道徳的動物日記

倫理学、社会科学、時事問題、世相などについて論じます。

アファーマティブ・アクションとクオータ制が支持されない理由

 

 

 

 

 前回に引き続き、先日から、社会心理学者ジョナサン・ハイトと憲法学者グレッグ・ルキアノフの共著、『アメリカン・マインドの甘やかし:善い意図と悪い理念は、いかにしてひとつの世代を台無しにしているか』で行われている議論を紹介。

 

 この本の第11章「正義の探求」では、2010年代のアメリカは「ウォール街を占拠せよ」運動から始まって#MeToo運動やLGBT運動、そしてブラック・ライヴズ・マター運動と、社会正義を求める運動がこれまでの時代に比べてずっと盛んになっていることが指摘されている。その背景には、2010年代という時代ならではの特徴があるのだが……この点に関するルキアノフとハイトの分析はこんど別のところで紹介する予定なので、ここではヒミツ。

 今回は、『アメリカン・マインドの甘やかし』の11章のなかでも後半部分、人間の直感や道徳感覚と社会正義運動との関係について述べられた部分を紹介しよう。

 

 正義に対して人間が持つ直感は、「分配的正義」に関するものと「手続的正義」に関するものに分けられる。

 分配的正義の直感とは、「人々はそれぞれが払った労力や努力に応じた報酬を手に入れるべきだ」というものだ。頑張って成果を出している人は報いられるべきであり、努力せず成果も出していない人たちは他の人たちと同じだけの報酬を手に入れるべきではない、という直感は、子どもでも身に付けている。

 この直感は自分自身にも向けられるのであり、たとえば給料が過剰に多く支払われてしまったら「その給料に見合うだけの努力をしなきゃ」と頑張ってしまうのが、人間というものなのだ。また、労力を払っているのに充分な報酬が得られていない人がいれば、その人が正当な報酬を得ることを、自分が余分な報酬を得ることよりも優先する。そして、この直感が「不当に得している」と見なされる人に対して向けられたときには、その相手に対して強い反発が抱かれてしまうことになる。

 手続的正義の直感とは、「物事が決定されるときには客観的で中立的に判断されるべきであり、関わる全ての人間のことが平等に扱われるべきだ」というものだ。意思決定をする人がその決定で影響を受ける可能性のある人々のことみんなについて考慮しているのか、すべての人々に発言権が保証されているのか、すべての人々が尊厳を持って扱われているのか……このようなことを気にかけて平等を重んじる発想は、近代の人権思想の産物であるとは限らず、古来から人間に備わっているのだ。

 たとえば「警察」に対する市民の態度は、手続き的正義の直感に大きく左右される。「警察はすべての市民に対して平等に接している」と市民たちが信じられれば彼らは警察に対して協力的になるが、「警察は特定の属性の市民を不当に扱っている」と思われてしまったら、その"特定の属性"に当てはまらない市民も警察に対して非協力的になるのだ。

 つまり、人間の直感は必ずしも利己的であったり独善的であったりするのではない。自分だけでなく他人がどのような報酬を得ていてどのように扱われているかということにも、人は強い関心を抱くのだ。だからこそ、社会正義を実現するためには、これらの直感に訴えることが不可欠となるのである。

 

正義の名を冠した新しい政策を支持したり、運動に参加するように他の人たちを動機付けたいのなら、得られるべきものを得られていない人がいる(分配的正義)、または不公平な手続きの犠牲になった人がいる(手続き的正義)、ということについての明らかな理解や直感を他の人たちが持てるようにするべきだ。特定の人々や特定のグループが他よりも多くの資源を得ていたり高い地位にいたりするという状況であっても、分配的正義か手続き的正義のどちらに関する感情も人々から引き起こせない場合には、人々は現状維持に甘んじてしまう可能性がずっと高くなってしまうのだ。

(p.220)

 

 そのため、成功する社会正義運動とは、「分配-手続き的社会正義(Proprtional-Procedural Social Jutice)」に関するものであるのだ。その定義は、以下のようなものである。

 

ある人々が貧困に生まれついたか社会的に不利なカテゴリーに所属しているという理由でその人々への分配的正義や手続き的正義が否定されているような事態を発見して、その事態を修正するための活動

(p.221)

 

 たとえば、過去にアメリカで行われた公民権運動は「分配-手続き的社会正義」に適った運動であるからこそ、多数の支持を得て成功した。当時のアメリカの白人たちは黒人差別の事実を直視しないように動機付けられてもいたが、アメリカの憲法にも書かれているような平等や権利の理念に訴えかけられたら、黒人差別が不正義であることを認めざるを得なくなった、ということだ。ブラック・ライヴズ・マター運動が多数派の支持を得ているのも、同様の理由による。

 また、「分配-手続き的社会正義」とは、人々の社会的権利が平等に保護されて(手続き的正義)、機会の平等が保証される(分配的正義)ことに焦点を当てたものである点も重要だ。

 

 そして、現在の社会正義運動の一部は、機会の手続き的正義の直感にも分配的正義の直感にも適わないものとなっている。「機会の平等」ではなく「結果の平等」を求める運動となっていることが、その原因だ。

「結果の平等」を求める運動の具体的な帰着が、組織の成員の一定数以上を女性にすることを求めるクォータ制と、入学試験などにおいて黒人やラティーノに優遇措置を与えるアファーマティブ・アクションである。これらの制度はアメリカでは数十年前から実施されてきて、今ではすっかり定着した。

 しかし、クォータ制アファーマティブ・アクションの下では、人々は人種や性別などの「属性」によって判断されて、不平等に取り扱われることになる。この点では、手続き的正義の直感に反している。また、同じだけの労力や努力を払ったり成果を出していたりする人であっても、報酬(組織への参入、大学への入学など)が得られるかどうかは属性によって左右されてしまう。頑張っているマジョリティよりも頑張っていないマイノリティの方が有利になり得るという点で、分配的正義の直感にも反しているのだ。

 これが、クォータ制アファーマティブ・アクションを求める運動が、公民権運動やブラック・ライヴズ・マター運動のようには支持されない理由である。

「逆差別」という日本語は、これらの制度に対する反感を端的に表現したものであるだろう。

 

 では、一部の人々は、なぜ直感に反する「結果の平等」を求める運動を行なっているのか?

 その背景には、「不平等な結果は、社会に制度的なバイアスが存在することによってもたらされている」という前提がある。つまり、たとえば白人が黒人やラティーノよりも大学入学率が高かったり、女性よりも男性の方が特定の組織の成員になりやすいことは、一見すると白人や男性の方が能力が高かったり頑張ったりしていることの結果であるように見えるが、実は現状の制度や構造がマジョリティにとって有利な仕組みとなっていることに起因している……という考え方だ。

 これは、近年では「マジョリティは"特権"を持っている」という言葉で表現されることが多いし、日本のフェミニストがよく口にする「男は下駄を履かされている」という主張もこれの一種と言えるだろう。

 そして、現状の制度によって不当な結果がもたらされているなら、その結果に介入することの方がむしろ正義に適っている、ということになるのだ。

 特にアメリカの大学では、「結果の平等」とその前提である「不平等な結果は、制度的なバイアスによってもたらされている」という考え方が支配的になっている。そのために、「不平等な結果がもたらされていることは、制度的なバイアスではなく、他のことが原因であるかもしれない(男性と女性との間における、学問や趣味や職業に関する志向の生得的な差など)」という仮説を提示すること自体が、非難されて抑圧される傾向にあるのだ*1
 つまり、制度的なバイアスについての議論そのものに、バイアスがかかっている。そして、大学内で学生たちや学者たちがバイアスのかかった議論を繰り返すほどに、「正義」に対する彼らの要求は大学の外にいる人々の実感から乖離したものになっていくのだ。

 

 ……と言いつつも、ルキアノフやハイトだって、アファーマティブ・アクションやクオータ制がすべて間違っていると論じているわけではない。「制度的なバイアス」なり「不平等な制度」なりが存在しない場合もあるが、存在する場合もある。「不平等な結果は、不平等な制度のせいだ」と決めつける発想は間違っているが、どこかしらに不平等な制度が存在している可能性を排除することも、また間違っているのだ。

 とはいえ、仮に不平等な制度の存在が事実であり、アファーマティブ・アクションやクオータ制が不平等な制度に対して実際に有効な対抗策であるとしても、「結果の平等を求める社会正義運動は、人々の正義の直感に反しない」という問題が舞い戻ってくる。こうなると、望ましい目標を実現するために多数の支持を得るためのレトリックをいかにして構築するか、ということが重要になってくるだろう*2

 

 わたし自身の感想を付け加えると……クオータ制については、以前まではまさに「直感的」に反発を抱いていたのだが、多少の勉強をしていくうちに「ケース・バイ・ケースで判断するべきだな」というくらいに思うようになった。たとえば日本の政治の世界にはジェンダー・クオータ制が必要であると思うし*3医学部入試の女性差別問題は誰がどう見ても「制度的なバイアス」そのものだ。アファーマティブ・アクションに関しては、ピーター・シンガーが『実践の倫理』などで昔から擁護していたのを読んでいるので、以前からわりと理解は抱いているつもりである。

 社会運動、ひいては民主主義や政治全般に関する直感とレトリックの問題については、社会心理学の発展に伴って、これからも面白くて有意義な論考が出てくることだろう。

 

「インターセクショナリティ」が対立を招く理由

 

 

 先日から、社会心理学者ジョナサン・ハイトと憲法学者グレッグ・ルキアノフの共著、『アメリカン・マインドの甘やかし:善い意図と悪い理念は、いかにしてひとつの世代を台無しにしているか』を読んでいる。Amazonのほしいものリストでもらったものだ。ありがとう*1

 

 2017年に出版された本なのだが、その時期にアメリカの大学で「ポリティカル・コレクトネス」が引き起こしていた様々な問題の事例を網羅的に紹介しつつ、その背景にある構造や原因を分析した本だ。「マイクロアグレッション」や「アイデンティティ・ポリティクス」と言った個別のタームについての問題点の分析も豊富である。そのなかでも、「インターセクショナリティ」に関する分析は興味深かった。

 この本の全体的な内容についてはこのブログとは別のところで紹介する予定なのだが、インターセクショナリティに関する記述についてのみ、一足先にこちらで紹介しよう*2。ちょうど日本語版Wikipediaにもインターセクショナリティについての記事ができたところだし。

 

ja.wikipedia.org

 

 まず、ハイトとルキアノフは、「インターセクショナリティ」理論の発明者であるキンバリー・クレンショーやその理論を発展させたパトリシア・コリンズなどの学者たちによる用法については、問題がないとしている。

 たとえば、クレンショーは黒人女性がゼネラル・モーターズ社で受けていた就職差別の構造を鮮やかに示した。当時のゼネラル・モーターズ社は、工場現場の仕事では黒人も雇っており、事務仕事については女性も雇っていたので、黒人差別とも女性差別とも批判されていなかった。しかし、工場現場では男性、事務仕事では白人が被雇用者の大半を占めていたことにより、結果として黒人女性はどちらでも雇われていなかったのだ。

 このように、ひとつの属性だけに着目していると問題が起こっていないように見えても、複数の属性が交差することによって差別や抑圧が生じているかもしれない。そのような問題に名前を付けることで、問題を発見して問題に対処することが可能になる……それが、インターセクショナリティという理論の、(そもそもの)意義であるのだ。

 

 ハイトとルキアノフが批判するのは、学生などが実践している社会運動における、「インターセクショナリティ」という単語の用法である。

 複雑な構造で起こる差別問題を理解するための分析枠組みであったインターセクショナリティは、世の中を二項対立的に単純化して認識するための概念へと変貌してしまった。それをよく表すのが、「特権」と「抑圧」の構造を示したとされる、以下の図だ。

 

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(出展:日本語版Wikipedia「インターセクショナリティ」)

 

 この図は、もともとはキャスリン・ポーリー・モーガンという哲学者が作成したものであり、その発想はミシェル・フーコーの権力論に基づいている。

 たとえば、アメリカの大学は歴史的に白人男性によって構築されてきたから、「白人」かつ「男性」である属性に特権を与えて有利にする空間となっており、「黒人」という属性を持つ人のみならず「女性」という属性を持つ人も……たとえ、学生の過半数以上が女性であったとしても……大学という空間では白人男性が構築した理念や制度のもとで生きることを強制されるという点で「被植民化された人々(colonized people)」である、とモーガンは論じているのだ。

 このような発想に影響された人々は、すべての物事を「抑圧の構造」の観点に従って見るようになってしまい、目の前にいる人は特権を持つ側であるか(上記の図における上側)、抑圧されている側であるか(図における下側)、ということばかりを気にするようになってしまう。

 そして、「抑圧の構造」という発想は社会問題を分析するための記述的な図式にとどまらず、道徳的な意味合いも含むものである。そのため、特権を持つ側なら「悪」であり抑圧されている側なら「善」である、という認識へとつながりやすい。ハイトが『社会はなぜ左と右にわかれるのか』でも論じていたように、道徳は人々を結びつけると同時に人を盲目にする。「自分たちは善の側で、あいつらは悪の側だ」と一方が思ってしまったのなら、和解や妥協や対話の余地はなくなってしまい、ひたすら対立が深まることになるのだ。そして、「抑圧される側」に位置するなんらかの属性を持っている人ならともかく、異性愛者で白人で男性で…となると図式の下の側に逃げ込むこともできないので、ただただ批判の対象にしかならなくなる。

 このテの発想が引き起こす問題の象徴的な事例として挙げられているのが、2015年にブラウン大学で学生が大学の副学長に抗議しているときに起こったエピソードだ。白人男性である副学長が「対話することはできないのか?」と言っても学生は拒んで、「異性愛者の白人の男性が常に空間を支配してきたことが問題なのだ」と主張した。すると、副学長は自分自身が同性愛者であることを指摘した。学生はしばらく戸惑ったが、やがてこう言った。「いや…同性愛者であるかどうかは問題ではない。白人で男性であるなら、ヒエラルキーの頂点に位置しているのだから」。

 

 インターセクショナリティに限らず、もともとは学問的な理論や分析枠組みとして生み出されて妥当で有用であった概念が、学生たちによる運動の場では意味を変貌させられて思考停止や分断を招く概念になってしまう……という事例は他にも多々ある。人間を善と悪とに二分して「自分たちは正しい、あいつらは間違っている」と思い込んでしまう傾向は生得的な心理や感情として人間に備わっているものであり、学問というものは本来ならそのような傾向や感情を抑制させて理性的に物事について考えることを可能にするためにあるのだが、運動の場において変貌させられた概念は、むしろ生得的な感情をブーストして理性的な検討を遠ざけてしまう効果を持ってしまっているのだ。

 ハイトとルキアノフは、現代のアメリカの大学における運動で用いられている様々な理論や概念の背景では、1960年代や1970年代に「新左翼の父」として讃えられたヘルベルト・マルクーゼが影響を与えている、と分析している。マルクーゼの理論も「右」と「左」の分断を強調する二項対立的なものであったのであり、敵対する相手の言論の自由を認めないことを是とする「抑圧的寛容」は、もともとが大学の理念とは相反するものであったのだ*3。当時に新左翼運動であった学生たちは現代ではちょうど大学の教授や執行部になっている年齢であり、過去の自分たちが他人を糾弾するために提唱していた理論がまわりまわって現在の自分たちを糾弾の対象としている……という側面もあったりなかったりする。

 

 ……と、ハイトとルキアノフによる「インターセクショナリティ」批判を紹介してきたが、わたし自身の意見もちょっと付け加えよう。

 ハイトとルキアノフは、インターセクショナリティを持ち出して他人を批判する人が、自分を「抑圧される側」に位置付けて相手を「特権を持つ側」に位置付けることについての、被害者意識や自省のなさや傲慢さや独善性といったことを特に非難しているようだ。

 しかし、わたしが観察してきたところ、インターセクショナリティは「他人」や「外」を批判する際に使われることもあるが、「自分」や「内」を批判する際に使われることも多い。たとえば、フェミニストである人が「自分は性差別のことにばかり注目していて人種差別や経済格差の問題に無頓着であった。これからは気をつけよう」という自己反省をしてそれを表明するきっかけとして用いられているのを見ることがある。また、特に日本においてフェミニストが「インターセクショナリティ」に基づいて他人を批判するときには、その対象はだいたいが他のフェミニストフェミニズム団体だ。「フェミニストであるなら、女性差別の問題だけでなく、他の種類の差別や抑圧にも反対するべきだ」とか「フェミニズム的な作品を作ったりフェミニズム的なメッセージを表現するなら、特権と抑圧の構造についてもっと自覚的になるべきだ」、などなどである。

 自己反省や志を同じくする人同士での相互批判に用いられるなら、生産的であったり妥当であったりする場合もあるようには思えるが……しかし、そもそもの「抑圧の構造」という図式がかなり現実性に乏しいものであるために、この図式に基づいた自己反省や相互批判もけっきょく誤ったものにしかならないように思える。「○○差別に反対するなら、○○差別と××差別は論理的に構造が一緒なので、××差別にも反対しなければならない」という主張なら正しいと思うのだが、「○○差別に反対するなら、○○差別と××差別が発生する構造が事実的に結びついているので、××差別にも反対しなければならない」という主張は前提が誤っているとしか思えないことが多い*4

 

 また、わたし自身はフェミニストではないので他人事といえば他人事であるのだが、「フェミニストであるなら、△△差別にも反対しなければならない」という主張を目にしたときには「いやだなあ」という気持ちが起こることが多い*5。たとえばもしわたしがユダヤ系女性であったとして、ピンクウォッシュ概念などを用いられて「あなたがフェミニストでありたいと思うなら、イスラエルに対しても否定の姿勢を示さなければならない」などと他人から言われると、自分がイスラエルを支持しているとしてもしていないとしても、かなり不愉快な思いをさせられることだろう*6

 世の中には規範的な問題がいろいろと存在して、人々はそれぞれのアイデンティティや経験や人間関係や学んだことや考えたことに基づいて「この問題についてはこういう立場をとろう」「この問題についてはこちらの方が正しいと思う」「この問題についてはよくわからないから保留しよう」と判断していくものであるし、また、そうするべきである。しかし、(変貌させられた方の)インターセクショナリティに基づくと、「すべての問題について、"抑圧の構造"の下側に位置する人の味方をしなければならず、上側に位置する人を批判しなければならない」と強制されることになってしまうのだ。そういうのは同調圧力全体主義というものである。「それはそれ、これはこれ」というスタンスも認められなければならないのだ。

*1:そして、本さえ買ってもらえればこうやって内容を紹介する記事をいつかは書くので、みなさんもどしどしわたしに本を買ってほしい。

www.amazon.co.jp

*2:なお、過去にもこのブログでインターセクショナリティの問題点を批判した記事をいくつか紹介してきたことがある。

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*3:

davitrice.hatenadiary.jp

*4:

davitrice.hatenadiary.jp

*5:もちろん、フェミニスト同士の相互批判に限らず、アンチ・フェミニストなどの「外野」に位置する連中が「フェミニストならこの問題についても反対しなければ矛盾だ!」と言っているのを目にしたときにも不愉快な気持ちになる。そういう連中の主張は大半の場合は「インターセクショナリティ」理論以上に筋が通ってなくて非論理的で頓珍漢であるし、インターセクショナリティ理論に影響される人の大半が持っているであろう善意や真面目さや誠実さというものが欠片も感じられない。Togetterでもはてな匿名ダイアリーとかでも「フェミニストがこの問題に反対していない!矛盾している!」と騒ぐエントリは定期的に生じるが、ああいうのをまとめる人も書く人もそれを読んで喜ぶ人もみんな下品だと思っている。

*6:

davitrice.hatenadiary.jp

人種は存在しない…のか?

gendai.ismedia.jp

 上記の記事は3ヶ月前のものだ。ブコメは現時点で30ほどしか付いていないが、わたしを含めて、違和感を表明しているコメントが多い。

 特に違和感があるのは、やはり、「人種は存在しない、あるのはレイシズムだ」というタイトルだろう。ここには、ある種の文系の"学問"や"社会学"に独特なレトリックと、市井の感覚との乖離が見出せる。今回は上記の記事を直接批判したり反論したりするわけではないが、このタイトルが象徴するような、"社会学的"なレトリックや議論に対してわたしたちが感じる違和感について、ちょっと書いてみたい。

 

 人種の問題に限らず、ある種の社会学(あるいは、ある種の「哲学」や「思想」)では、"わたしたちが「自然」であったり「普通」であると思っている物事は社会的に構築されている"、ということが強調される場合が多い。

 そして、多くの場合には、その社会的構築の背景には"レイシズム"なり"権力"なりの「悪」が潜んでいるという理路を取ることになる。そのため、世の中にある悪い物事を改善したいと思っていたり自分が善人でありたいと思っているなら、自分が使っている概念の社会構築性とその背後に潜む悪の存在を意識して、自分の認識や言葉の使い方を改めて、"ただしい"考え方や言葉使いをするようにならなければならない……という風に誘導されることになるのだ。

 社会学倫理学のような「規範」に関する学問ではないため、表向きには「〇〇に関する一般的な認識は誤りで、自然だと思っていたり普通だと思われていたイメージは実は社会的に構築されたものであり、実はこうなんですよ」という「事実」に関して論じているようなテイを取る。だが、その社会的構築には「悪」が潜んでいると匂わすことで、事実について語っているようなフリをしながら規範的な主張を行う……と、これはハーバーマスフーコーの議論について看破して「ゴニョゴニョ規範主義」と名付けたメカニズムである。

 

 とはいえ、上記の記事のブコメを見ればわかるように、社会学の議論に特に同意していない普通の人であれば、「人種は存在しない」と言われてもそう「いや、存在するじゃん」となるのが自然な反応だ。あるいは、たとえば「性暴力は性欲ではなく支配欲が原因で起こる」と言われても、「いや、性暴力と性欲が関係ないというのは無理があるでしょ」となるものだろう。「その反応こそが、社会構築されたイメージに認識を支配されている証左である」と言われたところで、「そりゃ認識の一部が社会や文化に影響されるということはあるだろうけれど、それを考慮したうえで考え直しても、やっぱり自分が自然に抱いている一般的なイメージは事実をおおむね妥当に反映しているように思えるんですけど」となるのである。

 ……しかし、そのような反論をしてしまう人を説得することは、そもそも目論まれていない。ある種の社会学的な言説とは、それに"引っかかる"人……つまり、「人種は存在しないんだ!」とか「性暴力は支配欲が原因なんだ!」と納得してしまうような、潜在的な支持者を発掘して囲うために発せられているのだ。"社会学的な思考方法"というのはかなり特殊で歪な思考方法であり、多くの人はそのような思考方法を身につけておらずその思考方法への適性もないが、一部の人はその適性を持っていたりもとから似たような考え方をしたりしているようである。そのような人が集まってクラスターとなることで、"社会学的な思考方法"は知的な風土や言論空間では力を持つようになっていったのだろう。

 だから、「それっておかしくねえ?」と言いたくなるような極端な意見や特殊な意見が、賢い人たちや"わかっている"人たちの標準見解であるような体裁をして、社会問題に関する色んな場面で発せられるようになっているのだ。ネットにおいて「社会学嫌い」や「アンチ・社会学」の風潮が強くなっているのは、この現状に対する反動と言えるかもしれない*1

社会学嫌い」は日本のネットに限らない。たとえば、アメリカのアカデミアでも、社会学や社会科学の論点先取で結論先行的な規範主義はよく批判されている。わたしも数年前にそのような批判をいくつか翻訳してきたが、そのひとつが下記のものである*2

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 

 この記事の著者である心理学者のボー・ワインガードが、同じく心理学者のベン・ワインガードや犯罪学者のブライアン・ボートウェルと共に、2016年にQuilletteに、「人種の現実と、レイシズムへの忌避について(On the Reality of Race and the Abhorrence of Racism)」という記事を公開していた。

 

quillette.com

 この記事の後半部分にわたしが言いたいことに近いことが書かれていたので、翻訳して引用しよう。

 

人間のあいだの共通点や人種というものの非現実生についての高邁な物語が、普通の人を納得させることはできないだろう。たとえば、アフリカ系の人たちの集団間における微細な遺伝的差異についての詳細な分析を行ったところで、大半の人々がアフリカ系の人たちを一つのグループ(注:黒人)にまとめてコーカサス系の人々を別のグループ(白人)にまとめるのを防ぐことはできないはずである。そして、実のところ、そのような日常的な分類は、共通する祖先や認識可能な遺伝的差異に一致しているのだ。人々が人種を認識するのは、彼らが抑圧的な神話に騙されている間抜けであるためではない。人種が存在するからである。

 

 この記事のなかでは、「人種」というカテゴリは映画のカテゴリ(ジャンル)と同じような意味で存在する、と論じられている。つまり、「『エルム街の悪夢』はホラー映画である」と聞かされたら「『エルム街の悪夢』は暗くて、怖くて、暴力的な映画だろう」と予測できるのと同じように、「トーマスはコーカサス系である」と聞かされたら「トーマスは比較的薄い色の肌をしており、直近の祖先はヨーロッパにいたのであろう」と予測できるということだ。時折に例外や変数があり予測が外れるとしても、大半の場合にはおおむね事実を反映しており予測を立てるうえで便利であるのが、映画のカテゴリであり人種のカテゴリなのである。

 そして、映画のカテゴリ分けが用途によって変動するのと同じように(ホラー、コメディ、ドラマ、SFの四種類の区別で満足する人もいる一方で、Netflixではずっと大量のカテゴリ分けがされている)、人種のカテゴリ分けも用途によって変動するが(コーカサス系、東アジア系、アフリカ系、ネイティブ・アメリカン系、オーストラリア先住民系の五つで足りる場合もあれば、ユダヤ人をアシュケナジムとミズラヒムに分けることが必要となる場合もある)、それはカテゴリが「存在しない」ということを意味しない。

 この記事では、「レイシズムに反対するためには人種の存在を認めてはならない、ということにはならないし、レイシズムに反対する人が人種に関する研究を認めなかったり人種に関する議論を行わなかったりすることで、むしろその分野がレイシストに占領されてしまう。人種の存在を認めないことは、レイシズムを防ぐという点では、むしろ無益なのだ」というような主張が展開されている。

 

 なんにせよ、ある種の社会学では(あるいは、ある種の哲学とか思想とかでは)、現実の社会問題について分析して知見を提供している風でありながら、実際には内輪でしか通じないお題目を唱えているだけ……というのは人種の議論に限らずよくあることだ。そういう議論が発されるたびに多くの人は「それっておかしくねえ?」と思ったり言ったりするけれど、その疑問は無視されてしまう。そういう虚しい状況がずっと繰り返されているのだろう。

 

*1:

togetter.comこれをはじめとして、 TwitterやTogetterでは特に「社会学嫌い」が可視化されている。まあ、そこにおける社会学への批判は不当なものであることも多いんだけれど。

*2:他にはこういうのも訳した。

davitrice.hatenadiary.jp

読書メモ:『ブルシット・ジョブ:クソどうでもいい仕事の理論』

 

 

 はじめに断っておくと、わたしはこの本をフラットな状態で読みはじめたわけではない。『隠された奴隷制』でデヴィッド・グレーバー(やジェームズ・スコット)が援用されている箇所を読んだときには「アナーキスト人類学って胡散臭そうな主張だなあ」と思ってしまったし*1国家制度や西洋社会や資本主義の欠点をできるだけあげつらってオルタナティブな社会の価値を強弁する、という彼の基本スタンスも気に食わない。

 Twitterなどを見ていても、グレーバー(的な主張)を好んでいる層にはわたしにとってノーサンキューな人が多そうだ。

 

 とはいえ、労働というテーマについてはわたし自身もこれまでに色々な本を読んできたし、自分なりに色々と考えてきたし*2、「ブルシット・ジョブ」という概念自体については「俺がこれまでやってきたどの仕事もブルシットだったよなあ」と思って共感できなくもない。ベーシック・インカムだって、(実現可能であるなら)大賛成だ。

 

 というわけで、読んでみることにしたのだが…(税込4000円以上とクソ高くて自分には手が出せなかったので、ほしい物リストでどこかの優しい人に買ってもらった)、結果としては、文体や論調からして苦手過ぎてちょっとまともに読み通せなかった。

 カタカナの振り仮名が多用される翻訳も苦手だし、エピソードやインタビューの抜粋が多すぎるせいで著者の理論をつかむことも面倒になっている。

 序盤からして「ネオリベラル」な政治体制が槍玉に挙げられているし、ブルシット・ジョブを蔓延させるにいたった"悪玉"として近代西洋に発展した労働に対する規律とか「経済学者」たちを挙げているところもビミョーだ。そして、経済学を否定しているわりに「ケア」や「ケアリング」の価値をやたらと讃える(つまり、フェミニスト経済学だけは肯定する)ところも、さいきんのサヨクの流行りにノっているという感じが強くて軽薄に思えた。

 終盤にはおきまりのごとくフーコーを持ち出して、いま人々が苦しくつらがっているのは「権力」や「支配」のせいなんだとアジって読者を特定の方向に誘導するくせに、最後にはしれっと「本書の主要な論点は、具体的な政策的提言をおこなうことにはない」(p.364)と済ませる、という無責任さもどうかしている。

 訳者あとがきですらも、グレーバーの"お言葉"(インタビュー)が引用されまくっているせいでいちいち論旨が明快でなく、読みづらい。

 

 とはいえ、訳者あとがきでは以下のように書かれている。

 

主流の経済学的立場からもマルクス派からも、論拠はさまざまであれ、こうしたブルシットとされる領域そのものが不在であるといった批判がぶつけられている。しかし、総じてみるならば、既成の理論的枠組みによって現象を否認する態度と、いまこの世界の人びとの感覚に深くもぐり、そこから理論的枠組みを組み立てていこうとする態度のちがいはあきらかであるようにおもう。ものすごく粗くいうならば、「資本主義システム」(そう名指そうと名指すまいと)の論理的一貫した存在は大前提として、そこから現実に切り込んでいく態度と、そうしたシステムの存在を自明の前提とせず(述べたように「経済」領域すら自明のものとせず)、人びとがいま現実になにをやっているのかといったところから現代世界のありようをつきとめようとする態度のちがいというのだろうか。

(p.424-425)

 

 また、グレーバーのスタンスをよく象徴しているとわたしが思うのは、以下のような箇所。

 

富裕国の三七%から四〇%の労働者が、すでに自分の仕事を無駄と感じているのだ。 経済のおよそ半分がブルシットから構成されているか、あるいは、ブルシットをサポートするために存在しているのである。しかも、それはとくにおもしろくもないブルシットなのだ!もし、あらゆる人びとが、どうすれば最もよいかたちで人類に有用なことをなしうるかを、なんの制約もなしに、みずからの意志で決定できるとすれば、いまあるものよりも労働の配分が非効率になるということがはたしてありうるのだろうか?

この議論は人間の自由に強力に寄与するものである。……

(p.364)

 

"世界の人びとの感覚に深くもぐる"というミクロな視点にこだわるあまり、人びとの感覚の外側にあるマクロな視点や法則から経済や労働をとらえる発想……すなわち経済学的発想を無視していることが、グレーバーの最大の問題点だ。

 たとえば、エッセンシャル・ワーカーの賃金が低いことは価値に対するわたしたちの考え方が刷り込みによって歪まされているからではなくて、ただ単に需要と供給の法則の結果であるかもしれない*3。多くの人々がサボっている人々や怠惰な人々に対して批判的であり彼らに制裁や制限を与えたいと思っているのは、資本主義のイデオロギーを内面化しているからとかではなく、集合行為のジレンマに対処するうえで自然に生じる発想であるだろう。

 また、「人びとが人類に有用なことをみずからの意志で決定できる」環境になったとしても、みんながそれを行なうようになったら、やはりそこには需要と供給や集合行為などに関わる様々な法則が発生して、けっきょくは思っていたよりもやりたいことを自由にできるわけでもなければのびのびと生きられず楽しくもない社会に落ち着くかもしれない。

 タイラー・コーエンが論じているように、組織管理などの本来は必要な仕事すらもたやすく"無用"扱いされてブルシット・ジョブ認定されてしまう、という問題も大きい。特にこの本の前半では「大企業の顧問弁護士」がブルシット認定されているが、弁護士本人には価値の感じられない仕事であっても、大企業の経営者にとって顧問弁護士は不可欠なものであるだろうし、そして顧問弁護士がいないことでその大企業の下ではたらく何千何万の労働者たちが困ることになるかもしれない。価値や必要というものは、その仕事をしている人々の主観的な感覚や意識とは異なるところに存在するものかもしれないのだ*4

 たとえばベーシック・インカムを導入するにしても、そこで必要となるのは、人々のインセティブに対してどのような影響が出てどのような副作用が出るかなどについての、冷静な検討と試算と実験と対策である。人びとの感覚に深く寄り添った耳心地のいいアジテーションはお呼びでない。

 

……しかし、これはいつも思うことなのだが、それなりに本を読んでいて物事を考えて生きているであろう人がこういうアジテーション的な主張にコロッとやられてしまうのは不思議なことである。

 あるいは、こういう本を好む人は本のなかで主張されている内容の理論的妥当性とか実現可能性とか批判の正当性とかはどうでもよくて、幾多のエピソードとカタカナ言葉に彩られた「ラディカルな解放の書」を読むという行為自体に楽しさや気持ち良さを感じているのかもしれない。

 

*1:

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

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*3:『資本主義が嫌いな人のための経済学』のなかでそのような議論がなされていたはずだ。

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*4:

だからこそ、本人にとって価値が感じられずにやり甲斐もないが他の人たちにとっては必要な仕事には、他の人たちにとっても必要であり本人にとっても価値が感じられてやり甲斐もある仕事よりも高い給料が支払われることになる……前者と後者の給料が一緒であれば、前者の仕事をやりたがる人がいなくなって、多くの人が困るからだ。これこそが先述した"需要と供給の法則"である。エッセンシャル・ワーカーの賃金が低いことについて"資本主義的な価値観"とかケアリング労働の軽視とかレイシズムとかの内面的で社会構築的な要素から語るのもいいかもしれないが、外生的で自然発生的な法則が大前提にあることを無視することはできないのだ。

読書メモ:『階級「断絶」社会アメリカ』

 

 

 数年ぶりの再読。アメリカの「階級」に関する話題はトランプ当選以降に注目されるようになって、わたしもいくつかそれらの本の感想を書いてきたが*1、この本では階級間の政治的イデオロギーの違いはあまり重視されていない(むしろ、エリート階級のなかにはリベラルも保守もいる、ということが冒頭で指摘されている)。それよりも、もっと広い意味での価値観や文化、幸福や秩序などの、政治に比べて人々の生活に関わってくる地の足のついた側面が取り上げられていることがポイントだ。具体的な内容については、以下の書評をどうぞ。

 

honz.jp

『ベル・カーヴ』のおかげで「人種差別主義者」というイメージが強いマレーではあるが*2、差別主義者であるかどうかはともかく、保守主義者であることは間違いない。新上流階級と新下層階級との分断が進むことでコミュニティやソーシャル・キャピタルが崩壊して、人々が「人生の本質」を見失って「建国の美徳」が失われていく……と嘆く様子は、まさに保守のおっさんのそれだ。ロバート・パットナムの『孤独なボウリング』にかなり依拠した議論でありながら、提案する解決策は「小さな政府の実現」と、パットナムが主張するのとは真逆の方向であるところもどうかと思う*3

 しかし、以下のような文章は良くも悪くもウッとくる。

 

ソーシャル・キャピタルの衰退によって、白人下層階級の人々は、従来アメリカ人が幸福追求のために用いてきた基本的手段を奪われつつある。結婚、勤勉、正直、信仰の衰退についても同じことがいえるのではないだろうか。人生におけるこれら四つの側面は、個々人の好みで重要性が決まるたぐいのものではない。この四つは一体となって、人生の本質を形成しているのである。

(p.368)

 

人が人生で深い満足を得られるーーつまり幸福を得られるーー領域は何だろうか?その答えは四つしかない。家族、仕事、コミュニティ、そして信仰である。

(p.371)

 

 ウッときたのは、わたし自身が、結婚からも仕事からもコミュニティからも見事に疎外された人生を歩んできており、もちろん信仰なんてものも持っていないためである(なお、わたしは日本に生まれて日本で育ってきたので、アメリカにおける階級の分断とかソーシャル・キャピタルの崩壊とかは、わたしが「人生の本質を形成している」ものから縁遠い人生を送ってきたこととは、無論なんの関係もない。ただたまたま運が悪かったり自分自身の意志でいろんなことから逃げてしまったりなどの色々な事情が重なってそうなったということだ)。

 そして、自分自身がさして幸福でないことも自覚している。だからこそ、幸福に関する哲学や心理学の本も色々と読んでいるわけだが*4、それらの本のなかでも「幸福を得るためには、家族や友達や共同体と関わりながら、価値のある仕事を勤勉に真っ当に続けて、ほどほどに生きるのがいちばん」という主張がされているのである。そして『階級「断絶」社会アメリカ』でもアリストテレスの幸福論が引用されているように、幸福って良くも悪くも"保守的"なものであることは間違いないのだ。マレーとは真逆のカウンターカルチャー的な主張が、社会の分断をすすめて秩序を毀損することでけっきょく人々を生きづらく不幸にしてきた、ということも確かであるし*5

 わたし自身、そもそも保守的な傾向が強くて*6、たとえばアメリカの映画を見ていてどの登場人物も言葉使いが汚かったり不特定多数とセックスしまくっていたりドラッグや酒に溺れていたりすると「やあねえ」と眉をひそめてしまうタイプの人間である。だから、マレーの保守的で前時代的な問題意識には共感できるところもある。婚外子の増加が社会に悪影響を与えることを「進化心理学」と「遺伝学」に基づいて示唆しているところも(p.432~433)、やや危ういと思うがそういう言いづらい問題に切り込んでいこうとするところは評価できるだろう。

 ……しかし、だからといって、「ヨーロッパ・モデル」な福祉国家を否定して、「アメリカン・プロジェクト」を体現した小さな政府を押し出されるのはやっぱり勘弁してほしい。わたしが思い浮かぶ限り、マレーと同様の幸福論や社会論を語っている論者(ロバート・パットナム、ロバート・フランク、ジョセフ・ヒース、ジョナサン・ハイトなどなど)の大半はリバタリアニズムの問題点も重々承知しており、穏当な福祉国家の必要性を強調している。「結婚、勤勉、正直、信仰」と福祉国家も、両立できないことはないだろう*7

*1:

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*2:

cruel.hatenablog.com

*3:パットナムは社会福祉や再分配の重要性を強調する論者であるはずだ。

togetter.com

*4:

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*5:

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*6:

note.com

*7:スウェーデンのように「大きな政府」が整った福祉国家では必然的に宗教の影響力が失われていくという議論もあるのだが、それはそれとして。

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現実の問題を解決することから遠ざかるラディカリズム(『反逆の神話』読書メモ:後半)

  

 

カウンターカルチャー的な分析からは、決まったパターンが浮かびあがってくる。社会問題はどれも、大量生産、マスメディア、自然の技術的支配、または単に回帰や同調への欲求かもしれないが、いずれにせよ大衆社会の基本的特徴が原因と考えられる。だが、こうした説明がきわめて問題含みなのは、経験上正しくないことに加えて、具体的な社会問題一つ一つを、当然誰も変えようとは思わない(求めない)ような現代社会の特色と結びつける効果があるからだ。つまり、この説明は、あたかも「体制」がまるごと社会問題全般の原因であり、したがって体制の完全な転覆に達しない方策では問題を解決できないように思わせるのだ。そうして、多数のごく扱いやすい問題をとうてい解決不能なもののように見せてしまう。

(p.368)

 

したがって、本書の中心となるカウンターカルチャー的思考への批判は、それが混乱を巻き起こし、「ディープさ」も「ラディカルさ」も足りないという理由で、あらゆる社会問題に対する実践的な解決策を左派に拒否させていることだ。このせいでマイケル・ムーアは、法律はアメリカに存在する「恐怖の文化」という、より根深いとされる問題を扱わないからと言って、『ボウリング・フォー・コロンバイン』で銃規制に反対している。このせいで主要な環境保護団体は、ディープエコロジーという名目で、排出量取引に反対している。このせいでフェミニストたちは、それが家父長主義的な抑圧の、深い文化的要因なのだと確信して、ポルノグラフィーに神経をとがらせることに何年も無駄に費やした(この伝でいけば、ポルノグラフィーにとっての家父長主義は広告にとってのテクノクラシーである)。もっと一般的にいえば、このせいで左派は、非難すべきあらゆる不作法や社会的逸脱を擁護するか、少なくとも根拠のない弁明をさせられるはめに陥っている。これはほかの何より選挙上の大きな障害となった。

(p.391)

 

これこそが僕らがカウンターカルチャーの重罪と呼ぶものの典型例ーーつまり、ラディカルさが足りないとか人々の意識を充分に変えないという理由で、現実の社会問題に有効な解決策をはねつける傾向だ。

(p.395)

 

 カウンター・カルチャーの影響力が減退してきたフシのある昨今でも、「ラディカルさ」を要求する傾向は健在であるように思われる。

 わたしが思うに、イマドキの左派の「ラディカル」嗜好は「インターセクショナリティ」という概念に体現されているように思われる*1。つまり、性差別の問題にせよ人種差別の問題にせよ植民地主義の問題にせよ環境問題にせよなんにせよ、すべての問題を"つながっている"と見なしたうえで、自分が興味のある問題だけでなくほかの問題についても目を向けて批判できる人の方がエラい、さらにはすべての問題の"つながり方"を見出してそれを述べたてられる人はもっとエラい……みたいな風潮だ。

 言うまでもなく、"問題はすべてつながっている"と頭から決めつけたうえで、その"つながり"を血眼になって探したり無理矢理に結びつけるほどに、その考え方は陰謀論に近づいていき、個々の問題の具体的な原因について考慮して適切な対処策や解決策を実行していくことからは遠ざかっていく。さらに問題なのは、「お前は充分にラディカルではない」とか「お前は目の前の問題ばかりに注目していてその根源にあるインターセクションが見えていない」などと言って、具体的な問題に対処している他人を非難して邪魔してしまうことだ。そのような言いがかりをつけることが"クール"とされてしまう風潮は、やはり存在するように思える。

 ラディカリズムは人々の"意識"や"文化"にばかり注目するという点も、この傾向を助長させる。つまり、具体的な対処策や解決策が功を奏して、問題となっている制度が変更したり人々の問題行動が減少したりしたとしても、「いや、根本にある意識や文化は変わっていないのだから、またいつ同じような問題が発生するかわからないし、あるいは別のかたちで問題が噴出しているのだ」といくらでも言えてしまうのである。

 

ニューヨーク在住のジャーナリスト、アリッサ・クォートはその著書『ブランド中毒にされる子どもたち』で現代の若者文化に厳しい目を向け、発見したことにショックを受けている。化粧をする十二歳以下の子供たち。企業の「トレンド予測者」として働くティーンエイジャーたち。ステロイドを常用したり、美容整形をしたり、モデル体型になるために断食する高校生たちーーみんな、どこもかしこもブランドだらけの海へと足を踏み入れている。

(中略)

クォートはちょっとしたパラドクスに自ら陥っている。彼女はもともと、周囲に同調しクールでいたいというティーンの欲望につけ込んでブランドを売りつける企業を批判している。それはけっこうだ。だが、その問題には手っとり早い解決策がある。教室からブランドを締め出す最も簡単な方法は、単に子供たちがそれを身につけるのを禁じることだ。制服を着せることだ。しかしこの解決策もまた、順応を課す訓練だからと認められない。そうして、生徒に自分の着る服を選ばせるのも制服を着せるのも、どちらも順応につながるのだとしたら、いったいどうすればいいのか?

クォートによれば、生徒たちがすべきことは反逆である。彼女は、地下室で音楽を演奏したり、街頭パーティーを催したり、お互いの髪を切りあったりすることで、社会批判と文化的創造性を結びつける「ドゥ・イット・ユアセルフ」パンクの活動や「カルチャー・ジャマー」を称賛する。これは以前どこかで聞いたことがあるぞ。六〇年代からずっとしていることじゃないか?

(p.213)

 

 中学や高校で学ランを着せられていたわたしとしては、実はを言うとヒースのような論者による「制服必要論」にはあまり賛同しない。学ランは暑いし重苦しいし不潔だし、女子の学校制服には痴漢などの性犯罪を誘発する側面がやはりあるだろう。また、「制服がないことで学校の規律が乱れたり過度なファッション競争が繰り広げられたりすることよりも、制服によって個人の自由や自律が抑圧されることの方がよっぽど深刻な問題だ」という主張はそれはそれでもっともなものであると思っている。その結論は、リバタリアニズムだけでなく、より穏当なリベラリズムからも導き出されるものであるだろう。……とはいえ、上記に引用した箇所は、「パンク」な活動を称賛する人々の滑稽さをうまくあらわしているようには思うけれど。

 

覚え書き:ポストモダンの「ごにょごにょ規範主義」、サンドバッグとしてのネオリベラリズム(と優生思想)

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 先ほどの記事でジョセフ・ヒースの「『批判的』研究の問題」を取り上げたことなので、この記事から面白いところをいくつか引用しよう。

 

さっき言ったように,「批判的社会科学」の志は,たんに規範的な決意に導かれた社会科学をもたらすことだけではなくて,そういう規範的な決意を明示的にすることでもある.ぼくが読んだこの手の本でいちばん大きな問題なのは,ほぼ例外なく,この後半部分〔明示化〕で失敗している点だ.著者たちは――ほんのひとにぎりの法学教授たちをのぞいて――規範的な論証をどう展開すればいいのかまるでわかっていなかった.それどころか,じぶんたちが採用しようとしている規範的な基準がどういうものなのかをはっきり述べるのを信じられないくらい忌避していた.その結果どうなるかといえば,本まるまる一冊を費やして,「ネオリベラリズム」だなんだといったものへの抵抗をもっと強めようとする.ところが,その「ネオリベラリズム」がいったいどういうものなのかは一向に述べられない.まして,それのなにがいけないのかなんてまるで示されない.

ずいぶん前のことだけど,ハーバマースがフーコーを批判する論稿を書いた.そこでハーバマースはフーコーのことを「ゴニョゴニョ規範主義」だと言って非難していた.どういうところを非難しているのかと言うと,フーコーの著作は明らかにあれやこれやの道徳的な懸念・関心にかきたてられて生まれているのに,当人はそうして傾倒している道徳的な事柄がどういうものなのか頑としてはっきり述べようとしなかった.そのかわりに,とかく「権力」「体制」といった規範的な意味合いがにじむ語彙を修辞的な装置に使って,じぶんの規範的な判断を読者が共有するよう仕向けつつ,その一方で,公式にはじぶんはべつにそんなことをしちゃいないと否認していた.つまり,問題は,フーコーがじぶんの価値観をこっそり忍び込ませつつそんなまねはしてませんとうそぶいていたところだ.ハーバマースに言わせれば,まがいものでない批判理論にそんなごまかしは無用だ.規範的な原理原則を明示的に導入して,それを擁護する合理的な議論を提示すべきだとハーバマースは論じた.

 

 この記事では社会科学に対する批判理論が取り上げられているが、倫理学におけるポストモダニズムや批判理論でも「ごにょごにょ規範主義」を感じることはある。たとえば、肉食と菜食の問題についてのポストモダニズム的(デリダ的)な主張だ*1。あるいは、功利主義や権利論に対するフェミニズム的批判理論である*2

 前者は明らかに「動物の苦しみのことについて気にかける必要はなく、肉食には何の問題もない」という主張を含有する議論であるが、その主張を表立って出してしまうと色々と批判にさらされて自分の主張の脆弱さがバレてしまうので、主流派の動物倫理の"差別性"とか"欺瞞"をあれこれと並べ立てることで「なるほど、菜食の義務を主張する動物倫理の主張は一見反差別でありながら実は差別的な発想が隠されているんだ、じゃあそんな差別的な発想に従っちゃいけないからこれまで通りに肉を食べてもいいんだね」と誘導するような議論であった(ゲイリー・シュタイナーが言うところの「気分を良くするための倫理学」である)。

 後者は動物の道徳的地位を認めてはいるものの、「動物には痛覚や意識能力があるから、動物には道徳的地位がある」と言明してしまうことで優生思想だとか選別の思想だとか批判されることを避けるために、主流派の理論を批判しつつ自分たちの具体的な理路や結論は曖昧なところに隠してしまって、「わたしは動物への道徳的配慮の必要性を認めていますが、功利主義者や権利論者のような差別的な理路には与しませんよ」という体裁だけを整えて「いい顔」をするのだ。

 結論を明示することで露わになってしまう自分の主張の脆弱さを隠して、批判に対する応答責任を避けること、そして他の理論よりも一方上なメタ的な立場に身を置くことで体裁を良くすること……ここら辺が「ごにょごにょ規範主義」のキモであるのだろう。

 

 また、生命倫理においても、安楽死や中絶をめぐる議論で「ごにょごにょ規範主義」を感じることがある。安楽死については、あきらかに「安楽死は認められない」と考えているであろう人が、そこの結論はごまかしたまま、自己決定権の幻想や"生権力"を云々しつづける*3。中絶についても、「女性の自己決定権は胎児の生きる権利に優先する」と言明してしまえばいいものを、それだけは言わずに、女性の身体に対する"生権力"の介入を論じたり「権利と権利の対立という発想自体に男性的な発想が隠されている」などと批判したりしながら外堀を埋めていって、「中絶に反対するやつは悪どいやつだ」という結論をなんとなく匂わせたりする。生命倫理は文字通り生命に関わる問題であるために、結論を言明してしまうと冷酷さや悪人っぽさが生じてしまうおそれがあるので、それをごまかすことに腐心するのだ。

 ついでに言うと、トロッコ問題に対するよくある批判も「ごにょごにょ規範主義」の一種かもしれない。たとえば、「人間を目的ではなく手段として扱うことは許されない」「5人を救うためであっても、1人を犠牲にすることは許されない」という主張は一見すると立派で見栄えがいいが、「じゃあこれこれこういう場合でも"手段として扱う"ことになるからダメなんですか?」「1人を犠牲にすればこれだけの人が助かる場合であっても、犠牲にすることは許されないと言い続けるんですか?」などの批判が発生して、それに応答するうちに立場が苦しくなってくる。その逆の立場(「5人を救うためなら、1人を犠牲にすることは許される」)も事情は一緒だ。だから、トロッコ問題という思考実験の恣意性とか権力性を批判することで、トロッコ問題を出してくる相手の悪人っぽさを指摘しつつ、自分の抱いている結論を言明することは回避するのだ*4

 

たとえば,ずいぶん前から,批判的研究で「ネオリベラル」という言葉が最重要語として機能しているのは気づいていた.事情を知らない人に説明しよう.「ネオリベラリズム」の基本的な問題はこういうことだ.この言葉はでっちあげだ.フーコーによって人口に膾炙するようになった単語で,実はフーコー当人も理解してなかった経済的なあれこれの考えについて語るのに使われているにすぎない.じぶんから「はい自分がネオリベラルです」と称している人たちなんて,どこにもいない.そのため,それが指す事柄にはなんの制約もかかっていないし,「ネオリベラリズム」について主張される批判に応えるべき人間もいない.「ネオリベラル」を,他の「保守」「リバタリアン」といった言葉と比べてみるといい.「リバタリアン」を自称する人たちは実在するから,もしもリバタリアニズムを批判する文章を書けば,現実のリバタリアンが「おまえの言い分はおかしい」と言って反論を書いてよこすかもしれない.一方,「ネオリベラリズム」の場合には,なんでも好き放題に言える.なにを言っても,生身のネオリベラルが「お前の言い分はおかしい」と反論を書いてよこす心配はない――そんな人がどこにもいないからだ.その結果,著作でこの言葉を使う人たちはようするにこうあけすけに宣言しているにひとしくなっている.「私が意図している読者層は,同じ左派のエコーチャンバーですよ.」 エコーチャンバー外の人たちとやりとりしようとのぞんでいるなら,エコーチャンバー外にいる人たちがみずから自覚して実際に掲げているイデオロギーをとりあげないといけないだろう.(この点で,ネオリベラリズムを批判する人たちは大学業界の臆病ライオンだ.そんないわれはないと思うなら,実際の右派を見つけて議論してみてはいかが?)

ただ,ネオリベラルを自認する人がどこにもいないおかげで叶ってしまった望みが1つある.「ネオリベラル」という言葉を使うと,その文章を届ける相手がせばめられて,根っこの規範的な判断を共有している人たちに限定される.すると,この大学教員たちは「ネオリベラリズムはわるいもの」という信念にみんながすっかり賛同している気分になれる.ざっくり言えば,「ネオリベラリズムはなにか市場原理主義に関連していて,マーガレット・サッチャーロナルド・レーガンにはじまって,それ以来,公共のすみずみにまで侵入しはじめた」と考えられている.それにとどまらず,「ネオリベラリズム」は実にいろんなものを意味して使われている.(一例:政府の社会プログラムで〔受給資格を満たしているかどうか確かめるために〕家計調査をするのは「ネオリベラル」だろうか? 「ネオリベラルだ」と考える著者たちもいるし,そう考えない著者たちもいる.どちらにしても,どうしてその結論になるのか説明する人はいない.どうやら,直感で判定しているらしい――「家計調査は給付を拒否する手段なんだ」と考えるか,それとも「家計調査をすることで社会プログラムは累進的になり格差是正がはかられるんだ」と考えるかでちがってくるわけだ.ともあれ,福祉給付の申し込みにあたって書類記入が必要になるという事実だけでも,批判的研究をやっている人たちは「従順な身体の(再)生産につながる」「ネオ植民地国家(だかなんだか)を正常化する目的を推し進めるねらいである」といって非難しがちだ.

段ボールいっぱいの本を読んでみてなによりびっくりしたのは,「ネオリベラル」という言葉を侮蔑的に使っていた10冊のうち,この言葉で意図される意味についてなにかしら説明している本が1冊しかなかったことだ(興味深いことに,その1冊は,マルクス主義の視座をとると明言して書かれていた唯一の本だった).おそらくいちばんわけがわからない本は,「新保守主義〔「ネオコン」〕」という用語も定義抜きで――しかも国際関係論の意味ではなく――使っていた1冊だった.議論を追いかけてみると,どうやら著者が新保守主義をとてつもなくわるいものだと考えているのはありありとわかるし,ネオリベラリズムとはどこかちがうものと考えているのもわかる.けれど,どこがどうちがうと考えているのかはまるっきり不明だった.

 

 ……実はいうと、わたし自身も「ネオリベラリズム」という単語を藁人形的に使用してしまったことはあるので、これに関してはあまり強いことは言えない*5。しかし、たしかに、「ネオリベラリズム」という単語が都合のいいサンドバッグとして使われていることは色々な本やネット上での議論を見ていても良く感じるところだ。ヒースの言うように、自分のことを「ネオリベラリストです」と自称する人なんていないんだから、サンドバッグとして無限に叩ける概念ではあることは否めない。

 同じようにサンドバッグとして用いられている概念はというと……またもや生命倫理の話題になってしまうが、「優生思想」がそれだろう。ナチス以前の時代には優生学に対して現在のような負のイメージはなかったので、優生学者を自称して優生学運動を行う人たちはいた。しかし、ナチス以後の現在では、自分のことを優生学者だとか優生主義者だなんて自称する人なんてほぼ皆無である。……だが、安楽死出生前診断の問題に関する議論では、批判すべき行動のラベリングとして「優生思想」という言葉がかなり頻繁に用いられる。はては、恋愛や子作りのパートナー選びすら「優生思想」とラベリングされるようになった始末だ*6

 優生思想には"内なる"という修飾語が用いられることが多いことも象徴的だ*7。自分自身の価値観や考え方について反省する文脈で「内なる優生思想」という言葉を用いるのに留めるなら、問題ないだろう。だが、議論において、他人の主張に対して「内なる〇〇思想」や「内なる〇〇主義」を見出すことは禁じ手である。それを言い出したらなんだって言えてしまうし、議論というものが成立しなくなってしまうからだ。

 

 

 

*1:

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

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*3:

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*4:

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*5:

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ただし、「若者はなぜネオリベ化するのか?」の記事ではある種の"性向"とか"心情"をあらわす言葉として、あえて"ネオリベ"という言葉を採用した、というつもりではある。

*6:

anond.hatelabo.jp

*7:

news.yahoo.co.jp

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