道徳的動物日記

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言論の自由の「手段的」擁護論と「構成的」擁護論(読書メモ:『自由の法』②)

 

 

 

 ほんとはちゃんとした記事にしたかったけれど本日中に図書館に返却する必要があり、家庭の事情のために早朝には家を出発する必要があるので、写経で済ませます。

 

憲法に関わる法律家や学者が、言論および出版の自由条項を正当化する論拠として提案してきたものには、多数の異なったものがある。しかしながら、その大部分は、主要な二つの集合のいずれかに分類できる。その第一は、言論の自由手段として重要なものとみなしている。すなわち、それが重要なのは、人に何か内在的な権利として、自らの欲することを述べる道徳的権利があるからではなく、人がそうするのを認めると、我々の中のそれ以外の人々にとってよい結果がもたらされると思われるからである。自由な言論が重要なのは、次のような理由からだと言われている。すなわちその理由とは、たとえば、ホウムズがエイブラムズ判決の反対意見で宣言したように、政治に関する議論が何ら禁じられることなく自由に行われるならば、政治過程において真実の発見や誤りの除去がなされやすくなったり、悪い政策ではなくよい政策がもたらされやすくなったりするからだと言われているし、あるいはまた、マディソンが強調したように、自由な言論が人民の自己支配能力を保護するからだとも言われているし、あるいは、もっと常識的に、政府が批判を罰する権力を持っていなければら、腐敗に陥りにくくなるかだとも言われている。これらの多様な手段主義的見解によれば、アメリカが言論の自由を特に重要な価値として受容しているのは、その根底において、ある戦略をアメリカが国全体として支持しているから、すなわち我々が、自由な言論は長期的に見て、我々に対して害悪よりも利益を多くもたらすであろうということに、集団として賭けているからである。

言論の自由を正当化する2種類目の論拠とは、次のような考えである。すなわち言論の自由に価値があるのは、単にそれがもたらす帰結のためではなく、政府が、判断能力を欠いたものは別として、その社会に属するすべての大人を責任ある道徳上の主体として扱うことが、正義に適った政治社会の本質的で「構成的」な特徴だからだ、というものである。この要請には、二つの側面がある。第一に、道徳上の責任を持った人は、人生や政治において何が善で何が開くかについて、また正義や信仰の問題において何が正しくて何が誤っているかについては、自分自身で決断すると主張する。人々がある種の意見に耳を傾けることについて、政府が、もしもそれを認めると人々が危険な信条または人にとって不快な信条を吹き込まれることになるかもしれないので、それを安心してみていることはできないと公式に述べるならば、そのとき政府は市民を侮辱し、彼らの道徳上の責任を否定しているのである。我々が責任ある道徳うえの主体であるかぎり、ある意見に耳を傾けたり、それについて考えをめぐらせたりするのに我々が相応しくないという理由で、それを我々に聞かせることを差し控える権利は、誰にもーー公職者にも多数者にもーーない。我々が個人として自らの尊厳を保持するのは、唯一こう主張することによってのみである。

多くの人にとっての道徳上の責任には、もう一つの、もっと能動的な側面もあある。それは、単に自分自身で信条を形成するというだけの責任ではなく、それを他人に対して表明するという責任であり、しかもそれは、他人に対する尊重と配慮から、また真実が知られ、正義が実現し、善が確保されるようにとの強烈な願望から、自らの信条を表明するという責任である。政府が人々の一部について、彼らの抱いている心情から判断すると彼らは社会の参加者として相応しくないとの理由で、彼らからこの責任を果たす機会を奪うならば、そのとき政府は道徳上の責任のこの側面を無視し、それを否定しているのである。政府が人に対して政治的支配を行い、その人に政治的服従を要求するかぎり、その人が検討したいとか広めたいとか思っている意見がどれほど憎むべきものであろうと、政府はその人に対して、道徳上の責任の持つこの二つの属性を、どちらも否定してはならないのであり、それは、政府が彼に対して平等な投票権を否定してはならないのと同じことである。もしも政府がこの要請に違反したならば、政府は、その人に対して正当な権力を主張するための実質的根拠を喪失するのである。政府が何らかの社会的態度ないし嗜好の表明を禁止したときと、政治的性格が明白な言論を検閲したときとで、生じる害悪の重大性に変わりはない。市民は、政治に参加する権利を持っているが、道徳上の風土ないし美的な風土の形成に貢献する権利も、それと同じだけ持っているのである。

 

(p.258 - 260)