道徳的動物日記

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選挙権は「力」を与えて「自尊」と結びつくのか?(読書メモ:『アゲインスト・デモクラシー』①)

 

 

 

 著者であるジェイソン・ブレナンの議論については、過去に下記の翻訳記事で紹介している。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 この記事ではやや変則的だが、本書の4章と5章の内容を先に紹介。

『アゲインスト・デモクラシー』は、タイトル通り、市民に等しい選挙権を与える民主主義に反対して、制限選挙制や複数投票制に基づくエピストクラシー(選良政治/知者による支配)を擁護する本。

 ブレナンが民主主義に反対する理由はいくつもあるが、多くの人が同意できる理由としては、「民主主義では望ましい政策が採用されづらいこと」「愚かな人までもが選挙権を持つ政治制度では、争点になっている問題についてきちんと考慮されていなかったりマイノリティのことが配慮されていなかったりするなどの悪い選挙結果が恒常的に生じること」や「エピストクラシーのほうが民主主義よりも望ましい政策が採用されること」「選良の人々に複数選挙権を与えれば、複雑な問題について考慮されたりマイノリティに配慮されたりしている良い選挙結果が生じること」などなど、どんな政策が採用されたりどんな選挙結果が生じるかといった、政治制度がもたらす「結果」に基づく理由であるだろう。

 これに対して、民主主義の擁護者は「民主主義のほうがエピストクラシーよりも有効に機能してよい政策や選挙結果を生み出す」と主張するだろう。それと同時に、民主主義や政治制度には政策や選挙結果以外にも考慮すべき点が存在する、と主張される場合もある。具体的には、すべての市民に平等な選挙権が与えられているということ自体に、政策や選挙結果とは別次元の価値がある、したがって(仮に)エピストクラシーのほうが政策や選挙結果という点では有能ではあっても平等な選挙権に基づく民主主義を維持するべきである、という反論が想定できる。

 4章と5章ではこのタイプの反論を取り上げて、再反論されている。そのうち、印象に残った項目をいくつか紹介(紹介していない項目も多いので、気になった人は書籍を読むように)。

 

●選挙権と「自らの利害関心を促進する力」

 

「政府は、選挙権を持っていない人や政治に参加しない人の利害関心には応答しないから、選挙権や政治参加できる権利には価値がある」という、一見するとごく当たり前な主張。

 しかし、選挙においては膨大な人数が投票することをふまえると、個人としての私たちが持てる影響力はごく僅かである。

 

私たちの票が違いをもたらす確率はほとんどない。政府は、あなたが投票した場合にはあなたを助け、投票しなかった場合には無視するようなものではない。個人としては、私たちの一票は、選出されたリーダーたちが私たちを助けるか、無視するか、危害を加えるかにはなんらの影響も与えない。

 

(p.144 - 145)

 

 個人の一票は選挙結果について「Aが勝ってBが負ける」ということを決定付けはしないとしても、AとBの間の得票数の差には影響を与えるので、間接的に影響力を与える、という「負託」に基づく議論も存在する(もし自分がA(B)に投票していた場合には、そうでなかった場合に比べて市民からのAに対する負託の度合いが上がり(下がり)、勝ち負け自体は変わらなかったとしても自分が投票してなかった場合よりAの影響力は上がる(下がる))。……とはいえ、この負託仮説も、エビデンスを見ると間違っているらしい(実際の政治を見ていても、大勝したか辛勝したかで政策が変わる、とは必ずしも言えなさそうだ)。

 投票以外の方法による政治参加についても個人はほぼ無力である、とブレナンは説く。

 

しかし残念ながら、例外的な情況を差し置けば、私たちの個々の行為にはなんらの知覚可能な効果も存在しない。私たちの誰であっても、その人が仮に参加を差し控えたとしても、さらにいえば反対陣営の応援に参加したとしても、物事はマクロレベルにおいてはまったく同じ仕方で進むであろう。オキュパイ運動の参加者は資本主義に反対するのではなくそれを応援しうる。私は麻薬戦争に反対するのではなくそれを支持するよう主張したり投票したりできる。あなたもまた陣営を移すことができる。平均的な政治ブロガーもまた陣営を変えうる。例外的な情況を除けば、あなたがいかに投票し参加したかにかかわらず、あなたはなんの違いも生み出さない。あなたの参加は、政府をあなたの利害関心に応答するようには変えない。

大規模な集団はデモクラシーにおいて確かに力を持っている(この問題は後の章で扱う)。しかし個人は通常はそうではない。これは実際にはデモクラシーの特徴であり、その機能不全ではない。デモクラシーは個人に力を与えようとするものではない。それは大規模な集団や個人の集合体のためにすべての個人から力を奪おうとするものである。デモクラシーが力を与えるのは私たちであって、あなたや私ではない。

 

(p.147 - 148)

 

●「自律」としての政治参加?

 

 一般に、人間とは自分のことを自分で決めたいと思うものだし、自分で定めたルールに従って生きること…「自律」には価値がある。そして、政治的自由を保持して行使できなければ、わたしたちは政治に関する自律を欠く(他人に委ねる)ことになる。なので政治参加への権利は不可欠だ。

 この種の反論の問題点は、先と同じく、政治に対して個人としてのわたしたちが持つ影響力はごく僅かであること。わたしたちは「お昼にカレーを食べよう」と決意したらほとんどの場合に実際にカレーを食べることができるし、「将来はこんな仕事したい」「あの人と結婚したい」といった社会環境や他者や偶然が関わることについても、自分がどんな意思を持ってどんな行動をするかということもある程度までは影響をもたらす。しかし、政治についてわたしたちの意思や行動がもたらす影響はごく僅かであり、個人は自分の食事や就職や結婚については自律できても政治について自律するということはできない。

 自律論の亜種が「居場所(ホーム)」論である。自分の住んでいる世界(社会)が自分の居場所であると感じるためには、「自分の判断に対して世界(社会)は応答してくれる」と思えることが必要だ。そして、政治参加をすることで「他のみんなと一緒に自分も社会を構築している(変化させたり影響を与えたりする)」と思うことができる。……とはいえ、やはり、実際にはわたしたちは政治参加という手段で社会を構築しているとは言い難い。

 

政治が社会構築の余地を十分に与えない理由の一部は、個々の市民がほとんど無力である点に存する。市民はあまりに無力であるため次のような選択に直面する。マジョリティの立場に従い「好ましい結果をもたらす手助けをする」か、マジョリティの立場に反対し、せいぜいマジョリティの立場への不同意を示す手助けをするかである。この無力さに鑑みれば、政治参加は社会構築に参加するための価値ある方法であるという主張を真に受けることは困難である。

もしあなたがマジョリティの側で投票するのであれば、あなたは選挙結果を生み出すことに参加することとなる。しかし、投票によって与えられる力はまがい物であるようにみえる。次のメタファーを考えてみよう。あなたはビーチで泳いでいるとする。あなたの前に大きな波が立ちはだかる。あなたは踏ん張るか波に乗るかを選ぶことができるが、それを押し戻すことができない。もし波に乗ることを決定するのであれば、あなたは波に参加したとみなすことができ、加えてもし水を押したのであれば、あなたは水の一部が陸により早く到達することを手助けしたとさえ言えるかもしれない。しかしながらこのことがコントロールを共有していることを意味すると考えるのはおかしい。もしあなたが水の中で居場所(ホーム)があると感じるのであれば、それはあなたが水に合わせたためであって、水があなたに合わせたわけではない。

 

(p.156)

 

●「合理性」と「道理性」の涵養?

 

 ここからはジョン・ロールズに対する批判。

 ロールズの議論では、一部の基本的諸権利や基本的諸自由は他の何よりも優先される(これが「自由原理」)。そして、選挙権や被選挙権に言論の自由といった政治的自由は、基本的自由のなかでもさらに特別な重要性を与えられている。

 ロールズは人間の道徳的能力のなかでも「合理性」(自分の人生についての価値観や目標を形成・修正して、それを追求する能力=善き生についての感覚)と「道理性」(物事の正しさについて理解し、その正しさに基づいて他人と協働する能力=正義感覚)がとりわけ重要であると考えており、これらの能力を涵養することのできる自由こそが基本的自由であると考える。

 しかし、問題なのは、基本的自由に関するロールズのリストが恣意的であることだ。……例えばロールズは資本主義については冷淡であり、私有財産を持つ権利と職業選択の権利以外は基本的諸自由にカウントしない(場合によっては取り上げられるべき自由や権利と見なす)が、契約の自由や生産財を所有する権利も、合理性や道理性を涵養すると主張することはできる。たとえば、工場を所有して運営することは、その人の人生の目標や価値観に関わる能力を発展させることは間違いないだろうし、運営を通じて正義感覚を成長させることもできそうだ。

 これに対する反論は、「工場を所有したい」という価値観自体が一部の人にしか共有されず、すべての人の人生にとって工場所有(生産財を所有する権利)が重要になるわけではないから、それを基本的自由とは見なせない、というもの。しかし、それを言い出すと、選挙権や言論の自由だって、すべての人の人生にとって重要なものではない。……たとえば、ブレナン自身、自分は「善き生についての感覚」と「正義感覚」を適切に涵養してきたと自認しているが、それでも選挙権や政治参加の権利には関心がないそうだ(わたしだってそうである)。

 

実際に、([サミュエル・]フリーマンが考えるような、すべての人間はもちろんのこと)典型的な人にとって二つの道徳的能力を涵養するために厳密な意味で必要な自由はほとんど存在しないように思われる。はなはだしく権威主義的であるか全体主義的な体制のもとで生きる人々は、私に比べて道徳的能力を涵養させるための適切な評価的視点へとアクセスすることがより困難であるかもしれないが、そのような国家においてもそれは不可能ではないし、それほど困難でもないかもしれない。二つの道徳的能力を涵養するためには、言論の自由も、婚姻の自由についての諸権利も、結社の自由も、政治的自由もほとんど必要ない。選挙権も被選挙権も必要ない。完全な人身の自由も必要ではなく、国家の当局者による身体的ハラスメントから自由である必要もない。職業選択の権利も必要ない。実際に、ほとんど自由を持たない人々が二つの道徳的能力を涵養することは容易に想像できる。ストア派の哲学者エピクテトスは歴史上のほとんどの人々よりも二つの道徳的能力を涵養したと言えるかもしれないが、彼は文字通り奴隷でありながらそれを成し遂げた。アレクサンドル・ソルジェニーツィン全体主義的体制に行き、またグラグに投獄されていたにもかかわらず二つの道徳的能力を涵養した。彼は、基本的諸自由を奪われていたまさにそれゆえにそれほどまで二つの道徳的能力を涵養したようにみえる。そして、ほとんど自由を欠いていたにもかかわらず二つの道徳的能力を涵養した人々についてのほかの歴史上の例は容易にみつけることができる。したがって、もしロールズとフリーマンが、なにが自由を基本的にするかについて正しかったのであれば、基本的にはなにも基本的自由ではなくなる。実のところ、すべての人にとっての道徳的能力の涵養のために厳密に言って必要な自由など存在しない。

 

(p.171 - 172)

 

 このような主張に対して、二つの道徳的能力を涵養するだけでなく行使するためには政治的な権利や自由が必要になる、と反論することはできる。……しかし、経済的な権利や自由などに基づいて行使することもできるから、政治的なそれが不可欠になるわけではない。さらに、政治的なものにしぼっても、価値感覚や正義感覚の行使という点については言論と結社に関わる自由や権利のほうが選挙権よりも断然に重要であるから、この論法で選挙権の重要性を主張することはできない。

 

●政治に対するシニシズム

 

二〇一五年のモンマス大学の世論調査は、変化を起こす手段としての価値が個人の政治参加にあるかについてアメリカ人がますます懐疑的になってきていることを明らかにした。五四パーセントは「非政治的活動に携わることの方が周囲の世界により影響力を持つことができる」と信じており、たったの「二八パーセントが行政と選挙に携わることが自らのコミュニティに変化をもたらすための方法であると答えた」。一部の人々はこれをアメリカの公衆がシニカルになってきていることの証左として捉える。それはそれで正しいのかもしれない。しかしながらこのケースにおいてシニシズムは公衆の信念をより現実的で理にかなったものに変えているのである。

 

(p.182)

 

 共和党民主党かが数年に一度はガラリと変わるアメリカはまだマシであり、国政選挙でも一部の地方選挙でもずっと変わり映えのしない状態が続く日本の場合には政治に対するシニシズムはさらに強力になっているだろうし、それはブレナンの書くとおり「現実的で理にかなったもの」でもあるだろう。

 また、わたしが二十代の頃、同級生の友人たちは、初めて選挙権を取得して意気揚々と選挙に行ったこととその結果を見て落胆したことをmixiの日記に書いていた。自分が参加しているはずの選挙で全く自分の思い通りにならない結果が出るというのはショックなものであるようだし、選挙によって社会や政治に対する失望がむしろ増してしまう、というのは充分にあり得る話だろう。

 そして、このくだりを読んで思い出したのが「まじめな人ほど選挙で投票しない」という問題だ。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 (著者の)モンダックによると、責任感や誠実性が高い人たちは、陪審員に選ばれたときにその務めを果たす可能性は高い。だが、実のところ、そのような人たちが選挙で投票をおこなう可能性は低い。もしかしたら、責任感や誠実性が高い人たちは投票について慎重に考えたうえで、「自分が投票をしたところで何かが変わるということはほとんどなく、だから政治は自分の時間を割くに値するものではない」と判断したのかもしれない……とモンダックは言う。

https://news.illinois.edu/view/6367/205571

 

 

●「自尊」と政治

 

ロールズとフリーマンは、単にデモクラシーが市民の公共的平等を表明する一つの方法であると断言しているのではない。彼らは、デモクラシーがこの平等の表現にとって肝心であると考えているのだ。ロールズと(ロールズに賛同している)フリーマンは、相対的に不利な立場にある者が選挙権を放棄することは、もしそのことがその者たちの厚生を大いに改善するとしても、不合理なことであろうと信じている。なぜなら、それは「恥辱を与え、」「自尊にとって破壊的であり、」そして不利な人々が従属的であるという考えを表すだろうから。

これらの自尊規定的なデモクラシーの擁護論には、どこか奇妙なところがある。市民に選挙権を与えることは、市民に自分自身に対するいくばくかの権力を与えるのみならず、他者に対するいくばくかの権力をも授けるのだ、ということを思い出してほしい。それは市民を、人々を振り回し、その意志に反して様々なことを行うよう強いることのできるような集合体の一部とするのだ。ある人や諸集団に、見知らぬ人々に対するコントロールの権利ーー弱いコントロールの権利だとしてもーーを与えることは正当化を必要とする。

デモクラシーはポエムや絵画ではない。デモクラシーは政治システムなのだ。それは根底においては、正統な暴力の独占を主張する制度が、どのように、いつ暴力を行使するかを決定する方式である。ロールズ自身が信じるように、政府と政治的構造は、協働の便益を保障し、正義を促進し、平和を保障することを促すためのものである。それらは第一義的には、自尊心を高めたり、維持したり、制御したりするための制度ではない。

 

(p.209 - 210)

 

 つまり、デモクラシーが「一義的な目的(協力の維持や安全保障や再分配など)のためによく機能する政治システム」であるだけでなく「参加している人々の自尊を高める」という二次的な機能を持つとしても、後者そのものは、政治システムを採用する根拠として前者に優先されるものではない、ということである。

 ここで私見を述べると、歴史的には、人々がデモクラシーを求めるのは前者よりも後者を求めてのことである、というの主張は成立する可能性があると思う(たとえばフランシス・フクヤマの議論を参照すれば、デモクラシーは人間に備わる「対等願望」(≒自尊感情)をうまく充足させるから多くの国で採用されるようになった、ということになるだろう)。

 また、「同じ国のなかで、自分が属している集団の人々には選挙権がないのに別の集団の人々には選挙権がある」という状況は、実際に自分の利害関心が考慮されづらくなって著しい不利益を被るのみならず、その差別的な状況自体が自分に対する甚大な侮辱として感じられるだろう。サフラジェット運動や公民権運動などの背景にもこのことは関わっているはずだ*1

 本書で提示されるエピストクラシーは理念的・規範的なものであり、男性にしか選挙権がない社会や白人にしか選挙権がない社会といった恣意的な基準により選挙権が分配されていた、過去に実際に存在した社会の政治システムは全く異なること、これまでの社会では実現されたことのないものであることには留意しておいてほしい(もちろん、ロールズの提示するような理想的なリベラル・デモクラシーも実際にどこかの社会で実現されたことがあるわけではなく、「理想的なデモクラシー」に対抗して「理想的なエピストクラシー」をぶつける…規範論・正義論なので…という構図である)。

 

 とはいえ、エピストクラシーは「ある人は別の人よりも政治に関する判断力や知識に優れており、より良い投票ができる」という意見を表す(「ある市民たちは他の市民たちよりもよい政治的判断力を有するという考えをはっきりと表す(p.199)」「ある市民たちが他の市民たちよりも劣った規範的ないし政治的判断力を有する、という見解を表す(p.200)」)。ロールズ以外の学者たちでも、ある市民の政治的判断力は他の市民より優れている(劣っている)と見なすこと自体を批判したり、そう見なすこと自体は許容できるとしてもその意見を表すことを批判する人はいる…「劣っている」とみなされた側の市民に対して侮辱的であったりするからだ。

 これに対して、ブレナンは、政治に関するもの以外の職業的知識のアナロジーで答えている。たとえば、配管工は配管についてブレナンよりも優れているし、経済学的推論についてはブレナンのほうが優れているが、このこと自体は、ブレナンが配管工のことを人として自分より優れているとも劣っているとも思う材料にならない。

 また、ある医者がデパートで買い物をしているときに目の前の人が喉を詰まらせて倒れた場合には、医者は「自分が医者である」と周囲に宣言したうえで倒れた人を救うべきだろう。さらに、「倒れた人を助けたい」と思った善意の素人が余計なことをしようとした場合には、その素人の行為は止めるべきである。これらのことは「自分は医学に関してあなたたちよりも優れた知識がある」と周囲や特定の相手に対して表明することを伴っているが、人の命がかかっていることをふまえると、それ自体は全く問題にならない。

 

…もしデモクラシーの危険性とエピストクラシーの長所についてのエピストクラシー支持者たちの考えが正しいならば、自分はより優れた医学的判断力を有するのだという見方をデイヴィッド[医者]が表明したことが正当化されたのとちょうど同じように、ある人々が他の人々よりも優れた政治的判断力を有するという見解を表明することは正当化されるのである。もしこのことが投票者たちの気に障るならば、投票者たちは上述の例におけるボブ[善意の素人]と同様に振舞っているのであり、それを我慢する道徳的責務を負うのだ。私たちは、単に人々が自身の政治的能力について気にしているとか、それについて正当化されない信念を有するとかいった理由で、国の喉が詰まるままにしてはならない。政治についてある人々が他の人々よりも優れた判断力を有するという見解を表明することを避けるために、私たちはより正義に適っていない政策や、不正な戦争が引き起こされるより大きな見込みや、より深刻な貧困といったものを甘受すべきだ、などと言うことは、とりわけそうした〔ある人々が他の人々よりも優れた政治的判断力を有するという〕判断が真であるような場合には、奇妙なことである。

 

(p.205)

 

 また、「自尊や社会的地位の平等のために、平等な選挙権が必要だ」という主張は「女をあてがえ論」と同じ論理に基づいている、と指摘するくだりも印象的だ。

 

…今日のアメリカの男性にとって、一般的に言って魅力的であるような多くの女性とセックすることは大きな社会的地位をもたらすものである。対照的に、もしあなたが四十歳の異性愛者の童貞であれば、あなたはジョークの的になる。人々はあなたを負け犬と呼ぶだろう。さて、ある四十歳の童貞であるアンディが、不本意にも性的関係に無縁であることを深く恥じ入っていると仮定しよう。そのような場合においてさえ、私たちは、アンディの社会的地位や自尊心を保護するためといって、女性の身体に対する一定のコントロールをアンディに授けるべきではない。これは関連性のない例に見えるかもしれないが、そうではない。政治的権力は、他の人々の身体に対するコントロールなのだ。現代の諸政体は、人々がなにを食べてよいかについて、どのような薬物を使ってよいかについて、どこへ行くことが許され、どこへ行くことが要請されるかについて、そして他の成人と同意に基づいてセックスしてよいかどうかについてさえ、より多くの決定を下している。

ある人々に他の人々よりも少ない政治的権力を授けることや、全員に等しい政治的権力を与えないことが、人々の自尊心を害したり、人々の相対的な社会的地位を下げたりすることを私たちが認めたとしても、このことがなぜ正義の観点から問題であるのかはいまだ明らかではない。私たちは、上述の他のケースでは、人々の社会的地位や自尊心を保護するためといって、他者に対するなんらの権力もコントロールもその人々に与えることが適切であるとは考えない。したがって私たちは、選挙権と被選挙権は〔上述のケースとは〕異なるのだ、ということを示すさらなる議論を必要とする。

 

(p.211 - 212)

 

 人々の自尊心を考慮すべきだという、一見すると優しくて文句の付けようもない議論は「あてがえ論」のようなグロテスクな論理に通じる、という(やや意地悪な)論証は、公正や正義の概念を抜きにして人々の「主観的苦痛」に配慮しようとするフェミニズム政治理論は「女は男に仕えろ」という主張にまで耳を傾けざるを得なくなる、というキムリッカの議論を思い出させるものである。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 実際のところ、政治哲学の専門的な議論という領域を超えて、正義や公正を棚上げしながら人々の「生きづらさ」や「モヤモヤ」に寄り添おうとする優しい議論が流行っていることが、裏返しとしてのグロテスクな議論を隆盛させている、という側面はあると思う。

 

●政治的地位が重要に思えるのは「たまたま」

 

 実際問題として、現在の社会では、人々は選挙権や政治的地位にその機能以上のものを感じている。多くの人は大臣や大統領のことを他の人よりも優れた人間であるかのように思ってしまうし、「あなたは政治的判断力に欠けているから投票する資格がありません」と言われた人は「あなた人として劣っています」と言われたときのようなショックを受けるだろう。

 しかし、ブレナンに言わせれば、わたしたちが政治的地位や選挙権に多大な意味を見出しているのは、これまでの歴史を通じて偶発的に登場した社会的慣行に過ぎない。

 たとえば、「18歳になった若者には政府から国民の証として赤いスカーフが発行されるが、同性愛者だけにはスカーフが発行されない」という慣行が存在する国があったとしたら、この慣行は同性愛者の社会的地位を引く見なすように人々を仕向けてしまうだろうし、同性愛者たちやアライは「同性愛者にもスカーフを発行するべきだ」と求める運動をするだろう。

 このような慣行がある場合には、赤いスカーフを持てるかどうかは、多くの人々の意識のうえでは実際はかなり重要な意味を持つことになる。

 ……それと同時に、「赤いスカーフそのものには全く意味がないし、スカーフを持てるかどうかはその人の地位や尊厳とは全く関係しないのだから、スカーフに過剰な意味を見出すことは馬鹿げている」と考えて、主張することはできる。

(話がズレることになるが、日本で同性婚を支持する人の多くは、婚姻制度に関してかなり近いスタンス…同性婚を求める運動をしながら婚姻制度そのものの重要さは否定する…をとっているだろう)。

 そして、赤いスカーフに対して持つのと同様の考えを、選挙権に対して持つこともできるはずである。

 実際、大臣や大統領のことを「人として優れている」とは全く思わない人もいっぱいいる(ブレナンもそうだしわたしもそうだ)。現在の社会では政治的地位や選挙権はたまたま重要視されているが、そう考えないことも論理的には可能であるのだ。

 

 最後に、第5章の「結論」部分から引用。

 

ハンマーを良いものとするのはなんであるのかを私たちが尋ねるとき、私たちはそれがどれだけよく機能するかによって判断する。ポエムを良いものとするのはなんであるのかを私たちが尋ねるとき、私たちはしばしば、それが象徴し、表す事柄によって判断する。人を良い人にするのはなんであるのかを私たちが判断するとき、私たちはよく、人々には目的自体として価値があるのだと言う。私が見るところ、政治的諸制度は、人やポエムというよりはハンマーのようなものである。制度は道具なのだ。私たちが平和と繁栄のもとに共に暮らすことを助けてくれる制度は良い。私たちがそうすることを他の選択肢に比べて妨げるような制度は、それらがなにを象徴するかにかかわらず、それらを支持する理由を私たちにほとんど与えてくれはしない。

 

(p.231)

 

*1:わたし自身はアメリカ人である自分に日本における選挙権がないことを自分に対する侮辱だとは感じていないが、これは、「特別な歴史的経緯(植民地主義など)がない限り、外国人には選挙権を付与しないこと」自体は、他の国々でも採用されている、ある程度の合理性があるルールだと判断することができるからである。