道徳的動物日記

『21世紀の道徳』発売中です。amzn.asia/d/1QVJJSj

反共同体主義としてのリバタリアニズム(読書メモ:『自由はどこまで可能か』)

 

 

 タイトル通り、思想や哲学としてのリバタリアニズムの入門書。

 本書の初版は2001年ともう20年以上前であるし、わたしが本書を最初に読んだのも学部生だったときだ。本書の書評やレビューはネットの内外にて既に大量に書かれているだろうから、この記事では本書の内容を要約するということはせず、先日に読み直したときにとくに印象に残った箇所……第4章「政府と社会と経済」で、共同体主義コミュニタリアニズム)や共和主義などの「連帯感」を重視した発想に対して批判を行なっている箇所を主に紹介しておこう。

 

経済的不平等は社会内部の連帯感を損なう、と言われるかもしれない。だが、リバタリアンはそもそも相互に人間性を認め合うという、礼儀正しい尊重以上の濃い連帯感が社会全体の中に存在しなければならないとは考えない。濃い連帯感は共同体の内部で求めるべきである。経済的に豊かな人と貧しい人の間ではライフスタイルが異なるために連帯感が生じにくいかもしれないが、そのことは、異なった宗教の信者や異なった地方の住民の間で連帯感が存在しにくいのと同様、問題ではない。

次に政治的権力の不平等についてだが、これはリバタリアニズムの立場からも確かに問題だ。しかしそれは、経済的不平等を禁止する理由にはならない。問題なのは、正当な授権によって得られたのではない政治的不平等や、平等な自由を侵害するような政治的権力行使である。[…中略…]現代の日本を含む、利益配分型の政治は、たとえどんなに民主的であっても、原理上不正である。なぜなら絶対的貧困を救済するための福祉給付や十分に理由のある公共財(ここでは国防や法秩序も含む)の供給を除くと、政府には果たすべき役割など残っていないからである。政治権力の不平等の防止策は、多様な利益集団の政治参加の平等化ではなく、政治権力自体の最小化であって、それがなされれば、経済的な力が政治に影響するということもおのずからなくなる。それはちょうど、政界と財界の癒着をなくすためには、財界の内部調整によって利権を公平に分配するのではなしに、利権そのものをなくすべきであるのと同様である。

このように考えると、政治とは多様な利益集団の取引と妥協の過程だと考える「政治的多元主義」や、個々人の利害は職能団体とその代表者によって代表され調整されると考える「コーポラティズム」と呼ばれる見解は、政治の実態を記述するものとしては正しいかもしれないが、規範的な見解としては斥けられる。社会の中には多様な利益が存在することは事実だが、その利益の追及は強制力を伴う政治の場ではなしに、民間の領域でなされるべきである。人からお金をもらいたかったら、課税によって否応なしに取り立てるべきではなく、寄付か交換によって、相手の納得ずくでもらうべきである。

するとリバタリアニズムが認める政治の役割は結局何なのか?それは、市場では十分に供給されない公共財が何であり、政府がどれだけ供給すべきかを決めることと、福祉給付の程度を決めることくらいに限られるだろう。むろんこれらの政治的決定に際しても、自己利益的考慮は入り込んでくるだろうが、右の原則が建て前としてでも認められれば、政治が利益集団に利益を分配できる程度は現在よりもはるかに制限されるだろう。

 

(p.124 - 126)

 

リバタリアニズムの消極的な政治観に対する、より根本的な批判もある。最近英語圏の政治理論で注目されている「公民的共和主義(シヴィック・リパブリカニズム)」や、それとよく似た「参加民主主義」などと呼ばれる見解によると、ーー政治は人々の幸福や利益実現のための単なる手段ではないし、まして必要悪でもない。むしろ政治への積極的な参加こそが、市民のよき生にとって欠かせない構成要素である。経済の領域では私的利益を孤独に追求しているにすぎない個人も、政治の領域で公共的決定に参加して、公共善について同胞市民と共に熟慮し討論し競い合うことを通じて、連帯感を持つようになる。政治への参加が人格を陶冶し、他者への共感と思いやりを持った豊かな人間性を育てるーーとなる。古代ギリシア直接民主制を理想化するこの立場では、民主制は人々の意見を平等に反映させるとか、あるいは専制政治を阻止しやすいといった理由よりも、誰もが政治に積極的・直接的に参加すべきだという理由によって正当化される。民主主義国家は民主主義へのコミットメントによって結ばれた政治的共同体である。

この説は、一見して現実離れしているように思われる。第一に、大部分の人は自分自身の利害についてはある程度合理的な判断ができるが、天下国家や地球全体にかかわる問題については、ごく限られた知識しか持ってない。またかりに人々がこれらの問題について十分理解しているとしても、各人が求めるのは公共的な利益よりも自己利益かもしれない。そもそも政治参加が人格を陶冶するというのも、奇異な主張である。プロの政治家と市井の私人とを比べると、前者の方に立派な人格者が多いだろうか?政治家の公約は商人の契約ほど当てになるだろうか?

[…中略…]

…公民的共和主義は、リバタリアンに限らず自由主義的見解からはとうてい認めることができない。それは何よりもまず、人間の多様性を無視している。人々の中には公共的決定への参加を生きがいとする人もいるように、私生活を楽しもうとする人々もいる。公民的共和主義者は後者の人々を、教育されるべき、意識の低い人々とみなすようだ。しかしそのような人間観を持つのは自由だが、それは公的に強制されるべきものではない。その強制は個人的自由に対する全面的な侵害である。それはちょうど音楽好きの人々ーーそれは現代の日本では政治好きの人々よりも多いだろうーーが、音楽のない生活は貧しい生活だという理由で、政府は音楽の振興を国家的目的として、すべての国民に音楽活動への積極的な参加を呼びかけなければならない、と主張するようなものである。

 

(p.126 - 128)

 

 リバタリアニズムの立場からの共同体主義/共和主義批判はジェイソン・ブレナンの『アゲインスト・デモクラシー』でも行われており、わたしはブレナンの本を読んだことをきっかけにして「リバタリアニズムにも意外と見どころはあるんじゃないか」と思うようになった*1。また、「共和主義の議論は要するに自分の趣味を押し付けようとしているだけだよね」とか「自分にとって政治が大切だと思うのはいいけど、他のみんなにとっても政治が大切だと主張するのは違うよね」といった感想(批判)は、マイケル・サンデルなどの共同体主義者やジョン・ロールズにエリザベス・アンダーソンなどのリベラリストに対してわたしが以前から抱いていたものでもある*2共同体主義を批判するという点ではリベラリズムリバタリアニズムも共通しているし、原則としてわたしはリベラリズムのほうを支持しているが……リバタリアニズムほどに自由を重要視する意義がわたしには感じられないし、リバタリアニズムはやはり弱者に対して厳しいものがあると思うし、現実にリバタリアニズムを実践しようとしてもうまくいかないことはほぼ自明であるように思えるし……リベラリストの多くは政治大好き人間であるために、連帯感とか自尊心とかいった議論については共同体主義や共和主義のほうに寄ってしまいがちだという問題がある。そういう問題を考えると、リベラリズムよりも原理的かつ冷徹な視点から共同体主義者や共和主義者の主張を一蹴してしまえる(そしてその光景を眺めているリベラリストにも我に返るきっかけを与えられる)リバタリアンの存在には、大きな意義があるとも思っている。

 

 その他に本書で印象に残ったポイントは、「左派(左翼)リバタリアニズム」について紹介しながらも最終的には「左派リバタリアニズムは実際にはリバタリアニズムとは言えない」と切り捨てているところ、自己所有権テーゼや経済的平等に関するジョン・ハリスやジェラルド・コーエンの議論を紹介しているところ、臓器売買を肯定しているところ、などなど。

 また、共同体主義が「根なし草」を否定するのは反自由主義であるときっぱり指摘しているところや、マルチカルチュラリズムは民族的アイデンティティだけを公的に重視するから恣意的だと批判しているところ、「移民の自由」をはっきりと擁護しているところなどは、出版から20年以上経った現在でこそむしろ重要になっていると思う(いつの間にか、昔よりも現在のほうが、こういった主張を堂々と言うことが難しくなっている面があるからだ)。

*1:

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

以前にも思ったが、政治思想家たち(ロールズやアンダーソンにサンデルなど)は「社会制度」や「政治参加」が人々の「自尊」にもたらす効果を過大評価する傾向があるように思える。政治思想家たちは政治のことが好きで政治を大事に思っているから政治参加できないと自尊の感情がなくなるだろうけれど、わたしもわたしの周りの人たちも、ほとんど政治参加していないけれど自尊の感情を保てている。