道徳的動物日記

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学問の自由と倫理的個人主義(読書メモ:『自由の法』①)

 

 

 

 家庭の事情(飼い始めた猫の夜泣きがひどくて睡眠に支障が出ているなど)のために執筆時間はもちろんのこと読書に割ける時間もかなり目減りしている状況なのだが、今日はナントカ早起きできたので都立図書館から取り寄せたロナルド・ドゥオーキンの著書『自由の法 米国憲法の道徳的解釈』の第11章「なぜ学問の自由なのか」を読むことができた。

 この章が書かれたのは1995年6月であるが、扱われている問題……大学の授業などで「感受性の欠如した」教授たちがセンシティブなトピックを扱ったためにマイノリティの学生から批判や抗議をされるという現象や、保守派ではなくリベラル派が学問の自由の制限や検閲を主張するという状況……は実に現代的である。繊細な感受性や侮辱に対する過剰反応が学問(と教育)の自由に相反するという問題は『傷つきやすいアメリカの大学生たち』の中心テーマであるし、学問の自由や「客観的真理」の批判者として「ポスト・モダン主義者」が登場するのは『「社会正義」はいつも正しい』を思い出させる。そもそも「ポリティカル・コレクトネス」という単語が登場したのは1990年代からであるし、まあ当時からそんな感じだったのだろう。

 

「学問の自由」といえばジョン・スチュアート・ミルの『自由論』に基づきながら「異端の意見や誤りだと大多数から思われている意見も自由に主張して議論できる環境が守られていることが大切だ」と主張されることが多いが、ドゥオーキンは、大学が(個々の学者たちの)研究に投入できる資源は有限であることから、「真理を追求する」という目的だけを重視するなら、明らかに誤っていたり瑣末であったりする研究を制限したり止めさせたりすことのが認められしまうという問題を指摘する(これに対して「長期的に見ればそのような措置は真理の追求にとっても有害になるはずだ」という反論があるが、長期的に見ても実際に有害になるかどうかはわからない、としてドゥオーキンはこの反論を退ける)。

 ドゥオーキンは、「真理の追求」に基づくミル的な学問の自由論を「手段的な擁護論」と称したうえで、「この擁護論を、何かもっと奥深く、偶然に左右されにくくて確実性が高く、そして人格にもっと関わるものへと結びつけなければならない」(p.326)と論じる(「倫理的正当化」)。

 また、ドゥオーキンが探求しているのは、「大学が学者を新しく雇用するときに、候補者の研究の内容に基づいて判断する」ことは認められるが「すでに雇用されている学者の研究の内容に大学側が介入する」ことは認められないという意味での「学問の自由」を擁護するものは何であるか、ということだ。

 ここで彼が持ち出すのが、「独立性の文化」である。

 

……それ[学問の自由の侵害]は独立性の文化を弱体化させ、この文化の防衛している理想を価値の低いものにしてしまうからである。

ここで言っている理想とは、倫理的個人主義のことである。この理想はいくつかの要素から構成されているが、その一つとして主張されているのは、我々一人一人には、自らの生が可能な限りうまく行くようにする責任があり、そして、この責任は本人のものだということである。この後半部分は、生がうまく行くというのはいかなることであるのかは、本人が信念として感じ取るべき問題であって、それについては、我々各人が自分自身で決断しなければならないという意味である。倫理的個人主義は、政治におけるリベラルな制度や態度の背後にあって、それらを支えている発想である。それが支えているのは、リベラルな観念の中核的部分であって、そこには言論の自由と学問の自由がどちらも含まれており、しかもこれらは、単に学問上の発見を生み出すのに適した賢明な環境としてだけでなく、個人の信念を最優先する態度を奨励し、それを防御するものとしても位置づけられているのである。

 

(p.327)

 

……我々の研究教育機関においては、教授、学生、そして職員が一人一人、各人の理解のままに真理を発見して伝えることに打ち込んでいるが、なぜ我々はこのような制度を持つべきなのだろうか。

倫理的個人主義は、自らが隆盛するための環境として、特定の文化ーー独立性の文化ーーを必要としている。その敵は、正反対の文化ーー同調性の文化、ホメイニのイランの文化、トルキマーダのスペインの文化、そして、ジョー・マッカーシーアメリカの文化ーーであり、そこでは、真理は個人ごとに独立した確信を得ることによって採取されるのではなく、一枚岩の伝統や聖職者の命令や軍事委員会や過半数の票の中に埋め込まれており、その真理に反対することは反逆罪となる。この全体主義的認識論ーーそれが何であるのかを気味が悪いほどはっきりと示したのは、オーウェルの独裁者の行動であり、彼は、拷問を行って、その犠牲者に対して2足す2が5であると信じさせることについ成功したのであるーーは、専制支配の持つ特徴のうちで最も恐ろしいものである。

リベラルな公教育や、言論、良心、宗教、そして学問の自由は、そのすべてが、我々の社会が独立性の文化を支え、同調性の文化に対してそれを防御している仕組みの一部を成している。中でも、学問の自由は特殊な役割を果たしている。なぜなら、教育制度はこの努力の核心を成しているからである。それが核心を成す理由は、第一に、それが、全体主義体制において尽く実現されてきたように、非常に容易に同調性の推進機関と化す可能性があるからであり、第二に、それが、個人が自らの信念に基づいて生を送るのを重要な仕方で奨励し、そのための重要な技を与えることができるからである。集団が真理とみなすものではなく本人が個人として真理とみなすものに対して忠実であるということは、重要で奥深いことであり、そのことを学び取るというのが、リベラルな社会における教育の主眼とするところの一部なのである。学問の自由には、象徴的な意味における重要性もある。なぜなら、自由な研究教育機関では倫理的個人主義の手本と価値が歴然と示されているからである。自らの理解のままに真理を発見し、語り、そして教えるのが専門家としての責任であるということが、これほど明々白々になっている職業は、他には一つもない。学者はまさにそのために存在するのであり、またそのためだけに存在するのである。独立性の文化は、「それ自体のために」学ぶことを貴重なことと考える。なぜなら、そのような学び方は、まさにそのような学び方であるがゆえに、独立性の文化のためにもなるからである。

 

(p.329 - 330)

 

 ただし、学問の自由が重要な価値だとしても、「それは多くの価値の中の一つであるにすぎない」(p.332)ともドゥオーキンは説く。また、教授の発言や研究内容が一部の学生に対する「侮辱」となるようなとき学問の自由はどれくらい擁護できるか、という問題もある。……ここでドゥオーキンが論じるのは、侮辱が「意図的」なものであるかどうかによって判断を分けるべきだろう、といった主張だ(昨今のマイクロアグレッション論はこのような主張に対抗してより強固に学問/言論の自由を制限するためのものという意味合いもあるのだろう)。

 また、ドゥオーキンは、学生を侮辱から保護すべきために学問の自由を制限すべきだという主張を、「政策に基づいた議論」と「原理に基づいた議論」に区別する。「政策に基づいた議論」とは、「現在の社会に実際に存在する問題(性差別や人種差別)を軽減させるという目的のためには当面は学問の自由を制限することも認められる」といったものであり、これに対してドゥオーキンは「検閲は問題を解決するどころかより悪化させる危険性が高い」という反論を行なっている。

「原理に基づいた議論」は、侮辱から守られるような「権利」が学生にはあって、その権利は学問の自由と競合したり学問の自由を凌駕したりするようなものである、という主張だ。それに対するドゥオーキンの反論は以下の通り。

 

……それ[原理に基づいた議論]は、何らかの表現ないし表現物の提示が、誰かを困惑させるものと思われたり、その人に対する他者からの評価を低下させるものと思われたり、あるいはその人の自尊心を低下させるものと思われたりしても致し方ないかもしれないものならば、そのような表現ないし表現物の提示は、何であれ禁止するよう要求しているのである。人々にこの権利があるという考え方は、ばかげたものである。もちろん、好意を持たれたり尊敬を受けたりするに値する人の誰に対しても、すべての人がそのような反応をするとしたら、それは結構なことであろう。しかし、もしも我々が、自分が他人から尊敬を受ける権利といったものや、ある言論のせいで自分が尊敬を受ける可能性が小さくなるときに、その言論の影響を蒙らない権利といったものを承認したら、我々は必ずや、独立性の文化の中核にある諸々の理想を全部転覆させてしまうことになるし、この文化が防御している倫理的個人主義も否定してしまうことになるのである。いかなる社会においても常に、そこに属している人の誰かは、そこで広く受け入れられている意見や偏見によって傷つくであろう。アメリカでは、毎日どこかの地域社会で、誰かがひどい侮辱を受けている。そうした人とは、創造説論者や宗教上の原理主義者、同性愛は非常に罪深いとか、性交渉は夫婦間でのみ正当であるとか信じている人、神は手術やペニシリンを禁止しているとか、神は聖戦を命じているとか信じている人、今世紀の偉大な芸術家はノーマン・ロックウェルだけだとか、鑑定書は感動的なものだとか、スーザ作曲の行進曲は偉大な音楽だとか信じている人、背が低い人とか太っている人とか単に動作が全くのろいだけの人とかである。世界の民主主義国で、まともな国ならばどこにおいても、ありとあらゆる異なった信念や体型や嗜好を持った人々が、あらゆる質の言論や出版によって、笑い物にされたとか侮辱にされたとか感じており、彼らがそう感じるのは、無理もないことである。

独立性の文化は、このような状況が実現することを保障しているとさえ言ってよいほどである。たしかに、我々は互いに品位のある態度を取るべきであるし、偏狭な態度は軽蔑に値する。しかし、我々の誠実に抱いている見解が、誰かに対して侮蔑的だとされ、その判断が、その他者本人または第三者の目から見たものであるとき、もしも我々が、自分がその見解を伝えるときは必ずその人の権利を侵害するのだ、と本当に考えるようになったとしたら、我々は、誠実に生きるとはいかなることかに関する自分自身の理解を、犠牲にしてしまったことになるのである。我々は、人種差別主義や性差別主義と闘うための武器としては、これとは別の、これほど自殺的ではないものを、見出さなければならない。我々は、いつもと同じように、抑圧ではなく自由を信頼しなければならない。

 

(p.339 - 340)