道徳的動物日記

倫理学、社会科学、時事問題、世相などについて論じます。

拙著『21世紀の道徳』が発売しました

 

 

 

 拙著『21世紀の道徳:学問、功利主義ジェンダー、幸福を考える』都内の書店では昨日から購入できたみたいだけれど、正式な発売日は本日です。ぜひ書店などで購入してください。

 また、講談社現代ビジネス誌にPR記事を掲載しております。

 

gendai.ismedia.jp

 

 

『21世紀の道徳』では、心理学の知見に基づきながら哲学者たちの議論の「審査」をおこなった。

 

心理学の知見から倫理学の議論を審査した結果、『21世紀の道徳』では、規範と価値のそれぞれについて、政治的には相反する立場を支持することになった。規範に関しては、感情よりも理性を優先するリベラルな主張が望ましい

 

昨今ではSNSの影響により、常識に反する議論ばかりを見聞して、幸福になりやすい生き方がわからなくなっている人もいるかもしれない。『21世紀の道徳』のなかでわたしがあえて「保守的」な価値論を説いたのは、そうした若者たちに思想の「解毒剤」を提供するためだ。

 

読書メモ:『道徳の自然誌』

 

 

 

 トマセロの本は7年ほど前に『コミュニケーションの起源を探る』を読んで以来だ*1。『道徳の自然誌』は進化論に基づく道徳心理学の本であるが、たとえばジョナサン・ハイトの『社会はなぜ右と左にわかれるのか』やクリストファー・ボームの『モラルの起源』のような同じジャンルの本と比べると、かなり地味で「堅い」本となっている。そのために読み物としての面白さは少ないが、読者に対するサービス精神が過剰なあまり論旨や立証が粗雑になったりないがしろにされがちなハイトの本と比べると、かなりしっかりしたものだ。……とはいえ、トマセロの本であっても最終的には文化進化論とグループ選択が持ち出されるので、本職の進化心理学者から見たら怪しさや隙が感じられるかもしれない*2

 

 トマセロの議論自体は、一本の筋道が通っていて、わかりやすい。

 まず、人間以前の類人猿であっても「同情」を抱くことはできるし、獲物を狩ったり集団内での地位争いにおいて他の個体と「協力」することもあるが、わたしたち人間にはそれを超えた範囲での道徳が備わっている。

 初期のヒトは、協力するパートナーと自分との「等価性」を認めて、相応性を生じさせて、協力行為に対する共同コミットメントを作り出すことができた、という点で他の類人猿たちとは異なった。トマセロは初期の人が持っていた道徳性を「二人称の道徳性」と呼ぶ。

 

すなわち、共同コミットメントに関わる「わたしたち」として共に協同し、互いに責任を感じる二人称主体の(遠近法的に定義される)「わたし」と「あなた」が、対面でやり取りする際の二者間の道徳性である。この新しい道徳性が存在できるのは、協同事業それ自体の内部だけ、もしくはそうした事業を考慮している場合のみであり、他の生活領域ではありえなかった。このように特殊な協同的文脈の外では、初期ヒトの社会的やり取りもほぼ類人猿と同じようなものだっただろう。

(p.64)

 

 ヒトが二人称の同特性を獲得できたのは、ある種の自己家畜化のおかげとも言える。その背景には、「配偶関係が一対一のつがいへと変化しはじめた」こと、「両親だけでなく非血縁個体も含めて、協同で子育てをするようになった」こと、「ライオンやハイエナを追い払う屍肉漁りをするために、平等主義的な同盟を組むようになった」ことがある。やがてヒトは大型の獲物を狩猟するようになったが、もし狩猟に失敗したら、満足のいく代替品は得られない状況にあった。つまり、協同が強制される、相互依存の状態にあることで、協同を成立させるための二人称道徳性が進化していったのである。

 また、類人猿もヒトも「同情」を抱くことはできるが、ヒトは類人猿のそれとは質的に異なる新たな種類の同情も抱けるようになった。それは、相手に感情移入して、相手の立場にたった視点取得をともなう同情だ(「(アダム・)スミス的共感」とも表現されている)。

 そして、二人称の道徳により、ヒトは「共同志向性」を得て、「共同主体」を構築することができる。

 

共同志向性によって構造化された協同活動は、共同と個人という二重のレベルを備えている。各個人は、相手とともに共同目標を(共同注意の中で)追及する「わたしたち」でもあり、また同時に自分自身の役割と視点を持った個人でもある。こうした共同志向的活動に関わることで、パートナー同士がお互いに、特有の形で心理的に結びつけられる。すなわち、ここで共同主体(joint agent)と呼べるようなものが形成されるのである。暴風雨の中で二人が同じ場所へ避難しようとしている場合、場所を探すことは共同目標ではなく、それぞれが別々に持っている目標でしかない。チンパンジーのサル狩猟もこれと同じである。サルを捕まえるという共同目標があるわけではなく、自身でサルを捕まえようという個人的な目標があるだけである(これは後で獲物を独占しようとすることからも分かる)。対照的に、共同主体が作られるのは、お互いが「わたしたち」として共同で一つの目的に向かって行動しようとし、共通基盤の上で、その目的は両者が意図していることだと両者が共に理解している(お互いが理解しているとそれぞれが理解している)場合である。

 (p.80、文中の出典情報は省略)

 

 ヒトは、「相応しいパートナーに平等な尊敬を示せる、有能な協同パートナー」としての協力的アイデンティティに関する個人的感覚も作り上げていった。さらに、「わたしたち」という共同主体にコミットメントすることで、「〜すべき」という道徳感覚とそれに基づく自制を行うようになり、共同を破る相手に対する制裁の感覚も得るようになった。そして、共同コミットメントを通じて自分を縛り付ける偏りのない基準を内面化するようになったことは、公平正義という概念を生み出して理解することにもつながった。

 ……しかし、二人称の道徳性は現在のわたしたちが得ているような道徳性の前提条件ではあるが十分条件ではなく、原生ヒトは二人称の道徳を発展させた「客観的」な道徳性も備えている、とトマセロは議論をすすめる。

 

現生ヒトにとっての課題は、よく知った相手との相互依存的共同を基盤とした生活から、文化集団における非常に多様な相互依存相手との生活へと移行することだった。認知的に必要とされていたのは、共同志向性だけでなく、集合志向性(collective intentionality)という技術・動機だった。これらの技術が文化伝達という新規かつ強力な技術と一緒になり、さまざまなタイプの慣習的文化習慣が作られ、文化集団の文化的共通基盤の中で共有された。慣習的文化習慣での役割は主体と完全に独立だった。ここでの理想的役割は、われわれの中の誰であれ(すなわち、合理的な人間であれば誰であれ)、集合的成功を促進するのに必要な作業をこなすことである。どこかの時点で、こうした最大限に一般化された理想の基準がその役割(この役割には、その文化で貢献するメンバーであるという全般的な役割も含まれる)を果たすのに「客観的」に正しい(悪い、ではなく)方法として概念化されたのである。慣習的文化習慣に参加するために(それが制度へと形式化された場合も含むが)一番先にやらなければならないのは、この正しい作法にしたがうことだった。慣習的文化習慣や関連する役割の中には、すでに二人称の道徳的態度が取られているような対象に関わるものもあった。すなわち、同情と公平という潜在的問題に関わるものだ。こうした場合、規範的な理想的役割は慣習的な善悪だけでなく、道徳的な善悪をも定めていたのである。

(p.135 - 136)

 

 十五万〜十万年前、ヒトは「部族組織」というそれまでに比べて大規模な集団を成立させるようになった。部族組織(トライブ)はより小規模な複数の「バンド」から構成されており、バンドの人口規模は「ダンバー数」と一致するが、部族全体の人口はダンバー数を遥かに超える。したがって、間違って外集団の野蛮人に近づいてしまったり、集団間競争での敗北したりすることを避けるためには、見知った相手同士との相互依存と団結を超えて、より広い範囲で仲間を認識して結びつくことが必要とされる。そのための方法が、文化習慣を共有するという「類似性」に基づいて、集団内のメンバーを判別することだったのである。これにより、人間は、他の類人猿に比べて、仲間に同調したり仲間を模倣する傾向がきわめて強いという特徴を身に付けるに至った。そして、文化的アイデンティティも獲得するようになったのだ。

 集団内では、「あの場所の大きな樹」といった目印から集団の歴史などについての知識を共有することができ、これによってこれまでよりも遥かに柔軟な協調が可能になる。また、言語をはじめとする共通の文化的基盤があるかどうかでウチとソトとを区別することができるようになった。「身内びいき(集団内びいき)」の傾向も、トライブが成立したことによって身に付けられたようである。

 そして、ヒトは「社会規範」を身に付けるようにもなったのである。

 

競争を協力的なものに変えるのが、社会規範の役割である。この考えと一致するかのように、どの社会でもほぼ普遍的に社会規範が扱っている領域がある。それは、集団の団結と幸福へのもっとも緊急の脅威を含む領域、争いへの強い利己的な動機と傾向性を生み出す領域である。すなわち、食料と性だ。こうして、豊富かつ巨大な獲物が文化集団のメンバーすべてでどう分配されるかは、文化的共通基盤の中で全員が前もって理解している社会規範によって厳密に決まっており、これが効果的にほとんどの争いを防いでいる。同じように、誰と交配できるかできないか(たとえば血縁、子ども、誰か他の親類など)もまた、集団の文化的共通基盤の中で社会規範によって厳密に決定されており、これもまた、集団の効果的な機能を損いかねない潜在的な争いを防いでいる。このように、社会規範は分裂を招きかねない状況で競争を予期し、協力のためにそうした状況でどのように行動すべきかを明らかにしているのである。

(p.156 - 157)

 

 そして、二人称の道徳に比べて、社会的規範はより強制的なものである。

 

 こうして、社会的規範は集団のメンバーに対して不偏的かつ客観的なものとして提示される。原理的にはどのメンバーも文化とその価値を代表する声である。同じく原理的には、どのメンバーも規範の対象となる。規範は主体とは独立に(層や文脈が特定されている場合もあるだろうが)同じような相手すべてに適用されるからである。さらに原理的には、その基準それ自体が「客観的」である。この規範的基準は、規範を強制する側もしくは他の集団メンバーが物事をどう進めてほしいかではなく、どう進めるのが道徳的に良いか悪いかに関わるからだ。主体、対象、基準という以上三種類の一般性によって、「そうするのは間違っている」というように、なぜ規範の強制に教育の時のような包括的側面が見られるのかを説明できる。規範を強制する側は、規範を犯した側の行動が道徳的に誤っていることを確かめさせるため、直接的かつ不偏的に自分自身で検証できる客観的価値の世界に、違反者側を向き合わせる。ジョイスが論じているように、こうした道徳判断の客観化は、そのプロセスの正当性が理解されるために極めて重要である。それは自分自身と他人の道徳的価値を判断するために共通の基準を与え、「共有された正当化構造の中で人々をまとめあげる」からだ。こうして、ペダゴジーによって伝達された文化情報のように、社会規範は個人にとって独立した客観的な存在となり、道徳的違反は特定の相手を傷つけるというよりは、道徳秩序を崩壊させるものとなったのである。

(p.162 - 163)

 

  トマセロによると、文化的アイデンティティとは「社会契約」に関連している。

 

こうした文化的アイデンティティの形成、すなわち他人から物理的に集団メンバーとして認識されるだけでなく、自身を含む集団メンバーからワジリスタン人として認識されることは、現生ヒトの社会契約という偽問題に対する「解決策」の巨大な一部なのである。重要なのは、心理レベルは個人は何も問題視していないという点である(すなわち、問題が見えている人は社会選択で不利となり、次第に人間史から姿を消していく)。それが文化的アイデンティティの一部であるがゆえに、個人は自身が生まれた文化集団のやり方に同調し、他人に同調を求めていったのである。「わたしはワジリスタン人であり、われわれワジリスタン人はこれがわれわれのやり方だと同意している」。彼は自身の文化的アイデンティティのおかげで、社会契約の分担者となっているのである。さらに、すべてのメンバーが同情や敬意のある扱いに相応しい(しかも平等に相応しい)のは、集団の「客観的な」判断である。そして協力に対して十分な理由が与えられるので、社会契約が正当化されるのである。それゆえ、自身の文化的アイデンティティの一部として、わたしは「わたしたち」のやり方に同調し、他人もそうするように努力をし、同集団内メンバーに同情を敬意を示すべきなのである。こうして、社会契約が(「わたしたち」が「わたしたち」のために作り上げた)文化的アイデンティティの一部であり、自身を含むすべてのメンバーが、この契約を守ることでしか相応しい同情と尊敬を同集団内メンバーに与えられないと信じざるをえないからこそ、社会契約は正当化されるのである。

(p.169)

 

 文化を持つ集団のなかでは、道徳的アイデンティティを持つ個人たち同士がそれぞれに関わるのと同時に、文化で共有された社会規範に対する集合的なコミットメントに個人が関わるという二重構造が形成されている。個人は、罪悪感を身に付けて、自分が以前に下した判断や行動について社会規範に照らし合わせて自己反省しながら、道徳的な意思決定をするようになるのだ。それに伴い、分配的正義手続き的正義に対する感覚も身に付けていくようになる。

 

 もちろん、上述したような道徳の「客観性」や社会規範が、倫理学的な意味で正しいとは限らない。たとえば、アパルトヘイトも、過去には関係者たちから道徳的であると見なされる社会規範の体系であった。とはいえ、アパルトヘイトも、「集団に含まれるメンバー」の範囲や「危害」などの定義を巧妙に操作することで、同情や公平や正義に関する感覚をごまかすことで成立していたものであった。

 

また、集団指向的な文化的道徳性の要求と二人称の自然な道徳性の要求が対立し、十分な解決も見られないことが多い。もちろん、根本的に解決困難であるような、異なる(現代国民国家の一部である場合もある)文化集団間での価値の対立も見られる。しかしわれわれが主張したい(あるいは望む)のは、以下の点に関して共通合意に達することで、こうした道徳的ジレンマを解決する手助けになるということである。(一)特定の状況で同情/危害、公平/不公平を構成するものとしないもの、そして(二)誰がわれわれの道徳的コミュニティのメンバーであり、そうでないのかである。これが人類すべてに共有された自然な道徳性の中に、道徳的議論を基礎づけるのである。

(p.203)

 

 要するに、倫理学的や現代の先進国の常識からはとうてい「道徳的」とは考えられない社会であっても、そこに住んでいる当人たちに「この社会に問題はない」と思わせるためには、「危害」や「公平」や「メンバー」の定義について操作することで一定の感覚を満たすことが必要とされる、ということだ。

 そして、あるコミュニティにおける法律だってそのコミュニティのメンバーの道徳感覚にマッチしなければ正統性を得られない。また、宗教は、「メンバー」の定義を拡大してさらに集団を拡げるのに一役買う。

 

 ……ちょっと疲れてきたので(なにしろ堅くて真面目な本なのだ)、トマセロの議論の特徴をまとめてしまおう。

 まず、人間の道徳性の原型である「二人称の道徳」を感覚的な「同情」とは別次元に配置することで、ほかの道徳心理学者に比べても道徳において「意思」の担う役割を重視しているのが、トマセロの主張のポイントだ。このために、人間の進化における原初的なレベルでの道徳が発達した経緯について進化心理学的に語りながらも、それがピアジェなどの発達心理学者が論じるような、現代社会のわたしたちが行うような意思決定やわたしたちが形成する道徳的アイデンティティとそれらに関わる諸々の問題について考える手がかりにもなることが示されている。たとえば「感情」重視派の代表的な論者であるハイトは、道徳の理性的な発達の重要さを強調して文化間で普遍的な意思決定を探究するピアジェやコールバーグの主張に背を向けて、発達とかしようのない素朴な道徳感情とその多様性や文化相対性を強調していた。おそらく、トマセロの議論のほうが、ずっと哲学者好みなものに仕上がっているだろう(擬似的な社会契約という観点から「客観的」な道徳を説明するくだりもかなり哲学風だ)。

 

 また、道徳性に関する進化心理学の議論ではなんらかの形の互恵性から道徳を説明することがスタンダードであるが(血縁選択・間接互恵性・集団選択)、トマセロは、互恵性だけでは個体に利他行動を促す至近メカニズムについて説明できないという問題を指摘する。互恵性の議論は一見するともっともらしいが、「お返し」を貰える保証もないのに最初の利他行動が起こる理由を説明することができず、裏切りのインセンティブの問題も解決できない。そして、トマセロは互恵的な行動が成立するには特定の社会関係が重要であると指摘する。重要なのは互恵性自体ではなくて利他行動や協力行動をして相手の幸福に投資して、相手を生かしたりすることがその行動をした本人にとっても得になるような状況を成立させる、相互依存的社会関係であるのだ(とはいえ、これ自体は人間のほかの類人猿でも成立する条件であり、意思決定ではなく同情によって作動するメカニズムである。ヒトは他の類人猿たちよりも相互依存がさらに深刻で協同が生きていくために不可欠な条件であるからこそ、意思決定による「二人称の道徳」を発達させた、という議論の流れである)。

 

しかし重要なのは、古典的な互恵性とは違い、このモデルでの利他行動はどのような形でも、援助に反応するもしくは影響を受ける受益者(あるいはそうした反応や影響に関する行為者の予想)に依存しない、という点である。受益者は警告発信、交配、同盟形成、狩猟のパートナー選び、あるいは社会集団の中で生活するなど、いつもの作業をこなすだけだろう。それは彼の関心だからであり、いわば副産物として、これが利他行動を行う個体に利益を与えているのである。利他行動をより能動的に、すなわち受益者への投資のようなものとして捉えることもできる。行為者は自身の幸福に貢献するがゆえに、受益者の幸福へ投資するのである。

(p.25)

 

すなわち、行動レベルでの類人猿の互恵的パターンは、暗黙の合意や互恵性の契約などによらず、ましてや公平や平等の判断によるものなどではなく、相互依存に基づき双方向に作用する同情だけに支えられているのである。

(p.38)

 

『道徳の自然誌』のなかで特に参照されている哲学者は、「正義」が成立する上毛について論じたデビッド・ヒュームに社会契約論について語ったジャン・ジャック・ルソー、そして「二人称の道徳」をガッツリ論じたスティーブン・ダーウォルである。それはそれとして、わたしとしてはピアジェやコールバーグのあたりを読みたくなった。

自立の倫理、共同体の倫理、神聖の倫理(『社会はなぜ左と右にわかれるのか』読書メモ③)

 

 

 ハイトは、文化心理学者のリチャード・シュウィーダーによる「三つの倫理」の考え方を紹介している。

 

「自立の倫理」は、「人間は第一に、欲求、ニーズ、嗜好を持つ自立的な個人である」という前提から出発し、「人々は、思い通りにこれらを満たせるようでなければならない。ゆえに社会は、人々がなるべく邪魔をし合わずに平和共存できるよう、権利、自由、正義などの道徳概念を発達させる」と考える。これはまさに、個人主義的な社会の支配的倫理であり、(人間の福祉を向上させる程度に応じて正義と権利に価値を認める)ジョン・スチュアート・ミルピーター・シンガーなどの功利主義者、あるいは(全体的な福祉が損なわれても正義と権利を重視する)カントやコールバーグら義務論者の著作に、その典型を見出せる。

しかし、欧米の世俗社会から一歩足を踏み出すと、別の二つの道徳言語が浸透していることに気づくはずだ。その一つ「共同体の倫理」は、「人間はまず、家族、チーム、軍隊、企業、部族、国家など、より大きな集団のメンバーである」という考えに基づいている。この「より大きな集団」とは、それを構成するメンバーの総和以上の現実的かつ重要な実体であり、ゆえに保護されねばならないものでもある。そのなかで人々は、自分に割り当てられた役割を果たさねばならず、そのために共同体の倫理を擁する多くの社会では、義務、上下関係、敬意、評判、愛国主義などの道徳的な概念が発達する。また、「人々は自分で自分の運命を書き記し、自らの目標に向けて邁進すべき」とする欧米流の主張は利己的で危険であり、社会の紐帯を緩めて、誰もが依拠する制度や組織を必ずや解体してしまう考え方だと見なされる。

「神聖の倫理」は、「人間はそもそも、神聖な魂が一時的に注入された器である」とする考えに基づいている。人は単に意識を備えた動物なのではなく、神の子であり、それ相応に振る舞わなければならない。身体は遊び場ではなく神殿であり、したがって鶏の死骸とセックスしても誰も傷つけず、誰の権利も侵さないとはいえ、そんな行為には及ぶべきではないと考える。なぜなら彼の行為は、自らを貶め、創造主を侮辱し、宇宙の神聖な秩序を乱すからである。かくして神聖の倫理を擁する多くの社会では、神聖、罪、清浄、汚れ、崇高、堕落などの道徳的な概念が発達する。また、世俗的な欧米諸国に浸透している「個人の自由」の概念は、放埒で、快楽主義的であり、動物的な反応を賛美するものとしてとらえられる。

(p. 168 - 170)

 

 欧米を主とする現代社会では個人の行動を罰したり自由を抑圧したりしていいのはミル的な「危害原則」が適用される場合だけであり、モラリズムもパターナリズムも忌避されている。しかしそれはあくまで「自立の倫理」に基づく考え方なのであり、「共同体の倫理」や「神聖の倫理」ではモラリズムやパターナリズムも肯定され得るのだ。

 そして、「アメリカは自立の倫理で動いている」「インドは神聖の倫理で動いている」と割り切れるものではなく、程度差はあれどこの地域にも三つの倫理のいずれもが存在しており、個人はそれを内面化している、というところがポイントだ。アメリカ人であっても自己利益ばかりを主張するとは限らず、コミュニティに気遣いしたり伝統に敬意を払ったりする。また、思慮の浅い消費主義や無分別でだらしのない性的欲望は「自立の倫理」ではまったく否定できるものではないが、それらに対する生理的嫌悪感は多くの人が身につけているのだ。

 当然ながら、「共同体の倫理」や「神聖の倫理」は余所者や少数者に対する抑圧と差別に直結している。共同体の安定を損なったり伝統に変化をもたらしたりする存在は排除すべき存在と見なされるし、同性愛者や一部の障害者などはマジョリティの生理的嫌悪感を引き起こすというだけで人間以下の存在と見なされてしまう。「共同体の倫理」や「神聖の倫理」には平等や基本的人権といった考え方とは相反するところがある点は、ハイトも指摘している通りだ。むしろ、だからこそ、他の二つの倫理と比べてやや不自然な「自立の倫理」こそが現代社会の制度や規範のスタンダードとなるべきである、と論じることもできる。

 ……とはいえ、人々に備わった「道徳感覚」はけっして「自立の倫理」用にチューニングされたものではないこと、理屈や正論がどうであれ「共同体の倫理」や「神聖の倫理」に関連する感覚が多くの人々に備わっていること、それが現代社会における諸々の問題の背景にも存在していること(日本での夫婦別姓反対派とか、アメリカでの中絶反対派とか)は、ゆめゆめ忘れてはならない。倫理や政治に関する議論を勉強して、「自立の倫理」やリベラリズムを頭で理解するだけでなく心の内でも内面化していけばいくほどに、「共同体の倫理」や「神聖の倫理」に基づいて判断している人たちについて理解したり共感したりすることが難しくなり、彼らのことが愚かで邪悪に見えてしまうものだからだ(そして、相手のことを「愚かで邪悪」だと見なしていたら、その相手と議論したり相手を説得したりすることが難しくなるものである)。

 

リベラルが「分裂」する理由(読書メモ:『リベラル再生宣言』)

 

 

 マーク・リラの「アイデンティティリベラリズム」論についてはトランプ当選直後の記事を自分で訳した*1。『リベラル再生宣言』も以前に図書館で借りて読んだことはあるが、メモを取るために、改めて読んでみた。

 ブックレットのように小さくて短い本ではあるが、いわゆる「ポリティカル・コレクトネス」に関する諸々の問題や異常さがうまく指摘されて表現されている。のっけから長文の引用となるが、以下の指摘は、現在の日本にもがっつり当てはまるものだろう。

 

キャンパス内のリベラルが個人のアイデンティティだけに固執するようになると、彼らは理詰めの政治的議論をしたがらなくなる。過去一〇年くらいの間に、断定的で反論を認めないような話し方をする人が増えてきている。「Xの立場で言えば、〜」という言い回しははじめのうちは大学の中だけだったが、やがて主流のマスメディアにもそうした話し方が入り込んだ。Xとして意見を述べるというのは、一見、謙虚なようだが、実はそうではない。Xとして発言すると言えば、聞き手に対し、「私は特権的な立場から発言する」と告げたことになるのだ(たとえば、「ゲイのアジア系の立場で言うと、私はこの問題について判断するには不適任なんじゃないかな」という発言はありえない)。自分の意見に対する疑義を跳ね返す壁を築いているのである。自分の意見に疑義があるのは、すなわち、その人はXという立場にいないということなのだから、聞く必要はないというわけだ。どの立場で話すかは、議論での力関係を決める。道徳的に上であると思われるアイデンティティを使い、また疑問を呈された際に最も激しく怒った者が議論の勝者となるのだ。たとえば教室での議論なら、過去には誰かがまず「私はAだと思う」と言い、その後、互いに自分の意見を言い合う、という流れになったはずである。今はそうではない。Xの立場で意見を言った人は、たとえば誰かがBという意見を言っただけで、それを自分への攻撃だと受け取り、怒り出す。アイデンティティがすべてを決めていると信じているのだとしたら、意見に反論されて怒るのは当然である。アイデンティティを否定されたのと同じだからだ。これでは偏りのない公平な対話の余地はどこにもないことになる。白人の男性には白人の男性の認識があり、それは黒人の女性とは違っている。それに対して何を言えばいいというのか。

他人に意見を変えさせようとするのはタブーにすらなっている。誰もが特権的な立場で話をし、誰も人の話を聞かないキャンパスにいると、宗教に支配された古代世界にような気分にもなる。どの問題についても、それについて話すには、話すのにふさわしいと皆が認めるアイデンティティを持っている必要がある。適切なアイデンティティを持つ者だけがシャーマンのように言葉を発することができる。アイデンティティは古代社会の「トーテム」にも似ているだろう。重要性を持つトーテムはその時々で変わるーー現在ならたとえば「トランスジェンダー」かもしれない。保守の人が議論の場にいれば、即座に見つけ出され、「生贄」のように扱われる。そして排除の儀式を受け、キャンパスから逃げ去ることになるのだ。意見が正しいか誤りかではなく、純粋か不純化が問題にされる。それは意見の内容のみならず、意見を伝える言葉についても同じだ。自分たちが過激であることを知っている左派のアイデンティタリアンたちは、反論を受けた時、それに打ち勝つために、あえて堅物のプロテスタントの女性教師のように振る舞う。相手の発言の中に下品で不穏当な言葉がないかを探し、もし、うっかりそういう言葉が使われていることを発見すれば、ここぞとばかりに叩くのだ。

(p.97 - 98、強調は引用者による)

 

・『IDENTITY』を執筆したフランシス・フクヤマと同じく、マーク・リラも、1960年代以降に文化がどんどん個人主義的なものになっていたことからアメリカ人たちの関心は「私たち」から「私」にへと狭められていった、と指摘している。フクヤマに比べるとリラの議論には思想史的な要素は薄いが、個人の感性とアイデンティティを絶対視する「政治的ロマン主義」に問題の原因を見出すあたりは、フクヤマの議論と近い。また、一九六二年に学生運動の闘士たちが執筆した「ポートヒューロン宣言」に含まれている、「人生の意味」に関する実存主義的なアジテーションについて、「たしかに人を鼓舞する力を持った文章であるかもしれないが、このときに問題になっていたミシシッピ州における参政権と"人生の意味"は何の関係もないし、ここでこの宣言をする意味は不明だ」とツッコミを入れているくだりはジョセフ・ヒースの『反逆の神話』っぽい*2

 

・「個人的なことは政治的なこと」というスローガンはフェミニストだけでなく新左翼も用いていた。そして、このスローガンは「個人的に見えることは、実はすべて政治的であり、生活の中のどの部分も、権力を求める闘争から自由ではいられない」というふうに解釈することもできれば、「私たちが政治的な行動だと考えていることは、実はすべて個人的な行動であり、自分を表現し、自分を規定する行動にすぎない」と解釈することもできる。そして、後者の解釈が普及して活動家たちが「政治的な活動は、個人としての自分のアイデンティティの反映である」と考えるようになったことで、左派の運動は深刻な分裂を抱えるようになった。

 

どの集団も、社会正義の実現と戦争の終結以上のことを政治に求めるようになったのだ。もちろん、社会正義の実現もベトナム戦争終結も求めていたが、それだけではなかったのである。誰もが、自分の心の中の自分と、外側の世界での自分の差を完全に埋めたいと願った。また、そのために、自分たちが個人として理解していること、そして個人的として定義している自分が正しく反映された政治運動を求めた。自分の認識している自分を他人にも認識してもらいたいと望んだ。社会正義運動は、そのような認識を約束しなかったし、実際それをもたらすこともなかった。

(p.83)

 

健全な政党政治が行われている時には、そこに求心的な力がはたらく。複数の派閥があっても、少しの利益の対立があっても、皆が共通の目標、一つの戦略のために力を合わせて動くことができる。多くの人が共通の利益のために考えるし、共通の利益のために、行動しないまでも何か発言をするようになる。ところが政党外の運動が中心の政治では、遠心的な力がはたらくことになってしまう。つまり、関わる人たちが次々に小さな派閥に分裂していってしまうのだ。どの派閥も小さな一つの問題に固執する。どこも形式、イデオロギーの違いにとらわれ、他よりも少しでも優位に立とうと懸命になる。

(……中略……)

新左翼は、民主党の一体化には貢献しなかった。また、アメリカの将来についてのリベラル共有のビジョンを作ることにも貢献していない。関心はゆっくりと、問題ごとの運動から、アイデンティティごとの運動へと移り変わっていった。アメリカのリベラリズムの焦点は、皆の共通点から差異へと移ったのだ。全体を見渡す政治的ビジョンの代わりに現れたのは、擬似政治とでも呼ぶべきものだった。自分自身の姿を認識し、その姿を他人にも認知させるために闘うという、アメリカ独特の論法が広まっていった。結果として生じたものは、レーガンの「個人を優先し、個人の利益を追求する」という反政治的な論法とほとんど差がなかった。ただ、あれほどには感傷的でなく、偽善的でもなかったというだけだ。

(p.84 - 85)

 

『リベラル再生宣言』の冒頭では、アメリカの民主党のウェブサイトには "People(人々) "と題されたリンクのリストが載っていて、女性・アフリカ系・アジア系・ヒスパニック・LGBTネイティブアメリカンなど合計で17のアイデンティティ集団ごとにそれぞれに向けたメッセージを発信するページが用意されているが、「アメリカの将来はこうあるべき」というビジョンを示すページは存在しない、ということが指摘されている(共和党のウェブサイトでは、アメリカが直面する課題とそれに対する共和党の考え方を明らかにした文書が強調されている)。

 

change2021.cdp-japan.jp

 

 日本で立憲民主党が「この国に生きるすべてのあなたへ」のウェブサイトを発表したときには、わたしのTLにも『リベラル再生宣言』のことを言及していた人が何人かいた。けっきょくその後の選挙で立憲民主党はまたもや敗北を喫したことをふまえると、アイデンティティごとに「分割」したメッセージを発信するというのは、そのメッセージがストライクする一部の人にとっては感動的であるかもしれないが、選挙や政治における戦術や戦略としては悪手であるのだろう。

 

・リラやフクヤマ、ヒースにジョナサン・ハイトなど、「アイデンティティ・ポリティクス」を批判する論者はいずれも「共通の文化」または「共通の利益」に基づいてマイノリティを「同化」させて左派を「統合」することが重要である、という旨の主張を論じている。統合や同化という発想そのものが左派のそれとは相反する部分があるとしても、単純な問題として、それをしなければ左派は右派に負け続けて、アメリカがどんどんひどい場所になっていき、結局のところマイノリティは余計に苦しむことになるからだ(これらの論者の誰もが、トランプ政権やそれ以前の共和党政権について批判的であることを忘れてはならない)。

 アイデンティティ・ポリティクスの「原因」については、ハイトやヒースのように「部族主義バイアス」という(進化)心理学的な要素に基づいて説明することもできれば、リラやフクヤマのように「社会の個人主義化」という文化的な要素に基づいて説明することもできるだろう。もちろん、これらの説明は相反するものではなく、社会に生じた文化的な変化が人間の生来の心理を悪化させる環境を作り出した、と論じることもできる。

 

「徳」とアイデンティティ(再読メモ:『IDENTITY:尊厳の欲求と憤りの政治』)

 

 

 

 以前にもこのブログで何度か扱ってきた本なので、簡潔にメモ。

 

・女性が同一賃金を求める理由について「メガロサミア(優越願望)」の観点から説明しているところや、「収入」と「尊厳」はかたく結びついているために、雇用喪失に対する解決策としてのベーシックインカムが実現しても人々が幸福になるとは限らない(仕事によって得られるのは財産だけでなく、社会的に価値のある何かをしているという承認欲求も含まれているから)と指摘している点は、言われてみれば当たり前の話でもあるけれど、おもしろい。メガロサミアが生物学的なものである点を指摘しているあたりは、サンデルの議論よりも優れている。

 

・下記の部分も、安直で耳触りがいいだけな「能力主義批判」とは一線を画すものだ。

 

〔「自尊心と個人の社会的責任を促進するカリフォルニア特別委員会」の報告書に関して〕

 

しかしこの報告書には大きな矛盾が見られ、その矛盾はアイソサミアとメガロサミアの根本的な緊張関係を反映している。報告書では、一人ひとりが創造的で有能な内なる自己を持つと主張されている。価値判断を押しつけるのを避けようと、報告書は自分を他の人と比べるべきではなく、自分はほかの人の基準で判断されるべきではないと報告する。しかし報告書の作成者たちは、たちまち問題に直面する。われわれが祝福する内なる自己は、残酷だったり、暴力的だったり、自己中心的だったり、不誠実だったりするかもしれない。あるいは単純に怠惰で浅はかかもしれない。自尊心があまねく認められる必要があると説いたあと、報告書はその自尊心には「社会的責任」と「他者への尊敬」も含まれていなければならないとして、犯罪が起こるのはそれを欠いているからだと論じる。そして、自尊心の中身として「性格の高潔さ」を重視する。そこに含まれるのは、「誠実さ、思いやり、規律正しさ、勤勉さ、威厳、忍耐力、献身、寛大さ、やさしさ、勇気、感謝の気持ち、気品」といった徳である。しかしだれもがこのような徳を持っているわけではないので、ある人はほかの人よりも尊敬を受けるに値することになる。強姦者や殺人者を高潔な市民と同じように尊ぶことはありえないからだ。

自尊心は具体的な社会ルールに従う個人の力、つまり「徳」を持つ力に基づくというこの見解は、人間の尊厳についてのきわめて伝統的な理解である。しかしだれもが有徳なわけではないので、この理解は、すべての人の本質的価値を認めるべきという報告書の考えと衝突する。これはアイソサミアとメガロサミアのあいだに内在する緊張関係を示してもいる。メガロサミアは、野心的な人間のうぬぼれをただ反映しただけでのものではなく、高潔な人間が当然の成り行きとして持つものでもあるなかには、ほかの人よりも価値が低いとみなされなければいけない者がいる。実際、他の人に対して悪いことをしたときに恥を感じられなければ、つまり自尊心を低めることができなければ、他者への責任を引き受けることはできない。それでも特別委員会の報告書では、箇条書きでふたつの相反することが続けて勧められている。州の教育制度は「教化ではなく解放に力を尽くす」のと同時に「責任感ある性格と価値観を促進する」べきだというのである。リベラル派の委員が包摂性を広げようとする一方で、強硬な保守派の委員はそれが社会秩序に与える影響に懸念を示し、今度はリベラル派が「自尊心を高めるには一方的な判断を押しつけてはいけない」と反論する、そんなやり取りが聞こえてきそうだ。

(p.135-137、強調は引用者による)

 

・本書におけるフクヤマの結論は、「アメリカはプロテスタント的な労働倫理や徳の理念に基づくナショナル・アイデンティティに基づいて、ふたたび国民を統合すべきである」といったものだ。これ自体は、アイデンティティ・ポリティクスに対する処方箋としてはスタンダードなものであり、「共通善」に基づく統合を主張するサンデルもほとんど同じような議論をしていると言える。しかし、能力主義を批判するがゆえに「徳」については言及せず、またプロテスタント的な労働倫理がメリトクラシーをもたらす可能性を警戒するサンデルの議論に比べると、「徳」が含む選良主義や排他性を指摘しながらもそれでも「徳」の必要性を強調するフクヤマは、より現実的で正直な主張をしているように思えるのだ。

 

マズロー的な「自己実現」を称賛する文化と宗教の衰退が相まって「セラピー的な道徳」が生まれて、「社会」や「他者」を抜きにして「自分」のことばかりを考えるナルシシズム的な幸福感が蔓延したこと、ファシズムにせよマイノリティによる大学カリキュラムの書き換え運動にせよこの種のナルシシズムが背景に存在する……という議論は、やや説教くさく保守的ではあるが、覚えておくに値する。まったく別の切り口からマズロー的な幸福の「自己中心性」を指摘したダグラス・ケンリックの『野蛮な進化心理学』とも共鳴するところがあるかもしれない。

 

・「(労働者として階級的利益に基づいて)目覚めよ、団結せよ」というメッセージは、宗教や民族主義ナショナリズムに「誤配」されがちである、という議論。これはもちろんポピュリズムに当てはまるだろう。貧困であることの苦痛は、経済的なものというよりも他者との比較で生じる屈辱などの実存的なものであるところのほうが大きい、というのがその理由だ(宗教や民族主義は実存的な苦痛から救ってくれるのだ)。

 

・「生きられた経験」への着目がアイデンティティの分裂につながった、という点も覚えておきたい。

 

フクヤマは、師匠であるハンティントンとはちがい、移民でってもアメリカの理念やプロテスタント的な労働倫理に共鳴して同化することはできるし、不法移民であっても(奉仕活動を義務付けてほかの市民たちの反発を抑えることなどは必要とされるが)帰化させてアメリカの市民として包含することが重要である、と説いている。

生物学者に「道徳」は語れるか?(『社会はなぜ左と右にわかれるのか』+『社会はどう進化するのか』読書メモ)

 

 

 

〔ジョシュア・グリーンによる「カントの魂の密かなジョーク」論文に関して〕

これは統合知の格好の例である。ウィルソンは一九七五年に、「倫理学はすぐに<生物化>され、脳における<情動センター>の活動を解釈するものとして再構築されるだろう」と予言したが、この考えは、当時の支配的な見方に真っ向から逆らうものだった。何しろコールバーグらの心理学者によって、倫理学の中心は情動ではなく嗜好であるとされていた頃のことだ。当時の政治的な風潮は、進化思考が、人間の行動を探求するための妥当な方法だとあえて示唆するウィルソンのような人物に対し、きわめて辛辣だった。

しかし、それから三十三年後にグリーンの論文が執筆される頃には、すべてが変わっていた。多くの研究分野の科学者は、情動を含めた無意識的なプロセスの力と能力を認識するようになり、進化心理学は、すべての学問領域においてとまでは言わずとも、少なくとも道徳研究の学際的なコミュニティでは尊重されるようになった。そして、ウィルソンが一九七五年に予言した「新たな総合」は、最近になって現実のものになりつつある。

(ハイト、p.122)

 

 上記はエドワード・ウィルソンに関する文章。そして、『社会はなぜ左と右にわかれるのか』の後半でハイトが「新たな総合(Consilience)」の一例として挙げているのが、マルチレベル淘汰説を提唱した進化心理学者デイビッド・スローン・ウィルソンによる諸々の業績だ。

 

 

 

 

 ウィルソンの主張の一部を、抜き出して引用してみよう。

 

…調和や秩序は、高次の選択が低次の選択を抑えられた場合にのみ期待できる。…(中略)…グループ内では、私たちが悪に結びつけている特徴が、善に結びつけている特徴に勝利する。それに対抗するグループ間選択の力は、そのような状況を大逆転できるほど強力ではない。…

…しかし、…(中略)…グループ間の選択の圧力がグループ内選択の圧力にまさり、私たちが善に結びつけている特徴が選好される場合があるのだ。社会的生物の多くは、グループ内選択によって個体群内で維持される特徴と、グループ間選択によって維持される特徴という両タイプの特徴が混合したモザイクを形成している。とはいえ両タイプの選択のバランスは一定ではなく、それ自体が進化し得る。まれには、破壊的形態のグループ内選択の圧力を大幅にそぎ、グループ間選択を、その生物のほとんどの特徴を生み出す主たる進化的力に仕立てるメカニズムが進化することがある。すると奇跡が起こる。非常に協調的なグループが進化し、それ自体が高次のレベルの有機体へと変容を遂げていくのだ。

この変容は、進化における主要な移行と呼ばれている。

(ウィルソン、P.121 - 122、強調は引用者による)

 

 ウィルソンが「グループ進化」によって引き起こされた「主要な移行」の例として挙げているのが、最初の細菌細胞の進化、多細胞生物の進化、昆虫のコロニーの進化などだ。

 

どのケースでも高次の組織は、内部からの破壊的な選択圧力を抑制することで生物としての特徴を進化させている。生命の起源それ自体でさえ、同様に協調的に相互作用する多数の分子から成るグループとして説明できるかもしれない。

(ウィルソン、p.123)

 

 そして、主要な移行の最新の事例としてウィルソンが挙げるのが、わたしたちホモ・サピエンスだ。

 

私たちは、進化における主要な移行の最新の事例なのである。人類を他の霊長類から分かつほぼすべての能力は、グループ間選択によって進化した協調形態として説明できる。人間における協調の進化は、グループ内選択の破壊的な力を抑える能力に大きく依拠している。ほとんどの霊長類の社会では、グループのメンバーはある程度までは協力的だが、それと同時にグループ内の争いに明け暮れている。しかもたとえ協力関係が見られたとしても、それは同じグループ内の別の仲間集団と争う仲間集団という形態をとることが多い。現時点での最善の知識に基づいて言えば、多細胞生物ががん細胞を抑制する手段を進化させたのと同様、私たちの遠い祖先はチームワークが生存と繁殖のための第一の手段になるべく、弱い者いじめなどの、グループ内の利己的で破壊的な行動を抑制する能力を進化させたのである。

ここで道徳の問題が戻ってくる。…

(ウィルソン、p. 125 - 126)

 

 ウィルソンは、倫理学者のサイモン・ブラックバーンに対して進化論と道徳の関係についてインタビューしたことに触れながら、以下のように述べる。

 

この、〔ブラックバーンによる〕進化への言及のない道徳の定義はまさに、進化における主要な移行に由来すると考えられるシステムに言及している。私たちの道徳心理は、多細胞生物におけるがんを抑制するメカニズムと同等の社会的構築物なのである。道徳の強制的な側面は、グループ内の自己利益を追求する破壊的な行動を抑制するために必要になる。ひとたび抑制的な側面が確立されれば、他者につけこまれる恐れを抱くことなく、グループのメンバー同士が自由に助け合うことができるようになる。

ブラックバーンは、既存の道徳の理解と、進化論の観点から見た道徳の理解の一致を見逃していない。インタビューの残りでは、進化論の観点から見た、人間の道徳性に関するより堅実な研究から得られる洞察について検討した。私たちの持つ道徳的な力と弱さの奇妙な混合、善悪をめぐる直感的な理解、有徳な行動と他人を騙そうとする衝動、他者による規則の審判を監視し罰しようとする熱意、有徳な行動の対象を「彼ら」を除外して「私たち」に限定しようとする傾向について、ここまで切り込んだ理論は他にない。正しい理論のレンズを通して善の問題を見れば見るほど、それだけ現代という時代に適応した道徳的な共同体を築くことができるようになるだろう。

(ウィルソン、p. 126 - 127)

 

 さて、ハイトやウィルソンが支持するような「マルチレベル淘汰理論」やその前段階の「グループ淘汰理論」は、進化生物学者のあいだでは多数派からの支持を受けているわけではなく、むしろ異端に位置する理論だ。そのことは『社会はどう進化するのか』の訳者あとがきでも留意されている(そして、賢明にも、訳者は「自分は専門家ではないから是非の判断はしない」と述べている)。

 インターネットと進化心理学の両方が好きな人であれば、id:shorebied氏のブログ「進化心理学中心の書評など」は読んでいることであろう。そして、10年近く前から、氏のブログではグループ淘汰やマルチレベル淘汰をめぐる英語圏の論争について、紹介されている。

 

shorebird.hatenablog.com

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 わたしとしては、2013年頃に『社会はなぜ左と右にわかれるのか』の原書を読んだ当時としては、「よくわかんないけれど、グループ淘汰とかマルチレベル淘汰とかも、あってもおかしくないんじゃないの」と思っていた。そして、実のところ、進化論についてはいまだに「よくわかんない」ままだ(だってわたしは文系だし、数学と統計学はさっぱりわかんないし、だけれど本格的な進化論や生物学や心理学の議論では数式とか統計とかがいっぱい出てくるらしいし)。

 とはいえ、進化論に関する本や、経済学や倫理学などのなにかしらのかたちで「合理性」について扱った本をいろいろと読んできた経験をふまえて、改めて『社会はなぜ左と右にわかれるのか』を再読したり『社会はどう進化するのか』を読んだりしてみると、たしかに、彼らの議論は怪しいものだと思えるようになってきた。

 素人目から見ても、ハイトやウィルソンの議論は駆け足気味であり、段階を踏まえていない。スティーブン・ピンカーが批判しているように、「個人間の淘汰(グループ内淘汰)」でも説明できそうな現象や特徴に対して、無理くりに「グループ間淘汰」で説明を与えているものだと感じられるのだ。つまり、既存のスタンダードな理論の限界や矛盾を充分に指摘して論駁できていないうちに、新しい理論を打ち立てようとしている。一般論として、このような議論には警戒するべきだ。また、ジェリー・コインによる「グループ淘汰はスピリチュアリティと親和性が高くて世間ウケもいい"道徳的"な理論だから提唱したがっているんだろ」という(対人論証的な)批判にも、共感できなくはない。

 ピンカーによる以下の批判にも、わたしは同意する。

 

ピンカーはここで「新しいグループ淘汰」主唱者たちが「善」・「徳」を「グループのための自己犠牲」と定義する傾向にあることを思いっきり皮肉っている.もしそうなら「ファシズム」こそ至高の善であり,「人権」は最低の利己主義になるではないかということだ.ピンカーは彼等は簡単な可能性を見逃しているのではないかと主張する.「善」は「属するグループのための自己犠牲」ではなく.「他人に優しくすること」と考えればいいだけではないかというのだ.

Steven Pinkerによるグループ淘汰理論へのコメント「The False Allure of Group Selection」 - shorebird 進化心理学中心の書評など

 

 ニコラス・クリスタキスによる『ブループリント:「よい未来」を築くための進化論と人類史』ではマルチレベル淘汰やグループ淘汰が直接的に扱われているわけではなかったが、あちらでも、倫理学的な前提や議論の手順などをすっ飛ばして、生物学的な「社会性」や「集団志向」を「善」と直結させる自然主義的誤謬が犯されていた*1

『社会はなぜ左と右にわかれるのか』や『社会はどう進化するのか』が出版された2010年代より遥か前には「社会生物学論争」があり、生物学的な社会性を道徳と直結させる発想も、社会生物学論争の主要登場人物であるエドワード・ウィルソンに端を発している。そして、ウィルソンの議論の問題点は、1981年の時点で、倫理学者のピーター・シンガーの著書『輪の拡大』によって喝破されていた*2。しかし、2010年代にデイビッド・スローン・ウィルソンやクリスタキスが行なっている議論には、エドワード・ウィルソンの主張に含まれていた問題点がほとんどそっくりそのまま残っているのである(また、エドワード・ウィルソン自身も、現在でも「生物学と人文学を統合したConsilience」を提唱しているようだ)。倫理学の分野ではシンガー以降にも「進化倫理学」が発展して、進化論が倫理学についてどのような含意を持つか、進化によって倫理は語れるか否かといった論点についてのハイレベルな議論が展開されている*3。しかし、両ウィルソンのような生物学者やクリスタキスのような人類学者は、進化倫理学の議論をフォローできていない可能性が高い。

 さいきんは批判されることも多いピンカーだが、『暴力の人類史』のなかで『輪の拡大』の議論を手に入れて、生物学や進化心理学の領分と倫理学やその他の人文学の領分との境目をきっちり理解できているところはやはり慧眼であり、センスが優れていると思う*4

 

『しあわせ仮説』などで(とくに古代ギリシャの)哲学の議論をおおいに参照しているハイトも、『社会はなぜ左と右にわかれるのか』でベンサムやカントなどのビッグネーム倫理学者たちのことを批判的に取り扱っているが、規範と記述の違いを明確にして規範についての判断は自分の専門ではないという断りをいれたうえで、「道徳」に関する記述的な定義を与えたり「デュルケーム功利主義」というオリジナルな規範論を提唱したりしている。わたしはハイトの議論にはもう同意できないところも多いが、倫理や道徳に関して議論するときのハイトの手付きは、ウィルソンやクリスタキスのそれに比べてずっと丁寧だ。このあたりには、動物ではなく人間を研究対象にする心理学者であるピンカーやハイトが、なんだかんだいいながら哲学に精通しており人文学を尊重してもいることがあらわれているだろう。

 

『社会はどう進化するのか』については、たとえば社会科学者のエリノア・オストロムによる「共有地の悲劇」を回避するための「八つの中核設計原理」について、「この設計原理がなぜ有効に機能するかは、マルチレベル選択理論によって説明できる」という主張がなされるんだけれど、「だからどうした?」という感じ。

 本の後半では「これからの社会を良くするための、マルチレベル選択理論に基づいた提言」みたいなものがなされるんだけれど、もう社会科学や心理学などの領域で散々なされている提言と似たり寄ったりな内容で、わざわざ「マルチレベル選択理論に基づいて」提言する意味がほとんど感じられない。

 「ホモ・エコノミクス」で「ブランク・スレート」的な人間像は事実に則していないから、生物学の知見でアップデートされた人間像に基づいて規則や政策を考慮しましょうね……程度の物言いならわたしも同意できるのだが、そんなもんピンカーなり行動経済学者学者なりがずっと前から言っていることだ。

 道徳が「部族主義」に陥りがちであることに気をつけるべきだ、というハイトの警告は盲点をついているところがあり、有益なものであると思う。……だが、それ以上の複雑なポイントに関するウィルソンの主張は、どうにも上滑りしていて地に足がついていない。けっきょく、生物学者に「道徳」を語るのは難しいということなのだろう。

*1:

davitrice.hatenadiary.jp

さらに、著者には「人間性」を「社会性」に還元して、さらにそれと「善」を早急に直結させたがる、という悪癖があるようだ。そのために、内集団バイアスについても「みんなが思っているほど危ないものではない」とばかりに論じられていて、なかなか危うい(たとえば、わたしたちに「友を愛し、敵を憎む傾向がある」ことよりも「私たちは友好的であり、親切であり…他人と協力し、互いに教え、教わることができる」という点に注目しよう、という主張がなされているのだが(p.109)、いやいや昨今の情勢で「敵を憎む傾向」が引き起こす問題点を無視することは無理でしょう)。

*2:

econ101.jp

*3:

davitrice.hatenadiary.jp

図書館で借りたやつだけど、きちんと読み直したいから買ってくれたら嬉しい

*4:ちなみに、「社会性」ではなく「他人に優しくすること」という意味での、(ピンカー的な定義における)道徳の進化を扱った最近の本としては、下記のようなものがあるらしい。

 

 

ぜひわたしに買って欲しい。

デュルーケム流功利主義とダーウィン左翼(『社会はなぜ左と右にわかれるのか』読書メモ②)

 

 

 

 前回の記事ではジョナサン・ハイトによる「道徳基盤理論」をかなりディスって、『社会はなぜ左と右にわかれるのか』という本自体についても辛めの評価をしてしまっていたけれど、読み返していて「再発見」したところも、もちろんある。

 この本の中盤からでは、社会学者のエミール・デュルケームの名前がたびたび出てくる。『社会はなぜ左と右にわかれるのか』は三部構成となっており、第一部では「理性は直感を正当化するために使われる」ということ、第二部では「道徳の感覚は多様である」ということ、第三部では「人間には集団主義的な本能がある」ということが、それぞれ論じられる。そして、ハイトは、第二部と第三部のどちらでもデュルケームの議論を持ち出すのだ。

 

 まず、「ケア」と「公正」(と「自由」)しか重視しないリベラルによる「狭い」道徳観をJ・S・ミルに、六つの道徳基盤のすべてに目を配る保守の「広い」道徳観との対比をデュルケームに代表させることで、ハイトは二つの道徳観を対比させて描く。

 

まず社会を、相互利益のために結ばれた社会契約として考えてみよう。社会のすべての構成員は平等であり、誰もが可能な限り自由に移動し、才能を開花させ、望み通りの人間関係を築けなければならない。契約社会の守護聖人とも言える人物はジョン・スチュアート・ミルで、彼は(『自由論』で)「文明社会のいかなる構成員に対しても、彼の意思に反して権力を行使しても正当と見なせる唯一の目的は、他の構成員に及ぶ危害の防止である」と述べている。ミルの見方は、多くのリベラルとリバタリアンに訴える。ミルの理想とする社会は、さまざまな人々が、互いの権利を尊重し、(オバマの求める「統合」のように)自由意志に従って協力関係を結びながら、助けの必要な人を支援し、社会の利益のために法を改善する、平和で創造的な開かれた場所なのである。

(p.262 - 263)

 

さて今度は、社会を、構成員間の同意としてではなく、人々が共に暮らし、協力関係を結び、互いの私利私欲を抑え、また、グループの協力関係を破壊し続ける異常者やフリーライダーを罰するための手段を発見するにつれ、時間の経過に従って組織的に形成されていくものと考えてみよう。この場合、個人ではなく、階層的に構造化された家族が社会の基礎単位をなし、他の制度のモデルになる。このような社会では、各人は、自立を根本から制限する、強力で制約的な関係の網の目のなかに生まれてくる。結束を重視する、この道徳システムの守護聖人とでも言うべき社会学エミール・デュルケームは、アノミー(無規律な状態)の危険について警告し、一八九七年に「自らが所属すべき上位の実体を何ら認めない人は、高い目標を持つことも、規則に服することもできない。すべての社会的な圧力からわが身を解放することは、自己の責任を放棄し、道徳的に堕落することに等しい」と書いている。デュルケームが理想とする社会は、自由に振る舞わせると浅はかな肉体的快楽に溺れてしまいがちな個人を社会化し、作り変え、ケアする、互いに包含したり一部が重なったりする多数の集団から構成される、安定したネットワークを築き上げる。また、自己表現より自制を、権利より義務を、そして外部の人間に対する関心より自集団への忠誠を重視する。

(p. 263 - 264)

 

 ハイトは、デュルケーム的な社会は階層的・懲罰的・宗教的であり、男女の役割を含めて伝統的な考え方を擁護する、とも論じている。要するに、かなり保守的な社会だということだ。当然のことながら、リベラルはこのような社会を嫌悪する(わたしだってイヤだ)。

 とはいえ、ジョセフ・ヒースの『啓蒙思想2.0』や諸々の進化心理学の議論を読んだ後では、ミル的な社会が想定している人間像はあまりにも理性的で自律的であり、現実とかけ離れている、ということも理解できる。ヒースが述べるように、人間とは外部の環境が整ってはじめて理性を行使できる存在であり、パターナリズムや諸々の保守的で抑圧的な社会制度は、人間が人間らしく生きるためにはむしろ欠かせないものだ*1。人々の間に起こるトラブルを防ぎながら、人々が積極的自由を経験して幸福感や充足が得られる社会とするためには、「危害原則」だけでは不充分である。多少(あるいは、かなり)の抑圧を受けたり自由を侵害されたり義務を負わされたりすることは、ある意味では、人間の条件とも言えるのだ。

 そして、デュルケームといえばマックス・ウェーバーとともに「社会学の開祖」と言われる存在であり、社会学者のロバート・ベラーが『善い社会』でおこなった議論や同じくロバート・パットナムが諸々の本で展開している社会関係資本についての議論も、多かれ少なかれデュルケーム的なものだ(最近だと忘れられがちだけれど、社会学って、けっこう保守的な議論を展開することもある学問なのである)。ミルの議論がいまでも尊重されており権威を持っているのと同じように、デュルケームの議論にも権威がある。そして、リベラルな人たちの価値観がミルと共鳴するのと同じように、保守の人たちの価値観がデュルケームと共鳴するのであれば、保守の人たちを「病理」として扱って切り捨てるのは間違っているのだ。

 

 話がややずれるが、『社会はなぜ左と右にわかれるのか』のなかで、ハイトは自身が学生であったときには大学教授や大学院生はリベラルな価値観を身に付けていることが当たり前に過ぎて、道徳心理学においても、道徳の発達に関する研究は「子どもはどのようにして正しい道徳観(=リベラリズム、カント的な理性に基づく義務論)を発達させるか」という観点からしか、そして保守の道徳観については「なぜ保守の人々は誤った道徳観を身に付けてしまったのか(変化に対する恐れ、自己の存在に対する不安、単純な世界観への固執、両親の厳格な教育などが原因とされる)」という観点からしか言及されていなかった。自分たちのリベラルな価値観を普遍的なスタンダードと見なしていたために、リベラルな志向を保守的な思考と並置して研究する発想や、リベラリズム以外のかたちで道徳感が発達していく可能性について考えていなかったのである。

 現在でも、TwitterなどのSNSでリベラルな学者たちからポロッと漏れる「本音」では、彼や彼女が保守的な価値観や志向を「病理」や「欠落」と見なしたがっていることが露呈している場合が多い(とはいえ、保守の人たちにも、リベラリズムに対して「病理」や「欠落」のレッテルを積極的に貼りに行っている傾向は見受けられるのだけれど)。このような偏りやバイアスに対して果敢に反論している点は、『社会はなぜ左と右にわかれるのか』の明確な美徳である。

 

 さて、デュルケーム「ホモ・デュプレックス」という考え方を提唱しており、ハイトは「ミツバチスイッチ」仮説を論じる第三部でデュルケームのことを強調している。

 

デュルケームは、個人の事実には還元できない「社会的な事実」が存在すると主張している。愛国主義や自殺率などの社会的な事実は、人々の交わりを通して生じる。それは(心理学の対象たる)個人の心理と同様に現実的なものであり、(社会学の)研究対象として大きな意味を有する。マルチレベル選択と「主要な移行」の理論はデュルケームには知るよしもなかったが、彼の社会学はこれらの理論に不思議なくらい一致する。

デュルケームは、個人の心理と二者間の関係のみに基づいて、道徳や宗教を説明しようとするフロイトらの同時代人をたびたび批判している(「神は単なる理想の父親像だ」とフロイトは言った)。それに対して彼は「ホモ・サピエンスはホモ・デュプレックス、つまり個人と、より大きな社会の一部という二つのレベルで存在する生き物だ」と主張する。そして宗教の研究を通して、人は、これら二つのレベルのそれぞれに関して、まったく別の「社会感情」のセットを備えていると結論する。第一のセットは、「個人を仲間の市民に結びつけるもので、共同体における日常の関係のなかで発言する。それには、互いに対して感じる名誉、尊敬、愛情、恐れの感情などがある」。これらの感情は個人レベルで作用する自然選択によって簡単に説明できる。ダーウィンが述べるように、人はそれらを欠く者をパートナーに選ぼうとはしない。

しかしデュルケームは、「人々は、それとは別の一連の情動を経験する能力を持っている」とも言う。

 

第二のセットは、自己を社会全体に結びつけるもので、社会同士の関係のなかで発現し、ゆえに「社会間のもの」と呼べる。第一のセットは、個人の自立と人格にほとんど影響を及ぼさない。それは確かに自己を他者に結びつけるが、自己は独立性を大して失うわけではない。しかし第二のセットに影響を受けて行動する場合には、自己はまったく全体の一部になり、その行動に従い、その影響に身を委ねる。

 

(現実世界の)集団が「社会間の関係」に対処することを手助けする、新たな一連の社会感情が存在すると示唆し、マルチレベル選択の論理に訴えるデュルケームには驚嘆の念を禁じ得ない。これら第二レベルの感情は、ミツバチスイッチをオンにして自己をシャットダウンし、集団志向性を活性化する。かくしてその人は「まったく全体の一部」になるのだ。

(p.349 - 350)

 

 デュルケームが言うところの「第二レベルの感情」のなかでもハイトが特に重要とみなすのが、集団的な儀式によって引き起こされる「集合的沸騰」だ。また、熱狂的な踊り・自然に対する畏敬・メキシコの先住民が使用していた幻覚剤・ロックコンサートにおける「レイブ」などである。これらはいずれも「一から全につながる」的な感覚を生じさせる、とハイトは述べる。……とはいえ、自然に対する畏敬は社会的な感情とは別のものであるような気がするし、幻覚や興奮の感覚が個人と社会との結びつきにどれだけ貢献しているかも怪しいもので、ハイトによる「ミツバチスイッチ」論には全体的に「ほんまかいな」という疑いがつきまとう。集団への帰属の感覚にせよ部族主義にせよ、もっとじわじわしたものだとわたしは思うのだ。

 また、ミツバチスイッチの適応的な役割や起源についてミラーニューロンや集団淘汰の理論を持ち出して説明しているところもじつに胡散臭くて、このあたりはハイトがほかの進化心理学者から批判されたり軽んじられたりする原因にもなっている。以下の箇所だって、「集団間の競争」を抜きにしても説明できるものじゃないかと思う。

 

人間が有する二重の本性には集団志向性が含まれるということをひとたび理解できたなら、なぜ幸福はあいだからやってくるのかがわかるはずだ。私たちは集団を形成して生きるように進化してきた。私たちの心は、集団内ばかりでなく、集団間の競争に勝つために、自グループの他のメンバーと団結できるように設計されているのだ。

(p.378)

 

 そして、『社会はなぜ左と右にわかれるのか』の終盤でハイトが展開するのが、「デュルーケム流功利主義だ。

 

…ジェレミーベンサム以来、功利主義者は意図的に個人に焦点を絞り、各人の欲するものを提供することで社会福祉の改善に努めてきた。それに対し、デュルケーム流の功利主義は、人類の繁栄には、社会秩序と帰属が必要とされるという点を認めている。それは「社会秩序は途方もなく貴重であり、その達成は困難である」という前提から出発し、「健全な社会では、人々を結びつける道徳基盤、すなわち<忠誠><権威><神聖>の三つの基盤が大きな役割を果たす」という可能性を受け入れる。

個人の生活に適用するには、規範倫理のどの理論が最適かという点については、私には何とも言えない。だが、民族的、道徳的な多様性をある程度抱えた欧米の民主社会における法の制定や公共政策の実施を考えるにあたっては、功利主義以外に説得的な見方はないと思う。法や公共政策は、最大の善の実現をおおよその目標にすべき、と主張するジェレミーベンサムは正しい。とはいえ、私たち皆に、そして立法者に最大の善を実現する方法を講釈する前に、まずベンサムデュルケームを読んで、私たちがホモ・デュプレックスであることを認識しておくべきだった〔デュルケームベンサムの死後に生まれており、著者の空想的な願望である〕。

(p.419)

 

 言わせてもらうと、ハイトは「デュルケーム功利主義」を論じる前にピーター・シンガーの「ダーウィン左翼論」について目を通すべきだった*2。ハイトに言われずとも、功利主義者であれば、進化心理学社会学などの知見が蓄積されて「人間の幸福には社会秩序や集団への帰属が影響する」と判明したら、その知見に基づきながら「最大多数の最大幸福」を実現するための諸々の方策を検討することだろう。まず「最大多数の最大幸福」というゴールが明確に決まっているがゆえに、「幸福」に関する知見がどう変わったところで柔軟に対応できること、つまり手段にとらわれず目的に目を向けつづけられることこそが、ほかの倫理学理論にはない功利主義の強みであるからだ。実際、ヒースが『啓蒙思想2.0』で展開している議論も「ダーウィン左翼」論や「デュルケーム功利主義」論の具体的な実践バージョンであるといえる。

 その一方で、ハイトが『社会はなぜ左と右にわかれるのか』の前半でちらっと触れているように、「忠誠」「権威」「神聖」を重視するような伝統的・権威主義的・保守的(でデュルケーム的)な社会では、マイノリティに対する差別や抑圧が恒常的に発生する、ということもやはり見逃してはならない。グリーンやシンガーをはじめとして功利主義者たちが結局は「社会はリベラルであるべきだ」という主張をするのは、デュルケーム的な社会はマジョリティに対してそれなりの幸福を提供する一方で少数者に対してはかなりの苦痛を生じさせることになるからだ(多くの場合、苦痛の回避は幸福の獲得以上に重要なことである)。

 そして、いまよりもマイノリティに対する抑圧がさらに深刻であった時代に生きていたミルやベンサムなら、仮にデュルケームの議論を読んだとしても、やはりリベラルな社会を追い求めたことだろう。伝統的な社会で生じるマイノリティに対する苦痛を発見して、だれよりも先に女性や動物の「権利」を擁護したことこそが、功利主義の大いなる歴史的意義の一つであることを失念してはいけないのだ*3

*1:

 

davitrice.hatenadiary.jp

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*2:

s-scrap.com

数年前にTwitterでハイトがシンガーの「ダーウィン左翼論」を目にして「これなら同意できる」と呟いているのを目にしたことがあるから、遡及的に、『社会はなぜ左と右にわかれるのか』の執筆時点では「ダーウィン左翼論」の存在を知らなかったことがうかがえる

*3:

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