道徳的動物日記

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自由や責任についてどう「解釈」するか?(読書メモ:『そうしないことはありえたか?:自由論入門』)

 

 

「自由意志は存在するか否か」と言われたら、わたしを含めた多くの人が、「事実」に関する問題だと思うだろう。……つまり、自由意志というものがこの世界には「ある」のか「ない」のか、ということについての話であるような印象を受けるのだ。

 また、「決定論についての議論」と言われた場合にも、最初に聞いたときには「世界が決定されているか否か」に関する議論であるように思うはずだ。つまり、(ビッグバンが起こったり神様が作ったりしたとかの理由で)この世界が生じた瞬間からこの世界が終わるまでの全時間の全場所に起こる全ての物理的な現象とか存在とかは確定されており、わたしたちの意識も脳みそとか電気信号とかの物理的なものの所産に過ぎないからいつどこでなにを考えたり計画したりどんな行為をするかまでもが決定されているのか、それともそうではないか、ということに関する議論である。

 あるいは、わたしたちが体を動かす前に体内に電流が起こっていて意識より先に行動が存在する?みたいな、ベンジャミン・リベットによる実験については(『範馬刃牙』を通じて)知っている人もいるだろう。これも、自由意志は「ある」のか「ない」のかという、事実についての議論であるように思える。

 

 しかし、『そうしないことはありえたか?』を読んでまず思い知らされたのは…本書の副題はあくまで「自由論入門」であり「自由意志論入門」ではない点にも留意は必要であろうけれど…現代の(英語圏の/分析系の)哲学における「自由意志」や「決定論」についての議論で主に論じられているのは、「自由意志があるのかないのか」や「世界は決定付けられているかどうか」というトピックではなく、「世界が決定されているとしたら、わたしたちには自由意志があったり世界には自由が存在したりすると言えるかどうか」といった、事実についてではなく「解釈」に関してである、ということだった。

 ……そういえば、たしかに、哲学ってだいたいは解釈について論じる学問であったような気もする。また、「自由意志は存在するか」や「世界が決定されているかどうか」といった問題について「ある/なし」や「はい/いいえ」で答えを出そうとする議論をしても、論点が壮大かつ曖昧過ぎて面白くならなかったり不毛になったりしそうだ*1

 また、本書では、自由意志や決定論に関連する論点として「責任」というトピックが強調されている(ただし、最終章である第8章では「これまでの自由論では責任と自由をセットにして考えることが前提になっていたこと(「責任ファーストの自由論」)」に批判的な視点を示しながら、「自己表現」や「愛」と自由の関係などが論じられている)。

 素人考えだと、自由意志がなかったり世界が決定付けられていたりすると責任という概念は意味をなさなくなりそうだが、それでも責任は存在すると言うことができるか、それともやっぱり責任は存在すると言うことはできないのか、ということが論じられていた……この記事の読者にニュアンスが伝わるかどうかわからないが、やはり、責任の有無というよりも責任についての解釈に関する議論であったように読めたのである。

 というわけで、本書の内容…というか、本書で紹介される、自由や決定論に関する現代哲学の議論の内容…はやや意外であったし、いくぶんモヤモヤが残ったりもした(Twitterで感想を調べたところ、同じような感じ方をした読者は他にもいたようだ)。

 

 たとえば…「世界が決定されていても、自由(自由意志)は存在するといえる」という議論は両立論と呼ばれる。

「自由」の定義については、「ある行為をした時点でその行為者は別の行為をすることも可能であったなら、行為者は自由であったといえる」と定義する他行為可能性モデルもあれば、「行為の源泉が行為者自身にあったなら、その行為は自由であると言える」と定義する源泉モデルも存在する。両立論者の多くは、厳選モデルのほうを採用する(ただし、他行為可能性モデルを採用しながらも両立論を主張する人もいる)。

 源泉モデルのなかでも代表的なのがハリー・フランクファートによる「二階の意欲説」であり、本書では第2章でこの考え方が説明されている。

 

…人間とカエルには一つの重要な違いがある。それは一言で言えば、自分自身の欲求を反省的に評価する能力の有無である。例として、卒業論文を執筆中の大学生、太郎を想像してみよう。太郎は卒業論文の締め切りに追われているーーあと二週間だ。太郎は、卒業論文は大学での学びの集大成であるから、最善を尽くして良い論文を完成させたいと思っている。一方で、面倒な執筆作業はもう切り上げて、冷蔵庫にある大好物のビールを飲んでしまいたいとも思っている(太郎は下戸なので、飲んでしまったらもう執筆はできない)。

[…中略…]

ここで、太郎の脳内で進行しているプロセスをより厳密に記述するために、少しテクニカルな用語を導入したい。太郎がビールを飲むかどうか思案しているとき、彼の心の中には衝突する二つの欲求がある。それは、「ビールを飲みたい」という欲求と、「良い論文を書きたい」という欲求だ。このような、「何をしたいか」という特定の行為への欲求を一般に、フランクファートに倣って一階の欲求(first-order desire)と呼ぼう。さて、フランクファートによれば、私たちがもつ欲求は一階の欲求だけではない。私たちは、「かくかくしかじかの(一階の)欲求をもちたい」という、いわば欲求についての欲求をもつのである。このような欲求は一般に、二階の欲求(second-order desire)と呼ばれる。さて、フランクファートが「人間」概念の理解において重要視するのは、ある特別な種類の二階の欲求、すなわち二階の意欲(second-order volition)である。二階の意欲とは、「かくかくしかじかの(一階の)欲求が行為を実際に動機づける力をもってほしい」(あるいは、「かくかくしかじかの(一階の)欲求に導かれて行為したい」)という二階の欲求のことを指す。再び太郎の例に立ち戻ろう。太郎の心の中の天使の声が象徴するように、彼は「ビールの誘惑に負けてしまうのではなく、良い論文を書きたいという欲求に導かれて行為したい」という欲求をもっている。太郎がもつこの欲求は、まさに「二階の意欲」の一例である。

 

(p.71 - 72)

 

 この議論を読んでわたしがすぐに思ったのは「でも、世界が決定付けられているんだったら、「どのような二階の意欲や二階の欲求を持つか」ということすらもが、わたしの与り知らぬところでもう決められているんじゃないの?」ということだ。

 哲学者たちも、フランクファートの説について「特定の二階の意欲をもつように操作、ないしプログラムをされた行為者が「不自由」であるように思われることをどのように説明するのか」(p.79)という批判をしてきたらしい。

 本書の第4章では、源泉モデルに基づく両立論に対する批判として、行為者がさまざまな方法で操作される事例…マッドサイエンティストが脳内にチップを埋め込んで遠隔操作したり、生まれる前から介入したり、後天的に洗脳したり…を示したうえで、「このように操作されている場合には行為者には責任がないと判断するなら、世界が決定付けられていた場合にも行為者には責任がないと判断しますよね?」と同意を迫る、操作論証が紹介されている。

 

(1)操作ケースにおいて、行為者Sは自らのすることに責任を負わない。

(2)操作ケースにおける行為者Sは、責任に関連する点において、(操作を含まない)通常の決定論的なケース(「決定論ケース」と呼ぼう)における後者と違いがない。

(3)したがって、決定論ケースにおいても行為者は自らのすることに責任を負わない。

 

(p.145)

 

そして、フランクファートやそのほかの源泉-両立論者は、以下のようにして操作論証に反論している。

 

一つは、操作の事例と通常の決定論的事例の間に責任に関する何らかの違いを指摘するーー前提(2)を否定するーーという選択肢、もう一つは、そもそも操作の事例でも行為者に責任はありうるのだ、と主張するーーーー前提(1)を否定するーーという選択肢の二択だ。後者の路線からの応答は、操作ケースのプラムに責任があるという、一見して反直感的な主張をすることになるため、「強硬な応答」(Hard-line reply)と呼ばれる。対して、前者の路線からの応答は「穏健な応答」(Soft-line reply)と呼ばれる。

 

(p.153)

 

 

 これらの引用部分に示されているとおり、「二階の意欲」説にせよ「操作論証」にせよ、それは責任に関する議論であるようだ。

 しかし、わたしが「世界が決定付けられているんだったら、どんな二階の意欲を持つかも決定付けられているんじゃないの?」と思ったときに抱いた不安は、責任に関するものではない。

 本書のなかでも書かれている通り、フランクファートの議論には「人間観」が含まれている。そして、「自分自身の欲求を反省的に評価する能力」はストア哲学的な理性に近いものであり、わたしが前から抱いた人間観とも合致していて、賛同する。……だからこそ、「どんな二階の意欲を持つかも決定付けられているんじゃないの?」ということに不安を抱いてしまうわけだ。

 そして、この不安は、「行為者の責任を問うことができるか」という議論をされても、まったく解決しない。わたしが気にかけているのは「(決定論が真であったときに)わたしは自由であるか」ということであり、わたしや他人に責任があるかどうかではないからだ。

 もちろん、これは「ないものねだり」である。フランクファートやその他の両立論者たちにせよ非両立論者たちにせよ、彼らが論じているのはあくまで「決定付けられた世界でも責任を問うことはできるか否か」というポイントについてであり、この議論における「自由」は、責任と関連する限りにおいて必要性や意味を持つのであろう。

 また、本書の第8章では、「もし私たちに自由がないとしたら、私たちの人生は無意味なものとなってしまうのだろうか。」(p.254)というトピックについても記されており、ここの議論はわたしが抱いた不安に関連するものであるように思われる。……しかし、(紙幅の問題から)2ページしか議論されていなかったので、ぜんぜん充分じゃなかった。

 ここらへんが、わたしがモヤモヤを抱いた理由である。

 

 とはいえ、自由や責任に関する難しくてチマチマした海外の学者たちの議論をかなりわかりやすくしながら、飽きずに読み進められる程度の厳密さやテンポ感でまとめてくれているという点で、なかなか参考になる良書だと思う。これまでに聞いたことのない議論とか哲学者たちもいっぱい出てきたのがよかった。

 とくに責任論については、日本の思想や出版業界は(『<責任>という虚構』といった悪書が幅を利かせているのも災いして)「自己責任論批判」「ネオリベ批判」ばっかりになっていてマトモなものがないから、社会問題や政治についてイデオロギー的に援用することが難しい地道で堅実な議論を紹介してくれる本書には、読者の頭を冷やしてくれる効果もあるだろう。

 

 残りの感想は箇条書き。

 

● 第5章では、「そもそも世界は決定付けられていないから、自由は存在する」という「非決定論(-非両立論)」の立場であるリバタリアニズムの主張が紹介される。この主張は、量子力学の見解(量子の動きはランダムで法則がない)や脳神経科学の見解(人間の決断には「意志の努力」が存在する)など、現代科学の知見に裏打ちされているのが強みであるようだ。

 ……しかし、やはり、リバタリアニズムでも決定論に対するわたしの不安は消えない。世界は(おそらく)1つしか存在せず時間の軸というのも(たぶん)1つしか存在しないはずだから、過去・現在・未来において無数の量子が行う法則のないランダムな動きもわたしたちが決断を下す際に脳のなかで発生する諸々のプロセスも、そのすべてが(ビッグバンとか神さまとかによって)決定されている、ということにはならないのだろうか?

 

● 第6章では「自由(や責任)は存在しない」という「懐疑論」を前提にしたうえで、「責任は存在しないと本気で信じるなら法律によって人を罰したりすることもできなくなるから、懐疑論は実際に採用することのできない机上の空論だ」という批判に応答する「楽観的懐疑論が紹介される。

 楽観的懐疑論者は、道徳的に悪いことをした人を「非難」したり道徳的に良いことをした人を「称賛」したりするといった実践は無意味なものとして棄却するが(道徳的に優れた性格になったり道徳的に優れた在り方ができること自体が自由ではない=運に左右されることであるため)、「二階の意欲」説に基づく自由を認めながら「良い」「悪い」などの評価は行うらしい。……この時点で、いかにもわたしが嫌いなタイプの人間が好みそうな議論で気に食わなかった。

 また、楽観的懐疑論者は、刑罰に関しては応報主義を否定するが、帰結主義や「隔離モデル」によって犯罪者に対する処罰や社会からの隔離を正当化する議論を行う。いちおうは功利主義者でありベンサムの刑罰論について聞き齧っている身としては、こちらの議論はわりと許容することができた。とはいえ、本書でも指摘されている通り、ガチで実践するとなると色々と大変で実現困難なのだろう。

 

 そもそも、気持ちの問題として、非両立論を支持して自由(意志)や責任に非難や称賛という概念を否定しながらも「よい社会」について論じようとする試みに、わたしはまったくノることができない。

 わたしが「道徳的に良い人間になるか悪い人間になるかは本人には選べないんだから、後者を非難するのは気の毒だからやめておいたほうがいい」という判断をしたり「現在の刑罰システムは自由や責任についての誤った考えに基づく応報主義に影響されているから、帰結主義や隔離モデルに基づいて改善すべきである」という判断をしたとして、それらの判断自体が、「いい」や「べき」という発想が混入した規範的なものである。

 自由が存在するとすれば、わたしが抱いているわたしの規範的な考えは実際のわたしの考えに基づくものであり(源泉モデル)、わたしは気の毒な人のことを非難したり誤った発想に基づく刑罰システムを放置するという「悪いこと」をするのも可能であるのにその逆の「良いこと」をしようとしているわけだから(他行為可能性モデル)、わたしは自分の規範的な判断にコミットするモチベーションを抱ける。

 しかし、自由意志が存在しないのだとすれば、わたしがなんらかの規範的な判断をすること自体が「たまたま」である。サイコロの出目次第ではわたしは弱者や運の悪い人に対して冷淡な考えを抱いたままだったかもしれないし、いまは違っても明日になったらなにかをきっかけにしてまた冷淡な考えを抱くようになるかもしれない。そういうことを考えると、自分の規範的な判断について本気になる、ということ自体が馬鹿らしく思えてくる。

 これは、(本書で紹介されているような哲学的に洗練されたものではなく、社会学俗流心理学や社会運動論に基づいているタイプの)「自己責任論批判」を提唱している人たちに対してわたしが常々に抱いている疑問でもある。自己責任論批判者は、運悪く弱者になったりロクでもない人間になったりしてしまった気の毒な人たちについては彼らの責任を問わずに同情や慈悲を向けるが、弱者やロクでもない人に対して冷淡である人に対しては怒り非難を向ける……というか、この怒りこそが「自己責任論批判」のモチベーションであるだろう。

 しかし、責任(や自由)を本気で否定するなら、弱者に同情するか弱者に対して冷淡になるかだって本人に左右できるものではなくなり、それに怒りを抱くのは筋違いということになるはずだ。

 

● 第7章では、ピーター・ストローソンという哲学者の議論が紹介される。

 

ストローソンは「責任」という概念を解明するうえで、私たちが日常的な実践の中で他者に向ける特別な種類の感情を考察の出発点とする。その種の感情を総称してストローソンは「反応的態度」と呼ぶ(reactive attitude)と呼ぶ。

[…中略…]

[パーティーで友人に自分の秘密を他の人たちにバラされたとき]…あなたは友人に対して「怒り」を覚えるだろうが、それはきわめて自然なことである。たしかに、その怒りがどのような形で行動に表れるかは、人それぞれだろうーーその場で友人に対して抗議したり、友人を非難したりするかもしれないし、怒りをぐっとこらえて平静を装うかもしれない。とはいえ、友人に対するあなたの怒りは、いわば「人間」として当然ともいうべき感情であると言えるだろう。

だが、なぜあなたは、友人に対して怒りを向けるのだろうか。知られたくない秘密をバラされたという事実を悲しんだり落胆したりするだけでは、なぜ不十分に思われるのだろうか。それは、あなたが友人の行動に、自分に対する悪意、あるいは敬意の欠如を見て取ったからだ。ストローソンがいみじくも指摘するように、「私たちにとって、他の人間がこちらに向ける態度や意図は非常に大きな重要性をもつ」[…]。だからこそ、他者の言動が自分に対する悪意や敬意の欠如を示していると見て取ったとき、私たちは相手に対して怒りを覚える、あるいはそうすることが適切だと考えるのである。

[…中略…]

善意や悪意、敬意や敬意の欠如、関心や無関心といった、相手をひとりの「人格」としてどのような仕方で扱っているかに関する態度、ないしその態度の源泉をストローソンに倣って「意志の質」(quality of will)と呼ぶならば、反応的態度を一般に次のように特徴づけることができる。

 

反応的態度:反応的態度とは、相手の意思の質に反応して、その相手に対して向ける感情のことである。

 

(p.222 - 224)

 

 わたしたちはハトにフンをかけられたときにもムカッとしたりイラッとしたりするかもしれないが、その感情は「怒り」ではなく「苛立ち」と表現したほうがよい。わたしたちはハトに怒りを向けて事態の任を問うわけではなく、事態の原因であるハトに対して苛立ちを向けているに過ぎない。わたしたちが自然現象や動物や幼児に対して向ける態度は、反応的態度ではない。

 また、相手が大人であったとしても、反応的態度の表出を差し控える場合がある。だれかに危害を与えられたとき、相手には悪意がなかったこと(電車でよろけた人に足を踏まれるとか)は「弁解」(excuse)として、相手に責任能力がなかったこと(極度のストレスに晒されてまともな判断ができなくなっているとか)は「免責」(exemption)として、怒りを抑える要因になる。動物や幼児および悪意のない相手や責任能力がない相手に対しては、わたしたちは責任を問うのではなく、自然現象に対してするのと同様に処置を行う…彼らのもたらす危害を減らすための対応を淡々と実行するのだ。ストローソンはこれを「客体的態度」(objective attitude)と呼ぶ。

 

 そして、反応的態度は、以下のようなかたちで、自由意志や決定論に関する議論と関わってくる。

 

非両立論者は、もし決定論が真ならば、私たちは決して自身の行為に責任を負いえないのだ、と考える。このことは、私たちには普遍的に免責要因が成立していることを意味する。よって、反応的態度の表出に代表される私たちの実践は決して正当化されえない。

[…中略…]

ストローソンは先述の非両立論者の懸念に対し、決定論の真理は責任の脅威とはならないのだ、と応える。なぜ脅威にならないのか。その最も大きな理由は、仮に私たちが決定論の真理を受け入れたところで、反応的態度を伴う道徳的な実践を完全に放棄してしまうことなど、心理学的に不可能だからだ。もちろん、私たちが他者に対してときに客体的態度をとることはある。前節で触れた免責要因が成立する場合がその一例だ。ここでのストローソンの主張は、私たちがすべての人間に対して常に客体的態度を向けることなどそもそもできない、ということである。反応的態度を全面的に棄却するという選択はおよそ人間がとりうる現実的な選択肢ではないのだから、決定論の心理によって責任が脅かされるのではないかと悩む必要などない、というのがストローソンの基本主張である。

しかし、なぜ私たちが完全に反応的態度を捨て去ってしまうことなどできないとストローソンは考えるのか。それは、人間とはそもそも、他者に対して反応的態度を向けけざるを得ない、そういう生き物だからである。少し堅苦しく述べ直せば、反応的態度の表出でもって他者と関わるという責任実践は、人間の本性に根ざした、いわば自然的事実であり、人間が人間であるための本質を構成するものなのである。

 

(p.230 - 232)

 

 しかしながら、ストローソンの議論はやや「健常者中心主義」であるように思える。ネットやSNSなどで「アスペ」や「発達障害」を自称しているタイプの人たちの発言や文章を見ていると……おもしろおかしくするためにオーバーな表現が使われている場合もあれば、そもそも当事者ではない偽称の人たちも混ざっているのだろうが……彼らは身近な家族や友人を含めた他人に対しても「客体的態度」をとっている、と表現できるようなことが多々ある。

 また、「怒られが発生した」というネットミームは、怒っている相手のことを人格として扱わず自然現象であるかのように扱っている点で客体的態度そのものであるが、このネットミームは多くの人に共感されているようだ。

 本書でも、反応的態度を捨て去ることはストア派や仏教では理想とされており、実際にもある程度以上は実践されているのだから不可能ではないかもしれない、といった指摘がされている。

 ……とはいえ、おそらく、大半の凡人には反応的態度を捨て去ることはできないだろう。しかし、世の中には、自分にとって都合のいい場合だけ客体的態度をとるという人や、「自分はクールで論理的な人間だから反応的態度を捨て去っている」という誤った自己イメージを抱いて生きている人が数多くいそうだ。これは、他人や社会のことを舐め腐った、ロクでもない態度である。そして、ストローソンの言う通り非両立論が「すべての反応的態度の放棄」をもたらすというのは起こり得ないかもしれないが、ロクでもない「自分にとって都合のいい範囲内での反応的態度の放棄」を助長することにはなるかもしれない。

 

 なお、この章では、友好や愛などを含むポジティブな人間関係のためには反応的態度が不可欠であるという主張(スーザン・ウルフ)と、客観的態度のみの世界でも友好や愛などは成立し得るという主張(タムラー・ソマーズ)についても、ちらりと紹介される。わたしとしては前者の主張を支持したいところだが、著者によると後者の主張も説得的なものであるようだ。

 

*1:とはいえ、本書にリベットの名前や実験がひとつも出てこないのはやや意外でもあった。わたしが読んだなかでは『心にとって時間とは何か』などがあるが、自由意志に関する哲学的議論においてリベットが取り上げられること自体は普通であるようだ。

 

 

 

「選良政治」は実現するか?/「熟議」がダメな理由(読書メモ:『アゲインスト・デモクラシー』②)

 

 

 

 一昨日の記事が長くなったので、残りは駆け足で紹介。

 

●エピストクラシー(選良政治論)は「理想理論」か「悲理想理論」か?

 

「訳者解説」でも指摘されている通り、本書で主に展開されるのは悲理想理論である。

 

ブレナンの考えは次のようなものである。もし人々が十全に知識を得ており、合理的であり、かつ道徳的に理にかなっているような理想的社会があるとしたら、その社会においてはデモクラシーが完璧に機能し、いかなるエピストクラシーよりも良い帰結を安定的に生じさせるのかもしれない。しかし、現実の人々の多くは、十全に知識を得ても、合理的でも、道徳的に理にかなってもいない。したがって、現実のデモクラシーは完璧には機能していないだろう。エピストクラシーは、このデモクラシーよりはも良い帰結を安定的に生じさせるかもしれない。そうであれば、私たちがいまここで目指すべき体制はエピストクラシーなのかもしれない。このようなブレナンの議論に対し、理想的なデモクラシーは悲理想的ないし理想的なエピストクラシーよりも優れていると主張しても議論がすれ違うのみである。ブレナンの議論に正面から向き合うならば、ブレナン自身が想定する悲理想的状況を念頭に置いたうえでの吟味が必要である。

この点を念頭に置いた上で、本書に対する解説者一同からの疑念を一つ提示したい。本書の主要な目的が、悲理想理論の枠内でエピストクラシーがデモクラシーに対する有力なオルタナティブとなり得ることを示すことであるのならば、前述の制約はブレナン自身にも適用される。換言すればブレナンは、悲理想的デモクラシーに対して、それと同程度の市民の道徳的・認知的欠陥を伴った悲理想的エピストクラシーが擁護され得ることを示さなければならない。しかしながらブレナンは、悲理想的なエピストクラシーがどのように機能するかについて十分な検討を行っていないのではなかろうか

 

(下巻、p.192 - 193)

 

 ブレナンのデモクラシーに対する批判は必ずしも「実際には人々は愚かで間違っているんだからデモクラシーは有効に機能しない」という経験的なものだけではなく、一昨日に紹介した第4章や第5章での議論のように、「デモクラシーに道具主義的なもの以外の意味を見出す議論(生じる政策結果ではなく人々に「力」や「自尊」を与えることを重視する議論)は、政治体制を評価する方法として誤っている」といった筋論も含まれている。そのため、おそらく、悲理想的なデモクラシー擁護論だけでなく理想的なデモクラシー擁護論もブレナンの批判の射程内には入っていそうだ。

 とはいえ、たしかに、本書で主に強調されるのは「現実のデモクラシーはまったくうまくいっていない」ということであるし、ブレナンの議論に対して「じゃああなたの主張するエピストクラシーならほんとにうまくいくの?」といった疑問は大半の読者の頭のなかに浮かび上がることだろう。

 第8章では、実際にエピストクラシーを採用するとして、さらに具体的にはどのような制度を採用すべきか、というポイントが様々な候補を挙げながら詳細に論じられている(「制限選挙」「複数投票制」「参政権くじ引き制(くじに当たった有権者の育成を伴う)」「知者の拒否権」など)。とはいえ、おそらくブレナン自身、現在にデモクラシーである社会が近いうちになんらかの形のエピストクラシーに移行する、という展望を現実的なものだとは思っていないだろう。

 やはり、「エピストクラシー擁護論」よりも「デモクラシー批判論」として読むべき本だとは思う。

 

 本書のなかでもとくに読者の感情を逆撫でしそうなのが、以下の段落。

 

もしアメリカで、私が先ほど考案したような試験を投票者資格試験として今すぐに開始するとしたら、私の見立てでは、試験に合格するのは、白人で、上流中産階級以上に属しており、学歴があり、雇用されている男性に偏るだろう。ここでの問題は、私が人種差別主義者であるとか、性差別主義者であるとか、階級差別主義者であるとかいうことではない。もちろん、私が道徳的に申し分のない人間である証拠は十分存在するし、潜在的バイアステストによれば、平均的な人と比較して、多くの標準偏差の値が小さかった。むしろ問題は、不正義や社会問題が根底にあることである。こうした根底にある不正義や社会問題は、一部の集団が他の集団よりも博識である可能性を高めがちである。私の考えでは、全員が投票することに固執するよりも、根本的な不正義を修正するべきである。症状を取り除くのではなく、病気を根治しよう。これまでの章で確認してきたように、情報量の少ない投票者と多い投票者では、こうした根本的な不正義にいかに対処すべきかを含め、政策に関する選好が体系的に異なっている。アメリカでは、白人の下位八〇%の投票者を投票から除外することこそが、貧しい黒人にとって必要なことかもしれない。

 

(下巻、p.140 - 141)

 

 

 ブレナンは「エピストクラシーが採用されたら、不正義に敏感な人々だけが選挙権を持つことになるから、不正義に鈍感な人も選挙権を持つデモクラシーとは異なり、不正義もやがて修正されていくよ(そしてやがては性別や人種などの属性や経済的階級の分布と選挙権の有無は重ならなくなっていくよ)」と論じているわけだが、この議論はなかなか苦しいと思う。

「白人男性」や「上流中産階級以上」の人々だけが選挙権を持っているという状況は、仮にそれらの人々が賢明で道徳的であることが保証されているとしても、ほとんどの人々の正義感覚に反している。さまざまな規範理論によっても、「選挙結果や政治体制の有能さの如何に関わらず、選挙権の有無とアイデンティティ属性や経済的条件の分布に露骨な重なりがある状況は不正義である」と論じることはできそうだ。

 そして、エピストクラシーであろうがデモクラシーであろうが、世界の不正義を漸進的に改善していくことはできても、根絶することはほぼ不可能だろう。すると、実際の世界においてはエピストクラシーは「白人や男性や上流中産階級以上の人々に選挙権が偏る」という状況を生み出し続けることになり、その点ではデモクラシーより不正義なものとならざるを得ないはずだ。

 

(いちおう、本書のなかでは、「選挙権があったとしても大半の有権者は自分の利益すらをもきちんと認識できずに自分の利にならない投票をする」ということが強調されたり、「選挙権がないことを屈辱的だとする発想をわたしたちが持っていることは歴史上の偶然である」という議論をしたりして「選挙権」の価値を解体することで、「選挙権を剥奪すること」が有権者に不利益をもたらし、「選挙権がない人がいる」ということが不正義をもたらすという主張に反論している。)

 

●熟議デモクラシーがダメな理由

 

 本書の第3章では「単に投票させるだけだと人々は愚かな選択をするかもしれないけれど、議論を行い選挙の争点となっている問題について知識を得させたり考えを深めさせたりすれば、人々は賢明な選択をするのではないか」という発想に基づく「熟議デモクラシー」論が批判されている。

 議論への参加は必ずしも人々の知識を改善したりバイアスの影響を減らしたりしないし、議論に参加している人はレトリックやカリスマに誘導されてしまうし、参加者の立場を極端なものにしたり(集団極化)意見の異なる相手に対する敵意を増させたり、ニヒリズムや不可知論に誘導したりする。

 また、第7章では、個々の有権者は賢くないとしてもデモクラシーは「集合知」を生み出すのではないか(「集計の奇跡」「コンドルセ陪審定理」「ホン=ペイジの"多様性が能力に勝る"定理 )といった議論が批判される。この種の議論は有権者たちの知識や関心がランダムであることを前提とするが、実際には有権者たちには「系統誤差」が存在するので、意見の間違いは修正されるよりもむしろ増幅されやすい、というのが主な批判だ。

 

 熟議デモクラシー批判に関して耳が痛かったのは以下のようなくだり。

 

[ダイアナ・]マッツは、「いまだ実現されていない様々な基準がすべて満たされる場合には政治的会話はよい結果をもたらすポテンシャルを持っていると主張することと、実際に行われているような政治的会話は市民に対して有意義な便益をもたらすと主張することは異なっている」と述べている。現実の人々は(それがタウンホール・ミーティングであれ研究室の実験であれ)通常は[ユルゲン・]ハーバーマスや[ジョシュア・]コーエンのいう適切な熟議のルールに従わず、熟議は通常は意図された結果をもたらしもしない。

熟議についての経験的研究が一般的にはネガティブな結果を与えるため、ほとんどの熟議デモクラシー支持者は幻滅して熟議デモクラシー支持者であることをやめると予想されるかもしれない。また、ほとんどの熟議デモクラシー支持者は、熟議が機能する確固たるエビデンスが存在する場合にのみ、留保条件をつけるか注意深い形で熟議を推奨すると期待されるかもしれない。

これとは反対に、熟議デモクラシー支持者は前述の経験的結果をみても平然としていることが多い(慰めになるかはわからないが、経験的な熟議デモクラシー支持者は哲学者や理論家よりもこの点で優れている)。熟議デモクラシー支持者は熟議の便益がそのうち明らかになることを前提としがちである。現実の人々がフーリガン的ではなくヴァルカン的な仕方で熟議することを保証する方法が今まさに発見されようとしているところである、ということを熟議デモクラシー支持者は前提とするのである。[タリ・]メンデルバーグは、「熟議が……期待されるように作用することを示すエビデンスの少なさ」にもかかわらず、また、熟議が問題を悪化させる危険性にもかかわらず、多くの理論家は現実世界における熟議の機会を減少させるのではなく増加させることを欲すると述べている。

多くの政治理論家は、私たちは単に適切な熟議を必要としているだけであると述べる。経験的研究は、それ自体が示している通り人々は正しい仕方で熟議していないーー熟議デモクラシー支持者が主張するような仕方で熟議していないーーため、熟議デモクラシーの便益とされるものを論駁したり反証したりしない。たとえば[エレーン・]ランデモアは、これらの研究は「他者との真正な熟議」を生み出すために「最適な条件を整備する」方法を発見する必要性を示しているだけであると主張する。メンデルバーグでさえも、熟議についての適切な経験的研究を行うことによって私たちは「熟議の成功を可能にする条件を作り出すことを期待できる」と推測している。

 

(上巻、p.115 - 116)

 

ランデモアは、しばしば民主的熟議を映画『十二人の怒れる男』に登場する陪審員による熟議のように扱って見せることで、デモクラシーを擁護したりもする。しかし架空の陪審員と現実のデモクラシーにおける市民とでは大きな違いがある。架空の陪審員たちは、入手可能な情報とその重要性を検討し、議論に耳を傾け、議論を組み立て、対立する諸々の観点を考慮し、多角的な視点から俯瞰しようとしながら、討論に十分な時間をかけている。彼らがそのようにするのは、自分の一票には重みがあり、自分たちの決定が誰かの人生に大きな影響を与えることを知っているからである。しかし第二章で言及したように、現実の投票者は、まるで個人票が重みを持たないかのような行動をしている。たいていの市民は、政治について情報を得たり、合理的であるための努力を怠っている。彼らはバイアスで歪んでおり逆効果となる形で熟議を行っている。

ランデモアはこうした不満に対しては、自分が「理想的な形態としてのデモクラシー」を研究していると述べるに留まっている。彼女は理想理論に後退することで、民主的な行いに関する経験的批判に応答するわけだ。ランデモアは、人々が彼女の考えるようには行動していないので、現実のデモクラシーは十分に民主的でないと主張する。彼女が述べるには、人々がデモクラシーを真剣に捉え、正しい仕方で熟議し、正しい仕方で情報を考慮し、集団として問題解決を試みる等の条件を満たしさえすれば、デモクラシーは賢明たりうる。それは、市民が現にそうしているように行動するのではなく『十二人の怒れる男』の陪審員のように振る舞ってさえくれれば、デモクラシーは賢明でありエピストクラシーに勝るだろうと述べていることになる

 

(下巻、p.73 - 74)

 

「耳が痛い」と書いたのは、熟議民主主義に憧憬を抱いているわたし自身、『十二人の怒れる男』をはじめとするフィクション作品における「理想化された熟議」に基づいて熟議民主主義を支持する気持ちが強いからだ*1アメリカの映画を見ているとしばしば「熟議」が登場し、アメリカ人は民主主義の本場だけあって「熟議」の大切さを重視しているんだなと感心するが(最近だと『ベスト・オブ・エネミーズ 価値ある戦い』)、しかしそれは現実に行われている議論がロクでもないがゆえに幻想が求められているからかもしれないし、いずれにせよフィクション作品の描写に基づいて政治体制について考えるべきではない*2

 さらに言うと、熟議民主主義のみならずデモクラシーそのものが、「万人が平等に尊重される」という理想や物語を提供してしまうからこそ現実の惨憺さに関わらず支持されてしまう、という構造があるのかもしれない。

 

 また、「現状の熟議はやり方が間違っているからダメなだけあって、適切な形で行えば熟議には意義がある」という考えも、実際にわたしが抱いているものであるので耳が痛い。

 いちおう書いておくと、わたしが読んだなかでは『熟議民主主義ハンドブック』や Innovating Democracy: Democratic Theory and Practice After the Deliberative Turn といった著作では、「声のデカい人が有利になるんじゃないの」「レトリックの上手い人の意見が通るんじゃないの」といった熟議に対して呈されるありがちな批判に応えるために、問題を防ぐための「熟議のやり方」が丁寧に論じられていた*3。そして、ブレナンは熟議が失敗した事例のデータを自説に都合良く集めているだけなんじゃないの、という疑念も抱かなくはない。……しかしそれでも、熟議民主主義はなかなか不利な立場にあるのだというのは認めざるを得ないだろう。

 

陪審員裁判と民主主義政治の「有能性原理」

 

 ブレナンは、政治と裁判の共通点を指摘する。

 政府も裁判所のどちらもが、わたしたち市民に対する権力を有しており、わたしたちの身体や財産や生活に影響を与えることができる(裁判所は直接的に、政府は医療や経済や安全保障などに関する政策を通じて間接的に)。そのため、裁判の被告人になり得るわたしたちとしては、裁判が合理的で真っ当に運営されることを望まざるを得ない。

 もし、陪審員裁判において陪審員たちに以下のような特徴がある場合には、わたしたちはそんな裁判の被告人になりたいとは思わないだろう。……理不尽で誤った判断に基づいて、罰金を取られたり監獄に収容されたり死刑になったりする可能性があるからだ。

 

・「無知」な陪審員:審理の最中に提示された証拠を無視する

・「非合理的」な陪審員:認知にバイアスがかかっており、非科学的な判断や陰謀論など基づきながら提示された証拠を評価してしまう

・「欠陥を抱えた」陪審員:認知的欠陥(低い知能か知的障害?)を持っており、裁判の争点となっている事件のことをそもそも理解できていない

・「不道徳」な陪審員:差別主義者であったり加虐趣味であったりするために、無罪とわかっている被告を有罪にする

・「腐敗」した陪審員:賄賂をもらったから、無罪とわかっている被告を有罪にする

 

 そして、ブレナンが陪審員に関する「有能性原理」として挙げるのが、以下のようなものだ。

 

陪審としての役目を負うためには、陪審は集団として、悪しき認識的および道徳的特性を有してはならない。

・また、もし陪審が全体としては有能であるとしても、もしある個別の決定が無能あるいは不誠実な仕方で下されたならば、その決定は執行されるべきではなく、被告はその決定に服するなんらの義務も負わない。

 

(下巻、p.24)

 

 この原理は、そのまま、政治にも当てはめられるはずである。政治的決定は、裁判所での決定と同じように、(政策というかたちで間接的に)わたしたちに対する権力を行使する。権力の行使には正当性が求められる。しかし、デモクラシーの下での政治的決定は、無知で非合理的で欠陥を抱えていて不道徳で腐敗した人たちが(多分に)含まれた有権者の投票に左右される。

 ……こうして説明されると、有能性原理はたしかに強力なもののように思われる。現時点で選挙権がないわたしとしても、「タダで選挙権がもらえる」か「無知な・非合理的な・欠陥を抱えた・不道徳な・腐敗した有権者を選挙から排除する」かを選べるとしたら、後者を選択するだろう。仮にわたしが知識を持っていて合理的で欠陥を抱えておらず道徳的で清廉な人間であるとしても、わたしの一票がもつ効力はごく僅かであり、政策を通じてわたしの身体や財産や生活に振るわれる権力を左右することはどのみちできない。

 実際のことろ、有能性原理に関するブレナンの議論は、わたしを含めた多くの人がデモクラシーに抱いているフラストレーションをうまく言語化しているだろう。

 角が立つ言い方になるが、国政選挙や地方選挙のたびに、わたしは経済政策などに関して「またアホどものせいでおれの生活が苦しくなりそうだ」と苦々しい気持ちになっているし(「アホ」と表現しているのは、経済や労働に関する諸問題について明らかに理解を欠けており、他人だけなく自分の生活までをも苦しくさせそうな政党や候補者にわざわざ投票する人が多々いるからだ)、ジェンダーや環境などに関する政策についても「また非道徳的な連中のせいで世の中の問題が改善される機会を失った」と思っている(「非道徳的」と表現しているのは、正当化することが困難な規範的判断に基づいて投票をしている人や、特定の規範的問題に充分な注意や関心を払わない人が多々いるからだ)。

 デモクラシーにおいては、アホで非道徳的であったとしても有権者たちの投票には特別な価値があると見なさなければならないし、「〇〇党に投票した人はアホだ/非道徳的だ」と実証的・倫理的に批判すること自体が「デモクラシーの正当性を認める」ということと矛盾しかねない*4。「○○党に投票すべきでない」「○○党に投票した人たちの判断は誤っていた」と主張することは、政策や倫理に関する他のかたちの主張に比べてもとりわけ嫌われやすいし、デモクラシーに生きる市民として、そのような主張を嫌うことにも一理はある(「投票すべきでない政党」を指定した時点で、その人は完全なデモクラシー支持者ではなくなるし、選良政治支持に片足を突っ込んでいると指摘することもできるかもしれない)。

 しかし、アホな人や非道徳的な人たちの投票のせいで、わたしやその他の多くの人々…そのなかにはマイノリティや脆弱な人々もいたりする…が多大な不利益を被り続けている可能性はかなり高い。奇跡的に「実はこれまでの選挙結果はすべて最善であり、ほかの政党や候補者が選ばれていたらより悪い事態になっていた」としても、原理の問題として、わたしや他の多くの人々の身体や財産や生活はアホな人々や非道徳的な人々の選択に左右され得る。

 これはたしかにロクでもない。そう考えると、ブレナンによるエピストクラシー擁護論には、(実際に有効に機能するかどうかは別として)説得力を感じざるを得ないのだ。

*1:

抽選で選ばれた見知らぬ人々同士が一堂に会して話し合い議論し合って、時として検察や裁判官たちにもたどり着けなかった真実を明らかにする…『十二人の怒れる男』をはじめとして陪審員制にスポットが当てられたフィクション作品はそんな構造になりがちだが、そのような作品では民主主義と熟議の理想の姿が描かれていると言えよう。

 

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*2:

theeigadiary.hatenablog.com

*3:

 

 

*4:

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選挙権は「力」を与えて「自尊」と結びつくのか?(読書メモ:『アゲインスト・デモクラシー』①)

 

 

 

 著者であるジェイソン・ブレナンの議論については、過去に下記の翻訳記事で紹介している。

 

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 この記事ではやや変則的だが、本書の4章と5章の内容を先に紹介。

『アゲインスト・デモクラシー』は、タイトル通り、市民に等しい選挙権を与える民主主義に反対して、制限選挙制や複数投票制に基づくエピストクラシー(選良政治/知者による支配)を擁護する本。

 ブレナンが民主主義に反対する理由はいくつもあるが、多くの人が同意できる理由としては、「民主主義では望ましい政策が採用されづらいこと」「愚かな人までもが選挙権を持つ政治制度では、争点になっている問題についてきちんと考慮されていなかったりマイノリティのことが配慮されていなかったりするなどの悪い選挙結果が恒常的に生じること」や「エピストクラシーのほうが民主主義よりも望ましい政策が採用されること」「選良の人々に複数選挙権を与えれば、複雑な問題について考慮されたりマイノリティに配慮されたりしている良い選挙結果が生じること」などなど、どんな政策が採用されたりどんな選挙結果が生じるかといった、政治制度がもたらす「結果」に基づく理由であるだろう。

 これに対して、民主主義の擁護者は「民主主義のほうがエピストクラシーよりも有効に機能してよい政策や選挙結果を生み出す」と主張するだろう。それと同時に、民主主義や政治制度には政策や選挙結果以外にも考慮すべき点が存在する、と主張される場合もある。具体的には、すべての市民に平等な選挙権が与えられているということ自体に、政策や選挙結果とは別次元の価値がある、したがって(仮に)エピストクラシーのほうが政策や選挙結果という点では有能ではあっても平等な選挙権に基づく民主主義を維持するべきである、という反論が想定できる。

 4章と5章ではこのタイプの反論を取り上げて、再反論されている。そのうち、印象に残った項目をいくつか紹介(紹介していない項目も多いので、気になった人は書籍を読むように)。

 

●選挙権と「自らの利害関心を促進する力」

 

「政府は、選挙権を持っていない人や政治に参加しない人の利害関心には応答しないから、選挙権や政治参加できる権利には価値がある」という、一見するとごく当たり前な主張。

 しかし、選挙においては膨大な人数が投票することをふまえると、個人としての私たちが持てる影響力はごく僅かである。

 

私たちの票が違いをもたらす確率はほとんどない。政府は、あなたが投票した場合にはあなたを助け、投票しなかった場合には無視するようなものではない。個人としては、私たちの一票は、選出されたリーダーたちが私たちを助けるか、無視するか、危害を加えるかにはなんらの影響も与えない。

 

(p.144 - 145)

 

 個人の一票は選挙結果について「Aが勝ってBが負ける」ということを決定付けはしないとしても、AとBの間の得票数の差には影響を与えるので、間接的に影響力を与える、という「負託」に基づく議論も存在する(もし自分がA(B)に投票していた場合には、そうでなかった場合に比べて市民からのAに対する負託の度合いが上がり(下がり)、勝ち負け自体は変わらなかったとしても自分が投票してなかった場合よりAの影響力は上がる(下がる))。……とはいえ、この負託仮説も、エビデンスを見ると間違っているらしい(実際の政治を見ていても、大勝したか辛勝したかで政策が変わる、とは必ずしも言えなさそうだ)。

 投票以外の方法による政治参加についても個人はほぼ無力である、とブレナンは説く。

 

しかし残念ながら、例外的な情況を差し置けば、私たちの個々の行為にはなんらの知覚可能な効果も存在しない。私たちの誰であっても、その人が仮に参加を差し控えたとしても、さらにいえば反対陣営の応援に参加したとしても、物事はマクロレベルにおいてはまったく同じ仕方で進むであろう。オキュパイ運動の参加者は資本主義に反対するのではなくそれを応援しうる。私は麻薬戦争に反対するのではなくそれを支持するよう主張したり投票したりできる。あなたもまた陣営を移すことができる。平均的な政治ブロガーもまた陣営を変えうる。例外的な情況を除けば、あなたがいかに投票し参加したかにかかわらず、あなたはなんの違いも生み出さない。あなたの参加は、政府をあなたの利害関心に応答するようには変えない。

大規模な集団はデモクラシーにおいて確かに力を持っている(この問題は後の章で扱う)。しかし個人は通常はそうではない。これは実際にはデモクラシーの特徴であり、その機能不全ではない。デモクラシーは個人に力を与えようとするものではない。それは大規模な集団や個人の集合体のためにすべての個人から力を奪おうとするものである。デモクラシーが力を与えるのは私たちであって、あなたや私ではない。

 

(p.147 - 148)

 

●「自律」としての政治参加?

 

 一般に、人間とは自分のことを自分で決めたいと思うものだし、自分で定めたルールに従って生きること…「自律」には価値がある。そして、政治的自由を保持して行使できなければ、わたしたちは政治に関する自律を欠く(他人に委ねる)ことになる。なので政治参加への権利は不可欠だ。

 この種の反論の問題点は、先と同じく、政治に対して個人としてのわたしたちが持つ影響力はごく僅かであること。わたしたちは「お昼にカレーを食べよう」と決意したらほとんどの場合に実際にカレーを食べることができるし、「将来はこんな仕事したい」「あの人と結婚したい」といった社会環境や他者や偶然が関わることについても、自分がどんな意思を持ってどんな行動をするかということもある程度までは影響をもたらす。しかし、政治についてわたしたちの意思や行動がもたらす影響はごく僅かであり、個人は自分の食事や就職や結婚については自律できても政治について自律するということはできない。

 自律論の亜種が「居場所(ホーム)」論である。自分の住んでいる世界(社会)が自分の居場所であると感じるためには、「自分の判断に対して世界(社会)は応答してくれる」と思えることが必要だ。そして、政治参加をすることで「他のみんなと一緒に自分も社会を構築している(変化させたり影響を与えたりする)」と思うことができる。……とはいえ、やはり、実際にはわたしたちは政治参加という手段で社会を構築しているとは言い難い。

 

政治が社会構築の余地を十分に与えない理由の一部は、個々の市民がほとんど無力である点に存する。市民はあまりに無力であるため次のような選択に直面する。マジョリティの立場に従い「好ましい結果をもたらす手助けをする」か、マジョリティの立場に反対し、せいぜいマジョリティの立場への不同意を示す手助けをするかである。この無力さに鑑みれば、政治参加は社会構築に参加するための価値ある方法であるという主張を真に受けることは困難である。

もしあなたがマジョリティの側で投票するのであれば、あなたは選挙結果を生み出すことに参加することとなる。しかし、投票によって与えられる力はまがい物であるようにみえる。次のメタファーを考えてみよう。あなたはビーチで泳いでいるとする。あなたの前に大きな波が立ちはだかる。あなたは踏ん張るか波に乗るかを選ぶことができるが、それを押し戻すことができない。もし波に乗ることを決定するのであれば、あなたは波に参加したとみなすことができ、加えてもし水を押したのであれば、あなたは水の一部が陸により早く到達することを手助けしたとさえ言えるかもしれない。しかしながらこのことがコントロールを共有していることを意味すると考えるのはおかしい。もしあなたが水の中で居場所(ホーム)があると感じるのであれば、それはあなたが水に合わせたためであって、水があなたに合わせたわけではない。

 

(p.156)

 

●「合理性」と「道理性」の涵養?

 

 ここからはジョン・ロールズに対する批判。

 ロールズの議論では、一部の基本的諸権利や基本的諸自由は他の何よりも優先される(これが「自由原理」)。そして、選挙権や被選挙権に言論の自由といった政治的自由は、基本的自由のなかでもさらに特別な重要性を与えられている。

 ロールズは人間の道徳的能力のなかでも「合理性」(自分の人生についての価値観や目標を形成・修正して、それを追求する能力=善き生についての感覚)と「道理性」(物事の正しさについて理解し、その正しさに基づいて他人と協働する能力=正義感覚)がとりわけ重要であると考えており、これらの能力を涵養することのできる自由こそが基本的自由であると考える。

 しかし、問題なのは、基本的自由に関するロールズのリストが恣意的であることだ。……例えばロールズは資本主義については冷淡であり、私有財産を持つ権利と職業選択の権利以外は基本的諸自由にカウントしない(場合によっては取り上げられるべき自由や権利と見なす)が、契約の自由や生産財を所有する権利も、合理性や道理性を涵養すると主張することはできる。たとえば、工場を所有して運営することは、その人の人生の目標や価値観に関わる能力を発展させることは間違いないだろうし、運営を通じて正義感覚を成長させることもできそうだ。

 これに対する反論は、「工場を所有したい」という価値観自体が一部の人にしか共有されず、すべての人の人生にとって工場所有(生産財を所有する権利)が重要になるわけではないから、それを基本的自由とは見なせない、というもの。しかし、それを言い出すと、選挙権や言論の自由だって、すべての人の人生にとって重要なものではない。……たとえば、ブレナン自身、自分は「善き生についての感覚」と「正義感覚」を適切に涵養してきたと自認しているが、それでも選挙権や政治参加の権利には関心がないそうだ(わたしだってそうである)。

 

実際に、([サミュエル・]フリーマンが考えるような、すべての人間はもちろんのこと)典型的な人にとって二つの道徳的能力を涵養するために厳密な意味で必要な自由はほとんど存在しないように思われる。はなはだしく権威主義的であるか全体主義的な体制のもとで生きる人々は、私に比べて道徳的能力を涵養させるための適切な評価的視点へとアクセスすることがより困難であるかもしれないが、そのような国家においてもそれは不可能ではないし、それほど困難でもないかもしれない。二つの道徳的能力を涵養するためには、言論の自由も、婚姻の自由についての諸権利も、結社の自由も、政治的自由もほとんど必要ない。選挙権も被選挙権も必要ない。完全な人身の自由も必要ではなく、国家の当局者による身体的ハラスメントから自由である必要もない。職業選択の権利も必要ない。実際に、ほとんど自由を持たない人々が二つの道徳的能力を涵養することは容易に想像できる。ストア派の哲学者エピクテトスは歴史上のほとんどの人々よりも二つの道徳的能力を涵養したと言えるかもしれないが、彼は文字通り奴隷でありながらそれを成し遂げた。アレクサンドル・ソルジェニーツィン全体主義的体制に行き、またグラグに投獄されていたにもかかわらず二つの道徳的能力を涵養した。彼は、基本的諸自由を奪われていたまさにそれゆえにそれほどまで二つの道徳的能力を涵養したようにみえる。そして、ほとんど自由を欠いていたにもかかわらず二つの道徳的能力を涵養した人々についてのほかの歴史上の例は容易にみつけることができる。したがって、もしロールズとフリーマンが、なにが自由を基本的にするかについて正しかったのであれば、基本的にはなにも基本的自由ではなくなる。実のところ、すべての人にとっての道徳的能力の涵養のために厳密に言って必要な自由など存在しない。

 

(p.171 - 172)

 

 このような主張に対して、二つの道徳的能力を涵養するだけでなく行使するためには政治的な権利や自由が必要になる、と反論することはできる。……しかし、経済的な権利や自由などに基づいて行使することもできるから、政治的なそれが不可欠になるわけではない。さらに、政治的なものにしぼっても、価値感覚や正義感覚の行使という点については言論と結社に関わる自由や権利のほうが選挙権よりも断然に重要であるから、この論法で選挙権の重要性を主張することはできない。

 

●政治に対するシニシズム

 

二〇一五年のモンマス大学の世論調査は、変化を起こす手段としての価値が個人の政治参加にあるかについてアメリカ人がますます懐疑的になってきていることを明らかにした。五四パーセントは「非政治的活動に携わることの方が周囲の世界により影響力を持つことができる」と信じており、たったの「二八パーセントが行政と選挙に携わることが自らのコミュニティに変化をもたらすための方法であると答えた」。一部の人々はこれをアメリカの公衆がシニカルになってきていることの証左として捉える。それはそれで正しいのかもしれない。しかしながらこのケースにおいてシニシズムは公衆の信念をより現実的で理にかなったものに変えているのである。

 

(p.182)

 

 共和党民主党かが数年に一度はガラリと変わるアメリカはまだマシであり、国政選挙でも一部の地方選挙でもずっと変わり映えのしない状態が続く日本の場合には政治に対するシニシズムはさらに強力になっているだろうし、それはブレナンの書くとおり「現実的で理にかなったもの」でもあるだろう。

 また、わたしが二十代の頃、同級生の友人たちは、初めて選挙権を取得して意気揚々と選挙に行ったこととその結果を見て落胆したことをmixiの日記に書いていた。自分が参加しているはずの選挙で全く自分の思い通りにならない結果が出るというのはショックなものであるようだし、選挙によって社会や政治に対する失望がむしろ増してしまう、というのは充分にあり得る話だろう。

 そして、このくだりを読んで思い出したのが「まじめな人ほど選挙で投票しない」という問題だ。

 

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 (著者の)モンダックによると、責任感や誠実性が高い人たちは、陪審員に選ばれたときにその務めを果たす可能性は高い。だが、実のところ、そのような人たちが選挙で投票をおこなう可能性は低い。もしかしたら、責任感や誠実性が高い人たちは投票について慎重に考えたうえで、「自分が投票をしたところで何かが変わるということはほとんどなく、だから政治は自分の時間を割くに値するものではない」と判断したのかもしれない……とモンダックは言う。

https://news.illinois.edu/view/6367/205571

 

 

●「自尊」と政治

 

ロールズとフリーマンは、単にデモクラシーが市民の公共的平等を表明する一つの方法であると断言しているのではない。彼らは、デモクラシーがこの平等の表現にとって肝心であると考えているのだ。ロールズと(ロールズに賛同している)フリーマンは、相対的に不利な立場にある者が選挙権を放棄することは、もしそのことがその者たちの厚生を大いに改善するとしても、不合理なことであろうと信じている。なぜなら、それは「恥辱を与え、」「自尊にとって破壊的であり、」そして不利な人々が従属的であるという考えを表すだろうから。

これらの自尊規定的なデモクラシーの擁護論には、どこか奇妙なところがある。市民に選挙権を与えることは、市民に自分自身に対するいくばくかの権力を与えるのみならず、他者に対するいくばくかの権力をも授けるのだ、ということを思い出してほしい。それは市民を、人々を振り回し、その意志に反して様々なことを行うよう強いることのできるような集合体の一部とするのだ。ある人や諸集団に、見知らぬ人々に対するコントロールの権利ーー弱いコントロールの権利だとしてもーーを与えることは正当化を必要とする。

デモクラシーはポエムや絵画ではない。デモクラシーは政治システムなのだ。それは根底においては、正統な暴力の独占を主張する制度が、どのように、いつ暴力を行使するかを決定する方式である。ロールズ自身が信じるように、政府と政治的構造は、協働の便益を保障し、正義を促進し、平和を保障することを促すためのものである。それらは第一義的には、自尊心を高めたり、維持したり、制御したりするための制度ではない。

 

(p.209 - 210)

 

 つまり、デモクラシーが「一義的な目的(協力の維持や安全保障や再分配など)のためによく機能する政治システム」であるだけでなく「参加している人々の自尊を高める」という二次的な機能を持つとしても、後者そのものは、政治システムを採用する根拠として前者に優先されるものではない、ということである。

 ここで私見を述べると、歴史的には、人々がデモクラシーを求めるのは前者よりも後者を求めてのことである、というの主張は成立する可能性があると思う(たとえばフランシス・フクヤマの議論を参照すれば、デモクラシーは人間に備わる「対等願望」(≒自尊感情)をうまく充足させるから多くの国で採用されるようになった、ということになるだろう)。

 また、「同じ国のなかで、自分が属している集団の人々には選挙権がないのに別の集団の人々には選挙権がある」という状況は、実際に自分の利害関心が考慮されづらくなって著しい不利益を被るのみならず、その差別的な状況自体が自分に対する甚大な侮辱として感じられるだろう。サフラジェット運動や公民権運動などの背景にもこのことは関わっているはずだ*1

 本書で提示されるエピストクラシーは理念的・規範的なものであり、男性にしか選挙権がない社会や白人にしか選挙権がない社会といった恣意的な基準により選挙権が分配されていた、過去に実際に存在した社会の政治システムは全く異なること、これまでの社会では実現されたことのないものであることには留意しておいてほしい(もちろん、ロールズの提示するような理想的なリベラル・デモクラシーも実際にどこかの社会で実現されたことがあるわけではなく、「理想的なデモクラシー」に対抗して「理想的なエピストクラシー」をぶつける…規範論・正義論なので…という構図である)。

 

 とはいえ、エピストクラシーは「ある人は別の人よりも政治に関する判断力や知識に優れており、より良い投票ができる」という意見を表す(「ある市民たちは他の市民たちよりもよい政治的判断力を有するという考えをはっきりと表す(p.199)」「ある市民たちが他の市民たちよりも劣った規範的ないし政治的判断力を有する、という見解を表す(p.200)」)。ロールズ以外の学者たちでも、ある市民の政治的判断力は他の市民より優れている(劣っている)と見なすこと自体を批判したり、そう見なすこと自体は許容できるとしてもその意見を表すことを批判する人はいる…「劣っている」とみなされた側の市民に対して侮辱的であったりするからだ。

 これに対して、ブレナンは、政治に関するもの以外の職業的知識のアナロジーで答えている。たとえば、配管工は配管についてブレナンよりも優れているし、経済学的推論についてはブレナンのほうが優れているが、このこと自体は、ブレナンが配管工のことを人として自分より優れているとも劣っているとも思う材料にならない。

 また、ある医者がデパートで買い物をしているときに目の前の人が喉を詰まらせて倒れた場合には、医者は「自分が医者である」と周囲に宣言したうえで倒れた人を救うべきだろう。さらに、「倒れた人を助けたい」と思った善意の素人が余計なことをしようとした場合には、その素人の行為は止めるべきである。これらのことは「自分は医学に関してあなたたちよりも優れた知識がある」と周囲や特定の相手に対して表明することを伴っているが、人の命がかかっていることをふまえると、それ自体は全く問題にならない。

 

…もしデモクラシーの危険性とエピストクラシーの長所についてのエピストクラシー支持者たちの考えが正しいならば、自分はより優れた医学的判断力を有するのだという見方をデイヴィッド[医者]が表明したことが正当化されたのとちょうど同じように、ある人々が他の人々よりも優れた政治的判断力を有するという見解を表明することは正当化されるのである。もしこのことが投票者たちの気に障るならば、投票者たちは上述の例におけるボブ[善意の素人]と同様に振舞っているのであり、それを我慢する道徳的責務を負うのだ。私たちは、単に人々が自身の政治的能力について気にしているとか、それについて正当化されない信念を有するとかいった理由で、国の喉が詰まるままにしてはならない。政治についてある人々が他の人々よりも優れた判断力を有するという見解を表明することを避けるために、私たちはより正義に適っていない政策や、不正な戦争が引き起こされるより大きな見込みや、より深刻な貧困といったものを甘受すべきだ、などと言うことは、とりわけそうした〔ある人々が他の人々よりも優れた政治的判断力を有するという〕判断が真であるような場合には、奇妙なことである。

 

(p.205)

 

 また、「自尊や社会的地位の平等のために、平等な選挙権が必要だ」という主張は「女をあてがえ論」と同じ論理に基づいている、と指摘するくだりも印象的だ。

 

…今日のアメリカの男性にとって、一般的に言って魅力的であるような多くの女性とセックすることは大きな社会的地位をもたらすものである。対照的に、もしあなたが四十歳の異性愛者の童貞であれば、あなたはジョークの的になる。人々はあなたを負け犬と呼ぶだろう。さて、ある四十歳の童貞であるアンディが、不本意にも性的関係に無縁であることを深く恥じ入っていると仮定しよう。そのような場合においてさえ、私たちは、アンディの社会的地位や自尊心を保護するためといって、女性の身体に対する一定のコントロールをアンディに授けるべきではない。これは関連性のない例に見えるかもしれないが、そうではない。政治的権力は、他の人々の身体に対するコントロールなのだ。現代の諸政体は、人々がなにを食べてよいかについて、どのような薬物を使ってよいかについて、どこへ行くことが許され、どこへ行くことが要請されるかについて、そして他の成人と同意に基づいてセックスしてよいかどうかについてさえ、より多くの決定を下している。

ある人々に他の人々よりも少ない政治的権力を授けることや、全員に等しい政治的権力を与えないことが、人々の自尊心を害したり、人々の相対的な社会的地位を下げたりすることを私たちが認めたとしても、このことがなぜ正義の観点から問題であるのかはいまだ明らかではない。私たちは、上述の他のケースでは、人々の社会的地位や自尊心を保護するためといって、他者に対するなんらの権力もコントロールもその人々に与えることが適切であるとは考えない。したがって私たちは、選挙権と被選挙権は〔上述のケースとは〕異なるのだ、ということを示すさらなる議論を必要とする。

 

(p.211 - 212)

 

 人々の自尊心を考慮すべきだという、一見すると優しくて文句の付けようもない議論は「あてがえ論」のようなグロテスクな論理に通じる、という(やや意地悪な)論証は、公正や正義の概念を抜きにして人々の「主観的苦痛」に配慮しようとするフェミニズム政治理論は「女は男に仕えろ」という主張にまで耳を傾けざるを得なくなる、というキムリッカの議論を思い出させるものである。

 

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 実際のところ、政治哲学の専門的な議論という領域を超えて、正義や公正を棚上げしながら人々の「生きづらさ」や「モヤモヤ」に寄り添おうとする優しい議論が流行っていることが、裏返しとしてのグロテスクな議論を隆盛させている、という側面はあると思う。

 

●政治的地位が重要に思えるのは「たまたま」

 

 実際問題として、現在の社会では、人々は選挙権や政治的地位にその機能以上のものを感じている。多くの人は大臣や大統領のことを他の人よりも優れた人間であるかのように思ってしまうし、「あなたは政治的判断力に欠けているから投票する資格がありません」と言われた人は「あなた人として劣っています」と言われたときのようなショックを受けるだろう。

 しかし、ブレナンに言わせれば、わたしたちが政治的地位や選挙権に多大な意味を見出しているのは、これまでの歴史を通じて偶発的に登場した社会的慣行に過ぎない。

 たとえば、「18歳になった若者には政府から国民の証として赤いスカーフが発行されるが、同性愛者だけにはスカーフが発行されない」という慣行が存在する国があったとしたら、この慣行は同性愛者の社会的地位を引く見なすように人々を仕向けてしまうだろうし、同性愛者たちやアライは「同性愛者にもスカーフを発行するべきだ」と求める運動をするだろう。

 このような慣行がある場合には、赤いスカーフを持てるかどうかは、多くの人々の意識のうえでは実際はかなり重要な意味を持つことになる。

 ……それと同時に、「赤いスカーフそのものには全く意味がないし、スカーフを持てるかどうかはその人の地位や尊厳とは全く関係しないのだから、スカーフに過剰な意味を見出すことは馬鹿げている」と考えて、主張することはできる。

(話がズレることになるが、日本で同性婚を支持する人の多くは、婚姻制度に関してかなり近いスタンス…同性婚を求める運動をしながら婚姻制度そのものの重要さは否定する…をとっているだろう)。

 そして、赤いスカーフに対して持つのと同様の考えを、選挙権に対して持つこともできるはずである。

 実際、大臣や大統領のことを「人として優れている」とは全く思わない人もいっぱいいる(ブレナンもそうだしわたしもそうだ)。現在の社会では政治的地位や選挙権はたまたま重要視されているが、そう考えないことも論理的には可能であるのだ。

 

 最後に、第5章の「結論」部分から引用。

 

ハンマーを良いものとするのはなんであるのかを私たちが尋ねるとき、私たちはそれがどれだけよく機能するかによって判断する。ポエムを良いものとするのはなんであるのかを私たちが尋ねるとき、私たちはしばしば、それが象徴し、表す事柄によって判断する。人を良い人にするのはなんであるのかを私たちが判断するとき、私たちはよく、人々には目的自体として価値があるのだと言う。私が見るところ、政治的諸制度は、人やポエムというよりはハンマーのようなものである。制度は道具なのだ。私たちが平和と繁栄のもとに共に暮らすことを助けてくれる制度は良い。私たちがそうすることを他の選択肢に比べて妨げるような制度は、それらがなにを象徴するかにかかわらず、それらを支持する理由を私たちにほとんど与えてくれはしない。

 

(p.231)

 

*1:わたし自身はアメリカ人である自分に日本における選挙権がないことを自分に対する侮辱だとは感じていないが、これは、「特別な歴史的経緯(植民地主義など)がない限り、外国人には選挙権を付与しないこと」自体は、他の国々でも採用されている、ある程度の合理性があるルールだと判断することができるからである。

読書メモ:『リベラルとは何か 17世紀の自由主義から現代日本まで』

 

 

 

ワークフェア競争国家

 

「ワシントン・コンセンサス」は、「底辺への競争」論とともに、新自由主義が世界を席巻しつつあることの象徴として語られてきた。しかし、これらは1990年代以降の先進諸国の実態とは必ずしも対応していない。すでに第1節で見たとおり、先進国の多くでは、税収も公的社会支出も減っておらず、「底辺への競争」は見られないからである。

さらに、「ワシントン・コンセンサス」もそのままあてはまるかどうか疑問である。たしかに、1980年代のアメリカやイギリスでは新自由主義的改革が試みられた。しかし、どちらの国でも「小さな政府」は実現できなかった。国内で格差が広がると、新自由主義への反発が強まり、1990年代に入ると政権交代が起こった。経済界、金融財政エリートの意向だけでは、新自由主義への同意を調達しつづけることはできなかったのである。

1990年代以降、新自由主義を部分的に修正し、より広い社会層の同意をもたらすことに成功したのは、アメリカの民主党、イギリスの労働党などの中道左派政党だった。これらの政党は従来の支持層、つまり労働者やマイノリティ層から自らを切り離し、グローバルな経済競争に直面する産業セクターで働く中産階級を支持層へと組み込もうとした。こうして登場したのが、グローバルな経済競争に積極的に適応し、人びとを就労へと駆り立てるような新しい国家像、すなわち「ワークフェア競争国家」だった。

 

(p.83 - 84)

 

ワークフェア競争国家の特徴は以下の三点。

 

 -国際競争に打ち勝つための経済的・社会的な条件を国家が積極的に作り出す。

-貧困層・低所得層に対する福祉が、無条件な「市民としての権利」ではなく「就労という義務」に結び付く。

-国家は民間アクターと協力する(多国籍企業との協力や、公共サービスへのNGOや民間企業の参入)

 

ロールズ関連

 

新自由主義を唱える論者が、個人の自由や選択の自由を重視したのは、それが全体の進歩や繁栄につながると考えたからだった。新自由主義が実践に移されると、経済的な繁栄が至上の目的とされ、その目的に向かって個人が動員されるようになった。一方、ロールズによれば、すべての個人は尊厳を持ち、その自由な意思が蹂躙されてはならない。個人の自由の保障は全体の繁栄に先立つ。

 

(p.94)

 

新自由主義」を批判する議論のご多分に漏れず、藁人形論法っぽい物言いだと思う(新自由主義者も個人のことは重視しているけど「自由」の捉え方がロールズとは異なるだけ、かもしれないじゃん)。

 

一見すると「財産所有の民主制」は、福祉国家と変わりがないように見える。しかし、両者の間には根本的な違いがある。福祉国家の本質とは、事後的な分配である。

[…中略…]

一方、財産所有の民主制は、事後ではなく事前の分配を行う。つまり、すべての人が人生の出発点において人生の目標を選び、それを自由に追求できるような条件を整備する。そのためには形式的な機会均等や、相続税贈与税の設定だけでは不十分である。人的資本、つまり知識、技能、教育水準を平等にそろえるため、恵まれない人により多くの教育投資が行われなければならない。もっとも重要なのは、「自尊」の感情をすべての人に保障することである。自尊の感情とは、意義ある人生の目標を選ぶことができ、社会の中でそうした目標を追求し、達成できる能力を自分が持っていると信じられることである。こうした意味での自己自身への信頼の感情こそ、自律を実現する鍵であり、「もっとも重要な基本財」とされた。

 

(p.100 -101)

 

…[エリザベス・]アンダーソンの議論は、この「自尊」の中身をさらに明確にしたものととらえることができる。各自が自分の人生の主人公となり、自らの人生を選択できるようになるためには、就労につながる知識や技能が保障されるだけでは不十分である。民主的社会における市民として、集合的な意思決定に平等に参加できること、そのために必要な知識・情報、自己表現能力、公共空間への実効的なアクセス等が保障されることが必要である。これによってはじめて、個人は自尊の感情を持てるようになる。

 

(p.106 - 107)

 

 以前にも思ったが、政治思想家たち(ロールズやアンダーソンにサンデルなど)は「社会制度」や「政治参加」が人々の「自尊」にもたらす効果を過大評価する傾向があるように思える。政治思想家たちは政治のことが好きで政治を大事に思っているから政治参加できないと自尊の感情がなくなるだろうけれど、わたしもわたしの周りの人たちも、ほとんど政治参加していないけれど自尊の感情を保てている。また、社会制度が人々の感情に影響するという点はある程度までは同意するけれど、人間は環境に影響される生物であると同時に環境から切り離された内面を持つ生き物でもある。それに、「社会制度が人々の感情を救う」と政治思想家が豪語することにはなんだか烏滸がましさも感じる。

 

●インサイダーとアウトサイダー、新しい社会的リスク

 

…現代の先進国では、働く人の間で「インサイダーとアウトサイダーの二分化」が進んでいる。安定した正規労働に従事するインサイダーは、雇用保護、社会保障の維持を求める。一方、不安定な労働に従事するアウトサイダーは、政府による就労支援、再分配の拡大を求める。このようにインサイダーとアウトサイダーは異なる政策選好を持っている。

 

(p.108)

 

「インサイダー/アウトサイダー」という軸に加えて、グローバル化とともにコスモポリタニズムや普遍的人権論を背景とする「リベラル」と伝統的な共同体への郷愁を軸とする「保守」という文化的対立の軸も存在。

 また、工場労働者やマニュアルに沿った事務労働者は保守的な志向になる一方で、裁量の大きい高技能サービス職や専門職はリベラルな志向を持ちやすい。さらに、経営者や管理職は市場を重視するが、末端の労働者は国家による再分配を重視する。たとえば自営業者は文化的には保守だが市場を重視することになる。

 

高技能のサービス業、専門職に就く人びとは、リベラルな分配政策を支持する。すなわち、従来の福祉国家が対象としてきたような、男性稼ぎ主の所得喪失リスクに対応する政策(失業給付、年金など)ではなく、働き方の多様化、女性の就労と家族の多様化に対応する政策、言い換えれば「新しい社会的リスク」に対応する子育て支援、教育、就労支援策を支持する。

[…中略…]

さらに重要なのは、これらの政策が「新しい社会リスク」にさらされたアウトサイダーの利益にもなるという点である。つまり「新しい社会リスク」に対応する政策を推進するという点で、リベラルな価値観を持つインサイダーは、アウトサイダーと政治的に連携する可能性を持つのである。

 

(p.113 - 114)

 

●社会的投資(事前の再分配)の問題点と対策

 

…育児ケア、教育、就労支援といった政策には「マタイ効果」があると指摘される。マタイ効果とは、豊かな人がより豊かになり、貧しい人がより貧しくなるという意味である。育児ケアや公教育を広く行えば行うほど、それらのサービスから利益を得るのは中上層の人びとになりやすい。たとえば、誰もが公的な育児ケアサービスを受けられるようになると、中上層の人びとはそれを利用して共稼ぎを続け、より多くの所得を得ることになりやすい。どの国でも、似たような学歴や職業を持つ人同士の「同類婚」が増えているからである。また高等教育では、中上層の子弟が多くなるため、公教育の充実(授業料の無償化など)を行うと、中上層ほど恩恵を受けやすい。さらに、教育水準の低い人や移民労働者は、学習能力や言語能力が相対的に乏しいため、職業訓練の効果が現れにくい。「投資」という観点からすると、効果の乏しい人は支援対象から外れやすくなってしまう。

 

(p.117 - 118)

 

 というわけで、リベラルは「社会的投資」以外の政策も実施する必要がある。

 その一つめは、「新しい社会的リスク」(不安定で多様な職業生活やライフスタイル)に柔軟に対応するための、年金制度改革。中所得層以上の公的年金の一部は私的年金に切り替えつつ、年金を受給できる層を拡大したり、税を財源とした最低保障年金を整備して低所得層を救済すること。

 二つめは、多様な働き方を支えるための労働市場改革。労働時間の柔軟化や雇用保護の縮小もセットで行われるためにインサイダーは不安を感じるが、現状ではアウトサイダーだけが不安定な雇用に就くことを強いられているし、インサイダーとアウトサイダーの二分化が激しい社会ではインサイダーも長時間労働を強いられるので、なんとかインサイダーとアウトサイダーを連携させる(社会運動と労働組合を連携させる)ことでなんとかする。

 三つめは(年金の他の)最低所得保障。

 

…多くの研究で指摘されているのは、アウトサイダーが既存の政党に強い不信感を持ち、政治からの疎外感を抱いているということである。もし既成政党がインサイダーの利益のみを重視し、雇用保護や「古い社会的リスク」向けの医療・年金の維持強化に終始するなら、アウトサイダーの多くは政治参加(投票)を諦めるか、抜本的な変化を求めて極右、極左ポピュリズム政党を支持するようになるだろう。

(p.126)

 

●排外主義と福祉

 

 本書の第5章「排外主義ポピュリズムの挑戦」では、排外主義政党は1980年代までは市場主義だったのが現在は「文化的保守(排外主義)+国家による(自国民優先の)福祉」を政策として唱えるようになったことや「民族的な多様性と国家の再分配への支持低下の間には相関がある」という指摘などを受けつつも、「手厚い福祉制度こそ、社会の分断や多様性を乗り越え、人びとの連帯意識を作り出すことに寄与する」という主張が取り上げられる。低所得層だけでなく中所得層も公的福祉の対象になったら、福祉の受給者たちを「自分たちとは違う存在」と見なさなくなり、福祉や移民制度に対する指示が上がる。逆に、低所得層や移民しか受給できないような「選別的」な福祉制度では分断が生じて支持が下がる。アファーマティブ・アクションなども、選別的であるがために政策への支持が下がり、政策そのものが持続しなくて逆効果となる。

 

 …などなど。序盤にも書いた通り「新自由主義」に対する批判についてはわたしは疑ってかかっているし、人間がフリーライダーという存在に対してもつ根本的な嫌悪感のことを考慮すると、福祉が就労の義務とセットになる「ワークフェア国家」のことを批判しても仕方がないと思う(福祉の対象を拡大すること自体はよくても、就労の義務がセットにならないなら、また新たなる憎悪や分断が生じるはずだ)。また、「事前の再分配」を強調するくだりもやや理想論が過ぎるような気がする。

 とはいえ全体的にはバランスが取れていて参考になる本だと思う。めんどくさいのでこの記事では省いたが、第1章でリベラリズムの思想史が簡潔に紹介されるところもよいです。

「だれを好きになるか」を批判の対象にしていいのか?(読書メモ:『すごい哲学 世界最先端の研究が教える』

 

 

 献本してもらったので読んだ。十数人以上の若手日本人哲学者が「サステナブルなファッションを選ぶにはどうしたらいいか?」や「小説を読むことで人はやさしくなれるのか?」といった具体的かつ詳細なトピックについて、(主に海外の)最新論文を紹介しつつ3〜5ページで短く論じる、という本。

 全体的に執筆者たちは自分の書いているトピックについて距離がとれており、冷静であっさりした文体が多い。「まえがき」では「少し変わった哲学の入門書」とされているが、哲学の考え方や方法を体系的に学べる教科書といったものでもない。全体的なとりとめのなさから、「哲学・倫理学の与太話集」といった表現のほうが合っている気もする。

 

 とくにわたし自身の生活や人生経験に関わるものとして興味のあるトピックを挙げると、「マッチングアプリで好みでない人のタイプを書くのは差別か?」(長門裕介)と「「アジア系フェチ」に何の問題があるのか?」(木下頌子 )。前者に関しては現代ビジネスで記事にもなっている。

 

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また、イギリスのグラスゴー大学のロビン・ゼンは、これまでに差別されてきた特定の人種だけが負わなければならない心理的な負担も問題にしています。つまり、他人からの評価が上がったり下がったりした場合、白人であればそれを単純に「自分のこれまでの行いによるもの」と考えればいいのに対して、これまでに差別されてきた人種は「自分のせいなのか、人種のせいなのか」「差別と考えるべきか、無視するべきか」といちいち悩まなければならない、というわけです。

このことはプライベートな空間、つまり誰とデートするか、といった場面でも当てはまります。

 

(p.17)

 

 また、ロビン・ゼンの議論は後者でも紹介されている。

 

…ゼンによれば、イエローフィーバー[アジア系女性を好み、アジア系の女性とばかり付き合う白人男性を揶揄するのに使われる言葉]の道徳的な問題を理解するには、こうした好みが本人の人種差別的な考えに起因するかどうかという問題だけでなく、多くの人がこうしたこの好みをもつことの社会的影響を考慮することが必要なのです。

例えば、ゼンは、多くの白人男性たちがイエローフィーバーをもつことは、アジア系女性に大きな心理的負荷を与えると指摘しています。ゼンによれば、白人男性に好かれるアジア人女性は、「本当に自分のことが好きなのか、それともアジア系だったら誰でもよいのか分からない」という疑念をもつことを避けられません。そして、こうした疑念による心理的負荷の問題は、仮にイエローフィーバーの男性が人種差別的な考えをもっていなくても生じる問題です。

さらにゼンは、多くの白人男性がイエローフィーバーをもつことは、仮にこうした人々が差別的な考えを持つわけではないとしても、結果として社会的ステレオタイプを強化してしまうと論じます。実際、「イエローフィーバー」という言葉が流布しており、白人女性を好む「ホワイトフィーバー」という言葉は見当たらないことから、少なくとも英語圏の社会の中に、「従順なアジア系女性と、そうした扱いやすい女性を好む白人男性」といったステレオタイプが流通していることは間違いなさそうです。こうした状況で、多くの男性がアジア系女性をまさにアジア系であることを理由に好むことは、こうした社会的なステレオタイプをさらに強固にするように思われるのです。

以上のように、ゼンは、イエローフィーバーの道徳的問題を、それがもたらす社会的影響に注目して明らかにしようとしています。こうしたゼンの観点は、「性的な好み」という、しばしば個人的な問題に還元されがちなものの問題を考える上で、とても貴重なものだと言えるのではないでしょうか。

 

(p.135 - 136)

 

 さっそく苦言を呈することになるが、本書は「海外(ほとんどが英語圏)の論文で行われている議論を紹介する」というコンセプトであるがゆえに、日本の一般読者の生活や問題意識とは乖離した内容になっている章も多い。

 たとえば、日本におけるマッチングアプリについて「人種」が問題になることなんてほとんどないだろう。「「背の高い人」に対する好みをアプリの中で表明することは、通常はそれほど道徳的に悪いことだとは思われていないでしょう。」(p.16)と書かれてはいるが、SNSなどでもわたしの実際の友人たちとの会話においても、身長の高低で相手を選ぶことに関する議論のほうが人種よりかはまだしも話題になっている。

 そして、なんといっても恋愛・結婚のパートナー選択に関して日本で話題になっているのは、女性が男性を選ぶ際の「年収」という要素だ。

 いわゆる「弱者男性論者」の人たちが、女性たちが年収の高い男性と結婚したり恋愛したがりする傾向を「上昇婚」志向として批判する、という問題についてはわたしもこのブログや他メディアの記事で何度か扱ってきた*1

 この問題に関する現在のわたしの意見は、以下のようなものである。

 

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しかし、その理由がなんであろうと、「女性は(高収入であっても)自分より収入の高い男性と結婚したがる」という傾向はあくまで統計的なものだ。おそらく、女性の上昇婚志向は低収入な男性が結婚できないという状況を生み出す原因のひとつではあるだろう。しかし、個人としての女性たちが、自分たちの性別の統計的な傾向が原因で生じている問題の責任を負うべきだとは限らない。

そもそも、とくに恋愛や結婚という事象においては、だれと恋愛してだれと結婚するかを選択する自由は、個人が有意義な人生を過ごしたり幸福を感じたりするうえで核心的なものとなり得る。「意に沿わない相手と結婚するくらいなら独身であるほうがマシだ」という信念は女性にとっても男性にとっても一般的なものであるはずだ。

高い収入や高学歴、あるいは社会的地位を異性に求める女性がいるという事実は、多くの男性にとっては不愉快なものである。しかし、男性が異性に対して行う「選り好み」も、多くの女性にとっては不愉快に感じられるだろう。

 

 この考え方はごくごくオーソドックスなリベラリズムに基づくものでもある。

 自由というものは人間にとって特別に大事なものなので、「他人を傷付ける自由」や「他人の自由を妨げる自由」といったものでない限り、制限してはいけない(これは「危害原則」と呼ばれる)。

 そして、個々人の「だれを好きになるか」あるいは「だれと結婚するか」という選択はとくに重要なものであるから、それを制限したり操作したりしようとする社会はひどく抑圧的である。

 また、すくなくとも一昔前までのリベラリズムでは、不愉快に感じたり悩んだりする程度のことは、自由を制限するのを正当化できるような「危害」にカウントされていなかった、ということも失念すべきではないだろう*2

 

 しかし、「アジア系女性フェチの白人男性」を批判するロビン・ゼンの議論を認めるなら、「高収入男性を求める(低収入男性を回避する)女性」を批判する弱者男性論も認めなければいけないことになりそうだ。

 アメリカにおいてアジア系であるのと同じように、日本において低収入であることも「心理的な負担」やその他諸々の精神的葛藤やストレスを生じさせているはずだろう。また、日本には現に「高収入の男性と、そうした男性を好む女性」といったステレオタイプが流通していることは間違いなさそうだ。こうした状況で、高収入の男性を多くの女性がまさに高収入であることを理由に好むことは、こうした社会的なステレオタイプをさらに強固にするように思われる。それがもたらす社会的影響を考えたら、女性の「上昇婚」も道徳的に問題だと批判できるのはないだろうか?

 ……もちろん、わたしとしては、ゼンから批判される白人男性たちも弱者男性論に批判される女性たちも、「社会的影響なぞ知るか」と言って批判を突っぱねるのが正しいと思う。

 

 また、日本で生まれ育ち日本に暮らしている白人男性としては、本邦には欧米の「イエローフィーバー」とは逆の現象…つまり「白人男性(または外国人男性全般)を好み、白人の男性(外国人男性)とばかり付き合う日本人女性」が存在することは指摘しておきたいところだ。ちなみに、数は少なくなるかもしれないが、「黒人男性を好み、黒人の男性とばかり付き合う日本人女性」もしっかりと存在している。

 さらに、一般論として、恋愛においては多くの場合に女性のほうが「選ぶ側」になりやすいことも指摘しておこう。ごく当たり前の現象として、(一定の年齢までの間は)女性のほうが男性よりも言い寄られる機会や相手から好きになられる機会が多く、パートナーの候補が複数人存在する。そのなかから誰を選ぶかというのは本人の選択だ。すると、白人男性とアジア系女性が付き合うことで「社会的ステレオタイプ」を強化させてしまうことの責任は、ある程度以上はアジア系女性の側にも存在するように思われる。

 話を日本に戻すと、わたしは「白人男性を好み、白人の男性とばかり付き合う日本人女性」のことを一概に否定したくない。なぜなら、女性に比べて「選ばれる側」の性であり、さらに収入や身長など他の要素はパッとしない身分としては、自分の人種のおかげで異性と出会えたり付き合えたりするチャンスが増えるのはラッキーなことであるからだ

 わたしとしては、相手に対して「本当に自分のことが好きなのか、それとも白人だったら誰でもよいのか分からない」という疑念をもつことよりも、モテないことのほうがよっぽどつらい。日本に住んでいるほかの白人男性たちのなかにも同じような人はいるだろうし、欧米に住むアジア系女性のなかにすら「イエローフィーバーのおかげでモテてラッキーだわ」とあっけらかんに捉える人はいるだろう。

 

 そして、ゼンの議論の大前提になっている、「本当に自分のことが好きなのか、それともアジア系だったら誰でもよいのか分からない」という疑念をもつことによる「心理的負荷」という問題も、冷静に考えたらよくわからない。

 だって付き合っているんでしょ?うじうじと一人で疑念を持たずに彼氏に聞けばよくない?もちろん相手ははぐらかしたりごまかしたりするだろうけれど、態度や言動や表情から「やっぱりこいつはわたしそのものじゃなくてわたしの人種が好きなんだな」と判断できることもあるだろうし、そうしたら別れたらいいじゃん。相手に対して本音を聞こうとするための勇気や、相手の本音を推し測って察するための知恵は、人種とか性別とか関係なく恋愛をする人には必要とされるものだし、勇気や知恵を持たないことのツケは本人が被るべきでしょ。若い人同士の恋愛だったら互いに成熟していないから難しいかもしれないけど、人種の問題に関わらず若い人同士の恋愛って難しくて失敗が付きものだし、そこから教訓を得て成長するのが人間というものだし。

 わたし自身の経験を振り返れば、「わたしが白人だからこいつはわたしと付き合っているんだな」と判断できる相手もいれば、「人種以外のところに魅力を感じてわたしと付き合っているんだな」と判断できる相手もいた。さらに、前者についても、恋愛を通じて「白人であること」以外のわたしの魅力を相手に伝えたり、何度もデートしたり会話したりして関係性を築くことで、「キミが白人であることをついつい忘れちゃうわ」「いつの間にかキミの人種を意識しなくなった」と言ってくれるまでに至ったケースもある。

 ……わたしの友人には身長が190cm近い高身長男性がいるが、彼も「高身長男性を好む女性たち」に関して同様の経験をしているようだ。そして、もちろん、欧米に住むアジア系女性にだって同様の経験をすることはできるはずである。むしろ、出会った当初や付き合いはじめた当初のイメージや偏見を乗り越えて互いに理解を深めて、「相手はどんな人間であるか」を知りつつ「自分はどんな人間であるか」ということを知ってもらえるのが、恋愛の醍醐味というものであろう。

 恋愛とは個人と個人が行うものであり、二人のあいだで生じる問題について他人が関与するのもおかしいし、他人の責任にするのもおかしい。結局のところ、「社会的影響」や「社会的ステレオタイプ」を云々すること自体が、根本的にナンセンスではないだろうか。

 

『すごい哲学』はあくまで海外の議論を「紹介」する本であり、たとえばロビン・ゼンの議論を真に受けたり信じたりすることを読者に強制する本ではない。イエローフィーバーを一概に否定しないラジャ・ハルワニの議論が紹介されているなど、多少はバランスが意識された内容になっていることもたしかである。

 しかし、本書のなかでも倫理学や規範論が関わるいくつかの章を読んでいると、「哲学」の魅力がむしろ失われてしまう危険性も感じる。

 社会に存在する物事や現象の多くにはたしかになんらかの「悪さ」が存在しており、最近の英語圏分析哲学では細かで見過ごされがちな「悪さ」を取り出して言語化して論文にするというのが盛んであるようだ。それ自体が問題だとは言わない。細かな問題の言語化も含めた「知識」や「議論」の数が増えること自体は、わたしも歓迎する立場である。また、物事や現象の「悪くなさ」を言語化して反論の論文を書く、ということも行われてはいるだろう。

 ……とはいえ、本書を読む一読者としては、社会や生活の細かなことについて「あれも悪い」「これも問題だ」「それも差別や抑圧と言えるかもしれない」とばかり書かれているのを目にしていると、哲学や倫理学とは世の中を窮屈にして人間から自由を奪うために存在する学問であるかのように錯覚させられてしまいそうになる*3。わたしはまだ多少なりとも哲学に関わってきているからいいが、この本を通じて初めて哲学に触れる読者の場合には、「哲学って細かいことについてウダウダ文句をつけるウザい学問なんだな」という印象がさらに増すおそれがあるだろう。

 おそらく、ポリティカル・コレクトネスや「社会正義」が華々しい英語圏の論文が主な元ネタであること、また執筆者たちが若手中心であることも問題の一因であるかもしれない。

 また、本書の前書きでは「デカルトヘーゲルといった昔の哲学者もほとんど姿を見せません」(p.02)と誇らしげに書かれているが、個人で分厚い単著を書いているタイプの哲学者の骨太な議論があまり紹介されていないのも難点ではある。エラい哲学者の単著というものは…アリストテレスの『ニコマコス倫理学』にせよジョン・スチュアート・ミルの『自由論』にせよジョン・ロールズの『正義論』にせよピーター・シンガーの『実践の倫理』ですら…社会や人生について考えるための「土台」や「軸」を提供するものであり、自由や危害といった問題についても個々のケースで右往左往せず総合的に判断するための道筋を提供してくれる。それは、「悪さ」発見ビジネスにもなりつつある「世界最先端の研究」とは一線を画すものだ。

*1:

gendai.media

*2:

s-scrap.com

*3:まさに世の中を窮屈にして人間から自由を奪うことを目的とする分野である、動物倫理について散々書いてきた自分が言えることでもないけれど。

賭けと人生と平等(読書メモ:『平等とは何か』③)

 

 

 

もし保険というものが利用可能だとすれば、これは自然の運と選択の運を連結する役目を果すことになるだろう。というのも、災害保険に入ったり、これを拒否することは計算された賭けと言えるからである。もちろん、保険が二つの運の区別を消し去ることはない。医療保険に入った者でも、予期せぬ隕石に当ったならば、依然として自分の不運を被ったことに変りはない。このとき彼は、保険に入ったうえでこれを必要としなかった場合に比べれば、より悪い状態に置かれているからである。しかし、保険に入らなかった場合に比べれば、彼はより良い選択の運をもったことになる。彼は、保険を拒否するような賭けをしなかったおかげで、より良い状態に置かれているからである。

 

(p.105 - 106)

 

これと同じ論点は、賭けの勝者から敗者へと事後的に再分配を行うべきだ、という議論を考察する際にも指摘することができる。もし、勝者が自分の獲得物を敗者に分け与えるように要求されるならば、誰も個人として賭けなどしないだろうし、賭けに最終的に勝った人と負けた人の双方が先行している類の人生も送れないことになるだろう。もちろん、再分配を行うと或る形態の人生はそれほど魅力的ではなくなり不可能とさえなる、といった議論は、資源の平等を達成するためには再分配が必要であると主張する人に対しては有効な議論とは言えない。というのも(我々が本章で想定している)平等の要求は他の要求事項に優先するものであり、後者の事項には、人々が送ることのできる人生の種類が豊富にあることも含まれているからである。(いずれにしても平等というものはある種の人生ーー例えば、他人を経済的および政治的に支配するような人生ーーを不可能にしてしまう。)しかし、今問題にしているケイスがこれと異なっていることは明白である。なぜなら、賭けの勝者から敗者へと再分配を行う結果、彼らがともに選好する人生が両者から取り上げられてしまうからである。これは次のことを示している。すなわち、このようなことは、人々が送れる人生の諸形態を彼らの意に反して削減させてしまうだけでなく、競売に供される品目の組み合せ方の決定に平等な仕方で参加する機会を彼らから奪ってしまう、ということである。これはちょうど、千鳥の卵もラクレット酒も嫌いな人が、競売に際してこれらの二つの品目の束しか与えられないのと同様である。彼らはともに、賭けが初めから競売の中に含まれるか、あるいは彼らが後にそれでもってリスクを冒しうるような資源で表現されるものとして賭けが競売品目の中に含まれることを望むのである。そして、賭けで損をする可能性というものは、賭けで得をする可能性を含むような人生を送るために支払うべき正しい代価ーー我々が用いてきたような測定基準で測定される正しい代価ーーなのである。

 

(p.107, 強調は引用者による)

 

 

 これも言われてみれば当たり前のことだが(政治や道徳に関するまともな哲学とは「われてみれば当たり前のこと」しか書いていないものだが)、わたしを含む一部の人にとってはハッとする論点ではないだろうか。

 わたしは賭けというものがとことん嫌いであり、遊び呆けていた大学生の頃にすら、競馬などの公営ギャンブルも身内での賭け麻雀やチンチロリンといったものをやったことがない(パチンコは友人の金で一回だけやらせてもらったことがある)。リスク回避傾向がかなり強い人間であるからだ。そして、わたしのリスク回避傾向は、人生レベルの選択にも影響している。たとえば仕事に関しては、現時点では紆余曲折あってフリーランスの文筆業というリスクが大きめの仕事をしているが、ほんとうのところは、大きく稼げる可能性は少ないが安定した収入を得られて、あまり充実しているとはいえないが心身に負担をきたさないようなラクな仕事をして生きていきたいのである。海外移住もしたくないし(移住先でなにがあるかわからなくてこわい)、いくら美人で魅力的であったとしても引く手数多でライバルが多かったりファム・ファタール的な悪女であったりする女性と恋愛したいとも思わない。

 この選好はわたしに限らず多くの人に共有されているものであり、いわゆる「小市民」のそれであるだろう。そして、既存メディアにせよネットにせよ、「社会はこうあるべきだ」「資源はこのように分配されるべきだ」といった議論がされるときには、「小市民」の選好や願望に基づいた意見が目立つことが多い。しかし、その際には、「賭け」をしたがるタイプの人々…つまり、「おれは太く短く生きたい」「ビッグになれるか落ちぶれるかのどっちかだ」といった人生観をしている人々の選好や意見が無視されることが多いのだ(基本的にこういうタイプの人々はチマチマと勉強したり文章を書いたりすることが少ないのも影響しているだろう)。

 自分と真逆の人生観というものは想像するのが難しい。また、わたしたち小市民からすれば、賭けをしたがる人々の意見が長期に渡って持続するものであるかどうかも疑いたくなる…「いまは"太く短く生きたい"と言っているけど年を取ったら"もっと健康に長生きしたかった"と後悔するんじゃないの?」「実際に落ちぶれたら、"ビッグになれなくてもいいから安定した人生を生きたかった"と泣き言を吐くんじゃないの?」と思ってしまうのだ。また、それらの意見を言っている人があまりに若かったり、思慮が足りなかったり騙されていたりするのが確実である場合には、彼らの要望を却下するというパターナリズム的な取り扱いが必要になる場合も有り得るとは思う。

 しかし、おそらく、賭けをしたがる人々の意見は本気のものであるし、人や場合にもよるだろうが、賭けで負けた場合にも彼らはその事態を甘んじて受け入れるのだろう。すくなくとも、賭けをする機会もなかった人生よりも、賭けをして負けた人生のほうが、彼らにとってはまだしも満足がいくものなのである。……たとえばお笑い芸人や起業家の多くはそうであるようだし、おそらくスポーツ選手などの他のエンターテイナーや飲食店主などの諸々の個人事業主も同様だ。そして、資源の再分配によって彼らが「賭け」をする機会を奪うことは、小市民の選好は尊重するがそうでない人の選好を無視しているという点で、たしかに不平等な取り扱いであると言える。

 もちろん、彼らが「賭け」をした成果はわたしたち小市民も享受していること(諸々のエンタメ、外食、企業の提供するサービスや発明、投資によって潤う経済などなど)を忘れるべきでもない。

人生の意味の「挑戦」モデル、共同体と善き生(読書メモ:『平等とは何か』②)

 

 

コメントが思い浮かばないので写経。

 

●人生の意味の挑戦モデル

 

ある人の生の影響力はその人の生が世界の客観的な価値に対してもたらす変化である。誰の生が善き生であるかについての我々の判断に影響力という概念が登場するのは明らかである。我々はアレグザンダー・フレミングモーツァルトマーティン・ルーサー・キング・ジュニアの生を称賛するが、なぜそうするかを説明する際に、ペニシリンや『フィガロの結婚』やキング牧師が黒人や祖国に行ったことを指し示す。影響力モデルは、これらの例を一般化する。生の倫理的価値ーー批判的な意味での生の成功ーーは、世界へのその生の帰結の価値に依存しており、それによって測定されると説くのである。このモデルは、倫理的価値を別の、一見さほど神秘的でない種類の価値、つまり世界の客観的な状態が持ちうる価値に結びつけることによって、倫理的価値の神秘性を払拭しようと望む。

[…中略…]影響力モデルは、今述べたように、多くのこれまでの倫理的意見や言い回しの中に支持が見られる。しかしながら、他のよくある倫理的な見解や実践に適合したり、それを説明するには困難がある。人々が極めて重要と見なす目標の多くは、帰結などではない。先に述べたが、私自身の批判的利益には、我が子と緊密な関係を持つことや、現代科学をほんの少しであれ把握しておくことが含まれると信じている。他の人々は同じような確信を持っている。つまり、少なくともあることを上手にすることーー例えば、何らかの分野の習い事や技能を習得することや、楽器の演奏を習うことーーが重要だと考えているが、それはそうすることによって世界が更に良くなるだろうからなのではなくーー他の人がもっと上手にできることを、もう一人が平均的なうまさでできることに何の重要性があるのかーー、単に、それを自分がしたからなのである。多くの人々は自分たちに、完全に副詞的な目標を設定している。つまり、彼らは、統一性をもって、自分のやり方で物事を行い、自分の確信に勇気を持って生きることを望むのである。これらの色々な野心は、影響力という語彙では意味が通らない。例えば、どのくらい多くまたは少なく私が天文学を把握していようとも、誰にとっても何ら積極的な変化を持たらさないであろう。つまり私は、いずれにしても宇宙の知識に何ら寄与しないのである。影響力のモデルは、批判的利益についての多くのよくある見解を、愚かで好き勝手なものに見えるようにするのである。

 

(p.344 - 345)

 

…私がここで展開するもう一つのモデルーー挑戦モデルーーは、この制約を退ける。それは、善き生には巧みな遂行(a skillfull performance)という固有の価値があるというアリストテレスの見解を採用する。つまりそれが説くのは、出来事や業績や経験は、たとえそれらが生じる生を超えて何の影響力を持っていなくとも、倫理的価値を持ちうるということである。巧みな遂行が固有の価値を持つという考えは、生の内部の価値の種類としては、完璧にお馴染みのものである。我々は、例えば、飛込台からの複雑で優雅な飛込みを賞賛する。その価値は最後のさざ波がなくなっても残っている。また、そこにそれが存在するからだと述べてエヴェレストに登山した人々を賞賛する。挑戦のモデルによって説かれているのは、生きることがそれ自体で巧みさを要請する遂行であるということ、生きることは、我々が直面するもっと包括的で重要な挑戦であるということ、そして、我々の批判的利益は、我々がその挑戦にうまく対処したことを意味する業績や出来事や経験から成り立っているということである。

 

(p.346)

 

…挑戦モデルはこのモデルを受容する人を、倫理的価値は超越的ではなくむしろ連動的だという見解へ仕向ける。確かに、このモデルを受容した人でも、生きることの善い遂行が何であるかの超越的な見解を採用することは想定可能かもしれない。例えば、その人は、善く生きることは、ある様式でもって生きることしか意味しないと考え、その様式はいかなるものから成り立っているかについての何らかの没時間的見解を抱くかもしれない。しかし、このような没時間的見解はいずれも、致命的に表面的であろう。善く生きることを遂行として判断すると、何はともあれ、自らの文化をはじめとする諸々の環境(circumstances)に適切に応答するやり方で生きるという意味になることは、反論できないように見える。騎士道や宮廷的な徳のある生は、12世紀のボヘミアでは極めて善き生であったかもしれないけれども、現在のブルックリンではそうではない。

 

(p.351)

 

善く生きることには、挑戦モデルによれば、当人が生きていく中で直面する挑戦が現実にどのようなものであるかをその人が感じ取ることが含まれている。それはちょうど、上手に描くことには、その芸術家が継受すべき伝統や反抗すべき伝統が、芸術家の全体的な環境の内のいずれの側面によって定義されるのかを感じ取ることが含まれているのと同じである。我々には、芸術においても倫理においても、その決定のための定まった型板(template)など何らないし、どの哲学モデルもそれを提供することなどできない。というのも、我々の夫々が生きている環境はとてつもなく複雑だからである。これらの環境には、我々の健康、我々の肉体的力、我々の寿命、我々の物質的資源、我々の友人関係・人間関係、家族や人種や国家への我々のコミットメントとそれらの伝統、我々の生きている憲法・法体系、我々の言語や文化によって提供される知的・文学的・哲学的機会や基準、その他諸々の側面が含まれる。自分の送れるかもしれない色々な生のいずれが自分にとって正しいのかという問いを真剣に思案する人は誰でも、意識的にか無意識的にか、これらの中で区別し、あるものを制約として扱い、他のものを媒介変数として扱っている。私は、例えば自分がアメリカ人であるという事実を、ある場合には、自分が最善だと考える生を送る手助けとなる事実として扱うし、別の場合には、それを妨げる事実として扱うかもしれない。また、私は、自分の国籍を、媒介変数として扱い、自分で意識していようといまいと、アメリカ人であることは、ある特定の生が自分にとって正しい生となるようにするものの一部として前提にするかもしれない。

 

(p.354 -355)

 

●挑戦モデルと正義の関係

 

…[挑戦]モデルを受容し、そこで、我々の環境のいくつかの側面は善く生きることの規範的な媒介変数として見なければならないと受容する人は、正義を、これらの規範的媒介変数の中に出てくるものとして見なさないことが困難だと判るであろう。資源が何らかの仕方で媒介変数として出てこなければならないのは確かである。資源は制約条件としてしか数えられないというわけには行かない。なぜならば、理想的に最善の生というのは考えられる限りのあらゆる資源を当人が利用可能な生だと考えることはできないからである。すなわち、善く生きるという挑戦を記述するには必ず、善き生が利用可能のものとして持つべき資源についての何らかの仮定をしなければならないのである。我々はそれゆえ、資源が善き生の媒介変数として倫理に入ってくる仕方の何らかの相応しい説明を見出さなければならない。そして私の考えでは、善き生とは正義が要請する環境に相応しい生なのだと規定することによって正義をこの話の中に引き込む以外に、我々には選択肢はないのである。

 

(p.359)

 

善く生きることが、正しい挑戦に正しい仕方で応答するという意味だとすると、ある人が自分自身の不公正な利得のために他人を騙す場合にはその人の生は善きものではなくなる。その人が不正義な社会に生きている場合にもまた、自分自身の責任ではないにしても、生は悪くなる。なぜならその場合、その人が正義の許す以上のものを持ち裕福であろうとも、またそれ以下しか持たず貧乏であろうとも、正しい挑戦に立ち向かうことができないからである。これによって、挑戦モデルはなぜ、不正義がそれだけで人々にとって悪いのかが説明される。正義により権原があるとされるものを否定している人は、その理由だけで、送る生が悪くなる。例えば、その人より多くの資源を持つ人などいないもっと貧しい時代に今と同じ分量の資源を持っていたとしても、そこで送る生よりも今の生の方が悪いのである。もちろん私が意味しているのは、どのようなものであれ正義にかなった分前を持ってさえいれば、ある人が制御している資源の絶対的価値ないし質は、当人が送れる生に何の変化ももたらさない、ということではない。正義にかなった富の分前をもって豊かな共同体や時代に生きている人の方が、一層興味深く価値ある挑戦に直面し、そしてただそれだけの理由から、一層興奮をかき立てる多様で複雑かつ創造的な生を送ることができるのである。それは、チェスをしている人の方が、五目並べをしている人よりも価値ある可能性を持っているというのとほぼ同じである。生が善きものとなるには様々な仕方があり、価値ある挑戦に直面するということはその中の一つである。しかしながら、正義を倫理の媒介変数として認識することは、どのような経済的環境を与えられようとも、そこで送ることのできる生の善さを限定することになる。環境が変って正義が私にもっと多くの資源を許してくれていたのであれば、私はもっと善き生を送ることができたであろう、と想定されるのである。しかしながら、私の資源の分前がもっと多くて不正義だとしたら、もっと善き生を送ることができたであろうということにはならない。

 

(p.360)

 

●共同体と正義と善き生

 

はじめに、[共同体との]統合という現象がいかなるものであると想定されるかのもっと詳細な説明が必要である。自分が自らの共同体と統合されていると認識している公民的共和主義者は、他人の利益が至上の重要性をもつとする利他主義的市民(the altrusistic citizen)と同じではない。なぜなら、今考察している統合からの論法は、善き市民が周囲の市民の善い状態に配慮するであろうとは想定しない。それが論じるのは、市民は自分自身の善い状態について配慮しなければならないということ、そしてまさにその配慮のために、自分が構成員となっている共同体の道徳的生に関心を抱かなければならないのだ、ということである。ゆえに統合されている市民は利他主義的市民とは異なっている。どのように異なり、なぜ異なるのかを見るためには、更に別のある区別が必要である。

[…中略…]

私が考察している論法によれば、統合はそれ[パターナリズム利他主義]とは違った現象である。なぜなら、統合は、個人の善い状態に影響する行為について、行為の適切な単位が、その個人ではなく、その者が所属している何らかの共同体なのだと想定しているからである。その者は倫理的に、行為のその単位に所属している。つまり、その者は、その者自身が個人と認識され行ったいずれのものとも完全に独立でありうる行為や業績や実践の成功または失敗に参与しているのである。お馴染みのいくつかの例がある。例えば、第二次大戦後かなり経って生まれたドイツ人でも、ナチスの残虐行為を恥じ、その賠償責任があると感じている人は大勢いる。ジョン・ロールズは、これとわずかに異なる文脈で、我々の目的にとって更に一層啓発的な例を提供している。健康なオーケストラはそれ自体、行為の単位である。オーケストラを構成している色々な演奏者は、自分たちの個々の貢献の質ないし素晴らしさによってではなく、一つの全体としてのオーケストラの演奏によって、個人の勝利が気分を爽快にするような仕方で、爽快な気分になる。成功したり失敗したりするのは一つの全体としてのオーケストラであって、しかも、この共同体の成功や失敗は、各々の構成員の成功・失敗なのである。

 

(p.307 - 308)

 

統合されたリベラル派の人々は、自分の私的生と公的生とを以上のようには[コミュニタリアンが批判するようには]分離しないであろう。統合されたリベラル派の人々は、自分が不正義な共同体に生きる場合には、その共同体をいかに正義適合的なものにすべく自ら努力していたとしても、自分自身の生を、傷ついたものーー送っていたかもしれない生よりも善くない生ーーとして数えることであろう。私には、政治道徳と批判的な自己利益とのこのような融合は、公民的共和主義の真の神髄であり、ここの市民が自分の利益と人格とを政治共同体へと収束させる重要なやり方であるように見える。この融合は、まぎれもなくリベラルな理想、つまりリベラルな社会の内部においてのみ実りある理想を言明している。もちろん、統合された市民の社会が必然的に、統合されていない共同体以上に正義の社会を達成するであろうと請け合うわけには行かない。不正義は、あまりに多くの他のーーエネルギーや産業の欠乏・衰退、意思の弱さ、哲学的誤謬といったーー因子の所産だからである。

この意味での統合を受容する人々の共同体は、結合を否定する市民の共同体に対し、一つの重要な利点を常に有しているであろう。統合された市民は次のことを受容している。つまり、自分自身の生の価値は、自分の共同体が首尾よく誰をも平等な配慮をもって取り扱うことに依拠しているのだということである。この感覚が公的で行き瓦っていると、つまり、誰もがこの態度は、他の誰によっても共有されていると理解していると想定しよう。その場合、正義とはいかなるものであるかについて、共同体の構成員にたとえ大きな不一致があるとしても、その共同体は、安定性と正当性の重要な源泉を持つことになろう。構成員は、政治とはある特に強い意味において共同事業(joint venture)なのだという理解を共有しているであろう。どのような確信と経済的レヴェルをもっているにしろ誰もが、自分自身の正義だけでなく他のどの人にとっての正義についても、個人的な関わり合いーー自身の批判的利益について生き生きとした感覚をもつ人にとっての強い個人的関わり合いーーを持っているのだと理解するのである。この理解は、特定の政策や原理をめぐるこの上なく白熱した論議においてすら通底する、一つの強力な絆を提供するものである。正義を統合されていない形で、自分自身の利害関心を他人のために曲げることを必然的に要請するものとして考える人々は、自らに対し明白な犠牲を要請する計画に抵抗する人のことを、抵抗するのはこれらの計画が基礎を置いているその正義観をその人が退けているからであって、意図的にしろ無意識的にしろ自己利益からのバイアスがかかって行為しているのだと邪推する傾向がある。その場合、政治的論議は、公民的共和主義を破壊する陰湿な取引へと退化するであろう。

 

(p.318 - 319)