道徳的動物日記

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「公共的正当化」とはなんぞや(読書メモ:『リベラルな徳』)

 

 

 

ジョン・ロールズの『正義論』のような、リベラリズムに関する議論への基本的な忠誠は、それ自体が広く認識され、需要されうる理性的議論であるという事実においてはじめて把握される。つまり、その主張が理性により支えられ、異議や反論を予期し、理性によってそれらに向き合い、競合する理論を公正に考慮しようと試み、議論に反論しようとする根拠が明確だという事実において。誰もが理由と異議を与えることができ、最善の議論がどこからでも生じ、誰もが公共的に正当化できる見解が目標であるとみなされるとき、その議論は公共的なものである。公平な視点、つまり関係者全員に受け入れられる道理を見分けることのできる視点から、正義の原理を考慮するよう我われに要求するとき、その議論は道徳的なものである。その場合、誰もが勘定に入れられるのであって、勘定から外され、あるいは他者のために犠牲にされる人はいない。既存の判断や実践を単に反映することを意図しておらず、また多少の矛盾を取り繕おうとしないとき、その議論は哲学的で、批判的なものである。それは既存の見解の正当化可能性を批判し、テストするのである。その議論はソクラテス流のものである。リベラルは、最善の状態で、すべてのことを考慮したうえで、利用可能な最善のものとして公共的に正当化しうる正義の原理を支持するように定められている。こうした見方は、すべてのリベラルな理論について妥当するわけではなく、非リベラルな理論の一部についても妥当する。

 

(p.11)

 

この理想において、リベラルな価値は、我われ相互の道徳的義務の表現として、「我われが生きる最善の方法は何か?」という問いに対する最善の回答として、公職者および市民両者によって肯定されるのである。批判的省察は、公共的かかわりであり、最も根本的には、我われの政治的取決めをどうすべきかについて公共的に討議する方法へのかかわりである。憲法上の制度は、この継続的討議を構成し、維持する場である。正当なリベラル社会は、それを推奨する正義以上のものを有する。そうした社会においては、共同体、徳、および人間の繁栄についての積極的なリベラルの理想を識別することができる。リベラルな正義が統治する共同体は、リベラルな権利が侵害されない場所としてのみならず、共同体としても魅力的なものなのである。

 

(p.12- 13)

 

市民権、徳、および共同体のリベラルな理想は、公共的合理性への基本的な政治的忠誠によって維持される、リベラルな立憲主義の理想の中に見出される。哲学は、「通常の」思考と区別されたそれと並立する制度ではなく、「そのまさに問題になっている事柄は、一般常識の問題の拡大」であるとポパーは言う。我われは、良い道理および強力な議論を探究しなければならないのである。なぜなら現代国家は、いかなる単純な意味においても「共有された意味の共同体」などではなく、一部のことには同意し、他のことには同意せず、我われがむしろその合理性を尊重したいと思い、それによってその忠誠を呼び起こしたいと願う多かれ少なかれ合理的な人々からなる結社だからである。

 

(p.38 - 39)

 

 本書は政治哲学の本であると同時に法哲学憲法論的な話題についても尺が割かれており、わたしにはちょっと手強い本ではあった。

 上記の引用部分に書かれているような「公共的正当化」という営みと、それがリベラリズムにもたらす(他のイズムに対する)優越性については、翻訳者の小川仁志が以下のようにまとめている。

 

マシードの説く「リベラルな徳」が、ここで時代の文脈を超えてヒントを与えてくれる。政治哲学や政治思想に明るい方ならすぐに察しが付くと思うが、リベラルとは一般に価値中立性を意味する用語であり、徳とはその反対に個々人が重視している一定の価値や、それに基づく生き方についての信念などを意味する用語である。したがって、「リベラルな徳」という表現はいかにも矛盾した概念に聞こえるだろう。

しかしそれはまったくの誤解である。マシードは次のように言っている。「リベラリズムは、公共的価値の間で本当に中立ではありえない。それは、個人の自由および責任、変化と多様性に対する寛容、およびリベラルな価値を尊重する者の権利の尊重について、一定の公共的価値の至高の価値を支持するのである」と。

リベラリズムとは、むしろ個々の市民が異なる価値観をすり合わせながら、一つの共同体で共存していくための仕組みにほかならない。したがって、個々人が徳を語ってはいけないのではなくて、逆に徳を語ることで、それがいかに共有可能なものであるか吟味することこそが求められるのである。

非リベラルな思想、あるいは政体においては、そうした行為は許されるものではない。予め善として掲げられた徳の下に個々人が結集し、それを疑うことすら許されないのである。しかしリベラルは異なる。どの徳が望ましいのか、吟味するプロセスが保障されているのだ。マシードに言わせるとそれは公共的正当化ということになる。

公共的正当化とは、理性に限界があることを認めつつも、理由付与とその共有を目指す営為である。わかりやすく言うならば、市民誰もが社会の問題にかかわり、議論し、その結果をみんなで共有しようとする態度である。

 

gendai.media

 

 また、「公共的正当化」は同じくロールズ由来の「公共的理性」という言葉とも深く関わっているようだ(というより、ほとんど同じ意味かしら?)。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 また、森田浩之が『ロールズ正義論入門』で解説したような「理性」と「合理性」の違いも意識しておきべきだろう(上述部分で『リベラルな徳』から引用した「多かれ少なかれ合理的な人々」などの文章は、文脈を見る限り、「合理性」ではなく「理性」のほうを指しているように思われる)。

 

整理すれば、オリジナル・ポジションの下にいる人びとは、人生に意味を与えるような人生の合理的な計画を遂行する、という意味で、形式的に合理的である。その人生の合理的な計画の一部として、人びとは、ふたつのモラル・パワー、すなわち「正しさ」を見分ける「理性的であること」と「善」を追求する「合理的であること」という能力を使って、さらにその感覚を伸ばすという実質的な関心を持っている。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 本書で提示されている「リベラルな徳」とは、自分自身と自分の人生について批判的に考える能力や、それに伴う「自律」である。

 

「通常」の人間(道徳的意味で)であれば、我われの尊重への要求、自制、および自由への平等の権利に対する道徳的要求を有している、とリベラルは言う。人は、目標、プロジェクト、および人生の計画を形成し、追求し、改定する省察的選択ができる。人は、程度の異なる実践的および認識的合理性を備えており、「自己規律的」ないし「自己充足的」である。人は、長い間にわたって継続するものとして自らを認識する。自己規律的な人の省察能力は、多様な形態の行動、パラノイア、スキゾフレニアを含む欠陥、および我われが目録に搭載するため立ち止まる必要があるその他の条件によって損なわれうる。ここで重要な点は、リベラルは、理論的に、操作、強制、パターナリズム、および卓越主義に対して、人や目的への尊重の原理を共通に認識するということである。

人は尊重に値し、その結果自らの理想を選択し、または理想なしで生きることに自由であるべきだとリベラルは信じている。選択の自由を尊重しながらも、すべての選択に等しく価値があるとか、すべての選択が卓越性のリベラルな形態と等しく両立するなどと、リベラルはみなす必要はない。通常の人であることに関連する省察的能力をさらに十全に発達させることは、人格の理想、我われが「自律」と呼ぶものへと導く。

自己充足した人間は、欲求をある程度省察し、選択し、繰り述べ、形成する能力がある。それゆえ自己規律的であるが、価値ある長期的プロジェクトおよび約束のために、欲求および性向に抵抗する規律を欠いているかもしれない。自己充足した人間も、依然として流行または慣習に順応的であるが、または「奴隷」であって、他者から無批判的に受け取る基準、理想、および価値に基づいて行動しうる。すなわち、自己充足した人間は、慣習を自ら批判的に考量し、判断する能力または性向を欠いているかもしれない。単なる自己充足した人間は、批判的に評価し、理性的に統合した価値、理想、および願望から行為しない。道具的合理性しか持たない自己充足した人間も、なお基本的な尊重の形態への資格がある。リベラルとして活躍することは、道具的合理性以上の省察的能力を必要とする。

自己充足から自律への移行の決定的特徴は、批判的に評価し、また人の行為だけでなく、我われの行動の源、人の人格そのものを積極的に形成さえする能力の発達である。

 

(p. 215 - 216)

 

リベラルな者は、自己統治的省察能力の保有により区別される。こうした省察能力をさらに発展させることは、自律の理想へと人を導くが、その理想は他のリベラルな徳の源なのである。権利の尊重を核心的価値とし、多様性および寛容の普及を奨励する政治体制は、人々が自己の主人となり、自己制御を達成するため、他者の権利を尊重し、積極的に選択の自由を行使するように、自らのプロジェクトの経路を作り、制約できるようにする能力の行使の多くの機会、および刺激を与える。

自律に向かって努力することは、自覚的で、自己批判的で、省察的な能力の発達を含む。その能力は、人が人生の理想と人格を構築し、評価し、そして改定し、かかる評価を実際の選択、プロジェクト、そして誓約の構築に関係させられるようにするものである。自律的な者として発展することとは、人の個性を積極的に発展させることである。自律は、批判的に省察し、こうした省察に基づいて行為する能力を含意する。それは、我われが「執行の」徳と呼ぶものの保有を意味する。自発性、独立、決心、忍耐、勤勉、および根気である。

 

(p.273)

 

 このあたり、『ロールズ正義論入門』における、追求する「善」の中身ではなく「善」の追求の仕方に卓越性(徳)が存在する、とロールズが考えていたという森田の解釈とも一致していそうだ。自分の人生の目標をきちんと追求できている人は、たしかに、忍耐や根気があるはずだろう。

 そして、人々が相互に相手のことを自律した人間だと認めあい、「自分の自律も相手の自律も侵害されてはならない」と考えるようになって、そして公共的正当化(理性的な議論)を経て「(市民の自律を尊重できる社会は他にないから)社会はリベラルなものでなければならない」と納得するようになった社会では、「リベラリズム」自体が人々によって共有される公共道徳となり、「共通の価値観がない社会では連帯や社会的紐帯の基盤もなくなってしまう」というコミュニタリアンの批判を斥けることができる……というのが、マシードの主張の大枠であるようだ。

 ちなみに、マシードは、アリストテレスが『ニコマコス倫理学』で論じたような個人の卓越した性質・能力としての「徳」と、『政治学』で論じた(らしい)社会全体にとっての公共的な価値としての「共通善」の両方について、「リベラリズムでもそれらを得ることができる」といった議論をしている。とはいえ、リベラリズムに反論する人は、必ずしも「徳」と「共通善」の両方(がリベラルな社会では得られないこと)に関する主張をしているわけではなく、たとえばサンデルはもっぱら後者についてしか語っていないことは留意しておいたほうがいいだろう。

 また、リベラリズムの原理は、法律そのものや法律が運用されるシステムにも反映される。

 

我われは、フラーやドウォーキンのようなリベラルにならい、法と道徳の分離を拒否することができる。リベラルな法は、規則だけでなく、一定の根底にある目的および原理からなる。秩序ある自由、公正、デュープロセス、理性、および残虐さへの反対である。法の解釈は、規則を適用するだけでなく、その多くが重要な道徳的側面を有する法原理の解釈問題でもある。

 

(p.85)

 

 また、リベラルな法システムは、公共的正当化のプロセスを保護するために「市民的不服従」や「良心的兵役拒否」に寛大である(必ずしも全て許容するわけではなく、時には罰することもあるが、少なくとも公職者には市民的不服従者を罰する前に省察したり複雑な政治的判断をしたりすることが求められる)。

 そして、個々の市民は、リベラルな社会を守るためにときとして自己犠牲的な行動を取らなければならないかもしれない。

 

リベラルな市民は、道徳的人間として、リベラルな正義への優越的忠誠とともにやってくる転位の可能性を、ただ受け入れなければならない。我われのほとんどは、部外者または好まれない構成員、あるいは不人気な少数者に対して不公正に敵対する、集団、近隣、組織、または政治単位の構成員である。我われが非常に配慮する人々でさえも、不正義に押しやられるかもしれない。『真昼の決闘』のケイン保安官のように、リベラルな原理に対する優越的忠誠を持つ者は、正義が要求するものについての我われの最善の理解と両立しない行為を友人や愛する者が薦めたとき、彼らから距離を置く用意がなければならない。あるいは、我われは、ゴードン・ヒラバヤシのように、より高いリベラルな理想の名において、無実の家族を残して去ることを決心することになるだろう。そうした限定的な事例で正義が要求するものは、より正常な状況にふさわしい態度の決定に役立つ。我われは、結局、子どもたちに批判的に考え、彼らが正しいと考えることを行い、同僚の圧力に屈しないように教える。しかしながら、結局我われは、原理に基づく行動の孤独性を強調すべきではない。リベラルな正義の最善の道理は、公共的に維持されるものである。我われは、正しいことをすることが、しばしば単独で行為することを意味するものと想定すべきではない。

 

(p. 252)

 

 本書の議論を改めてまとめると、要するに、コミュニタリアンが想定するような「地域」「伝統」「慣習」「文化」などではなく、リベラリズムという「原理」や「思想」、あるいは公共的正当化という「プロセス」に対して敬意や忠誠を市民たちが持つようになることで、自律という個人的美徳を備えた個人たちの間に共通善が成立するようになる、ということだろう。

 ……もちろん、ここで疑問を抱くのは、そんな社会がほんとうに成立し得るのかということだ。少なくとも日本ではまず見かけないし、現状を鑑みるとむこう200年間くらいは成立しなさそうである。アメリカやヨーロッパのごく一部では有り得るかもしれないが、リベラルなエリートたちは「公共的な正当化」や「理性的な議論」をやっている気でいながら自分たちの間で既に定まっている価値観や意見を再確認したりお決まりのコミュニケーションを繰り返したりしているだけかもしれない。これはリベラリズムと理性に対するジョナサン・ハイト的な懐疑主義的な見解であり、普段はわたしも必ずしもハイトに賛同するわけではないのだが、マシードのようにリベラリズムをあまりに熱心かつ理想主義的に擁護している議論を読むと、「リベラルな人たちってほんとに自認するほどの批判的省察や自律ができているの?」と疑いたくなってしまうものである。

 また、仮に人々が「原理」や「プロセス」に基づいて連帯できたところで、それぞれ異なる「原理」や「プロセス」に基づいて連帯している人たちどうしの対立は、単に伝統や地域に基づいて連帯している人たちどうしの対立よりも深刻なものとなるかもしれない。……たとえば、『リベラルな徳』のなかで描かれているようなリベラリズムに忠誠を近いリベラリズムに基づいて連帯する人々とパラレルな存在として、リバタリアニズムに忠誠を近いリバタリアニズムに基づいて連帯する人々の姿を思い浮かべることはできる。彼らのほうが、リベラリストにとってはむしろコミュニタリアンたちよりも深刻な脅威となるかもしれない。

 

市民の議論に対して哲学者が提言できる範囲とは?(読書メモ:『「正しい政策」がないならどうすべきか 政策のための哲学入門』②)

 

 

 

 

●「安全性」をめぐってわたしたちの内部で生じる、帰結主義と義務論の対立

 

たとえば、鉄道衝突事故が起きた後に、犠牲者の親族が訴えるであろうことを考えてみよう。ある意味で、あらゆる衝突事故は回避できたものだ。さまざまな要素が複合して事故が起きたのであり、もし一つでも要素が異なっていれば、事故は起きなかっただろう。そして多くの場合、責任を負っている会社は、そうした事故が起こらないように何らかの仕組みや技術を導入することができたはずだ。したがって、たとえば運転士が信号に正しく応答しなかったせいで鉄道事故が起きたなら、一体どうしてこんなことが21世紀において起きるのだろうか、と思うのは当然だ。そもそも、鉄道が信号に自動的に応ずるような技術はすでにあって、それを採用している国もいくつかある。よって、技術があるなら、単純にそれを導入したらどうか。そうすれば、このような事故を一切防ぐことができる。コストがかかるというだけでその対策を拒否するのは、確かに何か不道徳なところがある。

以上の推論は極めて強力に思われ、おそらく否定しようがない。しかし、帰結主義者が、新システムを導入するコストは膨大になると反論するのももっともだ。今回の事例では、指摘したように何十億ポンドにも達するだろう。一年に一人か二人を救うために、これだけのお金を出すことは本当に妥当だろうか。とりわけ、そのお金を他の目的に使えば、もっと良いことを実現できるというのに。哲学の教科書はよく、帰結主義者と絶対主義者[義務論者]を次のような構図で描く。つまり、第一次世界大戦中に、対立する勢力がそれぞれの塹壕にいて、自らの大義は正しいと確信しているものの、どうすれば勝利できるかについては見当がついていないという構図である。しかし、今回の例では、二つの勢力が勢力が闘い合っていると考えるのは間違っている。われわれ各自の内部において、対立が存在するのである。多くの人々が、自身が二つの観点に引き裂かれているーー別の要素が視野に入ると、別の立場に意見が変わるーーのに気づくだろう。したがって、ここに極めて深刻な道徳的問題がある。

 

(p. 127 - 128)

 

[ハットフィールド鉄道事故グレート・ヘック鉄道事故について]

両事故に対する国民とメディアの関心の相違は、ある種の特別な道徳的責任という原理に訴えることによってある程度は説明がつく。ここで厳密な原理を示すのは難しいが、次の区別が関連すると思われる。つまり、鉄道会社にとって直接的な関心たるべき問題ーーたとえば線路のコンディションやメンテナンスーーと、直接の関心ではない問題ーー自動車の運転手が払うべき適切な注意の程度、といった点ーーとの区別である。もちろん、後者の問題についても鉄道会社はすべての責任を放棄できるわけではないが、その場合では、われわれの道徳的な直観はより帰結主義的になる傾向がある。つまり、絶対的、予防的アプローチーーこれは、完全に自分の責任の下にある問題については適切であるーーではなく、釣り合いのとれた、費用対効果の高い政策を求めるようになる。もちろんこれらの場合でも、コストの制約という考えが適用されねばならないが、われわれの反応が対極に向けられるという点を、われわれは少なくとも理解できる。要するに、ある事故の原因が会社にとってより直接的な管理の下にあればあるほど、会社は安全対策について絶対主義的な態度をとるべきである。

(……中略……)

もちろん、私がこれまで述べたことは、決して現在とられている対策と異なるものを正当化するものではない。むしろそれは、国民、メディア、会社が現在取っている道徳的態度が正しいのかどうか、というさらなる議論の問題である。しかし、すでにみたように、彼らの判断を裏づけている漠然とした原則は、「ある事故の原因が、より会社の道徳的過失であればあるほど、会社はより絶対主義的な態度で、同種の事件を予防すべきだ」というものだ。当然ながら、これについて論ずべきことはたくさんあり、いまはまだ議論の解決というより議論の出発点に近いのかもしれない。しかし、ここで示した原理自体はある程度明確であると思われる。しかし、次に論ずべきなのは、ある行為者の道徳的過失を生じさせるのは何なのか、という問題だ。ただし、ここではさらに議論しないことにする。

 

(p.143 - 145)

 

……帰結主義者と絶対主義者はよく対立する理論的立場として提示されるが、さまざまな事例を見当すると、われわれのほとんどは帰結主義と絶対主義のどちらの推論にも引き寄せられるということだ。よってわれわれは、問題は帰結主義と絶対主義のどちらかを選ぶことだと考えるのではなく、双方の要素を包含する立場を考え出す必要がある。

 

(p.145)

 

 帰結主義者の立場からすれば「別の要素が視野に入ると、別の立場に意見が変わる」という恣意性や不安定さを回避するために、わたしたちは義務論(絶対主義)ではなく帰結主義を採用すべきだ、ということになるだろう。鉄道事故で死んでしまった人の身からすれば、過失が鉄道会社にあるかその他の要素(運転手など)にあるかは些細なことであり、そこに第三者であるわたしたちがこだわるのは「過失の種類が直接的であるほど、責任は重くなるべきだ」とわたしたちが感じているからに過ぎない。そして、この感覚には実のところ大した根拠がないこと、この感覚には集団での協力や配分といった社会的行為を円滑にまわすという機能はあるかもしれないが道徳と本質的な関係があるかどうかは定かでないことを、ジョシュア・グリーンやピーター・シンガーなどの帰結主義者なら指摘するはずである(進化論的暴露論証)。

 ……とはいえ、上の段落はあくまで哲学者が哲学者に対して行うような議論であり、『「正しい政策」がないならどうすべきか』では哲学者ではない一般人の感覚や思考を尊重しながら、哲学者が政策に対して提言できる範囲は限定されている/限定されるべきである、ということを前提にしながら書かれている。

 

公共政策の問題に、あたかもあなたが何かの撲滅運動にでも参加しようとするかのように、「まず、あなたの〔正しいと思う〕理論を選びなさい」という方法論によって取り組むことは、哲学的には興味深い帰結を導くかもしれないが、現在の政策論争にとって有用な〔論争上の〕貢献につながることはまずない。もちろんーー私はまたこのことを明確にしてきたと思いたいがーー根本的な哲学的議論は、論争における極めて重要な部分であり、議論を豊かにする多くのアイデアをつけ加えてくれる。だが、それらは、それら自体としては何も解決はしないだろう。ここで暗黙の裡に推奨された方法論は、実践的な問題について考えるときには、他方の極から始めるべきだ、ということを提案する。つまり、哲学的理論ではなく、公共政策における目下の意見の対立から始めるべきということである。われわれは次のことを問う必要がある。人々は、自分たちがどう意見が対立していると考えているのか。そして、それは意見の不一致を理解する最善の方法なのか。他によりよい方法はあるのか。そして、もしそうなら、それは進歩を生み出すための新しい道筋を拓くのだろうか。哲学者は公的議論の条件を明らかにするのに貢献できる、とよく言われる。もちろん、哲学者はこれができる唯一の人々ではないが、区別をつけたり、結論に向かって議論を追求したり、比較的に緩い議論をより厳密な形式で再構成したりすることは、われわれの(哲学者として受ける)トレーニングの一部である。だが、このことをするためには、まず、自分が介入したいと思う論争に突っ込まなくてはならない。

 

(p.48 - 49)

 

 

●動物の取り扱いに関する「議論」と、「動機」や「行動」とのギャップ

 

しかし、少なくとも私にとって奇妙な点は、[動物実験に関する帰結主義や義務論などの]そのような議論にはどんなに知的に説得力があっても、私は動機に訴えるそれほど強い力を見出さないということなのだ。私はいまだに、動物で試験された薬や家庭用品を使っている。私の大学で行われている動物実験について、私は抗議していない。だいぶ後ろめたいものの、私は肉を食べ続けている。道徳哲学者のR・M・ヘアなら、表明された信念と行動のこの組み合わせに対して、私の主張は不誠実なのだと論じて応答するだろう。ヘアは誠実な道徳的信念はつねに行動にあらわれると論じたが、私の行動は私の主張する信念に従っていないのだから、動物への危害ある取り扱いに対して私が行ういかなる道徳的主張も、必然的に不誠実なのだ。だがこの議論は、私には教条主義的で説得力がないように思われる。現象学的には、道徳的議論は良心のレベルで最も強く衝撃を与えるものであり、それが行動を生み出すものかどうかは、さらなる別の問題であると、私には思われる。私は思うのだが、ある程度は、われわれは自身の道徳的信念に則って行動することの帰結を考慮に入れなくてはならないのだ。良心が促すように行動することが、犠牲にするものが大きいとか、あるいは無様だとか都合が悪いといった程度でしかない場合でさえ、人々は、彼ら自身が何らかの〔良心の〕レベルで肯定しないあり方で、自ら行動しているのかもしれない。類比のために、19世紀のアメリカ南部における奴隷制の存在を考えてみよう。各々の奴隷所有者たちが、一人の人間が他の人間を買い、彼または彼女に対して恣意的な力を振るう慣行の中に、何も問題がないと心から信じていたということは、私には信じ難い。多くの人がそれは何らかの点で自然な物事のあり方だと考えていたことは間違いないだろうが、確かに疑いを抱いていた人々もいたのではないだろうか。これらの「後ろめたい主人たち」は、誰も他人の奴隷であるべきではないという道徳的議論を受け入れたであろうが、ある程度の生活水準で生きていくには〔奴隷をもつより〕他の方法がないと信じて、彼や彼女の奴隷を解放することを真剣に考えなかったのだ。同じように、われわれの多くは、熟慮しているときには道徳的に受け入れがたい動物の使用であると思うもののもたらす利益を、あきらめようとはしない。というのも、そうすればわれわれの生活はより不便で快適で無くなってしまうからだ。

もし追求しようと選んだ行動が、われわれが信じるに道徳的に正当化されないなら、われわれは選択に直面する。われわれは明らかな偽善とともに生きるか、生き方を変えるか、または道徳的信念を調整することができる。だが、政治的、または〔社会の〕構造的には、もう一つの選択肢がある。それはわれわれの目的を、われわれが正当化されないと信じる行いを受け入れることなく追求できるようにする、制度や技術の進歩である。おそらく、奴隷なしでビジネスを継続することが経済的に可能となったということが明らかになったときには、奴隷制はより容易に廃止できただろう。同じく、もしわれわれが、肉と同じくらい美味で栄養がある非動物食を生産する方法や、動物を用いない薬剤の試験方法を見つけることができれば、われわれは求める目的を、道徳的に問題がある仕方で行動することなく、追求し続けることができる。結局それは、道徳的問題を、それを避けることで解決しようという望みなのだ。

動物実験の場合、〔問題〕回避という方向でなされた先導的な提案は、ラッセルとバーチにより提議された、「三つのR」の理論である。(……後略……)

(p.43 - 45) 

 

●犯罪の被害に遭うことはなぜ恐ろしいか?

 

人々は犯罪の被害者になるのを避けようとして、このような極端な犠牲をもたらす行動をとってしまうことがある[犯罪率の高い地域では、窓を開けっ放しにしたりエアコンの効いた商店に出かけることが難しいために、酷暑が原因で死ぬ人が多かったという事例のこと]。この点を念頭に置いて、われわれは一体なぜ犯罪をそれほど恐れるのか、という最初の問いに立ち戻りたい。これまででわれわれは、ベンサムの指摘した「無限の損害」という考えを得た。私はこれを、自分が制御できない、あるいは影響を及ぼせないほどまでに混乱して悪化する状況を回避しようとする意識、と理解する。しかし、ベンサムはこの分析において、何かを見落としていると私は思わざるをえない。無限の損害はトルネードや鉄砲水、サメによっても脅かされうるし、これらを想像するのもまた恐ろしいことだ。ただし、犯罪とはある人が他人に対して行うものであるという事実は、さらなる道徳的および政治的な側面を与えてくれるように思われる。そして、このためにわれわれは、それほど極端な恐怖をもたらさない犯罪事件に対して、過剰なまでに心配になってしまうこともある。損失が比較的小さい、あるいは限定的だとわかっている犯罪に対しても心配するのである。よってわれわれは、犯罪との関係におけるリスク、不安、恐怖について、より深く検討することが必要だ。

 

(p.154)

 

私が思うに、人々は被害者になることを恐れている、という言い方は間違いかもしれない。恐れとは〔実際の〕損失や傷害に対するものだからだ。しかし、それ以上に、いわば被害者にされることを強く嫌う気持ちも存在する。このことを示すちょっとした例として、大道手品師にからかわれたり、騙されたりすることに耐えられない人たちがいる。おそらく、それが彼らの自己意識や尊厳の感覚を傷つけるからだろう。犯罪被害者にされた場合、人は、自分が自らの運命の支配者であるという感覚を失う。さらに、その人は憐みの対象になる。多くの人は、このことを自分の尊厳が傷つけられることだと思うだろう。しかし、最も重要なのは、他人があなたを侮辱を持って扱い、そのことに成功したという事実である。先に述べたように、侮辱は未遂犯罪においてさえも示される。しかし、犯罪が成功した際に、おそらく人は、その侮辱はそれに値したのだという考えを抱くようになる。もし自分を守ることができないなら、私とは一体どんな存在だというのか。完遂した犯罪は、少なくとも場合によっては、ある人の地位や自尊心を変化させるように思われる。この点で、犯罪は社会秩序を侵害する、破壊的な性格をもっている。

 

(p.156)

 

……犯罪が悪い、あるいは少なくとも何らかの犯罪がある人々にとって悪い理由は、被害者にされたという事実によるということだった。これを思い出してほしい。それは、他人があなたのことを侮辱を持って扱おうとしたというよりも、彼らがそうするのに成功した、という事実である。未遂犯罪と完遂犯罪との間に、これほどの心理的な違いが存在するのはそのためだ。犯罪者はあなたに犯罪を働くのに成功したことにより、おそらく、自分がある面であなたに優越している、ということを言外に告げていることになる。彼らはあなたを被害者にし、地位を貶めた。明確な被害者がいない場合ーーたとえば公共財産の破壊行為ーーであっても、犯罪に成功したということは、ある意味で犯罪者は規範、あるいは少なくともルールを超越している、ということを含意する。犯罪はあるメッセージを伝えるのである。

もちろんここで、犯罪者がこのように考えているということを示せる証拠はほとんどない。しかし、私の説明には一定の妥当性があると想定させてほしい。もしそうだとすれば、刑罰は新たな観点から見えてくる。つまり、刑罰の少なくとも一部の目的は、すべての当事者間での、何らかの適切な地位を回復させることにあるということになる。もし犯罪者が逮捕され、適切に処罰されれば、彼はもはや何かをやりおおせたわけではないことになる。彼はもう、高い立場にあると言外に主張することはできない。被害者だった人は、犠牲者としての立場が終わったと感じ、以前の立場が回復される。しかし、刑罰の時点で一人の被害者も確認されていない犯罪ーー被害者がそもそもいない場合(脱税)、あるいは死亡をもたらした犯罪(殺人)ーーについてはどうだろうか。これと同じ分析が、修正された形でなお当てはまるのである。通例では、被害者が確認され生存する場合には、被害者の立場を引き上げ、加害者の立場を引き下げることにより、刑罰は当事者間の立場を「リバランス」させる。被害者が死亡した場合でも、なお刑罰を科すことによって、われわれが社会としてその人の命を極めて重大に扱っているということを示せる。これと逆の例として考えてほしいのは、人種差別が存在する社会において、ある少数派民族の人々に対する殺人がほとんど捜査されず、それにより、彼らが低い立場にあるという強いメッセージが実際に伝わっているような状況である。被害者のいない犯罪の場合、できることは犯罪者の立場を引き下げることだけだが、これはなお重要な問題として残る。応報論によれば、その罪が重ければ重いほど、道徳的なバランスを回復させるためにより多くのことが求められることになるだろう。

よって、ここでわれわれは、刑罰に関するコミュニケーション的理論との関連をみてとれる。もし犯罪がメッセージを伝達するなら、刑罰もまたそうする。一般的には、最初のメッセージを相殺するための、反対のメッセージを送ろうとするのである。(……中略……)

つまり、どの社会においても、何らかのレベルの刑罰は適切なものと認められるのであり、犯罪者が刑罰を受ければ、「正義は実現され」、可能な場合には被害者の地位が回復し、犯人の立場が引き下げられることになる。

このように応報をコミュニケーションとして理解すると、それは刑罰の正当性として、しばしば思われるほど野蛮なものではなくなるかもしれない。

 

(p. 168 - 169)

 

 前回の記事でも書いた通り、本書は単なる両論併記的な入門書ではなく、ユニークでオリジナリティのある発想もしばしば顔を出す。アカデミックな議論では否定されがちな、刑罰に関する「応報論」を「被害者の地位の回復」やコミュニケーションという発想から肯定する上記の議論も、少なくともわたしは初めて目にしたものだが、なかなか説得力を感じた。

 本書では、哲学者の頭のなかにある理論だけでなく、「このトピックについて一般人ならこう考えるだろう」ということや「このトピックについて世論が共有している常識とはこういうものだ」ということに関する考察や推測も多分に含まれている。このような議論を行うためには、人間観察者としての「モラリスト」の能力や経験も必要になってくるはずだ。哲学者が世間の人々や社会と対話するためには「理論」だけをやってればいいとうわけではないことを(もちろん思想史や人物研究をやってればいいというわけでもない)、理論とは別のところにある人々の「道徳観」に対する理解も必要になるということを、本書は示しているのである。

自由市場が限定されるべき(意外な)理由(読書メモ:『「正しい政策」がないならどうすべきか 政策のための哲学入門』①)

 

 

 

 動物実験やギャンブルにドラッグなどの規制、公共交通機関の安全性や刑罰や健康など、様々なトピックに関する政策について、哲学・倫理学の視点から何が言えるのかということを考えていく本。

 本書の特徴はふたつある。ひとつめは、政策に関する議論について哲学が及ぼし得る影響力をウルフがかなり現実的にーーつまり、少なめにーー見積もっていること。したがって、抽象的な理論に基づく正論を言ってハイ終わりと済ませずに、むしろ各トピックについて哲学の正論がなぜ賛同を得られないかや現実の問題に対して有効でないかが分析されたうえで、結果的にはどの章でも常識や世論に対して哲学がかなりの譲歩を行う、という構成になっている。

 この点については「日和っている」と思う人もいるかもしれないが、ある種のプラグマティズムであるし、実際に政策論議について哲学を持ち込んでもこういう風にしかなり得ないだろうなという納得感も抱ける。(また、応用倫理学の文章を読んでも、法律や規則の作成に関する議論への参加などの実践的な場面についてはこういう温度感の主張を行なっているようだ。ウルフ特有のスタンスというよりも、哲学者が現実に関わるときには一般的な態度であるのだろう。)

 ふたつめは、各トピックに関する議論において、ウルフのオリジナリティが溢れる意外な見解や変わった角度からの考察が登場することだ。『哲学入門』ではあるが、無難な教科書的見解を書き連ねただけの本ではないのである。

 

 たとえば、「ある種の財は自由市場で売られるべきではなく、自由市場とは違った方法によって人々に配分されるべきだ」といった直感的な見解(サンデルが『それをお金で買いますか』などで散々論じてきたような主張)に関する以下の議論は、わたしは初めて目にしたものだが、なかなか印象に残ったしそれなりの説得力を感じた。

 

あるいは、チケットの転売、いわゆる「ダフ屋行為」について考えてみてほしい。多くの人はこれを極めていかがわしい行為だと思うし、それがさまざまな形の詐欺を含んでいることが多いのは事実だ。しかし、いかなる詐欺も含まれていない場合、少なくともその行為のもつ外部性についての潜在的な長期的影響を考えることなしに、それのどこが問題なのかを正確に言うことは難しいだろう。私がいま言及した「阻止された取引」ーー駐車スペース、電車の座席、コンサートのチケットーーについて興味深いのは、関わっている財がありふれたものだということだ。これらの財そのものの性質の中に、それらの取引を阻止したいと思わせるような何かがある、とは言い難い。市場取引が、駐車することや電車で座ること、また娯楽イベントに行くことの社会的意味を堕落させる、などとわれわれは本当に言いたいのだろうか。それは馬鹿げたことだろう。これらの財はすべてお金で売られるものなのだ。ポイントは、われわれはそれらの財について何らかの市場は認めるが、その他の市場には強く抵抗するということだと思われる。なぜなのだろうか。

 

(p.243, 以下、強調は引用者によるもの)

 

これらの事例に関する一つの説明の出発点は、財が希少なときには、どんな社会でもその分配のためのルールを必要とする、という観察である。多くの場合には、われわれは「早い者勝ち」という要素をもつルールを使う。だが、これが唯一の方法ではない。市場決済価格を課金するというのも、もう一つの可能性だ。駐車や座席のケースでわれわれが見たのは、あるルールが有効なときには、違うルールに従って行動しようとする人を、われわれは受け入れないということなのだ。それは、駐車スペースや座席が市場価格原理によって分配されるべきではない、というわけではない。むしろ、他のルールがあるときには、それをあなた自身の目的のために覆してしまうことは、それによって誰も損害を受けなくても、不公正、あるいはもしかすると搾取的となるのだ。これはある種の第三者効果であるが、われわれが見た他の例とは大きく異なる。もしわれわれがルールを完全に他のものに替えるなら、ちょうど駐車の事例で見たように、われわれは過渡的な影響を切り抜ければ、それに十分簡単に慣れてしまうだろう。私の推測は、電車の「早い者勝ちで座る」というような、希少な財の分配についてわれわれが実行している非市場的なルールが生き残っているのは、単に、それを破る人は何か間違ったこと、さらにはとんでもないことを行なっているという、強い直感をわれわれがもっているからである、というものだ。言い換えると、われわれはルールについて、ある種のタブー的な地位を何らかの形で作り上げてきたのだ。おそらく、ルールはそれ自体としては脆弱なので、それが存続するためには、タブーによって支えられることが必要なのだろう。タブーは「強固な道徳的直観」の形で示される。それを破ることは道徳的理由からはほとんど考えられない、と思われないならば、ルールの存続はおぼつかない。しかし、財の性質にはルールを要求するようなものは何もないようだ。それは単に、われわれがどのように希少性を統制しようとしたか、ということだ。タブーはーーそして強固な〔道徳的〕直観はーールールに付随しているのであって、財に付随しているわけではない

 

(p.244 - 245)

 

…〔市場からの保護が当てはまる〕一番もっともらしい事例は、財そのものの性質の中に、売ることにより財が破壊される何ものかがあるというものである。愛と友情は最良の候補として残るかもしれない。それ以外にわれわれは、第三者への有害な効果を防ぐために、何らかの取引規制が必要だと指摘した(軍隊での階級の販売の例)。さらには、ある種の搾取やルールの破壊を避けるための市場の制約もある。しかしこれらのルールの多くは完全に偶発的なものであり、変更されうるのだ

 

(p.248)

 

[スポーツや芸術も現在では自由市場の対象となっているが、そのことは必ずしもスポーツや芸術を堕落させなかったという議論に続く段落]

このことは、すべてのものは市場で供給されるべきだということを意味するのだろうか。私が述べてきたことからは、これは導かれない。ある特定の何かが市場からは除外されるべきだとは言えない、という事実ーーもしそれが事実ならーーから、すべてのものは市場で供給されるべきだ、ということは結論されないのだ。実際、私はかなり大きな非市場の領域があるべきだと考えている。だが、ややひねくれて言うと、私は、いくつかの重要な要素を脇に置けば、十分な規模の非市場セクターがある限り、何が市場の領域におかれるかそうでないかは、あまり大きな問題ではないという見解に変わりつつある。

 

(p.250)

 

…ここで私は、さまざまな財を市場から隔離しておくことを支持する二つの議論を見てみたい。第一は、おそらくより明白なものだ。もしすべての財が市場ベースだけで提供されているのであれば、人生で経済的に成功しなかった人々は、それ以外のほとんどすべてからも締め出されてしまうだろう。非市場的供給を認めることは、より多くの人たちに、普通のレベルの〔人生の〕満足を達成可能にすることができる。

(…中略…)

第二の議論は、公的セクターと私的セクターの供給原理の違いにとくに関わっており、二つのタイプの経済的関係を比較するものである。第一は市場にあり「取引社会」と呼べるもので、そこで人々は最善の取引を求めて、個々の取引活動を行う。もし期待していたものを得られなかったり、わずかな価値しか与えられなかっりしたら、あなたには抗議する権利があり、ことによっては告訴するかもしれない。第二は、特徴づけるのは難しいが、「清濁併せ呑む(taking the rough with the smooth)」または「一長一短(swing and roundabouts)」社会として考えられるものである。このケースの考え方は、ときとして良く、ときとして悪い結果をもたらす分配の一般的ルールや方針があるが、われわれは〔その中でされる〕個々の取引をその利点によって判断するよりは、その取引実践を全体として判断するべきだ、というものだ。

 

(p.251 - 252)

 

さて、これら〔二つの利点に関する主張〕の最初のものは偶然に依存する主張である。それは、個々の価格設定により、別の形で〔社会運営の〕効率性が促進されると考えるなら、多くの人が誤りだと思うだろうものである。だが、それはある財については正しく、他の財については誤りとなるはずであり、それが正しい場合には、このことはその分野で公的供給を行うことの正当な理由である。だが、社会的連帯ーーわれわれはいまここで、みな一緒だという感覚ーーは公的セクターを拡大しておくことによって促進されるのだ。しかし、このことのポジティブな効果は、そのセクターが全体として非効率的で無駄が多いと思われれば、干上がってしまうだろう。すなわち、正味で利益があると少なくとも思われていなければならないのだ。

もちろん、物質的には得をしない人もいるだろう。そしてもし、彼らが物質的損失を引きずり、それによって過度に影響を受けるならば、他の面でも彼らは得をしなくなるだろう。よって、われわれは難しいバランスを維持する必要があるのだ。社会が最善の結果を得るためには、われわれは、公共サービスは「私に十分な価値を与えてくれるのだろうか」と問わずに、それが全体として十分な価値をもたらすのかどうかを問うことができなくてはならないのだ。さらに悪いのは、「個々の公共サービスから、私は十分な価値を得ているのだろうか」という問いだ。この最後の問いが普通になされるようになれば、公共サービスは脆弱になり、われわれの被る潜在的損失は極めて甚大なものになるだろう。したがって、もしわれわれが公的セクターを社会的連隊と効率的供給を生み出すための手段にさせたいなら、われわれはそれを維持し、かつそれには一定の〔限られた〕形の審査のみを受けさせるようにしておく必要がある。

 

(p.253 - 254, この段落のみ強調は引用元から)

 

 まず、「財の性質に関わらず、なんらかの財は市場で取引されないほうがよい」という議論は、「なんでもかんでもが売り買いされる世の中はイヤだ」というわたしたちの多くが抱いている直感にマッチしている。とはいえ、経済学者であれば、ほぼどんな財についてもそれが自由市場で取り引きされることの理由や効率性を指摘することができるかもしれない(自由市場はそれだけ合理的で優れたシステムだということかもしれないし、「理屈と軟膏はどこにでも付けられる」ということであるかもしれない)。

 実のところ、わたしだって、世間では評判が悪く多くの人が「市場で取り引きされるべきでない」と考えているであろう代理出産についても「代理母の決定権や安全性が保証されているのなら、関係者双方の自発的な取り引きに文句を言うべきではないな」と思うところが強い。また、サンフランシスコの不動産価格暴騰に伴うホームレス問題についても、その惨状に胸を痛めはするが、不動産価格が上がること自体には然るべき理由があることや、政府などが無理に家賃などにテコ入れしても副作用が歪みが生じるであろうことは察せられる*1

 ここで言いたいのは、特定のタイプの財について「その財が自由市場で取り引きされるべきでない理由」を述べようとしても、あえなく反論を受けてしまうだろうということだ。……しかし、本書の議論は、財のタイプではなく財の取り引きに関するルールに注目することで、「その財が売買されるのには然るべき理由があるんですよ」といった経済学的な反論を回避することができている。

 また、ブランコ・ミラノヴィッチが『資本主義だけ残った』で「スマホやアプリなどのテクノロジーの発展により、これからは人々の自由時間や私的領域もすべて自由市場における売買の対象になるだろう」という議論をしていたのを読んだときには、「そんな世の中はあまりに侘しくて不愉快なので間違っている」という(規範的な)感情を抱くと同時に「いくらなんでもそこまで"ホモ・エコノミクス"的な世界ができあがるわけないでしょ」という(事実的な)判断もしたものだ*2。本書のなかでウルフが行っている議論は、規範的にも記述的にも、ミラノヴィッチの議論に対するわたしの違和感を説明しているように思える。なんでもかんでもが売買されてしまう社会はロクでもないし、ロクでもないのがわかっているからこそ社会にはなんでもかんでもが売買されないようにするための防衛機能が備わっている……と考えることができるかもしれない。

 

 さらに、公的セクターには財を供給すること以上に社会的連帯を生み出すということに意味がある、というコミュニタリアン的な議論も、こういう形で提示されると納得がいく(サンデルと違ってウルフは経済学的な発想をしっかり検討したうえで提示しているので、誠実さが感じられるということ)。

 そして、公共サービスについて「私は十分な価値を得ているのだろうか」と問うてはいけないという、ついつい忘れがちな正論が書かれているところもいい。……とはいえ、正論ではあるがゆえに、これこそが公共サービスをキープすることが難しい理由でもある。維新の党的な「ネオリベ」で「ポピュリズム」な改革は大衆から受け入れがちであるが(わたしもついつち気持ちの上では賛同してしまいがちだ)、それに反論するためには、「自分の視点からではなく全体としての視点から考える」という必要ではあるが不自然な思考を人々に行ってもらわなければならないのだ。

 

*1:家賃テコ入れの問題はジョセフ・ヒースの『資本主義が嫌いな人のための経済学』でも扱われていた。

 

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

読書メモ:『政治哲学への招待』③

 

 

 

写経。

 

●自由について

 

自由は、三者からなる関係である。それは、必ず三つの事柄への言及を含んでいる。すなわち、自由の行為主体、あるいは主語であるx、制約、干渉、あるいは障害であるy、そして、目標、あるいは目的であるzである。自由についてどのような主張をあなたが思い描いたとしても、そこにはーー明示的にせよ、暗示的にせよーー、何かをなす、あるいは何かになるために、何かから自由である行為主体という考え方が含まれている。自由について意見が一致しない人々は、何をxと見なすのか、何をyと見なすのか、そして何をzと見なすのかについて一致していないのである。

 

(p.78)

 

…極めて大雑把に言えば、右翼は、自由は、本質的に、他から干渉されないこととかかわっているので、できる限り少しのことしかしない国家とレッセ・フェールな自由市場経済によってもっとも促進されるのだと論じる。他方、左翼は、自由には干渉されないこと以上のものがあるのだと主張する。人々の現実のーーあるいは、実質的(あるいは、ときには「積極的」)ーー自由は、ただ彼らをほおっておくことによってではなく、さもなければなしえなかったであろう事柄をなす立場に彼らを置いてやることによって促進されうるのである。右翼は、国家の役割を限定することーーおそらくは、ノージックが唱道する「夜警」の役割にまでーーを望んでいる。左翼は、より積極的、介入主義的な再分配を担う「できるようにする」国家が、自由を根拠にして、正当化可能であると主張している。左翼によれば、右翼は単純な自由の「消極的な」見解と強く結びついている。他方、左翼は、自由をより「積極的な」仕方で理解しているのである。ブレアが擁護しようとしていたのは、こうした自由の「積極的な」構想である。

(……中略……)

このような実質的ーー形式的ではなくーー自由としての自由の構想は、バーリンが「積極的」自由と呼んでいる事柄のひとつであり、また彼が強く警告を発している事柄のひとつである。バーリンによれば、われわれは、自由を、「その行使の諸条件」と混同すべきでない。この見解においては、すべてのイギリス市民は、バハマに遊びに行く自由を持っているのである。ある人々は、その自由を行使するための諸条件を有しているが、その他の人々は、そうではない。もしわれわれが、実質的自由の構想を支持するのであれば、われわれは、自由ーー他からの不干渉という「消極的な」考え方の観点から、実際には、理解されるべきであるーーを、平等や正義のような他の価値と混同しているのである。バーリンはここで、すべての善き事柄は、必然的に合致するという楽観的な考えに対して強く警告を発している。たとえ平等や正義が、ある人から他の人への資源の再分配を要請するとしても、われわれは、そのような再分配が自由もまた促進するなどと主張すべきではない。国家は、正義や平等の名において、人々の生活に干渉するのは正しいのかもしれないが、その行動は、自由という価値に訴えることによって正当化可能であると主張することは、人を誤らせる危険性を持っているのである。人は、一般に、自らの諸概念を、不鮮明な混ぜこぜ状態へと曖昧化させてしまうよりも、それらを明晰に保つよう注意すべきだとしている点で、バーリンは正しい。しかしそこから、貧困の中に生きている人々には、バハマに遊びに行く自由があるーー単にその自由を行使するのに必要な諸条件を欠いているだけーーという結論が引き出されるわけではない。

 

(p.81 - 83)

 

 

自由の道徳化された構想と道徳化されいない構想の間の区別は、権限としての正義というノージックの見解に関する議論の中で、われわれが出会ったような種類のリバタリアンの主張について、われわれが考える手助けをしてくれる。第一章は、自由を尊重する人は、私有財産権を信じなければならないし、再分配のための課税に反対すべきであるという提案について議論した。もちろん、現実の政治において、あらゆる再分配のための課税に反対する人はほぼいない。しかし、右翼の多くが、自由という価値は、市場の結果からの最小限の再分配を必然的に支持すると考えていることは確かである。彼らは、もしそのような再分配が正当化されるべきであるとするなら、それは、自由以外の根拠(平等、正義、治安)に基づいてでなければならないと考えている。それゆえ、この議論が、どのように作用すると考えられいるのかは見ておくに値するのである。

私有財産を持っている人は、もしそれを持っていなければ、なす自由を持っていなかったであろう事柄をなす自由を持っているということは確かである。バルモラルを散歩する女王や、飛行機を保有していて、いつでも好きなときにバハマに飛んで行ける金持ちを考えてみればよい。しかし、私有財産を持っていない人は、どうだろうか。彼らにとって、女王がバルモラルの丘を所有しているという事実は、その丘を散歩する彼らの自由に対する制限を構成している。別の誰かが飛行機を保有しており、運賃を支払ったときにのみ、他人をバハマまで飛行させるという事実は、バハマに行く彼らの自由に対する制限を構成している。リバタリアンは、自分たちは自由を大切に思っていると語り、自由を根拠にして私有財産権に賛成する。しかしながら、彼らは、私有財産権の存在によって、必然的に生じる自由は、気にかけていないーーあるいは、気づいてすらいないーーように思われるのである。

リバタリアンが、自分たちの推奨する解決策が必然的に生み出す不自由に盲目であるということを、いったい何が説明してくれるだろうか。最良の説明は、彼らは、道徳化された自由の構想と協働しているのだと考えることである。彼らの見解では、私有財産は、それを持たない人が、さもなければしたかもしれない事柄をするのを妨げることが正当化しうる限り、その人の自由を制限してはいないのである。この見解によれば、われわれは、バルモラルの丘を散歩することを妨げられた人は、自由を奪われていると考えるべきではない。というのも、女王の地所に対する所有権は、そのような制限を正当化するからである。しかしながら、女王から地所を取り上げることは、その地所は正しく彼女のものであるのだから、彼女の自由への干渉を含んでいるだろう。このことは、リバタリアンの見解が、究極的には、所有権の正当性についての見解であることを示唆している。彼らが自由に訴えているところとは、実際には、何が自由の制限と見なされるーーそして、見なされないーーのかについての判断を、特定の所有権の正当性についての判断に依拠させるようなある構想に訴えかけているところなのである。その意味で「リバタリアン」という言葉はーー「自由」という語の横領を伴っておりーー、誤解を招きやすい。道徳化されていない自由の構想と協働している人は、リバタリアンの社会における、自由の欠如ーー財産が私的に所有されているというまさにその事実によって、さもなければできたかもしれないことを妨げられたすべての人が経験しているーーに気づいている。そのような人たちは、自由の名において、私有財産の廃止ーーあるいは、再分配ーーを唱道するかもしれないし、また、自分たちを自由の敵だとする示唆には、憤慨する可能性が高いのである。

 

(p.100 - 102)

 

●共同体とリベラリズム

 

[共同体主義者によるリベラリズムに対する反論として]……もし「リベラルな共同体」が機能すべきであり、人々が同胞市民を正しく取り扱うために自己利益の追求を進んで制限すべきだとすれば、人々は、単なる「同じ国家の市民」であるという感覚を超えた、より厚く鼓舞するような共通のアイデンティティの感覚を共有していなければならないのではないかという疑念である。もし私が、他の人間を気遣う以上に同胞市民を気遣っているということが正しいとすれば、それは、われわれが同じ抽象的な諸原則に同意しているからでも、リベラルな国家を維持するというプロジェクトに合同で携わっているからでもない。私の同胞市民はまた、私の仲間である同国人だからである。彼らが、私にとって特別ーーリベラルの物語が、単に共通のシティズンシップという観点から説明しようとしている権利や義務を受け入れるに足るほど、私を彼らと同一化するのに必須だという意味において特別ーーであるのは、共用された言語や共有された伝統、共通の歴史を持った私に似たイギリス人だからである。動機づけの働きをするのに必要とされるのは、抽象的なシティズンシップの観念ではなく、われわれの共有された国民的アイデンティティーーイギリス国民としてのアイデンティティーーである。

(……中略……)

自らを普遍的で抽象的な観点で提示してはいるが、「リベラルな共同体」という観念は、より排他的で、より家族に類似したものを前提していると反対論は主張する。家族と同様に、国家のメンバーとしての自分自身に対するわれわれの感覚は、共通の歴史が存在するという信念に基礎を置いている。それは、われわれに、自分たちが何者であるのかに関する感覚を与えてくれるのである。そして、それは、排他的な道徳的紐帯を生み出す。国家が国民(民族)と一致するがゆえにーーあるいは、一致する限りにおいてーー、われわれは、国家ーーわれわれの政治共同体ーーと自分を同一視する。もし国民(民族)と国家が一致しないならば、われわれは、それらが一致しうるように事態を変えようとしたとしても不思議ではない。(ソ連崩壊後のヨーロッパにおける紛争は、主としてお互いを同じ国民(民族)のメンバーとして同一視し、国家と国民(民族)を一致させようとする人々にかかわるものであった。)それゆえ、共同体主義者の説明によれば、「リベラルな共同体」という観念は、自己充足的なものではない。それは、同胞市民を公平に取り扱うという最小限の理念を超えた共同体の構想に訴えかけることなしには、特別な道徳的関係を説明することができないし、平等主義的なリベラルがそうなることを望んでいるように人々が動機づけられるということも期待しえないのである。人々のアイデンティティは、「シティズンシップ」といった抽象的な観念よりも個別的なものによって「構成され」なければならない。それは、共同体主義者が、当初からずっと言い続けてきた種類の事柄である。

 

(p.238 - 239)

 

何が共通のアイデンティティの感覚を、生み出しているのだろうか。何が人々を導いて、お互いに対する一種の連帯感ーー再分配を行おうとするリベラリズムの要求水準の高い諸原理に従って、お互いを取り扱うよう動機づけるのに必要とされるーーを抱かせるのだろうか。戦争は、有効である。イギリスの福祉国家への支持が、第二次世界大戦の直後に頂点に達したことは、偶然ではない。共通の目的や同じボートに乗り合わせているという感覚を形成し、分断する社会の境界線を突き崩す人々の間の一種の相互交流を生み出すのに、戦争ほど好都合なものはないのである。そのような感情が弱まっていくにつれてーー社会が、より多元的で、多様なものになり、文化的に同質なものでなくなるにつれてーー、ある種の国民的ーーあるいは、市民的ーー奉仕の擁護論は強まっていった。いまでは、人々が、自分自身を、国家のメンバーとは感じずに、より地域的で個別的なグループ分けーーエスニシティ、宗教、生活様式ーーに主として同一化することは、容易である。人々に、人生の一年間を、「国民的奉仕(兵役義務)」と見なされており、そのようなものとして提示されているものに捧げるよう求めることは、たとえそれが、ローカルなレベルで履行されたとしても、彼らの中に、「市民としてのアイデンティティ」の感覚を育てるかもしれない。もちろん、こうしたことは、彼らの自由を制限するだろう。そうした根拠に基づいて、それに反対するリベラルもいるかもしれない。しかし、リベラルは、自由だけではなく、正義もまた大切に考えているのである。もし人々が、共通のアイデンティティの感覚を共有している人に対してのみ、公正に行動するよう動機づけられており、また強制的な国民的奉仕には、そうした感覚を伝える力があるのであれば、リベラルは、それが持つ自由制限的な含意を進んで受け入れるべきなのである。

 

(p.240 - 241)

 

「不平等」はそんなに悪いことなのか?(読書メモ:『政治哲学への招待』②)

 

 

[前段で平等を拒絶する世俗的な主張を並べた後に]これはすべて、大衆政治のレトリックのレベルでのことである。しかし平等は、政治哲学者からも、厳しい取り扱いをされてきている。彼らの論じるところによれば、平等を高く評価することは間違いである。重要なことは、人々が、善きものの分け前を持つことではない。また、人々が、善きものへの(あるいは、それを利用する)平等な機会を持つことですらない。もしわれわれが、平等について考えるとすれば、重要なことは、すべての人が十分に持つことであるか、もっとも少なくしか持っていない人が可能な限り多く持つこと、あるいは、もっとも必要としている人が優先権を得ることなのである。平等を気にするということは、人々が互いに同一の総量を持っていることーーそれが、気にすべき特別の事柄のように見えるーーを気にするということである。結局のところ、人々が平等な総量を持つひとつの可能世界は、誰も何も持っていないような世界である。

今日の選挙政治に関する言説においては、再分配のための課税は、それ自体が悪名を得ており、(ともかくも、実行されているところでは)何ほどか人目を忍んで実行されている。再分配のための税が、表に現れたときにも、それは平等にはほとんど言及しないような観点から提示されるのである。この間、政治哲学者は、ますます政治理念として平等を放棄するようになってきた。こうした背景に照らして、平等に反対する哲学者の議論が、必ずしも再分配のための課税に反対する議論ではないということを理解しておくことは、重要である。平等を拒絶する人が、資源は裕福な人から貧しい人に移転されるべきであるということに深い関心を持つということはありうる。この意味で、平等の拒絶は、再分配を正当化するために提起されるかもしれないある特定の理由を拒絶することを意味しているのである。それゆえ、再分配を弁護する論陣を張ることに及び腰な政治家には好感を持たない一方で、再分配政策は、平等ではなく、別の目標を目指すものとして提示されるという事実を認めておくことができるだろう。別の理由で、資源は、現在そうである以上に平等にーーおそらくは、はるかに平等にーー分配されるべきであると論じる一方で、哲学的なレベルにおいては、根源的な理想としての平等を拒絶することは、完全に首尾一貫しているのである。

(p.130 - 131)

 

 上記の引用部分で想定されているのは、ロールズの格差原理(もっとも少なくしか持っていない人が可能な限り多く持つこと)、ロジャー・クリスプやハリー・フランクファートが主張している十分主義(すべての人が十分に持つこと)などの議論だろう。

「平等そのものには本質的な価値はなく、追い求める対象とすべきではない」という議論は、とくにフランクファートの『不平等論』で印象的に論じられている。……とはいえ、スウィフトも書いている通り、平等を求めることと再分配を求めることは全く異なる。

 また、不平等それ自体は直接的には悪いことではなくても、「不平等な状態が存在すること」から間接的に引き起こされる様々な問題を考慮したうえで、やはり不平等は悪いと論じることもできる。『不平等論』のあとがきでも、訳者の山形浩生は現実に不平等が問題を引き起こしていることを指摘しながら哲学者の机上の空論に過ぎないのではないかと示唆していた。

 

 

 

 不平等というか「格差」を問題視する議論は、以下のようなもの。

 

格差は、些細なことなのだろうか。(…中略…)格差それ自体が、悪しきものというわけではないーー何らかの実体のない形而上学的な理由で、悪しきものではないーーのだが、格差のある社会の中で暮らす人々にとってはーーあるいは、少なくとも、格差の恵まれない側にいる人々にとってはーー、悪しきものなのである。格差が重要であるのは、人々の福祉全体は、ただ所有する経済的資源の総量によってだけではなく、他人と比較して所有している総量によっても影響を受けるからである。われわれは、社会のもっとも恵まれないメンバーを、できる限り良い状態にすることだけに関心を持っているのかもしれないーーそして、人々が良い状態にあったり悪い状態にあったりするその程度を平等にすることには、まったく興味がないのかもしれない。しかし、お金がすべてではないのである。おそらく経済的な不平等は、トリクル・ダウン理論を用いた擁護が示唆しているように、長期的には、もっとも恵まれない人々の経済状態を改善する。しかしながら、それは、経済的な不平等が、彼らの地位全体を改善するということを意味しているのではない。それは、地位全体をより悪い状態にするかもしれないのである。そうだと仮定してみよう。その場合には、もしわれわれが、もっとも恵まれない人の全体的な福祉を最大化することに関心を持っているのならば、われわれは確かに経済的な格差について心配すべきである。ロールズ的な用語を借りるならば、経済的な不平等を気にかけるべきマキシミン原理タイプの理由が存在しているのかもしれない。

なぜ、そうなるかもしれないのだろうか。説明のため、経済的な不平等が絶対的に悪しきものであるかもしれない福祉の三つの側面を検討してみよう。すなわち、自尊心、健康、友愛である。(…中略…)

おそらく、問題はこうである。自尊心は、人々の全体的な福祉の不可欠な構成要素である。(ロールズは、自尊心が、基本財の中でもっとも重要なものであると述べている。)しかし、ある人の自尊心は、他人と比較した場合に、自分は何ができるのかということに大きく依存している。(…後略…)

 

(p.155 - 157)

 

[自尊心に基づく議論と友愛に基づく議論の違いを指摘しつつ]それはむしろ、断片化され分断された社会は、そこに住むすべての人からーー貧しい人からだけでなく、金持ちからもーー、友愛という善を奪い取ってしまうというものなのである。(もちろん、金持ちは、他の点では恵まれているだろうが、「友愛のある社会に生きる」ということに関する限り、彼らも、底辺にいる人々と同程度に恵まれていないであろう。)

(……中略……)

われわれは、本当に友愛のために、経済的不平等が絶えずチェックされているような社会を選ぶだろうかーーもしその結果が、もっとも貧しい人が、さもなければそうありえた以上に貧しくなっているような社会であったとしても。

(……中略……)

このようなコンテクストにおいて、ロールズが、マキシミンという考え方それ自身を、友愛のひとつの表現と見なしていることを指摘しておくことには価値がある。格差原理によって統制され、またそのことが知られている社会では、社会のすべてのメンバーは、存在しているあらゆる経済的不平等は、それが、まさしくもっとも恵まれない人の福祉に貢献しているという理由で、存在しているのだということを理解している。私が、そのような社会のもっとも貧しいメンバーのひとりであり、また他人が自分より恵まれているということを知っていると仮定しよう。ロールズの見解では、私にとって、他人の持ち分がより少なくなるよう願うことはーーあるいは、他人の持ち分のいくらかを自分が持つことを願うのでさえーー、何の意味もない。他人が私よりも多く持っているという事実それ自体が、長期的には、私が、さもなければありえたであろう状態より恵まれた状態になりつつあることを意味しているはずなのである。もし他人が私より多くを持っているということが、私の利得に役立たないのであれば、他人はそもそも多くを持とうとしないであろう。それゆえ、社会が格差原理によって規制されることを受け入れ、同意している場合、その社会は友愛という感情を制度化しているのである。もし自分がそうあることが、もっとも恵まれない人の役に立つのでなければ、誰も他の誰かより恵まれた状態にあることを望まない。私は、後に、この見解の奇妙さに立ち戻るであろう。私よりも恵まれた状態にある他の誰かは、どのようにして私の助けになりうるのだろうか。もし彼らが、本当に私を助けたいのであれば、なぜ彼らは、自分たちが手に入れ、私が持っていないもののいくばくかを私に与えようとしないのだろうか。差し当たって大事な点は、まさにロールズが、格差原理を友愛という価値の制度化として提示しているということである。

 

(p.159 - 161)

 

 ついでに、「結果の平等」と「機会の平等」に関する段落も紹介しておこう。

 

 

確かに慣習的な機会の平等を、自分の能力を用いて何を成すべきかについて人々の選択を尊重することと調和させるという問題が存在している。しかし、そのことは、われわれが、バランスを正しく理解していることを意味しない。たとえ両親が平等な機会からスタートし、異なった能力と選択のゆえに、最終的に不平等な状態に行き着いたとしても、機会の平等のために、彼らがその優位を自分の子供に譲り渡そうとするような何らかの行為を阻止することはなお正当化されるかもしれない。われわれは、人々の不平等な立場が、実際に、彼らの能力や選択の結果としてのみ生じてきたものだともっともらしく主張しうるような社会に暮らしているわけではないから、より大きな機会の平等のために、何らかの結果の平等化を行うことには、十分に正当な理由が存在しているのである。われわれは、すでに、社会的な不利を子供たちに補償することによって、競技場を平準化することを目指す政策ーー貧困地域に、無償の就学前教育を提供するといったーーは、お金がかかることを指摘しておいた。そのようなお金は、お金を持っている人からしかやってこない。お金を持っていない人の教育に用いるために、お金を持っている人から取り上げるというのは、資源の再分配である。より平等な資源の分配ーー社会的背景の有利さにおいて不平等に生まれついた人々の間でのようなーーが、慣習的な機会の平等のために要請されるかもしれないーー確かに、要請されるーーのである。

急進的な見解においては、機会の平等と結果の平等の間の結びつきはずっと強い。結果の平等化が、機会の平等化にとって不可欠の手段であるかもしれないということは、不思議なことではない。そのような構想においては、むしろ二種類の平等は、最終的に同じものだということになる。なぜそうなるのかを理解するためには、急進的な機会の平等が、選択されたものではないあらゆる不利ーー社会的な不利だけではなく自然的な不利も含めてーーを矯正しようとしていることを思い出さねばならない。これが達成された場合には、結果の違いは、純粋に嗜好や選択の違いを反映しうるだけである。(もしそうした違った結果が、才能や家族的な背景、人々に責任を負わすことのできないーーおそらくは、その帰結について十分な情報を与えられはいないだろうからーー嗜好や選択の違いを反映しているのであれば、それは人々が、実際には急進的な意味における機会の平等を持っていないということを意味しているのである。)たとえば、ある人は、他の人よりも長時間働くことを選ぶかもしれず、その結果、より多くのお金を稼ぎ、最終的にお金持ちになる。一方、別の人は、より多くの休暇を取ることを選ぶかもしれず、生き続けるのにちょうど十分なだけのお金しか稼がず、最終的に貧乏になる。かくして人々は、お金という結果に関しては不平等であるだろう。しかし、彼らは、全体的に見て不平等なのだろうか。そうではない。彼らは、「所得プラス余暇」というまとまり全体の観点からすれば、平等な結果を得ているであろう。ここには不平等が存在しているように見えるが、実際には、ただ異なった選択があったにすぎないのである。一般化するならば、人々が実際にある選択を行なっており、その帰結について十分に情報を与えられている限り、機会の平等は、結局のところ、結果の平等を意味していると言うことができる。結果の平等を信じている人は、急進的な意味における機会の平等に起因する結果の違いに反対する理由を持っていない。というのも、このような違いは、実は不平等ではないからである。もしそうした違いが、実際に、十分に情報を与えられた上での人々の選好や選択ーー人々が、真に責任を負うべきであるーーにのみ起因するものであるのなら、それら、実はまったく不平等な結果ではないのである。

 

(p.147- 149)

 

 現代ではある程度の教養のある人々の間では「不平等の存在は貧しい人にとっても経済的利得になりえる」という経済的知識が知れ渡っているのにも関わらず、人々が「不平等は絶対に是正されるべきだ」とついつい思ってしまったり不平等の存在を示すデータやエピソードに強く反応したりする背景には、本書でも指摘されている通り、人間の心理的な傾向として結果の如何に関わらず不平等を拒絶する反応が強いという点があるだろう(本書のなかでは著者の子どもたちのエピソードやフロイトの理論が取り上げられているが、クリストファー・ボームの『モラルの起源』をはじめとして、人類学や進化心理学の知見からも同様のことが指摘されている)。

 今年になって『政治哲学への招待』やジョナサン・ウルフの『政治哲学入門』、ウィル・キムリッカの『現代政治理論』などを読んで思ったのは、わたしたちがついつい疑問を抱いて(SNSなどで)意見を言ってしまうようなトピックが、、政治哲学は倫理学以上に取り上げられているということだ。そして、もちろん、わたしたちの脊髄反射的なコメントや浅はかな思い付きを早々に粉砕してしまうような、中身のある奥深い議論がなされている。

 平等や公正といった問題について考えて意見を述べたいときには、「平等と公正の違いを表すイラスト」(3人の子どもたちが木箱に乗ったりしながら球場を覗き込もうとするアレ)とか「トリクル・ダウン理論のウソを示すイラスト」(グラスタワーにワインが注がれているアレ)を貼って満足するのではなくて、きちんとした入門本を手に取って、平等や公正といった言葉が本当のところ何を述べているのかについてじっくりと考えるべきだろう。

 

 

 関連記事として、スティーブン・ピンカーの『21世紀の啓蒙』を読んだときの読書メモを貼っておく。

 

davitrice.hatenadiary.jp

能力のある人は、他の人よりも恵まれた暮らしに「値する」のか?(読書メモ:『政治哲学への招待』①)

 

 

 

 

●格差原理と、不平等の正当化

 

分配の正義に関する論争において、最大の注目を集めたのは、最後の原理ーーすなわち、格差原理ーーである。不平等は、どのようにして、もっとも恵まれない人の地位を、最大限良くすることに役立ちうるのだろうか。それを理解するわかりやすい方法は、すべての人に同じものを支払うことではないだろうか。ロールズの考えは、もし人々が、実益をもたらすような諸活動において働くよう動機づけられるべきだとすれば、彼らにはインセンティヴが必要かもしれないというお馴染みのものである。そして、議論は次のように進行する。もし経済が、そうでありうるのと同程度に生産的であろうとするならば、何らかの不平等が必要(社会学者は「機能的に」と言うかもしれない)である。不平等がなければ、人々はある仕事を別の仕事以上にしようとするインセンティヴを持たないだろうーーこうして、彼らの行うはずのもっとも有益な種類の仕事(他のすべての人にとって)を行うべきインセンティヴがないことになってしまうのである。すべての脳外科医と精力的な起業家が、本来はむしろ詩人志望であると想像してみよう。彼らが詩作の喜びを慎むよう誘導する割り増し的な金銭がないとすれば、残りのわれわれは、彼らの外科医や起業家としての技量を失ってしまうことになるだろう。集団的なレベルに総合してみるなら、あなたが得るのは、すべての人に同じものを支払ったがために、すべての人ーー長期的には、もっとも恵まれない人を含むーーの利益となるような種類の成長をもたらさない非効率的で停滞した経済である。そして議論は、次のように進行する。これが、おおざっぱに言って、東欧の国家社会主義において生じたことなのである。

このような不平等の正当化は、非常に広範に受け入れられている。このことから、何人かの思想家は、不平等について気に病む必要などまったくないという結論へと導かれた。

(……中略……)

ロールズの原理が述べているのは、不平等は、もしそれが、もっとも恵まれない人の地位を最大限良くすることに役立つならば、正当化されるということだけなのである。実際、この原理は、不平等は正当化されないという主張とまったく矛盾しない(なぜなら、もっとも恵まれない人の利得を最大化するためには、どんなことでも必要だというのは、真実ではないのだから)。われわれは、不平等が必要なのかどうか、そして、もし必要ならば、なぜそうなのかを注意深く考えるべきである(そして、考えるであろう)。また、この原理が、次のことを要請していることにも注意しておこう。すなわち、不平等は、もっとも恵まれない人の地位を最大限良くするのに役立つ場合に限って、正当化されるということである。半端なわずかばかりの「トリクル・ダウン」は、この原理を満たすのに十分でない。重要なことは、もっとも恵まれない人がそうありうるのと同程度に豊かであるかどうかであって、彼らがそうであったかもしれない状態よりもましな状態にあるのかどうかではないのである。

 

(p.41 - 42)

 

自己所有権と、才能の「道徳的な恣意性」

 

自己の所有権は、どうなのだろうか。人は、この「完全な、あるいは絶対的な」意味において、少なくとも自分自身の身体ーー天賦の才能を含めてーーを確かに所有しているのだろうか。この論点について、ノージックは、明らかにロールズとは対照的である。ロールズにとって、原初状態は、市民として人々が自由かつ平等であるという考え方をモデル化したものであったということを思い出してみよう。そして、人々が平等であるという考え方は、部分的に、天賦の能力について無知であることによって巧みに捉えられていた。このことは、才能を持っているということは、「道徳的観点からは恣意的」であるとするロールズの見解を表している。人が、丈夫さや賢さをより多く持って生まれるか、より少なく持って生まれるかは、運以外の何ものでもない。それゆえ、それを根拠にして、人々がお互いに、より恵まれたり恵まれなかったりすることは、公正ではないであろう。ある箇所でロールズは、自分の正義の構想は、人々の天賦の才能を「共有資産」として扱うと述べている。なぜノージックが、人格の別個独立性や、人々は自分自身を所有しているという考えを真剣に受け止めることができていないこのような明白な失敗に、意義を唱えようとするのかを理解することは容易であろう。ノージックは、(生まれついた家族の社会階級と同様に)人々が天賦の才能を持つことが、運の問題だということを否定してはいない。しかし、それは重要なことではない。たとえそれが運であったとしても、それでもなお人々は、自分自身を所有しているというのである。

ほとんどの人は、何らかの種類の自己所有権テーゼを受け入れている。(……中略、「国家が眼球を再分配する」という思考実験が提示される……)身体の一部の強制的な再分配を拒否する一方で、再分配のための課税を支持する人たちーーおそらくは、人口の大多数ーーは、自己所有権に関してはノージックに同意するのだが、自己に関する所有権には、われわれが自分自身を使用することによって作り出した事物ーー商品や金銭ーーに関する所有権ーー同様の完全な意味におけるーーが必ず伴うということを否定している。人々は、一般に、身体の一部の強制的な再分配は、身体の一部を使用することによって作られたモノの強制的な再分配ならばそうでないような仕方で、われわれの自己の侵害を必然的に伴うだろうーー人間としての完全性を侵害するだろうーーということを信じているのである。(自己所有権を支持する直観に圧力をかけるために、多数の怪我人と血液の必要をもたらした自然災害を想像してみよう。自発的な献血だけでは十分ではない。この場合、国家が強制的な献血プログラムを始めるのは間違いだというのは明らかのことなのだろうか。)

ロールズは、自己所有権のいくつかの側面には、同意している。誰がどの身体を持つかは「道徳的に恣意的」であるとしても、依然としてわれわれは、身体的な完全性への権利と個人の自由の領域ーーそこにおいては、われわれは、干渉を免れていなければならないーーを持っているのである。ロールズの見解では、例えば、個人は自由に選択した職業に就くことができなければならない。私が卓越した外科医になることができ、そうなることが同胞市民にもっとも役に立つという単なる事実は、他の人たちが、その方向へと私を強制するために結託することを正当化するわけではない。このことは、ロールズにとって、ノージックの意味における自己所有への権利以上に、自分固有の善の構想を形成し、修正し、追求する個人の能力の重要性とより深く関係している。道徳的恣意性についてのロールズの主張は、ノージック自己所有権という概念で捉えようとした広く共有されている直感のいくつかを受け入れる余地を残しているということを理解しておくことは、依然として重要である。両者の間の大きな相違は、ノージックが、自己所有権を自己が作り出した生産物の所有権を含むところまで拡張するようなやり方で、そうした直観を用いようとした点にあるのである。

 

(p.57 - 59)

 

●「真価」としての正義という、慣習的な見解(世論)

 

[ノージックの議論を学ぶ理由として]……正義を根拠にして市場の結果を擁護する人たちが、極めて頻繁にーーそして、完全に不当にーー、実際にはまったく異なった議論であるものを、いかに混ぜ合わせがちであるかを理解する手助けになるからである。ある議論は、市場は、個人の自由にとってーーあるいは人々の自己所有権の尊重にとってーー、絶対不可欠なものであると見なしている。個人的な交換から生じる結果からは離れた強制的な資源の再分配は、自分のものを用いて自分の好きなことをする人々の自由を侵害する。(…中略…)別のまったく異なる議論は、市場は、人々に、その人に値するものを与えているのだと主張する。才能に恵まれ、一所懸命に働いた人は、才能に恵まれておらず、無気力な人よりも多くの報酬に値し、市場は、彼らがそれを得ることを保証している。これらの正当化は、特殊なケースでは一致するかもしれないが、市場の擁護者は、一致しないかもしれないということに無自覚なまま、ひとつの議論から別の議論へと移動すべきではないのである。

したがって、ノージックは、真価(ディザート)としての正義という考え方に訴えかけるような市場の結果の擁護を提示しているわけではない。ロールズもまた、まったく別の方向から、その生産活動が市場で高い値段を期待しうる人は、他人が進んで彼に支払おうとするお金に値するという考え方に断固反対している。ロールズの場合、これは、本質的に、人がその生産活動をいくらで売ることができるかを決定するにあたって、運が極めて大きな役割を果たしているからである。天賦の能力の分配は、「道徳的観点からは恣意的」であるのだから、他人が進んでそのために支払いたいような多くの能力を授けられた人は、そうでない人よりも多くの報酬に値すると主張することはできない。こうしてロールズは、「慣習的な真価の請求」と呼んでよいかもしれないものに断固反対している。それは、例えば、次のような主張である。「タイガー・ウッズは、ジーン・メーソンよりも多くの収入に値する。なぜなら、ウッズは、世界中の何百万人という人に大きな喜びを与える突出した才能に恵まれたゴルファーであり、その結果、自分の労働を非常な高値で売ることができるが、他方のメーソンは、一個のソーシャル・ワーカーである」。

そのような主張は、実際にほとんどの人が、それを是認しているという意味で「慣習的」なものである。われわれは、世論がウッズの味方であることを知っている。世論は、ウッズが、得ているだけの収入に値するとは考えていないかもしれないが、概して他人が進んで支払うようにすることができる(そして、そうしている)人は、そうしない人(そうしない唯一の理由が、できないからであっても)よりも、恵まれた暮らしを送るに値するという考え方には賛同しているのである。

(……中略……)

そして、[ロールズノージックの]この一致において、彼らは共に、世論ーーこの種の慣習的な真価の請求に大筋で賛同しているーーに異議を唱えている。政治哲学者たちは、この論点に関して、巷の人々とは、相当に意見を異にしているのである。

 

(p.60 -61)

 

[上述したような「慣習的な」見解を]…「極端な」見解と対比してみよう。この見解は、各人がたとえ異なった量の努力を払っているーーあるいは、過去において払ったーーとしても、人々は、互いに、より少ない所得やより多い所得を得るに値するわけではないと述べる。一所懸命に働く人は、そうではない人より多くの所得を得るに値しない。いったい何が、そのような見解を、正当化するのだろうか。答えは、ある人がどのくらい一所懸命に働くかということは、それ自体、その人のコントロールを超えた何かだからである。人の性格や心理的構成は、遺伝的な体質や幼児期の社会化の函数である。ある人は、成功しようとするーーあるいは、一所懸命頑張ろうとするーー意志を持って生まれてくる。別のある人は、幼少期から、両親やその他の発育上の影響によって、その人に植えつけられた態度を持っている。また、ある人は、それほど幸運に恵まれはいない。なぜ一所懸命に働くような人格であるという幸運に恵まれた人は、そうでないという不運を背負っている人よりも、多くの所得を得るに値すべきなのだろうか。

 

(p.62 - 63)

 

 

ロールズは、ときどき、極端な見解を抱いていると紹介されることがある。この点に関して、彼は、完全にはっきりしているというわけではない。しかし、ロールズが何を述べているのかに関する説得力のある読解は、彼は自由意志の役割を認めており、個人が行うと想定されているすべての選択は、実際に、遺伝や社会化によって決定されていると主張しているわけではないとしている。そうではなく、ロールズは、人が、自らの努力レベルに関して行う選択は、当人のコントロールを超えた要因によって強く影響されているので、単純にその努力に比例して報酬を与えるのは不公正であろうということを信じているのである。彼が述べているように、「真価に報酬を与えるという考えは、実行不可能である」。なぜなら、実際問題として、選択に影響を与えがちな恣意的な特性から、適切な意味で、選択(すなわち、道徳的に恣意的な特性から影響を受けていない選択)を分離することは不可能だからである。

 

(p.64)

 

[優れた詩を書いた文学者はノーベル文学賞に値するという議論に関連して]…慣習的な真価の請求について懐疑的な論者でさえ、その請求が妥当する何らかのコンテクストが存在していることを認めるだろう。懐疑的な論者と、市場を各人がそれに値するものを与えるものとして擁護する論者との間の不一致は、すべての慣習的な真価の請求が妥当かどうかではなく、それに相応しい範囲によっているように思われる。

 

(p.66)

 

●「真価」と「正当な期待」の違い、「差額の補償」

 

第一に、真価と「正当な期待」との間には、差異が存在している。企業や全体としての市場経済のようなひとつの制度化された構造ーーそこでは、実際に、人々は、持っている資質によって不平等な報酬を与えられているーーを想定してみよう。この場合、われわれは、次のように言うかもしれない。そのような資質を獲得した人は、報酬を与えられるに値する。それは、まさに制度が、その資質を獲得した人は、その資質を獲得したことによって、自分が報酬を受けるだろうという正当な期待を持つようなあり方で、作り上げられているからである。こうした考え方は、真価の「制度的」構想と呼ばれることがある。理解しておくべき重要な事柄は、制度が、そもそもいまあるようなあり方で、作り上げられるべきであったのかどうかということは、まったく別の問題だということである。われわれは、まったく問題なく、次のように言うことができるだろう。「われわれは、もしMBAを取得したなら、その人は、一般的に、高額の報酬を与えられるシステムの中で活動している。そして、ある人は、そうした前提に基づいて、結果的にMBAの取得をもたらした様々な選択を行った。その人の、高賃金を得るべきだという期待は、正当なものである。そうした限定的な意味において、その人は、高賃金を得るに「値する」。それでもなお、MBAを持っている人は、持っていない人よりも多くの報酬を与えられるシステムーー実際には、何らかの種類の試験に合格する能力によって、人々に異なった賃金を与える何らかのシステムーーは、本質的に不正義であり、確かに、人にその人が本当に値するものを与えていないのである」。「真価」の観点から、正当な期待に関する請求を定式化することは、難しくない。実際、そうすることに、何の問題もないのであるーー本当は、それに値していない(なぜなら、制度は、不正義に作り上げらえれており、人の「実質的な」、「剥き出しの」、「前制度的な」真価に従って、その人に報酬を与えているのではないのだから)報酬への正当な期待と持つことができる(それゆえ、制度的な意味で「値する」)人がいるということが、明らかになっている限りで。

(p.67 - 68)

 

第二に、ある人たちは、「真価」という言葉を、補償や平等化について語る場合に用いる。私が、次のように考えていると想定してみよう。すなわち、その仕事が、危険で、ストレスが多く、汚く、退屈で、不当に蔑視されている人々は、他の条件が同じであれば、その仕事が、安全で、快適、面白く、健康的で、威信の高い人々よりも多くの所得を得るべきである。私は、彼らは、より多くの所得を得るに値すると言うだろう。この種の真価の請求が、私がこれまで議論してきた種類のことといかに異なっているかが明らかである限りで、そこには何の問題もない。

(……中略……)

われわれがここで語っている事柄は、本質的には、平等化の請求であるような真価の請求を用いているのである。われわれは、それを、「差額の補償」という考え方に基づいて、考察することができる。

(……中略、ふたたびタイガー・ウッズとソーシャル・ワーカーが対比される……)

われわれの社会において、市場が生み出す不平等は、差額の補償としての真価という考え方に訴えかけることによって、正当化されうると考えることには、まったく説得力がないのである。(理想化された完全な市場が生み出す不平等は、正当化されうると考えている経済学者や政治理論家もいる。このケースでは、人々の得るお金ーー労働の値段ーーは、自分の仕事を果たすことに含まれる利益と不利益の正味の収支以外のものは何も反映しないだろう。それゆえ、雇用者は、人々に不愉快な仕事をさせるためには、愉快な仕事よりも多くを支払わねばならないであろうーーところがいまのところ、その反対が、しばしば真実なのである。)

 

(p.68 - 69)

 

ここで区別されるべき第三の、そして最後の考え方は、この差額の補償という着想と関連づけることができるーーもっとも、関連づけることが必要だというわけではないのだが。これはある人たちが、他人よりも多くの所得を得ることを、もし彼らがそうしないなら悪い結果が生じるだろうという理由で、正当化するような考え方である。この考え方は、真価という観念を用いて定式化されることがある。われわれが、「脳外科医は、看護師より多くの所得を得るに値するのか」という問いを発したと想定してみよう。次のように答える人がいるかもしれない、「そうだ。彼らはそれに値する。なぜなら、もしわれわれが、看護師より脳外科医に多くを支払わないならば、誰も脳外科医でありたいとは思わないだろうからである。ある人々が脳外科医であるということは明らかに重要なのだから、われわれが、ある人々がその仕事を選択するということを確保するために、彼らはより多くのお金を得るに値するのである」。これは、インセンティヴに関する主張ーー人々を社会的に有用な職務へと誘導することの必要性と、もし人々に、より多くの賃金を支払うことが、そうした職務を遂行させる唯一の、あるいは最善の方法であるのならば、そうすることの正当性に関する主張ーーである。それは、真価と何らかの関係があるのだろうか。

今のところは、無関係である。それは、基本的には、脳外科医と看護師の相対的な真価には何の関係もない。それは、単なる帰結主義者の見解であり、結果についてのーーもしわれわれが、多くの賃金を支払わなければ、何が起きるのかについてのーー所見である。

 

(p.69- 70)

 

 かなり引用が長くなってしまったが、「真価」や「正当な期待」に関する議論にわたしがこだわっているのは、まずは『実力も運のうち』でサンデルがロールズに対して行なった批判に由来する。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 政治哲学における能力主義批判をまとめると、「ある人が他の人よりも能力を発揮して社会に貢献しているとしても、その背景には道徳的に恣意的な事柄(天賦の才能の有無や、外的要因のマイナス影響を受けずに「努力ができる」という状態にまで至れること)が存在するのだから、能力を発揮していること自体はその人が他の人よりも恵まれた生活に値することには直結しない」ということになるだろう。

 日本人読者の多くは、昨年にサンデルの『実力も運のうち』が邦訳されたことで初めてこの考え方を知ったはずだ。……とはいえ、彼自身が書いていたように、この考え方はとくにサンデルにオリジナルのものではない。むしろ、引用部分で示してきたように、この考え方はサンデルの批判対象であるジョン・ロールズのほうに代表されるものである。また、スウィフトもサンデルも認めている通り、ノージックハイエクなどのリバタリアンですら市場での成功と「真価」を結び付ける議論は否定しているのだ。

 とはいえ、『政治哲学への招待』が優れているのは、政治哲学ではなく正義に関して「世論」が持っている考え方として、能力や成功と「真価」と報酬(所得や恵まれた暮らしなど)を結び付ける発想を紹介しているところだ。

 サンデルも「真価」に基づく発想を批判的に紹介してはいたが、彼はその起源をアメリカのキリスト教の歴史やプロテスタンティズムに見出していた。しかし、以前にも指摘した通り、「能力を発揮している人や社会に貢献している人や努力をしている人は、そうでない人に比べてより多くの報酬に値するべきだ」という発想は欧米人に限らずアジア人やその他の世界中の人々に存在しているだろうし、現代や近代に限られたものでもない。おそらく、ジョナサン・ハイトが「分配的正義の直感」や「道徳基盤」として論じているような、生物学的レベルで人間に深く根付いた心理的傾向であるのだろう*1。社会的なものであるとしても、「より努力をした人はより成果を出した人はより多くの報酬に値する」というルールや道徳観は、ほとんど全ての段階の社会で必要とされるはずだ。人々の外部にある社会システムとして「より成果を出した人はより多くの報酬を得られるインセンティブが設計されているだけでなく、「より成果を出した人はより多くの報酬に値する」という道徳観が人々の間に内面化されていたり、能力を発揮することや努力をすることが「徳」として称えられている社会でないと、生産性が低下して持続不可能になると思われるからだ(すくなくとも農耕以降の社会には多かれ少なかれ「真価」の考え方が根付いているだろうし、平等主義がかなり強い狩猟採集民社会ですら「狩人や戦士として優れている男はそうでない男よりも賞賛に値する」という発想はあるだろう)*2。『政治哲学への招待』にも書かれているとおりインセンティブと真価は必ず関係があるというわけではないが、ここでわたしが言いたいのは、インセンティブ設計の必要性が、真価を重視する心理的傾向や文化を生み出すということである(わたしたちがある人のことを「能力が優れており立派だから称賛に値する」と考えるとき、その考えの背後にある心理的傾向や文化はインセンティブ設計の都合から生まれたものであるとしても、わたしたちの考え自体にはインセンティブという発想は含まれていない、ということ)。

 

 サンデルはロールズが「真価」の議論を否定していることを認めながらも、ロールズの議論ではインセンティブ設計の都合から「正当な期待に対する資格」が許容されているために、ロールズリベラリズムにおいては「真価」に基づく世論と同様に「能力を発揮して稼いでいる人間は、そうでない人間よりも優れている」という発想を人々が抱くようになって、勝者が「傲慢さ」を抱き敗者が「屈辱」を抱くようになる……と論じていた。

 その代替案としてサンデルが持ち出すのが「共通善」であった。市民を教育して同胞意識や連帯感を育せて同じコミュニティに暮らす仲間として尊重し合う態度を教えることで傲慢さも屈辱も感じることがなくなるだろう……といった主張である。

 とはいえ、以前にも指摘した通り、サンデルにはインセンティブという発想が全く欠けている。また、教育などによって共通善を育めば傲慢さや屈辱などの問題が解決するという発想は、かなり浅薄な人間観に基づくと言わざるを得ない。これも以前に指摘したが、サンデルは「思想」や「イデオロギー」や「社会」が人間の感情や発想に与える影響力をかなり強く見積もる代わりに、社会がどうであるということ以前に人間に備わる生物学的・心理学的な要素を無視する傾向が強い*3

 サンデルに比べると、ロールズの正義論は、一般的・平均的な人間の心理学的な特徴や傾向、インセンティブに対する態度などの(経済学的な)合理性などを仮定したうえでボトムアップ的に論じられている。また、ロールズの議論では大半の人間が持つ利己性を前提としながら、同じく大半の人間が持つ正義感覚との折衝をしながら「正義の原理」が探られていく。『ロールズ政治哲学史講義』を読むと、この発想やホッブズやロックやヒュームやルソーなどの政治哲学の伝統に連なるものであることがわかる(というかロールズ自身がそう書いている)。また、インセンティブや利己性を前提にしながら論じているという点で、ロールズやその他の正義論者たちはサンデルよりもずっと現実的だ。

 

 ちなみに、ロールズが「正当な期待に対する資格」という言葉で何を述べようとしているかは、『実力も運のうち』どころか『正義論』を読んでいてもいまいちピンと来なかった。ようやく理解できるようになったのは、『政治哲学への招待』や同じくスウィフトの『リベラル・コミュニタリアン論争』を読んでからである。

 わたしなりに解釈すると……配分の対象である財や資源を増加させるためには市場での競争は不可欠であり、さらに才能のある人がその才能を発揮することで財や資源はさらに増加するのだから、格差原理に違反しない限りにおいて(脱税などをされて市場で成功した人からその成果の一部を徴収できなくなったり、市場の競争が激化し過ぎることで庶民のプライベートや生活に関わる部分までもに悪影響が出たりして、もっとも恵まれない立場の人の状況を改善しないのに恵まれた立場の人の状況だけがさらに恵まれたものになるという状況が起こらない限りにおいて)市場が効率的に機能してその生産物が増加するような社会設計にしておく必要がある。

 そして、個々人は、市場のルールや市場で成功したときに得られる報酬などは「真価」とはまったく関係がなく道徳的に恣意的な事柄であるということを理解したうえで、「自分が市場に参加して、競争に勝利した場合にはこれくらいの報酬が得られるんだな」という「期待」を抱きながら市場に参加する(その期待は道徳とは関係のないものであるが、市場が正当な範囲で機能している限りにおいて「正当」な期待である)。実際に競争に成功して報酬を得られたらうれしく生活も(格差原理が許す範囲内で)恵まれたものとなるし、競争が失敗したら悔しいかもしれないが、自分や他人の「真価」がどうだとか自分や他人が優れた人間であるか劣った人間であるかといった事柄はまったく切り離して考えることができる。……すべての人は、市場と道徳が別の領域であることや市場の存在が認められている理由などを同意・理解しているためだ。

 もちろん、昨日の記事にも書いた通り、この考えは社会においてリベラリズム完全に達成されておりすべての人々がリベラリズムを完全に理解していることを前提としているだろう。ロールズの議論は、人間観や社会の状態(正義の情況)に関する理解は現実的だとしても、あくまで理想論である*4。実際にはリベラリズムがかなりの程度まで社会制度的に達成されたり人々の意識に浸透したりしたとしても、「能力を発揮して市場で成功して社会に貢献した人はそうでない人よりも優れている」という「かん違い」は多かれ少なかれ発生して、それに伴いエリートの傲慢さや労働者階級の屈辱は残って、摩擦が発生するだろう。

 このことをふまえると、サンデルの批判が「ロールズがいくら理想を言おうが人々の認識が彼の言う通りに変わることはないだろう」というものであれば正しいと思う。……しかし、サンデルは「正当な期待に対する資格を許容するロールズの発想が、現在の社会において、エリートの傲慢さを増加する原因になっている」ことを示唆している。端的に言って、この批判は不当なものである。先述したように、現在の世論の大半は「真価」を認める発想をしているのだし、この発想は心理学や生物学のレベルで根深くどの社会にも普遍的なものである可能性が高い。逆に、ロールズリベラリズムなんて、人文系の学者や院生の一部を除けばアメリカ人の間にすらほとんど浸透していないだろう。問題の原因は、ロールズが世論に影響を与えていることではなく、ロールズもサンデルも含めて政治哲学者が無力であり、世論に影響を与えられず「真価」に基づく発想を取り除くのもできていないことのほうにある。

 また、ロールズが市場や競争を認めているとしても、おそらく渋々ながらだ。配分される財を生み出して人々の生活を向上させる源泉が他に存在すればいいのだが、実際には市場や競争以外に財を生み出す方法はないのだから、それを前提としたうえで理想的な社会を構想しなければならない。理想的な社会を語るにしても、物理的や設計的に不可能な社会を語るわけにはいかないということだ。

 一方で、サンデルの議論で市場やインセンティブ設計がどのように位置付けられているかは、いまだにわたしにはよくわからない。おそらく、サンデルもロールズ(や他の多くの人文学者たち)と同じように市場やインセンティブ設計が嫌いではある。『それをお金で買いますか 市場主義の限界』などの著作の議論を見ると、できる限り市場やインセンティブ設計を共通善やモラルに置き換えたがっていることも察せられる。とはいえ、結局のところ市場やインセンティブ設計は必要であるのだし(リベラリズムの社会ではなくコミュニタリアンの社会でも財や資源は必要であるから)、サンデルもそのことは自覚しているようにも思える。……だが、ロールズに比べると、嫌で厄介な市場やインセンティブ設計の必要性を直視して渋々ながらにも対応する、という態度がサンデルには見受けられないのだ。『実力も運のうち』を読んだ人の多くは「"共通善"は解決策になっているの?」と思ったことだろうが、おそらくサンデルも解決策になっていないことを自覚しながら、当たり障りのない議論で誤魔化しているのである。

 

 ロールズやサンデルからは離れるが、「政治哲学者たちは、この論点(真価)に関して、巷の人々とは、相当に意見を異にしているのである」という一節はかなり重要だ。

 政治哲学者でなくとも、哲学的な思考や人文学的な思考がある程度以上にできる人や、社会問題や政治について「わかっている」人であれば、「能力のある人は他の人よりも恵まれた暮らしに値する」という発想を相対視したり否定したりすることはできるだろう。関連して、「努力できるかどうかにも運や外的な要因が関わっている」という発想を抱くこともできる。飛躍させて「個人の責任というものは存在しない」という発想を抱くこともできる。……そして、SNSなどには毎日のように能力主義(≒新自由主義)や自己責任が「虚構」であるという主張を投稿し続ける人がごまんといる。

 とはいえ、政治哲学(や倫理学など)の領域を飛び越えて「真価」や「責任」を否定しはじめることには、いろいろと問題や副作用が考えられる。まず顕著なのは、「他人の真価」や「自分の責任」は否定するが、「自分の真価」や「他人の責任」は否定しないという自己中心主義的なダブルスタンダードに嵌まってしまうことだ。政治哲学においては議論が抽象化されるし、筋の悪い議論に対しては他の論者からのチェックがなされるから、あまりに露骨なダブルスタンダードは表に出る前に修正される。が、SNS(や社会運動など)の議論は具体的であるし(大概はその議論を行なっている本人の生活や関心に関わっていること)、外部からのチェックもないので、自己中心的な発想がそのまま表に出やすい。

 より重要な問題は、頭の中やTwitterアカウントや社会運動サークルの中では「真価」や「責任」を否定する人ですら、職場や家庭や友人関係やふつうの部活などにおいては「真価」や「責任」を否定することはほぼない、ということである。ミクロなものにせよマクロなものにせよ集団を維持・運営するためには責任という発想は不可欠であるし、友人や同僚を評価したり子供や部下を教育したりする際に「真価」の発想を無視することも困難だ。政治哲学のレベルの抽象的な「真価」「責任」否定論を唱えられるのは、せいぜいが二次会の席とか合宿先の寝室とかであるだろう。真昼間から素面でこれらの発想を否定する主張を唱えるような人に、大事な仕事や作業を任せたいとは思わない。

 もちろん「実際には真価や責任なんてものはないのだが、集団や人間関係の意地や運営を効率化するために真価や責任があると便宜的に仮定したうえで、その便宜的な仮定に基づいて行動や発想を行っている」とする考え方もあり得る。また、「ミクロなレベルでの対人評価や集団秩序においては真価や責任という発想は認められるべきだが、政治や経済などの関わるマクロなレベルでは真価や責任という発想は認められない」とする考え方もあり得るだろう。……とはいえ、これらは論理的にはダブルスタンダードではないかもしれないが、実践的にはこの種類の抽象的な二重思考を維持するのは困難である。

 いずれにせよ、「世論」は政治哲学的な正論とは別の領域に存在していること、世論の発想は正しくないとしても存在するのには十分もっともな理由があること、真価や責任などの「誤った」発想を世論から取り除くことはものすごく困難であること、などなどは理解しておいたほうがいい(おそらく政治哲学者の大半はそのことを理解しているが、政治哲学的な発想にかぶれた一般人のほうが、このギャップを理解するのは難しいと思われる)。

 

*1:

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*2:ポジティブ心理学では一定の種類の「徳」(VIA)が文化を超えて普遍的に見出されると論じられていることは、能力主義にもアメリカやプロテスタンティズムを超えた普遍的な魅力が存在するという議論に関連付けられる。

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*4:

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読書メモ:『ポジティブ心理学 科学的メンタル・ウェルネス入門』

 

 

 

 著者の小林はサンデルやアリストテレスについての著作もあるコミュニタリアン系の政治哲学者。とくにアリストテレスの「徳倫理」がポジティブ心理学に結び付くのはわたしも『21世紀の道徳』のなかで紹介しており、コミュニタリアンの人がポジティブ心理学についての本を出すこと自体も違和感がないというかむしろ望ましいことであると思う。

 とはいえ、サンデルの『実力も運のうち』を読んでからわたしの頭にある疑問は、アリストテレスの「ユーダイモニア論」やそれに基づく「強み」や「美徳」を重視するポジシティ部心理学の議論と、同じくアリストテレスの「共通善」概念を発展させたサンデルのコミュニタリアニズムは矛盾するのではないか、というところだ。端的に述べると、リチャード・テイラーは『卓越の倫理』のなかでアリストテレス倫理学はエリート主義であると明確に述べておりルサンチマン道徳に対比されるものと論じているが、「能力主義」を批判するサンデルの議論はむしろルサンチマン的である、という点に疑念を抱いている*1

 

 それはともかく、本書のなかでとくにわたしの問題関心に沿っており気に入ったのは以下の箇所。

 

庶民が語り伝えてきた神話や昔話の中にも、美徳をそなえた者が最後の成功を得る、美徳に欠けた者は不幸になるという教訓談がじつに多い。「舌切り雀」や「花咲爺」は、善良で優しいお爺さんの幸せや喜びと強欲なお爺さん・お婆さんの失敗を対比しているし、桃太郎・金太郎や一寸法師は男気・元気や強力の価値を示すお話だ。「こぶとり爺さん」は「勇気」の物語であり、「浦島太郎」や「鶴の恩返し」は亀や鶴を助けるという優しい行為と約束を破るという不誠実な行為の帰結を語る。さらに「かちかち山」や「猿蟹合戦」のような敵討ち物語は、非道な者によって失われた正義を知恵や協力によって回復することがモチーフである。こうした物語を通して、【仁】や【勇】【智】や【義】などの美徳や元気やチームワークなどの強みの重要性が暗示されてきたわけだ。物語によってこれらを自覚しようとしてきたのは、過去の人々ばかりではない。現代の私たちもまた美徳と人格的な強みを学習するツールを欲し、それを再生産し続けている。

例えば、ハリウッド映画の中には、文化の違いを超えてヒットする作品が少なくない。アメリカ合衆国じたいがさまざまな人種、文化に属する人々が集まってできている国だから、その違いを超えて楽しめる映画が作られている。もちろんヒットの裏には巧みな商業戦略とお金の投入があるし、作品がその時々のアメリカ国家流の「正義」のPRになることもある。だが、さまざまな問題がありながらも、文化的な違いを超えて大勢の人が観てしまう、楽しめてしまうのはなぜか。それは、ヒット作の多くが【仁義礼智信勇】あるいはVIAで示された普遍性の高い美徳や人格的な強みをわかりやすい形でふまえているからだ。……

(p.139 - 140)

 

 一方で、下記の箇所はサンデルも『実力も運のうち』や『それをお金で買いますか』などで述べていたような議論だが、わたしはかなり疑問を抱く。

 

[コロナ禍において医療従事者や保健行政関係者の業務が増加したことについて]この事態をふり返って、私たちは自問すべきだろう。これら共通善を担う人々やその組織、制度に対し、パンデミック前のわたしたちの社会は、その善にふさわしい人材やお金などの資源を提供していただろうか。あえて素朴な言葉で言えば、私たちが政治を通じて示してきた価値判断や行動選択の中に、共通善を担う人や組織に対する「引き受けてくれてありがとう」や「よろしくお願いします」は、「正しく位置づけられていたのだろうか。

むしろ私たちは経済性や効率性といった尺度のみに左右されやすく、道徳的な価値判断を政治に持ち込むことを怠りやすい。例えば、医療や福祉、保育などの人手不足が指摘されてきたにもかかわらず、これらの分野に従事する人々の賃金水準は低いことが少なくなく、その引き上げペースも鈍かった。この人々が担う共通善の「善さ」について考えるより先に人件費の抑制を考えてしまう風潮は、市民の間にもあったはずだ。

(p.204)

 

  この種類の発想に対するジョセフ・ヒースの批判は以前にも紹介した。

 

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それに対して、左派は「社会の認識」の誤謬とでも呼ぶべきものーー賃金率は「社会」が特定の労働に与える価値で決まるという考えーーの餌食となることがしばしばだった。現実には、賃金率は雇用主が労働者の仕事に与える価値で決まるのですらない。ましてや社会全体のそれでは決まらない。残念なことに、社会の認識の誤謬から多くの人たちが「ワーキングプア(働く貧困層)」問題は労働者の社会に対する貢献の認識を変えれば直せると考えるようになった。バーバラ・エーレンライクの著書『ニッケル・アンド・ダイムド』は、ジャーナリストが低賃金労働に潜入して発見を報告するという零細産業を生み出した。話の教訓はどの例でもほぼ同じだった。善良で勤勉な人たちが骨の折れる仕事をしていて、屈辱に耐えることを強いられながら悲惨なほど薄給ということだ。まったくそのとおり、肝に銘じておきたい。しかし、どうしたらいいのか?あからさまにも、暗黙のうちにも、一般に勧められるのは以下の二つ。その一、そういう人たちには親切に。これには異論はないと思う。その二、賃金を上げる。ここで議論が(たいしたことではないが)ややこしくなる。

勤勉で善良な人はかなりいい給料をもらうのが自然な考えのように思えるのに、資本主義ではそうはいかないのが純然たる事実だ。国内的にも国際的にもそうならない。結果としての所得の分配には控えめに言っても道徳的に問題がある。肝心なのはそれをどうしたいかだ。総合的な問題は、市場経済における賃金は他の価格と同様に、報酬というだけでなくインセンティブでもあることだ。分配の公正を理由に慈善的な価格方針をとれば、負のインセンティブ効果を招きかねない。要するに、いつもながら市場には、国民の支援を意図した発案をかえって前より困窮させるものに変える苛立たしい傾向があるのだ。このため貧困撲滅の構想は、単に賃金を上げるよりもっとずっと高度なものでなければならない。支払われる賃金を操作するよりは、いっそ労働者に(税制などを介して)金銭を与えるほうがましなことが多い。

(p.260 - 261)

 

 もっと単純な問題として、わかりやすい「善さ」に基づいて「医療や保健に関わっている人は共通善を担っているのだからもっと給料を上げてあげるべきだ」と主張することは、恣意的で不公正なきらいがある。

 たとえばコロナ禍では持続化給付金や家賃支援給付金がセックスワーカー性風俗店に支給されないことは大問題になったし、この仕打ちは公平性や正義という観点から見ても正当化できないだろうが、これはまさしく「医療や保健は"善い"仕事だから特別に支援してあげる必要がある」という発想の裏返しであるだろう。

 また、大阪府アメリカなどで行われた対応はコロナの影響を長引かせたり悪化したりして、医療者に多大な負担をかけている。見方によれば、これは「自由」という特定の「善さ」を行政に持ち込んだことの帰結だ。世界の状況や社会・国家のシステムが複雑になればなるほどコミュニタリアニズムの「共通善」が衰退してリベラリズムの価値中立的なテクノクラシーの影響力が増すことには然るべき理由があるし、それは多くの場合には望ましいことでもあるのだろう。