ウォルドロンの議論は尊厳という言葉を使っているわりにはあまりカント主義的なものではないらしいが、尊厳や安心を「公共財」や「環境的な財」と捉えるロールズ的なものではある。そして、ウォルドロンの議論では、「秩序ある社会の雰囲気」を保つことが重視されたり、(市民同士とはただ単に同じ社会に生活しているのではなく共に「協働の冒険的企て」に参加している仲間であるという理由からか)市民は(家族や友人ではない見知らぬ相手であっても)他の市民に対して尊敬や関心を示すべきであるとされたり、公共財である安心や尊厳の保護には政府だけでなく市民も積極的に関わることが求められていたりするようだ。さらに、ヘイト・スピーチ規制だけでなくキャサリン・マッキノンの議論を経由しながらポルノグラフィー規制も支持しているように、ウォルドロンの議論はリベラリズムに基づいてはいるがかなり多くの領域での自由の制限を正当化するものである。

 ……ここらへんが、わたしにはウォルドロンの議論が押し付けがましく感じられる理由だ。わたしたちは市民として「協働の冒険的企て」に参加しているというロールズの議論は認めたとしても、ウォルドロンが描くほどにまで制限も義務も多くて窮屈な社会に参加するのに同意した覚えはわたしにはない。わたしに限らず多くの人がこんな社会には参加したくないと思うし、無知のヴェールを被ってみても結論は変わらないと思う。

 もちろん、(ポルノグラフィについては難しいところであるが)ヘイト・スピーチは問題であるし、なんらかのかたちでの規制が必要であるだけでなく、規制を正当化する理論も必要である。しかし、先述したように、表現の自由というものの重要さとヘイト・スピーチがもたらす危害の曖昧さを考えると、その理論を打ち立てるのはかなり難しい。そしてウォルドロンの議論は理論の打ち立てに失敗しているだけでなく、表現の自由の価値を過少に見積もることで、規制を安直に正当化する……向き合うべき「難しさ」から逃避したものであるようにも思える。マイノリティに対するヘイト・スピーチに心を痛めている人たちやヘイト・スピーチの対象になっているマイノリティたち当人にとっては賛同できる主張であるかもしれないが、そうでない人たちがウォルドロンの議論を支持する理由はほとんど示されていないように思える。「ヘイト・スピーチによって不確かなものとされてしまう安心から恩恵を受けるべき人々の観点から、ヘイト・スピーチに目を凝らすこと」はたしかに必要であるだろうが、別の観点から目を凝らすこともやはり必要であるのだ。

*1:

davitrice.hatenadiary.jp

www.loft-prj.co.jp

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

*3:

 

 

*4:

 

 

*5:このわたしの意見も、「権利」に基づく議論に対する功利主義からの批判を流用したものだ。また、「仮定や仮説に過ぎながったはずの概念や理論が本当に存在するかのように錯覚して、それに振り回されてしまう」という現象は(功利主義者である)ジョシュア・グリーンが『モラル・トライブズ』のなかで権利論批判やカント主義批判の文脈で、ヘレン・プラックローズとジェームズ・リンゼイが『「社会正義」はいつも正しい』のなかでポストモダニズム批判や特権理論批判の文脈でそれぞれ独立に行っているが、権利論やポストモダニズムのほかにも多くの議論に対して有効な批判であるように思える。