道徳的動物日記

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真・公共的理性とはなんぞや(読書メモ:『政治的リベラリズム』①)

 

 

 

 年明けからは分厚い本を読めるタイミングもしばらくなさそうなので、以前にほしいものリストからいただいた『政治的リベラリズム』を手に取り*1、とりあえず第二部第六章の「公共的理性の理念」のみ読んだ。今回の記事は過去の二つの記事のつづき。

 

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 ……しかし、『正義論』や「アレクサンダーとマスグレイヴへの返答」(『平等主義基本論文集』)を読んだときと同じく、相変わらずロールズの文章はまわりくどくて堅苦しい悪文で、事前に「ロールズってこういうことを言っているらしい」「ロールズの主張はこういうもの」という知識をほかのいろんな本から得ているからナントカ読み進められるのだがそれがなかったらさっぱりわからない。おそらくロールズの文章って大学のゼミとか読書会とかでの指導込みで読んでいかなければほんとうの意味では理解できないものなんだろう。

 

 ともかく、おそらく重要である、本章の出だしには下記のように書かれている。

 

政治社会には、そして実のところ個人、家族、あるいは連合体、さらには複数の政治社会から成る同盟だろうとありとあらゆる道理的で合理的な行為主体には、自らの計画を立て、諸目的に優先順位をつけ、しかるべき意思決定を行うやり方がある。政治社会がこれを行うやり方は、その理性(reason)〔の行使〕によってである。政治社会がこうしたことを行う能力もまた、異なる意味においてではあるが、その理性である。理性は知的かつ道徳的な力であり、政治社会の人間の成員の潜在的可能性に根ざすものである。

教会や大学に非公共的な諸理由(reasons)があるように、また市民社会におけるほかの多くの連合体にも非公共的な諸理由があるように、〔理性の行使によってもたらされた〕すべての理由が公共的というわけではない。貴族的・専制的な体制において社会の善が考慮される場合、その考慮は、仮に存在するとして公衆によってなされるのではなく、誰であれとにかく支配者によってなされる。公共的理性はデモクラティックな人民に特徴的なものである。それはデモクラティックな人民である市民の、すなわち<平等な市民であること>(equal citizenship)の立場を共有している人びとの理性である。彼らの理性が対象とするのは、公共の善、つまり正義の政治的構想が社会の諸制度の基礎構造に対して、そしてその精度が尽くすべきねらいや目的に対して要求するものである。そこで公共的理性は以下の三つの点で公共的である。〔1〕公共的理性はこのような市民の理性であるがゆえに、公共の理性である。〔2〕公共的理性の対象は、公共の善と基底的正義のことがらである。〔3〕公共的理性は、社会が有する政治的正義の構想によって表された諸理想と諸原理によって与えられており、かつそれに依拠して開かれたかたちで行われているため、性質と内容において公共的である。

公共的理性が市民によってそのように理解され尊重されるべきだというのは、当然ながら法の問題ではない。立憲的でデモクラクティックな体制にとっての理想的な<市民としての権利・義務>(シティズンシップ)の構想として、公共的理性の理念はーー正義にかなう秩序だった社会における人びとを想像しつつーーものごとがどうありうるだろうかを示す。それは可能なこととなしうることを説明する。なしえないだろうことも説明するが、そのために公共的理性の重要さが失われるわけではない。

 

(p.257 - 258)

 

 なお、以下でいう「特定の仕方」というのは「政治的リベラリズム」のことを指していると思う。

 

…デモクラクティックな憲法は、ある人民が自分たちを特定の仕方で統治するという政治的理想を高次の法において高潔に表したものである。この理想をはっきりと示すことが公共的理性の達成目標である。

(p.280)

 

  本章を読んでいて最も印象的だったのは、ロールズが「最高裁判所」を「公共的理性の手本」として挙げていること(第6節。具体例としてはアメリカの最高裁判所が登場するが、別の節では「実際の裁判所ではなく、理想的に描かれた立憲体制の一部としての裁判所を念頭においてほしい」(p.307)とのこと)。これにはスティーブン・マシードの『リベラルな徳 - 公共哲学としてのリベラリズムへ』を思い出した(本章の脚注でも『リベラルな徳』が取り上げられており、むしろ『リベラルな徳』のほうが『政治的リベラリズム』に先行しているようだ)。

 

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 本章の最後のほうにも、以下のような表現がある。

 

私たちが公共的理性に従っているかどうかを審査するには、次のように問うのがよいかもしれない。私たちの論証は、最高裁判所判決理由という形態で提示されたとしたら、私たちの目にどう映るだろうか、それは道理的であるだろうか、それとも常軌を逸しているだろうか、と。

(p.307)

 

 一般的に「公共的理性」を持ち出す議論で主張されるのは、なんらかの公共的な問題について意見したり論じたりするときには、自分の信じる宗教や世界観とか自分の信念(「包括的見解」)でしか通じないような主張を振りかざすのではなく、他の宗教を信じている人や無宗教の人や別の世界観や信念を持っている人にも通じるような理由付けに基づく主張を行いなさい、ということ。……そう理解するなら、裁判所は公共的理性を体現する存在である(べきだ)、というのは納得ができる。裁判官が自分の宗教に基づいて訴訟の結果を判断したり憲法審査を行ったりしたらわたしたち市民としてはたいへん困ったことになるし、裁判の結果や判断過程は特定の世界観や信念に依拠せず大体数の人にとって理解や納得が行く理屈や理路に基づいていてほしいものであるだろう。

 一方で、本章を読んでみて意外だったのは、ロールズは「公共的理性」が適用される範囲をかなり限定しているということ。たとえば、市民や国会議員は「憲法の本質的要素と基本的正義が危機にさらされていない場合には(p.284)」、自分たちの包括的な見解を(投票を通じて)表明できるそうだ。また、ロールズによると公共的理性が必要となるのは「公共的な問題」といった広くて生やさしくて曖昧な範囲ではなく、「公共の善と基底的正義のことがら」とか「憲法の本質的要素と基本的正義」とかいった重々しい表現が用いられるような領域である。具体的には、アメリカにおける憲法制定や奴隷制廃止にニューディール政策(福祉制度のスタート)、あるいは女性の参政権や人工妊娠中絶の権利を認めるといった、国・社会レベルで重大な事態が起こったり画期的な出来事が起こったりするような場面だ。一方で、たとえば自然保護や動物の権利といった問題は「憲法の本質的要素でもなければ…基本的な正義の問題でもない」(p.297)ということで、公共的理性が適用される対象ではないらしい。

 当たり前のことだが、『政治的リベラリズム』におけるロールズの「公共的理性」に関する議論は『政治的リベラリズム』という本そのものの趣旨や問題意識に関連している。で、本書の趣旨とか問題意識はなにかというと、「リベラリストリベラリズムを受け入れなかったり宗教的な世界観を保ち続けたりする人たちと共存することが可能か」「非リベラル/宗教的な人でも受け入れられるようなリベラルな原理を国家や社会は採用可能か」「可能にするためにはリベラリズムをどのように限定するか(「包括的リベラリズム」から「政治的リベラリズム」への移行/縮小/(後退))」といったこと。……つまり、本書においてのロールズの方針は「社会の成員すべてに関係するようなほんとうに重要なことについては議論して合意を成立させておく必要があるが、そうでないことについては(すくなくともリベラリズムとか政治哲学の文脈では)議論しはじめても価値観の異なる人どうしでは合意が成立せずに泥沼になるから触れないでおいたほうがいい」といったものである。そうなると、公共的理性が適用される範囲も限定されるというのは、ごく自然なことであろう。

 

『政治的リベラリズム』の文脈における公共的理性の位置付けや、本章の第4章のテーマである「重なり合う合意」と公共的理性の関係などは、仲正昌樹による以下の文章がわかりやすい*2

後期のロールズは、様々な宗教的、民族的、世界観的背景を持った人々が、自由、平等、公正、自律、連帯、厚生...等の、憲法の基礎になるような基本的な正義の理念について、普遍的合意に達することは可能か、という問題と取り組んだ。そこで、様々な世界観を持った人たちの間で成立する「重なり合う合意 overlapping consensus」と、それに基づく公共の場での議論で用いられる「公共的理性」に着目した。
「重なり合う合意」というのは、その社会で長年にわたって共存し、立憲的体制を共有するようになった集団間で事実上成立している合意である。例えば、「意見表明の自由」や「人身の自由」であれば、特殊な教義を持ったキリスト教の宗派であれ、イスラム信者や仏教徒であれ、無神論者やマルクス主義者であれ、それが憲法の中核的理念であり、(自分たちも)尊重しなければならないことは認めるだろう。そうした合意が安定化し、その社会で生きるあらゆる集団の共通了解になっていれば、それは「重なり合う合意」である。
ただ、包括的教説(comprehensive doctrine)を有するそれぞれの集団は、どうして「意見表明の自由」や「人身の自由」が重要なのかについては、それぞれの教義に基づく異なった論拠を持っているだろう。キリスト教は聖書を、イスラム教はコーランを典拠にするだろうし、マルクス主義者はマルクスエンゲルスのテクストを参照するだろう。内部向けにはそれでいいが、外の人には伝わらないし、受け入れてもらえない。
そこで、外部との議論で必要になるのが、集団内部の言説を、その社会を構成する他のメンバーにも理解可能なものに変換する「公共的理性」、あるいは、「公共的理性」が論拠として用いる「公共的理由 public reason」が必要になる。「公共的理由」とは、同じ立憲体制の下で生きるメンバーであれば、当面の問題を解決するための基本的な原理として受け入れないとしても、無視することはできない「理由」、少なくとも、どうしてそれをここで適用するのが不適切であるか反論せざるを得ない「理由」である。
例えば、妊娠中絶が違憲かどうかという論争であれば、合憲であると主張する側が、妊娠した女性の〈right of privacy〉――日本語の「プライバシー権」よりも広い概念である――を論拠として持ち出せば、反対している側も無視できない。〈right of privacy〉とはどういうものか再定義したうえで、この権利を、中絶をめぐる道徳的・政治的・法的論争の文脈で適用することの是非をめぐる議論に応じざるを得ない。〈right of privacy〉が、アメリカの憲法それ自体によって直接保証されているかどうかについては議論の余地があるが、そんな権利など必要ない、と言う人はほとんどいないだろう。
各人がそれぞれ身に着けた「公共的理性」を駆使して、「公共的理由」に基づいて議論するのであれば、その人の思想的背景や出自は関係ないはずである。二〇一二年にアメリカの大統領選で、共和党の大統領候補だったロムニー氏はモルモン教徒であり、布教活動を行っていたことも知られているが、大統領選の最中そのことが特に話題として取り上げられることはなかった。彼の掲げる政策が、共和党の政策として普通に通用するものであり、別にモルモン教の教義を参照しないと理解できないようなものではなかったからである。

第51回 「公共的理性」を欠いた"民主主義" 仲正昌樹 / スクラップブック - 精神科・心療内科 新宿の都庁前クリニック あがり症など 夜間診療

 

 さて、一年以上前に読んだ『リベラル・コミュニタリアン論争』のうろ覚えに依拠すしているが、ロールズの政治的リベラリズムの問題とは、「政治的/包括的」の範囲が恣意的である、というところだ(ったはず)。……つまり、ロールズが「このポイントは宗教を信じていたり非リベラルな意見を持ったりしている人でも合意が可能だ」といくら主張しても、宗教的な人や非リベラルな人は「それは所詮は世俗的でリベラルな価値観に依るものであるからわたしたちには受け入れられない」と主張するかもしれない。逆に、ロールズが「包括的」と斥けるものであっても、他のリベラリストたちは「このポイントは充分に理性に基づいているから異なる価値観を持つ人どうしの間で合意可能だ」と主張するかもしれない。実際、現実に目を向けたら、頑固な非リベラルや宗教の信者たちは「重なりあう合意」なんて堂々と無視している。そもそも、非リベラルな人たちからすれば「重なりあう合意」もリベラルの価値観の押し付けに過ぎないかもしれない。それならいっそ、最初から政治的リベラリズムなんて捨ててしまって(ロナルド・ドウォーキンやジョセフ・ラズ、あるいは『正義論』の頃のロールズのような)「包括的リベラリズム」を主張したほうが論理として筋が通っていていい。……というのが『リベラル・コミュニタリアン論争』の著者たちの結論だったはずだし、わたしもそれに同意する*3

 また、公共的理性が適用される場面をやたらと限定しようとするロールズの方針にも、やはりわたしは賛同できない。先述したように、『政治的リベラリズム』の外で「公共的理性」という用語を用いる議論とは「なにかを主張する際には他の人にも納得できるような理由を提示しましょうね」というものだが、たとえば『現実を見つめる道徳哲学』で強調されていたのも、「道徳的な主張/道徳的な問題を行う際には理由付けが重要となる」「理由付けを吟味したり、よりよい理由を発見したりするのが倫理学の役割である」といったものであった。そして倫理学では奴隷制廃止や女性の参政権や人工妊娠中絶の権利といったトピックについても、自然保護や動物の権利にその他のロールズが公共的理性の対象外に位置付けたトピックについても、いずれのトピックについても理由に基づきながらあれこれと論じたり主張したりする。そして、倫理学者に限らず、理性を持った市民たちもまた、ロールズが公共的理性の範囲内に含めたトピックと範囲外に放り出したトピックのどちらについても、理由に基づいた議論を行うことができるだろう。

(ある種の)倫理学者は、政治哲学が扱う問題のすべては倫理学でも扱えると主張するだろう。その一方で、(ある種の)政治哲学者は、倫理学が扱う問題を政治的なものとそうでないものとに「格付け」する。わたしとしては、やはり前者に賛同するところだ。

*1:

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*2:なお、いちおう書いておくと、仲正による統一教会自民党の「擁護」的な主張にはぜんぜん賛同しません。

*3:要するに、ロールズは理想理論からリアリズムに中途半端に舵を取ったが、中途半端であるために理想理論とリアリズムのどっちとしてもダメになっている、ということ