道徳的動物日記

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12月〜2月に読んだ本まとめ

 

 年明けから二作目の著書の執筆作業を再開したこと(どんどん内容が長くなっているのでいつ終わるかまるでわからん)、異動により会社員としての仕事内容が変わって忙したくなったことから、本格的な学術本を読む時間は全然なくなったしこのブログに読書メモを書くタイミングがない。休日にもいろいろあるし電車移動が増えたこともあって、図書館でいっぱい新書本や簡単な本を借りて自転車操業的に流し読み、というのが続いています。

 以下では昨年の12月から2月までに読んだ本を覚えている限りでメモ。いつか時間や気力があれば読み直しつつきちんとした読書メモを取りたい、と思った本には「★」をつけています。

 

『道徳的に考えるとはどういうことか(ちくま新書)』★

 

 

 

 ほしいものリストからいただいた本。内容には説得されなかったけど、ヌスバウムの『感情と法』の副読本になりました。「論理」と「感情」と「想像力」の違いを説明しているところもまあ参考になった。

 

『自省録』★

 

 

  ほしいものリストからいただいた本。年末年始はこういった人生論を読むことに決めているのでそのタイミングで読んだ。「世間の目なんか気にするな」「しょうもない奴らになんと言われても気にするな」みたいな箇所がちらほらあって、「アウレリウスさんはついつい世間やしょうもない奴の言動を気にしてしまうからこそ、自分に言い聞かせるためにこういうこと書くんだろうな」と思った。

 

『人生の短さについて 他2篇』★

 

 

 ほしいものリストからいただいた本。4年くらい前に読んだときはかなり感銘を受けた記憶があるけれど、再読するとちょっと内容が浅いように思えた。

 

『民主主義とは何か』★

 

 

 ほしいものリストからいただいた本。読んでいる途中。政治学・政治哲学というよりかは政治思想史の要素が強くて、ちょっと思っていたのと違った。

 

『社会思想の歴史 マキャヴェリからロールズまで』★

 

 

 

 大学院生時代に購入した本を10年越しに読み始めた。読んでいる途中。各時代の社会・政治の状況をふまえつつそれぞれの時代の「社会思想」を解説するという型式だけれど、かなり内容が濃くて実に面白い。執筆作業がひと段落した後に再開してゆっくり読み進めたいです。

 

『人生の意味の哲学入門』★

 

 

 執筆者からいただいた本。年末年始に読みたかったけれどタイミングがなかった。次の年末年始までには読みます。

 

The Buddhist and the Ethicist

 

 

 仏教学者であるお父さんに買ってもらった本。ピーター・シンガーが仏教者とジェンダー生命倫理や動物福祉などについて対話しているようです。まだ読んでないけどそのうち仏教の勉強したいと思っているからその時に読む予定。

 

『なぜヴィーガンか?倫理的に食べる』★

 

 

 担当編集者からいただきました。そのうち読む。

 

 

戦後民主主義』『戦後教育史』『「家庭」の誕生』

 

 

 

 

 

 ちょっと思うところあって昭和〜平成の日本の歴史を勉強したいと思ったので。この中でも『戦後民主主義』はなかなか良い本でした(他2冊も悪くはない)。これら3冊の本は扱っている時代やトピックが似ているのもあって同じキーワードや人物が登場してそれぞれ別の文脈や視点で取り上げられる、というのが良かった。

 

『移民と日本社会』

 

 

 

 日本社会に限定されているけれど、思った以上のVSIの『移民』と議論やトピックが被っていて、移民に関する現象とか問題とかはどこの国でも普遍的なんだなと思った。あと中公新書には別に『移民と経済』という本もあるけれど、本書でも経済に関する箇所が多いのが意外だった。

 

『ルールはそもそもなんのためにあるのか』

 

 

 本人は過激なこと言っているつもりかもしれないけれど主張の内容は凡庸、過激なことを言いたいがあまり議論の構成や対立意見の紹介も粗雑になっている、ギャグはことごとく滑ってる、総じて不快と、ここ最近で読んだ本のなかではダントツでゴミクズ。老人にこういうの書かせるべきじゃないと思う。

 

『医療倫理超入門』★

 

 

 ベリーショートイントロダクションの翻訳を全部読むプロジェクトの一環で読んだ。旧版は学部生時代に読みました。単に医療倫理を解説しているだけでなく「哲学的思考」や「倫理学の議論」とはなんぞや、ということにも多くページを割かれているのがよいですね。

 

安楽死を考えるために』『終末期医療を考えるために』

 

 

 

 ちょっと仕事にも関連しているので。安楽死制度に関する理解が深まりました。例のちくま新書はやっぱり問題だと思う。

 

『もう一人、誰かを好きになったとき』

 

 

 ちょっと仕事にも関連しているので。ポリアモリーに関する理解が深まったり偏見が少なくなったりしました。

 

『3.11後の社会運動』

 

 

 想像以上にゴリゴリの社会学的な内容の本。面白い本ではないけど、意外な知見やタメになる知見はいくつかあった。

 

『平成政治史』

 

 

 構成が散漫だったり以下にもおじいちゃんが書いたような適当な記述が含まれていたりで、つまらない本。一昨日は外出先で待ち時間がいっぱいあったのに手元にはこの本しかなくて後悔させられた。

 

社会学入門』

 

 

 

「質的」社会学と「量的」社会学をそれぞれ専門にする2名が、同じテーマについて両方からの観点を紹介する、という構成がよかった。

 

『「社会正義」はいつも正しい』

 

 

 執筆中の次作で引用するために読み返す。炎上宣伝のせいでミソがついたけれど、内容はやっぱり悪くないし価値のある本だと思います。

 

『傷つきやすいアメリカの大学生たち』

 

 

 次の著作で引用&参考にしまくっています。これやっぱ邦題が悪いと思う。

 

 

『正義とは何か』★

 

 

 

 若干詰め込みすぎな感もあるが、ロールズ以前のいろんな正義論について紹介されていて参考になりました。アリストテレスプラトン、ロックとヒュームとアダム・スミスのあたりが興味深かった。

 

『ケアの倫理 フェミニズムの政治思想』

 

 

 

 まだ読んでないけど図書館に予約したのが届いたからこれから借りて読む。

 

認知行動療法の哲学』★

 

 

 以前にほしい物リストからいただいた本。今日は休み取っているから午後に読もうかしら。

 

 他にも何冊か借りて読んだはずなんだけれど全然思い出せない。

 

 引き続き支援募集しています。

 

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2023年のおすすめ本(哲学&社会科学系がメイン)

 

 なんかこのタイミングで「2023年おすすめ本」の記事を書いたら多くの人に読んでもらえそうな流れなので、書いておきます(それぞれの本の詳細な感想や書評は各記事へのリンクをクリックしてください)。

 

■今年のベスト本

 

 今年に発売されたなかでの個人的なベスト本はポール・ケリーの『リベラリズム:リベラルな平等主義を擁護して』です。

 

 

 

 

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 大晦日まで新宿ブックファーストの「名著百選 2023」フェアコーナーにわたしのコメント付きで並べられているはずなので、関東に住んでいる方は年内に新宿まで急いで行って購入してください。

 

 

 

中公新書

 

 新書本をいっぱい読みながらも「なんか新書本って内容薄いのが多すぎていくら読みやすくても読むだけ時間のムダだな」と感じたり、とくにちくまプリマー新書なんかには「いくら若い人向けだからといってこんな凡庸でつまらないお説教をよく書けるもんだな」と思ったりしてひとりでうんざりしていることが多いわたしだけれど、今年は、新書のなかでも中公新書はかなり内容が充実していてレベルが高く外れが少ないということに気付かされました(読書家の人々ならとっくの昔から知っていることだろうけど)。

 

 今年に発売したものとしては『J・S・ミル』と『ジェンダー格差』をしっかり読みました。

 

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 また、昨年以前に発売されたものとしては12月に読んだ『マスメディアとは何か』は内容がかなり充実しており、ひとつの学問の入門書を読んだくらいの満足感が抱けた。ネット民こそが読むべき本です。

 

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『リベラルとは何か』もまあまあ良かったです。

 

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 記事はまだ書けていないけど『ジョン・ロールズ』もヨシ。

 

 

 

 

■その他新書

 

 中公新書ほどではないけど下記の本にも考えさせられました。

 

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■ Very Short Introdutionシリーズの翻訳

 

kozakashiku.hatenablog.com

 

 くちなしさんの記事に触発されてしまい、今年の夏頃からは唐突にVery Short Introdutionシリーズの翻訳本を集めていっぱい読むというプロジェクトを行なっていました。Very Short Introdutionは玉石混合ではあるのだが(大御所の書いた本ほどクソになりやすいという妙な傾向がある)、よい本はとてもよい。

 

 今年に邦訳が出版されたものとしては『シティズンシップ』と『懐疑論』が内容も充実しているしいろいろと考えさせられたりすることも多くてよかったです。

 

 

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福祉国家』はもはや名著の域。

 

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哲学系では『法哲学』『古代哲学』『マルクス』あたりがよかったです。

 

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『移民』や『ポピュリズム』なんかも社会問題のことを考えるきっかけとしてよいと思いました。

 

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 これからもどんどん邦訳を出してください。

 

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■哲学

 

 昨年出版の『アゲインスト・デモクラシー』はゴリゴリの政治哲学の学術書でありながら、主張はキャッチーだし文章も平易で読みものとしても面白い本でした。

 

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 昨年末出版の『自由意志対話』も哲学の伝統的なテーマでありながら「自己責任論」をはじめとした現代社会の問題にも関わっていて有意義でした(その前に『そうしないことはありえたか?:自由論入門』で予習するのもオススメ)。

 

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 2月に出版された『アニマル・スタディーズ 29の基本概念』は動物倫理を勉強している者としては見逃せない本で、6つも記事を書きました。翻訳についてケチを付けられたりもしている本だけど、翻訳されたこと自体がそもそも喜ばしいと思います。

 

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 あとは出版されたのはだいぶ前だけど『平等とは何か』とか『感情と法』とか『多文化主義時代の市民権』などの分厚い学術書も読みました。

 

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 これらの本の副読本として『平等主義の哲学』とか『一冊でわかる 感情』なんかも読んだ。

 

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 今年に出版された哲学書としては『なぜ美を気にかけるか』も読みやすくてよかったです(記事では批判的に書いているけど)。

 

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フェミニズム

 

 ことしは「やっぱりフェミニズムの考え方も重要だよなあ」とか「アンチフェミってやっぱりロクでもないな」とか思わされることが多々あったというのもあり、またフェミニズム倫理に関して学会発表したというのもあって、フェミニズムの本も折に触れて読みました。……でも記事を読み返すと批判や文句ばっかり書いているな。

 

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『笑いと嘲り』は「からかいの政治学」から流れで読みました。

 

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■洋書

 

 忙しいのもあって、きちんと読めて書評をかけたのは2冊だけ。でもどちらも有意義な本なので、翻訳されることを希望します。

 

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 ところで1月2日(火)に誕生日を迎えますので誕生日プレゼントになんか買ってください(クリスマスプレゼントも可)。

 

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真・公共的理性とはなんぞや(読書メモ:『政治的リベラリズム』①)

 

 

 

 年明けからは分厚い本を読めるタイミングもしばらくなさそうなので、以前にほしいものリストからいただいた『政治的リベラリズム』を手に取り*1、とりあえず第二部第六章の「公共的理性の理念」のみ読んだ。今回の記事は過去の二つの記事のつづき。

 

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 ……しかし、『正義論』や「アレクサンダーとマスグレイヴへの返答」(『平等主義基本論文集』)を読んだときと同じく、相変わらずロールズの文章はまわりくどくて堅苦しい悪文で、事前に「ロールズってこういうことを言っているらしい」「ロールズの主張はこういうもの」という知識をほかのいろんな本から得ているからナントカ読み進められるのだがそれがなかったらさっぱりわからない。おそらくロールズの文章って大学のゼミとか読書会とかでの指導込みで読んでいかなければほんとうの意味では理解できないものなんだろう。

 

 ともかく、おそらく重要である、本章の出だしには下記のように書かれている。

 

政治社会には、そして実のところ個人、家族、あるいは連合体、さらには複数の政治社会から成る同盟だろうとありとあらゆる道理的で合理的な行為主体には、自らの計画を立て、諸目的に優先順位をつけ、しかるべき意思決定を行うやり方がある。政治社会がこれを行うやり方は、その理性(reason)〔の行使〕によってである。政治社会がこうしたことを行う能力もまた、異なる意味においてではあるが、その理性である。理性は知的かつ道徳的な力であり、政治社会の人間の成員の潜在的可能性に根ざすものである。

教会や大学に非公共的な諸理由(reasons)があるように、また市民社会におけるほかの多くの連合体にも非公共的な諸理由があるように、〔理性の行使によってもたらされた〕すべての理由が公共的というわけではない。貴族的・専制的な体制において社会の善が考慮される場合、その考慮は、仮に存在するとして公衆によってなされるのではなく、誰であれとにかく支配者によってなされる。公共的理性はデモクラティックな人民に特徴的なものである。それはデモクラティックな人民である市民の、すなわち<平等な市民であること>(equal citizenship)の立場を共有している人びとの理性である。彼らの理性が対象とするのは、公共の善、つまり正義の政治的構想が社会の諸制度の基礎構造に対して、そしてその精度が尽くすべきねらいや目的に対して要求するものである。そこで公共的理性は以下の三つの点で公共的である。〔1〕公共的理性はこのような市民の理性であるがゆえに、公共の理性である。〔2〕公共的理性の対象は、公共の善と基底的正義のことがらである。〔3〕公共的理性は、社会が有する政治的正義の構想によって表された諸理想と諸原理によって与えられており、かつそれに依拠して開かれたかたちで行われているため、性質と内容において公共的である。

公共的理性が市民によってそのように理解され尊重されるべきだというのは、当然ながら法の問題ではない。立憲的でデモクラクティックな体制にとっての理想的な<市民としての権利・義務>(シティズンシップ)の構想として、公共的理性の理念はーー正義にかなう秩序だった社会における人びとを想像しつつーーものごとがどうありうるだろうかを示す。それは可能なこととなしうることを説明する。なしえないだろうことも説明するが、そのために公共的理性の重要さが失われるわけではない。

 

(p.257 - 258)

 

 なお、以下でいう「特定の仕方」というのは「政治的リベラリズム」のことを指していると思う。

 

…デモクラクティックな憲法は、ある人民が自分たちを特定の仕方で統治するという政治的理想を高次の法において高潔に表したものである。この理想をはっきりと示すことが公共的理性の達成目標である。

(p.280)

 

  本章を読んでいて最も印象的だったのは、ロールズが「最高裁判所」を「公共的理性の手本」として挙げていること(第6節。具体例としてはアメリカの最高裁判所が登場するが、別の節では「実際の裁判所ではなく、理想的に描かれた立憲体制の一部としての裁判所を念頭においてほしい」(p.307)とのこと)。これにはスティーブン・マシードの『リベラルな徳 - 公共哲学としてのリベラリズムへ』を思い出した(本章の脚注でも『リベラルな徳』が取り上げられており、むしろ『リベラルな徳』のほうが『政治的リベラリズム』に先行しているようだ)。

 

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 本章の最後のほうにも、以下のような表現がある。

 

私たちが公共的理性に従っているかどうかを審査するには、次のように問うのがよいかもしれない。私たちの論証は、最高裁判所判決理由という形態で提示されたとしたら、私たちの目にどう映るだろうか、それは道理的であるだろうか、それとも常軌を逸しているだろうか、と。

(p.307)

 

 一般的に「公共的理性」を持ち出す議論で主張されるのは、なんらかの公共的な問題について意見したり論じたりするときには、自分の信じる宗教や世界観とか自分の信念(「包括的見解」)でしか通じないような主張を振りかざすのではなく、他の宗教を信じている人や無宗教の人や別の世界観や信念を持っている人にも通じるような理由付けに基づく主張を行いなさい、ということ。……そう理解するなら、裁判所は公共的理性を体現する存在である(べきだ)、というのは納得ができる。裁判官が自分の宗教に基づいて訴訟の結果を判断したり憲法審査を行ったりしたらわたしたち市民としてはたいへん困ったことになるし、裁判の結果や判断過程は特定の世界観や信念に依拠せず大体数の人にとって理解や納得が行く理屈や理路に基づいていてほしいものであるだろう。

 一方で、本章を読んでみて意外だったのは、ロールズは「公共的理性」が適用される範囲をかなり限定しているということ。たとえば、市民や国会議員は「憲法の本質的要素と基本的正義が危機にさらされていない場合には(p.284)」、自分たちの包括的な見解を(投票を通じて)表明できるそうだ。また、ロールズによると公共的理性が必要となるのは「公共的な問題」といった広くて生やさしくて曖昧な範囲ではなく、「公共の善と基底的正義のことがら」とか「憲法の本質的要素と基本的正義」とかいった重々しい表現が用いられるような領域である。具体的には、アメリカにおける憲法制定や奴隷制廃止にニューディール政策(福祉制度のスタート)、あるいは女性の参政権や人工妊娠中絶の権利を認めるといった、国・社会レベルで重大な事態が起こったり画期的な出来事が起こったりするような場面だ。一方で、たとえば自然保護や動物の権利といった問題は「憲法の本質的要素でもなければ…基本的な正義の問題でもない」(p.297)ということで、公共的理性が適用される対象ではないらしい。

 当たり前のことだが、『政治的リベラリズム』におけるロールズの「公共的理性」に関する議論は『政治的リベラリズム』という本そのものの趣旨や問題意識に関連している。で、本書の趣旨とか問題意識はなにかというと、「リベラリストリベラリズムを受け入れなかったり宗教的な世界観を保ち続けたりする人たちと共存することが可能か」「非リベラル/宗教的な人でも受け入れられるようなリベラルな原理を国家や社会は採用可能か」「可能にするためにはリベラリズムをどのように限定するか(「包括的リベラリズム」から「政治的リベラリズム」への移行/縮小/(後退))」といったこと。……つまり、本書においてのロールズの方針は「社会の成員すべてに関係するようなほんとうに重要なことについては議論して合意を成立させておく必要があるが、そうでないことについては(すくなくともリベラリズムとか政治哲学の文脈では)議論しはじめても価値観の異なる人どうしでは合意が成立せずに泥沼になるから触れないでおいたほうがいい」といったものである。そうなると、公共的理性が適用される範囲も限定されるというのは、ごく自然なことであろう。

 

『政治的リベラリズム』の文脈における公共的理性の位置付けや、本章の第4章のテーマである「重なり合う合意」と公共的理性の関係などは、仲正昌樹による以下の文章がわかりやすい*2

後期のロールズは、様々な宗教的、民族的、世界観的背景を持った人々が、自由、平等、公正、自律、連帯、厚生...等の、憲法の基礎になるような基本的な正義の理念について、普遍的合意に達することは可能か、という問題と取り組んだ。そこで、様々な世界観を持った人たちの間で成立する「重なり合う合意 overlapping consensus」と、それに基づく公共の場での議論で用いられる「公共的理性」に着目した。
「重なり合う合意」というのは、その社会で長年にわたって共存し、立憲的体制を共有するようになった集団間で事実上成立している合意である。例えば、「意見表明の自由」や「人身の自由」であれば、特殊な教義を持ったキリスト教の宗派であれ、イスラム信者や仏教徒であれ、無神論者やマルクス主義者であれ、それが憲法の中核的理念であり、(自分たちも)尊重しなければならないことは認めるだろう。そうした合意が安定化し、その社会で生きるあらゆる集団の共通了解になっていれば、それは「重なり合う合意」である。
ただ、包括的教説(comprehensive doctrine)を有するそれぞれの集団は、どうして「意見表明の自由」や「人身の自由」が重要なのかについては、それぞれの教義に基づく異なった論拠を持っているだろう。キリスト教は聖書を、イスラム教はコーランを典拠にするだろうし、マルクス主義者はマルクスエンゲルスのテクストを参照するだろう。内部向けにはそれでいいが、外の人には伝わらないし、受け入れてもらえない。
そこで、外部との議論で必要になるのが、集団内部の言説を、その社会を構成する他のメンバーにも理解可能なものに変換する「公共的理性」、あるいは、「公共的理性」が論拠として用いる「公共的理由 public reason」が必要になる。「公共的理由」とは、同じ立憲体制の下で生きるメンバーであれば、当面の問題を解決するための基本的な原理として受け入れないとしても、無視することはできない「理由」、少なくとも、どうしてそれをここで適用するのが不適切であるか反論せざるを得ない「理由」である。
例えば、妊娠中絶が違憲かどうかという論争であれば、合憲であると主張する側が、妊娠した女性の〈right of privacy〉――日本語の「プライバシー権」よりも広い概念である――を論拠として持ち出せば、反対している側も無視できない。〈right of privacy〉とはどういうものか再定義したうえで、この権利を、中絶をめぐる道徳的・政治的・法的論争の文脈で適用することの是非をめぐる議論に応じざるを得ない。〈right of privacy〉が、アメリカの憲法それ自体によって直接保証されているかどうかについては議論の余地があるが、そんな権利など必要ない、と言う人はほとんどいないだろう。
各人がそれぞれ身に着けた「公共的理性」を駆使して、「公共的理由」に基づいて議論するのであれば、その人の思想的背景や出自は関係ないはずである。二〇一二年にアメリカの大統領選で、共和党の大統領候補だったロムニー氏はモルモン教徒であり、布教活動を行っていたことも知られているが、大統領選の最中そのことが特に話題として取り上げられることはなかった。彼の掲げる政策が、共和党の政策として普通に通用するものであり、別にモルモン教の教義を参照しないと理解できないようなものではなかったからである。

第51回 「公共的理性」を欠いた"民主主義" 仲正昌樹 / スクラップブック - 精神科・心療内科 新宿の都庁前クリニック あがり症など 夜間診療

 

 さて、一年以上前に読んだ『リベラル・コミュニタリアン論争』のうろ覚えに依拠すしているが、ロールズの政治的リベラリズムの問題とは、「政治的/包括的」の範囲が恣意的である、というところだ(ったはず)。……つまり、ロールズが「このポイントは宗教を信じていたり非リベラルな意見を持ったりしている人でも合意が可能だ」といくら主張しても、宗教的な人や非リベラルな人は「それは所詮は世俗的でリベラルな価値観に依るものであるからわたしたちには受け入れられない」と主張するかもしれない。逆に、ロールズが「包括的」と斥けるものであっても、他のリベラリストたちは「このポイントは充分に理性に基づいているから異なる価値観を持つ人どうしの間で合意可能だ」と主張するかもしれない。実際、現実に目を向けたら、頑固な非リベラルや宗教の信者たちは「重なりあう合意」なんて堂々と無視している。そもそも、非リベラルな人たちからすれば「重なりあう合意」もリベラルの価値観の押し付けに過ぎないかもしれない。それならいっそ、最初から政治的リベラリズムなんて捨ててしまって(ロナルド・ドウォーキンやジョセフ・ラズ、あるいは『正義論』の頃のロールズのような)「包括的リベラリズム」を主張したほうが論理として筋が通っていていい。……というのが『リベラル・コミュニタリアン論争』の著者たちの結論だったはずだし、わたしもそれに同意する*3

 また、公共的理性が適用される場面をやたらと限定しようとするロールズの方針にも、やはりわたしは賛同できない。先述したように、『政治的リベラリズム』の外で「公共的理性」という用語を用いる議論とは「なにかを主張する際には他の人にも納得できるような理由を提示しましょうね」というものだが、たとえば『現実を見つめる道徳哲学』で強調されていたのも、「道徳的な主張/道徳的な問題を行う際には理由付けが重要となる」「理由付けを吟味したり、よりよい理由を発見したりするのが倫理学の役割である」といったものであった。そして倫理学では奴隷制廃止や女性の参政権や人工妊娠中絶の権利といったトピックについても、自然保護や動物の権利にその他のロールズが公共的理性の対象外に位置付けたトピックについても、いずれのトピックについても理由に基づきながらあれこれと論じたり主張したりする。そして、倫理学者に限らず、理性を持った市民たちもまた、ロールズが公共的理性の範囲内に含めたトピックと範囲外に放り出したトピックのどちらについても、理由に基づいた議論を行うことができるだろう。

(ある種の)倫理学者は、政治哲学が扱う問題のすべては倫理学でも扱えると主張するだろう。その一方で、(ある種の)政治哲学者は、倫理学が扱う問題を政治的なものとそうでないものとに「格付け」する。わたしとしては、やはり前者に賛同するところだ。

*1:

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*2:なお、いちおう書いておくと、仲正による統一教会自民党の「擁護」的な主張にはぜんぜん賛同しません。

*3:要するに、ロールズは理想理論からリアリズムに中途半端に舵を取ったが、中途半端であるために理想理論とリアリズムのどっちとしてもダメになっている、ということ

「恥辱」と法、ヌスバウムによるJ・S・ミル論(読書メモ:『感情と法』③)

 

 

 

 

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 前回からだいぶ間が空いたが、「恥辱感」をテーマにした4〜6章とジョン・スチュアート・ミルの自由論やジョン・ロールズの政治的リベラリズム論について再考する最終章もなんとか読み終えられたので、メモっておく*1

 

 ……とはいえ、「恥辱」に関するヌスバウムの議論にも「嫌悪感」についての彼女の議論にあったのと同様の問題を感じてしまったし、だんだんと飽きてきて読み進めるのが面倒になっちゃった。

 これまでにも書いてきた、わたしがヌスバウムの「感情」論に対して感じる疑問は以下の通り。

  • 生理的な「感じ(感覚経験)」に関して論じることは早々に切り捨てて、「思考」に関連するものとして「感情」を定義している。また、各種の感情を定義によって切り分けれるものとして扱っている。しかし感情について論じるうえで「感じ」を扱わないことには片手落ちという以上の問題があるように思えるし、思考に関連するところだけに注目したり定義によって切り分けたりする時点で「感情」というものの本質からはだいぶ離れた議論になるように思える。
  • 自分の議論の都合に合わせて「善い感情」と「悪い感情」を都合良く切り分けている。
  • 「善い感情」(たとえば「怒り」)については、通常ならその感情には当然含まれると思われる非合理的な側面や問題のある側面などを無視して、合理的かつ道徳的に望ましい側面だけを取り上げた定義になっている。また、「それって感情ではなくほとんど理性と一緒じゃない?」と思わされるような記述も多い。
  • 「悪い感情」については「人間性を否定する/人間性から逃避する」ものと記述しているが(原題も Hiding from Humanity である)、感情についてこのように表現したり議論したりすることは余りに文芸的であり、現実の感情の生物学的/生理学的な機能や側面を軽視し過ぎているように思える。
  • ヌスバウムは「自分の議論は心理学などの経験的な知見に基づいている」と主張するが、精神分析がベースとなっている箇所がかなり多いのでちょっと信用できない。

 

「恥辱」に関するヌスバウムの議論では、「恥辱刑を復活せよ」という共同体主義者たちの主張への反論から始まっていることもあって、アーヴィング・ゴッフマンによるスティグマ論がたびたび参照されている。また、「嫌悪感」は規範的に認められるポイントがほとんどない「悪い感情」だと論じられていたのに対して、「羞恥心」については建設的な場合もあり得る、と論じられている。具体的には、比較的裕福なアメリカ人がバーバラ・エーレンライクの『ニッケル・アンド・ダイムド -アメリカ下流社会の現実』を読んだら「労働者たちにこんな辛い思いをさせる自分たちの社会は不正で間違っている」と感じるだろうし、そんな社会でのうのうと安楽な生活を享受している自分たちのことを恥じる、そして社会を改善すべきだと認識できるようになる(だからこの場面での羞恥心はよいものとして機能している)……といった議論がされるのだが、それって「羞恥心」ではなく(理性的な)「反省」なのではないだろうか?

 また、ヌスバウムは羞恥心とは「自分は脆弱性や欠点を備えた不完全な存在である」と認識させられることであると定義しており、社会が「異常」を定義したりマイノリティに恥辱を感じさせて彼らの生活や行動の様式を抑圧する背景には「自分が不完全な存在であることを認めない」という「ナルシシズム」の影響がある、といった議論が行われている(他者を「不完全」と定義して攻撃したり抑圧したりすることで自分たちの不完全さからは目を逸らす、みたいな)。……しかし、ここらへんの議論では「嫌悪感」のとき以上に精神分析がベースとなっているし、不完全性を認める認めない云々の議論もやっぱり文芸的過ぎて「感情や感覚ってそんなものじゃないでしょ」と思わされしまう。

 第5章第2節における「恥辱系は「群衆の正義」であり、わたしたちが法に求めるような不偏不党性や熟慮が存在しない(からダメだ)」という議論、有名人は公の場で屈辱を受けやすいという指摘や「恥辱系は個人に対しては不適切であるが害のある組織に対しては適切であるかもしれない」という指摘などは昨今のキャンセル・カルチャーの是非にも関連するものであって、それなりに興味深い。……とはいえ、「恥辱形を復活せよ」という主張のほうが現代のリベラルな(日本)社会に慣れ親しんだわたしたちにとっては寝耳に水というか意外性のある発想であり、当然受け入れ難いが、そのぶん興味深くはある。それに比べると、恥辱系を批判しようとするヌスバウムの議論は当たり前に聞こえ過ぎて退屈だ(同様の問題は「嫌悪感」のパートにも存在した)。

 そして、第6章の議論はもはや「感情」はほとんど関係なくなっており、アメリカの社会問題に関するさまざまなトピックや争点(若者の非行とか同性愛とか人種差別とか)についてリベラリストフェミニストなら当たり前に言うであろう主張が羅列されている感じになっていて、かなりつまらない。

 いちばん印象に残ったのは、第4章第3節で、「男性(男子)は自分の感情を自覚したり自分の欠点や不完全性を受け入れたりすることが苦手である」という問題を、ミルの『自伝』も絡めながら論じるくだり。ここの議論には説得力を感じた。……とはいえ、女性のフェミニストによる男性論としてはいまやごくありがちなものなので、新鮮味はまったく感じられない。

 

 第7章では、ミルの功利主義論は一貫性がなく矛盾が多々含まれていたり、ミル自身が「社会の効用(の総計)」を無視した主張をしていることも多いという(ミル論としてはよくある)指摘がなされたうえで、ミルの理想を体現する理論は功利主義ではなくカント主義ひいては政治的リベラリズムではないか、といった主張がなされている。

 この議論自体には、とくに問題がないと思う(ミルの主張には一貫性がないことはわたしも感じるし、彼の主張に無理に一貫性を見出そうとしたり功利主義と整合させようとしたりするよりかは、ヌスバウムがやっているように「ほんとうに言いたいことや重視していることはこっちでしょ?」と別の道筋を提案するほうが建設的だとは思う)。ミルの自由論を「真理に基づく正当化」と「人格に基づく正当化」に切り分けたうえでどちらの議論にも苦しいものがあることを指摘するくだりもオーソドックスではあるがとくに間違っているとは思えない。

 ……だが、ヌスバウム自身の政治的リベラリズム論を主張するくだりは、共同体主義に対する批判には賛同できるとはいえ、まあやっぱり凡庸で新鮮味がない。本書のウリである、「感情」論とリベラリズムを接合しているあたりも、そもそもその「感情」論に本書を読んでいるあいだずっと疑問を抱かされたわけだから、ありがたみがなかった。

*1:このテーマだと次は『法と感情の哲学』を読みたいので引き続きご恵投を募集します。

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人文書とTwitter

 

 Twitterは辞めたけれど、気になる話題があったら、いまだに外部サイトを経由して検索などはしてしまったりしている。

 すこし前になるが、いろいろと気になったのはKADOKAWAによる『あの子もトランスジェンダーになった SNSで伝染する性転換ブームの悲劇』の刊行告知および刊行中止告知に関する話題。

 

www.kadokawa.co.jp

 

この件に関しては、わたしは津田大介氏とほぼ同じ意見を持っている。

 

 

 

 また、「表現の自由」や「言論の自由」に関するわたしの立場は下記の記事にまと目ている。

 

s-scrap.com

 

 この記事では、「自由に意見が表明されることはわたしたちが物事について正しい知識や理解を得るのに不可欠なので、人を傷つける可能性があっても意見そのものを封殺してはいけない」と論じる一方で、「意見に報酬が伴うSNSや論壇などでは扇情的な意見が幅を利かせやすくなり、それらの意見は知識や理解に貢献するとは限らないし、無意味に人が傷つく危険性も増す(だからこそ危険な意見ほどアカデミアの制度内で論じられたほうがいい)」とも指摘していた。

 記事内では言及できていなかったが、取材に基づいたジャーナリズム本にせよなんらかの学問に基づいた人文書にせよ、一般読者に売ることを想定した「本」というメディアは、著者が意見を表明して人々に物事について知識や理解を与えるものであると同時に売れれば売れるほど著者や出版社の懐が潤うという「報酬」を伴った「商品」でもある。したがって、本が出版されると、売るための宣伝やマーケティングが多かれ少なかれ発生する。具体的には、本の内容とはほとんど関係が無い趣旨の帯が巻かれたり、原著と異なる大げさな邦題がつけられたり、なんかダサい文字だらけの表紙になったり、著作家同士でヨイショしあう書評が公開されたりするなど。

 わたしはかなり潔癖な人間なので、前述したような本の宣伝やマーケティングについてはどれにも「いやだなあ」と感じる。しかしそんなことを言っていたらジャーナリズム本や人文書は売れなくなって出版社も立ちゆかなくなり、そもそも一般読者が本を手に取って意見に触れたり知識を得たりする機会も失われてしまうから、ある程度は仕方がない(そもそもわたしが単著を出版したときにもマーケティングは多かれ少なかれあったわけだし)。……とはいえ限度はあるし、扇情的な副題をつけたりトランスジェンダーに関する知識や理解があるとも思えない右翼インフルエンサーに喧伝させたりすることで当事者を傷つける可能性を無闇矢鱈と高めるようなマーケティング手法は強く非難されるべきだ。

 

 そして、批判を受けてKADOKAWAが刊行を中止したことで、「サヨクによる言論弾圧だ」「LGBT団体によるキャンセルカルチャーだ」という風に多くの人が騒ぐことになった。……だが、KADOKAWAによる「お詫びとお知らせ」の告知を見ても、特定の団体の要望を受け入れて刊行中止になったという経緯が記されているわけではない。国内外の出版関係者24名による賛同コメントをつけた意見書は提出されたらしいが、その意見書が刊行を中止させる程の圧力となったかどうかは定かではないし、たかが意見書にそんな力があるとも思えない。実際のところ、ロマン優光氏も指摘しているように、刊行中止はKADOKAWAの内部の都合や社内プロセスの行き違いなどが原因である可能性が高いだろう。

 

bunkaonline.jp

 

 しかし、刊行中止の理由がなんであれ、中止になった時点で騒ぎたい人は「言論弾圧だ」「キャンセルカルチャーだ」と騒ぐし、結果としてトランスジェンダー当事者やその支援団体やアライの人たちが被害や迷惑を受けたり余計なストレスを感じさせられることになる。……この一連の顛末は、早川書房が出版した『「社会正義」はいつも正しい』の訳者による巻末解説のネット公開が中止になった件とほとんど同じだ。

 

www.hayakawa-online.co.jp

 

 当時にわたしは下記のようにコメントしている。

 

そして、早川書房のアナウンスでは「具体的にどの箇所を問題視して公開を停止したか」「具体的に誰からの批判を受けて公開を停止したか」ということが明記されていないために*1、多数の人々がTwitterはてブで「またサヨク言論弾圧をした」「反差別団体が言論弾圧をした」「フェミニスト言論弾圧をした」「TRAが言論弾圧をした」といった憶測や陰謀論を好き勝手に言う事態となっている。

わたしが学生時代に読んだ森達也の『放送禁止歌』では、マスメディアが自律した判断を行わずに事なかれ主義でいくつかの歌を「放送禁止」にしたことが、「同和団体表現規制をした」「やはり同和団体には権力がありマスメディアを支配しているのだ」といった憶測を呼ぶ事態になった、ということが書かれていた記憶がある。今回の事態は、『放送禁止歌』で書かれていたそれを思い出させるものだ。

davitrice.hatenadiary.jp

 

 KADOKAWAのほうの「お詫びとお知らせ」が公開されたのは2023年12月5日だが、早川書房の「記事の公開停止につきまして」が公開されたのも、奇しくもちょうど1年前の2022年12月5日である。うんざりさせられるのは、この1年間で出版社や編集者たちもネット民たちもまったく成長しておらず、同じようなマーケティングとその失敗が繰り返された挙句に同じような馬鹿騒ぎが繰り広げられていることだ。

 

 起こっている事態が同じなので、この件に関するわたしのコメントも『「社会正義」はいつも正しい』のときと同じようなものに終始することになる。

 なのでわざわざ記事を書くまでもなかったかもしれないが、すこし考えさせられた/引っかかったのは、この件に関して本屋LIGHTHOUSEが公開した記事内の、下記の箇所(強調部分はわたしによるもの)。

 

とにかく、出版業界における「反差別・反ヘイト」の基点/起点は中韓ヘイトにあり、そこを中心に議論や実践もなされてきています。また別の観点を加えれば、中韓ヘイトへの抵抗の方法を基礎にしてほかの差別への抵抗方法も考案・実践されている(これは出版業界に限らない話だと思いますが)。というのが現時点での私が感じていることです。そして、そのような前提=環境のなかで変わってきた環境がもうひとつあります。SNSが持つ影響力です。現時点で、特にTwitterに関してはもはや出版業界における最重要インフラと化しており、そこでの反響の大小や良し悪しが出版社の生命線=売上を握っていると言ってもいいでしょう。ゆえに、そのTwitterでの反響が悪いほうに影響を及ぼしたと判断したKADOKAWA経営層が、今回は中止の判断をしたのだろうと推測しています。

出版社にとっても読者にとっても、いまやTwitterの世界は現実世界と同義です。2013年以降というスパンで考えても、この10年でTwitterの持つ「インプレッション」力は跳ね上がっています。つまり、ヘイト本(として悪評が立っている本)が刊行される/されたということを知っている者の数も、10年前と比較したら確実に増える、そういう環境にあるわけです。となると、大手企業であればあるほど「メンツ」が大事になるということも考えると、KADOKAWAの対応(の速さ)も納得がいきます。そしてなにが問題なのかをわかっていない感じの声明文も同様に、そうなる背景を推測できるわけです。つまり、経営的な観点からの合理的判断であり、自らの差別・ヘイトを反省する類のものではないということ。KADOKAWAのような大規模会社になると、現場がどのような本を作っているかなんて経営層は把握していません。これだけTwitterで話題になって、やっと本の存在を知ったはずです。だからこそ、「流石にこれは(メンツ=経営的に)やばいな」と思い、即座の刊行中止判断と声明発表になったのではないか、と推測しています。

lighthouse226.substack.com

 

 まず思うのは、「Twitterが「最重要インフラ」や「生命線」になっている出版業界って相当マズいんじゃない?」ということ。周知の通り、イーロン・マスクに売却されて以降のTwitterには様々な改悪がなされており、有料化されたとか収益化されたとかだけでなく出会い系アプリになるという話も出ているくらいで、Twitterというプラットフォーム自体の将来が危ぶまれている。わたしを含めてTwitterを離れている人もぼちぼち目立つようになってきた。Mastodonなどの他のSNSに移住している人もいるようだが、移住先は複数あって分散しているし、Twitterに代わる大規模なSNSはもう登場しない可能性は高い。登場したとしてもシステムの仕組みや性質が変わってTwitterでは定番になっていたようなマーケティング手法はもう通じなくなるかもしれない。……となると、最重要インフラや生命線となっているTwitterが崩壊したり消失したりするのに伴って、出版業界も終わってしまうことになる。

 もちろん、実際には、Twitter以外の方法でも出版社が本を宣伝したり読者が本のことを知ったりする経路や機会は存在する(わたしが単著を出したときにも、新聞書評の効果がイメージしていたよりもずっと大きくておどろいたものだ)。2023年の年間ベストセラーのランキングを見てみると、Twitterでは対象となる層が異なり過ぎてほとんど売り上げに貢献していなさそうな本が多数含まれている。そして、わたしの周りで本を読む人々のなかにはTwitterを一切やっていない人やほとんどログインしていない人も多々いるし、わたしだって今年(のとくに後半)はTwitterとは関係のないところで地道に本を探して読み続けてきた。多くの読者にとっては「いまやTwitterの世界は現実世界と同義」なんてことはまったくないのだ。それは出版社にとってもそうであるはずだろう。

 

 ……とはいえ、長期的に通じるのかという問題や他にも本を見つけたり宣伝したりする経路はあるはずだろうというポイントを差し置けば、現時点では、Twitterが本を宣伝する場として活用されていることはたしかだ。『「社会正義」はいつも正しい』にせよ『あの子もトランスジェンダーになった』にせよ、それらを売り出す担当者などはTwitterで炎上気味に話題になることが売り上げに貢献するのを狙ったマーケティングを企画していたはずである。

 そして、Twitterを宣伝の場にしているのは、『「社会正義」はいつも正しい』のような「アンチ・リベラル」な本や『あの子もトランスジェンダーになった』のような「差別的」な本を出している側だけではない。近年では「リベラル」や「左翼」に「反差別」や「フェミニズム」なスタンスの本でも、Twitter上でのマーケティングが目立っているものは少なくない。政治的な要素が薄い歴史学系や言語学系や生物学系の本であっても、「SNSでバズらせる」マーケティングが明白に行われているものは多々ある。

 もちろん、どのようなかたちでマーケティングが行われようが、それが有意義で価値のある内容の本が多くの人の手に取られて読まれるきっかけになるとしたら、とくに問題はないと言えるかもしれない。「アンチ・リベラル」や「差別的」な本でなければ、マーケティングによって傷つく人もほとんどいないだろうし。冒頭でも書いたように本が売れなくて出版社が立ちゆかなくなったら本末転倒だし、Twitter/SNSでのマーケティング人文書の需要を拡大したり延命させたりしているという面も確実にあるだろう。

 ……とはいえ、Twitterで本を宣伝したり紹介したりしても文字数の短さからその内容はどうしても単純になったり浅薄になったりするものだし、シェアされて拡散されることを狙う以上は大げさで扇情的にもなりがちだ。また、「流行り」に乗った内容であったり「勢い」のあったりするジャンルの本は積極的に出版されてマーケティングも行われやすくなる一方で、そうではない本は冷遇されて埋もれてしまうおそれもある。

 こういった問題意識を抱いている人はわたしに限らないようだ。たとえば、今年も紀伊國屋書店の「じんぶん大賞」が発表されたが、それに関して問題意識を表明する(または愚痴っている)人はわたしが検索した範囲だけでもぼちぼちと見つかった。

 

store.kinokuniya.co.jp

 

 

 

 また、昨年ほどではないが、今年のじんぶん大賞のラインナップにも「ジェンダー」や「フェミニズム」なテーマ/トピックの本が多く含まれている*2。これらの本の内容や著者/編集者の問題意識が真摯なものだとしても、ジェンダーフェミニズムTwitterやネット上で本をバズらせやすくて売り出しやすい「トレンド」になっていることは否定できないだろう。……そして、Twitterやネット上で「反LGBT」や「アンチ・フェミニズム」の主張が勢いを持つようになっている背景には、「トレンド」に対する反発という面もあるはずだ。『あの子はトランスジェンダーになった』のような本の出版とマーケティングが企画されたのも、このような状況のなかで拡大していった「反LGBT」層の需要を狙ってのものだっただろう。

 まあだからといって「アンチやヘイターの反感や需要を育てるからジェンダーフェミニズムの本を出すのは止めろ」というのも無理筋で本末転倒だし、マーケティングをするなというわけにもいかない。あえて提言するなら、出版社や編集者ではなく読者の側に対して「マーケティングや流行りに惑わされず、自分の判断できちんと本を選んだり、最新の本ばかりだけでなく旧い良書も手に取ったりするように意識しましょうね」と呼びかけるしかないだろうか。

 

 余談だが、こういった話題になると「でもいまやSNSを経由しないとどんな新刊本が出ているかも知ることができないじゃないか」と文句を言ってくる人があらわれる。しかし、実際には、SNSを使わなくても新刊本の情報をキャッチする術はいくらでもある。新聞書評をチェックするとか、大型書店を定期的に訪れるとか。

 わたしのおすすめは、自分の住んでいる地方自治体(または通っている大学)の図書館のWebサイトにある「新着資料」や「新着図書」の一覧ページを定期的にチェックしたり、図書館を訪れるたびに新着図書コーナーを確認したりすることだ。ハードな学術書を除けばだいたいの本はいつか図書館に入荷されるものなので、この方法でだいたいの本の情報はキャッチできる(最新の本の情報を瞬時にキャッチできるわけではないが、そもそもそんなに生き急ぐ必要はない)。学生時代から社会人になってからもわたしはこの習慣を実践し続けているし(最近は読書に割ける時間自体が少なくなっているのであまりできていないけれど)、おかげで他の人がほとんど読んでいないようなマイナーなものも含めて多くの本に出会うことができた。

*1:KADOKAWAのほうの「お詫びとお知らせ」は「本書は、ジェンダーに関する欧米での事象等を通じて国内読者で議論を深めていくきっかけになればと刊行を予定しておりましたが、タイトルやキャッチコピーの内容により結果的に当事者の方を傷つけることとなり、誠に申し訳ございません」と具体的に書かれているぶん、早川書房よりかはすこしだけマシ。

*2:昨年のラインナップに関してはこの記事内でこっそり文句を書いている。

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近況報告(引っ越し、猫を飼い始め、結婚、身内の不幸、コロナ罹患、異動など)

 

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 昨年末にも挨拶記事を書いていたし、SNSを辞めてからは日々の生活や状況を書く場所がなくなったからわたしの近況が気になる人もいるだろうし(いるよね?)、今年1年のわたしの生活の変遷や最近の状況についてここで書いておこう。

 

 とりあえず時系列順に箇条書きすると以下のような感じ。

 

  • 1月:母親のガンについて知らされる
  • 2月:母親の見舞いに京都まで行く、付き合っている恋人との結婚前提の同棲(とそのための引っ越し)を決意
  • 3月:引っ越し準備、確定申告
  • 4月:2021年まで働いていた会社に正社員として復帰(2022年内は業務委託契約で働いていた)、四谷から赤羽に引っ越し
  • 5月:学会で発表、妻と熱海旅行
  • 6月:ロフトでイベント、保護猫の譲渡会に参加、母親の見舞いに京都まで(ついでに松坂へも行く)
  • 7月:譲渡された保護猫を飼い始める、猫の夜泣きが激しく睡眠不足、猛暑で夏風邪をひいてダウン、市役所に行って入籍届を提出
  • 8月:母親が死去したので葬儀のために京都へ、忌引き休暇と夏季休暇が組み合わさって長めの夏休み
  • 9月:母親の死亡に伴う諸々の手続きのために京都へ(ついでに奈良まで行く)、納骨式に参加するためにまた京都へ行ったら直後にコロナが発症して参加できず
  • 10月:前半はコロナの後遺症でダウン、後半は妻と那須まで旅行
  • 11月:婚姻休暇を使用して長めの休暇、三島に一人旅
  • 12月:年明けから部署異動になるので現部署の残りの仕事を消化し続ける日々

 

 ……というわけで、例年になくライフイベントが多く、環境の変化が多い一年となった。充実していたといえばしていたのかもしれないが、リモートワークがメインとはいえ平日は毎日働いているなかで諸々の出来事が起こったり体調不良になったりするのはかなりしんどい。来年からの異動先の部署は出社が主となり残業も多そうなので、プライヴェートの面ではもうすこし穏やかかつ健康に過ごしたいと思う。

 新婚生活についてはまあ良し悪しというところ。飼い猫については夜泣きが収まったのでだいぶ飼いやすくはなった。

 母親についてはガンが発覚してからは進行が早く、まだ比較的若い年齢なのにあっという間に亡くなってしまった。そして、夫婦生活や飼い猫のことや仕事などの悩み事がピークに達していた時期に亡くなられたので、こちらとしては頭がいっぱいというか「それどころではない」という状態で、十分に悼んだり喪に服したりすることができなかったことがいまでも心残りになっている。

 京都の実家に残っている父親についても、今後は「妻に先立たれた高齢男性」にありがちな問題が起こりそうで不安なところだ。家事は夫婦で分担していて料理などもしていたので生活能力には問題がないのだが、職場と家族以外にコミュニティはないようだし、友人や会話できる相手も母親に比べると父親のほうがずっと少ないので、今後は寂しさや孤独にどう対処するかというのが課題になるのだろう。

 そもそも父親は母親に比べると日本語があまり得意でないということもあり、母親の死亡に伴う契約変更や役所関係・相続関係の手続きのかなり多くを手伝わされることになった。また、実家では複数の猫を飼っているので、もし父親にも健康上の問題が起こったときに実家の猫たちをどうするかという問題もずっと頭をちらついている。かといって京都に戻るのはわたしの職種的にも他の諸々の事情からも困難だし…。

 

 母親の見舞いや父の将来のこと、妻や飼い猫のことを考えると、このブログでもこれまで取り上げてきたような「ケア」論の問題意識が身に沁みて感じられることはたしかだ。

 コロナ禍の前はリモートワーク自体が当たり前のことはなかったから昔に比べるとだいぶ状況は良くなっているし、仕事やタスクの内容によっては出社したほうがずっと能率が良くなったりそもそも家では行うことが不可能だったりするという面もあるのだが、それはそれとして、会社員として賃労働することには、本質的に、人生における大事な物事を蔑ろにさせられるというところがあるのだろう(とくに日本企業で経営者になったり管理職として出世できたりするタイプの人ほど、仕事や金儲けに楽しさを感じる代わりにプライヴェートや生活は大事に思っておらず、そしてルールやシステムを決定するのは経営者であったり出世した管理職であったりするので、プライヴェートや生活が尊重されない状況が出来上がる……という構図にもなっているだろう)。

 

会社員として働きつつ諸々の出来事に直面したり夏風邪やコロナになったりしたおかげで、時間的・精神的・体調的にまったく余裕がなくなり、今年は作家業のほうの仕事はほとんどできなかった。最後の仕事は新宿ブックファーストのフェア「名著百選」で推薦文を書いたというもの。

 

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 コロナの後遺症であるブレインフォグの症状がしばらく残っていたことも大きい。結婚している以上は土日だからといって妻のことを無視して執筆し続けるわけにもいかないし、わたしとしても平日は仕事で疲れているのだから休日は妻や友人と遊びに行ったり旅行に行ったり休養したりしたい。2021年以前は早起きして早朝に執筆することで会社員と作家業をなんとか両立できていたのだが、今年はあまりに疲れることが多かったり猫の夜泣きや夏風邪にコロナの影響などで出社日以外に早朝に起きることがぜんぜんできなくなってしまった。……来年からは出社日が増えるにつれて生活リズムはいやでも改善されると思うけれど、仕事はさらに忙しくなるので執筆に避ける余裕をどこまで保てるか、という不安もある。

 2冊目の単著の執筆も今年は停止していたが、なんとか来年内に出版する予定だ(編集者からも「そろそろ仕上げてもらわないとマズい」と釘を刺されていることだし)。次の本を出せるならその前後に雑誌記事やWeb記事の依頼もまた来るだろう。……とはいえ、ベストセラーにもならない限り、作家業で得られる収入は会社員として働くことで得られる収入に比べると微々たるものであるというのがつらいところだ。執筆にせよ、学会への参加やトークイベントの準備などにせよ、妻からすれば「趣味」や「遊び」だと思われているようで非協力的な態度を取られるのだが、実際問題として収入やキャリアに直結しないという点で「仕事」と言えるほどのものでもないのもたしかだから、こちらとしても強い態度はとれない。

 本を書くほうではなく読むほうにしても、今年はやはり停滞してしまった。……それでも一般的な社会人の何倍もの本は読んでいるだろうし、また数年前に上京して会社員を始めた時期に比べると読書に割ける時間はずっと安定して確保できるようになっているのだけれど、それでも「これでは足りない」と思ってしまう。2冊目やそれ以降に執筆する予定の単著の参考文献やネタ元にするために読み続けているというところもあるが、それ以上に、今年は自分の精神的な健康を保つために読書をしているという面が強かった。

 会社員としての仕事を始めてからも前半は洋書も多少は読むことができていたが、徐々に忙しくなったり余裕がなくなったりしていったので、後半からは新書本を読んだりVery Short Intoductionシリーズの翻訳を読んだりするのがメインになっていった。社会人としての仕事や家事に忙殺されていたりテレビ番組ばかり見たりしているとどうしても世俗的で短絡的な考え方や発想に毒されていくので、いろいろな学問分野の良質な入門書を読んでそれをまとめた読書メモを定期的に執筆することで思考のデトックスを行なっていたという感じだ(手に取った本の内容がしょうもないときには逆効果にもなっていたけど)。本を手に取ったらできるだけ最後まで読み終えてブログに記事を書くようにしているのだが(そうしなければ本の内容をきちんと理解したり消化したりしたという感覚を得ることができない)、そうなると一冊の本あたりにかかる日数は長くなるし、週末に遊びやお出かけの予定が重なったら新書を読むのもままならない。当然のことながら学術書を読むのはさらに大変であり、11月の長期休暇に読み始めたヌスバウムの『感情と法』もいまだに読み終えられていない。読むだけでなく書くスピードも遅くなっていて、これはコロナの後遺症がいまだに後を引いている可能性もあるだろうし、読んだり書いたりすることが当たり前だった状況から離れたことで慣れや勘所が失われているというのもあるだろう。

 

 ……と、ネガティブな話題ばかりになってしまったが、ポジティブな話題としては、この一年で金銭的にはそれなりに余裕ができたというのがある。当たり前のことだが、会社員として働くことで定期的に給与をもらえたりボーナスをもらえたりするようになったからだ。コンビニまで行って保険料や税金を自分で納める必要がなくなったのは金銭的だけでなく精神的にもプラスになる。また、引っ越しには金がかかったが、二人で暮らし始めると家賃だけでなく光熱費や食費やネット料金なんかも折半になることの影響は想像していた以上にデカかった。おかげで旅行も行きやすくなったし記念日の出費にもそこまでつらさを感じないようになった。

 とはいえ、一般的な30代の男性の平均から見ると貯金の金額はいまだにカスみたいなものである。というわけで、この一年間いろいろ大変だったことなので、クリスマスプレゼントがてらにご支援を募集します。以下のAmazonほしい物リストから飲料でも薬でも本でもなんでもいいのでなんか買ってください(Twitterをやっていた頃は定期的に支援してもらえていたが最近はすっかりなくなっちゃった)。「本が読めなくなった」という話をしておいて本を希望するのもヘンな話だけど、そのうち読書の習慣も取り戻せるでしょう。

 

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インターネット時代におけるマスメディアの必要性(読書メモ:『マスメディアとは何か 影響力の正体』)

 

 

 マスメディアを研究する分野といってもさまざまにあるだろうが、本書の内容は「マスメディアが人々にもたらす影響をデータを用いて科学的に検証する研究分野」である「メディア効果論」に立脚しており、「取材方法などに関する情報の送り手についての議論ではなく、視聴者などの受け手に対する影響」に関する議論がメインとなっている(p.v)。

 そして本書のもうひとつの特徴は、マスメディアを擁護したり肯定したりする議論がたびたび登場すること。市井の人々がマスメディアに対して抱いているさまざまなイメージ……「偏っている」「人々を洗脳している」「何も影響力がない」「オワコンだ」……が誤っていることを指摘して、マスメディアの影響力について冷静に分析しながら、その存在が民主主義社会には不可欠であることが主張されているのである。とくに終盤の第5章と第6章では「インターネットがマスメディアに取って代わる」というネット黎明期にあった期待がまったくの幻想であったことを鋭く論じたうえで、インターネット時代であるからこそのマスメディアの必要性が説かれている。……本文中にも書かれているが、著者のような「マスコミ擁護派」はメディア研究者のなかでも少数派な存在であるようだが。

 また、本書はメディア効果論の学説史というかレビューのようにもなっており、専門外の研究者や実務家にもわかりやすくメディア効果論の知見を参照できるようになっているとともに、著者としては「次代のメディア効果論の研究者の育成」という点も意識しながら書いたものらしい(p.252)。そのため、専門外の読者にとってはマイナーな研究者の名前がいっぱい出てくるほか、各研究についても研究手法やそれに伴う研究結果・研究範囲の限界などが細かく紹介されている。「研究成果」だけでなく「研究手法」も詳しく伝えることは本書に限らず最近の新書本ではよく見受けられることだし*1、読者に自分や自分野で主張されていることを鵜呑みにさせず、より注意深く考えさせることに誘うという点で基本的には好ましいことだが、それにしてもかなり詳細かつ堅い筆致なのでアカデミックな文献になれてない読者にとっては読みものとしてつらいところがあるかもしれない。

 

 第1章は、初期(戦後)のマスメディア研究で盛んに主張されていた「強力効果論」について。「文字通りマスメディアが強力な効果を持つという前提に立つ」「メディアの効果がすべての人に対して即時的、直接的に及ぶものだという想定に特徴づけられる」(p.5)議論で、ナチスプロパガンダに対する反省や「なぜナチスの宣伝はあれほど強力だったのか」という疑問からスタートしたらしい。ただし、現代ではそもそも「ナチスプロパガンダが強力だった」というイメージ自体が誇張されていたものであることが明らかになっている*2。また、「『宇宙戦争」事件」に関する研究も取り上げられているが、「メディアの影響力は誰にでもいつでも働くわけではなく、フェイクニュースに騙されるかどうかも、そのニュースを受信した人が批判的思考能力を働かせられる状況にあったかどうかや、身近な人からの影響があったかどうかに左右される」といった結論になっている。

 第2章では、マスメディアの影響力は限定的であると主張する「限定効果論」が扱われている。この章では「対人コミュニケーション」や「選択的接触」がキーワードとなっており、マスメディアと個人の間には「個人の所属する集団」や「集団内のバリア」があること、またどのような情報に接触したりどのような情報を受け入れたりするかは個人側の動機や心理に認知過程などにも影響されているから、マスメディアがただ情報を発信するだけでみんながその情報に影響されるわけではない、といったことが論じられている。

 具体的に紹介される知見は、「選挙においてマスメディアが人々の投票先を変えたわけではなかった(もともと所属していた集団の影響力のほうが強かった)」「マスメディアの情報を集団内のオピニオンリーダーが受け取り、リーダーから非リーダーの人たちにその情報が伝達される(コミュニケーションの二段の流れ)」「個人は自分の信念や都合に合わなくて認知的不協和を生じさせられるような情報を回避して、都合の良い情報にばかり接触する(選択的接触)」といった知見が紹介されたのちに、メディア研究におけるエビデンスや体系や研究史といったポイントについても論じられている。

 限定効果論は強力効果論に比べるとエビデンスや数字に裏付けられたものではあったようだが、「マスメディアは大した影響力を持たない」という結論は研究者にとってもそれを支援する企業にとっても魅力的ではなく、マスメディア研究の一時停滞を招いた。また、限定効果論に対しては「マスメディアの影響力を過小評価することでマスメディアの権力性を覆い隠している」という批判がなされた一方で、限定効果論を肯定する研究者たちにも「巨大なマスメディアの影響力に抵抗する能動性を持った市民たち」という物語に引っ張られていた側面があるそうだ。前者の批判は科学的知見を無視しているし、後者は人間の心理的な特徴や制限に過ぎないものを美化して捉えている、というのが著者の指摘だ。いずれにせよ、マスメディアの影響力を過大評価することには警戒すべきである……「人々をプロパガンダから守るためにマスメディアを規制すべきだ」という主張ほど政治的権力に都合のよいものはないから……と著者は主張する。

 

 第3章では、限定効果論の研究結果にも限らずなぜマスメディアの影響力は大きく見積もられがちなのであるかが論じられて、「「マスメディアを疑う」ということを疑う視点」(p.85)が提供される。ここで主に論じられるのは、「自分はマスメディアの影響を受けないが、他の人たちはマスメディアに容易く影響されてしまう」と認識してしまう「第三者効果」というバイアス、そして実態以上にマスメディアが偏向していると認識してしまう「敵対的メディア認知」というバイアスだ。

 第三者効果は心理学の本などでもよく紹介されるものだ。人は「自己高揚傾向」「内観の幻想」によって自分の意見は熟考にもとづく(優れた)ものであると思いがちだが、他人の意見については「マスコミに影響されているんだろう」「SNS上のフェイクニュースに踊らされたものにすぎない」と容易く判断してしまうということである。また、敵対的メディア認知は、「マスメディアは偏向している」と主張している個人の側の党派性や「選択的記憶」(自分の立場に沿わない情報のほうが印象に残って優先的に記憶される)などが原因で生じる。そして、著者は「少なくとも日本のマスメディア事業者が発信する政治的ニュースについては、特定の方向への偏向は比較的起こりにくいと考えられる」(p.110)として、「マスメディアの偏向報道」がオーバーに表現されていることを改めて指摘する。

 そもそも、日本のテレビ・ラジオは政治ニュースについては放送法によって報道の公平性を保つことが厳しく要求されている(ただし新聞やウェブ記事はその限りではない)。また、テレビ局も新聞社も営利企業であるために「顧客」の意向を気にする必要があるが(NHKも視聴率は受信料徴収の正当性を維持するために視聴率は気にする必要がある)、日本は右でも左でもなく中間に有権者がたくさんいる国なので、偏向報道潜在的な顧客を減らすから、政治的ニュースは中立なものとなる。……著者の主張には異論があるだろうが(「マスコミは偏向している」と主張する人はテレビよりも新聞を標的にしているかもしれないし、報道ニュースなどではなく討論番組とかバラエティ番組などにおける「偏向」や「洗脳」を問題視しているかもしれない)、わたしとしては賛同できる。まあわたしが念頭に置いている比較対象がアメリカだからということがあるかもしれないけれど(アメリカでは報道における「公平性の原則」が撤廃されており、有権者の政治的二極化も激しくなっているから、本書の議論にしたがっても、アメリカのマスメディアが偏向している可能性は否定できないように思える)。

 

 第4章で紹介されるのは1970年代以降に登場した「新しい強力効果論」であり、直接的に観察可能な投票行動ではなく人々の目に見えない認知過程にマスメディアがもたらす影響について論じられている。

 具体的には、マスメディアは「あるトピックに対して人々はどんな考えを抱くのか」ということには影響できないが、「議題設定」や「ゲートキーピング」を行うことで「そもそも人々がどんなトピックについて考えるか」ということには影響力を与えられる。たとえば選挙においては、マスメディアは人々の支持政党には影響を与えられなくても、選挙における「争点」を設定する能力はあるのだ(または「どんなトピックが由々しき社会問題であるか」ということも報道によって設定されたりする)。

 そして、同じトピックであっても、どのような「フレーム」で報道されるかによって人々の認識に与えられる影響は変わる。たとえば、問題の背景を一般化・抽象化して論じる「テーマ型」の報道よりも特定の人物や出来事に注目した「エピソード型」の報道のほうが人々の印象に残りやすい(また、たとえば貧困問題について特定の個人にフォーカスしたエピソード型で報道することは、報道の意図とは裏腹に自己責任論を招きやすいという問題も紹介されている)。

 さらに、テレビというメディアには人々の間に「共通の世界観」を培養するという特性もある(培養理論)。テレビは読み書きが苦手でも視聴できるから多数の人が触れてきたうえに、自ら能動的に選択しなくても常に番組が流されるために「選択的接触」が回避されやすい。そのため、好むと好まざるとにかかわらず、「いま世の中ではこんなことが起こっていますよ」とか「いまの社会はこんなことになっていますよ」とかいった認識が視聴者たちの間に培われていき、意見も似通っていて世論の「主流」が形成されるのだ(右派や左派の人であっても、テレビの視聴時間が長ければ長いほど、諸々のトピックに関する意見は中道に寄っていく)。……もちろんメディアが万能なわけではなく、現実世界の制約をすべて超えられるわけでもないが、現実認識に与えられる影響力はやはり大きなものである。そして、マスメディアが恣意的に情報を選択して争点を設定できるというのは、やはり人々の自由とか民主主義とかには相反するところがあるので、1990年代以降のメディア研究ではインターネットに大きな期待がかけられることになった。

 

 第5章は、そのインターネットの問題について。基本的には「インターネットは個人の選好の強化を助長する」というのが主な問題であり、ネットでは既存メディア以上に選択的接触が激化するしSNSでは自分と似た傾向を持つ他者とつながってしまうし(類同性)、さらに検索エンジンSNSの側も個人の選好に沿った情報を表示するパーソナライゼーションを行うために、認知的不協和を引き起こすような情報はまったく目にせず知りたい情報だけに囲まれて過ごすことが可能になってしまう……その結果としてエコーチェンバーやフィルターバブルなどの社会的に有害な現象が引き起こされたり、意見の異なる者同士が最低限の情報共有や共通認識を成立させることも難しくなって民主主義に危機がもたらされたりする、という議論だ。

 この議論自体は、本文中にも出てくるキャス・サンスティーンが15年くらい前から指摘していたことでもあるし、いまやお馴染みの感もある。とはいえ、従来のマスメディアは偏向しておらず「中立」であったからテレビや新聞は視聴者や読者が抱いているのと反対の意見を届けられていたことなどが強調されているのは、本書の議論の文脈に沿っていて印象的だ。また、検索エンジンSNSアルゴリズムよりもユーザー個々人の類同性にもとづいた選択がフィルターバブルを作り出すことが指摘されているなど、わたしたちがネット環境の単なる犠牲者でもないことに触れられているのは重要だと思う。そして、やや意外なのが、「Yahoo!ニュース」や「SmartNews」などの「ニュースアグリゲーター」は、ニュース記事にせよ意見記事にせよ多様な情報に読者を触れさせる仕組みなので、選択的接触やエコーチェンバーを抑制する効果があるという指摘である。

 ネットの発展に伴い「注意経済(アテンション・エコノミー)」が活発化した現在では、ネットによって右派や左派の偏向が過激化するという問題以上に、そもそも政治ニュースに触れない人々が増加する可能性のほうが深刻である。みんながテレビを視聴していた時代には政治に興味がない人でも朝や夕方にはニュースを目にすることで自然と政治についての知識を獲得するという「副産物的政治学習」が行われていたが、自分の好きな分野の情報に選択的に触れているだけで注意力や時間が全て消耗されるようになった現在では、政治的な知識を得る人はもともと政治に興味のある人……つまり多かれ少なかれ右が左に偏っている人だけなので、中間的な意見と浮動票を持つ有権者が選挙に足を運ぶ機会も減っていくのだ。

 だが、インターネットの欠点はマスメディアを経由した仕組みによって抑えられる、とも著者は論じている。たとえばヤフー・ジャパンのトップページには常に8本のニュースが表示されているが、この記事の選択はデータ分析によって自動的に行われているのではなく人力で行われているうえに、パーソナライゼーションがされることはなくどのユーザーにも同じ記事が表示され、そして政治や経済や国際といったハードニュースが必ず含まれる。このようなポータルニュースの利用者は、政治よりも娯楽に興味がある人であっても政治的知識を得られやすいのだ。

 

これは、ポータルサイトなどのニュースアグリゲーターが、インターネット上のサービスでありながら、以下に述べるようなマスメディアとしての特徴を持つがゆえである。1つ目は、日本におけるヤフー・ジャパンに代表されるように、利用者の規模が大きい(マス)という点である。2つ目は、これらのサイトに掲載されている記事の多くは、テレビ・新聞といった既存のマスメディア事業者によって作成されたものであるという点である。そして3つ目は、個人の選好のみにもとづくパーソナライゼーションによって表示する記事を決定するのではなく、多くの人が知るべきだと考えられる重要なニュースをすべてのユーザーに等しく表示しているという点である。

(p.227)

 

2000年代の中ごろまでは、ブログや市民メディアがニュース発信者としてマスメディアの地位を脅かすかのような言説も存在したが、継続的にジャーナリストを育成し、ニュースを発信し続ける既存のマスメディア事業者の役割を代替する存在とはなりえなかった。結局、人々のボトムアップによる情報発信のみではメディアは成立せず、ジャーナリストなどによる取材・執筆と専門家によるトップダウンの編集が必要となることは、新しい技術が社会にもたらす変化(もっといえば、新しい技術が作る未来)について楽観的に描く雑誌『ワイアード(Wired)』を創刊したケヴィン・ケリーですら、認めざるをえなかった。なお、政治家などのニュース当事者によるSNSを通じた情報発信は盛んに行われているが、これは自らが伝えたい情報のみを発信する広報であり、たとえば汚職や不祥事などの本人が伝えたくない情報も伝える報道とは異なる。また、記事の自動生成を行う自然言語処理の技術がいかに進歩したとしても、日々変化し続けるニュースについて、人間の手によって書かれた良質なデータが供給され続けない限り、記事を生成し続けることは難しい。

(p.228 - 229)

 

 ただし、ニュースアグリゲーターがマスメディアから安価に記事を買い叩くことでマスメディアが利益を上げられなくなり、ジャーナリストの育成や良質な記事の作成もままならなくなれば、結果としてニュースアグリゲーターも共倒れする危険性はある。インターネット事業者としてはそういう点にも注意しながら、パーソラナイゼーションを行って個人の選好に沿った情報を表示するだけでなく、選好とは無関係の情報を届けることが民主主義を持続させるための社会責任として求められているのだ。

 というわけで、最終章である第6章では「マスメディアは社会にとって必要な存在である」(p.236)という結論が改めて提示される。また、この章では、ネットやAIなどの技術が発展した状態でもその技術をどう用いるかには人々の主体性が介入する余地があるとして技術決定論を退けながら、メディア環境を守ることの必要性が主張されている。

 

メディア環境の改善においてマスメディアが果たすべき役割は「人々が見るべき情報をなるべく多くの人に等しく届ける」ことである。「自分が見たい情報は自分自身が一番よく知っているのだから、見るべき情報をマスメディアが決めるのは傲慢だ」という意見もあるだろう。しかし、個人としては自分の見たい情報を見続ければそれでよいが、すべての人が自分の見たい情報だけを見るようになれば、少なくとも民主主義は機能不全に陥り、結果として個人も不利益を被る。こうした社会的ジレンマ状況を考慮しなければならない。したがって、傲慢に思えても、誰かが情報を選択する役割を担わなければならないのである。

 

(p. 248 - 249)

 

 この結論に対してはネット民からは反発も多いだろうが、わたしとしては充分に同意できる。……イーロン・マスク買収前のTwitterでニュースメディアのキュレーションが行われたことが発覚した件を見ると、情報をキュレーションするとしても、「キュレーションをしている」という事実そのものはオープンにしたり、キュレーションにあたっての基準などに関する公開性や透明性にはかなり気を付けるべきだとは思うが(そうしないと反動を招いてメディア不信がさらに悪化してしまうので)。……一方で、はてなブックマークポータルサイトでありながら専門家によるキュレーションが行われていないWebサイトであるが、現在の(それ以前からの?)この惨状を見ると、やはり専門性に基づいたトップダウンによる情報や記事の選別って必要なんだなと思わされる。

 

 全体的には、テレビメディアが世の中に対してポジティブな効能をもたらしていることが色々と指摘されているところが印象に残った。また、本書を読んでいてたびたび思い出したのが、中学生だか高校生だかのときに社会の先生が授業で言っていた「新聞を読みなさい」という説教だ。要するにマンガばかり読んだりゲームでばかり遊んでいたりバラエティ番組ばかり見ている学生に対して「もういい歳なんだから新聞を隅々まで読んで、世の中で何が起こっているかを知りなさい」ということなのだが、ふと振り返ってみると、わたしを含めた現代社会の大人の多くが当時の中学生と同レベルになっていること……自分の知りたい情報だけを追って他の情報は気にもかけない人間になってしまっているわけである。今後は気をつけていきましょう(……とはいえ、だからといって新聞を購読するのは金銭的にも二の足を踏んでしまうし保管スペースやゴミの処理などにも困るし、テレビだって我が家にはないし購入したところでニュース番組を流す習慣はもう失われているしで、「選択的接触」を予防するために自分の身のまわりの環境を整えるというだけでも、実行するのはなかなか大変で厄介である)。