道徳的動物日記

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読書メモ:『一冊でわかる デモクラシー』&『啓蒙とはなにか:忘却された〈光〉の哲学』

 『福祉国家』『ポピュリズム』『移民』『法哲学』『マルクス』『貧困』に引き続きオックスフォードのVery Short Introduction シリーズの邦訳書を紹介するシリーズ第七弾。ただし今回紹介する『デモクラシー』と『権威主義』はどっちもあまり良い本ではない(前者はロクでなしという域に達している)のでまとめて紹介。

 

 

 

 バーナード・クリックはわたしでも知っているような有名な政治学者で、本書が出版された時点で73歳と高齢であり、本書のカバーに書かれている紹介によると「イギリス政治学の重鎮」であるらしい。

 訳者あとがきでは、イギリスの政治学にはアメリカ的な「政治科学」とは異なる「政治理論」の伝統があり、「政治科学」が軽量的な測定とかモデル構築とかの専門的な手法を重視する代わりに専門家にしか通じないタコツボ的な議論になっているのに対して、クリックの行っているような「政治理論」は「読書界全般(リーディング・パブリック)」を対象読者として想定した広く一般にも通じるような議論を展開しているそうだ…が、クリックはたとえばジョン・ロールズの『正義論』のような、(アメリカの)分析的政治哲学の著作も「政治科学」扱いしているようである。

 たしかに『正義論』はこのわたしですら何度読んでもよくわからんところが多い難解な著作であるし、分析的政治哲学(というか分析哲学全体)が一般向けではないところがあるだろう。一方でクリックのようなイギリス流政治理論は「文芸的」とも称されており、学問的な議論を展開すると同時に読み物としてのおもしろさとか文章の質の良さとかも保っているところを誇っているとかそんな感じらしい。……だが、訳者あとがきにも書かれいる通り、本書には「その語り口からして彼一流のもので、議論の飛躍や脱線、ジョークや皮肉にあふれている」のであり、そのせいで「読者にとっては議論の筋が分かりにくい部分がある」(p.211 - 212)。入門書だと銘打っているのに読者にとって議論の筋を分かりにくくさせるのは一流じゃなく二流や三流の人間のやることだろう。

 とくに問題なのは、「ジョークや皮肉」であり、だれにでも想像できる通り73歳の高齢者によるジョークや皮肉が面白いわけがない(そして悲しいことに高齢者になればなるほど自分の面白くなさについて客観的に理解できなくなってジョークや皮肉を言いたがってしまうものである)。しかもそのジョークの内容も「アメリカ人はポピュリム支持のバカである」とか「動物の権利運動や環境保護運動はインテリのお遊びである」とか「フランシス・フクヤマは愚かで単純な議論を行なった」とかの世間(すくなくともイギリスの「読書界」)に存在しているであろう単純化されたステレオタイプや偏見に基づいた安直なものであり、なんら刺激的なものでもなければ啓発的なものでもない。また、ジョークや皮肉のほかにも本書ではやたらと古典や歴史的エピソードからの引用が登場するのだが、教養のひけらかしにしか感じられず、議論の理解を深める役に立つというよりもノイズにしかなっていない。段落の最後で急に話が脱線するのも「わたしと同じくらいの教養を持つ読者ならこの議論についてわたしがなにを思っているかわかってくれますよね?」という「目配せ」みたいなものを感じてキモいし、総じてイライラする*1。いまのところ読んだなかではVery Short Introdutionのなかでもぶっちぎりでワーストだ。

 

 いちおう本書の内容を紹介すると、アリストテレスマキャヴェリトクヴィル、ミルといった思想家たちがそれぞれデモクラシーについてどんなことを考えていたかという思想史的な記述と、デモクラシー自体の発展の歴史に関する記述が織り交ぜられている。アリストテレスが民主制と貴族制の混合(中間)を理想としていたというあたりとか、マキャヴェリのデモクラシー観やトクヴィルが自由のためにデモクラシーが必要なんだと考えていたみたいな記述はそこそこ参考になった。

 第五章はポピュリズムに関してでありアメリカがポピュリズム的ということがくどくど述べられているが、このトピックは現代の研究者に任せたほうがいいだろう。また第七章でのシティズンシップ論もこんな教養ひけらかし権威主義ジジイに語られたくないと思ってイライラした。

 

 なお、今年の年末に、Very Short IntodutionのDemocracyはナオミ・ザックという人が書いたバージョンが新しく出るらしい。まあそうしたほうがいいだろう。

 

 

 

 

『啓蒙とはなにか』も『デモクラシー』ほどではないが、一般読者に対して「啓蒙とはなにか」ということについての知識や見取り図を真面目に提供する気があるのかどうか疑わしく思わさせられるような内容だった。

 本書の著者は「最近では啓蒙を拡大解釈して現代にも啓蒙が必要だと論じたり、啓蒙の悪い側面を無視するような議論が増えている」ということを憂いたうえで「啓蒙とは歴史の一時期にしか存在せずある段階で終わったものだ」ということを強調される。それ自体は思想史の考え方としてあり得るものかもしれないが、問題なのは、じゃあなぜそんなもう過去に終わったものについて読者が学ばなければならないのかという理由や意義みたいなのがさっぱり示されないことだ。また、なぜ啓蒙が拡大解釈されるか……なぜ思想史学的には牽強付会な議論だとしても啓蒙の良いところを取り出して現代に適用しようとする著作家や学者がいて、彼らの書いた本が多くの読者に好意的に受け入れられているのか、ということについても著者はしっかり取り上げて議論しておくべきであっただろう。

 そもそも「啓蒙」というテーマでVery Short Intodutionを執筆する依頼が来たこと自体が現代の「啓蒙」ブームのおかげであるだろうし、わたしを含めた読者の多くは「啓蒙は昔に終わったものだから現代に適用しようとする議論はみんなインチキなんだもん」という思想史的見解の一方的な押し付け以上のことを求めてこの本を購入したんだし。一般読者を向けた入門書を書く以上は、思想史専攻の院生や学部生ではない人にとっても読む意義を感じられる内容にするよう心がけるべきだ。

 

 本書の内容自体も、啓蒙時代に関連するさまざまな思想家やトピックが雨霰と登場してはちょっとした説明が書かれて退場して……の繰り返しであり、内容が散漫で印象に残らなかった。

 

*1:とはいえ、「一般読者」のなかには、本のなかで展開されている議論の内容ではなく、重鎮と称されるエラい学者の繰り広げられるジョークや教養ひけらかしや目配せなんかにこそ「知的」な雰囲気を感じてそれに浸ってうっとりする、みたいな人がかなり多いのだろうなとは思う。たとえば蓮實重彦のファンとかは全員そうだろう。

読書メモ:『14歳から考えたい 貧困』

 

 

 『福祉国家』『ポピュリズム』『移民』『法哲学』『マルクス』に引き続きオックスフォードのVery Short Introduction シリーズの邦訳書を紹介するシリーズ第六弾。今回は『貧困』だ*1

 

 のっけから苦言を呈すると、Amazonレビューなどでも散々指摘されている通り、本書はまったく「14歳」向けではない。原著では他のシリーズと同様に大学生以上を想定して書かれているわけであり、学問的な方法(本書は主に経済学)の存在をしっかり知っていると同時に、世界ではどんな国があってどんなことが起こっているかとかイギリスやアメリカではどんなことが社会問題になっているかということについても基本的な知識を持っていて、さらにそれらの問題に対する平均以上の関心を培えている人……つまり比較的まじめで立派な大学生が対象にされている。大学生のなかでもそこまでの域に達している人なんて決して多数派ではないのに、ましてや日本の中学生にとってはかなりハードルが高いはずである。すくなくともわたしが14歳だった頃はこの本には興味も持てなかったし理解もできなかっただろう。もしかしたらすごいハイレベルな進学校に通っている14歳なら違うのかもしれないが、このテーマでそういう人を対象にするのもどうかと思うし。

 これは単にタイトルに難癖を付けているというわけでなく、「14歳」を対象にするために本文が「ですます」調で訳されていたり各ページの上部に大量の訳註が記載されていたりすることで、本文が理解しやすくなるというよりもむしろノイズが多くなって読みづらくなるという弊害が生じているからこその指摘である。

 

 それはともかく本書の内容を紹介すると、著者は経済学者であるために本書もほぼ経済学の本となっている。

 イントロダクションではロールズの格差原理が登場、第二章「貧困の歴史」でアダム・スミスマルサスリカードマルクスなどの古典的な経済学者たちが貧困の原因や対策についてどのように論じたかを紹介するくだりは思想史っぽいし、第三章「幸福のはかりかた」ではケイパビリティ・アプローチに関してマーサ・ヌスバウムの名前も登場するが、哲学的な要素はそれくらいで、たとえばシンガーやポッゲなどのグローバル正義論などを紹介しながら「そもそもなぜ外国の貧困を解決すべきか」という規範を問うような議論は含まれていない。

 一方で経済学に関しては「貧困」というテーマを足掛かりにしながらかなり幅広い内容が詰め込まれている。

 たとえば第七章「貧困との戦い」では開発経済学がメインになっており、比較優位の考え方やRCT(ランダム化比較試験)の理論が紹介されたり、イースタリーにアセモグルとロビンソンにディートンにフォーゲルにと現代の有名な経済学者たちが次々と登場したりする。またこの章ではインセンティブモラルハザードの問題に言及されていたり、「ある程度の不平等の存在はむしろ必要かもしれない」とか「過度の援助は(腐敗した国家や政権の存続を後押しするから)逆効果になる可能性がある」といった、経済学的な冷めた意見も(他の意見と並んで)紹介されていたりするところが面白い。

 第五章「労働市場」は労働経済学の考え方を紹介する内容になっており、雇用と失業に賃金や労働者の職能といった基本的なところから、労働市場における差別(ベッカーやアローが登場)や移民の影響といったトピックも取り上げられている。また、第六章「貧困分布と階層移動」では世代間における貧困の再生産といった問題が紹介されている。

 

 わたし的にとくに興味深かったのは、やはり「幸福のはかりかた」。この章で紹介されるのはあくまで経済学における諸々の指標であるが、「幸福をどうやって測るか」「幸福をどうやって定義するか」ということ自体は哲学や倫理学でも伝統的なトピックなので興味を抱きやすかったのだ。……とはいえこの章は他の章に比べてもかなり専門的かつ難しい議論を駆け足気味に紹介している感もあった。

 また、第4章「暮らしのいたるところで」では「幸福感に影響をあたえる五つの側面」として健康や家族構成、教育と資産、そして環境が取り上げられている。第七章でも貧困と女性差別の関係についてけっこうなページ数をとって紹介されており、なんだかんだでSDGs的な問題意識って重要なんだなということが再確認できる。

 

 ……とはいえ、本書ではグローバルな貧困についても(先進)国内の貧困についてもどっちも扱われているぶん中途半端な内容になっているところもあるし、また「貧困」というテーマを(さまざまな学問の視点を取り入れながら)包括的に扱う内容にはなっていない一方で「経済学の入門書」として書かれているわけでもなく、どっちつかずなところが漂う。

 ほんとうなら「貧困の経済学(Economics of Poverty)」というタイトルにすべき内容のところを「貧困」にしてしまっていることが問題だろう。まあ、タイトルとなっている単語は広い意味を含むのに本文の内容は著者の専門分野という狭い範囲に限定されるという問題は、 Very Short Introduction シリーズではよくあることだ。

*1:

 今後は『不平等』や『ニーチェ』あたりを紹介したいところです。

 

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読書メモ:『ロールズ正義論とその周辺 コミュニタリアニズム、共和主義、ポストモダニズム』

 

 

 マイケル・サンデルの『実力も運のうち』は案の定ベストセラーになって、この度は文庫版も出版された*1。しかし、『実力も運のうち』でなされていた議論についてわたしはかなり批判的だし、この本を読んで以来はサンデルやコミュニタリアニズム全体に対して疑問を抱くようになった*2。そのため昨年からの政治哲学の勉強の一環としてサンデルの『自由主義と正義の限界』を読んだうえで、『リベラル コミュニタリアン論争』も約一年前に読んだのだが、後者の本ではサンデルの議論の問題点が簡潔にまとめられていた記憶がある(読書メモを取れていないのでそのうち読み返すつもり)*3

 そして、サンデルに対する批判をもっと読みたいので調べていたところで評判を聞いた、『ロールズ正義論とその周辺』を(近所の図書館に置いていなかったからわざわざ相互貸借サービスを利用して)借りて読んでみたのだが……残念なことに、ここ最近にわたしが読んできた本のなかでもぶっちぎりの悪文で読みづらい。というのも、サンデルに対する「批判」の域を超えた「悪口」や下らない嫌味や皮肉、要領を得ない比喩表現や高尚ぶるだけの意味しかない修飾語に翻訳すればいいだけの無意味な英字表現が、全ページにわたって延々と頻出し続けるからだ。これらがあまりにノイズになり過ぎていて、議論の筋や文章の意図を追っていくことすらしんどくなってしまった。

 サンデルに対する悪口を言うだけならまだ許せるが(それもよくないが)、ここまで悪文であると読者であるわたしまでもがナメられている気がしてしまう。ストレスも溜まるし時間の無駄だし、『リベラル・コミュニタリアン論争』を読み直せばいいやという結論に達したので、途中で読むのを放棄しました。……とはいえ、せっかくわざわざ借りてある程度のページ数は読んだのだから(そしてもう二度と手に取ることはないだろうし)、読めた範囲で重要そうに思ったところのメモだけは取っておく。

 

[『リベラリズムと正義の限界』におけるサンデルのロールズ読解について]…「善」と「正」の関係がまずい。多分に意図的であるような気もするが、ロールズ善論の基本構造を無視する言説が多い。「正は善に先立つ」、これだけでは何も理解したことにならない。まずは、ロールズ善論が「二層構造」(two-tiered structure)をもつことを押さえなくてはならない。すなわち、

(1)薄く一般的な善論ーー幸福一般の理論。人間は幸福を追求する存在である。そのために、種々の社会的基本善(social primary goods)や合理性を必要とする。

(2)厚く特定的な善論ーー特殊な幸福の理論。個人ないし集団が追求する確定的な善に関わる。包括的な哲学や世界像に裏打ちされている。

そこで、ロールズ善論と正義論の構造を明記すると、(1)は正義論に先行し、(2)は正義論のあとに来る。つまり、「一般的善は正義に優位し、正義は特定的善に優位する」というのがロールズにおける善と正の正確な関係である。ロールズ正義論は(1)において「目的論」(ヒューム)をとり、(2)において「義務論」(カント)をとる。読者には、そもそも正義の二原理がどういう原理であったかを思い起こしていただきたい。それは、「公正な環境下でもっとも合理的に幸福を追求するときに、個人が従う行動原理」であった。幸福(一般的善)の追求は正義の前提である。以下、サンデルの体系的なロールズ誤読は、かかる基本構造の無理解によっている。我々はつねに、一般的善と特定的善を峻別しなければならない。ちなみに、サンデルの基本的な主張は、「厚く特定的な善が正義に先行する」ということである。

だから、「自我は目的に優位する」(主体は条件に先立つ)も同じである。一般目的としての幸福ーー上記(1)に相当ーーは自我に優位する。それはその存立条件でさえある。自我が優位に立つのは、厚く規定された特定の目的ーー(2)に相当ーーに対してである。

サンデルが、「ロールズはヒュームとカントを和解させることに失敗した」と断定するのは、彼がロールズ善論の二層構造を無視して、あらゆる善を十把一絡げにしているからである。

 

(p.96 - 97)

 

義務論的自我は一切の目的や価値に先立ってアプリオリに個別化された自我である。対して、格差原理は「共同資産」(自然的資質の共同所有)を前提としており、ひいては相互主観的な共同主体を想定する。従って、義務論的倫理は格差原理と両立しない。[←格差原理に関するサンデルの批判の要約]

[…中略…]

格差原理が共同資産論、ひいては共同主体論を前提するという誤解は、すでに過去のものである。[…中略…]共同資産論は格差原理の一解釈(モデル)であってその前提ではない。個人主義的な【方法論】によって演繹された格差原理が、強く共同的な社会(共同資産社会)をその「モデル」、すなわちある種の【存在論】としてもちうることの論証は、【方法論】的個人主義者にとってはその輝かしい成功を意味するのだが、【方法論】と【存在論】の区別が付かない人々には、奇天烈なサーカスとうつるのである。

また、社会的協働の産物を「社会のもの」と見なすにあたって、「共同主体」のごとき神秘的な実態を捏造する必要はない。「みんなで作ったものはみんなのもの」という幼稚園的倫理で十分である。

 

 

(p.100 - 101)

 

こうしてロールズをdichotomyの一極に押し込んだサンデルは、ロールズに「何もかもダメ」の烙印を押して終わる。きっかけはやはり、原初状態のトラウマである。たかだか【方法論】でしかないものに【存在論】(哲学的人間学)を読み込み、ロールズの人格論・自我論を都合よく創作してしまった。バランスを失ったロールズ批判は結局パラノイアの域を出ていない。「構成的」(constructive)への妙なこだわりは、アトムとしての自我がそれを受け入れない、という妄念の裏返しである。

 

(p.107)

 

 上記の引用部分はいずれも第二章から。また、第二章の終盤では、ロールズ自身もサンデルによる「自我の構想」批判を一蹴したことが指摘されているほか、「ロールズが政治的リベラリズムに転向したのはサンデル(をはじめとするコミュニタリアン)の批判を受けたからだ」という世間の通説が誤りであると論じられている(コミュニタリアンの批判を真に受けたなら「包括的リベラリズム」の方向に進んでいたはずなのに、ロールズが実際に進んだのは真逆の方向だった)。

 サンデルによる「自我の構想」批判が些細な論点をあげつらう難癖みたいなものだとは、わたしも『自由主義と正義の限界』を読んでいるときにぼんやりと感じていたことだ。それを明文化して指摘されたこと自体はありがたい(だからといって「トラウマ」とか「パラノイア」とかいった表現を使う必要は皆無であると思うが)。

 

 あと本書のよかったところを探すなら、「包括的教条」や「哲学」といったものを一切拒む、ドライで冷徹なプラグマティズムとしての「政治的リベラリズム」の姿が描き出されていること。リベラリズムを支持する人であってもわたしを含めた大半がどこかに「卓越」とか「徳」の余地を見出したがるところだが、リベラリズムはあくまで異なる価値観や利害を持つ人々の協力を成り立たせるための社会契約に過ぎないのでそれ以上のものを求めるんじゃないよ、みたいな突き放した考え方が感じられた(ちゃんと読んでいないので違うかもしれないけど)。

 宗教とリベラリズムの関係に関する以下の指摘も覚えておきたい(あくまで「ロールズ型リベラル」の考え方であり、マーサ・ヌスバウムもウィル・キムリッカも同意しそうにないものだけど)。

 

宗教問題に対する「ロールズ型リベラル」の反応は、要するに「触らぬ神に祟りなし」である。そもそもリベラリズムは阿鼻叫喚、地獄絵図の宗教戦争から生まれたのだから、宗教というものはそれが市民社会を破壊してしまわない範囲でノータッチ、が一番いいのである。正統派のユダヤがその宗教的行為によって部隊を全滅させてしまう恐れがあるのなら、上官はその行為を断じて許すまい。そうでないならひたすら「忍」の一字ーーローティの言う「慇懃な無視」(a being neglect)ーー、それがリベラリズムの歴史的教訓であり「寛容」(耐えること)の真意である。

 

(p.136)

 

 あとはまあ熟議民主主義論に対する以下の批判も印象的だった(この批判は『実力も運のうち』での「共通善」論にも当てはまるものだろう)。

 

熟議がつねに人々の公共精神を喚起し、そのpreferenceを変容・収斂させ、いつも望ましいコンセンサス(あるいはその近似点)に導くというバラ色のシナリオが描けるのなら、人民の絶対主権もよろしかろう。さすればリベラリズムも無用であろう。しかし、リベラリズムはこの手のユートピア思想とは無縁である。シェルドン・ウォーリンのいわく、「以下我々の課題の一つは、後者〔リベラリズム〕の伝統を前者〔democratic radicalism〕から解き放つこと、そして、リベラリズムがしらふ(sobriety)の哲学であり、恐怖から生まれ、幻想からの覚醒(disenchantment)を糧に育ち、人間の条件は苦痛と不安の状態であり今後もまたそうであろう、と信じる向きにあったことを証することである」。リベラリズムは熟議を妨げない(いな、促進する)。大いにやったらよろしい。だが、ユートピア思想にはついて行けない。具体的な制度論をもたず、ただ熟議の精神論を鼓舞し、ひたすら公共精神をたのみとするようでは、かなり興ざめである。そこに見出されるのは、せいぜい精神注入ないし根性デモクラシー(そしてその背後でくすぶる人間改造論)でしかない。

 

(p. 208 - 209)

 

 ちなみに、著者は「哲学者」が政治に関してなにか特権的な役割を持てる、という発想も批判しているようだ*4。この点に関して、サンデルが経済学者や官僚による「テクノクラシー」は批判するくせに政治哲学は重要だと論じるのは自分の分野を特権視しているだけだよな、と感じたことを思い出した。

ピーター・シンガーによるマルクス論(読書メモ:『マルクス』)

 

 

 

 

 『福祉国家』『ポピュリズム』『移民』『法哲学』に引き続きオックスフォードのVery Short Introduction シリーズの邦訳書を紹介するシリーズ第五弾。

 1989年発行のこの本はAmazonでも高騰が続いているしほとんどの図書館にないしで入手困難だったが、図書館の相互貸し借りサービスを利用してようやく手に取ることができた。また、原著については2018年に第二版が出版されており、「マルクスは現在でもまだ重要か?」という章が追加されているようだ*1

 

 わたしはマルクスについては詳しくないし、とくにマルクスについて他の思想家以上に適当なこと書くと怒られちゃうから恐る恐る紹介することになるが、それにしても本書はかなり読みやすくわかりやすい。

 訳者あとがきでも指摘されているように、「マルクスには一つの中核的思想、つまり世界像があって、それがマルクスの思想全体を統一するとともに、そうでない場合には謎めいた相貌を呈することになる彼の思想の構成部分の背後にある本質的なものを説明してくれる」(p.ⅲ)ということを前提にしたうえで解説されるため、読解の筋道が明瞭である、というところが本書の最大の長所だろう。

 具体的には、シンガーはマルクスの思想の「科学性」を思いっきり否定しているしマルクスの経済学理論に対しても冷淡ではあるが、その代わり、哲学者や倫理学者としてのマルクスの思想を積極的に描き出して評価している。

 また、シンガーが見るところのマルクスの「中核的思想」とはいわゆる「疎外論」であり、とくに本書の前半ではヘーゲル哲学やフォイエルバッハの哲学がマルクスの思想に与えた影響が詳しく解説されて強調されている。訳者あとがきによると疎外論を強調するのは必ずしも正統派のマルスク読解ではないようだし、(おそらく)マルクス主義者である訳者としてはシンガーの科学観や経済学観に言いたいところもあるようだが。

 

 本書を読んでいてもとくに印象に残ったのは、(第1版の)最終章である「評価」。   この章の前半でシンガーは経済や社会の成り行きに関するマルクスの「予言」は外れたことを指摘したうえで、マルクスの議論は粗雑で放埒な自由主義に対して適切な批判を行えている、といった評価をしている。

 ここでシンガーが行なっている議論を要約すると、極端な自由主義に基づく資本主義の肯定者は「一切の規制を廃して、だれもが自分のやりたいことを好き勝手に行える社会にすれば、すべての人が自分の幸福を追求したり自分にとって最も合理的な選択をできたりして、自由で素晴らしい社会が到来する」と論じることがあるが、実際には規制なしの自由はすぐに集合行為問題をもたらす。そして集合行為問題は個人がバラバラに自由を行使していたらいつまで経っても解決しないので、なんらかの妥協を成立させたり行為に対する制約を課したりするための集団的な決定が必要になる。ここでシンガーが架空の例として描き出すのが、「みんなが自動車を運転したら渋滞が起こってしまっていつまで経っても目的地にたどり着けなくなるが、多少の不便を受け入れてでもバスに乗ればみんな目的地に辿りやすくなる」という状況だ。

 このポイントをマルクス主義っぽく表現したのが、以下の段落。

 

われわれには、経済的諸関係は盲目的な自然的諸力であるかに見える。われわれは、これらの諸関係がわれわれの自由を制限するとは思えないーーまた事実、自由主義的自由観の立場にたつならば、これらの関係は人間の故意の干渉の結果ではないのだから、それがわれわれの自由を制限するとはいえないマルクス自身も、一人ひとりをとってみれば、資本家は資本制社会の経済的諸関係にたいして責任はないのであって、彼らもまた労働者と同じ程度にこれらの関係によって支配されている、とはっきり言明している[…]。とはいうものの、これらの経済的関係は、故意に選択されたわけではないが、にもかかわらずわれわれ自身の個別的選択の結果であり、したがって潜在的にはわれわれの意志に服しているところの、われわれ自身が意識しないままにつくりだした被造物である。われわれが造り出したものがわれわれを支配するのを放置するかわりに、それらをわれわれが集団的に支配するまでは、われわれは真に自由であるとはいえない。計画経済が重要な意義をもつのは、このゆえである。非計画的な経済では、人間的存在は、自己の生活にたいする市場の支配を無意識のうちに受容する。これにたいして、経済の計画化は人間の支配権の復権を主張するものであって、それは真の人間的自由にいたるための不可欠の第一歩である。

 

(p.115)

 

 そして、この章の後半では、「貪欲、利己主義、野心といった人間の特性の経済的土台を変革することによって社会のあり方を変えるという展望が出てくる」(p.118)というマルクスの人間観が厳しく批判されている。シンガーが指摘するのは、人間の欲求や利己主義的欲望はどんな社会でも……共産主義国家であろうが非資本主義的世界であろうが……存在したままでありその捌け口を見つけようとするし、地位や権力に対する欲望を統制して差別を撤廃して完全な平等を達成できた社会が存在したことはなかったし、資本主義が地位や権力への欲求を煽ることは否定できなくても(当時の)共産主義国家にはそれ以上に権力の腐敗が見受けられる、といったことだ。また、シンガーは地位への欲求や支配-非支配関係は人間のみに限られず動物たちの間に見受けられることを指摘して、これらは人間社会の「下部構造」などに由来するのではなくもっと根本的な生物学的特徴であることを示唆する。

 

このようにして、いまやわれわれは、マルクスの利用できなかった証拠ーー生産および交換手段の私的所有の廃止を土台に平等主義的な社会を創造しようとしたせっかくの試みが失敗に終わったという証拠や、人間以外の動物の社会の階層的なあり方にかんする証拠ーーを手にしている。もっとも、証拠は完全に出揃っているわけではない。だが、人びとのあいだの相互に対立する利害の調和をはかることはマルクスが考えていたほど容易ではなさそうだ、という暫定的判断に達するに足るだけの証拠は揃っている。

もし以上に述べたことにして正しければ、それがマルクスの積極的提案にたいしてもたらす結果が及ぶ影響の範囲はきわめて大きい。もし社会の経済的土台を変えても、それによって個人が自分自身の利害と社会の利害とを同一だと考えるようにならないというのであれば、マルクスの構想にかかる共産主義は断念されなければならない。おそらく社会の経済構造の社会的所有制への転形が進行中の短期間はともかくとして、マルクスは、自分自身の利益に反して、集団的福利のためにむりやりに個人を働かせるために共産主義社会の実現をめざしたのではけっしてなかった。強制に訴える必要があるということは、疎外の克服を意味するものではなくて、人間の人間からの疎外の存続を意味するであろう。強制をともなう社会は解かれた歴史の謎ではなくて、新しい形で再措定された謎にすぎないであろう。それは階級支配の終焉をもたらさないで、新しい支配階級を旧支配階級ととりかえるにとどまるだろう。一方でマルクスが予知せず、またもし予知していたならきっと弾劾したと思われることのために彼を非難するのは馬鹿げているが、他方マルクスが予言した共産主義社会と「共産主義」の今日の実状との間の懸隔は、結局そのみなもとを、マルクスにおける人間性の弾力性についての間違った捉え方にまでさかのぼることができるのかもしれない。

 

(p.121 - 122)

 

 生物学的=進化論的な発想を念頭に入れながらマルクスによる「土台を変えることで人間性を変化させる」論を批判する……というのは、そのまま、シンガーが1999年に出版した『ダーウィン左翼』における議論につながるものだ*2

 

 最終章以外について触れると、まず、第1章の「評伝」ではマルクスの生涯がコンパクトかつドライにまとめられていて、マルクスの人間的魅力と性格の厄介さや不遇さなどが端的に伝わる内容になっており、読み物としてもおもしろい。

 2章から5章まではヘーゲル哲学に始まるマルクスの思想形成が順を追って説明されており、6章から9章では「疎外」「歴史」「経済学」「共産主義」とマルクスの思想の中心的なところがトピックごとに整理されて論じられている。

 

 疎外に関する簡潔な記述はこちら。

 

以上の[フォイエルバッハの議論を下敷きにした]見方にもとづいて、自由な生産的活動という意味での労働が、人間的生活の本質だといわれるのである。したがってこのような仕方で生産されるものは万事ーー彫像であれ、家であれ、あるいは一片の布切れでさえもーー物的対象に変えられた人間的生活の本質である。マルスクはこういった事象を、「人間の類的生活の対象化」[…]と呼んでいる。理念的には、労働者たちが自由に創造した対象は労働者たち自身のものであって、彼らはこれを自分の望みどおりに留保したり処分したりすることができる。ところが、疎外された労働の状態のもとで労働者たちが(対象は雇主に帰属するので)自分の思いどおりにならないところの、また(雇主の富と力を増すことによって)肝心の生産者の意に反して用いられるところの対象を生産しなければならなくなると、これらの労働者は自己自身の本質的な人間的あり方から疎外される。

このような人間の自己の本来的あり方からの疎外の一つの帰結は、さらに人間の人間からの疎外である。生産的活動は「支配、強制、他者のくびきのもとでの活動」(…)に転化し、この他者は疎遠で敵対的な存在となる。人間は相互協力的に関係しあうかわりに、競争的に関係しあう。商取引と交換とが愛と信頼にとってかわる。人間的存在はおたがいのなかに、彼らに共通の人間としての本来的あり方を認知できなくなる。彼らは他者を、自己自身の利己的な利益を促進するための手段とみなす。

 

(p.42 - 43)

 

 余談だが、疎外がなければ(資本主義じゃなければ?)人間は「取引と交換」ではなく「愛と信頼」に基づいて協力する、といった(ユートピア主義的な)考え方についてはウィル・キムリッカが『現代政治理論』のなかで批判していた。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

「経済学」の章ではマルクスによる労働価値論とか剰余価値論とかを取り上げられて、その誤りが指摘されている。ここにおけるシンガーの指摘自体は間違っていないだろうが、やや難解であり、さすがに最近の学者たちが書いた著作に含まれている指摘のほうがわかりやすい*3。とはいえ、批判点を挙げたうえでマルクスの経済学論を肯定的に捉える以下の文章はなかなか印象的だ。

 

以上のことは、『資本論』の中心的諸命題が間違っているだけだ、ということなのか。またしたがって、『資本論』はーーろくすっぽ訓練をうけたことのない分野に差しで口をはさむドイツの哲学者なら書いても不思議でないかもしれないーーありきたりの酔狂な経済学の書物だということか。万一このような見解にもっともらしい面があるとすれば、自身の発見の科学的性質を強調した点で、マルクス自身も責めの一端を負わなければならない。いっそのこと、『資本論』は、これを(有力な現代の一経済学者〔サムエルソン〕が経済学者としてのマルクスを評価していったように)「二流のポスト・リカーディアン」の仕事とみなすよりは、資本制社会にたいする一批評家の仕事とみなした方がよかろう。マルクスは資本主義の欠陥を暴露するために、古典派経済学の欠陥を暴露したいと思ったのである。彼が望んだのは、産業革命がもたらした生産性のいちじるしい上昇にもかかわらず、なぜ人間的存在の圧倒的多数の生活水準が以前よりも悪化したのかということを、証明することであった。マルクスは、主人とか奴隷とか、領主とか農奴とかいった旧時代の諸関係が、いかにして契約の自由の美名にかくれて生き延びるにいたったのかということを暴露したいと思った。これらの疑問に答えたのが、剰余価値学説である。経済学説としては、それは科学的検証に耐えない。マルクスの経済理論は、資本主義のもとでの搾取の性質と程度を科学的に説明したものとはいえない。だがそれにもかかわらず、それは、生産的労働者が意識しないままに自己自身の抑圧手段を作り出す、非規制的社会のいきいきとした像を提供している。それは人間の疎外を過去労働たる資本の生きた労働に対する支配として麗々しく大仰に描き出したものである。このように描かれた人間の疎外像の価値は、それに導かれて、われわれがこの像の主題〔資本主義〕を根本的に新しい角度から眺めることができる点にある。マルクスの経済理論の疎外像は芸術と哲学的省察と社会的論戦とをひとまとめにした仕事であって、こうした三つの著述形態のすべてにつきものの長所と欠陥をそなえている。それは絵筆でかかれた資本主義像であって、カメラで写しとった資本主義の写真ではない。

 

(p. 94 - 95)

 

*1:

www.oupjapan.co.jp

www.project-syndicate.org

*2:

 

↑こちらの訳書は高騰しているので、よかったら『21世紀の道徳』を購入していただき第1章をご参考にしてください。

 

*3:

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フェミニズムの理論をバランスよく(※)紹介する本(読書メモ:『はじめてのフェミニズム』)

 

 

 

 『福祉国家』『ポピュリズム』『移民』『法哲学』に引き続きオックスフォードのVery Short Introduction シリーズの邦訳書を紹介するシリーズ第五弾……ではないのだが、同じように英語圏の入門書の邦訳なのでこの流れで紹介。また、今月に発売したばかりの本である*1

 

 本書の「はじめに」ではフェミニズムの定義の問題について触れられている。

 

フェミニズムへの向き合いかたは、なにを「フェミニズム」とするかによって変わってくるということなのです。だれかが「フェミニズム」という言葉を使うとき、意味しているのは次のどれか、あるいは全部かもしれません。

 

・理念としてのフェミニズム。かつてマリー・シアー[アメリカの作家、フェミニズム活動家]は「女性は人であるという根源的な考えかた」だと言いました。

・集団的政治プロジェクトとしてのフェミニズム。ベル・フックス[アフリカ系アメリカ人社会活動家]の言葉を借りれば、「性差別および性差別的な搾取と抑圧を終わらせるための運動」です。

・知的枠組みとしてのフェミニズム。哲学者ナンシー・ハートソックは「分析のひとつの様式であり……問いを発し、答えを探す方法のひとつ」と呼びました。

 

(p.9 - 10)

 

フェミニズムにさまざまな種類があるのは間違いないですが、そのどれもがふたつの基本的な理念にもとづいています。

 

1 現在、女性は社会において従属的な立場にいる。そのため、女性であることによって、あきらかな不正義や制度的な不利益にさらされている。

2 女性の従属性は避けられないものでも望ましいものでもない。政治的行動によって変えることができるし、変えなければならない。

 

(p.19)

 

 著者のデボラ・キャメロン言語学者であるようだが、本書では哲学や社会学などの特定の学問枠組みがフィーチャーされることはないし、「第一派」や「第二派」の時代ごとでもなければ「リベラル・フェミニズム」や「ラディカル・フェミニズム」などの理論や派閥ごとでもなく、「支配」「権利」「仕事」「女らしさ」といっトピックごとに問題を解説する構成になっている。公式サイトにも書かれているように「フェミニズムの「複雑さ」を「複雑なまま」理解する」ためには総合的な視野が必要になるし、また理論ばかりを重視するのは「理念」や「知的枠組み」を優先する代わりに「集団的政治プロジェクト」としてのフェミニズムを軽視することになってしまう、という懸念がはたらいているためだろう。

 

 とはいえ、本書で解説されるフェミニズムの考え方は、全体的にはかなりオーソドックスでスタンダード。また、どのトピックについても「平等派」的な考え方と「差異派」的な考え方、あるいはリベラル・フェミニズム的な考え方とラディカル・フェミニズムマルクスフェミニズム的な考え方をそれぞれ取り上げることでフェミニズムの内部でも考え方の多様性があったり意見が分かれていたりすることを示しつつ、各章の最後のほうではほとんどのフェミニストが一致しているであろう基本的な意見を提示することで無難にまとめられている。

 また、原著も2018年と比較的最近なだけあって、インターセクショナリティやジェンダーアイデンティティ新自由主義批判といった「流行り」の要素も取り入れられているが、その分量と程度は控えめだ。売買春やムスリムフェミニズムジェンダーといった荒れやすい問題についても、(フェミニズム内部での)両論併記的でバランスのよい記述がなされているのは、最近のフェミニズム本としてはむしろ珍しいほうだろう。とくに若いフェミニストの書く文章は、著者が白人であったりシスジェンダーなどのマジョリティ女性である場合にはマイノリティ女性に対する罪悪感から自罰的な記述になりがちであるし、逆に著者がマイノリティ女性である場合マジョリティに対する糾弾や攻撃が目立つ記述になりがちであって、どっちにせよ読みづらく益も少ないものになる傾向が強いのだが、本書は(もしかしたら著者の年齢のおかげで)そういった不毛さから逃れられている。

 なので、フェミニズムジェンダー論に触れてきた人にとって目新しいところはほぼない本ではあるのだが、逆に(邦題の通りに)はじめてフェミニズムに触れるための本としてはかなり良いと思う。

 

 ……とはいえ、本書の「バランスのよさ」が機能しているのは、あくまでフェミニズムの「内側」でだけだ。フェミニズムの「外側」の視点、つまり各トピックについてフェミニズムに基づかずに論ずる主張やフェミニズムの主張を批判する議論については、かなり冷淡かつ粗雑に扱われている。

 たとえば「支配」や「女らしさ」の章では進化心理学がとにかく女性差別を正当化するための理論であるかのように紹介されているうえに、進化心理学のなかでも問題があり古臭い議論を取り上げて「この議論は否定されています」と紹介することで進化心理学全体が否定されているかのような印象操作がなされている。

 また、「男性も男らしさを押し付けられている」「家父長制が個別の男性すべてに利益を与えているわけではない」といった議論は申し訳程度に行われてはいるが、男権運動はフェミニズムに対する反動として一蹴されているフシがある。

「仕事」の章でも男女の賃金格差に関する統計がほぼ登場しないなど、事実的・経験的なデータの紹介が乏しいのも気になるところだ。

 全体として、本書で提示されているのは、世の中の構造や社会問題などに関する「解釈」だ。つまり、「現在の世の中の成り立ちについてフェミニズムではこう解釈できる」とか「この社会問題についてはこちらのフェミニズムではこう捉えられるがあちらのフェミニズムはこう捉えられる」といったことは論じられるのだが、「それらの解釈をフェミニズム以外の理論や運動に基づく解釈と比較したときにはどちらの方が正しいといえるか」といった議論にまでは踏み込まれていないし、「フェミニズムの解釈は実際のところどれほど妥当であるのか」とフェミニズムの外側から眺める視点にも欠けている。

 ……もちろん、翻訳しても本文がジュニア系新書で200ページにも満たないような短い入門書にあまり多くを求めることはできないし、「この本はあくまでフェミニズムの入門書であるのだから、フェミニズム以外の視点を持ちたいのなら読者のほうが別の本を読んだり自分の頭で考えたりすべきである」といったことも言えるだろう。しかしながら、そもそも著者はフェミニズムの外側の視点にはほとんど興味を抱いていないんだろうな、ということは伝わってきてしまった。

*1:同じく今年に発売されたフェミニズム系の新書としては中公新書の『ジェンダー格差』も紹介している。

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解釈としての法(読書メモ:『一冊でわかる 法哲学』)

 

 

 

 『福祉国家』『ポピュリズム』『移民』に引き続きオックスフォードのVery Short Introduction シリーズの邦訳書を紹介するシリーズ第四弾。今回は『法哲学』である。

 

『一冊でわかる』と銘打ってはいるが、内容はなかなか難しい。これはこの本自体の問題というよりも、法哲学という学問そのものの難しさ、あるいはわたしの興味関心とか思考パターンが法哲学という学問と相性が悪い、というところに原因があると思う。同じように社会の制度とか規範的な問題を扱う道徳哲学や政治哲学は問題ないのだが、明文化された法律というものを扱っているせいかどうにも議論が細かく些細かつ厳密であったりメタ的であったり抽象的であったりして苦手なのだ。とくに本書に第二章でも紹介される「法実証主義」は法哲学のなかでも特に王道かつ本流であるようなのだが、ジェレミーベンサムの主張くらいなら理解できても、H.L.A.ハートやハンス・ケルゼンのあたりになるともうサッパリである。

 

 第一章「自然法」では古代から近代の西洋哲学者たちによる法哲学理論が駆け足気味に紹介されたのちに、現代の自然法論者であるジョン・フィニスの議論が紹介されている。訳者あとがきによると、ここでフィニスが登場するのは法哲学の入門書としてもけっこう独特であるようだ。

 第三章「解釈としての法」では一章丸々使ってロナルド・ドゥオーキンの議論が紹介されているが、このブログの熱心な読者ならわかる通り昨年からわたしはずっとドゥオーキンに関心を抱いているので、この章はありがたかった。

 

…厄介な難事案を生み出すという点は諸々の法体系の特徴であり、裁判官はそうした事案において、法はいかにあるべきかという問いに解答を見出すために、「現に存在する法の厳密な文言を超えたところまで目を向けるべきかどうか」を考える必要に直面することとなる。言い換えれば、裁判官というものは、道徳的主張にも似た論拠が主役となるような、そうした解釈のプロセスへと携わっているのである。こうした法の解釈的次元は、ドゥオーキン理論の根幹をなす要素である。法実証主義に対するドゥオーキンの攻撃は、そこで提唱される法と道徳の分離など不可能であるという主張を前提とするものにほかならない。

したがって、ドゥオーキンからすれば、法はーーハートが主張するようにーールールだけから成り立つわけではなく、非ルール的基準とドゥオーキンが呼ぶものもまた法の構成要素となる。難事案について判断を下さなければならないとき、裁判所は判決にたどりつくために必ずこういった(道徳的、ないしは政治的な)基準ーーつまり、原理や政策ーーに訴えかける。(ハートがその姿を描き出し、また前章でも論じられたような)法原理と道徳原理を峻別するための「承認のルール」といったものなど存在しない。「何が法か」ということの判断は、不可避的に、道徳的=政治的配慮に依拠しているのである。

[…中略…]

このようなわけで、難事案にあって裁判官は原理へと訴えかけるのであるが、そこには、彼自身が所属する共同体の政治制度や過去の様々な決定からなる一つの体系にかんする最善の解釈、これについての裁判官自身の捉え方も含まれる。つまり、裁判官は「私が下す決定は、法=政治体系の全体を正当化してくれるような最善の道徳理論の一部となり得るか」と問いかけなければならないのである。すべての法的問題には、ただ一つの正解だけが存在し得るのであり、裁判官はそれを発見する義務を負っている。裁判官がもたらす解答は、彼の属する社会の制度並びに憲法の歴史に最も適合し、さらに道徳的にも正当なものであるという意味で「正しい」ものとなる。したがって、法的な議論と分析は、諸々の法実践についてその最善の道徳的意味を見出そうとするがゆえに、「解釈的」と呼べるのである。

 

(p. 70 - 72)

 

 このほかにも、「切り札としての権利」論や、「正義」「公正」「手続き的デュー・プロセス」を重視する政治的道徳してのリベラリズムなど、ドゥオーキンの考え方の中心的な要素が本書では紹介される。また、本書によると、ドゥオーキンは法やコモン・ローを解釈の必要な物語だと見なしており、裁判官は物語を書き足していく作者や進行中の物語を読み解く解釈者のような存在だと捉えているようだ(自分自身の信念や直感に応じながらも、法律の伝統の範囲内で積極的な解釈理論を展開することが裁判官には求められる)。

 さらに、本書ではドゥオーキンによる「インテグリティとしての法」の議論も紹介されている。それによると、法は「平等な存在としての共同体の全成員に向けて語りかける」(p.83)ものである。全市民の権利や平等をきちんと考慮して、最大多数の最大幸福とか効率とかのために個人を蔑ろにしないからこそ、法は市民に対して権力を行使できるほどの正当性を持つ。さらに、共同体の成員たちはそのような法の下で生きるときに初めて相互に承認しあって連帯意識を持つようになり、共同体は「真の」共同体となる……といった主張をドゥオーキンはしているようだ。そして、そのような法律はリベラリズムの理念に基づくものであることも前提となっている。

 

司法の働きを文芸批評のプロセスになぞらえることにより、法、ならびに裁判官がそこで担う根本的な役割にかんする前向きな描写はますます際立ったものとなる。そして、政治的共同体を原理の連合体[アソシエーション]と捉えるドゥオーキンの構想は、大いに魅力的なものである。それは、ほとんどの社会は到達できないかもしれないが、多くの社会がそれを目指して進むことを誰もが望む、そうした状態にほかならないからである。

 

(p.85)

 

 たしかにドゥオーキンの議論は理想主義的で魅力的だ。また、政治哲学や道徳哲学の議論にも近いため、わたしにとって理解しやすく受け入れやすいものである。……とはいえ、プラグマティズムやリアリズムを重視する法実証主義の議論に比べると隙が多そうな議論であるし、リベラリズムや強めの権利論を前提としているという点で議論の余地もかなり多いだろうし、どれだけ論理的であったり論証がしっかりしていたりするかは定かではない。とくに法哲学の議論として見るなら、(法実証主義者たちのそれに比べると)怪しいところが多そうな気もする。

 

 第四章の「権利と正義」の前半では、ウェスリー・ホーフェルドによる権利と義務の「法的関係」の議論が簡潔に紹介されていおる。権利というとついつい天賦人権論とか国家に対する個人の絶対的な権利のようなものが頭に浮かび、その文脈で「権利には義務が伴うのというのは間違いだ」と言いたくなってしまうが、法律的には「(Xさんの)権利」には「(Yさんの)義務」がきちんと伴うのである……というのがホーフェルドの議論のあらましだ(実際にはホーフェルドの図式では説明しきれない権利や義務があるということにも本書では触れられているが)。

 後半では功利主義とその現代法学バージョンとしてのリチャード・ポズナーなどによる「法と経済学」の議論が紹介されて、後半ではジョン・ロールズによる「公正としての正義」の議論が紹介される。ここらへんはいまさらこのブログで紹介するようなものでもないだろう(「現代の功利主義者はみんな選好充足主義者になっている」、といった記述には原著が出版された2006年という時代性を感じたが)。

 

 第五章の「法と社会」ではエミール・デュルケームマックス・ウェーバーなどの古典的な社会学者たちによる法理論が取り上げられたのちに、カール・マルクス階級闘争論が取り上げられて、マルクスは「法の支配」どころか「人間の権利」概念にも批判的であったことが指摘されている。その後にユルゲン・ハーバーマスミシェル・フーコーも簡潔に紹介されているが、本書におけるフーコーに対するスタンスはやや冷淡だ。

 第六章の「批判的法理論」の前半ではジャック・デリダジャック・ラカンを含むポストモダン法理論が取り上げられるが、結論部分で「ポストモダン法理論はかなりの支持者を集めたが、それが法にかんする私たちの理解に大いに役立ったかどうかについては疑念を差し挟まざるを得ない」(p.158)と書かれているなど、やはり冷淡なスタンスがとられている。この扱いについては訳者あとがきでも「若干もったいないように思われる」と残念がられているが、しかしまあ実際に役に立たなかったんでしょう。

 後半の「フェミニズムの法理論」ではリベラル/ラディカル/ポストモダン/差異派それぞれのフェミニズム理論が紹介されており、法哲学との関連性は薄い気もするが、紹介自体は簡潔かつ分かりやすい。また、最後には「批判的人種理論」が取り上げられているが、数ページとはいえこの本が翻訳された2011年の時点ではかなり貴重な解説であったと思われる。

 

読書メモ:『移民をどう考えるか:グローバルに学ぶ入門書』

 

 

 一昨日の『福祉国家』、そして昨日の『ポピュリズム』に並んで、オックスフォードのVery Short Introduction シリーズの邦訳書を紹介するシリーズ第三弾。今回は『移民』だ。……とはいえ、前著二つが「人文学」的というか「思想」的であって読み応えや紹介のし甲斐があったのに比べて、『移民をどう考えるか:グローバルに学ぶ入門書』はかなり社会科学的というか、事実が淡々と並べられているという趣の強い本なので(それ自体が悪いというわけではない)、今回の紹介記事も淡々と短くなります。

 

 本書のなかでももっとも意外でタメになったのは下記の箇所。

 

オックスフォード大学の社会学者であるアンソニー・ヒース教授は、この問題に関する幅広い国際的な比較分析をさまざまな研究者たちとともに実施し、「エスニック・ペナルティ」と呼ばれるものの程度と原因について明らかにしている。

[…中略…]この調査の結果によって、それ以前に行われた調査の結果がおおむね確認された。すべての調査対象国において、ヨーロッパ系移民第二世代は基本的にエスニック・ペナルティを経験していなかった。これは言い換えれば、彼らの就業率は、現地生まれの人々と同等か、それ以上のものだったということだ。しかし、すべての国で、非ヨーロッパ系移民はエスニック・ペナルティをこうむっており、この傾向は、オーストリア、ベルギー、フランス、ドイツ、オランダでとくに強く見られた。調査対象国間の差を生んでいる一つの要因に、それぞれの国の失業率があり、エスニック・ペナルティは失業率が最も高い国で最も顕著だったようだ。

このような研究では、変数があまりに多いため、結果を完全に信頼できる形で説明することは難しいものの、注目すべき要因として、差別、一部の調査対象国に広がるレイシズム労働市場の柔軟性、また各人の持っている情報や社会関係、意欲、社会的アイデンティティといった人的資本に関連した要因があった。調査の全体的な結論の一つとしては、アメリカのアフリカ系アメリカ人北アイルランドカトリック教徒の経験によって裏付けられるように、容易には克服できない過去の負の遺産があるということである(後者の例では、プロテスタントの側が移民であるが)。

このような研究結果が示す特徴的な傾向の一つは、第二世代がエスニック・ペナルティを経験する場合、統合政策の原則は関係ないということだ。そのため、非ヨーロッパ系の移民第二世代は、多文化主義のイギリスと同様に、同化主義のフランスでも基本的に不利をこうむっているのである。また、いずれの統合モデルについても、必ずしもあまりうまくいっていないという考え方を支持する意見が強まっている。そういう中で、とくに言語習得や訓練・教育、労働市場および経済的な編入、医療などの重要な社会サービス、市民生活と政治的営みへの参画といったより具体的な問題に焦点を当てることによって、統合を達成することができるという議論がある。実際、アメリカでは、連邦政府が不干渉主義的なアプローチを取ったため、他の大部分の国よりも統合がうまくいっており、移民コミュニティにおいて自尊心とリーダーシップが発揮されているという指摘がある。

 

(p.115 - 116)

 

 ここでわたしが意外だと思ったのは、非ヨーロッパ系移民はエスニック・ペナルティを被っているというところではなく(残念ながらそれは予想がつくことである)、「統合政策の原則は関係ない」というところ。移民の問題といえば、政治哲学的(人文学的)には「同化政策多文化主義か」というところがいちばん重大だとついつい思ってしまいがちだが、それよりも個別具体的な問題に関する政策のほうが重要だというプラグマティックな考え方も意識できるようにしておきたい*1

 

 また、「日本はもっと移民を受け入れる必要がある」と主張する人の多くは、わたしも含めて、少子高齢化の問題を念頭に置いているだろう。しかし、本書の「人口減少を緩和する」という節によると、移民が人口減少を緩和できるかどうかは意見が分かれるところであるそうだ。たとえば、移民自体も高齢化していくことや、出生率の高い国からやってきた移民も移住先の国に適応して出生率を低下させることが多い、という点が指摘されており、移民は人口減少に対する「特効薬」ではない、と釘を刺されている(とはいえ、人口減少に関する他の対策と組み合わせることを前提にすれば、やはり有効な手段でもあるようだが)。

 

 経済に関していうと、以下のようなことが指摘されている。

 

…先進国での広範な比較研究の結果、移民が現地の雇用に及ぼす影響は、最悪でも中立的なものであり、最善の場合、経済成長と雇用の増大を促し、プラスの効果となることが明らかになっている…

(p.109)

 

…最後にある観察結果に言及しておきたい。それは、ここで示したような研究結果と、世論や政治的な意見の間には、しばしば開きがあるということだ。調査の結果、移民が経済成長に貢献し、雇用をめぐって競争することなく、現地生まれの人々の賃金の低下も招かず、費用と便益の点においても良い数値を示しているという結論が明らかな場合でも、実際にそのように見られているとは限らないということだ。アメリカとヨーロッパでは、たとえ直接的な関係が立証されてはいない場合でも、移民に対するネガティブな世論と高い失業率の間の相関性が一貫して確認されているのだ。同様に、たとえば、マレーシアや南アフリカでも、移民が失業の原因とされることが普通だ。

(p.113)

 

 要するに、経済学的な事実に相反していようが「移民は経済(雇用、労働環境)にとって悪影響である」と見てしまう人が多々いるということだ(そしてその見方が投票や政策などにも影響して、現地人にとっても移民にとっても非効率で不幸な結果がもたらされたりするのだろう)。「よそもの」をわかりやすい敵や自分たちの問題の原因だとみなす、ありがちな心理学の問題に着地するところだろう。

 

 また、本書では「移民は現地生まれの人々と比べて活動的で、リスクを取ることをいとわない気質を持っている」(p.110)という点がたびたび触れられている。これは(賃金労働に就くのに障壁があるのと合わせて)移民が企業家や商店主になりやすい理由であるが、もしかしたら、非活動的でリスクを取らない現地人が移民に対して反感を抱きやすくなるという事象をもたらしてもいるかもしれない。あんまりこういうことは言いたくないが、SNSについても身近な人々についても、移民反対を声高に主張している人って怠惰であったりビビりであったりする人が多いように思えるし。……と言いつつ、わたし自身もかなり非活動的でリスク回避型の人間であるので、移民一世である両親やその友人知人たちと価値観が合わないのはこういうところにも由来しているかもしれないとも思った(フィクション作品などにおいても、移民を扱った作品には親(移民一世)が外向的で子(移民二世)が内向的、という組み合わせは多いように思える)。

 

「不法移民」と「非正規移民」という単語に関しては、以下のように注釈されている。

 

本書では、「非合法の(illegal)」という、より一般的に使われる言葉を意図的に避けて、「非正規(irregular)」移民という言葉を用いることにする。「非合法」という言葉に対する最も強い批判は、人々を「非合法」な存在と定義することはその人間性を否定することになるというものだ。人に対して非合法な存在だとは言えないのだ。移民はその法的な地位が何であろうと、人間であり、権利を持っているということは、忘れられがちだ。また、「非合法」という言葉は犯罪性を含意しているという批判もある。もっとも、大部分の非正規移民は犯罪者ではないが、ほとんどの非正規移民が明らかに行政上の規則や規制に違反しているのも事実ではある。

 

(p.64)

 

 非正規移民に関しては、問題が誇張されがちではあるが、問題を放置すると現地人の排外感情を強くして正規移民の受け入れにまで影響を生じさせてしまうから実際に起こっている問題についてはきちんと対処すべきである、といったことが論じられてる。また、「非正規移民はとくに感情的になりやすい問題であり、この問題をめぐっては意見が二極化しやすい傾向がある」(p.73)とも指摘されている。