道徳的動物日記

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読書メモ:『多文化時代の市民権:マイノリティの権利と自由主義』

 

 

 

 読んだのは一ヶ月前なので、多少記憶から抜け落ちているところもある。

 また、原初が出版されたのは1995年と約三十年前であり、本書のテーマとなる民族的マイノリティや移民の問題は、その後に色々と状況が変わって問題はますます複雑になっている(とくに移民の問題は日本でもあれこれ騒がれているところだ)。そいいった状況の変化に合わせながら、ウィル・キムリッカは本書の後にも『土着語の政治』や『多文化主義のゆくえ』など、アップデートされた多文化主義論を出版し続けている。……とはいえ、どちらの本もそれぞれ邦訳を読んできたが、キムリッカの基本的な主張は本書から変わってない*1。また、他の二冊は執筆当時の社会の状況をふまえた時事論的な要素が含まれているのに対して、『多文化時代の市民権』は政治哲学の理論書という側面がもっとも強く、そのために普遍的な内容になっていて読みものとしてもおもしろい。多文化主義について考えるにせよ、日本国内での移民の問題やアイデンティティ・ポリティクスの是非について議論するにせよ、必読の一冊と言えるだろう。

 

 この本の軸となる主張は、以下で端的に要約されている。

 

私は、(多民族国家における)「民族的マイノリティ」と(多数エスニック国家における)「エスニック集団」との相違点を検討し、人種、エスニシティ、そして民族の間の関係を論じようと思う。

第2章の後半では、エスニック集団や民族集団が要求する可能性のある、種々のマイノリティの権利について、その類型論を示したい。特に、私は以下のものを区別する。

(1)自治権(しばしば何らかの形態の連邦制を通じてなされる、民族的マイノリティへの権限の委譲)

(2)エスニック文化圏(polyethnice rights)(特定のエスニック集団や宗教集団と結びついた一定の活動への財政援助および法的保護)

(3)特別代表権(エスニック集団や民族集団に対する、国家の中央機関における議席の保証)

私は、各々の例をいろいろな国から取り、その制度的実現と憲法上の保護という観点から、これらの例の間のいくつかの重要な相違点を検討しようと思う。

この三形態の集団別権利は、しばしば「集団的権利」(collective rights)と呼ばれている。第3章では、集団的権利と個人の権利との関係を吟味する。集団的権利とは、その本性上、個人の権利と衝突するものであると、多くの自由主義者は考えている。私は、「集団的」権利の2つの意味を区別する必要があると論じたい。集団的権利は、1つには、集団の連帯あるいは文化の純潔性の名の下に、ある集団がその個々の成員の自由を制約する権利(「対内的制約」)を意味することがある。またそれは、あるマイノリティ集団の依存している資源や制度が多数派の決定によって決して侵されることのないようにするため、その集団が主流社会の行使してくる経済的・政治的権限を制約する権利(「対外的防御」)を意味することもある。後者は必ずしも個人の自由と矛盾しないということを、私は主張するつもりである。実際、マイノリティの権利に関する自由主義理論を他の理論から区別しているものは、まさに、それがエスニック集団や民族的マイノリティのための一定の対外的防御は受容するが、対内的制約に対しては極めて懐疑的だという点にあるのである。

 

(p.9 - 10)

 

 マジョリティ社会の抑圧などからマイノリティ集団を防御する権利は認めるが、マイノリティ集団内における「文化」などを理由にした個人に対する抑圧を認めない、というのはそのままキムリッカ(とスー・ドナルドソン)による動物の権利論にもつながってくるところだ*2

 

 また、本書では「民族的マイノリティ」と「移民」の違いが何度も強調されている。とくに重要なポイントは、問題となっている社会について、民族的マイノリティとは異なり移民は自発的に移住してきたこと、そのために移民たちは自治権を主張することはできず該当の社会の公用語を使用するなどの譲歩が必要になる、というところだろう。

 

 第4章では、ジョン・スチュアート・ミルをはじめとする過去のリベラリストのなかにもマイケル・ウォルツァーのような現代のリベラリストのなかにも、「自由主義を成立させるためには共通の文化に基づく社会の紐帯が必要だ」のような意見を主張する人が多くいたことを取り上げたうえで、キムリッカはそのようなリベラリストたちに反論を行なっている。

 第5章では、リベラリズムが人々に対して他の財へのアクセスと同じように「文化」へのアクセスも保証しなければならない理由について、キムリッカは以下のように論じている。

 

人々は、自分たちを取り巻く社会的諸慣習について選択をなすが、それはそうした諸慣習についての自己の信念(私が述べたように、誤っているかもしれない信念)に基づいたものである。しかも、ある慣習の価値についての信念を有するということは、まず第1に、われわれの文化がその慣習に付与している意味を理解するということなのである。

私はさきに、社会構成的文化には「伝統と約束事という共有された語彙」が含まれ、人間活動の全領域において、それが諸々の社会的慣習と制度の基礎になっていると述べた(…)。したがって、ある社会的慣習の意味を理解するためには、この「共有された語彙」を理解することーーすなわち、その語彙を構成する言語と歴史を理解することーーが必要である。ある行動の仕方がわれわれにとって何らかの意味を有しているかどうかは、その行動の趣旨を、われわれの言語がはたして、またいかにして、われわれにとって鮮明なものにするかということに依存している。そして、言語がこうした行動を鮮明に描く仕組みは、われわれの歴史、すなわちわれわれの「伝統と約束事」が形づくっているのである。このような文化の物語を理解することは、いかに生きるかについて十分な理解を伴った判断をなすための前提条件である。この意味において、われわれの文化とは、単に選択肢を提供するだけでなく、「われわれが諸経験を価値あるものとして見定める時にかけている眼鏡をも提供している」(…)のである。

(…中略…)

個人の選択と文化との関係についてのこのような議論は、ある種の集団別権利を擁護する、すぐれて自由主義的な理論への第一歩となっている。個人の有意味な選択を可能にするために諸個人に必要なのは、単に情報へのアクセスとか、その情報について反省的に評価を下す能力とか、表現の自由や結社の自由とかだけではない。諸個人は社会構成的文化へのアクセスをも必要としているのである。したがって、このアクセスを確保し強化する集団別の措置には、自由主義的な正義の理論において果たすべき正当な役割があるのである。

 

(p.123 - 124)

 

 理論上は、マイノリティに対して彼ら自身の文化へのアクセスを保証する必要はなく、主流派の文化へのアクセスを保証すれば充分だとも主張できる。しかし、このような議論は、人々の持つ「自分たちの文化への帰属を維持しようとする欲求」(p.127)を過小評価しているし、自分が絆を形成した馴染み深い文化を離脱して別の文化に移ることの困難さを理解していないと、キムリッカ(やジョン・ロールズ)は指摘する。海外に引っ越してそこにずっと暮らすことは多くの人にとって可能なことではある(し、自ら進んでそれを行う人も一定数いる)が、大半の人にとっては苦痛やしんどさを伴うやりたくないことである、と喩えればわかりやすいだろう。そして、「可能だからそうしろ」と言い張ることは「清貧に過ごすことも可能だから富の再分配も必要なくなる」という主張にもつながってしまい、もはやリベラリズムの理論として成り立たなくなる。

 同時に、キムリッカは自分の主張はマイケル・サンデルなどの共同体論者(コミュニタリアン)の主張とは異なるものだとも論じる。キムリッカによると、コミュニタリアンたちは「人が自らの抱いている諸目的を修正する自由を持つことの重要性に関する自由主義の見解を拒否する」(p.136)。また、コミュニタリアンたちが求めるような「共通善の政治」は、民族(エスニシティ)といった単位に適用することはできない。民族内で言語と歴史を共有していたとしても、みんながみんな価値観や生活様式を共有しているわけではない、人それぞれに異なった人生の目標がある。コミュニタリアンたちは「マイノリティにはマイノリティの文化や価値観があるのだし、そこの成員たちの自由が侵害されたりしていてもマジョリティは口出すべきではない」といった主張を安易に行うが、それは間違っているのだ。

 ……ここら辺に限らず、本書では、「自己の価値観(善の構想)を修正する自由」がたびたび強調される。この点は、最近わたしがよく読んでいるロナルド・ドゥオーキンの著作でも、言論の自由の文脈などでかなり重要視されているものだ。リベラリズムと言えば「人々の価値観の自由や多様性を尊重する」ものとだけ理解されることも多いが、同時に「人々が自らの価値観を疑い修正する自由(と機会)」も保証しようとするものであることを失念してはいけないのだろう。

 

 第6章「正義とマイノリティの権利」の結論部分では、「現状維持はそれだけでマジョリティにとって有利でマイノリティにとって不利である(からマイノリティに対するなんらかの積極的な措置が必要だ)」みたいな「特権理論」にも通じる問題意識が、穏当に表現されている。

 

民族的マイノリティのためのこれらの集団別権利は、個人権と政治的権限を割り当てる際に個人の集団帰属に基づいて差異を設けるので、一見したところ差別的に見えるかもしれないが、実は、平等に関する自由主義的原理と矛盾するものではない。実際、これらの権利は、ロールズやドゥオーキンによって擁護されている見解に立てば必要となるのである。彼らの見解によれば、ある者の被っている不利益が、自らが被るに相応しくないもの、ないし「道徳的に恣意的な」ものの場合、それも特に、その不利益が「深くて、広範で、出生の時から存在している」(…)場合には、正義はその不利益の除去または埋め合わせを要求する。ところが、集団別権利が存在しないとしたら、多数派文化の成員の方は、自分自身の言語と文化の中で生活し労働できることを当然とみなしているのに、マイノリティ文化の成員は、それと同じことができるわけではないことになってしまうだろう。自由主義者は、このことよりも人種と階級における不平等の方に頭を悩ませるのが通常であるが、これはそれと全く同様に深刻で道徳的に恣意的な不利益と見ることができる。

 

(p.189 - 190)

 

 また、8章では「政治的リベラリズム」と「包括的リベラリズム」の区別について論じられているが、キムリッカの説明はこのトピックについてこれまで読んだどんなものよりもわかりやすかった。

 

ロールズは、自らの「政治的自由主義」をジョン・スチュアート・ミルの「包括的自由主義」から区別している。ミルは、単に政治の領域だけでなく生の全領域において、人々には、受け継がれてきた社会的諸慣習の価値について評価を下すことが可能であるべきだ、と強調した。人々は、単にそれが慣習だからとの理由で社会的慣習に従うのではなく、それが忠誠に値する場合のみに従うべきである。各人は、こうした慣習が「自分自身の状況や性格に当てはめるのが妥当」なものかどうかを、自分で決定しなければならない(…)。人々が社会的諸慣習に疑問を呈したりそれらを修正したりする権利は、政治的領域に限って主張されたわけではなかった。実際、ミルが大いに気にかけていたのは、人々が日常の私的生活において、世間一般の趨勢や社会的慣習にやみくもに従ってしまうのはどういうわけなのか、ということであった。したがって、ミルの自由主義が基礎を置いていたのは、人間の活動全般に適用され、また「われわれの思考や行動を全体として指導する」ものとされる、合理的反省という理想である(…)。

ロールズは、自律というものを人間の思考や活動を全般的に規律する原理として捉えるミルの考え方は多くの人々に受け入れられないのではないか、と危惧している。しかしながらそのような人々でも、彼の考えでは、自律というものが政治の文脈に限定され、自らの非公共的アイデンティティに対してはそれと全く異なった見方をすることも可能ならば、自律の概念を受け入れることができるのである。人々は「包括的な道徳的理想としてしばしば自由主義と結びつけられているものーーたとえば自律と個性という理想ーーを、自らの生の中の政治以外の部分においては基本的価値として受容していなくても」彼の政治的構想を受け入れることができるのである(…)。

(…中略…)

しかし、これは首尾一貫した立場であろうか。人々が、かりに一般的なレベルでは自律の理想を受け入れていないとしたら、それにもかかわらず、なぜ、それよりも限定的な政治の文脈ではこの理想を受け入れるのだろうか。これを説明するのが問題である。かりに、ある宗教的共同体の成員が、自分たちの抱いている宗教上の諸目的を人格構成的なものと見なし、その結果、自分たちにはこの諸目的から距離をとってそれについて評価を下す能力はない、と考えているとすれば、なぜ彼らは自分たちには実際にその能力がある(それどころか、その能力を行使することが「最高位の利益」である)という前提に立った、人格に関する政治的構想を受け入れるのであろうか。

(…中略…)

しかし、人格に関するロールズの政治的構想を受け入れようとすれば、非自由主義的マイノリティが犠牲になってしまうのである。すなわち、この構想を受け入れるとーー集団内部の諸個人が善に関する自らの考え方を修正しようとすることに対して、その権利を制限するーー対内的制約の制度は何であろうと排除されることになるのである。たとえば、この構想からは、ある宗教的マイノリティが背教や改宗を禁止したり、子供たちが他の生き方について学ぶのを妨げたりすることは認められない。このマイノリティは、このような市民的自由を有害なものと見なしているかもしれない。しかし、もし彼らが、人々にとって善に関する考え方を形成したり修正したりする能力を行使することは最高位の利益である、という想定を、政治的議論という目的のために受け入れてしまうと、彼らは、改宗や背教を許すことが有害だという自分たちの信念を表明する手だてを失うことになるのである。

 

(p. 238 - 240)

 

 では自由主義者反自由主義的な集団に対してどうすればいいかというと、自由主義を「押し付ける」ことはできないし反自由主義的な集団との共存にも努めなければいけないが、反自由主義的な統治が不正義であることには変わりないのだから、自由主義者たちはそれに対して批判の声を上げる権利と義務を持つ(また、押し付けるのではなく「誘因を提供する」などの方法で反自由主義的な集団を自由主義に引き寄せることも認められる)。これは、反自由主義的な外国に対しても、自国内の反自由主義的なマイノリティに対しても同様だ。

 

 なお、第9章では、マイノリティが自分たちの権利や独立を主張することで「共通のシティズンシップ」が破壊されて社会の連帯を破壊するのではないか、という昨今のアイデンティ・ポリティクス批判にも連なる問題が取り上げられている。とはいえ、キムリッカはこの懸念に多少の正当性を認めながらも、以下のように述べている。

 

しかし、私の信ずるところでは、この問題領域での危惧はしばしば大げさに語られすぎている。移民や不利な立場に置かれた集団によるエスニック文化権や特別代表権の要求は、何よりもまず参入への要求であり、主流社会に完全に帰属することへの要求なのである。これを安定性や連帯に対する脅威だとみるのは説得力に欠けており、また、これらの集団に対する無知や不寛容を根底に持ち、それを反映したものであることが少なくない。

 

(p.289)

 

 なお、第7章「マイノリティの発言権の保証」では、いまだに議論が進行中のアファーマティブ・アクションの問題も取り上げられている。キムリッカは、マイノリティの発言権をなんらかの形で保証する必要性を認めつつ、あるマイノリティの「代表者」がほんとうにそのマイノリティ集団の利益や意見を公平に代表できるとは限らない(女性議員が女性全体の利益を代表するとは限らない、など)といった点を詳しく指摘している。

*1:多文化主義のゆくえ』についてはこちらの記事内で言及している。

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

davitrice.hatenadiary.jp