道徳的動物日記

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ミルの「個性」と「卓越性」(読書メモ:『ロールズ政治哲学史講義』)

 

 

 

 ホッブズやロックやヒュームやルソーやミルやマルクスについてのロールズによる解釈を読むことで、ロールズ自身による「公正としての正義」とか「リベラリズム」とか「公共的理性」についての考えも直接的・間接的に伝わってくる……というのがウリであると思うんだけれど、なにしろ講義録であり、紹介されている各思想家のテキストを事前に読んでいたり手元にあったりすることが前提となっているフシもあるし、不自然な傍点も多かったりして、お世辞にも「おもしろい」とは言えない。教科書としても、もっと読みやすく理解しやすい本はごまんとあるだろう。

 

 とはいえ、ところどころ、印象に残る箇所もある。たとえば、ミルの議論における「個性」や「卓越性」について扱っている箇所は、他の(日本人による)ミルの解説書や研究書に比べてバランスが取れていて内容も充実しているとは思った。

 以下、写経。

 

私は、見るが、他の人々と異なった者であるために自分を他の人々と異なったものにしなければならない、と言おうとしているとは思いません。むしろ、彼が言わんとしているのは、生のプランが他者のそれと類似していようといまいと、私たちはそのプランを自分自身のものにしなければならない、すなわち、その意味を理解し、それを自分の思想や性格に相応しいものへと具体化しなければならない、ということです。私たちは、言われるところの諸目的の選択者として、自分の生を選ぶ必要はまったくありません。むしろ、私たちは、相応の反省の後で自分の生き方を肯定することがあり、それにただ習慣として従うのではないということがあります。私たちは、思想、想像力、感情の力を十分にかつ自由にはたらかせることによって、自分の生き方を理解できるところまで達し、そのより深い意味合いを洞察できるようになるのです。そういう仕方で、私たちはその生き方を自分のものにしていくのです。たとえ、その生き方がそれ自体旧くからあるものであり、その意味で伝統的であるとしても。

私がこの問題に言及するのは、ミルは、異性であること(エクセントリシティ)を強調し、自分のやりたいようにやることを強調した、としばしば言われるからです。これは誤読だと私は思います。たしかに、彼は、自由な制度がより大きな文化的多様性を導くだろうと予期していますし、彼はそれを望ましいと考えています。しかし、彼の強調は、自由な自己発展と自己陶冶にあります。後者は自己規律を含意していますし、両者のいずれか、あるいはその双方とも異例であることと混同されてはなりません。ミルの基本的な考えは、私たちの関心は、私たちの思想や性格を自由にかつ反省的に形成するものとして理解された個性にあり、その形成は、万人にとっての平等な正義の権利によって課される厳格な規則の枠内で行われる、ということです。

(p.556 - 557)

 

まず、ミルは、称賛すべきものや卓抜したもの、その反対の品位の劣るものや軽蔑すべきものという卓越主義的な価値の存在をたしかに認めています。しかも、それは、彼にとって重要な価値です。さらに、彼は、私たちがそうした価値を承認していることと考えています。というのも、そうした価値は、尊厳の原理という形をとって、何が私たちに相応しいかについての判断をつねに含む確固とした選好の基準という彼の中心的観念の根底にあるからです。このように、卓越主義的な価値の存在と、それが私たちにとって非常に重要なものであることを私たちが承認することは、彼の規範的な教義の根本的な部分をなしており、彼の基本的な人間心理学によって支持されているものです。

しかしながら、自由原理ーーそれはk、個人の自由を制限する卓越主義的な根拠を排除しますーーの内容という観点から見るかぎり、そういう[卓越主義的な]価値は、法や強制的な社会的圧力としての共通の道徳的意見という拘束力(サンクション)を課すことで得られるものではありません。それを私たち自身の価値とするかどうかは、私たちの一人ひとりが友人や仲間とともにどうするかに依存しています。その意味で、彼の教義は卓越主義的ではありません。

 (……中略……)

卓越主義的な価値を実現する活動を追求するよう人々に強いることは不要である、と彼なら言うだろうと思います。そして、正義および自由の制度がはたらいていない場合にそのようにすることは有益というよりも有害である、と述べると思います。これに対して、そうした制度が十分にはたらいているなら、卓越という価値は、正義および自由の制度の拘束のもとで、自由な生き方や結社のうちに最も適切な仕方で実現されることになるでしょう。正義および自由という価値は、根本的な背景の役割を担っており、その意味でそれらには一定の優先が与えられているのです。ミルは、自分は、卓越主義的な価値にそれに相応しい位置づけを与えたのだと言うはずです。

(p.559 - 561)

 

「利他」は「理性」に由来する(読書メモ:『The Kindness of Strangers』)

 

 

 ここではざっくりとしか紹介しないので、各章ごとのちゃんとした要約はShoreBirdさんのほうを参照してください。

 

shorebird.hatenablog.com

 

 この本で扱われるのは、「なぜ現在の私たちは、血も繋がっていなければ済んでいるところも遥か遠くにいえる見知らぬ他人に対して親切心や同情心を抱けるようになり、ときとして彼らを支援するようになったのか」ということ。

 たとえば、ニュースで犯罪や事故の被害者のことを知るとわたしたちは「かわいそうだ」と思うし、外国における戦争や災害の犠牲者の存在を知っても心を痛める。そして、身銭を切って「寄付」というかたちで彼らを支援することもあるだろう。また、貧困層や高齢者、病気になった人、あるいは孤児などの弱者を支援するための福祉制度に、多くの人は多かれ少なかれ賛成している。その福祉を維持するために税金を払ったりなどの様々な負担が自分にかかるとしても、だ。

 これらは、進化や生物学に関する一般的な考え方では説明できない。遠くの見知らぬ人にまで親切心を抱いて、コストを払って彼らを助ける行動をする傾向には、それに見合うベネフィットが存在するとは考えられない。そして、自然淘汰の原理をふまえると、コストが大きくベネフィットの存在しない特性というものは後の世代に受け継がれる前に消失していくはずだからである。

 

 ……とはいえ、ここ数十年においては、人間の「利他心」についての進化論的な説明もあれこれ発達してきた。それらの説明は、たとえば「"利他心"は一見するとコストばかりが存在しておりベネフィットが含まれないように見えるが、社会集団のなかで生活する人間が適応する環境とは"自然"のみならず"他人"が含まれていることに注目すると、実はベネフィットが存在することが見えてくる」というものであったりする。あるいは、淘汰の単位は「個体」ではなく「遺伝子」または「集団」であると仮定することで、個人にとってはコストがかかる行動が自然淘汰で消えずに引き継がれていることも合理的に説明できる、と論じる主張もある。

 というわけで、本書の前半では、「人間の利他心は進化論的に説明がつけられる」という主張の根拠としてよく持ち出される、「共感」「血縁淘汰」「群淘汰」について検討される。しかし、著者は、これらのいずれもが「遠くの見知らぬ他人に(コストを払ってまで)親切にする」ことを説明しない、と論じる。

 人間には他者の苦痛に共感したり同情したりする能力はたしかに備わっているが、その能力はあくまで身近な人間たちに囲まれた狭い集団のなかでうまくやっていくために進化してきたものだ。その力はひどく心許なく範囲も限定されており、自然な状態では、目の前にすらいない見知らぬ他人に対して共感能力がはたらくということはほとんどない。

 血縁淘汰の理論は、わたしたちが遺伝子を共有する親族に協力したり利他的になったりする理由を説明する。血縁淘汰は現代社会にもたしかに存在しており、縁故主義の原因ともなっている。そして、ときに、「血のつながっていない相手でも親族であると誤認したり、"親族"の範囲を文化やイメージの力で拡大することで、血縁淘汰による利他心は見知らぬ人たちに対しても発動させられる」と論じられることもある。……しかし、そううまくはいかない。そんな風に他人を親族と「誤認」してしまうようなお人好しで間抜けな性質を持っている人は他の人たちからフリーライドされて利用されてしまうだろうから、その性質は早々に消え去るということは理論的に予測できる。そして、実際のところ、わたしたちには「自分と血縁が近い人」とそうでない人とを様々な手がかりによって識別する能力がきちんと備わっている。

 群淘汰(またはマルチレベル淘汰)に関しては、そもそも著者は(多くの進化心理学者と同じく)この理論自体に否定的である。「人間の持つ〇〇という性質は群淘汰が存在しないと説明できない」という主張の多くは、実際には血縁淘汰で説明がつく。また、仮に群淘汰理論が正確であるとしても、群淘汰が人間にもたらす性質は「利他心」であるとは限らない。むしろ、集団間での戦争を勝利に導かせる性質、つまり「身内びいき」や「他集団に対する残虐さ」をもたらす可能性のほうが高いのだ。

 しかし、進化心理学のなかにも、「利他心」を説明するうえで有力な理論が残っている。それが「互恵性」に関する理論だ*1。とくに、「AさんがBさんに親切にすることは、"Aさんは親切だ"という"評判"を集団内にもたらして、CさんやDさんなどがAさんによい態度で接するようになるから、Aさんにとってもプラスになる」という「間接互恵性」の理論は、見知らぬ他人に対する利他心を説明する理論として有力である、ということが指摘されている。ふさわしい環境や制度が整っていれば、親切にする相手が集団内ではなく集団外にいても、集団内での評判の向上につながるからだ。

 

 ……とはいえ、「間接互恵性」と「見知らぬ他人に対する利他心」が結びつくとしても、条件は限られている。それよりも、利他心の対象が拡がっていった経緯は、生物学的なものとは別の要員で説明したほうが適切である。ここで持ち出されるのが理性だ。本書の中盤から後半では、古代から現代にかけて人間の理性が発達するとともに利他行為の対象となる範囲が徐々に広がっていった経緯が、文明や思想や制度の発展とあわせて描写されていく。

 そこで書かれていることは、まあ、スティーブン・ピンカーの『暴力の人類史』と同じような感じである。農業の登場とそれに伴う国家の誕生により弱者も国家に包摂されて支援を得られるようになったこと、「黄金律」に表されるような平等主義・普遍主義を伴う宗教や哲学の登場、啓蒙思想や科学によって「貧困や飢餓とそれによってもたらされる苦痛には対処することが可能であるし、対処するべきである」と考えられるようになったこと、さらに理性と道徳の結び付きは現代になるにつれて強くなっていき科学的な貧困対策や効果的利他主義は当たり前のものとなっていったこと、などなど。それらを通じて「遠くの国に住んでいる見知らぬ他人だろうがわたしたちと同じ人間であるのだから、彼らを助けるのは当然だ」という発想を、いまやわたしたちの大半が身に付けるようになったのだ。最終章では「これからもさらに理性は発展していくので、それにつれて利他的行動の規模や範囲もどんどん拡大していくだろう(だから理性を敵視せずにガンガン理性を推してしていくべきだ)」といったことが述べられている。

 ここら辺の議論はどうしてもピンカーの焼き直しという感が強いのだが、哲学者たちの議論への注目の仕方が『暴力の人類史』とは少し違っているところは興味深い。この本のなかで特に推されているのがピーター・シンガー、チャールズ・ベイツ、オノラ・オニール、クワメ・アンソニーアッピア、ジョン・ロールズなどであるが、彼らはいずれもコスモポリタニズムや普遍的な博愛主義(利他主義)を理論化した*2。そして、現代において(先進国の)人々が、遠い他国の見知らぬ人が飢えに苦しんだり抑圧に苦しんだりすることを配慮できるようになった背景には、哲学者たちの議論も大きく影響していること……哲学は「象牙の塔」を飛び越えて個々人の価値観や国家の政策にも影響を与えていることが指摘されているのである。「哲学者は"道徳の専門家"として振る舞えるし、実際にそう振る舞って人々の価値観や考え方を善導すべきである」というシンガーの(哲学者たちの間からも嫌われがちな)考え方が肯定的に引かれているのもおもしろいところだ*3

 

 本の前半における「互恵性」や「群淘汰理論(の間違い)」に関する議論はけっこう高度なレベルの議論までもが平易に説明されていて、共感や協力行動に関する現代の進化心理学のスタンダードな知見がうまい具合にまとまっているところが魅力的。一方で、中盤以降は、哲学者の主張が多めに取り入れられている点を除いたらコンパクト版な『暴力の人類史』といった印象。

 とはいえ、マイケル・シャーマーの『道徳の弧』もそんな感じだったから、現代において生物学者・心理学者・自然科学者が「道徳」について人類史レベルで論じるとなったら多かれ少なかれ中身は似たようなものになってしまうのだろう。「現代社会の人類は、理性・科学・啓蒙主義が普及したことや、国家・交易・資本主義・民主主義などの制度が発達したおかげで、昔よりも遥かに道徳的な存在になることができた」という『暴力の人類史』のメインテーゼを大々的に否定することは困難であるだろうし。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

『The Kindness of Strangers』については、まあ面倒なので原著を読み返すことはもうなさそうだけれど、翻訳がでたらまた読んでみたい、くらいには思っている。日本の読者にとっても、とくに前半の生物学に関する議論は有益であるだろう。また、哲学を専攻している人とか哲学に興味のある人なら後半の議論もしっかり読むべきだ。

 

*1:たとえばチスイコウモリの「直接互恵性」に関する理論は、過去には「チスイコウモリの行動は血縁淘汰で説明できて、互恵性など存在しない」という反論があったが、それに対して再反論があって、現在は互恵性による説明のほうが有力になっている、ということも本書では説明されている。

*2:

 

 

 

www.msz.co.jp

*3:

philpapers.org

公共的理性とはなんぞや(読書メモ:『ロールズと自由な社会のジェンダー』)

 

 

 

リベラルな民主主義社会の理念では、私たちは自らの政治社会のあり方を対話によって定める。私たちが政治社会のあり方をめぐって対話する際に求められるのは、そこに「相互性」が具現化されていることだとロールズはいう。相互性という価値を具現化した対話の理念、それがロールズの提案する「公共的理性 publice reason」である。公共的理性の理念は、「私たちが市民として他の市民とどのような関係を結ぶべきかに関する理念である」。

ここで、「理性」という言葉が多義的に使われいることには注意が必要だ。それは対話するという「活動」であり、対話の「内容」であり、また対話において各種の提案に添えられるさまざまな「理由」でもある。理性という言葉を聞くと、私たちは非人格的に該当する「正しい論理」の使用や探求をイメージしがちだが、ロールズのいう理性はそういうものではない(場合によってはそれも要素として含みうるが)。公共的理性はむしろ、他者へ呼びかけであり、呼びかけへの応答である。公共的理性の営みのなかで私たちは互いに、お互いをひとつの政治社会の対等な一員とまなざす視点から、共生と呼べる社会の実現に向けて他者に呼びかけ、また応答する。公共的理性がめざすのは、さまざまな社会制度のよりよいあり方を探ることだけでなく、公共的理性をめざす共同の対話に他の市民とともに参加することそのものによって、私たちがひとつの政治社会を自由な共生として編み出していくことである。

公共的理性は、相互性という価値を具現化する共生に向けた対話である。ロールズ自身はこれを次のように表現する。

 

[公共的理性に導かれることで]みなが理にかなったものとして受け入れうる考え方のもとで他者と政治的に共生するという……理念を実現することができる。

 

つまり、他のあらゆる市民によって受け入れるべきものとして受け入れられうる共生の理の探求へと動機づけられた対話が公共的理性だというのである。

 

(p.37-39)

 

 相変わらずロールズは難しいのだけれど、「公共的理性」とはこういうものだと説明されるとわかりやすい。要するに相手と自分が対等であると認めて、「自分はこれこれこういう理由から社会はこうあるべきだと考える」ということを相手にも伝わるかたちで、相手の理性に訴えかけるかたちで述べて、それで相手からの反論も受け止めつつ「社会はこうあるべきだ」ということについての合意を探っていく……みたいな感じだろう。

 

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

読書メモ:『エピクテートス:ストア哲学入門』

 

 

 当然のことながら自分で買える金額じゃなくなっているので図書館で借りて読んだ。

 

……ギリシア的教養は何れにしても知的で、それを学ぶためにはそれだけの時間や余裕が必要であった。したがってそれを持たない者には、結局、縁がないということにならざるを得なかった。しかし本当をいえば、それらの余裕を持たない者たちこそが、ゆとりを与えられ、平静、幸福であるべきなのである。かくてこのようなどん底生活を余儀なくされている弱者のために生れたのが、当時振興のクリスト教であった。そこには神の言葉としてどうかと思われるものもないではないが、その教えは明快にして容易、要はただそのまま信ずるということであった。

(p.31)

 

哲学(倫理学)と宗教の違いをうまく表しているように思える。

 

エピクテートスはずっと独身であった。それは足が不自由な故であったか、それとも貧乏な故であったかはわからない。けれども普通の人には結婚を是認し、かつすすめている。むしろ彼えはエピクーロス派の、子供を育てないとか、公事に携わるなという考えに反対し、人間が絶滅しないためにも、人間の社会性のためにも結婚や子供の育成を説き、人間は公事にたずさわり社会の仕事の一旦を荷なうべきであると説く。

(p.18)

 

「他者」や「外部」によって自分の感情や思想が影響を受けないにしよう、というのがストア哲学の基本方針であるが、一方でエピクテトスに限らず多くのストア哲学者は結婚・育児や公事に関係することの価値も説くようだ。いままでは矛盾とか論理的一貫性の欠如に思えていたけれど、最近はそうでもないように思えてきた。まあこの点についてはもっと考えを深めていきたい。

 

知者たろうと発心する以前の人を、普通の人、もしくは素人と言う。そういう人たちの間では、何か不幸せなことがあれば、その原因をみな外部に帰する。つまり自分は親のせいで不幸なのだとか、兄弟の故に貧乏なのだとする如きである。しかしエピクテートスでは不幸、不仕合せの原因を外部にはおかない。

(p.61)

 

当たり前だけれどストア哲学では「親ガチャ」論は否定されるわけだ。

 

…これらの動物[ロバなど]も活動するためには心像を使用せねばならない。欲求も意欲も、また拒否や忌避もなければならない。しかし人間の場合とは異なる。人間の場合は正確にいえば、心像の使用にしても、正しく用いるので、「正しく」がつくか、あるいは心像の使用に「理解」が伴わねばならない。本能的に心像を使用したり、模倣して使用するのは、では何故であるか、目的も原因も理解もないわけである。が、この理解あってはじめて自然、もしくは神の目ざすところに協力し、意図に沿うこともできるのである。

(p.81-82)

 

人間と動物の違い。パーソン論とか、「動物は道徳的に行為できるか」というところにも関わってくるだろう。

 

エピクテートスがロゴスを意志と同じに用いたことは、さきに述べた。彼はある時は人間をロゴスだというが、ある時は「君は肉や髪の毛ではなく意志だ」と言う。そして彼は善や悪を意志におくのである。彼は善をロゴスにおいてはいるけれども、悪をもロゴスにあるとは言わなかった。それに対し意志の場合には、善と同様悪も意志の中にあるのである。この点ロゴスと意志とは同じではない。ロゴスは意欲、衝動によってくらまされることがないとはいわないが、正しいのが建て前である。けれども意志の場合には、善くも悪くもあり得る。故に正しい意志とか善い意志という表現になる。つまり意志が正しい、善い意思であるためには理性に照されるのでなければならぬ。

(p.88-89)

 

ここら辺はカント倫理とも進化倫理とも関わってきそうだ。

 

 

フェミニズムの「むずかしさ」に向き合う(読書メモ:『むずかしい女性が変えてきた:あたらしいフェミニズム史』)

 

 

 出版社による紹介は下記の通り。

 

女性が劣位に置かれている状況を変えてきた女性のなかには、品行方正ではない者がいた。危険な思想に傾く者も、暴力に訴える者さえもいた。
たとえばキャロライン・ノートン。19世紀に困難な離婚裁判を戦い抜いて貴重な前例をつくった人物だが、「女性は生まれながらにして男性に劣る」と書き残した。たとえばサフラジェットたち。女性の参政権獲得に欠かせない存在だったが、放火や爆破などのテロ行為に及ぶこともあった。たとえばマリー・ストープス。避妊の普及に尽力し多産に悩む多くの女性を救った彼女は、優生思想への関心を隠さなかった。
しかしだからといって、その功績をなかったことにしてはいけない。逆に功績があるからといって、問題をなかったことにしてはいけない。歴史は、長所も短所もある一人ひとりの人間が、身近な不合理を少しずつ変えることでつくられてきた。
「むずかしい女性」たちがつくってきたこうした歴史の複雑さを、イギリス気鋭のジャーナリスト、ヘレン・ルイスが余すことなく本書のなかに描き出す。イギリス女性史と現代社会の出来事とを自在に往還してあぶり出される問題は、女性だけではなく社会全体の問題であることが見えてくる。社会の不合理や理不尽に立ち向かうための、あたらしいフェミニズム史。

 

むずかしい女性が変えてきた | みすず書房

 

 これまでの歴史において男性たちや家父長制と戦って女性差別的な制度を変革したり女性に対する抑圧やステレオタイプを打破してきたフェミニストたちであっても、現代の目から見ると、他の属性のマイノリティの人に対して差別的な考えを抱いていたり、社会の構造について誤って理解していたり、運動の方法が問題含みであったりした。

 しかし、そんな彼女たちを批判できるような現代における「先進的」なフェミニズムそれ自体が、彼女たちの戦いがなければもたらされなかったものだ。

 現代よりも遥かに抑圧的で男性優位な構造のなかで「むずかしい女性」たちが過去に戦ってきたからこそ、多くの女性は男性たちからの嫌がらせや攻撃に怯えることなく「自分はフェミニストだ」と主張できるようになり、フェミニストであることによって社会から受ける不利益なども減ったりして、フェミニストが活動できる領域や扱える問題の範囲も拡大した。それに伴いフェミニズムの内部でも自己批判や反省が行われて、過去のフェミニズムの欠点を正したり過ちを乗り越えたりしながら理論を洗練させていき、思想としてのフェミニズムはより適切で複雑なものとなっていったが、その成果はやっぱり問題含みの「むずかしい女性」たちの働きが最初になければもたらされなかったものである……という、それ自体が「むずかしい」ジレンマに切り込んだ内容の本である。

 

 著者のヘレン・ルイスは学者ではなくジャーナリストであるために、この本の構成もアカデミックというよりかはジャーナリスティックだ。章ごとに「離婚」「セックス」「安全」といった問題が取り上げられて、その問題に関する過去における女性差別の状況とその問題について戦った(主にイギリスの)歴史上のフェミニストについてのエピソードと、著者個人に関するエピソードや現代のフェミニズムの状況についてがごちゃ混ぜ気味に記述されている。

 したがって、アカデミックな本のように一本筋の通った理論や見解が明示されているわけではないし、エピソードや資料の取り上げ方に歴史学的な厳密さがあるわけでもない。……度々書いているが、わたしはジャーナリスティックな本については読むのも感想を書くのも苦手である。

 さらに言うと、著者の議論や主張の前提となっている、女性差別の構造や家父長や「女らしさ」に関するフェミニズム理論についても、わたしは必ずしも同意しているわけではない(著者の主張はフェミニストとしてはごく標準的なものではあるが)。

 ではなぜわざわざこの本を取り上げたかというと、現在の日本のTwitterでは、この本自体が「むずかしい」問題に巻き込まれているからである。

 

 副題の通り、この本はフェミニズムの歴史について扱った本であり、当然のことながら興味を示したり手に取ったりする人の多くはフェミニストであるだろう。……しかし、本国においては、著者は「トランスジェンダーを差別している」「トランスフォビアである」と批判されているようだ。

 そして、日本においても、フェミニズムに親和的なアカウントがこの本について紹介すると、別のフェミニストのアカウントが「その本の作者はトランスフォビアですよ」という"チクリ"を行い、本を紹介したアカウントもそれに反応して「この本はトランスフォビアな人によって書かれたものであるらしいです」と注意喚起したり謝罪したりする、という光景が見受けられたのである。

 この光景については、以下のようにつぶやいている。

 

 

 ……とはいえ、『むずかしい女性が変えてきた』を実際に手に取って読んでみると、たしかに、トランスジェンダーに関する記述には危ういところが見受けられた。

 具体的には第七章「恋愛」において、キャスリーン・ストックを引用したりしながら「レズビアントランスジェンダー女性とセックスすることに抵抗感を抱くことは非難されるようなことではない」という主張をしたり、トランスジェンダー男性とレズビアンとの違いを強調したりしているあたりは、(それ自体が差別的な主張であるかどうかは人によって判断が異なるだろうが)いわゆる「TERF」の人が言いそうなことではある。

 

 しかし、『むずかしい女性が変えてきた』のなかで著者がとくに批判しているのは、「フェミニストであるならこのような見解を抱くべきだ」「フェミニストはこのような主張をするべきでない」「フェミニストが奉じるべき"正解"とはこれだ」といわんばかりの、単純かつ硬直した教条主義である、という点を失念するべきではない。

 

……政治的な問題を語らずして、また矛盾や葛藤を語らずして女性を称賛することはできない。「とにかく旗を掲げよう。あれこれ質問はしないこと!」ーーこうしてフェミニズムの物語ができあがる。それに反対する者はみな、漫画に出てくるような悪役にされる、または、なぜか表に出てこない。苦労のすえに妥協点を見いだす必要はなく、内部で対立が起きたりもしない。ただ一つの真実の道が何かは明らかで、「善き人」はみなそれに従う。フェミニストこそ歴史の正しい側にいるのだから、世界がわたしたちについてくるのを待とう。

人生がそんなふうにいくわけがない。ブギーマン[ホラー映画のタイトルにもなっている伝説上の怪物]を何人かやっつければフェミニストが勝利するなら、ことは簡単だが、ドナルド・トランプのような不気味な性差別主義者が権力を握ってしまう。投票する人がいるからだ。女性の身体上の欠点を取り上げる雑誌やウェブサイトをいちばん利用するのは女性だ。中絶の権利を擁護するかしないかに、ジェンダーによる差異はない。人間は複雑であり、進歩を遂げるということも複雑だ。現代のフェミニズムが先鋭さに欠けると感じられるなら、それは二つの手段に逃げているからだ。一つは意味もなくただ称賛するだけであり、もう一つは明らかな敵がわかっているのにまともに対決しない。どちらも複雑さと向き合っておらず、何も変えられない。

女性の歴史が、ヒロインを探し求める上っ面だけのものであってはならない。フェミニストたちのあいだで非難しあう状況を、わたしはたびたび目にしてきた。パンクハースト家の人々(専制君主たち)、アンドレア・ドウォーキン(先鋭的すぎる)、ジェーン・オースティン(あまりにも中産階級的)、マーガレット・アトウッドセクシュアルハラスメントの正当な法的手続きを気にしすぎる)、ジャーメイン・グリア(どこから始めればよいのか)などなど。最近わたしは、アメリカ合衆国最高裁判所判事に指名されたブレット・カバノーにわたしが共感を示したことを「問題だ」とする記事を読んだ。わたしの「罪」は、カバノーが指名承認公聴会でメディアにさらし者のようにされたことについて、性的暴行で訴えられた人でももっとまともに扱われるべきだ、と言ったことだった[カバノーは複数の女性から性的暴行で訴えられていた]。この非難には、面倒な問題を単純であるかのように見せかけたいという強い願望が反映されている。傷ついた人間が巨大で複雑な体制のなかで苦しむのはたくさんだーー世の中には良い人と悪い人がいて、誰が良い人で悪い人かぐらい簡単にわかるだろう、というものだ。しかし、そんな考え方はあまりにお粗末で子どもじみている。わたしたちは抵抗すべきだ。わたしは、フェミニストの先駆者たちが単純ではなかったことにあらためて光を当てたい。それによって、先駆者たちが残したものに疑問が投げかけられるかもしれない。フェミニスたちはとんでもない戦略を選択したのかもしれないし、訴えていた理想に自分自身が応えられていなかったかもしれない。それでも、重要な足跡を残した。こういった複雑さも物語の一部なのだ。

 

(p.3-4)

 

  また、日本でも見かけられるような「オンライン・フェミニズム」に対して、手厳しい批判が行われている。

 

[2011年に著者が左翼系週刊誌『ニューステーツマン』の副編集長になってからの]それからの数年は地獄のようだった。内戦のフェミニズム版だ。まっとうな批判と不当な批判がまじりあって一つの巨大な叫びとなり、Twitterで増幅され、誰もが憤慨し傷ついた。決まって出てくる話題があった。Xは特権階級だから、彼女が訴えるフェミニズムは、現実が見えていない。Yは言葉の使い方や考え方に「問題があった」ので、謝罪すべきだ。Zはトランスフォビアで「白人のフェミニスト」で、あまり「インターセクショナル」でない。「インターセクショナル」は、その何年か前までは耳慣れない言葉だったが、にわかによく聞かれるようになっていた。しかし、アメリカの法学者キンバリー・ウィリアム・クレンショーが定義した本来の意味にはほとんど注意が払われていなかった。批判には根拠があることもあった。あるときわたしは、黒人のフェミニスト二人からお茶に誘われ、わたしが企画しているキャンペーンでは有色人種の女性が取り上げられていない、と言われた。ツイッター上の数々の論争で傷ついていたので、自分の立場を弁護したが、彼女たちの話に礼儀正しくただ耳を傾けたほうがよかったかもしれない。また別のときには、こうした批判は、妬みから出てきたのだろうと思われた。あるいは、「道徳的十字軍」の特徴である公正さと残酷さが入り混じって興奮しているためだろうと考えられた。ある著名な黒人フェミニストから、わたしは「EDLよりひどい」とTwitterで言われた。わたしの仕事について理解していないか、EDL(イングランド防衛同盟)がイスラム教を排斥しようとしている極右集団だということを理解していないかのどちらかのようだった。

 

(p.201 - 202)

 

オンライン・フェミニズムは言葉にとらわれすぎるようになった。司祭もどきの人が登場し、どんな言葉を使うべきか裁定を下す。怒りは変革の大きな原動力であるが、活動家たちの要求は力を持つ者によって「急進的すぎる」とか「あまりに攻撃的」とされ、しばしば切り捨てられる。しかしいっぽうで、激烈な怒りがそれ自体で価値あるものとして賞賛され、オンライン・フェミニストたちは、真摯な怒りと単なる悪意とを区別する力を失ってしまった。さらに悪いことに、「アライ」を自称する者たちが、自分たちの正義を誇示するため大げさに仲間を非難し、完全に「魔女狩り」のようになっていた。「有色人種の女性が理論的に正当とは言えない論点を提示しても、これを白人のフェミニストが正当だとして議論することがある。自分はインターセクショナルなのだと競い合ってひけらかしているようで、わたしは不快に感じるし気がかりでもある」と、ウェブサイト「Jezebel」を創設した黒人のアナ・ホームズが、ミシェル・ゴールドバーグに語っている。ホームズはこうした風潮を「不誠実」で「恩着せがましい」と考えている。

 

(p.204)

 

 そして、『むずかしい女性が変えてきた』が批判しているオンライン・フェミニズムの問題が、当の『むずかしい女性が変えてきた』を対象としながら、日本でも繰り返されているわけなのである。

 

 わたしはトランスジェンダーが関わる諸々の議論についてはまだ自分の意見やスタンスを決めかねているが、とりあえず、引用部分で示されているようなオンライン・フェミニズムの問題はとくにトランスジェンダー(または「トランスフォビア」)が関わるトピックで浮上することが多い、という点は指摘できるだろう。

 したがって、「言論の自由」をテーマとした下記の記事においても、具体例としてトランスジェンダーに関する哲学論文とそれに対する検閲を巡る問題を取り上げることにした。

 

s-scrap.com

 

 また、「インターセクショナリティ」の問題についてもこのブログでたびたび取り上げてきた。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

『むずかしい女性が変えてきた』で指摘されているような問題は、フェミニズムに限らずひろく社会運動全般やSNSでの言論活動一般に当てはまることかもしれない、という視点も忘れるべきではないだろう。

 

"意図に基づいた愛"を実践する方法(読書メモ:『How to Not Die Alone(独身のまま死なないために)』)

 

 

 久しぶりに洋書の紹介。

 

 本書のタイトルは How to Not Die Alone: The Surprising Science That Will Help You Find Love (『独身のまま死なないために:愛を探すための驚きの科学』)。副題に"科学"という単語が含まれている通り、著者のローガン・ウライは行動科学者。

 ハーバードで心理学を学び、Google社で行動経済学者のダン・アリエリーとチームを組んで研究した(その研究の成果は『予想どおりに不合理』に取り入れられている)後に、「自分がこれまでに学んできた行動科学のツールを恋愛関係にも応用して、人々が恋愛においてより良い選択ができるように助けることはできないか?」と考えて恋愛アドバイザーになった、という経歴の持ち主だ。

 

 本書で展開されるのは、Intentional Love(意図に基づいた愛)を実践するための方法である。

 

意図に基づいた愛は、あなたの恋愛生活を偶然ではなく選択の連続だと見なすことを求める。本書は、[恋愛について]知識と目的を持つことについての本だ。あなたの悪い習慣を自覚して、デートのやり方を修正して、重要な会話を相手とするための知識と目的を持つことについて、である。

(p.1)

 

パートナーを選ぶことはそれ自体がかなり大変なタスクであるうえに、古くさい考えや間違ったアドバイス、社会や家族からのプレッシャーがさらにそれを困難にしている。しかし、いままで、人々の愛の探求をサポートするために行動科学を応用した人はいなかった。その理由は、愛は科学的分析なんてものともしないマジカルな現象である、とわたしたちが考えているからかもしれない。あるいは、この批判を恐れていたのかもしれない:「合理的に恋愛したい人なんているわけないでしょう?」。だけれど、それは違う。わたしは、出会いの可能性を全て分析して「だれと付き合うべきか」を算出する超合理的なコンピューターになれ、とあなたに求めているわけではない。わたしの仕事は、あなたの恋愛にとって支障になっている盲点を発見して、それを克服するためのお手伝いをすることだ。

(p.4)

 

  著者によると、恋愛に困っている人たちの多くが、以下の3種類のパーソナリティのいずれかに分類される。

 

  • ロマン主義(The Romaticizer):恋愛関係に対して非現実的な期待を抱いている。
  • 最大化主義者(The Maximizer):パートナーに対して非現実的な期待を抱いている。
  • ためらっている人(The Hesitater):自分自身に対して非現実的な期待を抱いている。

 

 ロマン主義者が問題であることは、恋愛について「現実的」な知識を持っている人にとってはわかりやすいだろう。

「運命の人と一緒だったら、何が起こっても上手くいく」というのは幻想であり、パートナーと長く付き合っていくためには、途中で様々なトラブルや衝突が発生することを織り込んだうえで、二人で困難に立ち向かっていかなければならない。「ただしい相手を発見しさえすれば、成功した恋愛関係が得られる」という「運命の人」マインドセット(soul mate mindset)は現実にそぐわない。わたしたちが持つべきなのは、「成功した恋愛関係のためには継続した努力が必要である」と認識する「やっていこう」マインドセット(work-it-out mindset)なのである。

 これと関係して、デートにおいて「一目惚れ」(Spark)にこだわるのも止めた方がよい、とも著者は指摘している。初対面で伝わるような魅力とは外見や性に関するものでしかなく、相手の性格や自分との相性が測れるわけではない(むしろ、ナルシストであるなどの性格に問題のある人のほうが初対面だけなら魅力的であったりする)。一目惚れで始まっても良好な関係を築ける可能性はあるが、そうでない場合も沢山あるのだ。さらにいうと、初回のセックスがどれだけ上手くいったかどうかも重要ではない、と著者は指摘している。相手のテクニックがどうであれ、回数を重ねれば互いのリズムや性感帯などを理解しあってよいセックスができるようになっていくものだからだ(また、努力しなくても女性が寄ってくるイケメンはテクニックを磨くインセンティブが湧かないためにむしろセックスが下手であることが多い、とも女性読者向けに指摘されている)。

 

 本書で書かれている指摘のなかでもわたしがとくに面白く思ったのは、一見すると「合理的」に見える最大化主義者が、ロマン主義者と同じく非合理的であるという点である。

 最大化主義者は「自分にとってふさわしい人はこれこれこういう条件を満たさなければならない」と考えているが、彼や彼女の基準を実際に満たす人はほとんどいない。いざ誰かと付き合ったときにも「もっといい人がいるかもしれない」「この人がこの世で一番いい相手というわけでもないから、より良い相手が見つかったら乗り換えよう」と考えてしまう。このような考え方は表面的には合理的であるが、実際にはロマン主義者と同様に「青い鳥」を求めているに過ぎない。問題なのは、このようなマインドセットを持っている限り、彼や彼女が現実に経験している恋愛から得られる楽しさや幸福は減退し続けることだ。

 これは恋愛に限らず何事にも当てはまることであるが、「自分は優れた選択をしたか」という客観的な結果と「その選択について自分はどう思っているか」という主観的な経験は必ずしも一致しない。

 たとえばどこかに旅行したときに観光名所を2つしかまわれなかった可能性と3つまわれた可能性があったとして、前者であっても後者に負けず劣らず楽しい旅行になった、という場合はあるだろう(3つ目の名所に行けなかった代わりに2つの名所をじっくり観光できた、無理のないスケジュールのおかげで疲れなかった、など)。しかし、「あそこでバスの乗り換えがうまくいっていたら3つ目の観光名所にも行けたのに、しくじったな」と思うタイプの人は、3つまわれた場合にも「もっとうまくスケジュールを組んでいたら4つまわれたのに、しくじったな」と思うのがオチである。……そして、このような考え方を恋愛にまで適用すると、自分にとっても相手にとっても悲惨な関係をもたらしてしまうことになるのだ。

「最大化」思考に対する処方箋のひとつとして著者が提案するのが、目の前の相手が自分の基準に満たないと思っていたとしても、とりあえずその相手にコミットして深く付き合ってみることだ。わたしたちには自分の選択を後付けの理屈で合理化して「この選択は正しいものだった」と自分を説得させる「正当化バイアス」が備わっている。そもそもほんとうの意味で「客観的に優れた選択」なんて恋愛には存在しないのだから、相手がほどほど以上に良ければ、コミットした後に自分の認知を変えていくことのほうが合理的な選択だと言えるのだ。

 

 また、最大化主義者でなくとも、ある人が抱いている「自分はこれが欲しい」という主観的な願望がほんとうの意味でその人が必要としているものとは一致していない、それが得られたとしてもその人が幸福になるとは限らない、というのはよく生じる問題である。

「自分をほんとうに幸福にしてくれるものはなにか」ということについてわたしたちはとことん無知である、というのは幸福に関する議論では定番の問題だ。

 恋愛や結婚においても、わたしたちが相手に求める要素として「過大評価されがちだが、実際にはそれほど重要でないもの」と「過小評価されがちだが、実際には重要であるもの」が、それぞれに存在する。

 

 

●「過大評価されがちだが、実際にはそれほど重要でないもの」

  1. お金(低収入の夫婦は関係に不満を抱きがちではあるが、わたしたちは所得に適応してしまうので、一定の閾値を超えたら収入は夫婦関係に影響を与えない)
  2. 外見(わたしたちは相手の外見にも適応するので、イケメンだろうが美女だろうがそのうち飽きる)
  3. 性格が似ていること(自分と性格が異なり、互いの違いを補完するような相手とのほうが関係は長続きしやすい)
  4. 趣味が同じであること(「カップルは趣味を一緒に楽しむことが重要だ」と思われがちだが、うまくいくカップルとは相手の趣味にも興味を示しつつ、それぞれが自分の趣味を一人で楽しむことを許容するものである)

●「過小評価されがちだが、実際には重要であるもの」

  1. 精神的な安定と優しさ
  2. 寛大さ
  3. 成長を志向するマインドセット(「キャリアの成長」などではなくて、二人の関係性を良いものにしようと志向し続けてくれること)
  4. 相手の性格が、自分のなかの最良の部分を引き出してくれること
  5. 困難に対して適切に対処するスキル
  6. 「難しい決断を二人で一緒にする」という能力

 

 上記の通り、過大評価されがちな要素は、収入という客観的な指標があるものや、外見や趣味など簡単に判断が付きやすいものである。わたしたちには物質主義的なバイアスが備わっていることや、物事を判断する際に手っ取り早い指標を用いたがる傾向があることが影響しているだろう。

 その一方で、過少評価されがちな要素とは相手の人格のなかでもコアな部分であり、かなり曖昧なものであって、1度や2度のデートで見極めるのは困難である。時間をかけて少しずつ判断することが必要になるだろう。

 

 わたしたちが目に見える指標や手っ取り早い指標に惑わされてしまうことは、デートにも悪影響をもたらす。多くの人は、1度目のデートから「この人は恋人として合格であるか、不合格であるか」を判断しようとしてしまうのだ。

 

デートに影響を与えるのは、どこで会うかという物理的な場所だけではない。いつ会うか、なにをするか、デートに対してわたしたちが抱いているマインドセットのいずれもが、デートの環境であるのだ。

(…中略…)

…わたしのクライアントの多くが、愛を必死で求める一方で他のことにも忙しくするあまりに、デートから得られるはずの楽しみの全てを逃してしまっている。その代わりに彼や彼女が行なっているのが、わたしが評価的なデート(evaluative dating)と呼ぶものだ。…

評価的なデートの問題は、不快であるというだけではない。長期的な関係を築くためのパートナーを探すうえでは、ひどく非効率的な方法でもあるのだ。この章では、デートのマインドセットを評価的なものから体験的(experiential)なものに切り替える方法を教えよう。相手の履歴書を見ながら「この人はわたしにとって相応しいだろうか?わたしたちの間には充分な共通点があるだろうか?」と自問自答する就職面接のようなデートをするのをやめて、自分の頭のなかから外に出てデートの体験そのものに目を向けて、「わたしはこの人のことをどう感じているだろうか?」ということを考えるのだ。二人が一緒にいる時に物事がどう展開してるか、という点に注目する。好奇心を持ちながらデートする。驚くことをためらわないようにするのだ。

(p.150 - 151)

 

「評価的なデート」はやればやるほど楽しくなくなり、仕事のように感じられていく。「相手がどんな人間であるか、二人に共通点はあるか」というのを確かめることを何度も繰り返していると、会話のパターンや内容がマンネリ化してしまい、過去にも他の人と交わした応答を自動的に繰り返す作業のようになってしまうのだ。そして、このようなデートを繰り返している限り、相手の本質を知ることはできなくなるし、だれかと深い関係に突入する可能性も遠のいてしまう。

 一方で、「体験的なデート」を実践できれば、デートそのものが楽しくなるし、相手との愛着も深めやすくなり、相手のことを深く知りやすくなるだろう。

「体験的なデート」を実践するためのアドバイスは以下の通り。

 

  1. デート前から自分の気分を盛り上げるようにする。そのためのルーティンも考えて実践する(仕事の連絡をシャットアウトして「デートの日」感を強める、デート前にお気に入りのポッドキャストを聴く、エクササイズしたり長風呂したりしてスイッチを入れる、など)
  2. デートの場所や時間はじっくり考えて選ぶ(自分がもっともリラックスできる時間帯を選ぶ、向かい合って緊張するテーブルよりも互いにリラックスできるカウンター席を選ぶ、など)
  3. クリエイティブな活動を伴うデートをする(一緒に何かを制作する、レストランに行く場合にも焼肉など自分で調理するタイプの店を選ぶ、スポーツ、ゲームセンター、なにかのコンテストや教室に参加するなど。初対面の人と複雑な活動をすることには居心地を悪い思いを抱くかもしれないが、結果としてはデートの経験は充実したものになるだろうし、複雑な活動を通じて相手の人格も見えてくるので長期的なパートナーとしての相性も測りやすい)
  4. デートに対する自分のコミットメントが相手に伝わるようにする(相手の事情を配慮しながら充実したデートプランを設定する、など。一般論として、「自分のために努力してくれている」ということが伝わると相手は好意を抱きやすい)
  5. デート中に遊びの時間を設ける、ユーモアを意識する
  6. 些細な会話はなるべく避けて、思考を触発するような質問や人生観に関わる質問をするなど、充実した会話を意識する
  7. 相手に対して興味を持つように努める
  8. スマホは触らない
  9. デートの終盤をとくに楽しくさせる(カーネマンの「ピーク・エンドの法則」
  10. デート後は「デートは楽しかったか、相手は自分を楽しませてくれたか」という点をチェックリストで確認する(チェックリストといえば「相手のスペックはどうだったか」になりがちだが、そうではなく、自分の経験に焦点をあてたリストを作成する)

 

 この本の後半では、いざ相手と恋愛関係になった後の段階の問題が取り上げられて、「相手との関係を継続するかどうかの判断はどうすべきか」「別れると判断した場合の切り出し方」「別れた後のマインドセット」「結婚するかどうかの最終判断」などについてそれぞれ章を割いて書かれている。

 そして、最終章のトピックは「結婚を長続きさせる方法」。ここはトピックの重さに比べると短い分量になっているが、先日に読んだアーロン・ベックの『愛はすべてか』を思い出させるところが多い*1。夫婦関係を長続きさせるためには「放っておいたらなんとかなるさ」「言葉にしなくても自分の気持ちは相手に伝わっているだろう」という態度は天敵であり、二人で定期的に話し合いながら、自分たちの努力によって意識的に関係を維持することが重要であるのだ。

 

 最終章における以下の段落では、著者のスタンスが気持ちよく表現されている。

 

強固なパートナーシップは、偶然にあらわれるものではない。それは注意と選択を必要とする。意図に基づいた愛が要求されるのだ。意図に基づいた愛の世界……実のところ、意図に基づいた生き方の世界……では、あなたが人生を振り返った時に、慎重かつ意図的に行なった決断で彩られているのを見ることが希望となる。あなたは一人の人をもっと深く愛せていたかもしれないし、三人の人と大切な関係を築けていたかもしれないし、独身として刺激に満ちた人生を送れていたかもしれない。いずれにせよ、あなたの人生は偶然ではなく冒険だったのだ。あなたの人生はあなたがデザインしたのであり、あなた自身が責任を持っていたのであり、あなた自身がどんな人間であるかということと自信が望むものについて正直であり続けてきた。そしてもっとも重要なことは、軌道修正が必要になったときに、あなたはそうしてきたということだ。あなたは、人生に関して他の人が抱いている考えではなく、自分自身の考えにしたがって生きてきたのである。

(p.286 - 287)

 

 ここには、行動科学に基づいた自己啓発本のエッセンスが含まれている。「愛」という意図や理性から程遠く思える物事がテーマであるからこそ、ほとんど哲学的ですらある。

 上記の文章はいかにもアメリカ人的だと揶揄する人がいるかもしれないし、新自由主義的だと非難する人もいるかもしれない。しかし、わたしにはある意味でストア哲学的に思える。行動科学と認知行動療法はつながっているのであり、そして認知行動療法の源流はストア哲学にあるからだ*2

 

 著者は女性であるが、彼女のクライアントは男女の両方であるし、LGBTQ+の人やポリアモニーの人も対象にしているらしい。

 ここまで紹介してきた内容を見ると「女性向けだ」という感想を抱く人もいるかもしれないが、わたしは、男性にも充分に参考になる内容であると思う。いわゆる「恋愛工学」や「モテ・テクニック」の本でも行動科学が参照されることはあるが、この本の主眼はタイトルの通り「独身のまま死なないこと」だ。

 男性向けの本では、「長期的な関係」や「愛」そのものに主眼が置かれることが少ないだけでなく、恋愛やセックスと幸福の関係も無視されてしまいがちである。この本を読んでいれば、単にモテればそれでいいというものではないことがわかるだろうし、「恋愛をしたり女性と関わったりすることを通じて自分はなにを求めているのか」ということについて深く考えるきっかけにもなるだろう。

 

 最後に、日本に特有の事情についても考えてみよう。「日本における婚活はとくに歪んでいる」と指摘されることは多い*3。おそらく、婚活に関する諸々の環境(アプリや相談所や街コンなど)は、その参加者を男女ともに「最大化主義者」とさせて、「評価的なデート」を行うことを誘導するような設計になってしまっている……そして、この本に内容に鑑みれば、それは当事者を疲弊させて不幸にさせるだけでなく、「人生のパートナーを見つける」という婚活のそもそもの目的にとっても効率が悪いのだ。

 というわけで、結婚相手を探している人であっても、おそらく最善なのは「婚活しない」ことだろう。つまり、露骨に「婚活用」に設定されている経路ではなく、他の経路を通じて相手を探すことだ。たとえばマッチングアプリを使う際にも、年収やスペックの表示が求められるタイプのアプリではなく、もっと緩くて遊びや楽しみの要素が強い若者向けのアプリを通じて探していくほうがよいかもしれない(時間はかかるかもしれないし、年齢層が高い人には厳しいかもしれないけれど)。

 婚活しか経路がないという場合にも、その「市場」のメカニズムに左右されて自分にとっての幸福を見失わないように、意識的に対抗していくことがよいかもしれない(環境に流されるのではなく、理性によって環境が自分に与える影響をコントロールする、というのはストア主義の基本でもある)。この本で書かれている「体験的なデート」のテクニックはいかにもアメリカ人的であり「陽キャ」的かもしれないが、だからこそ日本の婚活の現場では実践している人は少ないだろうし、「市場」での競合相手との差別化も図れるだろう。実践してみたら楽しいだけでなく相手にとっても良い印象を与えることができるかもしれない。それによって、自分が「スペック」的には多少不利であるとしても、相手が好意を抱いてくれる可能性はある。……まあわたしはまだ婚活をやったことがないので無責任なことしか言えないけれど、やってみて損はないはずだ。

*1:

davitrice.hatenadiary.jp

*2:というわけで『認知行動療法の哲学ーストア派と哲学的治療の系譜』の出版を楽しみにしています。

www.amazon.co.jp

*3:

gendai.ismedia.jp

ネット論客がインテリから相手にされない理由

davitrice.hatenadiary.jp

 

(6月23日 21:45追記)

最初のタイトルには個人名を入れていましたが、記事のタイトルを「(個人名)が〜から相手にされない理由」にすることはあまりに個人攻撃的に過ぎるという指摘を受けて、同意しましたので、タイトルを修正しました。

(追記終わり)

 

 先日にわたしが投稿した、御田寺圭の著書『ただしさに殺されないために~声なき者への社会論』への書評記事にはブクマやSNSなどで様々な反応があった。全体的には賛否両論という感じ。

 

 みんなの反応を見て、反省すべきと思ったところはふたつ。

 まずは、書評のタイトルと実際に論じている内容にズレがあり、ややミスリーディングになってしまったことだ。書評のタイトルを見ると「不都合な現実に対する解決策が書かれていないこと」が問題であると論じているように思われしまうかもしれないが、実際には、「提示される"不都合な現実"の選択や、その解釈が恣意的であること」「問題の扱い方が論理的でなく、根拠にも乏しいこと」「レトリックを多用して読者の被害者意識を煽ること」などに関する批判が主である。

 しかし、書評のタイトルのほうに注目されて、「解決策が書かれている/いない」という議論にこだわる反応を招いてしまったのはわたしのミスと言えるだろう。

 これに関しては、山川賢一さんがいい感じにまとめてくれている。

 

 

 もうひとつは、書評でありながら具体的な引用がないところ。これに関しては、「具体的に引用して論じるのがめんどくさい」という単純な事情や、「引用しなくてもそれなりの批評が書けてしまったからこれで公開しちゃおう」と思ったことが理由である。しかしまあ、以下で江草さんがしているような指摘ももっともではあるだろう。

 

「世の中の理不尽さ」や「不都合な真実」を強調して、それでどうするの?(読書メモ:『ただしさに殺されないために』) - 道徳的動物日記

ここまで御田寺氏や熊代氏の論説を辛辣に批判しておきながら、具体的な引用のひとつもないのはライス氏が自負する論理的な批評たり得ないのでは。ソフィスト呼ばわりも人身攻撃的で、それこそ感情的な批判でしょう。

2022/06/17 23:37

b.hatena.ne.jp

 

 なお、江草さんも本日に『ただしさに殺されないために』の書評を公開されている(その評価は是々非々という感じだ)。

 

note.com

 

 それで、先週に書評を公開してからも、「特定の章をいくつか取り上げて、具体的に引用しながら批判するバージョンの批評も書いたほうがいいかな」と思っていたのだけれど……わたしの記事に対するTwitterにおける御田寺の反応を見ているうちに、すっかりその気が失せてしまった。

 御田寺の反応は、以下のTogetterにまとめている。

 

togetter.com

 

 とりあえず、わたしが御田寺に「露骨に嫉妬」しているなどの人格批判を含むメッセージ(マシュマロ)を好意的にシェアしたり、彼が「俺より面白い文章を書けない奴が悪い」などと述べている点にイラッとしたことは述べておこう*1。とはいえ、わたしも書評記事のなかで御田寺を「ソフィスト」などと非難しているので、これについてはお互い様ではある。

 また、わたしは、「著作家には自分の本に対する批評に目を通して応答すべき義務がある」とも思っていない。批評に対する応答には労力や時間がかかるものだし、「ここはわたしの言いたかったことを誤読しているな」とか「ここの批判は的外れだな」と思ったときにそれを(論拠や理由を挙げながら)指摘するのは得るものがなく時間の無駄であることも多いからだ。さらに、「この批判はもっともだな」と思ったとしても、それをわざわざ表明すべきであるとも思わない。「今度から気をつけよう」とか「次に文章を書くときにこの指摘を活かそう」と、こっそり判断するのもアリだろう。

 したがって、わたしの著作に対して出された熊代亨や平尾昌宏による書評についても、わたしは目を通したが特にコメントはしてない(Twitterでシェアしたりブクマを付けたりはした)*2。それくらいの自由は、著作家にもあると思う。

 

 だが、自分の読者層によるファンレター的なメッセージを公開しながら、自著に対する書評でなされた指摘に対する否定を何度も繰り返すことには、単に批評を否定したり無視したりすることとは違う意味合いが伴う。

 俗っぽい表現をすれば、上述のTogetterでまとめたツイートのなかで御田寺がやっていることは「効いてないアピール」だ。そのアピールの対象は彼のフォロワーであり、もっと限定すれば彼のnote(と著作)を購入している彼の「信者」たちである。

 わたしは先日の書評のなかでも御田寺のことを「自分の信者を食いものにしている」と表現したが、彼の反応は、その著作活動が「信者ビジネス」であることを裏付けているだろう。教祖をやっている人間は、自分の主張だけが絶対に正しく他の主張は間違っていると、信者に思い込ませ続けなければいけない。そのために批判を放置することはできず反応しなくてはならないし、批判を受け入れたり応答したりするのではなく「こんな批判は間違っているからお前たちは耳を貸すな」と信者たちに喧伝するしかできない。そうしなければ、「もしかしたらこの人の言っていることには間違いがあるかもしれないから他の人の言っていることも聞いてみようかな」と考えた読者が、彼から離れていくかもしれないからだ。

 実のところ、御田寺の反応は、彼のこれまでの振る舞いや同様の「ネット論客」たちの行動パターンから予測できたことでもある。論客や教祖はネットバトルで勝ったように支持者に見せ続けなければ存在意義がなくなってしまう*3。学者や通常の著作家とは異なり、論客や教祖にとっては、批判にも目を通しながらより適切な議論をしようと精進したり、自分が論じたいと思っている物事について深く考えたり見識を深めようとしたりすることは、二の次となるのだ。

 そして、このことは、御田寺の著作がつまらないこと、読んでも得るものがないことの理由にもなっている。ネット論客や教祖の記事や著作では「読者層が求める通りのものを提供すること」と「負けそうな議論をしないこと」の2点が必須となる。そのために、物事についての適切な知識や理解や考え方を読者に提供することは後回しになってしまう。また、自分の議論にとって不利な証拠や考え方は意図的に無視すること、反論されづらくするために論理を操作したりレトリックを用いたりすることが、必然的に選択されるのだ。

 ……もちろん、学者や通常の著作家の著作においても、意志の弱さや不誠実さから同様の問題が生じることはあるだろう。しかし、ネット論客や教祖の議論においては、不誠実であり続けることが構造的に宿命づけられているのだ。

 そして、これこそが、御田寺圭(とその他のネット論客たち)が学者をはじめとするインテリから相手にされない理由でもある。著作や議論の目的が真実や正確さや適切さではなく「読者の求めるものを提供すること」と「勝ったように見せること」であるために、レトリックに惑わされず内容を吟味できる目端が効いた読者にとってほど、その著作や議論から得られるものはない*4。そして、その著作や議論を批判しても、自分の論客や教祖としての地位を維持するために「負けていないように見せること」を最優先して、「効いてないアピール」を繰り返す。つまり、著作を読むことと批判することの二段階のどちらもが不毛や徒労であるのだ。インテリの人たちだってヒマではない。不毛な存在と関わる時間があるなら、きちんと真実や正確さや適切さを志向した著作や議論を読むこと(そしてそれを批判すること)に時間を割きたいものだろう*5

 ……というわけで、わたしも、今後は御田寺やその他のネット論客のことはなるべく言及しないようにする。もしかしたら他の人たちからはわたしも「ネット論客」の一員と思われているかもしれないが、わたしがやりたいことはネットバトルじゃないのだ。

 

 ここで論じたことは、先日に公開した「「思想と討論の自由」が守られなければならない理由」の下記の内容とも関わっている。

 

s-scrap.com

たとえば、TwitterをはじめとしたSNSで行われる「議論」が有害なものとなりやすいことは、いまや誰の目にも明らかである。プラットフォームの構造のために、Twitterでの議論や極端なものになりやすく、特定の個人の人格を非難する攻撃も引き起こしやすい。妥協点を探ったり相手の主張を理解したりしようとする穏当で前向きな態度よりも、勢いのいい言葉で相手の主張を切り捨てたり妥協することなく自分たちの側の要望を押し通したりする態度のほうが、リツイートや「いいね」やフォロワー数の増加などの「報酬」を得られやすいからだ。

結果として、Twitterでの議論の大半は、議論の相手ではなく「自分たち」のほうを見ながら行われることになる。また、公益のことを考えながら長期的に利害の妥協や調整を測ることよりも、相手を「論破」することで短期的に「自分たち」が気持ち良くなることのほうを優先してしまう。これらの現象には「集団的分極化」や「フィルター・バブル」などの名前も与えられてきた。「ハッシュタグ・アクティビズムが世の中を変える」などと騒がれることもあるが、いまや、見識ある人にとって「Twitterやその他のSNSでの議論が公益に資する」という主張はとても信じられないものになっているだろう。

 

 また、表現の自由というトピックについて触れたついでに、以下のことは書き記しておこう。

 これは伝聞でありわたしも正確には把握していないのだが、「女性差別的な文化を脱するために」オープンレターが発表されたかその原因となる事件が発覚したかの頃に、彼が講談社現代ビジネスに寄稿していることが取り沙汰されて、一部の学者たちが「御田寺の記事を掲載するのを中止しろ」と要求したとか「御田寺の記事を掲載する限り講談社には関わらない」という反応をした、という話を聞いたことがある*6

 このことが真実なら、その学者たちの要求や反応は最悪だ。なんと言っても表現の自由という基本的権利の侵害である。

 また、そもそも、御田寺が講談社現代ビジネスに掲載している記事や著作などで展開している議論は、すくなくとも直接的には差別的なものや危険なものではない。インテリ・リベラルや女性に対する敵愾心を煽ったり、先日の書評で指摘した通り被害者意識を扇動することで女性などに対する憎悪にもつながるという間接的な効果は存在するように思えるが、それらはあくまで間接的なものだ。上記のTogetterにもある通り御田寺は小山晃弘などより露骨に差別的な発言を投稿している人と普段から仲良く「つるんでいる」という問題もあるが、それでも、自分では直接的に差別的な言論はしない慎重さを御田寺が持ち合わせていることは評価するべきである。

 そして、出版社に対して圧力をかけられることは著作家にとって致命的であり、精神的なダメージや恐怖が大きいことは失念すべきではない。これについては、わたしも記事を公開するたびに「〇〇社はこんなやつの記事を載せるのか」「こんな差別的な記事を載せる〇〇社の責任はどうなんだ」とTwitterで反応されることが多いので、よくわかる*7自分の意見はブログに投稿できるし、noteなどを使えば出版社を通さなくとも文章を収益化することができるとはいえ、出版社のwebサイトや著作を通じて自分の主張を広く伝えることができるのは著作家にとっては特別な喜びがあるものだ。

 さらに、学者は、通常の著作家と比べて、自分の意見を発表するための機会と環境にはるかに恵まれていることにも留意すべきだ。学者は学会や紀要や論文を通して意見を発表できるし、権威も備わっているために出版社のほうから専門書や入門書や教科書の執筆を依頼されるチャンスもある。図書館などの大学のリソースや研究休暇などを通じて自分の意見をじっくり深める環境も整えられているし、学会などに参加すれば専門的な観点や豊富な知識に基づいた建設的な批判を得ることができる*8。それらのいずれもが、通常の著作家にはほとんど得ることができないものだ。会社員をしたりフリーターをしたりしながら言論活動をするというのは、ほんとうに大変なのである。

 したがって、「出版社を通じて記事を発表したり著作を出版したりする」という著作家表現の自由を学者が奪おうとすることは、よりいっそう深刻な不公正や不正義であるのだ。

 

 最後に、「女性差別的な文化を脱するために」オープンレターに関連しても、言いたいことがある。

 過去の記事で、わたしはオープンレターの内容やレトリック、それが呉座勇一という個人に対する不当な攻撃と処分につながったことを批判した。その一方で、以下のようにも書いている。

 

davitrice.hatenadiary.jp

オープンレターのなかでなされている、『フォロワーたちとのあいだで交わされる「会話」やパターン化された「かけあい」』や「からかい」のもつ問題や差別性の指摘は優れているし、オープンレターで示されている問題意識にはわたしにもいろいろと賛同したり共感したりできるところはある。だからこそ、オープンレターが含んでいる(かもしれない)問題には、わたしとしてはかなり気持ち悪い感触を抱いている。

 

davitrice.hatenadiary.jp

これらの段落で想定されているのは、いわゆる「弱者男性論者」たちのことであろう。すくなくとも、呉座氏と直接に絡んでいた御田寺圭(@terrakei07)のことが想定されているのは、確実だ。ほかにも、小山晃弘(@akihiro_koyama)や永観堂雁琳(@ganrim_)のことも想定しているのかもしれない。

「弱者男性論」についてはわたしも常々問題であると思っており、折に触れて批判してきた。とはいえ、批判のなかで個々の「弱者男性論者」を名指しして取り上げてはいなかったこともたしかである。

しかし、自分のことは棚に置いてしまうけれど、オープンレターに関しては、はっきりと御田寺たちの名前を出すべきだったと思う。呉座氏については名前を出しているんだし、背景の事情を多少なりとも知っている人なら「あいつらのことだ」とすぐにわかる内容だし、実際に本人たちもオープンレターで自分たちが非難の対象となっていることに気が付いてやいのやいのと反論しているのだから。

もちろん、相手の名前を明示することは相手との「論争」が本格的に始まってしまうということであり、オープンレターの発起人たちは負担やリスクを負うことになる。でも、約20名の連名(+約1300名による賛同署名)による公開書簡という強力な手段を用いて人を批判するなら、それくらいの負担やリスクは覚悟すべきだと思う。なにより、本気で「女性差別的な文化」をなんとかする気があるなら、インターネット上で女性に対する「からかい」や女性をダシにした「遊び」を煽動している本丸である、弱者男性論者たちと対峙することは避けられないだろう。

 

 そして、先日の書評がきっかけで、わたしも、御田寺や小山による、決まり文句の「それ以上いけない」とか匿名のメッセージ(マシュマロ)なども介した「からかい」や「遊び」の対象とされてしまうことになった。

 過去に「オープンレターで示されている問題意識にはわたしにもいろいろと賛同したり共感したりできるところはある」と書いたのは、本心からである。わたしは女性ではないが、感情的であったり脇の甘かったりするところが多く、そのために、リアルでもネットでも多かれ少なかれ「からかい」の対象になってきた*9。自分が被害を受けた経験がある(そして現に被害を受けている)ので、「からかい」のことは本気で嫌いなのだ。だからなんだというわけでもないけれど、過去にオープンレターを批判しながらも御田寺や小山のことを批判しておいたのは、今回の状況をふまえると、尚更よいことだったと思う。

*1:ただし、わたしは御田寺より面白い文章が書ける人間ではあると自負しているが、彼の本のほうが売れているっぽいことに嫉妬を感じていなくもないことは認めよう。なので、みなさん『21世紀の道徳』も買ってください。

 

 

*2:

www.genron-alpha.com

p-shirokuma.hatenadiary.com

*3:この点については、過去に、雑感をメモしている。

davitrice.hatenadiary.jp

*4:たとえば、わたしはマイケル・サンデルの『実力も運のうち』を批判しているが、しかし『実力も運のうち』を読むことは面白かったし、それ批判することで自分の考えを深められることができた。サンデルは御田寺とは違い、物事について適切に考えることを志向する誠実さを(一定以上は)持ち合わせているからだ。

gendai.ismedia.jp

*5:これは印象論になるが、数年前までは大学教授とネット論客がTwitterで「議論」をする光景は日本語圏でも身近であったが、最近はとんと見なくなった。たとえば小宮友根さんは以前はよく論客と「議論」をしていたが、最近は見かけない。これは、必ずしも彼の主張が「論破」されたからではなく、その不毛さや徒労にうんざりしたからであるだろう。

*6:

sites.google.com

*7:だから、ここで御田寺の言論の自由を擁護していることには、「次は自分の番だ」ということになってしまうのを防ぐという利己的な理由もある。

*8:『21世紀の道徳』の出版後、二度ほど、倫理学の専門家が集まる学会や研究で著作の内容について意見やコメントをもらう機会があった。これらのコメントはほんとうに参考になって有り難いものであったし、逆説的に、在野で勉強しているだけの自分の限界も感じたものである。

*9:だから、経験の程度はもちろん違うだろうけれど、font-daの下記の記事にも共感できるのだ。

font-da.hatenablog.jp