道徳的動物日記

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「才能遺伝子の倫理:『ガタカ』の世界への道のりか?」 by ジュリアン・サバレスキュ

 

 オーストラリアの Conversation 誌に掲載された、倫理学者のジュリアン・サバレスキュ(Julian Savulescu)の記事。知能に関する遺伝子に関する研究結果について紹介しながら、生まれてくる子供に対する遺伝的な介入の是非について論じた記事である。特徴的なのは、遺伝的な介入を必ずしも否定していないどころか、むしろ肯定しているところだろう。日本では遺伝子介入や出生前診断を肯定する議論はなかなか紹介されないので、紹介することにした。

 

 

「才能遺伝子の倫理:『ガタカ』の世界への道のりか?」 by ジュリアン・サバレスキュ

 

 2015年7月にイギリスで発表された研究は、遺伝的な"一般学業達成因子(general academic achievement factor)"を特定したものである*1。一卵性双生児を用いて行われたこの研究は、学業に関する広範囲な題材の成績が、双生児たちが持つ多くの同一の遺伝子に影響されていたことを発見した。

 

共有された遺伝子による影響は、その大部分が、知能からは独立していた(…中略…)このことは、ある題材について良い成績を出す傾向のある子供は(別のレベルの知能を要するものであっても)別の題材でも良い成績を出す傾向にある、という現象のかなりの部分が遺伝的な理由によるものであるということを意味する。

 

 また、研究は以下のことも発見した。

 

様々な題材における子供たちの差異が遺伝子によって説明できる範囲(54−65%)は、家庭と学校の環境を合わせたものなどの環境因子によって説明できる範囲(14−21%)よりも大きい。

 

才能遺伝子(gifted genes)を弄ぶことの危険性

 

 どうやら、学業的な才能は(ここでは、より広く一般的な学業的素質を含む意味で、この単語を使っている)大部分が遺伝的であるようだ。上述の研究はきわめて重要なものである。しかし、もし私たちの知識がさらに発展して、才能に貢献する遺伝子を特定できたとしたら、この種の研究は厄介な倫理的意味を含むことになるかもしれない。以下では、研究結果が不適切に応用される五つの可能性を示そう。

 第一の可能性は、研究結果が優生学的な目的のために使用されるということだ。つまり、特定のポジティブな資質を増殖させることで人類を発達させようと試みることである。体外受精で生産される胚子は、生まれてくる子供に才能を与えて学術的な選抜を達成する可能性がより高くなる遺伝子を含むように選別されるかもしれない。そのような検査はイギリスでは違法だが、アメリカでは合法である。体外受精と教育にかかる費用のことを考えれば、学術的な才能のある子供がより多く誕生することを国家が要求し始めるようになるかもしれない。

 第二に、着床前の遺伝子診断や出生前診断による胚子と胎児の遺伝子解析は、学術的に成功する可能性が高い子供をその子供の人生が始まった段階で特定するために用いることができるようになる。才能が特定されてしまった子供たちは、その可能性を最大限に引き出して達成を行うことができるようになるために不自然な環境で育てられる(hot-housed)ことになり、子供たちは道具化されて自由も制限されることになるかもしれない。この種類の過剰な養育はよく見受けられるものではあるが、子供にとっては有害であり、それが遺伝子検査によって悪化されるかもしれないのだ。子供は、親の目的と成功のための手段になってしまうかもしれない。

 第三に、遺伝子検査はまた別の種類の差別の道具として使用されるかもしれない。才能が乏しい子供たちは"ゆったりした環境(slow streams)"に送られることになるかもしれないし、特定の仕事やキャリアを選択することが全く許可されなくなるかもしれない。投資に対するリターンが小さくなる可能性が高い人々に投資を行うのは金と時間の無駄であると思われるようになるかもしれないからだ。才能が乏しい子供たちは、遺伝を理由にして運命を社会から定められることになるかもしれない。このような種類のディストピアは映画の『ガタカ』で鮮やかに描かれている。

 第四に、遺伝的な不平等を特定することは社会的な不平等を悪化させるかもしれない。豊かな人は、子供を学校で成功させて有利で強力なキャリアの幅広い選択肢を与えるために、より才能のある胎児を選択するようになるかもしれない。豊かな人は賢くなり、賢い人は豊かになるのだ。

 最後に、もし才能の大部分が遺伝子に起因しているとすれば、能力の大部分は生物学によって決定されていることになる。未来には、人々の潜在能力を上げるためにドラッグなどを用いた生物学的介入が行われるようになるかもしれない。このことは低レベルの能力に対する医療介入を蔓延させてしまって、低レベルの能力を持った人たちはドラッグ漬けになってしまうかもしれない。

 

才能遺伝子を発見することの良い面

 

 才能遺伝子の発見に対する懸念はもっともなものであるが、検討する必要のある良い面も存在している。才能遺伝子の発見は、ある子供たちは学校で良い成績を取るのに別の子供たちは良い成績を取れない理由について、より正確な理解を行うことを可能にしてくれる。研究者たちは、良い成績を生み出している可能性がある複数のメカニズムを仮定している。モチベーション(動機)、パーソナリティ(性格)、そして精神病質の不在である。

 これらの理由について理解することは、新しい種類の介入を行うことに繋がるかもしれない。その介入は生物学的なものであるかもしれないし(子供の食事を改善することなど)、教育プログラムを改善するなどの社会的なものであるかもしれない。 

 なんらかの別の理由で体外受精を行っている両親にも、学術的な達成を行える可能性がより高く、より高い報酬が得られるキャリアを含んだ幅広い人生の選択肢が開けている子供が生まれることになる胚子を選ぶかどうかの選択肢が与えられるようになるかもしれない。要するに、より良い人生を過ごせる可能性が高くなる子供を産むかどうかの選択肢が与えられるのだ。決定権を両親に与えているため、この政策はナチス的な優生学ではなく、リベラル優生学と呼ばれるものである。現時点で行われている遺伝子検査でもダウン症や脆弱X症候群などの知的障害が検査されているが、これにもリベラル優生学の要素が混ざっている。

 両親たちは、子供の将来を制限するためではなく、子供の将来を広げるために遺伝子検査を行うことができる。遺伝子検査を行ったとしても、子供を道具化することからは程遠く、子供自身を目的として愛し続けることは可能である。子供自身が自分がどのような人間になりたいかを選ぶための選択肢の幅を両親が広げる、ということだ。

 才能遺伝子に関する知識は、自然に由来する不平等を是正してより正しい社会をもたらすことにも使用できる。遺伝的に不利な人たちに対するサポートを増したり教育を改善することで、遺伝のくじ引き(genetic lottery)の結果を是正するのである。

 

私たちはユートピアディストピアとを区別できるか?

 もし私たちが"何もしない"ということを選択するとすれば、私たちは可能性を最大化することや次世代の人々の可能性を現実化することを怠ることについての責任を負う。才能遺伝子の研究結果は、子供たちがより良い人生を過ごす可能性を高めるために使うことができるし、より正しくて平等な社会をもたらすために使うことも私たちにはできるのだ。

 あるいは、私たちは危害を引き起こし、自由を削減して不平等を悪化させてしまうかもし。知識には力が伴うのであり、力には責任が伴うのである。今回の研究結果は、認識能力を理解して改善するための道筋を示している。そして、認識能力とは21世紀の社会に参加する人々にとっては欠くことのできない本質的な要素であるのだ。

 

 

 

 

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「遺伝子選別という諸刃の剣」 by ピーター・シンガー

www.project-syndicate.org

 

 昼にアップした記事に関連して、倫理学者のピーター・シンガー(Peter Singer)が Project Syndicate に発表した記事を紹介する。10年前に発表された記事なので、記事内の情報は古くなっていることには留意してほしい。 

 なお、タイトルの原題は"The Mixed Blessing of Genetic Choice"であるが、この"Mixed Blessing"という単語のニュアンスはなかなか日本語に訳しづらい*1。とりあえずこの記事では「諸刃の剣」と訳している。Genetic  Choiceとか Genetic Slectionも「遺伝子選択」「遺伝的選択」とか色々と訳語が考えられるが、進化論における自然選択のソレと混同しないために、人為的な意味合いが強調されている感じのする「遺伝子選別」で訳すことにした。

 

 

「遺伝子選別という諸刃の剣」 by ピーター・シンガー

 

 しばしば、知識の発展とは諸刃の剣である。その端的な例の一つが、過去60年間における核物理学であろう。この先60年間には、遺伝学が諸刃の剣の新たな例となるかもしれない。

 今日では、あなたが手数料を払って自分の遺伝子について知ることを企業が提案する。自分の遺伝子に関する知識はより長くてよい人生を過ごす助けになる、と企業は主張する。例えば、自分が罹るリスクが最も高い病気を知れば、健康診断の際にはその病気の初期徴候を発見するための追加検査を行うことができるし、その病気に罹るリスクを減らすように食生活を改善することもできる。あなたの人生の寿命はあまり長いものにはならない可能性が高いということを知れば、あなたはより多くの生命保険を買うかもしれないし、自分がやりたいと思い続けていたことを行うために他の人よりも若い時期に退職することもあるかもしれない。

 プライバシーの保護を主張する人たちは、生命保険を発行する前に遺伝子検査を受けることを保険会社が客に対して要求することを防ごうとしてきたし、その運動はある程度の成功をもたらした。だが、保険会社を締め出した遺伝子検査を個人が行えるとして、不利な遺伝的情報を知らされた個人がその情報を保険会社に開示せずに追加で生命保険を買うとすれば、彼らは保険会社の他の顧客たちに対して詐欺を働いていることになる。損失をカバーするためには保険料を高額にする必要があるだろうし、有利な遺伝的予測を知らされた人たちが詐欺犯に金を余分に与えるのを避けるために生命保険を脱退するとすれば、保険料はさらに高くなるであろう。

 しかし、現時点で警戒し過ぎる必要はない。アメリカ政府監査院は同一の遺伝サンプルを複数の検査会社に送ったが、検査会社から送られてきたアドバイスはそれぞれの会社ごとにかなり異なるものであったし、そして大半が役に立たないものであった。だが、科学は発達し続けるのであり、保険の問題もやがては直面しなければならないものである。

 生まれてくる子供を選択することは、より重大な倫理的問題を引き起こす。この問題は新しいものではない。先進国では高齢で妊娠した女性への遺伝子検査が慣例的に行われていることは、中絶の実行可能性の高さとも合わさって、ダウン症などの状態で子供が生まれてくる可能性を著しく下げている。 インドや中国の一部の地域では両親たちは息子を持ちたいと切望していて、選択的中絶が性差別の最終的な形として存在しており、そして次世代の男性たちが女性のパートーナーの不足に直面しなければならなくなる程にまで選択的中絶が実行されてきた。

 子供を選択するのに中絶は必ずしも必要とされない。数年前から、遺伝的な病気を自分の子供に継承させてしまうリスクを背負っている両親たちが体外受精を行っている。複数の胚子を生産し、それらの胚子に障害のある遺伝子が含まれているかどうかを検査して、その遺伝子が含まれていない胚子だけを女性の子宮に移植するのである。現在では、特定の種類のガンが発生するリスクを有意に上昇させる遺伝子を子供に継承させることを予防するために、両親たちは体外受精を用いている。

 全て人が何らかの不利な遺伝子を持っているということをふまえると、病気に罹るリスクが高い子供を排除すること(selecting against)と、健康な人生を送る可能性が普通よりも高い子供を選択すること(selecting for)との間に明確な線を引くことはできない。つまり、遺伝子選別は必然的に遺伝的エンハンスメントへと移行することになるのだ。

 多くの親たちにとって、自分たちの子供の人生の出発点を出来る限り最高のものにすることほど重要なことはない。親たちは子供たちの学習能力の可能性を最大限に引き出すために高価なおもちゃを買うし、それよりもずっと大きな金額を私立学校や学習塾に費やして、子供がエリート大学への入学試験を突破することを希望する。この賭けが成功する可能性を高める遺伝子が特定されるのも、さして未来のことではないかもしれない。 

 優生学とは、遺伝する特質は積極的な介入によって改良されるべきだという主張であり、20世紀の前半に特に流行っていた。多くの人は、上述したような遺伝子選別を「優生学」の復活だと非難する。…その通り、ある意味では、上述してきたことも優生学であるのだ。そして、権威主義的な政治体制の下で行われる遺伝子選別は、忌まわしく疑似科学的な"民族衛生"を鼓吹した初期の優生学によって行われた非道と似通ったものとなるだろう。

 しかしながら、リベラルで市場主導的な社会では、優生学は集団にとっての善のために国家によって強制的に押し付けられることはない。その代わりに、親たちの選択と自由市場の働きの結果として存在することになるだろう。そして、より優れた問題解決能力を持ったより健康でより賢い人々を生み出すとすれば、それは良いことであるのだ。だが、もし親たちが自分たちの子供たちにとって良い選択をするとしても、そこには恩恵(blessing)と同様に危険も存在している可能性がある。

 性別による選択に関しては、生まれてくる個々の子供たちの両親がそれぞれに独立して自分の子供にとって最善となるような選択を下した結果、誰も子供たちの性別を選択しなかった場合の方がマシであったような結果が全ての子供たちにもたらされることになる、という事態は簡単に予測できる。そのほかの種類の遺伝子選別でも同様の結果が起こる可能性はある。平均よりも高い身長は平均よりも高い収入と相関しているのであり、そして身長には遺伝の要素が存在していることは明白であることをふまえると、両親たちがより背の高い子供を選択することを想像しても非現実的ではない。その結果は、ほかの背の高い子供よりも更に背の高い子供が生み出され続ける、遺伝的な「軍拡競争」となるかもしれない。大きくなった人間たちはより多くの栄養を消費するので、 著しい環境コストがかかってしまうだろう。

 だが、この種類の遺伝子選別のなかでも最も警戒するべき可能性は、豊かな人だけが選択を行うことができるという事態が起こることである。現時点でも豊かな人と貧しい人との間の差は社会の正しさという概念を脅かしているが、 機会の平等を保証するだけでは橋を架けることもできないほどの深い淵を遺伝子選別が作り出すかもしれない。それは、私たちの誰もが否定するべき未来である。

 しかし、この結果を避けることは簡単ではない。遺伝的エンハンスメントを誰も実行できないようにするか誰もが実行できるようにするかのどちらかが求められるためだ。前者の選択肢は強制を伴うことになるし、他の国が競争優位を得ることはどの国も認めないであろうから、遺伝子エンハンスメントによってもたらされる利益よりも優先される国際的な合意が必要となる。後者の選択肢…遺伝的選別への普遍的なアクセスを保証するためには、貧しい人に対する前代未聞なレベルの社会的援助が必要とされるであろうし、何に対して助成金を出すべきかということについての非常に難しい決断が求められることになるであろう。

 

 

 

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