道徳的動物日記

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読書メモ:『ヘイト・スピーチという危害』ほか

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 

 前回に引き続き、来たる6月13日の「左からのキャンセル・カルチャー論」トークイベントに向けて、表現の自由というトピックに関して復習中*1

 

 最近に読んだり再読したりした本は以下の通り。

 

 

 

 

 

 ウォルドロンと志田の本はどちらも初読。前者はアメリカの法哲学者が書いたものでヘイト・スピーチ規制がはっきりと打ち出されているもので、後者は日本の憲法学者判例や事例を紹介しながら法律上の「表現の自由」の意義と実際の運用について解説したもの。ウォーバートンの本については以前にもこのブログでメモを取っているが、3年半でわたしの考えもだいぶ変わったということもあり新鮮な気持ちで読むことができた*2

 これらの本を読んでいて改めて思ったのは、表現の自由原理主義や絶対主義……なにがあっても無制限に表現の自由を認めること……はさすがに厳しいな、ということ。たとえばウォーバートンの本では第一章の時点で以下のように釘が刺されている。

 

ある厭世的な発明家が入手しやすい家庭用製品からきわめて効果の高い神経ガスを作り出す簡単な方法を発見したとしたら、あなたはどう言うだろう?[…]この危険な発明、すなわち人類に何ら明白な利益をもたらし得ず、多くの代償を強いる可能性のある発明に関する言論の自由に対する彼の権利を擁護したがる人々はごく少ないことだろう。[…]もしあなたが言論の自由はあらゆる状況で擁護されるべきだと信じるなら、この事例においてすら、それは擁護されるべきだと信じなければならない。

[…]となると、「私は言論の自由に賛成です」と宣言することは、どこにその限界が存在するかに関する観念なしには相対的に情報不足であるし、ほとんどの人々にとって「私はいかなる状況の下でも絶対的に言論の自由に賛成です」ということを意味しない。しかしこの限界線を正確にどこに引くかを決めることはまったく簡単な作業ではない。その決定は、何らかの競合する価値がこの自由に優先するのはどのような場合かを決定することを意味する。

(ウォーバートン、p.15 - 16)

 

 また、志田の本では、(日本国における)法律上の表現の自由は「人格権」や著作権などに対する侵害となる場合には規制され得ること、その他にも具体的な事情(公共の施設で特定の政治的意見を発信することは認められるかどうかやヘイト・スピーチや性的表現の「社会的効果」に対する懸念など)によっては規制が認められるかもしれないということが詳しく説明されていた。

 

 さて、ウォルドロンの『ヘイト・スピーチという危害』では、人々の「安心」と「尊厳」は表現の自由を上回って保護されるべきだという理由に基づいてヘイト・スピーチは規制され得るべきである、というウォルドロン自身の主張が展開されている。

 しかし、わたしとしては、ウォルドロンの本は…主張や議論の内容もだけれど、いかにも頑固で教条主義的な左派らしい押し付けがましさとか、自分と対立する意見を紹介するときの冷淡さややる気のなさといった全体的なトーンなどが…ぜんぜん好ましく思えなかった。

 

 表現の自由…さらには自由一般…を規制する理由として最もよく持ち出されるのが「危害原則」、つまり「(原則として自由は最大限に認められるべきだが)ある人の自由な行為や表現が別の人々に対して危害を与えることにつながる場合には、自由を制限してよい」という考え方だ。

 とはいえ、一般論として、表現というのは物理的には誰かに対して危害を与えるものではない。「言葉の暴力」という言い回しはあるものの、手やバットで殴ったら相手に痣を残したり骨折したりできるかもしれないが、言葉にはそういうことはできない。表現が物理的な危害を与えるというのは、混雑した劇場で「火事だ!」と叫んでパニックを引き起こして劇場の出口に殺到した客たちがケガをさせる場合や、「あいつはわたしたちに害を与えているからとっ捕まえてリンチしてやろう」と喧伝して暴力を扇動する場合などに限られるだろう。

 他方で、他人の製作した表現物などを勝手に使用する場合には、その表現物を使用することで製作者が得られたはずの経済的利益を奪うという点で「危害」になる。つまり表現は他人に対して経済的な危害を与えるかもしれず、法律上の著作権などはそれらの危害から人を保護するためのものである。

 だが、表現が与える危害として多くの人が懸念しているのは、物理的なものでも経済的なものでもなく、もっと感情的・精神的なものであるだろう。暴力の扇動はしないが他の人々を侮辱するような表現のことだ。この場合にも、表現の対象が特定の個人であるなら名誉毀損となり、人格権で保護される対象になる(ほかにも、表現は個人のプライヴァシーを侵害して、そしてプライヴァシー侵害は精神的な危害を引き起こすだろうが、個人のプライヴァシーもまた人格権で保護される対象である)。

 しかし、表現のなかには、特定の個人を対象にしていないが一定数の人々に感情的・精神的な危害を引き起こすものがある。特定の人種や宗教や性的嗜好といった属性に対する差別表現(ヘイト・スピーチ)はそうであるし、ポルノグラフィや一部の広告表現などについてもそうだという人がいる。…しかし、物理的な危害や経済的な危害、あるいは特定個人の名誉やプライヴァシーに対する侵害という具体的な精神的危害に比べると、差別表現やポルノグラフィがどんな危害を引き起こすかは曖昧だ。

 そして、表現の自由は個人の人格の発展や幸福追求や自律などには欠かせないものであるし、人々の自由な表現が守られることは民主主義の健全な運営や真理の探求といった社会的な価値ももたらす。だからこそ表現の自由はできるだけ守られるべきだし、「検閲」はできる限り避けられるべきだ。……しかし、繰り返しになるがヘイト・スピーチやポルノグラフィがもたらす危害は曖昧なものであり、これらの危害をもとに表現の自由を規制しようとすることは「危害原則」の濫用に繋がりかねない。

 たとえばヘイト・スピーチやポルノグラフィがもたらす危害としてもっともわかりやすいのは「それらの表現を人を不快にする」ということであるが、いちど不快感に基づいて表現の自由を規制してしまったら、「この表現だって人を不快にしている」という訴えが相次いで、かなり多くの表現が規制されることになるだろう。不快感に基づく訴えには濫用の危険がある。また、たとえばマイノリティに対する侮辱的な表現とマジョリティに対する侮辱的な表現とでは前者のほうに後者よりも深刻な問題が含まれている、と多くの人は考えるだろうが、不快感に基づく訴えは原理的にこれらを区別することができないかもしれない(侮辱表現によって実際にはマイノリティのほうがより多大な不快を受けている可能性が高いとしても、マジョリティのなかにも繊細で傷つきやすい人はいるかもしれないので)。

 ……というわけで、ヘイト・スピーチやポルノグラフィなどの規制を主張する人は、不快感とは異なる危害の存在を立証しなければならない。ここでウォルドロンが主張するのが、ヘイト・スピーチやポルノグラフィは対象になる人々の「安心」を損ない「尊厳」を傷つけるという議論である。

 

…何が問題であるかを、私たちは二つのやり方で記述できる。第一に、包括性という、私たちの社会が支持し、コミットしている、ある種の公共財が存在する。私たちは、エスニシティ、人種、外見、それに宗教に関して多様である。しかも私たちは、こうした種類の差異にもかかわらず共に暮らし、働くという壮大な実験に乗り出している[※ロールズの「協働の冒険的企て cooperative venture for mutual advantage」のこと]。各々の手段は、社会が彼らだけのためのものではないことを受け入れなければならない。しかし社会は、他のすべての集団と一緒に、彼らのためのものでもある。そして各人は、各々の集団の各々の成員は、他人による敵意、暴力、差別、あるいは排除に直面する必要はないという安心〔assurance〕とともに、彼または彼女の暮らしを営むことができるべきである。この安心は、それが効果的にもたらされるときは、ほとんど気づかれない。それは、人々が呼吸する空気のきれいさや、泉から飲む水の水質のように、だれもが当てにできる物事である。私たち全員が住んでいる空間におけるこの安全さの感覚は、ひとつの公共財である。そしてよき社会においては、この感覚は、私たち全員が、本能的なほとんど感知されないような仕方で、それに貢献しそれを維持する手助けをするものである。

 

(ウォルドロン、p.5)

 

何が問題であるかを記述するもうひとつのやり方は、ヘイト・スピーチによって不確かなものとされてしまう安心から恩恵を受けるべき人々の観点から、ヘイト・スピーチに目を凝らすことだ。ある意味では、私たち全員が安心から恩恵を受けるはずである。しかし、脆弱なマイノリティ、近い過去において同じ社会の内部の他の成員から憎悪され嫌悪された経験を持つマイノリティの成員にとっては、安心は彼らが社会の成員であることの確証を提供するものである。安心は、彼らもまた、しっかりした立場をもつ社会の成員であることを確証してくれる。彼らが周りの他者と共に、公共の場所で、通りで、商店で、仕事場で、何ごともなく普通に交流し、社会の保護と関心の当然の対象としてーーほかの誰とも同じようにーー取り扱われるのに必要なものをもっていることを確証してくれるのである。こうした基本的な社会的地位を、私は彼らの尊厳〔dignity〕と呼ぶ。ある人の尊厳とは、たんに何かカント的な輝かしさではない。尊厳とは、彼らの社会的地位である。社会の通常の働きの中で平等な存在として扱われる権限を彼らに与える基本的な評価の根本にある事柄なのである。彼らの尊厳は、人生を生き、仕事をし、家族を育てるときに、彼らが当てにできるものであるーー最善の場合には、暗黙のうちに、わざわざ大騒ぎしなくても。

 

(ウォルドロン、p.6)

 

 そして、ウォルドロンによると、安心や尊厳を保護することとは不快感から保護することとは異なる。

 

しかしながら、人々が不快な思いをさせられるのを防ぐことが、ヘイト・スピーチを制限する法律の狙いであるべきだとは、私は考えない。人々の感情を不快感から防ぐことは、法律の適切な対象ではない。本章で私は、ヘイト・スピーチまたは集団に対する名誉毀損に対する立法のための、尊厳に基づく理由が、集団の成員が何らかの批判や攻撃にぶつかったときに受けるかもしれない不快感に基づくアプローチとはどのように異なるかを明らかにしようと努めるつもりである。そして私は、法律は尊厳の侮辱と不快にすることの間に引かれた線を守ることができるという主張を擁護するだろう。

その区別は、大部分、一方における、ある人の社会の中での立場がもつ客観的または社会的側面と、他方における、傷つき、ショック、怒りを含む感情という主観的な側面の間の区別である。人の尊厳または評価は、社会の中で物事が彼らとの関係でどうあるかとかかわるのであって、物事が彼らにとってどう感じられるかとかかわるのではない。あるいは、少なくとも第一義的にはそうである。もちろん、自分の尊厳に対する攻撃は、痛みに満ちた、力を奪うようなものとして感じられるであろう。さらに、他人の尊厳をこのようなやり方で攻撃するものが、一定の心的効果を与えようと望んでいることはーーマイノリティの成員の間に、自分たちは信頼されていない、通常のシティズンシップに値するものとみなされていないという悲痛な感覚、差別的で恥辱を与える排除と侮辱に対して自分たちはいつも脆弱なのだという感覚を培養しようと望んでいることは疑いの余地がない。そうした感情は、当然のこととして、尊厳に対する攻撃にともなうだろう。けれども、そうした感情は問題の根源ではない。

 

(p.125 - 126)

 

尊厳と不快感の間のこの区別を強調することによって、尊厳に対する攻撃の感情的な側面に対して私は無関心であることを伝えようとしているのではない。尊厳はただの飾りではない。それはある目的のために支えられ、支持されるものである。第四章で強調したように、個人の尊厳の社会的な支持は、人々にとって、彼らが生活を送り仕事をするときにまともな扱いをうけ尊敬を受けることについての一般的な安心の基盤を供給する。こうした尊厳へのいかなる攻撃も、傷つけ、苦しみをもたらすこととして経験されざるを得ない。そしてその苦しみを理解しないかぎり、集団に対する名誉毀損の何が問題なのか、それを法律によって禁止することが適切であるのはなぜかについて、理解することにはならない。人々を彼らの尊厳に対する攻撃から保護することは、間接的には、彼らの感情を保護することでもある。けれども、尊厳に対する保護が感情の保護でもあるのは、尊厳の保護が人々をひとつの社会的現実ーー地位を根本的に引き下げ安心を傷つけることーーから守るからであり、この社会的現実がたまた、彼らの感情にどうしても影響力をもつからである。誰かの感情が傷つけられるということは、多少なりとも、不快にするとはどういうことかを定義する。しかし、尊厳を傷つけるとはどういうことかを定義することはない。ショックを受けること、苦しむこと、または感情が傷つけられることは、尊厳を傷つけられたことを表す症状であることもあれば、ないこともある。それは、こうした感情の原因となる、あるいはそうした原因と関連している、社会現象の種類に依存するのである。

 

(p.127 - 128)

 

 長々と引用してきたが、どうにも、わたしはウォルドロンの議論に色々と納得できない。ま

 ず、これはたしか綿野恵太も『「差別はいけない」とみんないうけれど。』で言及していたが、結局のところ「安心」とは「安心感」のことであり、要するに感情なのではないかという気がする*3。そして、グレッグ・ルキアノフとジョナサン・ハイトの著書『傷つきやすいアメリカの大学生たち』や諸々の「ポリコレ批判」のニュースやこのブログの過去記事でも示してきたように、安心感とは主観的なものであるために、安心に対する要求はインフレしがちである*4。相手がマジョリティであろうがマイノリティであろうが、どこかの段階で「あなたはこの社会に対して不安を感じるかもしれないが、それは社会が配慮すべき事柄ではなくあなた自身で対処しなければならない事柄だ」と言うことのできる線引きは必要になるだろう。そうでなければ「危害」という単語に含まれる範囲はどんどん拡大して「セーフ・スペース」への要求はどんどん非合理なものになっていく。

「尊厳」についても、「ある行為や表現がある人の尊厳に対する攻撃である場合、同時にその人に対して不快感を引き起こすことが多いのもたしかだが、尊厳侵害と不快感との結び付きはあくまで偶然的なものであるし、問題となっている行為や表現の悪さの本質は不快感を引き起こすことのほうにではなく尊厳侵害のほうにある」という議論は、そもそも「尊厳」というものが感情保護とは独立に存在することを前提にしている。……だが、わたしには、特定の種類の攻撃や表現が引き起こす諸々の感情的な危害の総称が「尊厳侵害」であり、その危害から人々を保護するために「尊厳」というものが仮定されてきたんじゃないか、と思える(「権利」というものに対する功利主義的な観点と同様)。この観点からすると、ウォルドロンの議論は、便宜上の仮定や速記表現に過ぎないはずの「尊厳」が本当に存在するかのように物象化してしまい、それに振り回されて本来の目的を見失ったものであるように思われる*5

 ウォルドロンの理路は現代の日本でもよく見るものだ。企業がなんかやらかして炎上したときに謝罪文に「不快な思いをさせて申し訳ありませんでした」と書いたら、批判者たちが「これは人権の問題(または公正の問題とか多様性の問題とか)であって不快を与えたかどうかは関係ない、そんなことを書く時点で問題の本質がまだわかっていない証拠だ」とさらに噴き上がるという、ああいった光景である。……わたしとしては、「不快な思い」こそが、大半の炎上問題とか社会問題とかの本質であると思う。先述した通り不快感に基づく訴えには濫用の危険があるし、主観に基づく訴えがインフレして要求が理不尽にならないように線引きも必要であるが、それらは、「不快感は深刻な問題にはならない」ということを意味しているわけでもないのだ。

 

 ウォルドロンの議論は尊厳という言葉を使っているわりにはあまりカント主義的なものではないらしいが、尊厳や安心を「公共財」や「環境的な財」と捉えるロールズ的なものではある。そして、ウォルドロンの議論では、「秩序ある社会の雰囲気」を保つことが重視されたり、(市民同士とはただ単に同じ社会に生活しているのではなく共に「協働の冒険的企て」に参加している仲間であるという理由からか)市民は(家族や友人ではない見知らぬ相手であっても)他の市民に対して尊敬や関心を示すべきであるとされたり、公共財である安心や尊厳の保護には政府だけでなく市民も積極的に関わることが求められていたりするようだ。さらに、ヘイト・スピーチ規制だけでなくキャサリン・マッキノンの議論を経由しながらポルノグラフィー規制も支持しているように、ウォルドロンの議論はリベラリズムに基づいてはいるがかなり多くの領域での自由の制限を正当化するものである。

 ……ここらへんが、わたしにはウォルドロンの議論が押し付けがましく感じられる理由だ。わたしたちは市民として「協働の冒険的企て」に参加しているというロールズの議論は認めたとしても、ウォルドロンが描くほどにまで制限も義務も多くて窮屈な社会に参加するのに同意した覚えはわたしにはない。わたしに限らず多くの人がこんな社会には参加したくないと思うし、無知のヴェールを被ってみても結論は変わらないと思う。

 もちろん、(ポルノグラフィについては難しいところであるが)ヘイト・スピーチは問題であるし、なんらかのかたちでの規制が必要であるだけでなく、規制を正当化する理論も必要である。しかし、先述したように、表現の自由というものの重要さとヘイト・スピーチがもたらす危害の曖昧さを考えると、その理論を打ち立てるのはかなり難しい。そしてウォルドロンの議論は理論の打ち立てに失敗しているだけでなく、表現の自由の価値を過少に見積もることで、規制を安直に正当化する……向き合うべき「難しさ」から逃避したものであるようにも思える。マイノリティに対するヘイト・スピーチに心を痛めている人たちやヘイト・スピーチの対象になっているマイノリティたち当人にとっては賛同できる主張であるかもしれないが、そうでない人たちがウォルドロンの議論を支持する理由はほとんど示されていないように思える。「ヘイト・スピーチによって不確かなものとされてしまう安心から恩恵を受けるべき人々の観点から、ヘイト・スピーチに目を凝らすこと」はたしかに必要であるだろうが、別の観点から目を凝らすこともやはり必要であるのだ。

*1:

davitrice.hatenadiary.jp

www.loft-prj.co.jp

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

*3:

 

 

*4:

 

 

*5:このわたしの意見も、「権利」に基づく議論に対する功利主義からの批判を流用したものだ。また、「仮定や仮説に過ぎながったはずの概念や理論が本当に存在するかのように錯覚して、それに振り回されてしまう」という現象は(功利主義者である)ジョシュア・グリーンが『モラル・トライブズ』のなかで権利論批判やカント主義批判の文脈で、ヘレン・プラックローズとジェームズ・リンゼイが『「社会正義」はいつも正しい』のなかでポストモダニズム批判や特権理論批判の文脈でそれぞれ独立に行っているが、権利論やポストモダニズムのほかにも多くの議論に対して有効な批判であるように思える。

 

 

ピーター・シンガーによる「言論の自由」論

 

 出勤前の短い時間なのでメモ的な記事。

 

www.project-syndicate.org

 

 昨年の11月に倫理学者のピーター・シンガーが書いたコラム。イ

 ーロン・マスクがTwitterを買収したことに言及しながら、自身が編集委員をやっている雑誌 Journal of Controversial Ideas (論争的な問題についてのジャーナル)について紹介(宣伝?)するような内容だ。

 

 とくに重要だと思ったところを、(時間ないので)Chat GPTに訳してもらった。

 

マスクが「Wokeの精神のウイルス」と呼ぶもの……政治的に正しくないと見なされる意見を主張する人々を攻撃したがること……そして政治的な立場を横断した真の対話が欠如していることに関して、私はマスクと同じ意見を持っている。だからこそ、私はJournal of Controversial Ideas という学術雑誌の創設編集者の一人となったのだ。

 

マスクが「健全な方法」で信念について議論すると述べたことについては、さまざまな解釈が可能であるし、そのなかには言論の自由を強く制限する解釈もある。しかし、それが何を意味するにせよ、問題はどのように実現できるかという点だ。Journal of Controversial Ideas では、初期審査を通過したすべての記事について、作者を特定しない形式で専門家に独立した査読を依頼している。また、私たちが公開する記事への反応・反論も同様の方法で扱っている。私たちが求めているのは、論争になるような扇情的な(polemic)主張ではなく、理にかなった議論なのだ(well-reasoned arguments)。

 

マスクの賞賛すべき目標を達成するためには、理性や証拠に訴えながら私たちの共感や理解を広げようとする発言と、他者を中傷し憎悪を煽る発言とを区別する必要がある。前者は私たちの考えを変えるよう説得するために行われるものであり、後者は他者に対する悪意を煽り立てるものだ。

 

 要するに「言論の自由や議論の自由は大切であるが、野放図な言論や議論ときちんとした手続きや制度に則った言論や議論とは別物だし(後者のほうがよい)、言論や議論が理性的なものであるかやどんな目的によって行われているかも大切だ」といった感じの主張だろう。

 

 僭越ながら、ここでシンガーが述べていることは昨年の6月に公開されたわたしの記事と共通していると思う。

 

s-scrap.com

 

 この記事のなかではシンガーによるまた別の「表現の自由」論も参照しているが*1、それはともかく、この記事でわたしが主張したことのひとつは「(新生児の安楽死やシスジェンダー女性とトランスジェンダー女性との利害の調節などの)論争的な問題こそ、Twitterのようなところで議論してもロクなことにならないので、アカデミアのような制度的なところで行われなければならない」というものだった。おそらく、シンガーも同様の問題意識があるから、Journal of Controversial Ideasの創設に関わったのだと思う。

 また、上記の記事のなかでは、わたしは議論をする人の「真摯さ」の重要性を強調していた。シンガーはTwitterでの議論がPolemicになりがちなことを危惧しているし、 Journal of Controversial Ideasのホームページでも自分たちはcareful(慎重)でrigorous(厳密)であるとともに unpolemical な議論のためのフォーラムを提供している、と書かれている*2。ポレミックというのは、英和辞書だと中立的だったり良い意味な印象を受けるかもしれないけれど、ChatGPTなら「扇情的」と訳するし、英英辞書などを参照すると「対象に対して過度に対立的・敵対的に〜(表現する)」という感じの意味合いだ。とにかくポレミックなのはダメである。

 実際のところ、TwitterなどのSNSでの主張や議論……多くの雑誌や書籍でなされる主張や議論、テレビなどでの討論やブログなどでの議論、そしてアカデミアでの主張や議論の一定数以上もそうではあるんだけれど……はポレミックなものになりがちだ。わたしは昨年の記事では「プラットフォームの構造」やリツイートやいいねの増加などの「報酬」が言論に紐付くことが問題だと指摘した(シンガーも今回の記事のなかでTwitterの文字数制限の問題に触れている)。また、その後も観察を続けていると、人格の問題か習慣の問題かは知らないがポレミックなかたちでしか物事を論じたり主張したりできない人が多々いるということも認識するようになってきた*3

 

 とはいえ、人は「論争的な問題」について関心を示してしまうし、一部の人々はそれについて議論をしたがる。

 ある特定の属性や状況の人々にとってはある特定の「論争的な問題」に関して自分たちの重大な利益がかかっている(少なくとも主観的にはそう認識している)から、という面もあれば、人間の知性の傾向や習性として「これってこうなるんじゃない?」とか「これっておかしくない?」ということがいちど気になったらそれについて考え続けたくなるし意見も言いたくなる、という面もあるだろう。

 だが、理にかなった議論をするのは難しいし、それをするためには真摯さや能力とともに制度の助けが必要だ。だからこそ難しい問題や論争的な問題についての議論はSNSなどの「下流」に任せるよりもアカデミアなどの「上流」に託したほうがいいし、逆に「上流」であるアカデミアの人たちは「下流」のSNSでロクでもない議論が巻き起こるのを防ぐために難しい問題や論争的な問題を扱う義務がある。……と、これも、過去の記事でわたしが主張したこと。たぶんシンガーやJournal of Controversial Ideasの創設委員たちも同じようなことを思っているだろう。

 

 本日に改めてこんな記事を書いた理由の一つは、来たる6月13日の「左からのキャンセル・カルチャー論」トークイベントに向けて、表現の自由というトピックに関する勉強を再開しているところだから*4

 また、直近で気になる話題としては、オックスフォード大学にキャスリーン・ストック教授が討論会に招待されたのとそれに対して活動家たちが抗議するというニュースがあったこと*5。わたしがストックの問題に関心を示しているのは、日本の哲学雑誌でもストックに対する「懸念」に応答するメッセージが公式に表明されたという事例があったからである*6。……このメッセージ自体はストックの言論の自由を直接に制限するというほどのものではないし「キャンセル・カルチャー」と言えるほどのものでもないとは思うけど、「若手の哲学研究者や学生、当事者の方々への不安」に配慮するという理由で「論争的な問題」を扱っている学者個人に対する批判的なメッセージを紹介する(本人の言い分や反論の紹介はナシ)、というのは(このブログや昨年の記事でわたしが論じたような類の)アカデミアの理念や意義とは反しているようには思える。

 

 

 

*1:

www.project-syndicate.org

*2:

journalofcontroversialideas.org

*3:ここで頭をよぎるのは「そういうお前もよくポレミックな議論を行なっているじゃないか」ということである。わたしとしてはあまりポレミックにはならないように努めているつもりではあるが、よく脱線したり調子にのったりしてポレミックになるタイミングがあるような自覚もないではない。

*4:

davitrice.hatenadiary.jp

www.loft-prj.co.jp

*5:

www.afpbb.com

*6:

philcul.net

「思いやり」があれば正しいってもんか?(読書メモ:『ケアの倫理と共感』)

 

 

 この本は邦訳の発売直後、2021年の年末に当時もらった図書カードで購入済だったのだが積んでいたところ、先日の日本哲学会のワークショップに向けて、『もうひとつの声で』に続いて読んだ、という次第である。……ちなみに原著は10年ほど前、大学院生時代に指導教授と一緒にゼミで読んでいる。しかし例によって内容はさっぱり覚えていなかった。また、この本の内容はなかなか難しく、ゼミで読んだときにはわたしだけでなく指導教授もピンときていないというか微妙な反応をしていた記憶がある。

 

 ケアの倫理ついて書かれた本といっても必ずしもいわゆる「規範倫理学」とか「倫理学理論」とかについて書かれているとは限らず、代表的なところでは『もうひとつの声で』はインタビューに基づく心理学の本であり、規範に関してはかなり曖昧なことしか書かれていなかった。

 また、ネル・ノディングズの主張は規範倫理学理論として扱われることもあるが、なにしろ思い切りがいいというか過激なところも多いのでフェミニストやケアの倫理に共感的な人からも「ノディングズはちょっと…」という扱いをされることがあるようだ。  

 わたしのイメージでは「倫理学理論としてのケア倫理」を提唱している人の代表はヴァージニア・ヘルドであるが*1、彼女の本は日本ではまだ翻訳されていない。エヴァ・フェダー キテイやジョアン・トロントなどの政治哲学系の人の本は翻訳されてきたが、自他共に認める「倫理学理論としてのケア倫理」として書かれた本が邦訳されるのはこれが初めてではないか……それが男性の書いた本だというのは、ケア倫理が成立した経緯を考えるとちょっとどうかと思うところもあるけれど。

 

 著者のマイケル・スロートは From Morality to Virtue という本も書いている「徳倫理学」系の人であり、そのなかでもアリストテレス的なロゴスやエウダイニモニアを重視するタイプの徳倫理学(新アリストテレス主義)ではなく、デビッド・ヒュームとかアダム・スミスとかの系譜に連なる「感情主義的徳倫理学」を唱えてきた人である(訳者解説を参照)。

 なお、ケアの倫理学者としても有名な女性哲学者であるアネット・ベイアーはヒューム研究者でもあったりするので*2英語圏の伝統の道徳感情論とか道徳心理学とかをケアの倫理に結び付けること自体はスロートに特有の発想というわけでもないようだ。

 

 そして、現代の徳倫理学がやたらと難解になっているというご多分に漏れず、スロートの議論もかなり難しい。

「訳者解説」ではスロートの主張がなんとかまとめられているので、引用。

 

……スロートの感情主義的徳倫理学においては、「気遣い」「配慮」「思いやり」といった個別の他者への温かい心情に根ざす関心ーーすなわちケアーーが中心的な徳とされる。また反対に、他者への冷淡な無関心、心ない対応、悪意に満ちた態度などが悪徳を構成することになる。そして細かい特徴づけを抜きにして言えば、こういった相手への温かい心情に根ざす関心に動機づけられて行為しているとき、その行為は正しいとされる。

このようなスロートの感情主義的徳倫理学を、新アリストテレス主義的徳倫理学と比較した場合、以下の二点が両者の違いとして重要である(ただし両者の優劣に関しては棚上げにしたい)。第一に、新アリストテレス主義と異なり、感情主義は、具体的な他者に対して、いっそう直接的な関心を向けており、人間固有の開花繁栄という形での人間的完成を中心に据えるわけではない。第二に、新アリストテレス主義においては、賢慮といった思考ないし実践理性に関わる徳が中心的であるのに対して、感情主義においては、思いやり(ケア)といった心情に関わる徳が中心的である。

 

(p.236)

 

 また、スロート自身もこう述べている。

 

「ケアの倫理によれば、行為の正・不正は、その行為において示されているものが、思いやりのある態度/動機か、それとも思いやりのない態度/動機かによって判断される。」

 

(p.33)

 

 さて、上記の記述だけでも、わたしはスロートの議論をかなり警戒してしまう。

 思いやりのある人は思いやりのない人よりかは良い人であったり善人であったりするだろうから、だれかの人格を評価するときには思いやりの有無を見ることは大切であるだろう。また、自分が良い人生を過ごそうとしたり善い生き方をしたいと思ったりしたときにも、たぶん思いやりがあったほうがいいだろう。

 つまり、価値や善(Good)について考えるときには、思いやり=ケアは、他の徳……勇気とか知恵とか……に並んで大切だと思う。なので、価値や善に関する理論としての徳倫理学、あるいは人間評価であったり人生哲学に関する議論としての「徳」論であれば、わたしはもっともらしさを感じるしそういう議論が必要だと思うし、「ケア」論だって人間評価や人生哲学の一部として必要であると思う(ケアという徳が他の徳を凌駕したり、ケアには他の徳よりも一際重視されるべきだったりするほどの大切さがあるかどうかはわからん)。

 しかし、徳論にせよケア論にせよ、それを行為等の正(Right)に関する議論に結び付けようとすることには賛同できない。

 ……また、なぜ多くの哲学者がそういう議論をしたがるかということも理解できない。単純に考えて、誰かが思いやりがあるけれど不正な行為をしてしまうこともあれば、誰かの行為には思いやりがあまりなかったけれど正しかったということはいくらでも起こり得そうなものだ。

 

「思いやり」のあるなしや共感の有無に基づいて行為の正/不正を論じることの誤りが端的に示されているのは、「妊娠後期の胎児よりも胎芽・初期の胎児を中絶するほうが、道徳的には適切である、もしくはましである」「初期の胎児や胎芽の中絶よりも妊娠後期の胎児の中絶は、より道徳的に悪く、受け入れがたい」(p.29)という主張をケアの倫理に基づいて支持・正当化しようとする箇所だ。

 

第一に、胎児をフィルム・写真・超音波診断機器・テレビカメラなどで視覚的また聴覚的に捉えられるようにしても…(中略)…こうした胎児への関わりは、私たちが新生児に対してもつような関わりと比べると、それほど直接的ではない。新生児はそこに、まさに私たちの目の前に存在している。そして、私たちはその子を抱くことができ、直に見て接することができる。…(中略)…赤ちゃんの泣き声は、共感的反応を呼び起こすのに寄与しており、胎児または胎芽が私たちに働きかける際は、それに匹敵するような効果的な手段は存在しない。

この事例においても同様に、ケアの倫理の観点からすれば、「新生児殺害が、胎芽や胎児の中絶に比べて、健全な人間の共感がもつ方向性や傾向性にいっそう強く反する」という事実は、新生児殺しがいっそう不正で道徳的に許容しがたい行為であることを示唆するものとして理解できる。

 

(p.29 - 30)

 

 一般的に、胎児の殺害と新生児の殺害は同様に悪いと論じる主張では、胎児と新生児はだいたい同じような感覚能力や認知能力を持っているから、殺される側にとって与えられる危害とか奪われる権利とかがだいたい同じになるので同じように悪い、と論じられる(だから「胎児を殺すべきではない(中絶は悪い)」とされることもあれば「胎児を殺すのが許されるのだから新生児を殺すことも許される」とされることもあるが)。

 それに比べると、思いやりや共感を重視するはずのケアの倫理は、相手が目の前にいるかどうかとか相手に共感が抱けるかどうかなど、行為者の側の観点からしか話をしていないようだ。

 そして、中絶や殺害という問題においては、殺される側が被る危害というポイントは、殺す側が相手に対して共感を抱けるかどうかというポイントよりもずっと重要であると思う。わたしだけでなくかなり多くの人がそう判断すると思うし、泣けなかったり成人の目の前に存在できなかったりするという理由で殺される羽目になる胎児はとくにわたしに同意してくれるだろう。

 本書では動物の問題はスルーすることが明示されているが、実際のところ、スロートの主張を動物の問題に当てはめれば「飼い猫やアザラシの赤ん坊を殺すことはかわいそうだし嫌悪感を抱くからダメだけどネズミやウツボを殺すことには嫌悪感を抱かないから殺してもいい」といった、ノディングズによる(評判の悪い)主張と同様のものになりそうだ*3

 もちろん、「猫やアザラシを殺すことにもウツボやゴキブリを殺すことにも全く同様の感情を抱くし、ゴキブリが殺されるのを見るのと同じように猫が殺されるのを見てもわたしの感情はほとんど乱れない」と言い張る人がいたら、わたしはその人のことを(まずは「しょうもねえ逆張り野郎だな」と判断してバカにして相手にしないだろうけれど、そうじゃなくて本気でそう主張していると知った場合には)人として大切なものが欠けていたりどこかおかしいと判断するだろうし、友達になったり関わりあったりしたくもないのでその人のことを避けるとも思う(しょうもねえ逆張り野郎のことも避けるけど)。……だから、人格とか人物を判断するうえでは、ある人がまともに/適切に思いやりや共感を抱ける人であるかどうかということは重要だ。わからないのは、何故それを行為の評価とか正/不正の判断に持ち込もうとするかである。

 冒頭でも触れたように、ケアの倫理は必ずしも規範倫理学理論として提唱されるとは限らない。ギリガンも含めて、多くの論者は「従来の倫理学や正義論では理性や自律などばっかりが重視されるけれど、感情や依存関係などを重視する考え方があってもいいんじゃないか」「従来の倫理学や正義論では掬えないところを扱う考え方も必要なんじゃないか」といった、従来の理論に取って代わる理論を提示するというよりも従来の理論に対する批判的な視点を提供したり従来の理論を補完することを目指すような主張に留まっている。

 それらに比べると、スロートの議論は、他の規範倫理学理論に取って代わることを目指すものであるようだ。だから、「正/不正の判断もケア倫理でまかなえますよ」と主張するしかないのだろう。義務論や功利主義など他の倫理学理論では可能である正/不正の判断がケア倫理ではできないとなると、規範理論としては不十分であり他の理論の代替にはならないことになってしまうからだ。

 

 しかし、スロートの試みはやっぱり無理筋であるように思える。

 単純に言って、代表的な規範倫理学理論……義務論、功利主義、徳倫理……はそれぞれカントとかベンサムとかアリストテレスに遡るわけであり、歴史の試練に耐えられている。それに比べると、ケア倫理は1980年代に降って沸いたものだ(前述したようにヒュームやスミスに紐付けることもできるかもしれないが、彼らも「ケアや思いやりが一番大事だ」という素朴な主張をしていたわけではないだろう)。

 規範倫理学理論には人々に行う行為や判断、あるいは制度や政策などの正しさを測るという重大な役目が託されていることをふまえると、よほど精緻で優れた議論を提供してもらわない限り、これまでに重荷を担ってきた理論から俄かに登場した理論に乗り替えることには慎重になるべきだ。

 

 本書の第5章では倫理学理論だけでなく政治哲学理論としての自由主義リベラリズム)もケアの倫理と対比させられているが、そこでも同様の問題は起こっているように思っている。

 たとえばヘイトスピーチ規制の問題については、自由主義者ヘイトスピーチの被害を受ける人に対する共感から自分を切り離して判断しようとするが、ケアの倫理であればヘイトスピーチの被害を受ける人の感情に寄り添った判断ができる、といった議論がされている。

 スロートも「ケアの倫理に基づけばヘイトスピーチは必ず規制すべきだということになる」とまで主張しているわけではなく、ヘイトスピーチを規制することで正当な言論まで規制されてしまうという「滑りやすい坂道」の問題を考慮しなければならないとかどこに境界線を引くかというのはケア倫理学者の間でも違っているしその相違について議論することもできるとか論じているのだが……共感や思いやりがあればいいとか言っている割にはずいぶんと頭を使っているというか理性的な議論をしているような気がするけれど、それは置いておいて……言うまでもなく、ヘイトスピーチ規制というトピックには「被害を受ける人の感情」という問題のほかにもかなり重大な問題がかかっている。

 たとえば、ある社会で表現の自由が制限されてしまうと、いまその社会に住んでいる人やその社会に今後生まれる人からは、なんらかの価値が奪われるかもしれない。自由や自律が損なわれるだけでなく、その社会で生産される知識や行われる議論の質が担保されなくなるかもしれないし、自由な表現や議論ができないことで公共心のようなものも損なわれることになるかもしれない。

 しかし、これらの価値が奪われることについて多くの人は苦痛を感じないかもしれないし、価値が奪われていること自体について気付かないかもしれない(表現の自由が規制された時に子どもであったりその後に生まれてきた人にとってはとくにそうだ)。このことは表現の自由に限らず自由全般に当てはまるだろうし、たとえば緩やかな全体主義国家に住んでいる人たちは自分たちに自由がないことに苦痛を感じないだろう。

 共感すべき苦痛や感情が存在しないのだから、スロート流のケア倫理に基づけば、表現の自由が規制されることや緩やかな全体主義国家の存在は問題視するにも至らないはずだ。……しかし、もちろん、わたしたちはそれらを問題に思うし、共感だけでは対処できないこれらの問題を扱うために自由主義をはじめとする諸々の理論が発達してきたのである。

 すると、ケア倫理は歴史を逆行させる考え方であるように思える。

 

 本書では「道徳教育・道徳的発達に関する体系的な説明や、道徳的な性向がどのように教示され、獲得されるのかに関する体系的な説明」(p.6 - 7)として、『共感と道徳性の発達心理学―思いやりと正義とのかかわりで』などの著作がある心理学者マーティン・ホフマンの理論がたびたび参照される。

 ただ単に哲学や倫理学を述べているだけでもなく、専門的な心理学に裏付けさせようとしている点も、本書の特徴だ。

 ……とはいえ、本書で参照される(ほとんどがホフマンの研究に基づく)心理学的知見はスロートの議論にとって都合良くチェリーピッキングされているように思える(ただまあ、わたしが書いた『21世紀の道徳』に対しても同様の批判はあったし、科学的知見のチェリーピッキングというのはガチの科学哲学や心の哲学以外の哲学の議論ではありがちな問題ではあるのだろう)。

 具体的には、原著の9年後に出版された心理学者ポール・ブルームの『反共感論』は、本書の議論にとって致命的なポイントを指摘しているように思える(たとえば、遠く離れた人々の具体的なニーズに応答する「人道主義的なケア」(p.237)が共感に基づいて成立する訳がない、それを成立させるのは理性である、とブルームなら論じるだろう)。2007年の時点でも共感の限界や道徳感情の問題点を指摘する心理学の文献は多々存在していたはずであるし、全体としてスロートの議論は「進化論的暴露論証」に対してかなり脆弱であるようにも思える。……まあこの辺りは『21世紀の道徳』の第8章で他のケア倫理に対する批判としても行った議論なので割愛。

 

 思いやりや共感を伴わない行為が正しくないのであれば、共感能力に欠けている(とされている)自閉症アスペルガー症候群の人には正しい行為をすることができない、ということになりかねない点にも注意が必要だ。

 スロートは、「自閉症の人々は他者に共感することができないにも関わらず道徳的な判断や行為ができている」という議論に対して「実際には自閉症の人々も共感をすることができる(だから道徳的な判断や行為もできているのだ)」という反論を試みているようだ(p. 181 - 182)。しかし、ここの議論は「共感」にこだわるスロートが強弁しているように見えて苦しい。

 また、スロートは「男性はテストテロン値が高いために女性に比べて共感能力に欠けており、道徳的に劣っているかもしれない」という議論も行っている。

 

仮に男性が、女性よりも共感の面では劣っているとしても、今日の男性はかなり共感的でありうるし、また、教育や子育てに関する実践が改善されることで、男性が全体として現在よりもはるかに共感的になる可能性を否定する論者はいない。(また今後、女性が全体として、現在の女性よりもいっそう共感的になりうることを否定する論者もいない。)そこで、極めて共感的になれる能力をもつ男性がいると仮定して、その後に、テストテロンが男性の共感を軽減させ、性別/ジェンダーとしての女性がそうなる以上に、他者に対して常に攻撃的になる状況について、どう考えるのかを尋ねる場合を想像してみよう。彼は、テストテロンの影響による攻撃性によって危害・苦痛を被った人たちに対して共感を覚え、共感に基づいて気遣うからこそ、率直に、こうしたテストテロンの影響を嘆き、また遺憾に思うのではないだろうか。仮に十分に共感的な男性/男であるなら、誰もが、この男性に見られるテストテロンの影響を遺憾に思い、場合によっては罪の意識さえ感じるのではないかと思う。そして、もしそうだとすれば、彼は、「男性が女性よりも道徳的に劣っている」という考えに、抵抗感や憤りを覚えたりすべき根拠は全くないだろうし、そういった気持ちにも全くないだろう。この結論によって、彼の自我は傷つき、大きな衝撃を受けるかもしれない。しかし彼は、男性のテストテロンが過剰であることでもたらされる害悪を認識し、それを遺憾に思っているので、その衝撃を受け入れるべきなのかもしれない。

 

(p. 110 - 111)

 

 上記の議論には、半分くらいは賛成だ。

 わたしも、テストテロンの影響などによって男性が道徳的な行為や判断に失敗したり非道徳的な行為をしたりしてしまうことはあると思うし、少なくとも一部の領域においては「(平均的な)男性は(平均的な)女性よりも道徳的に劣っている」という考えを受け入れている。そして、この考えに対してつべこべ文句を言ったり男性差別だと騒いだりする男性が多々いることも知っているが、スロートと同じく、わたしは男性たちはこの考えに対して抵抗感や憤りを抱くべきではないと思う。

 ただし、わたしが上記のような考えを持つに至ったのは「共感」や「思いやり」のおかげではなく、知識を参照したり自分の感情を批判的に吟味したり他人のことにも配慮したりしながら不愉快な事実でも受け入れるという「理性」のおかげだ。

「テストテロンの影響を遺憾に思い、場合によっては罪の意識さえ感じる」男性というのは、十分に共感的な存在ではなく十分に理性的な存在なのではないか?……というか、ここでスロートが示そうとしている、メタ的な認知や判断を伴っているような「共感」って、ふつうの人なら「理性」と見なすものだろう*4

 

 また別のところでは、「自分が家族に対して抱いている愛情にさえ批判的な検討が必要だ」というマーサ・ヌスバウムの議論に対してもスロートは反論を行なっている。

 これはバーナード・ウィリアムズが「思案過多」として提起した問題でもあるが、わたしとしては(自由主義者であるだけでなくストア主義者でもある)ヌスバウムの議論のほうに賛同したい。……とはいえ、「批判的に警戒する必要がない状況でそのように警戒する場合は、実質的には、最も充実した理想的な愛情を妨げることになる」(p.121)というスロートの主張も、たしかに一理ある。ここは宿題としたい。

 

*1:

 

 

*2:

 

 

*3:

yonosuke.net

*4:要するに、議論の都合に合わせて「共感」を拡大解釈して、共感に「理性」的な要素も取り入れさせてしまっているということだ。これもケア倫理ではありがちな問題である。

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「片目の男」(読書メモ:『ノージック 所有・正義・最小国家』)

 

 

 政治哲学者ロバート・ノージックの思想について、『アナーキー・国家・ユートピア』を中心に解説する本。

 ノージックといえばリバタリアニズム(自由尊重主義)を正当化する思想を提唱した人というイメージだが、この本の著者のジョナサン・ウルフは、ノージックの提唱するリバタリアニズム自体にもノージックの議論の方法にも、最終的には賛同しないというか否定的な評価を下しているような。その一方で、権利(自己所有権)に基づくリバタリアニズムの主張は一定の説得力や直感的な正しさが存在していて多くの人が魅惑されること、また権利という単一の価値に基づいて政治哲学の理論を打ち立てるという離れ業を成し遂げたノージックの功績については好意的な評価がなされている。最終ページでジョン・スチュアート・ミルによる「片目の男」という比喩を引用しているところ……一つの価値だけを重視する視野狭窄な議論をしているからこそ、鋭くて突き詰めた議論ができるということ……が、著者によるノージックの評価として印象的かつわかりやすい*1

 また、ノージックの議論の問題についても、最終ページ近くで(ジョン・ロールズの『正義論』と対比させながら)わかりやすくまとめられている。

 

ロールズ主義的な観点からすると、自由尊重主義の失敗は、構造の内部から正当な期待の原理を取り出して、これらの原理に従って構造の方が形作られるべきだと主張した点にある。すなわち、ロールズにとって権原の主張は全て、先行する正義の構造との関係で相対的なものなのである。何物も「絶対的に私のもの」ではなく、ただ「そのルールによって私のもの」であるにすぎない。自由尊重主義は権原の主張のこうした本質的な相対性を見落としている。こうして我々は、権原原理の大きな魅力を認めることはできるが、それが正義に関する真理の深底を極めてはいないと主張するのである。

(p.234)

 

 この本の構成としては、第1章から第4章までは徹底して『アナーキー・国家・ユートピア』の内容の解説とノージックが行なっている議論や主張の吟味と批判、また関連する思想家やノージック批判者たちの議論や主張とそれに対する吟味と批判が行われる。ここで行われている議論はなかなか細かく専門的であり、ノージックの議論に感銘や衝撃を受けた人か専門的な哲学者にとっては興味深かったりタメになったりするだろうが……わたしはそうじゃないのであまりノレなかった。『アナーキー・国家・ユートピア』そのものはほとんど読んでいないのでアレなんだけれど*2、権利や権原という概念がピンとこないのとリバタリアニズム自体を元から穿った目で見ているのとが合わさって、なんか興味のないフィクションの話や神学論争を延々とされている感を抱いてしまった。

 ちなみに、これはごく基本的なことだが、ノージックの議論の特徴は、ミルトン・フリードマンフリードリヒ・ハイエクなどによる、効率性を強調した「経済学的」なリバタリアニズム擁護ではなく、あくまで権利一点張りでリバタリアニズムを主張したところにある。……つまり、効率が悪かったり人々の福祉・効用に反したりするとしても、それでも最小国家以上の国家は権利侵害であるので認められないということだ(逆に最小国家は必要だと言って純粋な無政府主義者に対する反論が行われているところもノージックの特徴)。効率や福祉・効用を大事にしたいと思っているわたしとしてはむしろ「経済学系」のほうのリバタリアニズムにまだしも説得力を感じるんだけれど、まあ大半の人は権利を大事に思っているからノージックのほうに説得力を感じるべきだろう(「自己所有権」という考え方自体の直感的な正しさや否定しきれなさはわたしも認めるところだ)。

 なお、第5章の「ノージックと政治哲学」ではノージックによる他の思想家の議論に対する批判が紹介されているのだけれど、こちらは鋭いうえにテンポ良くてサクサクと読めるのでおもしろい。とくに「リバタリアニズムは価値多元主義を保証するし、ロールズ主義者や共産主義者が自分たちで寄り集まって自分たちのコミュニティや国家を築くことも否定しないよ(それに対してロールズ主義や共産主義リバタリアンが自分たちの自分たちのコミュニティや国家を築くことを許さないよね)」という「ユートピアの枠」論は盲点を突かれた感じで印象的だった。

 

事実、対抗する政治哲学がみな重大な批判を避けられないことを、ノージック以上に示した者はほぼ皆無である。また、ノージックの重要性の大部分は、教条的なまどろみから人々の目を覚ませた点にある。

(p.195 - 196)

 

 上記の賛辞は、『アゲインスト・デモクラシー』を執筆したリバタリアンであるジェイソン・ブレナンなんかにも当てはまるだろう。……ブレナンの民主主義批判は鋭くかつ強烈だが、ブレナンの提案するエピストクラシー(選良政治)は微妙っぽいし賛同できない。そもそもどんな哲学者にとっても自分の主張を提示するよりも他人の主張を批判することのほうが簡単だし上手くできるということは本書のなかでも釘が刺されているのだが、それにしてもリバタリアニズムは規範理論としてではなく批判理論(誤用)として用いたときに鋭く鮮やかになるような気がする。

 

 また、森村進による「訳者解説」は50ページ近くとかなりの分量がある。リベラリストマルキスト寄り?なウルフと異なり森村はリバタリアンだということもあって、ノージックにも好意的だ。本書では基本的にノージックに対する肯定よりも否定が多くなるので、本文を読み終わった後に訳者解説で改めてノージックが擁護されることで、総合的にはバランスのいい視点が得られることになる(ただし、晩年のノージック共同体主義に寄ったことなどについては本文以上に手厳しい批判がされているけど)。

*1:「片目の男」の比喩はミルの『ベンサム』から引用されている。

*2:たしか院生時代に図書館で借りたはずなんだけれど内容はまったく覚えていない

トークイベント「左からのキャンセル・カルチャー論」をやります(6月13日(火):阿佐ヶ谷ロフトA)

 

 6月13日(火)の19:30から、東京の阿佐ヶ谷ロフトAにて、「左からのキャンセル・カルチャー論」と題したトークイベントをやります。

 トークの相手は文芸批評家在野研究者の荒木優太さん、『情況』編集長で2022年のキャンセル・カルチャー特集号も担当された塩野谷恭輔さんです。

 

 以下、荒木さんからのメッセージです。

 

どうも、荒木優太です。「キャンセル・カルチャー」という言葉が日本に定着してからそれなりの月日が経ったように思います。改めて注釈しておけば、キャンセル・カルチャーとは差別やハラスメントに抵触する危険のある人物・言動・作品に対して集団で圧力をかけることで、公的な領域から締め出そうとする社会運動のことをいいます。本場アメリカでは、コールアウト文化とも呼ばれているようです。

たとえば、2020年のアメリカでは、有名な心理学者のスティーブン・ピンカーを学会の要職から除名せよと迫るオープンレターが発表されました。また日本の「女性差別的な文化を脱するために」オープンレターについては、「これはキャンセル・カルチャーである」「いやキャンセル・カルチャーではない」という議論が現在にいたるまで続いています。記憶に新しいところでは、東京オリンピック開催における小山田圭吾小林賢太郎の辞任騒動にも同種の懸念がかけられました。

初めから正しいことが分かっていれば、なるほど、キャンセル・カルチャーもそれほど悪いもんじゃないかもしれません。差別を根絶したいという願い自体は多くの人々が同意できるわけですから。

ただ、正しくないとされていたのに本当は正しいかもしれないこと・正しいか正しくないか議論してみなければ分からないこと・正しくないかもしれないけどその間違い方に大きなヒントが宿っているもの……といった正しさの縁にあるものを、リスクがあるという一点で共有しない/できない社会というのもまた、なんだか薄気味悪く感じます。

『21世紀の道徳』(晶文社)で注目を集めた気鋭の批評家であるベンジャミン・クリッツァー、さらに、キャンセル・カルチャー特集を企画し『情況』の編集長に就いたばかりの塩野谷恭輔をゲストに呼んで、キャンセル・カルチャーの問題点、そもそもそんなものが実在するのかも含めて、マジの議論をしていきます。

異論反論、歓迎。キャンセルをキャンセルするぞ。ぜひご参加ください!

 

www.loft-prj.co.jp

 

 

 

 

 わたしが書いた記事のなかでイベントの内容とも関わるものとしては、下記のものがあります。

 

s-scrap.com

 

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gendai.media

 

gendai.media

 

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 よろしくお願いします。

日本哲学会ワークショップ「動物倫理とフェミニズム・ジェンダー」で発表してきました

 

 時間なくて原稿の60%くらい読み上げられなくて超飛ばし飛ばしになったり、プリント代をケチって5部しかレジュメ用意しなかったら全く足りなかったりと、わたしの発表はちょっと(かなり)グダグダになってしまいましたが(質疑応答は充実していたと思います)、せっかくレジュメ作ったことなのでTwitDocにアップロードしました。

 興味ある人は下記からダウンロードして読んでください。

 

twitdoc.com

読書メモ:『もうひとつの声で 心理学の理論とケアの倫理』

 

 

 

 言わずとしれた、「ケアの倫理」を最初に提唱した元祖的な本。このブログの以前の記事でねだったら購入してもらえましたので読みました*1。また、この本を読むために、批判対象であるローレンス・コールバーグの本も事前に読んでいた*2。その後に忙しくなって読むのが遅れたのでGWをきっかけに読んだけれど……残念ながら、なかなか苦痛な読書であった。

 

 以前にファビエンヌ・ブルジェールの『ケアの倫理-ネオリベラリズムへの反論』を読んだ際には、哲学や倫理学の本にあるまじき「政治性」について、以下のような文句を書いた。

 

そして、わたしが思うに、これらの本がつまらない最大の理由は、哲学の議論であるくせにアイデンティティ・ポリティクスに主張を引きづられていることだ。何が是とされて、何が否とされるかという前提は、本が書かれる前から運動論的なアジェンダによって定められている。著者たちはそれに配慮して帳尻を合わせられる範囲でしか、議論を展開できない。だから、哲学の本や学問的な本に本来ならあるはずの、議論や思考が自由に展開されることで生じる面白さや豊かさや意外さみたいなものが、まったく期待できないのである。

davitrice.hatenadiary.jp

 

『もうひとつの声で』は大学院生だったときに旧版を読んでいたが詳細まで覚えていたわけではなく、ブルジェールやその他のギリガン以後のフェミニスト倫理学の本に比べるともうすこし脱政治的であるというか、あくまで心理学に基づく調査結果や事実を尊重した議論がなされていたというイメージを勝手に抱いていた。…だが、改めて本書を手に取ってみると…本文の前にある「本書を読んでくる皆さまへ」や「一九九三年、読者への書簡」などにとくに顕著なのだが…本書自体がかなりフェミニズムありきであったことに気付かされる。

 

 本書のなかでギリガンが行なっているのはコールバーグと同じく、子どもや学生(または中絶を経験した女性たちなど)への聴き取り調査に基づきながら、人々の意見や考え方の背景にある「道徳の発達段階」を示し出そうとすることだ。

 ただし、コールバーグが普遍的な発達段階を示そうとしていたのに対して、彼の調査対象は全員男性だったことを指摘したうえで、女性には男性と異なる発達段階があることをギリガンは示そうとした。

 ギリガンがとくに問題視したのは、コールバーグの指標では女性の発達は男性に比べて「下位」の段階に留まると示されるのが多いこと、つまりコールバーグの研究は「女性は男性に比べて劣っている」ということを示唆しかねないものであったことだろう。だからこそ、コールバーグの基準は実は普遍的でも中立でもなく男性にとって一方的に有利なものであることを批判したうえで、コールバーグのそれと並び立つ女性特有の発達段階を示さなければならないとギリガンは考えたのである。

 この時点で、本書の議論には黄信号が点灯している。ギリガンやコールバーグが行った聴き取り調査とは、道徳に関する問題やジレンマなどを問われたときに子どもや青年はどう答えるか、道徳に関する物事について子どもたちはどう考えているか、ということに関する経験的なデータを集めるために行われるものだ。それらのデータから一般的な傾向などを抽出してモデル化したものが「道徳の発達段階」であるが、それも「一般的には青少年は道徳に関する考えをこのように発展させていく」という経験的な事柄を示すためのものである。

 ……つまり、「道徳の発達段階」がどのようなものになるかは聞き取り調査の結果に左右されるはずであり、逆に言えば「道徳の発達段階がこんなものであったらいいなあ」と研究者がどれだけ思っていても、聞き取り調査の結果次第では不本意な「道徳の発達段階」を提示しなければならなくなるはずだ。経験的な事柄に関する研究は、研究者の願望よりも事実を優先して、研究者の抱いている目的よりも調査結果のほうにしたがって粛々と行わなければならない……というのはごく基本的なポイントだろう。

 この点については、コールバーグの研究も「普遍的な道徳の存在を示したい」という目的からスタートしたものであるし、以前の記事でも書いたとおり彼が示そうとした「道徳の発達段階」も西洋哲学に影響され過ぎている感じがあってその普遍性には疑問符が付く。コールバーグの研究も、純粋に客観的であったり中立的であったりするとは言い難いだろう。

 ……しかし、『道徳性の発達と道徳教育』と『もうひとつの声で』を読み比べてみると、自分の目的のために調査結果を恣意的に解釈して都合の良い「道徳の発達段階」を描き出そうとする、という傾向はギリガンのほうがさらに強いように思える。

 

『もうひとつの声で』でもとくに有名なのは、2章において、「ハインツのジレンマ」などに関してジェイク(11歳の男の子)とエイミー(11歳の女の子)の回答の違いを対比させながら、男性的な「正義の倫理」と女性的な「ケアの倫理」との違いを示すくだりであるだろう。

 ここでギリガンが言いたいのは「コールバーグの理論ではエイミーの回答はジェイクの回答より劣ったものとされてしまうが、二人は別の発達段階を辿っているに過ぎない」ということだ。

 ……しかし、実際に読んでみればわかるのだが、ハインツのジレンマにせよその他の質問にせよ、エイミーの回答はまわりくどく「ああとも言えるしこうとも言える」の繰り返しであり、ほとんど要領を得ておらず、質問に対して自分の考えをまともに示すことができていない。それに対して、ジェイクはどんな質問に対しても質問のポイントをすぐに理解したうえでハキハキと自分の考えを明瞭に示している。言っちゃ悪いが、コールバーグに限らず大半の人が、ジェイクとエイミーなら前者のほうが優れていて後者のほうが劣っていると判断するだろう*3

 ギリガンは「エイミーの判断には、ケアの倫理(ethic of care)の中核をなす視点がいくつも含まれている」と述べる(p.109)。また、ジェイクが「論争の解決に関しては法に注目」したり「衝突を個人的事情から切り離された権利主張の衝突であると捉え」たりすることについては「勝ち負けの発想が反映されており、勝ち負けには自ずと暴力が生じる可能性が内包される」(p.113)と批判する。しかし、ギリガンはエイミーの回答を好意的に解釈し過ぎであるというか、自分が主張したい「ケアの倫理の中核」とやらを一方的にエイミーの回答に仮託しているようにしか思えない。そして、ジェイクに対する批判も難癖に等しいものだ。……本書のその後の箇所でも、聞き取り調査の内容に関するギリガンの解釈や説明には疑問符が付くところが多い。女子の回答に対する好意的な解釈にせよ、男性の回答に対する否定的な解釈にせよ、「この回答からなんでそんな解釈が生み出せるの?」と思わされてしまうのだ。

 また、ギリガンは自分の解釈を論理や理論によって補強したり解説したりすることをほとんどしてくれないうえに、たまに持ち出される根拠(?)はフロイトをはじめとする精神分析であったりヴァージニア・ウルフなどの女性作者による文学であったりするから、とくに(精神分析や文学がなにかの主張を補強する根拠になるとは見なさない)わたしのような人間にとっては、ギリガンの解釈を支持したり真に受けたりする理由が本書のなかではほとんど与えられないままなのだ。

 精神分析や文学を持ち出してくることを差し引いても、ギリガンの文章自体が悪文であり、論理的ではない。コールバーグが「道徳の発達段階」を六段階に分けて具体的に表現したのに対して、ギリガンの言うところのケア的な道徳がどのような段階で発達していくかは曖昧にしか示されない(いちおう「自己中心的な考え」→「他人に対する自己犠牲的なケアを行う」→「他人をケアする自分のこともケアするようになる」…といった道筋はなんとなく示されているのだが、それを要約してくれることはない)。

 さらに、ギリガンの考える「ケアの倫理」が具体的にどのようなものであるかも曖昧である。「相互依存」とか「つながり」とか、「責任」とか「応答」とか、「傷つきやすさと」か「脆弱性」とか、この分野でおなじみになったキーワードはあちこちに出てくるのだが、それらのキーワードはそれぞれにどのような意味付けや重要性があったりキーワード間にはどのような関係性があったりするのかということが全然わからない。ギリガンが「ケアの倫理」の概要をいつまで経っても示してくれないからだ。……伝統的な哲学を参照しながら自分の考える道徳の理想をはっきりと示していたコールバーグとは、この点でも対照的である。

 

 というわけで、わたしには『もうひとつの声で』が名著とされていたり重要な本だとされていたりする理由がさっぱりわからなくなった。

(1)ギリガンの考える「道徳の発達段階」が具体的にどのようなものであるかよくわからない。

(2)聞き取り調査の内容についてギリガンのように解釈しなければいけない理由が見出せないので、ギリガンの考えるような「道徳の発達段階」の存在を認めなければいけない理由も見出せない。

(3)ギリガンの考える「ケアの倫理」がどのようなものであるかもよくわからない。

 

さらに;

 

(4)ギリガンの考えるような「道徳の発達段階」の存在自体を認めて、その「道徳の発達段階」から「ケアの倫理」と名付けられるなんらかの思想が抽出できることを認めたとしても、それだけでは「ケアの倫理」が重要であることを認める理由にはならないし、わたしたちが「ケアの倫理」を尊重したり「ケアの倫理」に基づいて道徳的な判断を行わなければならなかったりする理由にもならない。

「一般的な人々(または特定の性別の人々)は道徳についてこういった考えを発達させていく」ということが正しいとしても、「〜である」から「〜べき」を導き出す、[いわゆる]自然主義的誤謬を犯さない限り、その考えが正しいとは限らないからだ。コールバーグは倫理学や正義論を参照することで彼の考える道徳の第五段階や第六段階の発想が哲学・倫理学的にも「正しい」ものであることを論じられているが、ギリガンの議論にはそういった正当化も含められていないのである。

 

 単純に言って『もうひとつの声で』でギリガンが行なっている議論は杜撰なものであると思うし、「女性の道徳の発達段階は男性に劣っていないことを示したい」とか「男性的な正義や権利の論理とは異なる女性的な道徳の存在を示したい」という規範的な目的ありきで聞き取り調査の結果という経験的なデータを恣意的に解釈したものであるように思われる。

 本書を読んで同意できたり共感できたりするのも、本書を読む前からギリガンと目的とか問題意識とかを共有できている人だけだろう。……それか、女性のようなマイノリティからの主流派に対する異議申し立てには(その議論の質やレベルに関わらず)耳を傾けなければならないと考える、マジメな人々か*4

 

 とはいえ、否定してばっかりだと本書を読むのにかけた時間がもったいないので(ほしいものリストで買ってくれた人にも申し訳ないし)、あえて本書のなかから良かったところを探したりなんか積極的なことも書いてみるとすると…エイミーやその他の女子・女性について「自信のなさ」や「成功への恐怖」といった特徴が何度か指摘されているところ、また冒頭で「男子たちはゲームの最中に口論がはじまったら口論を最後まで通したうえでゲームを再開するが、女子たちはゲームの最中に口論がはじまったらゲームそのものをおしまいにする」という違いが表現されていることが示唆的だった。

 本書に収められているエイミーやその他の女子・女性たちの回答は、たしかに、ステレオタイプ的な「女性」のそれである。その特徴を素直に描写するなら、ケアがどうこうというよりも、「カドが立つのを避ける」とか「なあなあに済ませる」、「自分の意見を明言するのを避ける」といったところだ。そして、ジェイクがハキハキ・ズケズケとものを言ったり「これが規則なんだからこうするしかない」と断定したりしてしまうところも、ステレオタイプ的な「男性」のそれであるだろう。

 とくに日本の女子や女性は、現代でもエイミー的な回答をする人は多いだろう……日本の場合は男子でもそういう人が多いだろうけど(わたしにもエイミー的なところはある)。他方で、たとえばアメリカの諸々の映画に出てくるヒロインたちは自分に自信を持っていてジェイクのようにはっきりと物事についての意見を言う人が多いだろうし、現実のアメリカの女性たちにもそういう人は増えていると思う。ここにおける女性と男性の違い、または日本とアメリカの違いは、なによりも「自信」や「自己肯定感」の有無であるだろうし、「目立つこと」や「他人と敵対すること」を恐れるか恐れないか、あるいは「リーダーになること」や「リスクをとること」を恐れるか恐れないかの違いでもあるだろう。

 本書の前半では、ジャネット・リーヴァーという社会学者による、「現代の実業的成功の要求に適しているがゆえに、男性モデルのほうがよい」「おとなの生活の現実をかんがみると、もし女子が男性に依存するままに置かれたくなければ、男子のように遊ぶことを学習しなければならないであろう」といった主張が紹介されている(p.70)。ギリガンはリーヴァーの意見を「歪んだ」ものと見なしているようだが、実際のところ、女性が「自立」したり「活躍」したりするためには、自分の意見をはっきり言うとかカドが立つのをおそれないとかリスクをとるとかリーダシップを発揮するとかいった「男性的」なことをできるようにもならなければいけないというのは、80年代当時でも2023年の現代でも歴然としている。

 ……そして、『もうひとつの声で』のなかでは、女性は[当時における]社会状況や社会的な規範、家族や親密にしていた個々の男性が原因で自分に自信や自己肯定感が持てなくなっている、ということがたびたび示されている。すると、ここで必要なのは、女性から自信や自己肯定感を奪わせて受け身で臆病な「女性的」な態度を取ることしかできなくさせている諸々の障壁を取り除いて、女性も男性と同じように市場での競争に参加したり集団内でリーダシップを取れるようにしたり公的な場での活躍を目指したりできるようにすることであるはずだ。このような考え方には「ネオリベフェミニズム」とか「メリトクラシー的発想」とかいった批判が投げかけられることもあるが、実際にはオーソドックスなリベラル・フェミニズムの発想であり、これまでに社会に反映されて続けて現在にも多くの女性が歓迎している考え方である。

 他方で、本書ではジョージア・サッセンという人による「競争を通して獲得した成功のために支払う大きな感情的代償」(p.80)に関する記述も参照されている。この文章を読んで思い出したのが、わたしがよく参照するトマス・ジョイナーの著書『Lonely at the Top: The High Cost of Men's Success(てっぺんで一人ぼっち:男性の成功の高い代償)』だ*5。たしかに、「男性的」な特徴は市場での競争に勝ったり公的な場で成功したりするうえではプラスになるが、それが本人を幸福にするとは限らない……ジョイナーが指摘するのは男性のセルフケア不足や同性間でのケア不足であるが、ほかにも、たとえば「カドが立つことをおそれない」とか「目立ちたがる」「リーダーシップを取りたがる」といった特徴は、本人に対して不利益をもたらす可能性も高いだろう(友達を無くしたり家族から嫌われたりコミュニティ内での居心地が悪くなったりするなど)。『もうひとつの声で』のなかでは男性の「暴力性」や「敵対的発想」がやたらと強調されており、偏向がかかっていると思うのだが、「男性的な特徴には問題も含まれてる」という程度の意見にはわたしだって同意する。

 ……要するに、なんだってそうであるように、すべてはバランスだ。女性が「女性的」であることを強いられているために自立や成功に向かうモチベーションが奪われているとすれば、それは本人にとって不利益であるし、男性が「男性的」であることを強いられているために他人と一緒に穏やかに過ごせなくなったりコミュニケーションを疎かにしてしまったりするとすれば、それも本人にとって不利益である。女性であろうが男性であろうが、「男性的」な特徴と「女性的」な特徴のどちらも適度に備えられるようになったほうが本人が幸せになる。だから、可能であるなら、現在の社会とかの問題を改善していき、そういった状況を実現すべきだ。……これはごくオーソドックスなジェンダー論の意見であるが、正論であることには違いない。

 さらに、個人レベルではなく集団レベルや社会レベルで見ても、ルールや原則に基づいてはっきりと成否をつけるジェイクのような「男性的な道徳」と、カドが立つことを回避して事態をなあなあにして済ませるエイミーのような「女性的な道徳」の両方が適度なバランスで必要になる、ということにも同意する。ハインツのジレンマのような深刻な事態に対処する際や、法律や条例に就業規則や社内規定といった社会・集団を維持するための規則を制定する際には「男性的な道徳」の観点が不可欠であるだろうが、日常で起こる些細なルール違反やちょっとしたトラブルなら「女性的な道徳」のほうがうまく解決できる可能性は高いだろう。……これもまたごく当たり前の発想であるが正論であるはずだ。

 というわけで、「ケアの倫理」云々はいっそ無視して、ジェイクとエイミーの回答が対比されているところや聞き取り調査の内容が記されているところを読みつつ虚心坦懐に思考してみれば、『もうひとつの声で』からも得られるところはあるかもしれない。

*1:

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いまThe Cambridge Companion to Liberalism (Cambridge Companions to Philosophy)がとくにほしいです。

*2:

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*3:とはいえ、11歳のころのわたしが同じ回答を聞かれたらエイミーよりもさらにひどい回答をしていたと思うし、ジェイクの回答は11歳と思えないくらいに大人びていて一般的な男子とは隔たりがあるようにも感じる

*4:訳者あとがきでは「1986年当時、第一版の翻訳を書店で見かけてすぐに購入して、ワクワクしながら読了した」と書かれていて、「この本のどこにワクワクする要素があるんだよ」と思ってしまったが、まあ、まだフェミニズムが新鮮だった時代的な問題とかがあるのかもしれない。

 

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*5:

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