道徳的動物日記

倫理学、社会科学、時事問題、世相などについて論じます。

読書メモ:きみの脳はなぜ「愚かな選択」をしてしまうのか:意思決定の進化論』

 

 

 

 同じ著者のダグラス・ケンリックが書いている『野蛮な進化心理学』は名著なんだけれど*1、こちらはなぜだかやたらとつまらない。ヘンな嫌味が多いのがダメなんだと思う。

 

『野蛮な進化心理学』のときと較べて、「七人の下位自己」という「心のモジュール性」を強調した内容となっている。わたしたちのなかには自己防衛・病気回避・協力関係・地位・配偶者獲得・配偶者保持・親族養育をそれぞれの目的とする下位自己が存在しており、異なる場面で異なる下位自己が顔を出すため、ついつい言行不一致になったり矛盾した行動をとっちゃったりする、というお話。しかし、「心のモジュール性」やそれから生じる自己欺瞞の話題については、ロバート・クルツバンの『だれもが偽善者になる本当の理由』のほうがずっと面白い*2。『野蛮な進化心理学』で打ち出された「ケンリックのピラミッド」はこの本でも出てくるが、やっぱりこっちの話をメインにしたほうがいい。

 また、この本では「経済学的には不合理に見える行動が、実は、進化的には深い合理性に裏打ちされた行動なのだ」ということが何度も主張されている。この主張自体はかなり興味深く、深掘りしたら哲学的にも相当面白い内容になりそうなのだが、有名人とか実際に起きた事件のどうでもいいエピソードとしょうもない皮肉が連続するためになんだか全然のめり込めない。たとえば、「政治的な投票は経済的な利益ではないもっと複雑で多様な利益を反映したものだ」というポイントを実証的な政治学研究で示した、またもやロバート・クルツバンの The Hidden Agenda of the Political Mind: How Self-Interest Shapes Our Opinions and Why We Won't Admit It のほうがずっとよいです*3

 

…深くのぞけばのぞくほど、人の決定は、表面上ばかげていて不合理な場合があっても、たいていは深い進化レベルで理にかなった無意識のプログラムが導き出したものであることが見えてくる。たとえ意思決定をしている人が決定の背後にある進化上の理屈を説明できないとしても、人は進化上の利害にだいたいは都合の都合のいい決定をくだすよう進化してきた。だから、自分が全知の経済人だとは考えないほうがいいし、ほかの人が自滅的な愚か者だと思わないほうが身のためだ。

(p.295)

 

↑ 本書のコアとなる主張。

 

(「ザ・バチェラー」とは)対照的に、「ザ・バチェロレッテ」では、二五人の男性がひとりの幸運な女性のプロポーズするために競い合う。男性たちは、彼女にしたい女性の前では礼儀正しく気品があり、いかに自分が身を固めて子どもをもちたがっているかを女性に力説する。その一方で、女性がまわりにいないと、男性たちはけだもののように素手で殴り合いをはじめる。男女比が暴力におよぼす影響は笑いごとではすまない。インドでは地域によって男女比が大きく異なり、男女比が一パーセント変化すると、殺人率が五パーセント変化する。殺人は、女性が希少だと劇的に増加する。

(p.255)

 

 ここらへんはやっぱり「男性の暴力性」を考えるうえでのカギとなるだろう。

 

読書メモ:『生きづらさはどこから来るかー進化心理学で考える』&『進化心理学入門』

 

 

 

 

 

 図書館の返却期限が迫っていたので、あわてて読んで返した(とはいえ『進化心理学入門』のほうは再読)。

 

『生きづらさはどこから来るか』は「男性は論理コミュニケーション、女性は共感コミュニケーション」といったかなり素朴な男女論が展開されており、やや危ういところもあるが、中高生向けの「ちくまプリマー新書」ということを考えるとこれくらい単純かしてもまあいいかなと思う。

 わたしは以前に晶文社の連載でサイモン・バロン=コーエンの『共感する女脳、システム化する男脳』を持ち出した記事を書いたら炎上しちゃったけれど*1、『生きづらさはどこから来るか』でもバロン=コーエンの議論が出てきた。

『科学の女性差別とたたかう』など*2、バロン=コーエンの議論は「脳科学的」には批判されているようであり、男脳・女脳が発生するメカニズムの説明には危ういところもあるようだが(『科学の女性差別とたたかう』もアンフェアな内容ではあったと思うけれど)、進化心理的な考え方を前提とした人の多くはバロン=コーエンに好意的だ。

 実のところ、男女の違いがに由来するかどうかはさして重要でなくて、原因となる具体的な生理的メカニズムがなんであろうと、男女には平均的な傾向の違いが生得的に存在するという結果があることと、それぞれの違いには進化的に説明がつけられること(繁殖戦略の違い)、のほうが重要であるのだ。だから、議論を「脳科学」に狭めて証拠が出ている出ていないなどとやるのもけっこう筋違いなのである。じゃあ脳のせいじゃなかったらどんなメカニズムやねんと言われると、わたしは科学者じゃないからわかんない。

『生きづらさはどこから来るか』では一卵性双生児研究を用いた諸々の性格・能力特性の遺伝率が示されている図がいちばん面白かった(パーソナリティ特性のビッグ・ファイヴでは「経験への解放性」がいちばん遺伝率が低い、というのもなんだか示唆的)。また、「男性性」と「女性性」はもとから男女それぞれに存在すること、女性性が高い男性になることや男性性が高い女性になることにも遺伝が関わっていること、なども示されている点が特徴的だ。

 幸福感や「自分さがし」に関する議論など、タイトル通りに「生きづらさ」というとピックにも触れられている。しかしこの点に関しては『「生きにくさ」はどこからくるのか』のほうがずっと内容が深いかな(しかしややこしいタイトルだな)*3

 

進化心理学入門』のほうは、タイトル通りのかちっとした入門書という感じ。デビッド・バスの研究を引用しながら「女性の上方婚志向」や「男性の若い女フェチ」なども示されているので、そういう話題が好きな人も読んでみるとよいだろう。

 

 

 

『ニコマコス倫理学』読書メモ

 

 他の箇所で細々と書いていたメモを、こちらにまとめる。上巻はしっかり読んだけど、下巻ではかなり力尽きています。たぶん誤字脱字もかなり含んでいるけどとりあえず無視。

 

(まずは上巻)

 

 

 

 

徳と習慣の関係、徳と快楽の関係について

 

したがって徳は二種類あり、知的な徳と人柄の徳がある。そして知的な徳はその大部分が教示によって生まれて、教示によって伸びてゆく。それゆえにそれは、経験と時間を要する。他方、人柄の徳は〔行為の〕習慣から生まれるものである。

(…中略…)

それゆえ、もろもろの徳は、生まれつき自然にわれわれに内在しているのでもなければ、自然に反してわれわれに内在かするのでもない。われわれは徳を受け入れるように自然に生まれついているのではあるが、しかしわれわれが現実に完全な者となるのは、習慣を通じてのことなのである

(p.100 -101)

 

これに対して、もろもろの徳をわれわれが得るのは、予め活動したからである。これは、ほかの技術の場合と同様である。学んで為すべき事柄であれば、われわれはその事柄を実際に為しながら学ぶのである。

(p.102)

 

実際、人々に対するさまざまなやりとりを実践するなかで、われわれのうちの或る者は正しい人になり、或る者は不正な人になるのだし、恐ろしい状況でもろもろの事柄を為しながら、恐れる習慣か、あるいは臆しない習慣かのどちらかを身につけるので、それでわれわれのうちの或る者は勇気ある人に、また別の或る者は臆病になるのである。

(…中略…)

そこで一言でまとめるなら、性向は、その性向と同じような活動から生じるのである。

(p.104)

 

しかし、同じ活動から同じ原因によって起こるのは、徳の形成と増強と消滅だけではない。これらの徳を発揮する現実の活動もまた、同じように成立している。実際、例えば体の強さの場合のように、徳とは別のもっと明瞭な事柄においてもこのとおりの事情なのである。すなわち、多くの栄養を摂取し多くの労苦に耐えることから強い人が生まれるが、そのように多くの栄養を摂取し多くの労苦に耐えるということをもっともよく為しうるのはだれかと言えば、それは、現に体の強い人にほかならない。ーー諸々の徳に関しても、これと同様である。なぜなら、さまざまな快楽を慎むことからは節制の人が生まれるが、それと同時に、節制の人になった場合にこそ、われわれは快楽を慎むことを、もっともよく為しうるからである。結城についてもこれと同様である。というのも、恐ろしいことを見下し、それにも踏みとどまるという習慣がついたときにわれわれは勇気ある人になるのだが、それだけでなく、いったんはほんとうに勇気ある人になっときに、われわれは恐ろしいことにも踏みとどまるということを、もっともよく為しうるからである。

(p.110) 

 

そしてわれわれは、さまざまなはたらきに伴って感じる快楽と苦痛を、〔魂の〕もろもろの性向がいかなるものかを明かしてくれる徴とすべきである。実際、身体的快楽を慎み、かつ慎むことそのことに喜びを感じる人が節制の人であり、 慎むことなどいやだと苦痛に感じる人は放埒な人である。また、恐ろしいことにも踏みとどまり、かつそのことを喜ぶか、あるいは少なくともそのことをいやだと感じないような人が勇気ある人であり、踏みとどまることはいやだと苦痛に感じる人は、臆病な人である。なぜなら、人柄の徳とは〔そもそも〕、快楽と苦痛にかかわりをもつようなものだからである。つまり、われわれは快楽のゆえに劣悪なことを為し、また苦痛ゆえに立派なことを敬遠するのである。

(p.112)

 

徳と悪徳が〔快楽と苦痛という〕同じものにかかわるというここでの結論は、以下のような考察からもわれわれにとって明らかになるだろう。すなわち、選び取る際に重要となるものは三つあり、避ける際に重要となるものも三つある。それはまず〔選択に向けては〕美と有益性と快さであり、その反対の〔避けるときの〕ほうは、醜悪さ、有害性、苦しさである。そしてこれらすべてにかんし、善き人とは正しく振る舞うような人であり、悪しき人とは誤りを犯しがちな人である。しかし、それだけなく、なかでも人がもっとも誤るのは、快楽にかんしてなのである。というのも、快楽は動物と共通のものであると同時に、何を選び取るにしてもそこにかならず感じられるものでもあるからである。なぜなら、美しいものも、有益なものも、われわれには快いものに思えるからである。

(p.114 - 115) 

 

さらに、ヘラクレイトスも言うとおり、「自らの激情と戦うことは困難である」のだが、その激情と戦うことより、自らの快楽と戦うことのほうがさらにいっそう困難であり、技術も徳もともに、このような「より困難なこと」の解決に常にかかわってきたものなのである。なぜなら、より困難な課題においてすぐれていることこそ、そうでない課題においてすぐれていることにくらべ、いっそうすぐれているからである。したがって、この事情からも、徳にとっても政治学〔と倫理学〕にとっても、その前問題は快楽と苦痛にかかわるものだということになる。なぜなら、快苦にすぐれたしかたで対処する人は善き人であり、対処の仕方が劣悪な人は悪しき人だからである。

(p.116) 

 

 長々と引用してしまったけれど、とくに有意義なコメントは思いつかない。

 

 たしかに、快楽にかんするコントロールがヘタクソであったり、習慣による自己研鑽などをしている様子がない人を見ていると、「徳がなさそうだなコイツ」と感じることは多々ある。

 マシュマロ・テストは再現性がないとかいう話があったが、しかし、わたしたちの直感には実によくマッチする。たとえば仕事中にお菓子を貪り食ったり甘いジュースをガバガバ飲む人は、よほど仕事ができる人ではない限りは、そうでない人に比べて軽んじられることが普通だ。もちろんタバコをバカスカ吸ったり、ついついお酒を飲んでしまう人もダメ(これは自分自身に跳ね返ってくるな)。マシュマロを我慢できる子どもは、やっぱり、有徳な大人に育ちそうな素質を感じさせるものだ。

 

「徳は習慣や活動から生じる」という考え方も、その通りであるなと思う。自分自身の人生を振り返っても、大学のサークルの部長として責任感を持って行動したりボランティアに関わったりしていたときには、行動から人格や心構えが影響されて有徳っぽい人になれていた(残念ながら、有徳っぽい人に慣れている期間はそう長くは継続できなかったけれど)。ちょっと認知行動療法的な考え方でもあり、さすがアリストテレスの考え方は現代も通じそうだ。

 

ーーそれゆえ、このようにして、「正しいことを為すことから正義の人になり、節制あることを為すことから節制の人になる」というあの説は、正しいのである。そして、そうした〔すぐれた〕ことを為さないならば、 だれひとりとして善き人になれる見込みはないだろう。しかしそれにもかかわらず、多くの人々はすぐれたことを為さないまま〔ただの言葉による〕議論へと逃れて、自分は知恵を愛していると思い、そんなやり方ですぐれた人間になれると思っているのである。だがこれは、医者の言うことに注意深く耳を傾けながらも、医者が処方したことを何ひとつ実行しない患者と、同じようなことをしているだけなのである。したがって、そうした患者がこのような態度で治療を受けても身体を健康状態にできないのと同様、先ほどの多くの人々も、そのような〔浅薄な〕仕方で「知恵を愛する」ならば、魂をすぐれた性向にすることはできないだろう。

(p.121 -122)

 

 現代のいろんな知識人や論客にとっては耳の痛い一節であるはずだ(わたしにとっても他人事ではない)。

 

アリストテレスの「自己責任論」?

 

…したがって、もし美しい行為を為すことがわれわれ次第なら、醜い行為を為すこともまたわれわれ次第であるし、もし美しい行為を差し控えることがわれわれ次第なら、醜い行為を差し控えることもわれわれ次第である。すると、美しいことや醜いことを為すことが、そして同様にそれらを差し控え、為さないことがわれわれ次第であるならば、また、そのように美しいことと醜いことを為したり為さなかったりすることこそが善い人であり悪い人であるということだったとすれば、以上のことから結局、高潔な人であるか劣悪な人であるかは、われわれ次第ということになる。

(p.190 - 191)

 

さらに、不正を為している人が不正であることを望んでいないとか、放埒にふるまっている人が放埒であることを望んでいないということは理屈に合わない。もし人が、不正な人になるようなことを、そのことに無知でない状態で為すならば、その人は自発的に不正な人になるのであろう。 

(…中略…)

そのようにして、不正な人や放埒な人の場合でも、そのような人にならないことが最初は可能であったのだから、かれらがそのような人であることは、自発的なことなのである。そして、いったんそうなった人たちにとって、そうではないことは、もはや不可能なのである。

(p.194 - 195)

 

さて、以上により、徳についてその類が大まかに語られてきた。すなわち、徳とは、中間性であるということ、特定の行為から生じる傾向であるということ、自らに基づいて為されるものであるということ、われわれ次第でありそして自発的なものであるということ(引用者による強調)、そして正しい理由が命じるところに従うものであるということ、以上のことが語られてきた。

(p.199) 

 

 この言い分は現代人の目にはちょっと厳しく苛烈なものであるように聞こえるかもしれない。昨今批判されている「自己責任論」と通底するところを見出す人もいるだろう。

 とはいえ、近頃ではある種の"社会学的"発想を誰も彼もが身に付けたおかげで、責任という概念時代がどこかに言っているようにも思える。現実の学校とか会社とかはそういう風にまわっていないが(むしろ悪い意味での「自己責任論」は現実の社会ではバリバリ健在であるだろう)、思想や言論やブログやSNSの世界では責任という概念を相対化する考え方ばっかりが跋扈しているのだ。

 そして、いくら現実の社会では「自己責任論」が過剰であるとはいえ、思想の世界でのみ「自己責任」を解体していても、それがバランスを取ったり中和したりするという作用を生み出せるとは思えない。むしろ、思想や言論は現実世界における自己責任論に耐えられない人のシェルターとしてしか機能していない。シェルターのなかで人が守られるのはいいことかもしれないが、快適で安楽なシェルターに甘えきって現実世界への復帰ができなくなるとしたら考えものだ(で、実際にそうなっちゃっている人はいっぱいいると思う)。

 なにより、「責任」という概念は決して虚構ではないし、わたしたちの社会から「責任」という概念を取り除くことはそもそも不可能だ。そして、個人同士の関わりや私的なグループのあいだでも、自分自身や他人について考えて評価するときには、「責任」という概念は必要とされるだろう。

 要するに、「ダメなやつのダメさには、多かれ少なかれそいつ自身にも責任がある」という考え方は否定されるべきものではなく、むしろ真っ当な考え方であるということだ。

 そして、このような考え方は、ある種の"社会学的"な発想よりもずっとフェアなものである。

 たとえば、下記に引用するような考え方は、一見すると優しく視野が広いものとして受け止められるかもしれないが、わたしには、個人が持つ人格や人間性を無視したグロテスクで独善的な発想であるようにしか思えないのだ*1

 

お金がないとよぶんな支出をしてしまう。お金がない状態でストレスが強くなれば理不尽なお金の使い方をしてしまう。追い詰められた人間をなぐさめてお金を出させるサービスに大量のお金を落とすことさえある。
コンビニで食べ物を買うのは割高だ。スーパーマーケットで買い出しをして計画的に自炊したほうがよい。家計が苦しいなら衝動買いをしてはいけない。お金を払って交流を買ったり、射幸性の高い娯楽につぎこむなんて論外だ。これらは正しい指摘だ。しかし役に立たない指摘でもある。経済的に困窮した状態でしっかり倹約して無駄なく計画的に家計を運営できる人間は実はそれほど多くない。一部の人は借金してでも誰かと会話したり、認められたり、瞬間的な達成感をほしいと思ってしまう。恒常的なつらさを紛らわせてくれたものがあれば、簡単に依存してしまう。それは弱いからではない。期間限定でない、希望のすくない貧しさに陥れば多くの人間が多かれ少なかれ非効率的なお金の使い方をするものだと、わたしは思っている。だから弟がめちゃくちゃガチャを回したり動画配信者にお金を払っていたりしても驚かない。

わたしの弟はワクチンを打たない - 傘をひらいて、空を

 

 たしかに、『貧乏人の経済学』などの経済学の本にも、「お金がないとよぶんな支出をしてしまう」と言ったことは書かれている。それは人間に一般的な傾向として備わったものかもしれないが、とはいえ、お金がなくてもよぶんな支出をしない人だってごまんといることも事実だ。そして、自分の弟という「身内」がお金もないのにガチャを回したり動画配信者にお金を払っていたりするなどの愚かな行為をしているのなら、その行為に「理解」を示すだけでなく、たしなめたり怒ったり諭したりするべきであるだろう。

『貧乏人の経済学』で示されているような「お金のない人がとりがちな、一般的な傾向」に基づいて人々の行動を判断したり評価したりするのは、経済学者なり政策立案者なりがやるべきことであって、個人としてのわたしたちはそれとは異なるルールで個々の人間を評価するべきであるからだ。相手が「身内」ならなおさらのことである。

 

われわれは何について思案するか

 

われわれが思案するのは、われわれの手によって生じはするが、しかしつねに全く同じように生じるわけではない事柄についてである。

(…中略…)

〔一般に、〕われわれは知識よりも技術について思案するのである。というのも、このような〔単に技術的な〕事柄についてわれわれはよりいっそうあれこれ悩むからである。思案するということは、たいていの場合は生じるのだが、しかしどのような結果になるのかが明らかでない場合、つまり不確定要素を含む場合になされる。そして、重大なことにかんする自分たちの判断能力が十分ではないと自分に自信がもてない場合には、われわれは一緒に思案してくれる助言者を探し求めるのである。

われわれは、目的についてではなく、目的のための事柄について思案する。というのも、医者は健康にするかどうかを思案しないし、弁論家も説得するかどうかを思案しないし、政治家もよい政治体制を作るかどうかを思案しないし、そのほかについても、だれも目的について思案しないからである。目的を定めた上で、どのようにすれば、また何によって目的が達成されるかを考察するのである。そして、目的を達成する手段が複数あると思われる場合は、何によってもっとも容易に、そして最も上手く目的が達成されるのかを考察する。他方で、目的を実現する手段がひとつの場合は、その手段によってどのようにしてその目的が達成されるのかを考察し、ついでその唯一の手段は何によって達成されるのかを考察し、そうやって考察していって「第一の原因」に到達するのである。…

(p.181)

 

 

優れた人とは?

 

なぜなら、人柄の性向のそれぞれに応じて固有の美しい事柄や快い事柄があるが、優れた人はそれぞれの事柄においてほんとうのものを見てとることにかけて、おそらく断然ほかの人々よりすぐれているからである。つまり、すぐれた人とは、美と快の基準であり、尺度のようなものなのである。ただし多くの人の場合は、快楽のせいで錯誤が生じていると思われる。というのも快楽は、実際には善いものでないときにも、善くみえるものだからである。こうして、多くの人は快楽を善きものとして選び、苦痛を悪しきものとして避けるのである。

(p.188)

 

勇気とは?

 

こうして、すでに述べたとおり、勇気とは、先に語られたもろもろの状況において自信をもたせるものと恐ろしいものにかかわる中間性であり、そして、そうすることが美しいという理由からそうすることを選んだり、あるいはそうしないことが醜いという理由から、耐えてそうしたりするもなのである。しかし、貧困や恋愛、あるいは何か苦しいことから逃れようとして死ぬのは、勇気ある人のすることではなく、臆病な人のすることである。というのも、辛いことから逃げるのは軟弱さであり、その人が死を耐え〔て受け入れ〕るのは、そうすることが美しいからではなく、悪いものから逃げるためだからである。

(p.210)

 

また、勇気ある人がこの徳をいっそう十全にそなえ、いっそう幸福であればあるほど、その人は死を心苦しく感じるであろう。なぜなら、そのような人にとって生きることはもっとも価値あることであり、しかもその人には、さまざまなもっとも善いものが奪われるとわかりながらそうした善いものが自分から奪われるがゆえに、自分の死は、苦しいことだからである。しかし、このことでその人がわずかでも勇気を挫かれるということはなく、おそらく、かえっていっそう勇気ある人となるのである。

(p.224)

 

節制と放埒さ

 

節制と放埒がかかわるのは、人間以外の動物の共通してもっている快楽である。放埒な人が奴隷や獣のようにみえるのはこのことによる。そして、そうした快楽とは、触覚と味覚〔による快楽〕である。しかし味覚的なものも、わずかか、あるいはまったく関係ないようにみえる。

(…中略…)

こうして、放埒さが生まれてくる感覚とは、さまざまな感覚の中でももっとも広く共通する感覚〔である触覚〕なのである。したがって、放埒さを生み出す感覚は人間としてのわれわれにそなわっているのではなく、動物としてのわれわれにそなわっているもなのだから、放埒さが非難される事柄だと考えるのは、至極当然のことだろう。それゆえに、こうした感覚に喜びを覚え、その感覚をこよなく愛することは、獣的なことなのである。

(p.429 - 430)

 

…放埒な人はむしろ、快いものが手に入らないことに必要以上に苦しむがゆえに放埒だと言われ(そして、放埒な人のこの苦痛を生み出しているのも当人の快楽なのである)、節制の人は、快いものがなかったり控えたりしても苦しまないがゆえに、節制があると言われるのである。

こうして、放埒な人はあらゆる快楽、あるいはもっと快いものを欲しており、またその欲望ゆえに、ほかのさまざまな快いものをなげうってその快楽を選ばずにはいられないのである。それゆえこうした人は、欲しい快楽が手に入らない場合でも、快楽を欲している場合でも苦しむ。なぜなら、欲望には苦痛が伴うからである。しかし、快楽のゆえに苦しむというのもおかしなことに思える。

(p.234)

 

これに対して、節制の人はこれらについて中間性を保つ。つまり、節制の人は、放埒な人が至上の快楽を感じるものに快さを覚えず、むしろ不快に思い、また一般に喜ぶべきでないものを喜ぶこともないし、そうしたものを過剰に喜ぶこともなく、また快いものがなくても、そのことで苦しんだりそれに欲望を感じたりはしない。また、欲望を感じるにしても適度に感じるのであり、しかるべき程度を超えて感じたり、感じるべきでないときに感じたりすることはなく、一般にそういった〔間違った〕仕方で欲望を感じたりはしない。他方で、健康や身体の調子のためになる快楽については、節制の人は適度に、そしてしかるべき仕方で欲求し、そのほかの快楽については、健康や身体の調子を阻害したりするのでなければ、あるいは美しさに反したり財産以上のものを要するのでなければ欲求する。というのも、このようなものを過剰に欲求する人は、そうした快楽を適正な価値以上に愛好するが、節制の人とはそのような人ではなく、むしろ、きちんとした分別に従って快楽を愛好するからである。

(p.236)

 

…というのも、醜いものを欲求しながらどんどん増長していくようなものは、懲らしめられねばならないのだが、欲望や子どもは、とりわけそうしたものだからである。なぜなら、子どもも欲望に従って生きており、快楽への欲求は子どもにとりわけ顕著だからである。

(p.240)

 

そこで、醜いものへの欲求が〔分別に〕従順でもなく、〔分別という〕支配的なものに服従するというのでもないならば、それはますます増長するだろう。理性的でない者にとって、快楽への欲求は飽くことを知らなくなり、四方八方に手を出すことになる。そして欲望が実現すると、そのことは欲望にもともと含まれていた力を増大させ、〔そうして〕さまざまな欲望が大きく猛々しくなれば、推理〔的な部分〕は、ついには放逐されてしまうのである。それゆえ、このような欲望は本来、適度でわずかなものでなければならず、分別になんら反対するものであってはならない

(…中略…)

したがって、節制の人の欲望的部分は、分別と調和していなければならないのである。なぜなら、どちらにとっても美しいものが標的なのであり、節制の人は欲すべきものを、欲すべき仕方で、欲すべきときに欲するが、分別もまた、そうするように命じているからである。

(P.241)

 

 これじゃあただの写経なので無理くりにコメントすると、たしかに放埒な人間って動物的で幼児的な感じはするしダメだと思う。現代だと、たとえば新しいデバイスをとにかく買いまくる人間とかって、特に徳のない感じがする(デバイスを所有することへの欲望、そしてデバイスによって便利な生活をしたいという欲望が二重になっているところが浅ましい)。

 また、アリストテレスの考えは、「辛いことを回避してラクして便利に生きたい」ということばっかり望む風潮へのカウンターにはなると思う。昨今はひたすら「ラクさ」を技術的に可能にするばかりでなく思想的にも肯定することがウケるようになっているが、欲望を充すことが目的となった人生や社会はダメ、ということを思っている人も多かれ少なかれいるはずなのだ。

「勇気」の観点から自殺を否定するところもいい。自殺した人を悪く言ってはいけないどころかエラい人として生前よりも過大に評価する風潮があるけれど、そういうのはやっぱりよくないのだ。反出生主義をあれこれ言っている連中に関しても、理屈で論破するより、そいつらの人格のみみっちさとか情けなさを責めてやるほうが適切であるかもしれない。

 

気前のよさ

 

さて、使用される事柄を、人は立派にもまた稚劣にも使用することができる。富は、そうした事柄のひとつである。そして、それぞれの事柄をもっとも立派に使用するのは、その事柄に関する徳をもつ人である。それゆえ、富をもっとも立派に使用するのもまた、財貨にかんする徳を持つ人である。そして、これが気前の良い人なのである。

(p.246)

 

徳に基づくもろもろの行為は美しいものであり、美のために為される。したがっていまの場合にも、気前の良い人ならば美のゆえに、かつ正しい仕方で何かを与えるだろう。なぜなら、気前の良い人はしかるべき相手に、しかるべき額を、しかるべき時にーーそしてそのほかにも、「正しい贈与」に付随するもろもろの条件を満たす仕方でーー与えるはずだからである。しかも、かれはこのことを喜んで、あるいは少なくともいやがらずに為すことだろう。というも、特に基づく事柄は快いものか、苦痛のないものであって、いやなものなどでは全然ないからである。

(p.248)

 

『ニコマコス倫理学』を読んでいたら「なんにでも"しかるべき"を頭につけてフワッとさせれば、なんだって言えるじゃん」とは思わなくもないけれど、まああえて具体的な指標とか尺度とかを出さないところがキモなのだろう。

 

しかし気前良さは、その人の資産〔の多寡〕に応じて語られるものである。というのも、気前が良いかどうかは、その人によって与えられるものの額によってきまることではなく、与える人にそなわっている性向によってきまることであり、そしてその性向とは、手持ちの資産に応じて贈与することになる性向のことだからである。

(p.250)

 

だが、その一方でもしも、しかるべき程度であって、自分の立派さのあらわれともなる実状を超えてまで気前の良い人が出費する結果になるなら、この人もまた、いやな思いをすることだろう。ただし、「いやな思い」とは言っても、この人はほどほどの程度、またしかるべき仕方でそのように思うのである。なぜなら、しかるべき事柄について、またしかるべき仕方で快く思い、そして苦しむということが、その人の徳をあらわすことだからである。

(p.252)

 

これに対し、浪費する人はこの点でも誤るのである。なぜならこのような人は、しかるべき事柄についても、しかるべき仕方でも快い思いをしないし、またそうしたまっとうな苦しみ方もしないからである。この点は、もっと先に進めばより明白になる。

(p.253)

 

「気前の良さ」はわたしにとってはかなり程遠い徳であることは認めざるを得ない(前提となる「資産」を持っていなさ過ぎるし、そうでなくでもとにかくケチである)。

 そして、この「贈与」の徳はなんとなくアメリカ的だ。政府が金を出さない代わりに金持ちが公共施設や慈善団体に贈与してなんとかする、みたいなやつ。逆に言うと、アメリカに限らず、国家や福祉が未発達な社会ではこのような「贈与」の徳の社会的意義が高まるということかもしれない。

 

志の高さ

 

そこで、「志の高い人」とは、自分が大きなことに値するものであるとみなし、しかも実際にそうである人であるように思われる。

(p.272)

 

そこで、もし志の高い人が現に大きな事柄に値しつつ自分がそのような事柄に値すると考え、最大の事柄にこそもっともよく向いており、かつそのとおり自分は向いているとも考えるのであれば、この人は、ひとつのことに最大のかかわりをもつことだろう。そして「価値」とは、外的な善に関係づけて、その何かに「値する」と語られるようなものである。また、そうした善のなかで最大のものとわれわれが想定するのは、神々にふさわしいとわれわれが考える事柄であって、これは評判の高い人々がほかにまして目指すような事柄でもあり、またもっとも美しい営みに対する褒賞となるものである。そして、名誉が、そのようなものなのである。というのも、名誉こそ、外的な善のうち最大のものだからである。ーーそれゆえ、志の高い人とは、名誉と不名誉にしかるべき仕方でかかわりをもつような人である。

 

「名誉」が外的な善のうち最大のものとされているのは時代的でもあるが、もしかしたら本質的なところを突いているのかもしれない。

 

そして、志の高い人は最大の事柄に値する以上、最善の人間であろう。とうのも、より善き人なら、そのつどより大きなるものに値しているので、これが最善の人となると、最大のものに値するからである。それゆえ、真の意味で志の高い人は、善き人でなければならない。

(p.277)

 

ーーこのことのゆえに、真の意味で志の高い人であることは、難しいことなのである。なぜなら善美の人の立派さぬきにそのような人であることは、不可能だからである。

(p.278)

 

……もろもろの権力や富は、それがもたらす名誉ゆえに望ましいものである。事実、これらの持ち主は、権力や富をつうじて尊敬されたいと思っているのである。しかし、名誉でさえ小さなもの考える〔志の高い〕人にとって、ほかのもろもろの〔名誉の手段となる〕ものもまた小さなものに過ぎない。ーーこのゆえにこの人は、尊大な人間だと思われているのである。

(p.279)

 

志の高い人はまた、何かに手放しで感嘆するという人でもない。感嘆するような大きなことは、この人にとって、なにもないからである。

(p.284)

 

 アリストテレスが「志の高い人」にかける期待は、他の徳をもつ人たちに対してかけるそれに比べても、かなり際立っている。そして「志の高さ」がこれほど評価されるのも、現代の倫理学ではなかなかないものであるだろう。

 

なぜなら、志の高い人は他人を軽んじ、そしてそれは正当なことであるのに対し(かれの判断は真実のことだから)、多くの人々が他人を軽んずるのは、その人々の勝手にすぎないからである。

(P.281)

 

 ここはかなりドギツいことを言っているが、「軽んじられるに値する人間もいる」ということを言ってくれるところにこそ、徳倫理学の価値があるはずだ。

 

というのも、まず卑屈な人は、善に値する人でありながら自分が値するような善を自分自身から奪ってしまうので、自分が善に値しないとみなすことがもとになって、ひとつの悪をもっているように思える。そして、この人は自己を知らないように思えるのである。なぜなら、〔もし自分のことを知っていたなら〕なにしろこの人が値しているものは善きものなのだから、自分が値するものが自分のものになるように、熱望したにちがいないからである。

(p.286)

 

 傲慢さだけでなく「卑屈さ」も悪徳になる、ということは重要。

 

温和さ

 

温和さは、もろもろの怒りにかんする中間性である。

(p.294)

 

しかるべき事柄について、しかるべき相手に対して怒りを覚え、さらにはまたしかるべき仕方で、しかるべき時に、しかるべき時間のあいだ怒る人が、賞賛されるのである。

(p.294)

 

 またもやの「しかるべき」連呼。

 

しかし、或る種の気概のなさであれ、ほかの何かであれ、怒りの不足は非難される。実際、怒るべき事柄に怒らない人も、怒るべき仕方で、怒るべきタイミングで、怒るべき相手に対して怒らない人も、愚か者だと思われているのである。なぜなら、このような人は無感覚であり、苦痛を覚えないように思えるし、その上怒らないがゆえに、自己の防衛ができないように思えるが、自ら屈辱を受けてもそれに甘んじ、身内のそのような被害にも手をこまねいているだけであるということは、まるで奴隷にようなことだからである。

(p.295 - 296)

 

「怒り」というテーマに関しては以前にもこのブログで扱っており、そこではアリストテレスについても触れている*2

 

「自分より高い価値や低い価値のふりをせず、真実を示す無名の徳」

 

いま挙げた種類の何ひとつとして実質的問題とならない場面において、或る人が性向において一定であるがゆえに、言葉においても実生活においても真実を示すということーーこれが、われわれが現在主題にしている事柄なのである。そして、そうであればこの種の人は、高潔な人であると思われるだろう。というのも、この人は真実を愛する人なのであって、真実を示しても際立つというわけではない場面でさえ元に真実を示すわけだから、これが真実を示して際立つ場面ということになれば、この人はさらにいっそいう真実を示すだろうからである。というのも、虚偽がまさにそのものとしても避けられてきたのならば、虚偽はこの人によって、〔真偽の差が重な分かれ目となる、決定的場面でも〕醜悪なものとして避けられるだろうからである。そして、このような人が賞賛されるのである。ただし、このような人はどちらかといえば、自分価値が真実のところよりも低くなるように語ることへ傾く。なぜなら、誇大な超過になるといかにも煩わしいため、そうしておくほうがいっそう穏当であると思われるからである。

 

 ここは少し難しいが、あえて一言で表現するなら「飾り気のない人」であったり「自分にウソをつけない人」といえるだろうか。自画自賛すると、わたしはこの"無名の徳"に関してはけっこう備えていると思う。

 

ユーモア(滑稽さ)とは?

 

さて、滑稽さにおいて超過する人々とは、「悪ふざけの人」や「低俗な人」であり、かれらは何が何でも笑いをとるということにこだわっており、品のあることを語るということや、からかわれる人をいやな気持ちにさせないということよりも、とにかく人々を笑わせるということを強く目指しているように思われる。これに対し、自分でも何ひとつ笑わせることを口にしないだけでなく、滑稽なことを言う人に機嫌を損ねるような人は「野暮ったい人」であり、「堅苦しい人」であるように思われる。

(p.316 -317)

 

これに対し悪ふざけする人は、笑いの魅力に負けてしまう人であって、笑いのねたにすることができさえすれば、自分だろうが他人だろうが遠慮しないし、繊細な人ならばけっして一言も言わないような言葉を口にし、時には聞くに堪えない言葉さえ口にするのである。その一方で野暮ったい人は、この種のつきあいにかんしてまったく無能である。なぜなら、かれはそこで〔楽しみに〕何ひとつ寄与せず、あらゆることに眉をひそめるからである。しかし、それでも休息と娯楽は、人が生きていく上で欠かすことのできないものだと思われる。

(p.320)

 

 ここらへんは耳が痛い。なんでも笑いのネタにしてしまい周りの人の気持ちを害してしまうこともあるという性向は、わたしは確実に持っているし、関西人の男性の多くが持っているものでもあるだろう。

 ただし、芸人を見ていると、たしかに「中間」をついて人の気持ちを害することなくセンスよく笑いをとれるタイプの芸人もいる一方で、明らかに滑稽さの性向が過剰であり不愉快なまでに笑いをとろうとするがそれゆえに面白い、というタイプの芸人もいる。そして、わたしを含めた少なからずの人が、後者のほうが芸人としての「徳」が高く優れている、とも見なしている。アリストテレスの倫理とはなんでもかんでもに「しかるべき」とか「中間」を求めるものだけれど、しかるべきじゃない時に行動する人とか過剰な何かを持っている人がその人ならではの徳を発揮して、そしてそういうタイプの人たちが求められることもあるはずなのだ。

 

才気もまた、この中間の性向に固有のものである。ただし才気煥発の人とは、高潔で自由な精神の人にふさわしい事柄を話したり聞いたりするような人である。なぜなら、娯楽の場面でこの種の人が言葉で話し、聞くのにふさわしい一定の事柄がやはりあるのであって、自由な精神の人の娯楽は奴隷的な精神の人の娯楽と異なっているし、教育がある人の娯楽も教育がない人の娯楽とは異なっているからである。

(p.318)

 

アリストテレスの「正義」論

 

 第五巻にて「正義」や「正しさ」について論じている箇所は、おそらく『ニコマコス倫理学』のなかでも「倫理学的」にはもっとも重要な箇所であるのだろうけれど、徳や性向について好き勝手に語っている他の巻に比べると論理的だがまわりくどく、そしてつまらない。なのでザクっと済ませる。

 

…正義の徳が完全であるのは、この徳をもつ人が、自分一人で使用できるだけでなく、ほかの人に対する関係においても徳を使用できるという理由によるのである。なぜなら、多くの人々は自分の事柄においてであれば徳を使用できるのに、ほかの人との関係に立つとそれができないからである。

(p.335)

 

不正とは何であり、正義とは何かということは以上で述べられた。そして、これらを規定したことから、正しい行為とは不正を為すことと不正をされることの中間であるということが明らかとなった。その理由は、以下のとおりである。すなわち、まず、不正を為すとはより多く手に入れることであり、不正をされるとは、より少なく手に入れることである。つぎに、正義の徳とは一種の中間性であるが、これは、ほかのもろもろの徳と同じ意味での「中間性」ではなく、ちょうど中間のものに達するという意味におけることである。これに対し、不正の悪徳は、両方の極端に達するものである。そして正義の徳とは、それにより、正しい人が正しい事柄の選択に基づいて行為することができるような性向であり、それにより、正しい人が他人と自分のあいだで何かを配分するときや他人同士の関係において配分をおこなうとき、望ましい価値のもののより多くを自分に、そしてより少ない部分を隣人にと配分する(そして害となるものでは、これと逆にする)というやり方をせず、比例関係に基づく等しいものをそれぞれに分けてゆき、他人のあいだでの配分でもこれと同様にすることができる、そうした性向なのである。

(p.371 - 372)

 

 

他方、〔自分の行為をつくりあげる個々の要因を〕知っていて、しかしあらかじめ思案したわけではない事柄は、「不正行為」である。たとえば、激情、あるいは、当人にはどうしようもない感情や、自然なものとして人間のなかに生まれるほかのさまざまな感情によるすべての加害が、それである。(…中略…)しかし、まだそのことゆえには、本人が不正な人間であるとか、人柄の不良な人間であるとかとは言えないのである。なぜなら、当の加害が不良性ゆえのものであるということではないからである。これに対して、不正行為が選択から為されるものである場合には、当人が「不正な人間」であり「不良な人間」なのである。

(p.388)

 

「行為」と「人格」を直結させず、良し悪しの判断を「行為の不正」と「当人の不良性」の二段階でおこなう、というのは重要な考え方であるように思われる。

 

この点は、ほかの技術の場合でも同じく成り立つ。なぜなら、かりに製作者がつくった当のものを、その当のものとして、またそれだけの量のそれだけの質のものとして受け手も受けないとすれば、それらの技術は消滅してしまっただろうから。というのも、二人の医者から共同は生まれず、医者と農夫の二人から共同が生まれるのであり、一般に共同とは、等しくない他人同士から生まれるものだからである。しかし、だからこそこれらの人々は、均等化されなければならない。それゆえ、交換が成立するすべての項は、なんらかの仕方で互いに比較可能でなければならないのである。

貨幣は、この目的に向けて設定されたものであり、なんらかの意味で「中間」になっている。

(p.366)

 

したがって貨幣は、尺度のようなものとして物品を通約可能とし、均等化する。

(p.369)

 

実際、貨幣がすべてのものを通約可能にするのである。なぜなら、あらゆるものが貨幣によって測られるからである。

(p.370)

 

 アリストテレスが「正義」について語るときに「交換」や「比例」とあわせて「貨幣」という言葉が強調されるのは、どう考えても重要だ。この点に関してはすでに研究し尽くされていそうだけれど。

 

(ここから下巻)

 

 

 

「思慮深さ」とは

 

そこで、思慮深い人の特徴と考えられているのは、自分自身にとって善い、利益となるものについて、部分的にではなく立派に思案できることである。「部分的にではなく」とは、たとえば健康のためとか強靭さのためにどういったものが善いのかを思案するのではなく、人生全体として善く生きるためにはどういったものが善いのかを思案するということである。

(p.44)

 

さらにまた、技術にはら卓越性があるが、思慮深さにはそれの徳というものはない。そして、技術の場合は、自ら進んで過ちをおかす人のほうがどちらかといえば望ましいが、思慮深さの場合はそのような人のほうがいっそう悪いのである。この点は、ほかのさまざまな人柄の徳の場合でも同様である。それゆえ、明らかに、思慮深さはそれ自体が一種の徳であって、技術ではないのである。

(p.47)

 

実際、生まれついた自然の性向ならば、子どもにも獣にもそなわっている。しかし、知性が伴わない場合には、こうした性向がむしろ有害なものであるということは、明らかである。少なくともつぎの程度のことは、実例を見ただけでただちにわかるようなことである。つまり、屈強な肉体が視力を欠いたまま動き回るなら、その人はまわりがまったく見えないためにひどい転倒の仕方をすることになるが、いまの〔知性を欠いた自然の性向の〕場合でも事情は同じだということである。他方で、もし知性が身に付けば、行為に違いがでてくる。その場合、以前と似たものであっても、その人の性向は、本来の徳となる。したがって、魂の信念的部分に頭のよさと思慮深さの二つがあるように、人柄にかかわる部分にも生まれついた自然の徳と本来の徳の二つがあり、このうち本来の徳のほうは、思慮深さなしには生まれないのである。

(p.84 - 85)

 

「思慮深さ」や、自然の徳に対比する「本来の徳」は、アリストテレスの徳論や幸福論でもかなりのキーとなりそうだ。訳者解説によると、徳に導かれるすぐれた行為とは毎回一緒というものではなく、毎回新しく直面するそれぞれ別の状況に対して毎回すぐれた結果を出すための思案が必要とされる。そして、頭のよさが思慮深さに発展するためにも、生まれつきの人柄の善さが「人柄の徳」に発展するためにも、この思案の経験が不可欠なのだ。これはジュリア・アナスが『徳は知なり』で論じていた「技能からの類推」論にも近い(徳は技能であるため、実践的な場面でのトレーニングが必要となる)*3

 

「抑制のなさ」

 

まず、抑制や忍耐強さは立派で賞賛すべきものであり、抑制のなさや柔弱さは劣悪で非難すべきものである。また抑制のある人とは、自らの推理にしっかり留まる人と同じであり、抑制のない人とは自らの推理にそむく人と同じである。

そして、抑制のない人は自らの行為を劣悪だと知りながら、感情によってそれを為し、これに対して抑制のある人は自らの欲望が劣悪だと知っていて、分別のおかげでそうした欲望に従うことがない。

(p. 95 - 96)

 

さらに抑制のある人であるためには強くて劣悪な欲望をもっていなければならないとするならば、節制の人は抑制のある人ではないし、抑制のある人もまた節制の人ではない。なぜなら、過剰な欲望を抱くことも劣悪な欲望を抱くことも、節制の人に相応しいことではないからである。ところが抑制のある人の場合は、まさにそうした欲望を抱いているのでなければならない

(p.100 - 101)

 

さらに、議論によって説得されて快楽を追求し、選択し、行為するような人は、推論によってではなく抑制のなさによってそうする人よりも、ましだと考えられるだろう。なぜなら、そのような人であれば、あらためて説得されて考えが変わることにより、治療されることが可能だからである。これに対して、抑制のない人には、「水が喉に詰まったら、何を飲んでその閊えをとればいいのか」という諺がぴったりである。というのも、もしその人が自分の行為を善いものと説得されて信じていたのだとすれば、あらためてそうではない方向に説得されることで自分の考えを変え、その行為をやめたことだろう。しかし現実には、抑制のないその人は、説得されてもあいかわらず同じことをしてしまうのである。

(p.104)

 

実際、無思慮、臆病、放埒、苛立ちやすさなどおよそ過剰なものは、獣的な性向であるか、あるいは病的な性向であるかのいずれかである。というのも、生まれつきどんなものにも怯えるような、たとえばネズミが音を立てても怯えるような性質の人は、獣的な臆病さによる臆病者であるが、これに対して或る人がイタチに怯えたのは、病気によるものだったからである。そして、無思慮な人々のなかでも、遠い地方に住む或る蛮族のように、生まれつき分別を欠き、感覚だけで生きている人々は、獣的であり、他方、てんかんといった病気や、あるいは狂気による人々は、病的である。

したがって「不良」にも、人間らしいもので限定ぬきに「不良」と言われるものと、そうは言われずに「獣的な」あるいは「病的な」といった限定つきで「不良」と言われるものとがある。同様に抑制のなさにも、獣的なものや病的なものもある。しかし限定ぬきに「抑制がない」と言われるのは、人間らしい放埒さの場合だけなのである。

(p.128 - 129)

 

「徳」だけでなく「悪徳」についてもネチネチと書くのはアリストテレスの特徴だろう。「抑制のなさ」も、いかにも現代人に特徴的でありそうな悪徳のひとつだ(そして消費資本主義文化はその悪徳を肯定してしまうわけである)。

 また、アリストテレスは「激情に関する抑制のなさ」と「欲望に関する抑制のなさ」を区別している。より獣的なのは前者だが、より悪徳なのは後者だ。

「激情に関する抑制のなさ」とは、「横暴なふるまいをされた」「辱めを受けた」という自体があった途端に、ただちに憤怒するようなことである。理想的には、このような事態であっても怒るべきかどうかを分別によって精査して決めるべきであるが、激情に関して抑制のない人はそのプロセスが抜けてしまう。だから獣的なのであるが、しかし、ほんとうに「横暴なふるまいをされた」のであればそれに対して怒ることは正当なので、欲望に関する抑制がない人に比べるとマシである……という理屈であるのだ。

 

ところで、抑制のなさには「〔その場の〕衝動」によるものと「弱さ」によるものがある。すなわち、弱さのために抑制のない人は、思案したのに、感情に駆られてその思案した結果に留まれず、またそのときの衝動のために抑制のない人は、思案しなかったために感情に突き動かされる。

(p.140)

 

自らの信念にじっと留まる傾向のある人々がいて、この人々は「頑固者」と呼ばれている。かれらは説得を拒む。つまり、彼らを説得して考えを変えさせることは、容易ではないのである。この人々は抑制のある人にどこか似たところがある。ちょうど、浪費家が気前の良い人と似たところがあり、向こう見ずな人が自信家と似たところがあるように、頑固者は抑制のある人と似たところがあるのだが、しかしこの両者には、多くの違いがある。というのも、抑制のある人は、感情と欲望によって信念を変えることはなくとも、場合によっては容易に説得されるのに対して、頑固者は分別によって信念を変えることがない代わり、欲望に囚われるならばかれらの多くが快楽によって突き動かされるからである。

(p.146)

 

そして抑制のない人は、自発的に行為するのだが(というのも抑制のない人は、自分が為していることとその目的を、或る意味で、知っている人だからである)、人柄が不良な人ではない。というのも、抑制のない人の選択〔自体〕は、高潔なものだからである。その結果、抑制のな人は、「半分だけ不良」なのである。また、抑制のない人は不正な人でもない。というのも、抑制のない人は企む人ではないからである。実際、こうした人のなかには、自らが思案した事柄に留まらない人もいれば、まったく思案することのない癇癪持ちの人もいるのである。

したがってまた、抑制のない人とは、決すべきすべての議案を決議し、すぐれた法律も整備しておきながら、それを全然活用しないような国に似ている。ちょうど、、アナクサンドリデスがつぎのように嘲笑したように。

 

国が望んだことさ、法のことなどお構いなしのその国が。

 

これに対し劣悪な人は、法を活用するが、その法そのものが劣悪な人に似ている。

(p.153 - 154)

 

「抑制のない人」と「不正な人」や「劣悪な人」を分別して、前者の方がマシであるとするのには、アリストテレスの優しさが感じられる。たしかに、ダメなやつだからって悪人だということではない。

 

「快楽」は身体的快楽だけではない

 

…多くの快楽がたまたま限定ぬきに劣悪であったとしても、最高善は或る種の快楽であるということになる。そしてこのことゆえに、すべての人が幸福な生活は快適な生活であると考えており、快楽を幸福のなかに織り込んでいるが、それも、もっともなことなのである。なぜなら、いかなる活動も妨げられたなら完全ではないが、幸福とは完全なものだからである。それゆえ幸福な人は、身体におけるもろもろの善と、外的な善と運を付加的に必要とするのであり、これは、これらの要素が活動の妨げとならないためなのである。

(p.169 - 170)

 

…しかし、人は最もしばしば身体的快楽に向かうし、全員がこの種の快楽を分かち持つがゆえに、身体的快楽が「快楽」の名を独占してしまっている。それゆえ、身体的快楽のみが知られているために、それのみであると人々は思っているのである。

(p.172)

 

そして、身体的な善には超過が存在し、劣悪な人間はこの超過を追求しているのであって、自分に必要不可欠な快楽を追求しているのではないのである。

 (p.175 - 176)

 

…これらの快楽は強烈なものであるがゆえに、ほかのさまざまな快楽を喜ぶことができない〔劣悪な〕人々によって追及されている、ということがある。現にかれらは、自分でこれらの快楽への渇きを用意しているほどなのである。実害がない場合にはこのことは非難にあたらないが、有害な場合、それは劣悪なことである。なぜなら、かれらは自分が楽しめるほかの事柄をもっていないし、また自らの性質により、多くの人々には快くも苦しくもないようなものでも、かれらには苦しいからである。

(p.177)

 

他方、衝動的に行動する人々は、本性的につねに癒しを必要とするものである。なぜなら、かれらの身体もまたその身体が持つ特定の混合状態により、たえず苦痛に襲われていて、それでかれらは、つねに激烈な欲求を持つようになっているからである。

(p.178)

 

 このあたりの、「劣悪な人間(ダメな人間)」に対するアリストテレスの観察眼は見事だ。言われているまで気づかなかったが、たしかに、彼や彼女はなぜか「たえず苦痛に襲われている」ようなのだ。また、徳倫理といえば「立派な人間」を観察して手本とするものであると思っていたが、徳倫理の元祖であるアリストテレスが「ダメな人間」を観察して反面教師としてくれているのは助かる(立派な人間が周囲にいることはそうそうないけど、ダメな人間はゴロゴロ転がっているためだ)。

 アリストテレスのエリート主義については、リチャード・テイラーが堂々と認めている*4

 

「愛」の種類

 

優勝さに基づいて愛しあう人々は、相手の人間性に基づいて愛しているわけではなく、自分にとってなんらか善いものが相手のもとから生まれるかぎりにおいて愛する。快楽に基づいて愛する人々も同じである。

(…中略…)

両方の人とも、愛される人が人間としてそもそもこのようであるという、その点においてこの人が好きなのではなく、相手が有用であるかぎりで、もしくは楽しいかぎりで好きなのである。

(p.196 - 197)

 

そして、この種の有用さに基づく愛は、老人のあいだでとくに多く生まれるように思われる(なぜなら老年の人々は、快いものでなく、有益なものを追及するからである)。

(…中略…)

これに対して、若者の愛は快楽に基づくように思われる。なぜなら、若者は感情に従って生きており、自分にとって快いものと、今まさに自分の目前にあるものを、ほかの何にもまして追及するからである。

(p.198 - 199)

 

しかし、愛として完全なのは、善き人々のあいだ、つまり徳の点で類似の人々のあいだに成り立つ愛である。なぜならこの人々は、かれらが善き人であるかぎりにおいて、互いに同じ仕方で互いの善を願いあうのだが、ここでかれらが「善い」のは、かれら自身に基づいてのことだからである。そして、友人に対し、相手のために善を願う人々こそ、もっともすぐれた意味での友人だからである。

(p.200)

 

 時代的に、ここでアリストテレスが論じている「愛」とは「友情」に近いそれだが、「恋愛」にも当てはまりそうな議論だ。

 

多くの人々は名誉を求める愛ゆえに、自らだれかを愛するよりは他人から愛されることのほうを願っているように思われる。それゆえ、多くの人々はへつらう人を愛する。実際、へつらう人とは、相手に優越されるような友人であるが、そうでない場合でもそうした友人であるかのようなふりをして、自ら愛されないまま相手を一方的に愛するふりをするような人なのである。そしてここでは、愛されることは、尊敬されることに近いことだと思われている。つまり、この尊敬されるということこそ、多くの人々が目指しているものにほかならない。

(p.228)

 

他方、公平で自分をよく知っている人々によって自分の名誉を保証してもらいたいと思う人々もいて、この人々は、自分について自身が抱いている意見をそのような人々から確かめてもらうことを目指している。それゆえ、この人々が尊敬されて喜ぶのは、自分について善い人間であると考えて語る人の、判断そのものを信じるからなのである。したがって、愛されることは尊敬されることよりいっそうすぐれたことであり、愛はそれ自体として望ましいものであると考えられるだろう。

(p.229)

 

「憧れは、理解から最も遠い感情だよ」という名言を思い出したり思い出さなかったり。立派な人間ほど、自分のことを色眼鏡抜きで正当に評価できる人と身近に置いておきたいというのはその通りだと思う。

 

そして、このように愛は自分から愛することのうちにあり、また、友人を大切にして愛するような人々が賞賛されるのだから、愛されることというより自分から愛することこそ、友人としての徳であるように思われるのである。それゆえ、このことが価値に応じて生まれるような人々は安定した持続性をもつ友人であり、このような人々の愛が、安定した持続性を持つ愛である。

(p.230)

 

 なかなかロマンティックだが本質をついたセリフだ。

 

そして、正反対の人々のあいだで成り立つと思われることがもっとも多い愛は、有用さに基づく愛である。たとえば、貧しい人が金持ちと、無学な人が学のある人と友人になる。なぜかと言えば、人は自分にたまたま欠けているものを相手に求めて、代わりにそれとは別のものを相手に差し出すからである。この種類の人間関係に、人は恋する人と恋される人、あるいは美しい人と醜い人の関係をも入れるかもしれない。恋する人が、自分が相手を愛する、まさにそのように相手から愛されることを期待する場合に、ときに滑稽に思えるのは、このことゆえである。自ら愛される性質の人ならばそう期待してしかるべきだが、そうした類いのものを何ひとつもたずにそのような期待をすることは、滑稽なのである。

(p.232)

 

 後半はなかなか手厳しいことを言っている。また、前半については『グリーンブック』や『最強もふたり』などの映画を思い出した。

 

アリストテレスの結婚論(と性役割分業論)

 

そして、夫婦の愛は、自然本性に従って成り立つように思われる。なぜなら人間は、自然の生まれから言って、国家を形成する者である以上にいっそう、つがいをなす者だからである。これは、家が国家に比べ発生においてより先のものであり、より必要不可欠なものであるということ、そして、子どもをつくることは、動物のあいだでより共通して見いだされるということによる。ところで、動物にとってはもっぱら以上の事情によって共同関係があるのだが、こと人間が一緒になるのは、単に子作りのためではなく、生活に資するもろもろの事物のためでもある。というのも、機能がはじめから分かれていて、夫の仕事と妻の仕事は別々だからである。このことゆえに夫婦はそれぞれ自分に固有の力を共通の目的に向けることにより、互いに助けあうのである。また、それゆえにこの愛には、有用さも快さもあるように思われる。しかし、もし夫婦ともに高潔な人であれば、夫婦の愛もまた徳ゆえのものであろう。なぜなら、そのときそれぞれには徳があり、互いにそうした有徳な人である伴侶が快いからである。そして、「子はかすがい」であるように思われる。これゆえに、子のいない夫婦は、別れるのが早い。なぜなら、子は夫婦双方にとっての共通の善であり、「共通のもの」は夫婦を結び合わせてくれるからである。

その一方で、夫が妻に対し、また一般に友人が友人に対してどのようにかかわって生きるべきかという問いは、ほかでもなく、どのようにしたら正しく生きられるかという問題を追及するものでもあるように思われる。なぜなら、かりに或る一人の「友人」をとってみても、その人にとって、親しい人に対するのと、見知らぬ人に対するのと、仲間に対するのと、学友に対するのとで、明らかに「同じ正しさ」があるわけではないからである。

(p.252~254)

 

 ある意味ではかなり保守的な結婚論であるが、まあこれも一面の真実をついているだろう。人間のカップルはただ単に子どもをつくるためでなく助けあうために結婚するというのは生物学や文化人類学の観察とも一致している*5

 また、「どんな相手に対して、その相手との関係を考慮しながら、どのように接するか」が「正しい生き方」のコアになる、という観察も重要であるように思われる。

 

アリストテレス恋愛論と自己愛論

 

だが、恋する人は時として恋という形の愛において、自分はこんなにも愛しているのに、相手から愛の見返りを受けていないと不平を言う。もしも事実そのとおりだとすれば、これは多くの場合、その人が相手から愛されるようななんの魅力ももっていないことによるのである。

(p.270)

 

高潔な人は自らと意見が一致しており、自らと同じものを魂全体において欲求するからである。そしてそれゆえ、この人は自分自身に善と、善に思われるものを願い、また行為する(なぜなら、善行を労苦の末に成し遂げることは、善き人がなすべき事柄だからである)。そして、自分のためにそうするのである(なぜならかれは、志向する部分のためにこれをおこなうのであり、この部分こそ、それぞれの人がまさにそれであるところのものであるように思えるからである)。また高潔な人は自分が生き、維持されることを、なかでもとくに思慮をめぐらす力が維持されることを願う。

(p.291 - 292)

 

したがって、劣悪な人は愛される性質の何ものをも自らもっていないがゆえに、自分自身に対してさえ「友人になれる」ように関係していないように思える。それゆえ、こうした状態に甘んじることがひどく悲惨であるのであれば、人は、全力を挙げて不良性を避けなければならないし、高潔な人間であろうと努めなければならない。なぜなら、そのようにするとき、自分自身に対しては、自分を大切にして愛するような者になれるのだし、また他人に対しても、その友人になれるからである。

(p.298)

 

 2400年前の古代ギリシアでも恋愛には「能力主義」的な側面があり、魅力がない人間はみそっかすみたいな扱いを受けてきたのだ。現代の小賢しい「非モテ」論者にはこのことを意識してもらいたい(お前がモテないのは、男女平等規範の発達とか新自由主義とかのせいではなく、お前に魅力がないせいであるかもしれないのだ)。

 そして、高潔な人は「自己愛」を持つ、ということも見逃すべきではない。これはある意味ではニーチェ的であるし、キリスト教的-マイケル・サンデル的な「謙虚さ」を強調するルサンチマン道徳とは明確に対峙する。わたしとしても、「自己愛」という美徳はもっと評価されてもよいと思っている(現代ではむしろ、徳のない人がおこなう「自己憐憫」のほうが甘く評価される、という歪んだ状況になっている)。

 

これに対して、好意は、愛を説明する特徴のようにみえるけれども、愛〔そのもの〕ではない。なぜなら、好意は見知らぬ人に対しても、自分に気づかない相手に対しても発生するが、愛のほうはそうではないからである。このことは以前に述べた点である。好意はまた、愛情でもない。なぜなら好意には、「気持ちが凛として張ったような感じ」も欲求もないけれども、愛情にはこうした要素が付き物だからである。また、愛情は以前から慣れ親しんでいることを伴うが、好意は突然にも生じる。

(p.300)

 

…相手がいないときに焦がれ、かたわらにいてくれることを欲するとき、その場合に恋をしているからである。

(p.301)

 

「好意」と「愛情」の違いは、21世紀の現代を生きる我々にとっても馴染み深く、重要なテーマだ。

 

…知性が「それぞれの人である」こと、もしくは、知性がもっともすぐれて「それぞれの人である」こと、そして、高潔な人が何よりもまずこの知性を愛好していることは、明らかなのである。したがって、こうした人こそもっともすぐれて「自分を愛する人」だろう。ただし、非難される自己愛者とは異なる種類における自己愛者なのであり、ここには、分別に従って生きることが感情に従って生きることと異なるほどに、また美しい行いを欲求することが、自分の益になるとみえるものを欲求することとは異なるほどに、大きな違いがある。

すべての人が、美しい行為に際立って熱心である人々を是認し、称賛する。そして、もし全員が美しい行為に向けて競いあい、もっとも美しい事柄を為すべく努めるならば、公共の観点では、為されるべきことがすべて為されるであろうし、個別の各個人にとって、当人にもろもろの善のうち最大のものがそなわるだろう。なぜなら、徳が、そのような最大の善にほかならないからである。

したがって、善き人は自己愛者でなければならず(なぜならこの人は〔自分を愛するならば〕美しいことを為し、そのことにより、自ら利益を得るだろうし、他人のためになるだろうから)、不良な人は自己愛者であってはならない。なぜなら、不良な人が〔「自分」を愛して〕劣悪な感情に従うならば、自分自身をも隣人をも害することになるからである。

(p.318 - 320)

 

 つまり、ダメな人間は、自分を愛する資格を持たないということだ。そんな奴は他人様に迷惑をかけるから。これもドギツい主張であるが、真理であることには違いない。

 

人間は孤立する生き物ではなく社会的な生き物である

 

…人間は共同体を形成するものであり、もともと自然本性的にともに生きるものだからである。それゆえ幸福な人にも、このことはもちろん帰属する。なぜなら、かれは自然本性的に善いものをもっているのだが、親しい高潔な人々と日々を過ごすことのほうが、見知らぬどこかのだれかとそうするよりは、明らかにより善いことだからである。したがって、幸福な人には友人が必要なのである。

(p.325 - 326)

 

また、幸福な人は快く生きるのでなければならないと考えられている。孤立した人にとって、人生は難儀である。なぜなら、自らだけで持続的に活動をおこなってゆくということは容易でなく、他人とともに、また他人との関係において活動することのほうがより容易だからである。それゆえ、そうした活動はいっそう持続的となり、それ自体として快いのである。

(p.328)

 

そこで、もし至福な人にとって存在することが、自然本性的に善いことであり快いがゆえに、それ自体として望ましいものであり、かつ友人が存在することもそれに近いならば、友人もまた望ましいもののひとつであることになる。

(p.334)

 

 このあたり、アリストテレスは大多数の文学者や哲学者たちとちがって、人間は社会的な生き物であり、孤立するのではなく友人がいたり共同体のなかにいたりするほうが幸せになれる、ということをきちんと理解してえらい。

 人間の「本性」や「性質」をまずは受け止めたうえで、そこから出発して考える、というのは進化論が登場してからもまだまだ根付かない考え方である。

 

それゆえ、生来の人柄において雄々しい人々は、友人を苦しませないように用心する。そして、もし自分自身が苦しいと思わない状態でいられる点で突出しているのでなければ、友人たちに苦しみが生まれることに我慢できず、自らが悲嘆に沈まない性分であるだけに、友人が自分と悲嘆をともにしようとすることを、およそ認めようとしない。他方、女性たちや女性に似た男の人は、悲しみをともにしてくれる人々を喜び、かれらを友人であり、つらさをともにしてくれる人として愛するのである。しかし、明らかにこのすべてのことにおいて、より善き人を模倣すべきである。

(…中略…)

それゆえ、幸運の折には友人を積極的に招くべきであり(なぜなら、親切なふるまいは立派なことだからである)、不幸の折にはそのようなことを慎むべきであると思える。

(p.342)

 

 ここのくだりは、なんだか「有害な男らしさ」論や「男性同士のケア」論を思い出させる。辛いときや苦しいときにはその姿を友人に見せないのが雄々しい人間だ、というのがアリストテレスの主張であるが、これに関しては批判・否定したくなる読者も多いだろう。

 

アリストテレスの幸福論(結論)

 

このことゆえに、言論の〔究極の〕真理は、知るためにばかり有用であるのみならず、実生活そのものにとっても有用であるように思えるのである。なぜなら、事実と整合するとき言論は信用され、それゆえにそのような言論は、人生をそれ自体としてよくわかっている人々を励ますからである。

(p.354)

 

 アリストテレスもこう言っているので、「役に立つ」読書をバカにしている知識人とか半可通の連中は反省しなさい。

 

あるいは、そうではなくむしろ、もろもろの快楽は、種類において異なっているのである。なぜなら、美しいものからの快楽は醜悪なものからの快楽とは異なっており、正しい人でなくては正しい人の快楽を快く感じることはありえず、音楽家の快楽を、音楽家でなくて快く感じることはありえず、ほかの場合でも異常と同様だからである。

(p.370)

 

 快楽の「出所」と「受け手」のそれぞれの特徴から快楽の種類を分別する、というのはなかなか有意義な着眼点だ。とくに、「正しい人でなくては正しい人の快楽を快く感じられない」は徳と幸福の結びつきを考えるうえでキーとなるだろう。

 

…同じものを或る人は喜び、別の人は苦痛に感じ、そして、同じものが或る人にとってはつらくて嫌なことであり、別の人にとっては楽しく好ましいことになっているからである。

(…中略…)

しかし、この類のすべての事態において、すぐれた人にそう思えることが正しいとお思われる。そして、もしこれが適切な語り方であるならーーそう思われるがーー、徳と、善き人であるかぎりの善き人が、それぞれの事柄の基準であり、そして、この人に快楽としてあらわれるものが、実際にも快楽であるのだろうし、この人が喜ぶものが快いものであるのだろう。

その一方で、この人にとって不快であるものが、或る人にとって快いものとしてあらわれるとしても、なんら驚くにあたらない。なぜなら人間は、多くの仕方で堕落し、またダメになるものだからである。

(p.391-392)

 

そこで、完全で至福な人の活動がひとつであろうと複数であろうと、真正の意味では、そのような活動を完成させる快楽こそが人間のもつべき快楽であると言えるだろう。これに対しそれ以外の快楽は、その活動もそうであるように、二次的に、またはるかに劣った意味合いで、人間の快楽と語られるのである。

(p.392 - 393)

 

 この前のところで、アリストテレスは「快楽とは活動を完成させるものである」とも論じている(p.380)。

 なお、訳者解説によると、快楽は活動の結果として得られるとうれしいものであっても、快楽を得ること自体は、有徳な行為の目的ではない。有徳な行為は有徳であるからなされるものであり、それでも、大人であれば有徳な行為は自分の幸福を構成することを理解しているのだ。これはジュリア・アナスも同じような解説をしていた。

 また、幸福は「性向」でもない(幸福が性向だとすれば、一生を通じて眠りつづける人や、大きな不運に見舞われた人まで幸福だと言えてしまう可能性があるからだ)。下記で示されているように、幸福とはあくまで活動のうちに存在するのである。

 

それゆえ、しばしば述べたように、すぐれた人にとって貴重で快いものこそ、〔ほんとうに〕貴重なものであり、〔ほんとうに〕快いものである。そして、それぞれの人にとってもっとも望ましいのは、その人固有の性向に基づく活動である。それゆえ、すぐれた人にとって最も望ましいものは、特に基づく活動なのである。

したがって、幸福は、遊びのところにはない。

(p.396)

 

 幸福は「遊び」ではなく「まじめ」のうちに存在するという点も重要だ。

 

他方、幸福な人生は、徳に基づくような生であると思われる。しかしそうした生活はまじめさを伴うものであって、遊びのうちにはない。そして、まじめな活動は面白おかしく遊びを伴う活動よりもすぐれており、また、すぐれているのが魂の部分にせよその人間自身にせよ、よりすぐれた者にとって為すのがふさわしい活動ならば、それだけますますまじめな活動であるとわれわれは主張するのである。そして、よりすぐれた者の活動は、そのことだけでもう、より善きものであって、いっそう幸福に満ちたものなのである。

さらに、どのような人間をとってみても、また奴隷でさえも、最善の人間に劣らず身体的快楽を楽しむことができる。だが、奴隷に人間らしい生活を分け与えるのでないかぎり、だれも奴隷が幸福に与るとは考えないのである。なぜなら、以前に述べたように、幸福とはこのような娯楽のうちにあるものではなく、徳に基づく活動のうちにあるものだからである。

(p.398 - 399)

 

 そして、幸福は知的な生活(観想の生活)のなかにある。

 

さらに、われわれは快楽が幸福と混じり合っていなければならないと思っているが、徳に基づくもろもろの活動のうち、知恵による活動がもっとも快いということが、同意されている。少なくとも、知恵を愛すること〔哲学〕は、驚くほど純粋で確かな快楽をもっている。また、知っている人々のほうが、〔単に〕それを追求している人々よりも快適に人生を送るということが、道理にかなっている。

(p.402)

 

 そして、知的な生活を送るためには余暇も必要とされる。つまり、「幸福は余暇のうちにあると考えられる」(p.403)。ちょっと思うのだが、現代では、「遊び」と「余暇」はついつい混同されてしまいがちであるかもしれない。

 

さて、或る人々は自然の生まれにより善き人になると考え、別の人々は習慣によって善き人になると考え、さらに別の人々は教示によって善き人になると考えている。

まず、自然の生まれは、明らかにわれわれ次第のものではなく、真に幸運な人々になんらかの神的な原因によってそなわるものである。

(…中略…)

…その種の事柄を定める正しい方によって養われていないかぎり、若い頃から徳を目指す、正しい訓練の機会に恵まれることは困難である。というのも、多くの人、とりわけ若者にとって、節制を保って、忍耐をしながら生きるということは、楽しいことではないからである。それゆえ、しかるべき養育としかるべき課題が、法によって定まっていなければならない。なぜなら、習慣になってしまえば、そのことはもはや苦しくないからである。だが、若者のときに正しい養育と正しい配慮を〔法の定めに従って〕得ているというだけでは、おそらく十分ではないのだろう。大人になったときにもそれらのことを実行し、その習慣が身につかなければならないのだから、この点にかんしてもわれわれは法を必要とする。こうして法は、人の全生涯に関わる必要があるのである。…

(p.425 - 426)

 

…以上のことからすると、ここまで語ってきたように善き人になろうとする者は、適切に養育され、立派に習慣づけられて、その後すぐれた課題をこなして立派に生き、不本意にせよ自発的にせよ、劣悪なことを為さないようにしなければならない。しかも以上の事柄は、なんらかの知性と、従わせる力をもつ正しい規範的秩序に基づいて、実現しうることなのである。

(p.427)

 

 訳者解説によると、アリストテレスは幸福にはかなりの量の「外的な善」が必要となることも認めている。つまり、結局のところ、徳だけでなく「豊かさ」などの生活条件が整っていることも必要とされるのだ(今風に言えば「環境」が必要である、ということだろう)。たとえば、節制の徳は、そもそもある程度以上の豊かさが必要とされる、といった具合に。そのため、幸福論は、それを可能にする条件を生み出すための法律論や政治論、経済論とも関わってくるのだ(訳者解説ではアマルティア・センについて言及されている)。

*1:元々の文章はフィクションであるが、十中八九、著者はこの語り手と同様の考え方を抱いているように思える。

*2:

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*3:

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*4:

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*5:

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「特権」概念の不毛さ

 

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 上記は海燕氏によるブログ記事。

 二週間前の記事だけど、下記について、思うところを書いてみよう。

 

つまり、「ホワイト・フラジリティ」とか「マイクロ・アグレッション」とは、ある体制において特権を持つマジョリティ(この場合は白人)は、たとえリベラルな反差別意識を持っていても、ただ生きているだけで差別主義者であり、その自覚をもって体制を変えていく責任を有する、と告発するための言葉なのだ。

 上の青井ケイさんのツイートでは、ラーメン評論家もまたラーメン業界において不正な権威を持つ存在である以上、たとえ自身が差別やハラスメントを行っておらず、それどころかそれらの行為に反対していてさえ、一定の責任を持つことになるのだ、だから「自分はやっていない」などとイイワケせずに業界の健全化を行え、といいたいのだと思う(たぶん)。

 さて、どうだろうか。あなたはこういった主張をどう考えられるだろうか。正直、ぼくは「ホワイト・フラジリティ」という言葉に初めてふれたとき、強烈な違和感をぬぐい去ることができなかった。

 ある集団におけるマジョリティはすべて何らかの特権を有しているのだから、その差別的な構造を是正する責任を持つ。それくらいならわかる。納得できる。

 しかし、「ある集団におけるマジョリティは生まれながらにして、ただ生きているだけで加害者であり差別主義者なのであり、その構造があるかぎり責任を逃れることはできない。このことを自覚し構造の是正に奉仕せよ」とまでいわれると、さすがについていけないものを感じる。

 『ホワイト・フラジリティ』によれば、そういった「抵抗」を感じることそのものが「心の脆さ(フラジニティ)」なのであって、マジョリティはそれを乗り越えていくべきだとされているのだが、どうだろう、ほんとうにそうだろうか。

 

 前提としてことわっておくと、わたしはまだ『ホワイト・フラジリティ』を読んでいないし、『ホワイト・フラジリティ』が立脚しているらしい「批判的人種理論」についてもちゃんと勉強したことはない*1

 とはいえ、「特権(privilege)」という概念は、『ホワイト・フラジリティ』が翻訳されたり刊行されたりする前からいろいろと議論の的になっている。このブログでも、4年前に、数学者ジェームズ・リンゼイ(James A. Lindsay) と哲学者のピータ・ボゴシアン(Peter Boghossian)による「特権」概念の批判記事を紹介している。……彼らによる元記事はいつの間にか消失しちゃったのだけれど。

 

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 わたしは男性であり、なおかつ白人でもあるため、「特権」概念についてはなかなか語りづらいところもある*2

 しかし、冒頭で紹介した海燕氏をはじめとして、人種や性別を問わず、「特権」概念に違和感を抱いている人はかなり多くいるはずだ。

 

 わたしが「特権」概念について問題だと思っている点は、以下のようなものである。

 

1・現状についての新しい発見を促す概念ではない。

 

 たとえば「マイクロ・アグレッション」という概念は、これまでには「差別」や「攻撃」だとみなされてこなかったような些細な言動が人を傷付けたり加害になったりすることを示す概念だ。マイクロ・アグレッションという概念もさまざまなところで批判されているが*3、それはそれとして、これまでに注目されてこなかったような物事や現象(些細な言動による加害)を「発見」して、名前を付けて定義を与えることで、その物事や現象に人々の注目を促すことのできる概念であることはたしかだ。

 

 一方で、「特権」概念にそのような「発見」的な機能があるかどうかは疑わしい。

 ある社会のなかでマジョリティ人種や男性はマイノリティ人種や女性に対して相対的に有利な状態にいる、マイノリティ人種や女性が受けている様々な加害や苦痛をマジョリティ人種や男性は回避できている、ということ自体はずっと前から言われていたことである。マジョリティ人種や男性は相対的に有利な立場にいるがゆえに、マイノリティ人種や女性が被っている差別や被害を減らすために尽力する道徳的義務を負う、という規範的な主張ですら以前から言われていたものだ。

 

「差別」という言葉を用いたこれまでの議論に対して、「特権」という言葉を用いた新しい議論では、同じ現象を記述する際に焦点が「被害者/マイノリティ」から「加害者/マジョリティ」に移行している、とはいえるだろう。つまり、新しい発見を促すための概念というよりも、すでに発見されている現象の記述を変えるための概念であるかもしれない。

 それ自体は問題ではないかもしれないが、「特権」概念には下記のような問題もある。

 

2・ネガティブであり、内輪向けな概念である。

 

これに関しては過去の記事でも(リンゼイやボゴシアンの主張の要約として)書いている。

 

左派が注目すべきなのはマジョリティの"特権"という抽象的な空想的な概念ではなく、マイノリティが実際に様々な場で受けている差別である。現在の社会に深刻な差別が存在していることは確かなのだから、個々の差別を解決するためにはどのようなことをすればいいか、マジョリティはどのようなことをしなければならないか、ということについて具体的で積極的な解決策を論じる必要があるのだ。平等を達成するためには差別問題を解決して不当に低い立場からマイノリティを解放するというポジティブな方向を目指すべきであり、"特権"という概念を主張することでマイノリティがマジョリティを攻撃したりマジョリティ自身が自分の罪について罪の気持ちを抱くようにさせるというネガティブな方向で運動をしても、実際の差別問題が解決することも平等が達成されることもないのである。

 

“マジョリティとは「気にせずにすむ人々」である”というクリシェとも関連してくるが*4、マジョリティの「特権」として指摘されるものの多くは、マイノリティが得られていない利益を不当に得ていることではなく、マイノリティが被っている不利益を被っていないことである。

 でも、本来、「だれかが(不当な)不利益を被っていること」は不当な事態であり改善されるべきことであるとしても、「だれかが(不当な)不利益を被ってないこと」は不当な事態ではなくて望ましいことである。理想的な状況とは、「みんなが(不当な)不利益を被らないこと」であるだろう。

 そして、この理想的な状況を目指すうえで「特権」という概念を持ち出す必要はなく、「差別」という概念だけで事足りる。つまり、「だれかが(不当な)不利益を被っていること」は差別であるとみなして、そのような事態を無くすために努力すればよい、ということである。

 ここにおいて、「だれかが(不当な)不利益を被ってないこと」について言及する意味はとくにないのだ。

 

「特権」概念がポジティブな意味を持つとすれば、「自分はニュートラルな状態にいる」と思っていたマジョリティが、自分の状況のことを「自分は不利益を被らずに生きているが、マイノリティは不利益を被って生きていることをふまえれば、自分は不当に優遇された状態に生きている」と「反省」して、マイノリティが被る差別を解決するために運動したりアライになったりする……という時であろう。というか、そもそも、「特権」概念は反省を促すために創出された言葉なのであると思う。

 しかし、実際には、自分の特権を自覚して反省するタイプの人々のうちの大半は、特権概念が創出される以前からもともと反省しているように思える。つまり、「白人特権」や「男性特権」という言葉に興味を示して、その概念について学んで理解して、反省にまでつなげられるような人は、もともとがリベラルで差別問題に対して意識が高く左派的な社会運動に同調的でマイノリティのアライな人々であるように見受けられるのだ。言うまでもなく、そういう人は少数派であるが。

 そして、差別問題についてそこそこ以下の意識しかなかったり左派的な社会運動に同調していない人がいきなり「特権」概念を突きつけられたところで、それを理解して受け入れることは稀であるように思える。

 そもそも、だれかの考え方を変えたり自分の意見に同調させようとするときに、相手の「罪」を指摘して批判・非難したりすることはまったくの逆効果しかもたらさない。原則として、人は自分のことを非難されたくないものであり、非難されたら自己正当化の心理がはたらいて非難者の意見を拒絶するようになるものであるからだ*5。だから、「特権」概念は、差別問題について意識の低い人や鈍感な人にも「反省」を促してアライの輪を拡張するという目的に対しては逆効果にしかなっていないように思える。

 日本語圏のSNSを見ていても、せいぜいのところ、「特権」概念は他人に対する糾弾に使われるか(これについては後述する)、内輪向けの「美徳シグナリング」に使われるかのどちらかであるようだ*6。つまり、男性であったりシスジェンダーであったりネイティブ日本人であったりなどの「マジョリティ」な人が、女性であったりトランスジェンダーであったり在日外国人であったりなどの「マイノリティ」な人々に向けて「自分の特権について反省する」というパフォーマンスをおこなう、ということである。いつも眺めていて思うのだけれど、あれでなにがどう事態が改善したり物事がよくなったりするのか、さっぱりわからない。

 別の言い方をすれば、「特権」概念とは、「内輪」のみで共有されている道徳的価値観を反映したシグナリングをおこなうことで「内輪」の団結を固めるためのもの、というフシがある。

 団結が固まることは、それはそれでよいかもしれないが、ジョナサン・ハイトによる「道徳は人々を結びつけると同時に盲目にする」という名言も忘れるべきではない。それは後者の「糾弾」の問題と裏表でもあるのだ。

 

3・他者に対する糾弾のために用いられて、対立を招く概念である。

 

 これについても過去の記事で書いている。

 

日本のTwitterを眺めていると、トランス女性の側は生物学的女性の「シス特権」をあげつらい、生物学的女性の側はトランス女性の「トランス特権」をあげつらうことで、不毛な非難の応酬となっている様子がうかがえる。

この状況については、「特権」概念は他者を非難する武器として使うだけなら便利で強力なものであるが、妥協点を発見したり利害を調整したりする必要がある場合には逆効果しかもたらさないものである、ということが影響しているだろう。「特権」概念にかかると、「ある属性が経験している困難や感じている苦痛を経験したり感じたりせずに済む属性は、特権を持った存在である」とされる。特権を指摘された人は、本人がどう振る舞っていて他人に対してどう接しているかに関わらず、反省すべき加害者側であり、弱者である属性に対して譲歩を行なうべき存在であるとされてしまうのだ。特権を指摘された人のなかでも真面目であったり気が弱かったりする人は罪悪感を抱いて、実際に反省や譲歩を行うかもしれないが、大半の人はムッとなってしまい、相手の側に対する反感をむしろ強めてしまうものだ。そうなると妥協や合意は遠ざかってしまう。「白人特権」や「男性特権」といった言説ですら逆効果をもたらしてきたものだが、人種の問題や男女の問題と比べても生物学的女性とトランス女性との間における問題では被害や不利益の状況が複雑に入り組んでいるからこそ、特権概念の悪影響はさらに強くなるのだろう。

読書メモ:『ジェンダーの終わり:性とアイデンティティに関する迷信を暴く』(1) - 道徳的動物日記

 

 また、海燕氏による下記の疑問も、もっともなものだ。

 

たとえば、前述の杉田氏は著書『マジョリティ男性にとってのまっとうさとは何か』のなかで、すべてのマジョリティ男性は、たとえリベラルな平等思想を抱いていても性差別主義者であるという意味のことを書いている。

ぼくにもこれはあまりにも過剰で不当な意識に思える。このような主張は、逆に差別の重さを軽んじさせるものではないのか。

これを読まれているあなたはどう思われるだろうか。白人は、男性は、ラーメン評論家は、あるいは日本人全員でも一定以上の資産家みんなでも良いが、そういった人間はただその立場に生まれたというだけで、マイノリティから何とののしられても我慢しなければならないのか。それがリベラルな「まっとうさ」なのか。何かがおかしくはないか。

ラーメン評論家ははんつ遠藤によるセクハラの責任を負うべきなのか? - Something Orange

 

 言うまでもなく、マジョリティ人種であろうと男性であろうと、大半の人は、個人としての辛さを抱えているものだ。

 とくに性別に関しては、女性にも男性にもそれぞれの性に顕著・特徴的な悩みというものが存在しているのであり、それは非対称なものではあるだろうが、ゼロサムゲーム的なものでもない。たとえばキャリア形成における構造的不利益や性的加害・ハラスメントの受けやすさという問題は女性の側に顕著である一方で、キャリア形成へのプレッシャーや孤独や自殺リスクなどは男性の側に顕著な問題だ*7

 いま現在、キャリア形成へのプレッシャーや孤独に苦しむ男性が「男性特権」を糾弾されたら、反発を抱くのも当たり前であるだろう。そうやって糾弾すること自体が非倫理的である、とすら主張できるように思える。

 

 こうやっていろいろと考えていくと、差別について新しい社会学用語や社会運動用語を用いて論じたり考えたり主張したりすること自体を一旦ストップしてもいいのではないか、と思えるようになってきた。

 いまこの世の中に存在する差別の問題や、不正義や不道徳って、既存の用語だけでも十分に論じたり考えたり主張したりすることができるはずである。もちろん、差別や不正義や不道徳の問題は一朝一夕に解決できるわけではない(完全に解決することは未来永劫ないだろう)。だからこそ、漸進的で地道なアプローチが必要とされるはずだ。

 ……しかし、どうにもみんな新しい用語や概念を作りたがるし、新しい概念を作れば問題の理解だけでなく問題の解決にもつながるに決まっている、と認識しているフシがある。でも、たぶん、その認識は誤りなのだ。

 

 

 

*1:

diamond.jp

“White Fragility”でディアンジェロは、批判的人種理論(Critical Race Theory)にもとづいてきわめて明快な主張をしているが、それは日本人(とりわけ「リベラル」)にとって容易には理解しがたいものだ。

*2:とはいえ、上のリンクにある橘玲氏の記事によると「白人特権」は「アメリカ(or欧州)で生まれ育った白人」のみに当てはまるようなので、わたしは「白人特権」は持たないということになるかもしれない。

*3:

davitrice.hatenadiary.jp

*4:

note.com

*5:

 

社会運動について、「相手の心を変える」ことで成果につなげる実践的なテクニックを紹介するこの本のなかで、とくに強調されていたことだ。

*6:

…それは、「自分の集団の連携を保持して、敵対する集団の連携を破壊しようとする心理的適応」である。これは、左派の場合にはジェンダーの平等や社会正義の達成など、"集団において望ましいとされている目標に自分がコミットしていること"を他人に広く知らしめるために主に用いられる行動であり、心理学的には「Virtue Signalling(美徳のシグナリング)」と呼ばれるものだ。

進化心理学はなぜ批判されるのか? - 道徳的動物日記

*7:

gendai.ismedia.jp

gendai.ismedia.jp

読書メモ:『「生きにくさ」はどこからくるのか:進化が生んだ二種類の精神システムとグローバル化』

 

 

 著者は心理学者で、ほかにも『日本人は論理的に考えることが本当に苦手なのか』などの著作がある。

『「生きにくさ」はどこからくるのか』については、出版社のサイトでは以下のように紹介されている。

 

ハイテクとグローバル化人間性を奪い、現代人の精神を貧困にしていると信じる人は多い。人間の脳における、「進化的に古いシステムと新しいシステム」というアプローチから現代の「生きにくさ」の由来を説き明かし、悲観論を乗り越える方途を探る。

「生きにくさ」はどこからくるのか - 新曜社 本から広がる世界の魅力と、その可能性を求めて

 

 この本のベースとなっているのは私たちの心理のシステムを「進化的に古いシステム」と「進化的に新しいシステム」とに分ける二重過程理論やモジュールマシン理論などの心理学、そしてスティーブン・ピンカーが『暴力の人類史』を基調としながらウィリアム・バーンスタインの『「豊かさ」の誕生 - 成長と発展の文明史』などの経済史も織り込んだ文明論だ。くわえて、エドワード・ホールによる「高文脈文化・低文脈文化」の考え方も援用しているところには、オリジナリティがある。

 

ja.wikipedia.org

 

 わたしたちに備わる古いシステムは関わる人が少なくて新奇な時代が起きない限定された状況に対応するために進化してきたのに対して、新しいシステムは様々な状況に柔軟に対応するために進化してきた。異なる国や人種の人とも共同するようになり、人権などの概念を理解できるようになったのも新しいシステムのおかげ。しかし、古いシステムは新しいシステムに比べて影響力は強く、現代になっても昔ながらの感情的な反応や抵抗というものは根強くて、それで差別が残ったり効率的に資本主義や民主主義を運営することが難しくなってしまう。しかしそれでも人類は進歩してきたし、「わたしたちには古いシステムも備わっているのだ」ということを織り込んだうえで古いシステムの機能が悪い方向ではなく良い方向に発揮されるようにメタレベルで適切にコントロールしていけば、人類の進歩はこれからも続くだろう……といった主張がなされている。

 このタイプの主張は、『「生きにくさ」はどこからくるのか』や『暴力の人類史』に限らず、ジョシュア・グリーンの『モラル・トライブズ』やジョセフ・ヒースの『啓蒙思想2.0』などでもなされていた主張だ。

 二重過程理論や進化心理学の考え方を受け入れつつ、「規範」や「倫理」や「理性」の効果を認めたうえで、経済学の基本的な考え方を受け入れ、そして犯罪の発生件数や富の拡大に関する統計データが示す事実も肯定すれば、おおむねこういった考えにたどり着くということである。そして、わたしも、このような考え方は多かれ少なかれ「真実」であると思っている。

 ではなぜ多くの学者が同じような主張を繰り返しているかというと、経済学の考え方を認めなかったり、「古いシステム」の影響力を過大評価して「新しいシステム」は無力であると考えたり、統計データを無視したり、進化心理学を否定したりすることで、ちがった結論に辿り着いてそれを主張する人が実に多いからである。もちろんいろんな考え方があってそれが表明されること自体に問題はないのだが、経済の発展や社会の安定、モラルや人権や民主主義に関わるトピックについて「間違った」主張が幅を利かせるようになると、悪影響も生じる。そういう状況は是正・予防しなければならない……といった危機意識や使命感というようなものもあるのだろう。

 この本は169ページしかなく、翻訳文ではないネイティブの日本語で書かれているため、『暴力の人類史』や『啓蒙思想2.0』と比べてもずっと簡単に読める。そのぶん味気なかったり議論が浅いところはあるが、このタイプの主張に興味がありつつもどの本も分量がすごくて値段も高くて手が出せなかった、という人にはおすすめだ。

 

 本書のタイトルの「生きにくさ」に関する議論については、ロバート・パットナムの『孤独なボウリング』の議論を紹介しながら、「産業化による社会関係資本の低下」が原因であると論じられている。

 

社会関係資本の少なさは、困ったことになったときに頼ることができる人が少ないということを意味する。極端な場合、たとえば豊かな社会であっても勤務先の倒産など不運なことは起こりうるが、このようなさまざまな苦境時において助けてくれる他者がいないということも意味する。また、危機的な状況ではないとしても、インフォーマルな付き合いが減少しているということは、仲間との良好な関係を快として進化した社会的哺乳類として、人生が愉快なものではなくなっている可能性もある。さらには、実際、社会関係資本が少ない人は精神的にも不健康であるのではないかということも示唆されている。

確かに、社会関係資本の意地は煩わしく、必要性が低下すればこの縮小は人々が望んだ結果なのかもしれない。しかし、望んだ結果が必ずしも全体として望ましいとは限らないのである。あるコミュニティの煩わしさから逃避したとしても、そのコミュニティが存続していれば、またそのコミュニティに戻ったり、あるいは別のコミュニティに移ったりすることも可能だろう。しかし、コミュニティそのものが消滅してしまえば、孤独になる以外の選択肢はなくなってしまう。パットナムが実際に示したさまざまなデータは米国のものではあるが、この傾向は日本をはじめとする先進的な産業国家にも当てはまる現象であろう。

(p.103 - 104)

 

 もうひとつ、著者が「生きにくさ」の原因として指摘するのが、産業化やグローバル化によって急激に生じた「低文脈化」に対して、もともとは「高文脈」な社会で生きてきた日本人が不適応になっている、ということだ*1。また、高文脈文化の社会で急激に低文脈化が生じることで中間コミュニティなどが破壊されて「無縁社会」化していき、上述の社会関係資本の低下にもつながっていく。

 

 とはいえ、産業化やグローバリゼーションや多文化共生が「生きにくさ」をもたらしているとしても、それらがわたしたちにあたえているポジティブな影響もきっちり指摘して、「止めるべきではない」と著者は主張している。とくに日本ではグローバリゼーションのウケが悪いし、多文化共生についてもあーだこーだ言いながら否定するのが"賢い"人のやるべきことだとされているフシがあるので、マイナス面にも言及しつつ肯定する著者のバランス感覚にはかなり好感が抱けた。

 最終章では「義務論」と「功利論」を両立させる方法を提示したり、政治的イデオロギーを批判したり、一見するとリベラル志向な「文化相対主義」が排外主義や国粋主義に結び付いている点が指摘されたりするなど、規範的な議論についても目が行き届いている点もよかった。 

 

 

*1:エドワード・ホールによる「低文脈」「高文脈」の議論には「実証性がない」「再現性がない」との批判もなされているようだが、一年ほど多国籍企業で働いた経験から、わたしはホールの議論にかなりの説得力を感じるようになっている。

読書メモ:『事実はなぜ人の意見を変えられないのか』

 

 

 

 翻訳の出版当時から気になっていたのだが(著者の前著の『脳は楽観的に考える』もそれなりに印象深かった)、図書館での予約数がハンパなく、一年半経ってようやく借りれることになった。

 しかし、期待していたほどにはおもしろくない。もうすこし社会的な要素や倫理的な要素が含まれているかと思ったのだけれど、あくまで心理学的な話が続くだけ。どちらかというと、ビジネスやマーケティングの場面に応用することを期待して読まれている本だ。『影響力の武器』とか『人を動かす』とかのあたりと同じような立ち位置にいるのかもしれない。もう返却してしまったので引用とかはできないのだけれど、まあ、本の趣旨はHONZの紹介で充分だし、具体的な研究結果とか「人を動かすテクニック」を知りたいなら本を買って読めばよろしい。

 

honz.jp

読書メモ:『真実の終わり』

 

 

 

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 

 以前にも紹介したんだけれど、改めて再読。しかしまあやっぱりあんまり中身がある本ではないような気がする。著者は文芸批評家であるんだけれど、文芸批評らしく皮肉や比喩や気の利いた表現が散りばめられているので、冗長になり論旨がボケているのだ。もうこのタイプの文章そのものがどっかに捨てられてしまってもいいだろうと思うんだけど、文章や本が好きな人に限って「文芸批評」風味の文章にメロメロになっちゃうんだから世話がない。

 以下は個人的に興味のあるところのメモ。

 

さらに皮肉なのは、右派ポピュリストによるポストモダン的議論の流用、その客観的実在の哲学的否認の採用だ。これらの学派は何十年間も左派およびトランプとその仲間が軽蔑する極めて名門とされる学会と結びついてきた。学者によるこうしたしばしば深遠な議論を、なぜ我々が気にしなければならないのか?トランプが、デリダボードリヤール、リオタールの作品を読破したことがないのは明らかだ(仮にその名前を聞いたことくらいはあったとしても)。世の中に流布している漠然としたニヒリズムのすべてが、ポストモダニズムの思想家のせいだとは到底いえない。しかし、思想家たちの理論は、俗物化された産物として大衆文化に浸み出し、大統領の擁護者に乗っ取られてしまった。彼らは、その相対主義的な主張を、大統領の嘘を弁明するために用いようと欲したのだ。右派はそれを、進化論に異議を唱えるため、気候変動の現実を否定するため、もう一つの事実を売り込むために使った。悪名高いオルタナ右翼トロール陰謀論者のマイク・セルノビッチでさえ、『ニューヨーカー』誌による二〇一六年のインタビューで、ポストモダニズムを引き合いに出した。「ほら、私は大学でポストモダンの理論を読んだんだ。何もかもが物語であるならば、主流な物語に対する他の物語が必要じゃないか」。彼は付け足した。「私がラカンを読むような人間には見えないだろう?」

(p.35 - 36)

 

大学キャンパスでも個人的な証言が流行りだした。客観的真実という概念が支持を失い、伝統的な研究によって収集された経験的証拠に疑いの眼差しが向けられるようになったのだ。学界の執筆者は、自身の「立ち位置」に関する断り書きから学術論文を始めるようになった。人種、宗教、ジェンダー、背景、個人的経験が、分析に貢献したり、それを歪曲したり、裏付けたりするかもしれない。一九九四年、アダム・ベグレーは『リングワ・フランカ』誌で、新しい「わたし批評」の提案者の中には、本格的な学問的自伝を書く者も現れたと記した。彼によれば自伝的傾向は六〇年代にまで遡って初期のフェミニスト意識向上グループから始まり、しばしば「多文化主義と連携して拡大した。マイノリティとしての経験はたいてい一人称単数視点で語られる。ゲイ研究や性的なマイノリティの理論についても同様だ」。

(p.57)

 

すべての真実が不完全(および個人の視点の結果)だというポストモダニズムの主張は、ある出来事を理解したり表象したりするうえで数多くの正当な方法があるという、関連する議論に繋がった。それは、より平等主義的な議論を促し、過去に権利を剥奪されていた者たちの声が聞こえるようにもなった。しかし同時に、侮蔑的な、または反証済みの理論の擁護に、そして同等に扱うことのできないものを同等に扱おうとする者たちによって悪用されてきた。例えば万物創造説の推進者は学校で進化論と並行して「インテリジェント・デザイン」を教えるよう求めた。ある者は「両方とも教えるべきだ」と言い、他の者は「論争について教えよ」と主張した。

(p.59)

 

実のところ、脱構築主義とは非常にニヒルである。注意深く証拠を収集し吟味することで入手可能な最良の真実を突き止めようとするジャーナリストや歴史家の試みが、空虚であるとほのめかしている。また理性は時代遅れの価値である、言語とはコミュニケーションのツールではなく、絶えず自らを混乱させる当てにならないインターフェースだと示唆している。脱構築主義の支持者たちは、著者の意図がテキストに意味を与えると信じておらず(それは読者や視聴者など受け手次第だと彼は考える)、多くのポストモダン主義者は個人責任という概念が過大評価されているとまで言う。学者のクリストファー・バトラーの言葉を借りるならば、それは「内在する経済的構造の役割よりも、個人的自律の重要性を優先させる、遥かに小説風でブルジョワ的な信念」を奨励する。

(p.131 - 132)

 

現代文化をめぐる長文エッセイを通じて(デイヴィッド・フォスター・)ウォレスは、ポストモダンの皮肉が物事を爆破するうえで強力な道具となり得る一方で、本質的には「批判的で破壊的な」論理であると論じた。障害物を排除するには有益だが、「暴露した偽善に取って代わる何かを構築するには」、きわだって「使い物にならない」と。シニシズムの普及は物書きを誠意や「オリジナリティ、高潔、誠実といった昔風の価値観」から遠ざけると彼は記した。「嘲りを頻発する者にとって嘲りからの盾となり」「いまだに時代遅れの見せかけに騙される大衆の上を行く、嘲りの後継者を」祝福する。「発言が真意でない」という態度は、自分たちが偏狭なのではなく、ただのジョークだと装うオルタナ右翼トロールに作用されることになる。

(…中略…)

ポストモダニズムからしたたり落ちた遺産は「風刺、シニシズム、度を越したアンニュイ、あらゆる権威に対する不信、行動に対するあらゆる制御への不信、診断し嘲笑うだけでなく救済するという願望の代わりに、皮肉な不快感の診断を下す酷い傾向だ。こうしたものが既に文化に浸透していることを理解しなければならない。我々の言語となってしまった」とウォレスは主張した。「ポストモダン的皮肉は我々の環境となった」。我々が泳ぐ水そのものなのである。

(p.132 - 133)