道徳的動物日記

倫理学、社会科学、時事問題、世相などについて論じます。

資本主義から逃れることはできるか?(できません) - 読書メモ:『資本主義だけ残った』

 

 

『資本主義だけ残った』では、アメリカを代表とする「リベラル能力資本主義」と中国を代表とする「政治資本主義」、現代の社会に存在するふたつの形の資本主義を比較しながら、それぞれの成り立ちや特徴や未来予想図が論じられたりする。

 

 先日に紹介した『自由の命運』や、あるいはフランシス・フクヤマの一連の著作など、英語圏で出版される経済史や文明論では「リベラルで民主主義的な社会は、抑圧的な社会や権威主義的な社会より正しくて望ましい」という規範論が前提とされてしまいがちだ*1。そのために中国のような非民主主義的な国家の経済成長やその他の方面での躍進が予測できなかったり、「一過性のものであって、リベラルな民主主義に移行しない限りは崩壊するに決まっている」と願望込みの予測が述べられたりするようになってしまう。

 この『資本主義だけ残った』の最大の特徴は、中国の資本主義をアメリカの資本主義に並び立つものとして論じて、どちらが善くてどちらが悪いかという規範的判断を行わずに、リベラルでも民主主義でもない中国がそれでも資本主義を成り立たせていて経済成長もしていて「うまくいっている」様子を描いて、その理由を分析したところにあるだろう。

 

政治的目的による資本主義についてのマックス・ヴェーバーの定義は、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』によれば、「経済的利益を得るために政治的な力を使用すること」である。

(……中略……)

今日、政治的資本主義を実践する諸国家、とくに中国、ヴェトナム、マレーシア、シンガポールは、きわめて効率的でテクノクラート的なやり手の官僚にこのシステムを任せることで、このモデルを修正してきた。これはこのシステムの第一に重要な特徴である。すなわち官僚(明らかにこのシステムの主たる受任者)が、高い経済成長を実現し、この目標を達成できるような政策を実行することを主たる義務とすることだ。そしてその支配を納得させるには成長が求められる。官僚が成功するにはテクノクラートであることと、その構成員が成果主義をもとに選ばれることが必要だが、理由は何より法の支配が欠如しているからだ。法の縛りのないことが、このシステムの第二の重要な特徴である。

(p.107)

 

 たとえばフランシス・フクヤマの『政治の起源』や『政治の衰退』では、どんな社会であっても政治が有効に機能するためには「国家」と「法の支配」と「政府の説明責任」のいずれもが成立していて均衡を保っていることが重要である、と論じられていた。そうでない社会は人々にとって魅力がなく、他の社会に対するロールモデルともならない。リベラルな民主主義は自由や尊厳に対して人々が根源的に抱くニーズを充たすから、非民主主義的な社会に暮らす人々も民主主義に憧れて渇望するようになる、というのがフクヤマの主張である。

 ……しかし、『資本主義だけ残った』によると、「法の支配」はさして重要ではない。政治的資本主義では、テクノクラートなエリートたちには、政治的な目的や私利私欲のために、ときに法を破ったり法を付け加えたりする自由裁量が認められているのだ。当然のごとく汚職や癒着をはじめとする「腐敗」が起こることになり、ときとして役人たちを一斉に調査して摘発する腐敗撲滅運動が行われることもあるが、それはあくまで一時的な対処療法であり、根本的にシステムを変えて腐敗を根絶することは目指されない。

 むしろ、中国と同様の状態であったロシアや中央アジアは「法の支配」を導入する試みをおこなったことは、それらの国々にさらに深刻な腐敗をも当たらしたり国内の分裂や内戦をもたらした、と著者は指摘する。中国のほかにも「法の支配」が成り立っておらず腐敗が横行している国は多々あるが、それはそれで効率性や柔軟性があって経済的なメリットがある。「法の支配」は必ずしもすべての社会でプラスに機能するわけではない、と著者は主張するのだ。

 とはいえ、法を尊重しない官僚や権力者の横暴が蔓延していて、自分の権利や財産がいつ脅かされるかわからず、当然のごとく民主主義が存在しない社会に、人々が「住みたい」と思えるかどうか、という問題はあるだろう。これについての著者の答えは、「政治的資本主義がうまくいっており、経済成長という"果実"を人々に与える限りは、人々は抑圧や自由のなさもある程度は許容する」といったものだ。

 ちょっと長くなるけど、リベラル資本主義と政治的資本主義についてのイデオロギー的な対立に関する議論のコアとなる部分を引用しよう。

 

……まずリベラル資本主義の利点は、民主主義というその政治システムにある。多くの人(ただし、すべてではないが)が民主主義を「基本善」とみなしているーーそれ自体が好ましいことだから、経済成長や平均余命といったそれがもたらす影響によってあえて正当化するまでもない、と。これはたしかにひとつの利点だ。だがほかにも民主主義には役に立つ強みがある。民主主義ではつねに国民に相談する必要があるので、大衆の福祉に害を及ぼしかねない経済や社会の傾向に対し、強力な是正措置を提供できる。ときに人びとの決断が、経済成長立を下げ、公害を悪化させ、あるいは平均余命を縮める政策をもたらす場合でも、民主主義的な意思決定がさほど時間をかけずにそれらを逆転させるはずだ。有害な発展の抑止に民主主義が役に立たないと考えるなら、過半数の国民が長期にわたってつねに間違った(あるいは不条理な)決断を下していると言わざるをえない。だがそれは見たところ、ありそうにないことだ。

 

リベラル資本主義のこうした利点に対し、かたや政治的資本主義は、それよりはるかに有効な経済の管理と高い成長率を約束する。これは瑣末な利点ではないし、高い所得や富が最終目標として掲げられる場合はなおさらだ。この価値基準は、まさにグローバル資本主義の発想の根底にあるものだし、そればかりか経済のグローバリゼーションに参加するほぼ全員(実際には地球全体を意味する)の行動にも日々あらわれている。ロールズは、基本財(基本的自由ならびに所得)は辞書的順序を持つと主張した。すなわち、人びとは富や所得よりも基本的自由を絶対的に優先し、したがってその交換は受け入れない。とはいえ日頃の様子を見れば、多くの人が民主主義的な意思決定の一部を所得の伸びと進んで交換したがっているかのようだ。

(……中略……)

所得が上がるのなら、他の民主主義的な権利は放棄できる(そしてそうしてきた)。こうしたことを根拠に、政治的資本主義はその優越性を主張する。

だが問題は、その優越性を証明し、リベラルの挑戦をかわすために(すなわちリベラル資本主義に優先して人びとに選ばれるには)、政治的資本主義はたえず高い成長率を記録しつづけなければならないことだ。よってリベラル資本主義の利点は、それが「自然」なもの、言葉を換えればシステムに組み込まれているものだが、政治的資本主義の利点は、それが役に立つものであることで、たえずその利点を見せつづけることが必要になる。だから政治的資本主義には最初からハンディキャップがある。その優越性を実感させ、証明してみせる必要があるからだ。加えて政治的資本主義には問題がさらに二つある。1 民主主義的な抑制がきかないことから、いったん間違った方向を選んだら進路の切り替えが困難なこと。そして2 法の支配が欠如していることから、腐敗に向かう特有の傾向があること。……

(p.247 - 248)

 

 上記の主張だけを参照したら、リベラル資本主義は政治的資本主義の「自滅」を待っていれば自ずと勝利する、と考えてしまうこともできるかもしれない。たしかに政治的資本主義には経済成長という利点があるかもしれないが、欠点も多数抱えており、経済成長が鈍化してしまった時点で人々は腐敗や抑圧や自由のなさに耐えられなくなって、民主主義とそれに伴うリベラル資本主義を求めるようになるはずだ……と予測することはできる。実際のところ、フクヤマや、『自由の命運』の著者であるアセモグルとロビンソンのおこなっている主張もこんな感じだ。わたし自身も、「"法の支配"は必ずしも不可欠というわけではないんだよ、"法の支配"がなくて腐敗していてもうまくやっている国はあるんだよ」という著者の主張にはイマイチ信用できないところがある。なんか場当たり的というか、現状を後付けで肯定している雰囲気がある。

 ……とはいえ、それはそれとして、現状のリベラル資本主義は政治的資本主義と比べて相対的に経済成長立が鈍いこと以外にも、深刻な欠点を抱えている。リベラル資本主義は自由で流動性が高いことがウリなはずなのに、実際には不平等を拡大して、格差を固定化させているのだ。

 

 リベラル資本主義が不平等を拡大している要因は様々である。国民所得における労働所得の割合が下がって資本所得の割合が上がったうえに資本が一部の金持ちに集約していること、その一方で現在の富裕層は過去とはちがい資本所得だけでなく労働所得も大量に得ていること(現在の金持ちは有閑階級ではなくバリバリ働くエリートであるということだ)から、所得に対する税金を適切な割合で課することも難しくなっている。

 また、女性が高学歴したことにより、学歴や所得の水準が似通った男女が結婚する「同類婚」が増加していることも、不平等の拡大の一因だ。夫婦ともにハイソな家庭に生まれた子どもは資産も文化資本も受け継げる一方で、夫婦ともにそうじゃない家庭の子供はどっちももらえない。さらに、先進国における相続税は、限界税率が下がったり控除の範囲が拡がっていることで弱体化しているのだ。

 より深刻なのは、リベラル能力資本主義社会では政党や選挙活動への資金提供が許されているために、政治に対して金持ちたちが発揮できる影響力が増しているということだ。これにより、上位層は自分たちにとって有利な経済政策が実施できるようにコントロールできて、自分たちの立場を永続的なものとできる。

 また、大学などにかかる教育費を吊り上げて、よい教育は金持ちしか受けられないようにすることで、知的シグナリングや教育プレミアムを独占できる。それでも、貴族性の社会と違い、ごく一部のきわめて有能な人々は下位層から成り上がって上位層の一員となることはできる。しかしそれも全体から見ればごく僅かな事例であるし、優秀な人間が上位層の一員として取り込まれたうえで「機会の平等は誰にでも与えられている」といったイデオロギーを補強することにもなって、むしろ上位層の地位をさらに盤石なものとするのだ。

 要するに、リベラル資本主義でも、政治の正当性は損なわれる。政治的資本主義ではその犯人が官僚であったのが、リベラル資本主義では金持ちが犯人となる、ということだ。その結果として、リベラル資本主義のウリであったはずの「民主主義」や「社会の流動性」といった要素も失われしまうのである。

 

 

あるいはリベラル資本主義と政治的資本主義がひとつに収束するのだろうか。

(……中略……)

……リベラル資本主義のもとで経済的な力と政治的な力が結びつけば、リベラル資本主義がますます金権主義的なものになり、政治的資本主義に似通ったものになってくる。後者の資本主義においては、政治的な支配こそが経済的な利益を獲得する道である。もともとはリベラルなものだった金権的な資本主義では、経済力は政治を牛耳るために使われる。この二つのシステムの終着点は同じものになる。エリート層がひとつに結束し、居座りつづけるのだ。

(p.258 - 259) 

 

 なんだか黙示録的な結論であるが、著者は、資本所得の集中を少なくして所得の不平等をより減少させて世代間の所得の移動性をより高くした「民衆資本主義」に移行することもできるかもしれない、という可能性についても論じている。そして、民衆資本主義に移行するためには、以下の四種類の政策を実行する必要がある、と主張するのだ。

 

1・中間層への税制上の優遇措置と富裕層への増税相続税率の引き上げ

2・公教育への予算の増加と、公教育の質の改善(金持ちの子供が教育面で有利になるのを防ぐ)

3・「軽い市民権」の制度を導入したうえで移民を増やす(著者は、移民は基本的に経済にメリットをもたらす存在であると論じている。ただし、本国人と同じだけの市民権を移民に認めると移民反対運動が起きて移民が入れられくなるから「軽い市民権」を与えるに留めるべきだ、と論じている)

4・政治運動への資金提供の制限

 

 ……上記の提言は、「3」を除けば、どこかで聞いたことがあるというか左派やリベラルの人が散々言っているものであり、目新しくはない。そして、これらの政策を実行したくても政治の金権主義化のために困難になっている、というのがそもそもの問題であるのだろう。

 

 リベラル資本主義に関する著者の分析を読んでいてわたしの頭に浮かんだ疑問は、「それって"リベラル資本主義"そのものではなくアメリカという国に特有の問題じゃないの?」ということ。アメリカで公教育の質が悪かったり金持ちから税金を取れなかったりすることは、政治の金権主義化だけでなく、そもそもどんな階層であってもアメリカ人たちがアメリカン・ドリームだかなんだかを盲信して税金や再分配や福祉などを嫌っていることが一因であるだろう。

 逆に言うと、アメリカ以外の先進国なら、「民衆資本主義」も実現しやすいんじゃないかという気がする。よく知らないけれど、カナダとか、北欧のどこかとか。というか、すでに存在している福祉国家ロールモデルにすればよいのではないか?

 ……しかしながら、著者によると、「福祉国家」はグローバリーゼーション時代には破綻する運命にある。福祉国家が機能するためには、国民や労働人口の全員か大半が社会保険に参加する必要がある。しかし、グローバル化した貿易は所得の二極化をもたらし、所得が二極化すると金持ちたちは社会保険ではなく自分たち専用の民間システムを作りたがるし、他の国民のために高い税金を払うことを嫌がるようになる。

 さらに、移民の存在も福祉国家にとっては向かい風だ。福祉国家を機能させるためには国民同士の同質性や親近感が必要とされるが、移民はそれを損なう(アメリカで福祉制度が支持されない理由のひとつは、アメリカが多様性の高い…つまり同質性の低い社会であることだ)。また、自分の能力やスキルに自信を持つ移民は不平等な国を好む一方で、自信がなくて悲観的な移民は福祉の発達した国を好む。前者は自分の才覚を活かしてギャンブルをしたくなる一方で、後者は福祉を享受しながらぬくぬくと暮らすことを好むからだ。つまり、競争の激しい国家と福祉国家が並列しているあいだは、「移民の質」という点に関しては、福祉国家はワリを食いつづけるのである。

 ……などなど。この本における福祉国家に関する議論についても、わたしはイマイチ納得がいっていない。経済学者に特有の福祉国家嫌いを正当化しているだけという疑惑が払拭できないのだ。

 

 では、どのタイプの資本主義もダメなら、いっそ共産主義にすればいいのか?そうはいかない。著者によると、共産主義とは「後進の非植民地国が封建制を廃止して政治的資本主義を築くことを可能にした社会システム」ではあるが、あくまで封建制から資本主義に移行するための足掛かりとしての価値しかなく、持続性のあるシステムではないのだ。

 資本主義のほかに、代わりはない。

 

……この状況は、この社会経済システムが変化を求めているしるしではないのか。もしそうなら、超商業化資本主義社会を捨てて、何か代わりになるシステムに移行すべきではないか。この一見理にかなっていそうな主張の問題点は、超商業化資本主義の代わりになりそうなものが何もないことだ。この世界がすでに試した選択肢はどれもうまくいかなったし、なかにはもっとひどいものもあった。それに何より資本主義に組み込まれた競争的かつ物質欲的精神を捨て去れば、結局は所得が減り、貧困が拡大し、技術進歩が減速ないし逆転し、超商業化資本主義社会がもたらす他の利点(私たちの生活に今や欠かせないモノやサービスなど)を失うことになるだろう。物質欲的精神を捨て、富を成功の唯一の指標にするのをやめても、こうした利点をあいかわらず享受できるなどと思うのは無理な話だ。それらはセットになっているのだから。これはひょっとしたら、人間の条件の重要な特徴のひとつでもあるかもしれない。つまり私たちは、自らの最も不愉快な性質のいくつかを存分に発揮しないかぎり、自らの物質的な生活を向上することができないのだ。これはバーナード・マンデヴィルが300年以上前に探りあてた真実である。

(p.218)

 

 上記の引用文には、「経済学的思考」のエッセンスが濃縮されている。著者の分析や見解には賛成できないものがところどころにあるが、とはいえ、このような「経済学的思考」の鋭さや魅力は否定できない。すくなくとも、わたしたちの気分を良くしたり願望を肯定したりするために根拠のない楽観論や理想主義を無責任に提唱するタイプの議論よりかは、ずっといい。

 

 長くなってしまったから、以下では印象に残ったところを箇条書きで記しておく。

 

・「あくせく働かずに、余暇を増やそう」的な発想は、人間には「自分の状態を他者と比較する」という性質があるから現実味がない、という理由から否定されている。金をたっぷりと稼いだエリートであっても、周りのエリートたちが稼ぎつづけているうちにリタイアしてしまうと子どもが惨めな目にあってしまうので、自分も稼ぎつづけざるを得ない。そして、グローバル社会では、あくせくと働かずにのんびり生きている人たちばかりの国の土地や不動産は勤勉な外国人に買い占められることになり、そして本国人たちは金を持った外国人たちが贅沢に金を使うのを目の当たりにさせられることになる。

 

・資本主義社会ではすべての営みに値段が付けられて商品化されるので、家族や地域共同体が担っていた役割もアウトソースされて、社会はどんどん原子化して個人主義化していくだろう、という(よく耳にするような)予測が語られている。また、人々はいままで無償で行っていた自分の活動で金を取れることに気がついて、自由時間も商品化するようになる(ウーバーがその典型)。最終的には「個人」としてのわたしたち全員が資本主義の生産拠点となって、私的領域はすべて商品となる。さらに、富や金が人間の成功や価値の唯一の指標となることで、道徳や行動規範は私利私欲や利己心にとって代わる……などなどといった、月並みなホモ・エコノミクス観に基づくディストピア風未来予測が語られる。

 ここらへんの議論にはぜんぜん説得力がない。たしかに富や金だけを指標として生きているっぽい人はいまでもいるがそうでない人もいっぱいいるし、私生活を商品化している人もいればそうでない人もいる、というだけの話にしか思えないのだ(ニューヨークや東京などの都会にこのテのタイプの人が惹きつけられて集まり、各種のサービス売買アプリの技術進歩に伴い都会のディストピア化がどんどん進行する、というのならまだ納得できる)。

 

・AI悲観論や環境破壊への不安論については、労働・ニーズ・原材料のそれぞれに関する「塊の誤謬」に基づくものである、として否定されている。ここの議論は経済学的思考としても基礎的なものではあるが、直感的な主張の問題点をうまく解体していておもしろい。

 

・中国に対する評価は全体的に甘くて、「アメリカとちがって中国は諸外国に価値観や倫理観を押し付けず、あくまで経済的な観点からしか貿易や外交をしないだろう」といったことも主張されているのだが、ここはいくらなんでも信用できない。

 

・先述したとおり、著者は移民の経済的メリットを強調する一方で、移民の権利は制限する必要があることも強く主張する。本国人と全く同じ市民権を移民に求めると、本国人が現時点で市民権から得られている利益が損なわれるし(社会保障投票権などはそれを得るための資格に制限がかけられていること自体にメリットが存在するからだ)、受け入れを拒否する声が強くなって結果的に移民を入れることが困難になるためである。そして、権利を制限しても移民がやってくるのなら、移民たち本人はあくまで「元の国にとどまるよりもこの国に移ったほうが望ましい」と考えているわけなので、問題はない。とはいえあまりに権利を制限し過ぎたらやってくる移民の数が減ってしまうから、あとは、制限をどれくらいにするかという調整の問題となる。

 ……この議論も、まさに「経済学」という感じだ。エスノセントリックな移民受け入れ反対論を合理的な観点から論駁している点では、有益でもあるだろう。しかし、技能実習生や入国管理局の問題が日々取り沙汰されている日本に住んでいる身からすれば、「経済的利益や政策的目的のために移民の権利を制限しよう」と堂々と主張する議論は、いかにも危なっかしく思える。もちろん、現時点の世界各国でも移民の権利は多かれ少なかれ制限されているわけではあるのだが、権利について論じるうえでは経済学だけでなく倫理学政治学の観点が必要になることは明白であるはずだ。

 

まじめな人ほど、選挙で投票しない?

 

 

 

 

 この本を読んだのはもう数年前であるし現在は手元にもないのだが、最近の情勢と見ていてちょっと思うところがあるので、この本について紹介している記事と過去の記憶を頼りに軽く紹介してみよう。

 

 タイトル通り、人々の「投票をするか/しないか」「デモをするか/しないか」といった政治行動や「リベラル/保守」といった政治的傾向について、心理学における「パーソナリティ」の観点から分析した本である。

 とくに、「経験への開放性」「誠実性(真面目さ)」「外向性」「協調性」「神経症的傾向(精神的安定)」からなる「ビッグファイブ」という性格特性の指標に基づいて、政治的行動が分析されている。つまり、「このようなパーソナリティ特徴がある人は、(統計的・平均値的には)このような政治的行動をしやすく、政治的傾向はこのようなものになりがちである」ということがいろいろと論じられているのだ。

 

ja.wikipedia.org

 

 とはいえ、この本で指摘されている事象の大半は、パーソナリティやビッグファイブについて多少なりとも本を読んだことがあるなら予想が付くものではあった。

 たとえば、「外向性」のポイントが高い人はデモ行進や抗議運動や戸別訪問など、人と関わるタイプの政治的行動をしやすい。「経験への開放性」のポイントが高くて「誠実性」のポイントが低い人はリベラルになりやすく、「経験への開放性」のポイントが低くて「誠実性」のポイントが高い人は保守になりやすい。

 

 

 

ja.wikipedia.org

 

 この本のなかでもっとも意外な指摘は、「誠実性」のポイントが高い人たちは選挙の際に投票をすることが少なくなる、ということだ。 

 ここで言う「誠実性」とは英語の「Conscientiousness」の訳語であり、あくまで性格特性の一種であって、日本語の日常語における「誠実」とは必ずしも意味が100%一致しているわけではないことは記しておくべきだろう。……とはいえ、誠実性の高い人とはふつうの意味で「まじめ」な人である、と考えてもほとんど間違っていないはずだ。

 つまり、ルールを守る・遅刻しない・仕事をサボらない、そういう人たちのことである。

 

 (著者の)モンダックによると、責任感や誠実性が高い人たちは、陪審員に選ばれたときにその務めを果たす可能性は高い。だが、実のところ、そのような人たちが選挙で投票をおこなう可能性は低い。もしかしたら、責任感や誠実性が高い人たちは投票について慎重に考えたうえで、「自分が投票をしたところで何かが変わるということはほとんどなく、だから政治は自分の時間を割くに値するものではない」と判断したのかもしれない……とモンダックは言う。

https://news.illinois.edu/view/6367/205571

 

 

 この本のなかでは、選挙での投票とはそもそも期待通りの結果が得られることが保証されていない不安定なものであること、そして誠実性の高い人にとっては家族への義務を果たしたり仕事をすることの優先度が高いからこそ、不安定な「投票」という行為の優先度が低くなる、ということも指摘されていた。

 ある意味では、選挙とはギャンブルのようなものである。まじめな人は、ギャンブルに時間を割くくらいなら他のことをする、ということだ。

 

 もちろん、パーソナリティに関するトピックについて「こういうパーソナリティを持っている人のほうがエラい」という価値判断をしたり「こういう傾向や行動をしているならこんなパーソナリティであるにちがいない」と決めつけたりすることはご法度であるだろう。

 とはいえ、とくにネットでは批判されがちな「投票をしない」という行動は「まじめさ」から生じているかもしれない、という観点はなかなか有益であると思う。

 わたし自身の経験を思い出しても、学生時代から、政治の話で盛り上がれて投票にも行っているらしいやつほど授業をサボったり会合に遅刻していたりして、きちんと授業に出席して学業を淡々とこなしている人ほど非政治的である、という傾向はあった。

 もっと風呂敷をひろげれば、優秀なアスリートほど非政治的になりやすかったり(厳しい練習を毎日こなすことと誠実性のポイントには関係がありそうだ)、仕事中にネットで遊んでいる人ほど政治的なコメントをしやすかったりする(誠実性が低い人ほどサボりやすいから)……などなどとも言えるかもしれない。もちろん、これは与太話に過ぎないのだけれども(紹介した本のほうはきちんとした研究や調査に基づいたお堅い本であり、議論の内容も慎重である)。

 

読書メモ:『ベジタリアン哲学者の動物倫理入門』&『はじめての動物倫理学』

 

 

 

 

 

 どちらも日本人の哲学者によって書かれた動物倫理学の入門書であり、同時期に出版された*1。基本的な構成はどちらも似ていて、動物の権利論をはじめとする「理論」が解説された後で、畜産・動物実験・コンパニオンアニマル・野生動物などの各場面における現状の問題の解説と「これからどうすべきか」という規範的な提言がなされている。

 終章では、『ベジタリアン哲学者の動物倫理入門』ではキリスト教と仏教の考え方、『はじめての動物倫理学』ではマルクス主義の考え方に基づいて動物倫理のトピックが論じられており、ここのあたりに著者らのオリジナリティがあらわれていると言えるだろう。

 また、『はじめての動物倫理学』では功利主義・権利論・徳倫理という規範倫理学の御三家の考え方が紹介されてそれぞれの具体的な問題について「功利主義ならこうなるけど権利論ならこうなる」という風に解説がなされるのに対して、『ベジタリアン哲学者の動物倫理入門』ではどのトピックについても原則的に著者が提言する「基本的動物権」の議論に基づいて論じられており他の理論についてはほぼほぼ言及されない。とはいえ、動物倫理学においてはどんな理論を使ったところで「肉食は止めるべきだ」「動物実験も(ほとんどは)止めるべきだ」といった結論になるわけであり、たとえば功利主義なら「(ほとんどは)」という留保が付くところが権利論では付かなくなる、というくらいの違いしかないとはいえる。むしろ、ひとつの考え方に限定して様々な問題を論じるぶん、「動物倫理学では物事についてこう考える」という考え方や思考のコアみたいなものは『ベジタリアン哲学者の動物倫理入門』のほうが伝わってくる。それに比べると『はじめての動物倫理学』は新書本という体裁もあってか読み味が薄い部分があることは否めない。

 また、日本における畜産や動物実験や競馬などの実態が数値的な情報をふくめて詳細に書かれているのも『ベジタリアン哲学者の動物倫理入門』のいいところだ。

 

 ……とはいえ、功利主義にシンパシーを感じているわたしからすると、『ベジタリアン哲学者の動物倫理入門』で提示されているような権利論にはやはりいろいろと苦しい部分があるなと思わざるを得ない。まとめると「人間は道徳の存在を理解できて自分の行動を律せられる倫理的存在なので、動物の権利を尊重する義務はあるが、動物は倫理的存在ではないので義務を負わない」ということになるはずだが、この考え方に対して動物倫理学に馴染みのない人が「傲慢だ」と非難したり「相手が義務を負わないのにこちらだけ一方的に義務を負うのはおかしい」と反発したりする姿は容易に想像できる*2。また、いくつかのレビューや感想を見たところ、第四章における野生動物に関する議論についてはわたしだけでなく他の読者たちも「説得力に乏しい」と感じているようであり、とくにこの問題については権利論ではスジが悪いことを改めて認識させられた*3

 

 

*1:この二冊を取り上げている記事の例。

book.asahi.com

*2:

……すべての動物に、生命権と身体の安全保障権と行動の自由権という基本的動物権があります。しかし、人間だけが基本的動物権を尊重する義務を負います。どうしてでしょうか。私はこれまで、人間と他の動物の共通性を強調してきました。人間は理性的動物です。この動物性を人間と他の動物は共有しています。ところが動物の中で人間だけが理性的です。いや、これはちょっと単純に言いすぎたかもしれません。人間以外の動物の中にも、記憶能力や計算能力、推論能力や言語能力がありそうです。道徳的能力だって、あるかもしれません。しかしながら、私たち人間の自己理解では、人間だけが自分自身を反省し、道徳的観点から自由に自らの行動を律することができます。こういう高度な道徳的理性は人間に固有の特徴です。これが人間の素晴らしい能力です。この能力があるから、人間は理性を発達・開花させ、自分のことだけでなく他の動物のことも考えて道徳的に振る舞うべきなのです。

 (p.20)

*3:家畜や動物実験の問題に比べて加害-被害の関係や責任の所在がはっきりしなくて複雑な野生動物の問題に関しては、功利主義のようにシンプルな原則か、あるいは政治哲学的な複雑で曖昧な議論か、どちらかで論じたほうがよいだろう。

davitrice.hatenadiary.jp

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内田樹の「被害者の呪い」論

blog.tatsuru.com

 

 たまたまの偶然で、2008年に内田樹が書いたブログ記事が目に入ってきた*1

 この記事は、直接的には、当時開催されていた北京オリンピックの「聖火リレーをめぐる騒動」について言及したものである*2。また、文中には「統合失調症」についての記載があるが、当時に付いたはてなブックマークコメントでも指摘されている通り、この部分はかなり問題含みで不適当なものだ。

 それでも、このブログ記事の後半で展開されている議論は、なかなか鋭い。当時よりも現在の社会に対してなおさら当てはまるような、含蓄のある指摘だ。だから改めて取り上げてみてもバチはあたらないだろう。

 

  私は自制することが「正しい」と言っているのではない(「正しい主張」を自制することは論理的にはむろん「正しくない」)。けれども、それによって争いの無限連鎖がとりあえず停止するなら、それだけでもかなりの達成ではないかと思っているのである。
 私が今回の事件を見ていて「厭な感じ」がしたのは、権利請求はできる限り大きな声で、人目を惹くようになすことが「正しい」という考え方に誰も異議を唱えなかったことである。「ことの当否を措いて」自制を求める声がどこからも聞こえなかったことである。
 「いいから、少し頭を冷やせ」というメッセージが政治的にもっとも適切である場面が存在する。そのような「大人の常識」を私たちはもう失って久しいようである。

 

「被害者意識」というマインドが含有している有毒性に人々は警戒心がなさすぎるように思える。

(……中略……)

 「被害者意識を持つ」というのは、「弱者である私」に居着くことである。
「強大な何か」によって私は自由を失い、可能性の開花を阻まれ、「自分らしくあること」を許されていない、という文型で自分の現状を一度説明してしまった人間は、その説明に「居着く」ことになる。
もし「私」がこの説明を足がかりにして、何らかの行動を起こし、自由を回復し、可能性を開花させ、「自分らしさ」を実現した場合、その「強大なる何か」は別にそれほど強大ではなかったということになる。
これは前件に背馳する。
それゆえ、一度この説明を採用した人間は、自分の「自己回復」のすべての努力がことごとく水泡に帰すほどに「強大なる何か」が強大であり、遍在的であり、全能であることを無意識のうちに願うようになる。
自分の不幸を説明する仮説の正しさを証明することに熱中しているうちに、その人は「自分がどのような手段によっても救済されることがないほどに不幸である」ことを願うようになる。
自分の不幸を代償にして、自分の仮説の正しさを購うというのは、私の眼にはあまり有利なバーゲンのようには思われないが、現実にはきわめて多くの人々がこの「悪魔の取り引き」に応じてしまう。

(……中略……)

 「私はどのような手だてによっても癒されることのない深い傷を負っている」という宣言は、たしかにまわりの人々を絶句させるし、「加害者」に対するさまざまな「権利回復要求」を正当化するだろう。
けれども、その相対的「優位性」は「私は永遠に苦しむであろう」という自己呪縛の代償として獲得されたものなのである。
「自分自身にかけた呪い」の強さを人々はあまりに軽んじている。

 

 ごく簡単にまとめれば、自分が「被害者」であると主張することは権利要求や政治的交渉の場では有利な戦術であるが、本人の意識に「呪い」をかけて精神的健康や生活の幸福を蝕む可能性がある、という指摘である。

 

 わたしがこれまでに書いてきた文章のなかでも、「被害者意識」の問題については何度か取り扱ってきた。そのなかでも上述の内田の指摘にもっとも近い議論をおこなっているのは、下記の記事であるだろう。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 この記事のなかでも紹介している心理学者のジョナサン・ハイトは「被害者意識」の問題について特にこだわって議論している人物だ。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

gendai.ismedia.jp

 

 ついでに、(現代)ストア哲学者も被害者意識の問題について論じている。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 「被害者意識」というトピックについてわたしがどんなことを考えているかは上述の各記事に書いてきたので、ここではいちいち繰り返さない。

 

 ところで、内田の指摘は、「被害者意識」に限らず、「コンプレックス」や「怒り」など、「負の感情」全般にひろく当てはまるかもしれない。結局のところ、負の感情とは「負」なのであり、他人を批判・非難したり自分の要求を通したりしたいという目的のためであっても、負の感情を言語化して形を与えることはそれを強化することにつながって、まわりまわって自分に対する「呪い」として機能する、ということだ。

 そして、ある種のSNS界隈や社会運動界隈、もっと広く言えば「文芸」や「人文」の世界一般には、怒りやコンプレックスをはじめとする「負の感情」に価値を見出したがる風潮がある。世間や一般人はポジティブな「正の感情」のほうを大事にして称えて「負の感情」を抑圧しようとするからこそ、その逆をいってネガティブなものに寄り添うことが反順応的で反権威的で反マジョリティ的で反資本主義的でエラいことである、みたいな感じのマインドに立脚しているであろう主張はネット上でも雑誌や書籍でもごまんと見かける。

 とくに今年に入ってから、この問題についてわたしは色々と考え続けている。基本的には、「負の感情」やあるいは「弱さ」「欠落」に寄り添いましょう、的な主張に対してわたしは気休め以上の価値を見出せなくなっている。「気休めとしての価値があるならそれでいいじゃないか」とも言えるかもしれないが、とはいえ、負の感情を増幅させたり前を向いて建設的・積極的になれば解決できるはずの問題を解決から遠ざけたりするなどの「副作用」も生じかねない。それってどうなのと思うし、わたしの目からすると、「負の感情」や「弱さ」を肯定するタイプの議論を行っている論客の多くは自身の議論が副作用を引き起こしている可能性についてあまりに無頓着だ。

*1:この記事は本にも収録されているようだ。

 

 

*2:

おそらく、「騒動」とは下記のような事件のことを指している。

www.asahi.com

最近読んだ本シリーズ:『サンデルの政治哲学』とか

 

●『サンデルの政治哲学』&『公共哲学:政治における道徳を考える』

 

 

 

 

 

 このブログでも現代ビジネスでも『実力も運のうち』について紹介したし、『これからの正義の話をしよう』についても以前に紹介したが、改めてサンデル先生のこともちょっとお勉強しなおしてみた。

『サンデルの政治哲学』を読んでみて思ったのが、『実力も運のうち』の実力主義批判は世間ウケを狙って当たり障りなく書かれたものではなく、以前からのサンデル先生の思想と一貫しているということ。‥‥とはいえ、『実力も運のうち』のなかでも核心となる「適価」に関する議論は、以前とは真逆になっているようにも思える。『サンデルの政治哲学』によるとサンデル先生はロールズが「適価」の概念を否定したことを批判していたのだが、『実力も運のうち』ではサンデル先生も「適価」の概念を否定しているように読めるからだ。

『サンデルの政治哲学』のなかでは『実力も運のうち』ではあまり触れられなかった共和主義的理念に関する議論もなされているのだが、これは解説を読んでいても理想論ですよねえという感じ。そして、読めば読むほど、サンデルよりもロールズのほうが人間というものに関する洞察や理解が深かったのではないかと思わされる(「ケアの倫理」に関する本を読めば読むほどローレンス・コールバーグに対する興味が増すのと同じような現象だ)。いい加減に『正義論」も読んでみていたけど、なにしろ物理的に重たいのでためらっちゃうんだよね。でもそろそろまじで手にとってみよう。

 なお『公共哲学』のほうは冒頭を除けば数ページ程度の評論の寄せ集めという感じで、つまらない。読まなくていいと思う。

 

 ●『政治はなぜ嫌われるのか:民主主義の取り戻し方』

 

 

 

 大学院生のころに読んで感心して、そして感心したくせに本の題名を忘れて読み返すことができていなかったのだが、訳者の吉田徹さんの名前でぐぐったりしているうちにふと発見して、ようやく読み返すことができた。

 しかし、改めて読み返してみると思いっきり社会学っぽい感じの内容で、つまらない。「公共選択理論が流行って政治家の行動について合理性のみの観点に基づいて説明されるようになって、政治から理念が失われて、有権者は政治や民主主義に対して"白け"を感じて忌避するようになった」といった趣旨の議論がなされるのだが、「そんなことあるかあ?」って思っちゃう。理論とか学問とかの影響力を過大評価しすぎでしょ。

 

●『正義とは何か:現代政治哲学の6つの視点』

 

 

 正義論についての包括的な概説が新書の範疇でまとまっており、文章は比較的読みやすく、各トピックのフックとしてジェイン・オースティンやクリストファー・ナイトなど政治学者以外の人物についてのエピソードが挟まるところも工夫が効いていて、なかなか良いと思う。わたしはさすがにそれなりには勉強してきているのであまり新しい知見は得られなかったが、これから勉強を始める学部生とかにとってはかなり優れた本であるだろう。実はわたしは新書ってもの自体をそんなに評価していないのだが(作られ方や構造の問題のためか、本としての面白さに致命的に欠けているものばっかりだ)、先日に紹介した『リベラリズムとは何か』といい、学問的知識への入門や概説としてのクオリティがアップして多様性も増していることは認めざるを得ない。そういう点ではいまの若い子が羨ましいとも思う。

 ところでまたロールズの話に戻ると、社会や政治や経済の仕組みのあり方を考える議論であっても、やはり「人間とはなにか」ということに関しての細かい洞察がキモであり、面白さもそこにあると思う。仕方がないことではあるが、『正義とは何か』ではそういった細かい部分までは解説されていない。

 

 

社会的制裁のなにがよくないのか

anond.hatelabo.jp

 

 普段ははてな匿名ダイアリーの投稿にはあまり反応しないのだけれど、最近の事例についてはいろいろと思うところがあるので、昨日にTwitterに下記のような投稿をした。

 

 

 

 

 

 言いたいことは上記のツイートにだいたい書いているが、ついでだしもう少し書いておこう。

 

 

allreviews.jp

 

note.com

 

 

ネットリンチ」について書かれた本の原題は「So You've Been Publicly Shamed」で、Public-shaming とは「公の場での吊し上げ」という意味。個人的にはネットリンチという単語は字面がキツくて意味が限定的になり過ぎてしまうので、public-shamingやcall-outにあたる日本語があればよいと思う。

 

gendai.ismedia.jp

 

 集団的な吊し上げや非難に含まれる問題点のひとつは、その非難の内容が間違っていたり吊し上げが行き過ぎていたりする、ということが後から発覚しても、そのことに関する責任をだれも取らないということだ。

 たとえば、スティーブン・ピンカーアメリ言語学会の「フェロー」の地位から除名することを求めるオープンレターが提出されたとき、日本の言語学者社会学者や哲学者などのなかにもオープンレターに対する賛意を表明した人がいたが、わたしや他の数人の人たちが「オープンレターのなかで書かれているピンカーに対する批判はいずれも不当である」ということを指摘した後にも、賛意を示していた人がそのことについてコメントをした様子は見受けられない。つまり「ピンカーは悪くてムカつく奴だから、彼を批判するオープンレターには正しいことが書かれているっしょ」という程度の安易な気持ちで、一個人を差別主義者と糾弾して公的立場を引き下げることを求める文面に賛同していたわけである。……そういうことをする人たちは(わたしとかほかのピンカー擁護派の人たちに比べて)「リベラル」や「人権派」の立場にいて普段から反差別や社会的公正に関するメッセージを積極的に発しているタイプの人たちであるという事実は、やはりグロテスクであるように思える。

 

・「いじめ」にもいくつかのタイプがあり、立場的・身体的・知的な弱者に露骨な暴力を振るったり屈辱を与えたりするタイプの「いじめ」もあれば、集団内では相対的に弱者でない人を吊し上げたり仲間外れにしたりするタイプの「いじめ」もある。

 前者のほうが被害者が受けるダメージが深刻であり、弱者を標的にしているという点で悪質さもあるかもしれない。しかし、後者のタイプの「いじめ」であっても、被害者が深刻なストレスを受けて心に傷を負うことには変わりない。

 今回の件でも、いくつかの有名人が「ネットリンチの行き過ぎはよくない」という趣旨の発言をして、「お前はいじめっ子の味方をするのか」「自分にも後ろ暗いことがあるから擁護しているんだろう」と非難されている。しかし、有名人というものは社会的立場や能力が高かったり創造的で個性的な人格をしたりしているものであり、だからこそ、先の分類における後者のタイプの「いじめ」を受けた経験があるものだ*1。全国のいじめ被害経験者は過去に行われた「いじめ」の被害者に同情したから小山田を非難しているのと同じように、一部の有名人は現在に行われている「いじめ」の被害者に同情したから彼を擁護しているのであろう。

 

・繰り返しになるが、社会的制裁という現象においては責任を取る人がだれもいないので、この現象は必然的に「行き過ぎ」になる。「どの程度までの制裁を与えることが妥当であるか」という調節を行う権限を持つ人もいないし、「どのような対応がなされたら制裁を収めるか」という「ゴール」を定義する権限を持つ人もいない。とくにネット社会では、ある個人に対する制裁がいちど始まったら、みんなが飽きて忘れるまではずっと続くことになる。

 厄介なのは、たとえば近年では性的加害行為に対する#MeToo運動がそうであったように、社会的制裁の現象によってその後の社会の道徳基準が引き上げられて、これまで見過ごされてきた行為が懲罰の対象になり、以降はその行為の被害者が減るという「望ましい事態」がもたらされる可能性もある、ということだ*2。実際のところ、これまでの歴史においても、社会の道徳的進歩というものは多かれ少なかれ社会的制裁によって実現してきたのかもしれないし、それがなければわたしたちは現在よりもずっとひどい社会に住んでいたのかもしれない。

 とはいえ、どんな社会的制裁も行き過ぎになると考えれば、対象となる人は不当に過多な制裁を受けてきた……つまり、ある種の「被害」を受けてきた、ということになる。このことには不当さや不正義が含まれているはずだし、すくなくとも気の毒なことではある。

 このようなことを考えると、よっぽどのことがない限りは、有名人であろうと犯罪者であろうと、自分と関係のない個人に対して怒りを示したり懲罰を求めたりする言動をおこなうということ自体をする気があまりなくなる*3。特にネットやSNSには、個人のものとして投稿した意見であっても、同じような意見を投稿している人が他に何百人や何万人もいたりすると、意見の集合体が「壁」となって意見の対象者にとっては暴力として機能する、という側面があるからだ。

 また、実際のところ、大半の人はどんな問題についても自分と関わりなければいちいち怒らないし、ましてやネットにその問題についての意見を投稿することもない。Twitterにせよヤフコメにせよはてなにせよ、ついつい忘れてしまうが、そんなところに意見を書く人は日本人のなかでもごくわずかだ。そのような人たちのことを「民主主義の社会の一員として社会に対して抱くべき関心が欠けている」と非難することはできるかもしれない。……しかし、自分と関わりがなく自分が責任を取れるわけでもない問題について意見を表明しないということも、それはそれで美徳であるだろう。

 

・ほかにも色々とモヤモヤすることはあるのだけれど、まあ以前に書いた下記の記事のなかでも言いたいことはいっている。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 上記の記事でも書いたが、ネット上での非難というものは「ネタ」化や「大喜利」化しやすいということは、特にグロテスクだ。

 小山田の件は深刻な「いじめ」が関わっているという点でネタや大喜利にしている人はほとんどいないようであるが、もう少し気軽に叩きやすい対象……たとえば、『100日間生きたワニ』の映画やIOCのバッハ会長はネタや大喜利の対象とされているようである*4。たとえば、「バッハ会長との王様ゲームで最終的にバッハ会長が日本刀で斬られてしまう感じの命令を出したい」という趣旨のツイートを見かけた。他愛のないネタであると言うこともできるかもしれないし、この日本語のツイートをバッハ会長本人が見かけて傷つくという事態もまず起こらないだろう。それでも、ある実在の個人の死を連想させる文言を面白おかしいものとして投稿するというのは、考えてみればひどい話であるのだ。

 

*1:「壁と卵」発言でも有名な村上春樹が「いじめ」について書いた作品といえば「沈黙」であるが、そこで描かれている「いじめ」も後者のタイプのものであることは示唆的だ。

murakami-haruki-times.com

theeigadiary.hatenablog.com

*2:とはいえ、今回の件で、全国の学校からいじめ被害者が減るかどうかは疑わしい。(この件に関して専門的な知識があるわけではないので印象論になってしまうが、)学校でいじめが起こるのは、いじめが見過ごされていたり社会的に許容されていたりするからというよりも、学校という閉鎖空間やシステムに成長期や思春期という生徒たちの年齢などのほうにずっと強く原因があるように思える。

*3:もしかして忘れているだけで以前には自分でもそういう言動をしていた可能性は高いので、あまり強くは言えないけれど。

*4:

www.itmedia.co.jp

さいきん読んだ本シリーズ:『手の倫理』とか

 

●『手の倫理』

 

 

 著者はたぶん自分の主張をなんらかの「主義」や「理論」に還元して解釈されること自体を嫌がるだろうけれど、あえてそうしてしまうと、「ケアの倫理」や「状況主義」に近いものだろう。ついでに「身体性」という最近流行りのトピックも強調されるし、当然のごとく後半は「障害学」っぽくなっていく。その結果として、近頃の日本の思想界隈や人文界隈ではとくに評価されやすく、文句をつけたり批判したりすると怒られてしまうような、どこかで見たことあるタイプの無難で上品な議論が展開されることになる。

 ……この書きぶりからわかるように、わたし的には読んでいてかなりつまらなかった。「みんなよくこういう議論に納得できてしまうものだし、いつもいつも飽きもせずにこういうの読めるもんだな」って思っちゃったのだ。

 

・『哲学の女王たち:もうひとつの思想史入門』

 

 

 

 女性の哲学徒や哲学徒志望者をエンパワメントするために編纂された、男性哲学者の影に隠されて見過ごされてきた歴史上の女性哲学者たちについて、現代の女性哲学者たちが解説する本。当然のことながらふつうの哲学史の本では紹介されないような哲学者が次々と登場することになり、読んでいてなかなか新鮮だ。個人的には、メアリー・アステルという人が開明フェミニストとしての要素と保守主義者としての要素が両立していて、とくに興味深かった*1

 各哲学者についての紹介文を書いているのはそれぞれ別の人であり、普段のわたしならこういう構成の本は読んでいてあまり面白く思えないのだが(基本的に「編著」というものが好きではなくて、ひとりの人が自分の考えや感性に基づいて書き切る「単著」のほうが読みものとしては面白く感じる)、この本に関しては、フェミニズムに関するスタンスや熱量が紹介者ごとに異なっていることがバランスを保つ作用を生み出している。つまり、たとえば近代以前の女性哲学者やアーレントのような人に含まれる「反動的」な側面について、当時の事情を考慮して理解を示す紹介者もいれば現代の価値観に基づいて断罪する紹介者もいるということだ。哲学者の紹介は二の次にして哲学における女性蔑視に対する怒りを表明することをメインにしている紹介者もいれば、紹介している哲学者の思想の豊かさに対する愛情や敬意を表現している紹介者もいたりする。

 しかしアーレントを除けば紹介される女性哲学者たちは「小粒」な感じは否めず、「で、ここで紹介されている哲学者たちは、アリストテレスデカルトニーチェのようにエポックメイキングな主張をすることはできたんですか?思想史でどんな哲学者を紹介するかという基準って、"影響力があったかどうか"になるものですよね?女性蔑視がなかったって、公平な観点から哲学者トップ10とかトップ30とかを選んだら結局はだいたい男性になってしまうものなんじゃないですか?」とツッコミも入れたくなってしまうものだが、まあこれは野暮だろう。

 

●『二つの文化と科学革命』

 

 

 スティーブン・ピンカーが『21世紀の啓蒙』のなかで取り上げていたので気になって読んでみたが、内容がくどくどとしていて、なにが言いたいんだかよくわからなかった(というか、ピンカーが紹介している以上の内容は含まれていないような気がする)*2

 

●『感情史の始まり』

 

 

 

「社会構築主義(人類学)」と「普遍主義(生命科学)」との対立を軸としながら、感情研究の歴史について整理されている。それはいいのだが、著者はどちらかといえば人類学のほうに共感を抱いており、生命科学はあんまりお好きではなさそうな雰囲気が漂っている。ヨーロッパ人らしく文章の端々に嫌味ったらしさが含まれており、たとえばポール・エクマンはかなり冷笑的に紹介されていて気の毒になってしまった。かといって著者自身は歴史家であり人類学者でも心理学者でもないので、あくまで「感情に関する研究の歴史を第三者的な視点からまとめているだけです」とすまし顔であり、旗幟が鮮明にされているわけでもない。こういうのって読んでいるとイライラする。

 ページの分量も多いが、扱われているトピックもそれ以上に多いために、全体的に駆け足になっている。「整理」や「解説」が丁寧になされているというわけでもなく、感情研究に関する用語や感情研究に関わってきた学者たちの名前が矢継ぎ早に紹介されて、彼らの著書から次々と引用がなされるという感じ。そのために読みやすいといえば読みやすいが、知識がすっと入ってくるというわけではない。

 ジョン・ブロックマンについて紹介されている箇所ではピンカーやスティーブン・ホーキングの名前も出てくるが、ここでも、「三年ごとに新しい原稿を出せ」て、「生き生きとした日常的な例を用い、実験による研究をはるかに超える語り口で、時には世界全般を説明しようとする一般向けの科学書」(p.308-309)を書ける彼らのような大衆派アカデミシャンに対する著者の軽蔑(あるいは嫉妬)は隠し切れていない*3。だけれど、論点を明確にした本を書くことによって大衆に学問的な知識や考え方を啓蒙させられるという点でも自分の立場を堂々と示せられる勇気という点でも、ピンカーのようなアカデミシャンの方が著者の10倍は尊敬に値するとわたしは思う。