道徳的動物日記

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読書メモ:『愛はすべてか 認知療法によって夫婦はどのように誤解を克服し、葛藤を解消し、夫婦間の問題を解決できるのか』

 

 

 わたしはまだ独身なので、「夫婦間の関係をどう解決するか」というよりも「認知(行動)療法」の考え方についての理解を深めるために読んだ。

 

認知という言葉は、「考える」に当たるラテン語に由来し、人が判断したり決心したりする方法や、お互いの行動を理解する、あるいは誤解する仕方を指している。この[認知]革命は、人が問題を解決する時ーーまたは、問題を起こしたり悪化させたりする時ーー、どのように思考するのかということに新たに焦点を当てた。どういうふうに考えるかが、私たちが成功したり人生を楽しめるかどうか、さらには生き残れるかどうかを、大部分決定するのである。考え方が前向きではっきりしていれば、こうした目標を達成するだけの力が十分あることになる。もし歪んだ象徴的意味や非論理的思考や間違った解釈のために身動きがとれなくなっていれば、私たちは事実上耳が聞こえず目が見えないのと同じになってしまう。どこへ行っているのか、何をしているのか、はっきりとわからないまま、つまずきながら歩いていると、早晩、自分自身や他人を傷つける羽目になる。誤った判断をしたり誤ったコミュニケーションをしていると、自分自身にも相手にも苦痛を与えてしまい、次々に、苦痛な報復の矢面に立たなければならなくなる。

この種の歪んだ思考は、より上級の思考を適用することによって解決できる。自分が間違っていることに気付き、それを正そうとするときには、たいていこのような上級の思考法を使っている。ところが不幸なことに、親しい人間関係ーー明確な思考と過ちの訂正が特に重要になる関係ーーでは、相手に関する間違った判断を認め、改めることがとりわけ難しいようである。その上、同じ言葉を話していると思っていても、一方の言っていることと、もう一方が聞いていることがまったく違う場合がよくある。このように、コミュニケーションの問題は、多くの夫婦が経験する欲求不満や失望を招き、さらに悪化させる結果になるのである。

(p.3 - 4)

 

● まず、お互いの失望や不満や怒りの多くが基本的な性格の不一致に由来するのではなく、誤ったコミュニケーションやお互いの行動に対する偏った解釈の結果起こる不幸な誤解に由来することに気が付けば、夫婦は困難を克服することができる。

 

●誤解はしばしば一方が相手の歪んだ像を形成する時生じる能動的過程である。この歪みによって、夫(妻)は次々と相手の言動を誤解し、相手には望ましくない動機があると考えるようになる。夫婦には単に、自分たちの解釈が「正しいかどうか調べあげ」たり、自分たちのコミュニケーションが明瞭になるよう注意するといった習慣はないのである。

(p.12)

 

一見したところでは、他の人がすることが、私たちの怒り、不安、悲しみなどの反応を直接引き起こしているように見えるものである。「あなたのせいで私は怒っているのよ」とか、「君のせいで僕はいらいらしているんだ」というようなことを言ったり、あるいは少なくともそう考えたりしている。しかし、こういった表現は厳密には正確ではない。もし相手がそのようなことをしなかったら、特別な感情(怒り、不安、悲しみ)を体験しなかっただろう、ということしか本当は言えないのである。その人の行動は、私たちがさまざまに解釈する事実であるにすぎない。私たちの情緒的な反応は、相手の行動そのものよりも、自分の解釈によって引き起こされるのである

(p. 131)

 

お互いの防衛や怒りを和らげたいと望んでいる夫婦は、相手に対して作り上げている否定的イメージを捉え、評価し、修正していくことができる。自分たちの持っている不愉快なイメージが変わってくると、怒りも変化してくることがわかるだろう(…)。

闘争は野生の世界には適しているかもしれないが、現代世界では私たちの生死が問題になることはほとんどない。しかし、たとえ腹を立てている時でも、人前では完璧に礼儀正しい仮面をつけることができる。しかし、不運なことに、社会における他のどんな暴力よりも、家庭内での暴力が多い。私たちは夫(妻)に対しては自分を制御することができない、あるいは、しようとしないことが多いのである。感情の高まりに耐えかねて、心の中のブレーキが外れると、怒りが勢いを増し、ついには暴力を振るってしまうことになる。奇妙なことに、「敵」は自分の愛する人、あるいは愛していた人なのである。

(p.181)

 

自分はこれまで傷つけられてきたから、非生産的な行動様式をあくまでも続けていく正当な権利があるという考えは、あなたがこれからも傷つき続けるということを確実にするだけである。それでは、傷つけられて報復するという悪循環は決して終わることはない。誰かが悪循環を率先して断ち切らなければならないのである。それをあなたがすればいいのである。

(p.193)

 

 ジョナサン・ハイトがポリティカル・コレクトネスや「マイクロアグレッション」概念を批判する際に認知行動療法の視点を持ち出していることは注目に値する*1

 認知行動療法には「ネオリベ的」「自己責任論的」という批判がなされるし、「反ネオリべ」を自称する精神分析とか臨床系の人ほど認知行動療法には批判的なようだ。しかし、結局のところ、ある人に生じる問題とは社会とか構造とかのせいもあるかもしれないがその人の生き方や考え方のせいであったりもする。社会を変えるのは難しいし、変えたところでより良くなるとも限らないのだから、個人の身に生じている問題を変えるためには社会(や他人)を変えようとするのではなく当の個人が変わるように努めるべきだ、というのはかなりの強度がある考え方であるのだ*2

『愛はすべてか』は夫婦という個人間の問題を扱っているが、同様の視点は、社会と個人との間の問題や「マジョリティ」と「マイノリティ」との問題を考えるうえでも参考になるだろう。内田樹が述べているような「被害者の呪い」を解くうえでも役に立つはずだ*3

ホッブズ、哲学的アナーキスト、ルソー、ミル(読書メモ:『政治哲学入門』)

 

 

 原書は1996年(最近に第4版が出版されているが)、邦訳も2000年。なんのフックもないタイトルに地味な装丁といかにも売れそうにないタイプの本だが、その中身はというと、わたしがいままで読んだ政治哲学入門のなかでも傑出した出来栄えだ*1

「自然状態」とはどのようなものであるかというところから始まって、国家の正当化や民主主義の正当化、自由や財産の配分についてどう考えるか、個人主義に対する共同体主義的・フェミニズム的な批判と、政治哲学のトピックが幅広く扱われている。功利主義リベラリズムといった理論ごとに章立てされているのでもなければ、思想家を時系列に紹介していくのでもなくて、章ごとの問題を扱いながら(西洋の)主要な哲学者たちの政治思想を提示していく、というところがミソ。

 また、第一章で「(アナーキズム的な見解を除けば)自然状態はロクでもないから国家が必要そうだ、と多くの思想家が結論付けている」とひとまずの答えを示したうえで、第二章で「ではその国家の存在や国家に対して国民が負う(納税などの)義務はどのように正当化されるか」という問題を提出する、という風に、提示されるトピックの順番が工夫されている。結果的に、序盤の章では古典的な思想家が扱われていたのが後半の章では近現代の思想家の出番が増えていくという風に、思想史の流れも掴ませてくれる構成になっているところがよい。

 著者の本は他にも『「正しい政策」がないならどうすべきか: 政策のための哲学』や『ノージック―所有・正義・最小国家』が翻訳されているが、ぜひ An Introduction to Moral Philosophy(『道徳哲学入門』)も邦訳されてほしいものだ。

 

wwnorton.com

 

ホッブズの「自然状態」論

 

あらゆる人の自然で継続的な権力増加ーー富と人々を自分の支配下におくことーーの試みは、競争へと導く。しかし、競争は戦いではない。では、なぜ自然状態での競争が戦いにつながるのか。次の重要なステップは、人間は本性的に「平等」であるというホッブズの想定だ。政治哲学と道徳哲学において自然的平等の想定は、人々は互いを注意深く気遣って扱い、他者を尊重すべきだという議論の基礎として用いられることが多い。しかし、述べ方を見れば予期できる通り、ホッブズはその想定を全く違った仕方で使用する。人間は皆おおよそ同じレヴェルの強さと技術を所持している点で平等であり、それゆえいかなる人間も他の誰かを殺す能力を持つ。「最も弱いものでも、秘かなたくらみにより、あるいは他の人々との共謀によって、最も強い者を殺すだけの強さを持つ」。

以上に、自然状態では財が希少だという理に適った想定をホッブズは付け加える。すると、同の物が欲しい二人の人は同一の物を持ちたい場合が多くなる。最後にホッブズは、自然状態では誰一人として攻撃される可能性を免れ得ないことを指摘する。私が持つどんな物であれ他の人々が欲しくなるかもしれないから、私は常時用心していなければならない。だが、たとえ何を持っていなくとも、私は恐怖から自由であり得ない。他の人々が私を自分たちに対する脅威だと考えるかもしれず、そうすると私は簡単に先制攻撃の犠牲者になってしまうかもしれない。平等、希少性、不確実性というこれら[の]想定から、ホッブズの考えでは、自然状態が戦いの状態になってしまうのだ。

(p.13)

 

要約すると、ホッブズは自然状態の内に、獲得と、安全(侵入者をあらかじめ防いでおくこと)と、栄光あるいは評判という、三つの主な攻撃理由を見ている。人間は至福を求めて、常に自分の権力(未来の財を得るための手段)を増加せようとする、というのがホッブズの根本的アイディアだ。人間が強さと能力において大体平等であること、欲求された財が希少であること、誰も他の人々によって侵害されないと確信できないこと、これらをつけ加えるなら、合理的な人間の行動は自然状態を戦場にすると結論するのが理に適っていると思われる。誰一人として、可能な攻撃者全員を近づかせないほどは強くないし、必要なら共謀者と共に他の人々を攻撃することが不可能なほどに弱くもない。自然状態における他者への攻撃が自分の欲しいものを得る(または保つ)最も確実な方法でもあるような場合には、攻撃の動機は十分に整うのだ。

(……中略……)

しかし、戦いの源泉として同じくらい、あるいはもっと重要なのは、恐怖ーー周囲の人々が自分の持つものを奪うかもしれないという恐怖ーーだ。ここから攻撃が始まるかもしれない。その攻撃は獲得のためではなくて、安全のためかあるいは多分評判のためでさえあるかもしれない。こうして我々は、万人が自衛のために他の万人と戦うという考えにたどりついた。

(p.14 - 15)

 

……自然状態においては、(既に見た理由のために)個人的に合理的な行動は他人を攻撃することであり、これが戦いの状態につながる。けれども、自然法は、別レヴェルの行動ーー集団的合理性ーーもまた可能だから戦いの状態が人間にとって不可避の状況でないと教える。どうにかして集団的合理性のレヴェルに上昇し「自然法」に従えさえすれば、我々は恐怖を感じずに平和に暮らすことができるのだ。

今や問題は、自然状態における各人には「自然法」に従う義務があるとホッブズが考えたかどうか、そしてもしそうなら、そのような義務の承認は「自然法」に従うよう人々を動機づけるのに十分かどうかだ。ここでのホッブズの答えは精妙である。「自然法」は「内面の法廷において」拘束力があるが、しかし「外面の法廷において」常に拘束力があるというわけではないと彼は述べる。彼の意味するところは、我々は皆「自然法」が効力を持つことを欲求し、思案する時「自然法」を考慮すべきだということだが、しかしこれは、あらゆる状況においても常に「自然法」に従うべきだということではない。もし周りの他の人々が「自然法」に従っていなかったり、あるいは自然状態ではよくあるように、彼らが「自然法」を破るという疑いが理に適っているなら、「自然法」に従うのは全く愚かだし自滅的だ。こうした状況で誰かが「自然法」に従うなら、その人は「自信を他の人々の餌食にし、自身の確実な破滅を招く」(現代ゲーム理論の専門用語では、このような行為者は「お人よし(サッカー)」と呼ばれる)。

(p.19 - 20)

 

●国家の正当性に対するアナーキズムの主張

 

…受け入れ可能な前提から国家を正当化する方法を見出すことができないなら、少なくとも道徳的に言って、ある種のアナーキズムが強制されると思われる。この批判的戦略はアナーキストの最強の武器だろう。我々が国家を持つべきかどうか誰も私に尋ねなかったし、警察は警察の行為の許可を私に求めていない。それゆえ国家と警察は、少なくとも私の扱いに関して非合法的に行為している、とアナーキストは論じている。

(……中略……)

…法律が法律であるとか警察が警察であるという事実は服従のための理由には全くならない。だから「哲学的アナーキスト」は、警察と国家の活動に対して高度に批判的姿勢をとることを勧める。警察や国家が道徳的権威をもって行為することもあるけれども、そうでない時我々が彼らに従わなかったり妨害したり無視したりするのは正しい。

幾つかの点でこれは高度に啓蒙された見取り図だ。責任ある市民は法律に盲目的に従うべきでなく、その法律が正当化されているかどうかに関して自分の判断力を用いるべきだ。法律が正当化されていないなら、従うための道徳的理由など存在しない。

この見取り図はーーある点までーー正しいに違いない。決して法律を疑問視したり従わなかったりすべきでないと論じることは、例えば、ナチス・ドイツにおけるユダヤ人迫害を擁護したり、南アフリカでの雑婚と異種族交配(異種族結婚)を禁止する、最近覆された法律を擁護することにつながるであろう。法律に従う義務には何らかの道徳的制限がなければならない。しかし、この道徳的制限が何であるべきかを言うのはそう簡単でない。法律が自分の道徳的判断と完全に一致していない限り法律に従うべきないという見解をある人が抱いている、という極端な想定をしてみよう。

(……中略……)

…さて、相続財産には何の道徳的正当化もないと考えている人がいるとすると、その人は、ウエストミンスター侯爵が相続した財産は本当は侯爵のものではないから、「侯爵の」相続財産を自分に売る権利が侯爵にないのは、侯爵を放逐する権利が自分にないのと同様だと考える。すると、もしこれに付け加えて、法律に従うべきなのは自分の道徳観と一致する時だけだとその人が言うなら、最早その人には他の人々の(要求する)財産を尊ぶための理由が(処罰への恐怖を除くと)全くない。

明らかに、言い分は増やしていける。ポイントは、もし我々がこのようなアナーキストの見解を受け入れるなら、公的関心事をも含む全ての事柄において人々は自分の個人的判断に従うことができるという混沌状況へと戻ったことになるという点だ。しかし、ロックが我々は自然状態から移行すべきだと論じたのは、まさにこの理由のためだった。そのような観点から見るなら哲学的アナーキストの立場は、大変危険な道徳的身勝手の一事例だと思われてくる。確かに、人々が自分たちの相剋する掟を基礎にして行為するがままに放っておくよりは、互いの行動を導くために、何か公的に規定され受け入れられた一組の法律を一般的に受け入れる方が遥かによい。換言すると、一組の法律の共有の方が、最前の法律とは何かに関する誰かの個人的判断よりも、当然、ずっと重要なのだ。

(p. 59 - 62)

 

 なお、アナーキズムと関連する「市民的不服従」の議論については以前にピーター・シンガーの議論を紹介している*2

 

●ルソー

 ほかの政治哲学入門(特に日本人の手によって書かれたもの)に比べて本書がとりわけ優れている点のひとつは、ホッブズやロックにルソーやミルといった古典的な思想家たちの問題意識や主張、それぞれの違いが実にわかりやすく整理されているということだ。その理由は、これらの思想家の主張の問題や欠点も、ビシバシと指摘されたり描写されたりするところにある。

 たとえば、民主主義の正当化という問題を扱った第3章ではルソーによる「一般意志」論や「市民宗教」論が紹介される。本書におけるルソーの解説は短いながらも非常にわかりやすいが、それだけでなく、ルソーの主張が個人の自由を大幅に制限するものであること(「ファシスト的含みや全体主義的含みがある」(p.108))がしっかりと指摘されている。

 一方で、ルソーの主張に対比されるかたちで紹介されるミルの代議制民主主義論についても、たとえばミルが愚者の選挙権の剥奪やエリートへの複数投票権の授与を提唱したことも示されている。

 こうして、民主主義は「自由と平等」を志向する物であるはずなのに、ルソー的な民主主義では自由が制限されて、ミル的な民主主義では平等が制限されることになるのだ*3

 また、民主主義は「純粋に決定を行う手続き」としてではなく、人間の(平等な)尊厳を示す方法であると見なされているから支持されている、という点が指摘されているところもおもしろい。

 

●ミル

 本書では後半になるにつれてジョン・スチュアート・ミルの思想とそれに対する批判が紹介される頻度が多くなっていく。ミルの『自由論』が魅力的であるのと同時に論証が甘いという問題も指摘されはするのだが、なんだかんだ言って、おそらく著者はミルに対してかなり好意的だ。下記の箇所なんかは特に印象に残る。

 

思うに、(消極的)自由を高く評価し、自由主義社会が多くの非自由主義的社会よりも幸福でありそうだと考える点でミルは正しいと言える。しかし既に見たように、彼自身による自由の擁護は、人間が道徳的進歩を遂げることができるという考えにどっしりと依存している。これはミルにとって信仰箇条(アーティクル・オブ・フェイス)であった。しかし、もし彼が間違っていたならば、恐らく共同体主義的社会が自由主義的社会より功利主義的根拠に基づいて好ましいであろう。生の実験は、誰もそこから学ばないならば、善よりも害をなすだろう。すると自由の擁護者は、人々が道徳的に進歩できることを示すか、あるいは自分の見解のために別の基礎を見つけるかしなければならない。

 

私は本章を逸話で終わらせることに抵抗できない。一九八〇年代中頃[に]私は、非常に貴族主義的なフランコ時代に法律と哲学を学んだスペインの弁護士に出会った。私が彼に、政治哲学を学ぶことが可能だったかと尋ねると、自分はまさにそうした課程をとったと彼は言った。一年のほとんどの間彼らは古代ギリシア人を勉強したが、最後の二[、]三週間は近代人も扱った。ホッブズ、ロック、ルソーを学んだ後で、彼らはしばらくヘーゲルに時間を費やし、次いでマルクスに関して二時間のゼミナールがあった。しかし、ジョン・ステュアート・ミルに関してはほんの数分与えられただけであった。フランコの政体が検閲することを選んだのはマルクスではなくミルだった。これは全くよく分かる話だ。カール・マルクスの学説は、豊かな田舎の法律学生の頭を変にさせそうになかった。しかし、自由弁論(フリー・スピーチ)と自由に関するジョン・ステュアート・ミルは、大違いだったのだ。

(p.171 - 172)

 

 政治哲学や政治思想の本といえば、近代以前ならプラトンアリストテレスかカントあたり、現代ならロールズが軸となって説明されていくものだが、本書はミルを軸に選んだことで、議論をわかりやすく受け入れやすいものにすることに成功したように思える。

 結局のところ、ミルの主張にはやや非論理的ではあるしエリート主義的な部分もあるが、多くの点で刺激的であると同時にわかりやすい。そして、なんかんの言っても、現代のリベラルな民主主義社会に生きているわたしたちはミルの主張を快く受け入れることができる。だからこそ、彼の主張に対する反論には目を惹かれるし、考えさせられて、本書で展開されている議論に没頭することができるのだ。

*1:『現代政治理論』もいいんだけれど、あちらはさすがに「入門書」とは言えない。

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

*3:ミル的な「選挙権の制限」に関する議論はこちら。

davitrice.hatenadiary.jp

読書メモ:『醜い自由 -ミル「自由論」を読む』

 

 

 タイトルの通り、『自由論』でミルが主張していることについて緻密に分析していく、といった感じの内容。序文では著者は思想史家ではなく、この本にも文献学的な厳密さもないことがことわれているが、実際のところはなかなか専門的で細かい(それゆえに地味)な内容だ。

 

 

『自由論』は魅力的な著作ではあるが、そこでミルがしている主張は一冊のなかにもちらほらと矛盾があったり、根拠がはっきりしていなかったり、論理が飛躍していることも多い。そこをきっちり整えて、ミルが『自由論』でほんとうに言いたかったのはどんな主張であるか、というのを探っていくのが狙い。

 

 全5章だが、その内容は二つの部に分けることができる。

 第一部(1章〜3章)で扱われるのは、「なぜパターナリズムは否定されるべきであり、自己決定が重視されるべきか?」というもの。これに対して、「個人は自己利益に関する唯一の判断者であるから」「個人は自己利益に関する最善の判断者であるから」「個人は自己利益に関する最終の判断者であるから」という三つの説が挙げられたのちに、前者の二つは棄却されて「最終の判断者」説が採用される。

 第二部(4章〜5章)で扱われるのは「なぜ自由を守らなければならないか?」という問題。これについては、「自由には他にはない卓越した価値や幸福があるから」という議論が否定されて、「個人の自由から得られる多様性は個人と社会の双方に価値があるから」といった結論が採用される。

 たとえば「自由を守るべきだ」という主張に関するミルの論証が甘いことはジョナサン・ウルフの『政治哲学入門』などでも指摘されている。……とはいえ、『自由論』の良さは、多少の矛盾を気にせずとも「自由」の持つ価値やその重要性などについて短い分量で当時としては網羅的に語っているところにある、と見ることもできるだろう。実際のところ、『自由論』では自由という価値や幸福の卓越性と自由によって生み出される多様性(の価値)の両方について論じられており、その両方の議論について読者が得られるところは大いにあるはずだ。

 したがって、「『自由論』でミルが本当に言いたかったのはこちらであり、あちらではない」と決定する作業にどれだけ意味があるかということは、わたしにはあんまりわからない。パターナリズム批判や自由の価値の論証について現代的にガッチリとした基準でやりたいのなら、「ミルは何を言いたかったのか」ということにこだわることなく現代人たちでやればいいじゃん……と思ってしまう。

 

 なんにせよ、結論部分は印象に残ったので引用。

 

…画一性のコストよりも多様性のコストの方が高い場合であっても、多様性のコストを支払っているのが、社会全体、あるいは多数派であるとは限らない。たとえば、変な服装をしている人は、変な服を買うためにさまざまなコストを自分で支払わなくてはならないかもしれない。服の費用、評判、などなどである。しかし、それらのコストを負担するのが本人である限り、つまり、「自分で責任をもって危険を引き受ける限り」、社会、あるいは多数派が文句を言う筋合いはないだろう。むしろ、そのような風変わりな人たちは、自分でリスクを負担しながら、社会に利益をもたらすかもしれない行動をとっているのであり、抑圧するのではなく「感謝」すべきである。『自由論』が伝えようとしているメッセージはそのようなものであると思われる。

(p.192 - 193)

 

社会運動をするなら心理学を知らなければならない理由

 

 

 ニック・クーニーによる Change of Heart: What Psychology Can Teach Us About Spreading Social Change (『心を変える:社会変革を拡げるために心理学が教えてくれること』)を初めて読んだのは大学院生の頃だが、他にはないオリジナリティを持った本であるために印象が深く、これまでにもこのブログで折に触れて紹介してきた。いま書いている原稿の参考にするため、先日に改めて読み返したから、こちらでも内容を紹介しよう。

 

 著者はこの本の他にも、効果的利他主義に関する本である How To Be Great At Doing Good: Why Results Are What Count and How Smart Charity Can Change the World ベジタリアンに関する本であるVeganomics: The Surprising Science on What Motivates Vegetarians, from the Breakfast Table to the Bedroom を出している。著者自身も社会運動家ではあるが、その考え方はかなり功利主義的であり、社会運動についても「できるだけ多くの不幸や苦痛や死を減らすために行うべきだ」という考え方をしている。そのため、著者がとくに実践していて関心があるのは菜食主義運動や環境保護運動、国際的な貧困を減らすための運動であるようだ。

 著者も留意しているように、功利主義的な理念に基づいて社会運動を行う人は少数派であり、通常は、運動家自身やその周辺の人たちの利益や興味関心、アイデンティティなどに基づいていることが多い。また、メディアで取り上げられて目立つ物事も、運動の対象になりやすい。しかし、社会運動家であるならどんな運動をどんな風に行うかはやはり功利主義的な観点から考えるべきだ、と著者は説く。通常の社会運動の対象となる物事は恣意的に選ばれているが、「どうすれば世の中を最大限に良くすることができるだろうか」と考えることで、自分は別の問題についての運動を行うべきだということに気がつけるかもしれない。たとえば、環境保護という目標を実現するにしても、単に現在の環境を守るための運動をするよりも世界的な出生率を抑制するための活動をするほうが、将来の環境を持続的に守るという点ではより効果的であるかもしれない(実際に一部の環境活動家はこの考えに基づいて活動の対象を変えているそうだ)。また、ブルース・フリードリッチという活動家は、当初はホームレスの人を支援するための活動をしていたが、動物の問題に集中したほうがずっと多くの苦痛を減らして生命を守れることに気が付いたので、動物の権利団体PETAの副会長になったのだ。

 

 とはいえ、この本の重要なポイントは、社会運動の目標ではなくやり方について功利主義的・プラグマティズム的になるべきだ、と主張している点だろう。

「どんな問題について活動するか」という目標選びは必ずしも功利主義的である必要はなく、人それぞれで違っていてもよいはずだ。一方で、目標がなんであっても、やるなら効果が出るようにやるべきだ、という点についてはより多くの人が同意するはずである。そこで必要となるのが心理学だ。

 個別の目標がどんなものであるかに関わらず、その目標についてより多くの人から同意や支持を得られるように訴えることで、個々人の行動や価値観を変えたり新しい政策が実施されたりすることを目指すのが、社会運動というものである。

 デモにせよビラ配りにせよその他の抗議活動にせよ、それを眺めたり接触したりした一般の人たちに「この問題は重要なんだな」「この問題を解決するために自分もなにかしよう」「次回に投票するときに政党を選ぶ際には、考慮する要素のなかにこの問題を含めよう」と思わせるようにすることこそが、活動の目的である。

 逆にいえば、一般の人たちの意見や考えになんらかの影響を与えられないような活動は、本質的には意味がない。そして、意見や考えとは、(理性だけでなく)個々の人の気持ちや心理に左右されるものである。したがって、一般の人たちの気持ちにより効果的に影響を与えられる活動ほど、そうでない活動に比べて、目標の達成に近付きやすくなる。そして、心理学(や行動科学)には、「他人の気持ちや意見や行動や価値観に影響を与えやすい活動とはどのようなものであるか」ということに関する知見がたっぷりと存在するのだ。

 

 ……とはいえ、「抗議活動は一般の人たちの意見や気持ちに影響を与えられるものでなければ意味がない」というシンプルな事実が、社会運動家たちのなかでは受け入れられなかったり忘れられたりしがちだ。

 その理由のひとつは、個々の活動家たちは「自分たちは社会運動家である」という集団的アイデンティティを強く持ってしまっていることだ。

 社会運動家は「一般人たちのことよりも「自分の活動は社会運動家の仲間たちからどう思われるか」ということのほうを気にしてしまうし、仲間内の価値観に影響されて「一般的な価値観はどうなっているか」ということを忘れてしまう。

 本書のなかで紹介されている印象的な事例は、「環境活動家たちが、デモをする前に髪を切ってスーツに着替えることを拒否してしまう」というものだ。抗議活動をしている人たちの見た目がどんなものであるかは、その活動が一般の人たちに対して与える影響力を左右する。そして、デモを行う労力に比べたら、髪を切ったりスーツに着替えたりする労力は大したものではない。しかし、社会運動家たちの多くは「自分たちは資本主義社会や既存の秩序に争うヒッピーやアナーキストだ」という自認があるため、運動のために生活を犠牲にしたり逮捕されたりすること以上に、髪を切ってスーツに着替えることを嫌がるのだ。……さらに、見た目によって人を判断すること自体がルッキズムという社会問題である。環境保護という正しい目的のために、一般の人たちが抱くルッキズムに従わなければいけないということ自体が、不公正で理不尽なことのように感じられる。

 しかし、環境保護と反ルッキズムを同時に達成しようとすることは「二兎を追うものは一兎をも得ず」となって、なんの効果も得られない。そして、自分たちのアイデンティティから生じる抵抗感を抑えてルッキズムに妥協することで、運動に効果がもたらされて環境保護という目的が達成されて、将来の人間や動物が救えるのであれば、そうしないにこしたことはないのだ。

 他の人や動物の幸福や生命が自分たちの運動の成果にかかっているときには、自分たちの価値観にしがみつくべきではない、ということである。

 また、運動の効果について冷静に考えることで「自分たちがこれまでやってきたことにはほとんど効果がなかったかもしれない」という事実に直面するのを避けるために(認知的不協和)、非効率な方法で運動を続ける人も多い、とも著者は指摘している。

 

 では、「効果的な方法の社会運動」とはどういうものか?

 まず、人間というものは原則として保守的であり、自分の価値観や行動を容易に変えようとはせず、いまの自分の価値観やアイデンティティを守る方向に作用する様々なバイアスを備えている。

 そのため、社会問題の存在を指摘されても、「その問題は他と比較すると大したものではないだろう」「わたしにはその問題に関する責任はない」「この問題について対処するべきは他の人たちだ」といった風に、価値観や行動を変えない理由をまず探してしまうものだ。

 現状維持バイアスのほかにも、公正世界信念のバイアスによって「その問題で被害を受けている人たちにも責任があるはずだ」と考えてしまったり、貢献度の過大視バイアスによって「自分はこの問題について然るべき貢献をもうしている」と自分に甘い判定を下したりするし、「この問題は重要だ」と認めてもそれを行動に移さないという「態度と行動とのギャップ」があったりするし、犠牲となる人が多いような重要で深刻な問題についてほど共感や同情が機能しなかったりするし(「特定可能な被害者効果」の逆バージョン)、そもそも考えることを拒んだりする。

 

 これらのバイアスを前提にしたうえで著者が提案するのが、バイアスに抵触しない方法で問題を訴えたりする方法や、バイアスを逆利用したナッジ的な対処法だ。

 たとえば、一般の人たちは「自分にも責任がある」と言われると責任を回避するために問題の存在自体を否定したり無視したりしてしまうので、「自分が責められている」と思わせないような方法で問題を訴えたほうがいい(市民たち一般の責任を強調するのではなく、大企業といった特定の対象の責任を強調することなど)。

 自分の行動や価値観を変えるべき理由を目の前で述べられた人の大半は「変えなくていい理由」を思いついて反論しようとするから、問題について伝えるにしても「こいつらはおれの行動や価値観を変えようとしているのだ」とは思わせないほうがいい(また、目の前で議論するのではなく、行動や価値観を変えるべき理由を書いたパンフレットや本を渡すほうが、相手が「おれの行動や価値観を変えようとしてくる奴」の存在を意識せずに議論に向き合ってくれやすくなるので、効果が高い)。

 統計よりは、かわいそうな被害者の個別的具体的なエピソードを述べたほうが真剣な関心を惹きやすい(ただしグロ画像などは直感的な拒否反応につながってしまうので逆効果)。

 一般の人たちと社会運動家たちや運動との対象となっている人や動物との違いや対立を強調するのではなく共通点を強調することのほうが、仲間意識や親密さなどのポジティブな感情につながって、拒否反応を減らすことができる。

 罪悪感を抱かせることは問題の存在を否認する反応につながるから止めたほうがいい。また、上述したようにルッキズムを利用することや、「権威に対する弱さ」という人間の習性を利用することもひとつのテだ。……などなど。

 

 この本が面白いのは、人間の「理性」が持つ力をとことん弱く見積って、「感情」の力を強大なものと認めたうえでそれを操作するための方策をあれこれと考えているところだ。それ自体はナッジや行動科学に関する本では定番のパターンであるが、この本では「社会運動」というきわめて民主主義的な物事をテーマとしながらも、民主主義の根本にあるはずの「理性」や「議論」が持つ力をほぼ否定する感じになっているところにオリジナリティがある。書き振りはポジティブで建設的だが、その背景にある人間観はかなりシニカルなものとなっているのだ。

 もちろん、近頃ではナッジの効果や心理学実験の再現性に疑問が生じているように、この本で紹介されているテクニックにどこまでの効果があるかというのには怪しいところもあるだろう。とはいえ、人間が保守的で現状維持的なバイアスを持っているということ自体は事実であるだろうし、その事実は民主主義や社会運動にとってかなり厄介なものであるということが、この本では逆説的に示されている。

 また、この本の内容や著者のスタンスが多くの社会運動家をイラつかせるものであることも間違いない。

 いずれにせよ……「感情」に関して倫理学的に考えていくと、人間の感情はバイアスまみれで信用できないものであるからこそ、他人に関することや社会的・政策的なことについては理性に訴えるのではなく感情を適切に操作するべきであるという功利主義的・ナッジ的な考え方はひとつの見識であり、耳を傾けるべきものがある。

 一方で、自分のことに関しては、自分には現状維持や自己正当化などのバイアスがあることを理解するからこそ感覚的な拒否反応に蓋をして、相手の言うことにあくまで素直に耳を傾けることを目指す、というくらいが丁度いいように思える。相手の議論に対する反論が思いついたときにも、その反論が自分自身の現状維持バイアスや自己正当化バイアスに影響されたものでないかどうか、まずは自省して確認する、という慎重さも必要になるかもしれない。いずれにせよ、感情やバイアスに左右される非理性的な存在のままであり続けることよりかは、難しさを乗り越えた先にある理性を行できる存在になろうとするほうが、社会にとっても自分にとってもよいことであるだろう。そういう意味ではストア派の哲学もいろいろと重要であるな、と最近は改めて思うようになっている。

「男性にも"ことば"が必要だ」:補足と宣伝

 

s-scrap.com

 

 晶文社のサイトでわたしが行っている連載だけれど、今月の記事がかなり多くはてなブックマークが付いている(Twitterでも話題になっている)ので、せっかくなのでこちらで補足と宣伝。

 

・「めちゃくちゃ長い」「長くて読めなかった」というコメントが散見されるけれど、晶文社のサイトの連載は後日に単行本化することを前提にしているものなので、Web記事としてというよりも、のちに本のなかの一章として読まれることを想定しながら書いている。

 たとえば2020年から2021年にかけて掲載した9つの記事は、加筆修正したうえで、『21世紀の道徳:学問、功利主義ジェンダー、幸福を考える』に収められている。本書にはさらに4つの章が書き下ろしで追加されています。『21世紀の道徳』をまだ買っていない人は買ってください。

 

honto.jp

 

 

 

・記事内で紹介した、心理学者のトマス・ジョイナーによる、男性の自殺率が高い理由とそれを予防するための具体的な方策についての議論は下記の記事にまとめている。

 

gendai.ismedia.jp

 

 ジョイナーの著書のいくつかは日本でも翻訳されているが、「男性の自殺」というテーマにスポットを当てた Lonely at the Top: The High Cost of Men's Success は未邦訳。だけれど、そのうち日本の読者にも届けられるかもしれない。

 

・「男性特権」という概念(の問題)については、先月の記事で詳しく論じている。

 

s-scrap.com

 

・男性の苦悩について社会的や政治的にどう扱うべきかとか、「非モテ」の問題についての議論はまだ構想中であるが、この問題を言語化するうえではマーサ・ヌスバウムなどによる「ケイパビリティ」概念を援用すればうまくいくんじゃないか、と思っているところだ。ただし、このトピックについて議論をまとめられるのはしばらく先になりそうである。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

ヌスバウムと言えば、彼女が『感情と法:現代アメリカ社会の政治的リベラリズム』で行っていたような「感情」に関する議論も、今シーズンの連載(またはそれを単行本化した際の書き下ろし)では取り入れるかもしれない。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

アリストテレスの『ニコマコス倫理学』の最終章の題は、「人間に関する哲学は倫理学から政治学へ向かうこと」である。

『21世紀の道徳』がタイトル通り「道徳(倫理学)」をテーマにしていたのに対して、今シーズンでは「政治」がテーマになりそうであり、それに伴って議論の内容もより複雑で曖昧なものになりそうだ。

 また、『21世紀の道徳』では自分の主張を展開するだけでなく、倫理学者たちの理論や心理学や人類学の知見などを読者に対して提供すること(それによって読みものとして面白くして、読者にとって本の価値を増させること)をねらった。

 一方で、今シーズンでは、フェアでフラットな視点を忘れないようにしながらも、政治や「正しさ」が関わる物事に対してわたし自身が抱いている主観的な「モヤモヤ」について、できるだけ丁寧に言語化することをこころがけている(だからひとつひとつの文章が長くなってしまうのだ)。ある種の「正しさ」に対してそのような向き合い方をできる人がわたし以外にあまりいなさそうなこと、そしていまの時代に関してわたしが(そして多かれ少なかれ他の人たちが)抱いている「モヤモヤ」を言語化して残しておくことにも価値があるはずだと考えているからだ。

 

・今週の土曜日に渋谷ロフト9でイベントやるのでチケット買ってください(配信でも買ったら見れます)。

 

www.loft-prj.co.jp

 

 

・わたしの作家活動を支援したい人はぜひコーヒーとかノンアルコールビールとか米とか胃腸薬とかをを買ってください(切れてきたので)。本なら『現代倫理学基本論文集II: 規範倫理学篇1』とか『生活の豊かさをどう捉えるか』とか『怒りについて』あたりがほしい。ホッブズの『リヴァイアサン』もほしくなってきた。経済学も勉強したいなあ。

 

www.amazon.co.jp


「正しい」議論と「優しい」議論

 

 とある雑誌に依頼を受けて文章を書き出したはいいものの、批判対象を明示せずにふわっとした印象に基づいてレッテルを貼ってぐちぐち論難する文章になっていき、書き進めているうちに自分でウンザリしちゃったのでボツにして雑誌のほうはまったく異なるトピックや構成でイチから書き直すことにしたんだけれど、それはそれとして、せっかく途中まで書いたのを捨てるのも勿体無いのでこのブログに掲載することにした。

 内容としては、とにかくわたしがイラつかされている議論とか風潮とかを一緒くたにしてまとめて非難する、というもの。最近に限らず以前からなんだけれど、本屋に行って『現代思想』とか『文藝』とか集英社新書ちくま新書とかを立ち読みするたびにいつもイライラしながら帰ることになっているので、そのあたりのストレスをこの文章に託した。おかげで多少はスッキリしたので明日から書く文章はもっとまともで生産的なものになると思う。

 

 

 

 人が社会のなかで生きていくうえでは、さまざまな「正しさ」に従わなければいけない。

 たとえば、学生であっても働いている人であっても、周りから評価されたり報酬を受け取ったりするためには、課題に取り組む努力をすることや能力を発揮して結果を出すことが求められる。グループワークを行ったりチームとしてタスクに取り組んだりするためには、同級生や同僚とコミュニケーションをとりながら協力しなければいけない。授業や職場に遅刻すると単位や給料に関するペナルティが与えられるおそれがあるから、朝にはきちんと起きて家を出発できるようにしなければならない。いつも体を壊していたり二日酔いでいたりすると勉強も仕事もままならないから、学校や職場の外でも生活習慣に気配りする必要があるだろう。

 そして、わたしたちが他人と関わりながら生きていくためには、「感情」を制御することが絶対に不可欠だ。たとえば、授業の内容が気に食わなかったり、他の学生たちがぺちゃくちゃと喋っているせいで教師の声が聞こえなかったり、上司からの叱責が理不尽なものに思えたり、下請けのミスのせいで自分の担当しているプロジェクトに問題が生じたりしたとしても、「怒り」は適切に抑えることが必要とされる。激昂して教師や上司をぶん殴ったり他の学生や下請けの担当者を蹴り飛ばしたりしてしまいたくなる人もいるだろうが、それらの行動を実行すると、学校や職場を辞めさせられるだけでなく警察に逮捕されてしまう可能性もある。机や壁などのモノをどんどんと叩いたり大声を発したりすることでストレスを解消することはできるかもしれないが、それだって人前で行うべきではない。同級生や同僚の目の前でモノに当たっている人は周囲から敬遠されて孤立するだろうし、道端で大声を発すると知らない人にショックや恐怖を与えてしまうことになる。

 負の感情だけでなく、親密さや愛情といったポジティブなものにすら、制約をかける必要がある。自分が育てている子供や飼っているペットのことがいくら大好きでずっと一緒にいたいと思っていても、子供やペットを養うためには、家族のなかのだれかは家の外に出て働きにいかなければならない(自宅でリモートワークするにしてもずっと子供やペットを相手にしていられるわけではないだろう)。ゼミや職場にいる誰かのことを恋愛的な意味で好きになってしまったとしても、その好意を示すことには慎重になったほうがいい。相手から受け入れられなかったり嫌がられたりすると、お互いにとって、学校や会社に行くことが負担になってしまい、社会生活に影響が生じてしまうからだ。誰かと一緒になるためには、相手の意思を尊重しながら、段階を経て仲良くなっていく必要がある。一緒になった後も、二人の生活を維持していくためにはやはり社会に出て金を稼ぐ必要はあるだろうし、相手からの好意を維持するために気配りも必要となる。

 

 要するに、「正しさ」とはわたしたちに不自由を押し付けるものである。現代社会に暮らすわたしたちは、所属する集団や身の回りの人たち、あるいは道ですれ違う知らない人たちや顔を合わせることもない人たちを含む「世間」のことも考慮しながら、自らの行動や習慣や感情を制御する必要がある。そうでなければ法律によって懲罰を受けたりするかもしれないし、学校を卒業してやりたい職業に就いたり会社で出世して給料を上げて欲しいものを買ったりするといった自分の望みを実現することもできなくなる。つまり、現代社会では「正しさ」に従っても従わなくても、結局は不自由になってしまう。「正しさ」から逃れることはできない。

 とはいえ、みんなが「正しさ」に従っているからこそ、社会は安全で豊かな場所になっている。

 自分が街を歩いているときのことを考えてみよう。街中でなにかムカついたことがあるときに大声を発せないのは、たしかに不自由であるかもしれない。けれども、街を歩いているときに大声を発する人と遭遇することは、たまにはあるかもしれないが、すれ違う人の数を考慮するときわめて稀である。みんなが些細なきっかけで生じる怒りやムカつきをその場で行動に表出するような街はおそろしく物騒で緊張に充ちた環境になり、誰も住みたいと思わないはずだ。それに比べると、自分を含めたみんなが怒りやムカつきを抑えることのほうが、多少不自由であってもずっとマシである。ほとんどの人はそう考えるはずだ。

 そして、街を歩いていれば、見知らぬ誰かが「正しさ」に従っていることの恩恵をさまざまなかたちで得ることができる。ゴミの日でもゴミ袋が昼まで放置されていることはない。ゴミ収集業者の人たちが朝のうちに回収してくれているからだ。自販機はたまに飲み物を切らしていることもあるが、大体の場合は好きな飲み物を選んで買える。業者の人が補充してくれるから。コンビニでは常に誰かが働いているから、空腹になったら24時間のうちのいつでも入ってなにか軽食を買うことができる。ついでに言うと、その食事の原材料は国内か国外の農家の人たちが働くことによって生産されたものだろう。ゴミ収集にせよ農業にせよ、それらの仕事をしている人は一般的な会社員よりも早起きしており、そのために生活習慣を律している。飲料を補充する業者の人やコンビニ店員が規律を守らずに好き勝手に動いていると、喉が渇いたりお腹が空いたりしても飲み物や食べ物を得られなくなってしまうかもしれない。もしある日突然そんな状況になってしまったら、わたしたちの生活は台無しになるだろう。「ゴミ収集業者の人もコンビニの人も仕事をしなくなる代わりに、あなたも仕事をしなくて良くなるよ」と言われたとしても、ほとんどの人には受け入れ難いはずだ。わたしたちの生活は、習慣を整えて規則を守りながら自分の持ち場で仕事をするという「正しさ」に自分も他人も従うことで、そうでないよりもずっと便利なものになっている。

 わたしたちの生活に彩りや充実を与えるエンターテイメントすら、「正しさ」を前提としていることも忘れるべきではない。マンガや映画やドラマでは多種多様な物事が展開されており、そのなかには、わたしたちが縛られているような「正しさ」が存在しないファンタジー世界を舞台としたものもある。けれども、マンガ家が締め切りを守って編集者がそれを確認して印刷所やWeb会社の人などが働かなければ、わたしたちはそのマンガを手に取ったりスマホに表示したりして読むことができない。そして、映画やドラマの制作現場と流通に関わる関係者の数はマンガの比ではない。その人たちのすべてが、時間や規律を守りながら自分の職務をこなすことでようやく、わたしたちが楽しむ物語が生産される。このことは、音楽やスポーツ観戦などのほかのどんなエンターテイメントについても多かれ少なかれ当てはまるはずだ。

 

 ここまでにわたしが書いてきたことはきわめて凡庸で、当たり前のことだ。社会の構成員のみんながルールを守り、行動や感情をコントロールして、自分の勤めを果たす。そうしない人の数が増えると社会の安全や豊かさが失われてしまうから、みんなが「正しさ」を守るべきであり、守らない人にはなんらかのペナルティを与えるべきだ。

 凡庸で当たり前のことであるとはいえ、この考え方は、古代から道徳や政治に関する哲学の基本的な発想となっている。古代ギリシャなどで語られていた「正義」にせよ、古代中国などで語られていた「徳」にせよ、社会秩序という観点を抜きにしては論じられていなかったはずだ。近代になってからは、「みんなが秩序を守ろうとしないと全体的な環境がより悪くなってしまうから、秩序を守らない人に制裁が科されることを認めたうえで、自分も秩序を守ることに同意する」という理路で「正しさ」の起源や必要性を論じる主張が、「社会契約論」というかたちで発展してきた(社会契約論にもいろいろあるけれどここではホッブズのそれを特に想定している)。同じく近代になって本格的に登場した経済学では、「正しさ」が豊かさをもたらすということが、現在に至るまで論じ続けられている。

 もちろん、道徳や政治に関する哲学にせよ、経済学にせよ、各時代の社会における「正しさ」をそっくりそのまま認めてきたわけではない。たとえば、君主や貴族が過剰に権力を握っており、自分たち以外の人たちに比べて不当に多くの豊かさを得ていることや、他人たちに必要以上の不自由を押し付ける一方で自分たちは守るべきルールから逃れられていることが、平等や正義の理念に反しているとして批判されてきた。現代であっても、資本家や富裕層が社会に対して然るべき貢献もしていないのに過度な富を得ていること、規則を守りながら大変な仕事をしている労働者たちが得られている報酬が労力にまったく見合っていないことなどが、「搾取」であるとして批判されている。とはいえ、それらの批判は、「正しさ」を否定するものではまったくない。そこで目指されているのは、その時々における秩序が歪んでおり貴族や資本家などにとって都合の良いものになっていることを指摘したうえで、本来あるべき「正しさ」を実現しようとすることだ。

 だから、倫理学や政治哲学における主流派の見解は、現状の世間における「正しさ」を一概に否定しないものであることが多い。「正しさ」の範囲を広げて、わたしたちに課される要求や義務を足すことはある。たとえば、わたしたちは自分の住んでいる地域や国内の人だけでなく海外の人についても配慮するべきだと要求したり、人間に対する義務だけでなく動物に対する義務もわたしたちは持っているのだと論じられたりする。しかし、わたしたちに課せられている要求や義務が減らされるべきだという主張は、なかなかされない。現状の「正しさ」においてわたしたちが他人に配慮しなければならなかったり自分を律したりしなければならないことは適切であるとしたうえで、それでもまだ理想の「正しさ」の基準に到達していない、と論じられる。そして、制度を変えたり資本家や政治家などの特定の層が負うべき義務を増やしたりするだけでなく、個々の一般人であるわたしたちの行動や生活スタイルまで見直す必要がある、と主張されるのだ。

 したがって、倫理学や政治哲学、あるいは経済学や公共哲学などでなされる「正しさ」に関する議論の大半は、わたしたちにとっては鬱陶しく面倒で不愉快なものだ。現状の社会は(20世紀以前などに比べれば)それなりに豊かであるとしても、多くの人にとって賃金は未だ少なく労働時間は長い。「搾取されている」と客観的に判断されるような人や、ワーキングプアであったりする状態の人に関しては、賃金を上げたり補助がされたりするべきだということは「正しさ」の論理でも主張されるが、それとは別問題として、経済状況がどうであれどんな人も規則を守ったり義務を負ったりするべきだとも論じられる。現時点でつらい気持ちを抱いている人にとっては、自分のすべきことについていま以上にこと細かく要求したり新たな種類の義務を負わせたりしようとする倫理学的・政治哲学な「正しさ」は理不尽でイヤなものとしか感じられないだろう。だが、主観的な「つらさ」は「正しさ」から逃れる理由としては認められない。このため、大半の人にとって、「正しさ」の論理から救いを得られることはできない。

 それに、なんといっても、「正しさ」に関する議論はつまらない。ある意味、倫理学や政治哲学の本の大半とは、大人向けにレベルアップした「道徳」や「公民」の教科書でしかない。それは読んだり聞いたりしていてワクワクするようなものではないのだ。

 

 このため、大半の人が本を読むときには、「正しさ」に関する議論とは異なるものを期待する。

 最も手っ取り早いのはフィクションだろう。『実践の倫理』や『正義論』などとは違い、『呪術廻戦』や『ゴールデンカムイ』は読んでいて気晴らしになる。疲れたり集中力がなかったりするときでも読むことができるし、読んだらストレス解消になる。このあたりが、本を読む人の多くがマンガだけしか読まなかったり、活字を読む場合にも小説しか読まなかったりする理由だ。なにが正しいのかとか、世の中はどうあるべきだとか、わたしたちはどう生きるべきかとかいったことに関する議論について、ふつうの人は学校を卒業した後にも自分から本を手に取ってまでして付き合おうとはしないものなのだ。

 とはいえ、世の中には、小説以外の活字本も開いてみて、社会や政治や道徳といった事柄に関する議論に触れてみようとする人もいる(忘れられがちだが、この時点で、その人はそれなりに奇特である)。だが、社会や政治や道徳に関する本を読む人であっても、「正しさ」を求めているとは限らない。大学などで研究している人ならいざ知らず、そうでない人たちが政治や道徳に関する議論に求めるものとは、「優しさ」であることが多いようだ。彼や彼女は、規律を守ったり感情を制限したりするといった「正しさ」を否定して、自分が社会に適応させづらい資質を持つことや社会の秩序についていけないことを受け入れて、自分が抱いている感情をありのままに認めてくれるような議論を期待しているのである。

 

「正しさ」を否定する「優しい」議論にも、いくつかの種類がある。

 わかりやすいものとしては、「すべての道徳や規範は虚偽であり無意味であるので、わたしたちがそれらに従う義務や必要は一切ない」といった、ニヒリズムやアモラリズム(無道徳主義)を唱えるものがあるだろう。この主張を敷衍すれば、他人を不愉快にさせないために感情を抑えたり身近な人に迷惑をかけないために遅刻しないようにしたりするといった「正しさ」も、作り事であるとして否定することができる。

 ……とはいえ、ニヒリズムを認めると、自分だけでなく他人までもが「正しさ」を守らなくてよいということになる。そうすると、友人や同僚に遅刻されて迷惑を被ることも受け入れなければならなくなるし、いつ自分が他人の怒りの捌け口とされて殴られてしまうかもわからなくなってしまう。

 結局のところ、ニヒリズムやアモラリズムは「力ある強者が自分の意思を押し付けて、力のない弱者はそれを粛々と受け入れる」といった弱肉強食的な世界や「お互いの利益になっている間は相手と協力したり約束を守りあったりするけれど、利益にならなくなった途端に協力を打ち切って約束を破る」といった殺伐とした世界を肯定することにしかならない。それでは、「優しさ」を期待する人たちが求めるのとは正反対の議論となってしまう。

 このため、「優しい」議論の多くは「正しさ」のすべてを否定しようとするわけではない。実際には、ある種類の規則に従ったり義務を守ったりする必要があることは認めながらも、別の種類の規則や義務の必要性を却下することで、自分にとって負担となったり都合が良くなかったり気分が悪かったりする「正しさ」だけを部分的に否定する議論が主となっているのだ。

 

 現行の「正しさ」を否定する議論のなかでも代表的なものが、旧来の議論の前提となっている人間像を批判するタイプのものだ。

 たとえば、昔ながらの社会契約論では人間が利己的な存在であるとみなされて、自然状態では互いを利用しあって傷付けあう存在だと考えられるからこそ、国家や制度による強制や制裁が必要であると主張される。

 これに対して、「優しい」議論では、「人間が利己的な存在である」という前提が否定される。つまり、国家や制度がなくとも人間は互いを尊重しあうことができ、生産的な協力を実現したりすることもできる、と論じられるのだ。

 この議論によると、政治哲学は過剰に利己的な人間像を描いてきたために、国家によってわたしたちの自由が不当に制限されたり、私人たちが信頼に基づく豊かな人間関係を築く機会が諸々の制度によって奪われたりすることを看過してきたと主張される。本来、国家にあれこれと行動を制限されたり指図されたりしなくても、わたしたちは平和で安全な社会を自発的に築けるはずだったかもしれない。むしろ、殺伐とした人間像に基づく政治システムの下で暮らすことによって、私たちは味気なくストレスフルな「正しさ」に従属させられる羽目になっている……と主張されるのだ。

 また、政治哲学とセットで経済学が槍玉に挙げられることも多い。経済学は人間が合理的に利益を追求する存在であると前提したうえで自由市場や資本主義などのシステムを肯定してきただけでなく、それに伴うさまざまな弊害にも目を瞑ってきた。現行の社会で搾取や格差が激しくなっていて、再生産労働が軽視されていて、地球温暖化や環境破壊が深刻化しているのは、すべて経済学が合理的な人間像を前提にしてきたせいだと、「優しい」議論は主張する。    

 だが、もし人間は経済学が前提としているほど合理的な存在でなく、利益を追求するだけでなく他者への愛情や信頼などを重視できる存在であるとしたら、自由市場や資本主義などとは異なるかたちの経済が実現できるかもしれない。そのような経済に基づく社会では、現行の「正しさ」に従わなくても、わたしたちは豊かに過ごせるはずだ。新しい経済は貨幣ではなく贈与に基づいたものになるかもしれないし、生産手段は独占されるのはなく共有されるかもしれない。すくなくとも株式とか資本といったものはなくなりそうだし、格差や搾取もなくなりそうなものだ(それらは自由市場や資本主義に特有のものとされるから)。現行の社会では多くの人が生きるためにしたくもない仕事をしているが、新しい経済の下では、みんなが自分の価値観に基づいてやりたい仕事をできるようになるかもしれない。もしかしたら24時間営業のコンビニや自販機といった便利なものもなくなるかもしれないが、農業やゴミ収集といった社会に不可欠な仕事は存在しつづけるだろう(人間は愛情や信頼を大切にできる存在であるとすれば、だれかがやらなければみんなが困るような仕事は、どこかのだれかが自発的にやってくれるはずである)。

 もちろん、そのような社会では、資本主義における「正しさ」の多くに従わなくてよくなるはずである。たとえば、現行の社会では「お金を必要としているなら、(そして仕事ができるような状態であれば)職を探して働き始めなければならない」「もっとお金を稼いで豊かになりたいなら、職場で能力を発揮したり資格を取ったりするなどの努力をしなければならない」といったことが常識となっており、それによって仕事が嫌いであったり苦手であったりする多くの人が苦しめられているが、経済が資本主義でなくなるならこの常識からも解放されることが期待できる。

 

 政治や経済に関する「優しい」議論を素描すると、上述したようなものになる。

 言うまでもなくこの素描は戯画的であり誇張したものではあるが、ポイントをまとめると以下のようになる。

「優しい」議論では、主流派の政治学や経済学の議論が前提とする利己的で合理的な人間観を否定することによって、現在の社会の主流となっている「正しさ」も否定する。そして、利己的でも合理的でもない真の人間像を発見することとで新たな「正しさ」を想像することができる、という示唆がなされる。

 …とはいえ、それは示唆に留まることがほとんどであり、現在の国家制度や資本主義システムの代替になるような具体的な展望が示されることはほとんどない。せいぜいのところ、過去のどこかや現在の辺境に存在している一部の部族社会や農村社会について、安全でないとか不便であるとか貧しいとかいったことには目を瞑りながら理想化するだけだ。それらの社会が現在の社会のオルタナティブになると本気で主張するわけではなく、どちらかというと、国家や資本主義に伴う鬱陶しくて窮屈な「正しさ」の束縛から解放されるという「夢」を託すかのような議論が多い。

 そして、それこそが「優しい」議論を求める読者が望むものである。結局のところ、自分の暮らしている社会の前提となっている国家や資本主義といった制度がなくなったり大幅に変わったりするという主張にリアリティを感じるのは難しい。変わるとしても自分が生きている間に変わるかどうかはわからないし、変わったとしてその社会が現在より良くなるかどうかについても確信は持てない。だから、現行の「正しさ」を否定しつつ、そのオルタナティブは「夢」として、曖昧で手の届かないものとして描かれるくらいがちょうどよいのだ。

 

 とはいえ、政治学における社会契約そのものは「正しい制度や政治とはなにか」を問うための仮説であったり思考装置であったりするとしても、「人間が利己的な存在である」という前提は、通常、説得力を持つものと見なされてきた。

 国家などの強制力がなければ人間が他人に対してどこまで残忍になれるか、規律を守らずに好き勝手して社会がどれほど混乱するかということは、歴史上や現時点に存在する数々の事例を見ればわかる。

 また、「人間は合理的な存在である」という前提については、経済学のなかでも数々の修正が加えられている(いまでは人間の「不合理性」を強調する行動経済学の議論を知らない人はほとんどいないだろう)。しかし、「人間はある程度の不合理さを持つ存在である」ということが正しくても、「人間はまったく不合理な存在である」ということにはならない。そして、人間に利他心や不合理さが多少ばかり存在するとしても、現行の国家制度や資本主義システムはそれを織り込んで依然と存在することはできる。結局のところ、オルタナティブな「人間像」を描くことで既存の「正しさ」を否定しようとする議論はうまくいかないのだ。

 

「正しさ」を否定する「優しい」議論には、ほかにもさまざまなタイプがある。

 飽きてきたのでここからはさらに雑な紹介になるが、たとえば、健康や公衆衛生に関わる諸々の政策などを否定する議論。現在の社会では自分の健康を守るために(そして健康を崩して他人や社会に無用な迷惑や負担をかけないために)食生活や生活習慣を律することが期待されていて、タバコの副流煙は他人の健康を侵害するものであるから喫煙場所が制限されていて、ワクチンの接種は自治体や職場から半ば強制されていてと、健康に関する諸々の行動が「正しさ」によって制限されたり押し付けられたりする。だが、自分の健康を顧みず暴飲暴食したい人や他人の迷惑も気にせずにタバコを吸いたい人やワクチンが不安で接種したくない人は、そういう「正しさ」をもちろん嫌がる。そんな人たちのためには、生権力がどうこう言ったり管理や支配があーだこーだと言ったりしながら健康や公衆衛生に関する「正しさ」を否定する「優しい」議論が存在している。

 生活したり他人と協働していくためには感情を適度に抑えて、人に対して意見を言ったり要求したりするときにはできるだけ冷静で客観的であったほうが望ましい、という「感情」に関する「正しさ」についても、それを否定する「優しい」議論は存在する。とはいえ、中年男性がキレることまでをも肯定する議論は存在せず、基本的には女性やその他のマイノリティだけの感情を選択的に肯定する議論となる。たとえば、「“女性は感情的で非理性的な存在である”というステレオタイプが存在してきたからこそ、女性は自分の感情を抑えようとするプレッシャーにさらされ続けてきたし、女性の発言はどれだけ冷静で理知的なものであったとしても耳を傾けられてこなかった」といったジェンダーに関する「歴史」が滔々と述べられたうえで、「女性はどうせなに言っても感情的だと言われるんだから、それじゃあむしろこれまで抑えつけてきた感情を表出することのほうが正しいのだ」といったロジックによって、女性の感情を怒りといったネガティブなものも含めてまるごと肯定する……といった議論がここ最近ではかなり流行っている。

 健康に関するものにせよ感情に関するものにせよ、これらの「優しい」議論には普遍性がないことが難点だ。暴飲暴食する人や所構わずタバコを吸う人やワクチンを拒否する人が少数派であるうちは問題ないが、多数派になると社会の負担が過大になって保険制度に歪みが生じたり公共空間が機能しなくなったりする。男性の「怒り」までもが肯定されるようになるとどう考えても世の中がロクでもないことになるのでジェンダーの「歴史」についての主張を経由して女性の「怒り」だけを選択的に肯定するわけだが、その「歴史」にどこまで信憑性があるかわからないし、歴史がどうであるかということと現在の社会のなかで生きている女性がどうするべきかということは本来別問題であるはずだ。

 

 結局のところ、「正しい」議論とは異なり、「優しい」議論は、それに触れる読者の感情や願望を肯定するためのものに過ぎない。

 政治や社会について論じてはいるが、自分たちの結論が社会的に採用されて政策などに反映されたり一般の人たちの価値観を変えたりするとは、「優しい」議論を行なっている当人たちも思っていないし、それを志向すらしていないかもしれない。その議論は学会や論文誌や学術書や文芸誌や素人のブログやSNSの駄弁りなどのなかで完結するものに過ぎず、現状の「正しさ」をイヤに思っていたり負担に感じていたりする人の気持ちを一時的に解放して「世の中がこんな風であったらいいのになあ」という幻想に浸らせる、気休めであるに過ぎないのだ。

 とはいえ、漫画や映画といったエンターテイメントが気休めであることは周知の事実であるのに対して、「優しい」議論の提唱者たちは自分たちがやっていることが気休めであることを公言しない。「優しい」議論が読者たちに見させる夢のリアリティを増すためには、「正しい」議論に並び立って反論を行なったりする「議論」の形式をとりながらもっともらしさをキープすることが重要なのであり、「わたしたちのやっていることは議論ではなく気休めなんですよ」と公言した時点で、気休めとしての効果が失われてしまう。

 そのために、「優しい」議論を本気で真に受けてそれに一生を捧げてしまう人もいるし、才能や知能を持つ個人や税金とかの公的なリソースが「優しい」議論に吸収されてしまう。それらの個人やリソースが「正しい」議論のほうに投入されていたら、世の中はもっとよくなっていたかもしれない。

 まじめに物事を考えたいときには「正しい」議論に付き合うべきである。そうでなく気休めが欲しいときには難しい本ではなく漫画を読めばいいし、Netflixを観たりゲームしたりしていればよいというのが、わたしの言いたいことだ。

 

 

政治参加(熟議民主主義?)が個人の思考・感性にもたらすメリット(読書メモ:『正義論』その①)

 

 

 

 散々いっぱい入門書を読んでから「いざ」と意気込んでジョン・ロールズの『正義論』を読んでみたはいいものの、これがおそろしくつまらない。なにしろいちいち長ったるしく、注意して読まなければ「ロールズ自身の主張」と「(続く文章で反論するために出している)相手側の主張」との区別も難しくつい混合してしまうし、同じような主張が繰り返されるし、なんといっても悪文だ(翻訳も良くない気がするけれど、原著も名文ではなさそうな予感がする)。同じタイミングでJ・S・ミルの『自由論』を読み返していたぶん文章のひどさが強烈に伝わってきたし、いくら哲学の学術書だとはいえ読みものとしての面白さがないとテンションやモチベーションが下がる。よくみんなこんな文章を必死に読めたものだなと思う。

 まあそれはそれとして、いつものように、気になった箇所を(写経的に)メモ。

 

 

さらに平等な政治的権利の価値が公正である場合、自己統治には、平均的市民の自己肯定感と政治的力量の感覚を向上させる効果がある。市民はおのれの共同体における小規模の連合体の中で自分の真価について自覚して行くが、その自覚は社会全体の基本法において強固なものとされる。市民は投票するよう期待されているから、政治的意見を抱くことも期待されている。市民が自己の見解を形成するために捧げる時間と思考が、彼の政治的影響力を通じて得ることになりそうな物質的見返りによって律せられることはない。むしろ、おのれの見解を形成すること自体が楽しい活動であり、それによって社会観が拡大され、そして彼の知的・道徳的能力が向上する。ミルが気づいていたように、市民は自分以外の人びとの利害関心を考慮するよう求められており、また自分自身の性向ではなく何らかの正義および公共善の構想によって導かれるように求められている。自分の見解を他の人びとに説明しかつ正当化しなければならないとすれば、市民は他の人びとが受諾しうる原理に訴えかけなければならない。また、もし市民たちが政治的義務と責務に関する肯定的・積極的な感覚をーーすなわち法と政府にただおとなしく従おうとする意欲以上のものをーー身につけるべきであるならば、公共精神を目指す教育を施すことが必要となる。このようにミルは付言している。このような〔公共精神に向かう〕包括的な情操がなければ、人びとはおのれの小規模の連合体の中で互いに疎遠となり孤立するようになる。また、家族あるいは狭い友人の輪を超えて愛情の絆が広がることはあるまい。市民たちはもはや、互いを公共善の何らかの解釈を推進すべく協働できる仲間としては捉えない。代わりに、市民たちは互いを競争相手として、さもなければ互いの人生目的の障害物として見なす。以上のような留意事項は、すべてミルたちのおかげで周知のこととなった。平等な政治的自由はたんなる手段にとどまらないことがこうして判明している。これらの自由は、自分自身に価値があるという人びとの感覚を強め、知的・道徳的感受性を高め、正義にかなった制度の安定性を左右する義務と責務の感覚の基盤を提供する。こうした重要事項と人間的善および正義感覚の間にあるつながりについては、第三部で論じることにする。そこでは、以上のものごとを<正義の善>という構想のもとでしっかり結びつけることを試みる。

 

(p.316 - 317)

 

 関係しそうな議論として、『リベラリズムの系譜学』からハーバーマスに関するところを引用。

 

 

 

理性的なコミュニケーションにおいては、各自が自身や自身がもつ知識や価値を特権視することなく言語的に相対化している必要がある。そして、他者を道具として扱うのではなく語り手である自身と同格の主体としてみなし、自身を含め議論参加者の意見が根拠のあるものかどうかなどの批判可能性が開かれつつ言語コミュニケーションが行われることで、批判に耐えうる合意が共有されることになる。そこでなされたある発言について、それが誤謬可能な知識(に関する命題)を示しているとしても、それに関する批判を通じて、その発言の妥当性や根拠づけが共通了解されてゆき、相互主観的に共有されるところの生活世界と合致する形でその意味内容はよりクリアなものとなってゆく。所与の常識や慣習についてもそのようにときに反省され修正されながら、言語能力と行為能力をもつ諸主体の共同体にとっての同一かつ唯一の世界としてそれらは同定される。このように、各主体は自らが生きているその世界を世界内在的観点から適切に認識しつつ、世界をよりよく認識・変更してゆけるようになる(その中で、世界内存在としての共通の「知」のもとで生きてゆく)。これこそが、個々人それぞれにおける認知的・道具的合理性とは異なるところの、「コミュニケーション的合理性 kommunikative Rationalität」というものである。

そもそも、何が正しいか、何をなすべきかがいまだ不明なーーしかしそれが重要な意味をもつようなーー共同体においてはいまだ客観的世界は構成されているとはいえない。ゆえに、客観的世界を構成するための条件がそこでは必要となる。客観性が成立しているといえるためには、世界内の出来事や実現すべき事柄に対し、それらは言語能力および行為能力をもった個々人にとっての世界として共有されていなければならない。もちろん、感受性が異なり、さらには経験もさまざまであるような個々人においてそれはときに食い違いをみせるが、その際、「あなたがそう思うのはなぜですか?」「それはね…」といった開かれた問いの形式、そしてそれに対して答え(言い分)としての水準を満たすような答え方、さらにはその水準を満たした答えに対し、それを好き嫌いで排除することのない理知的な態度、これらがそもそもなければ、客観的世界という概念は無意味なものとなってしまうだろう。そして、こうしたコミュニケーションのための理性が発揮される場こそが「公共」なのである。

 

(p.134 - 135)

 

 ロールズハーバーマスが論じているのは、民主主義のなかでもとくに「熟議民主主義」的な物事が市民にもたらす恩恵のことであるだろうか(だよね?)。

 

 わたしは熟議民主主義にはけっこう憧憬を抱いているほうだが、とはいえ、それはゲームや映画などの理想化されたフィクションを通じてのことである*1。たとえば現状のネット空間における政治的議論を見れば、「熟議民主主義」や「コミュニケーション的理性」に対してシニカルになって否定的な意見が出てくることも無理はない。それに対して、まず熟議やコミュニケーションが通じるような環境を整えることが前提である、という反論はあるだろう(昔読んだロバート・グッディンによる熟議民主主義の本でも、熟議を実際に行う際の運営方法や注意事項と言った具体的な事柄に紙幅が割かれていた)。でもまあ実際のところどんな感じなんだろうね。