道徳的動物日記

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読書メモ:『ジェンダー格差 実証経済学は何を語るか』

 

 

ジェンダー格差」と「実証経済学」の組み合わせに惹かれたこと、そして中公新書というレーベルの信頼度から、発売日直後に購入。

 他にも読んでいる本はあるんだけれど発売直後の本は早いとこ書評を書いたほうが宣伝にもなるものなので、読み終わった直後であるが簡単に感想を書いておく。

 

 本書はまさに副題通りの「経済学」の本であり、著者も序章で「私はジェンダーの専門家ではありません」と明言している(p.ⅳ)。また、経済学は価値判断を下す学問ではなく、あくまで現実を分析して事実を明らかにするためのツールであるということが本書では繰り返し指摘されている。これらの点は、本書の長所であると同時に弱点にもなっているように思えた。

 

 本書の長所としては、近年の人文学的なジェンダー論者やフェミニストが「資本主義的」だとか「ネオリベ」だとかのレッテルを貼って否定しがちな経済学の観点を(おそらくそういう批判を意識することなく)明け透けに用いることで、現代の先進国ではむしろ忘れられがちな、ごく基本的なレベルでのジェンダー平等の重要性やフェミニズムの意義が伝わってくるということがある。

 たとえば昨今の人文系フェミニズムでは、(他の思想潮流と融合しながら)「キャリア・ウーマンになって“男並み”になれるということが真の女性解放だとは言えない」とか「そもそも“人は働かなければならない”という圧力から解放されることを目指すべきだ」といったような議論がなされがちだ。しかし、本書が示しているのは、女性が労働参加できることは家庭内交渉力を高めるなどして女性の意思決定権や自立性を保障するだけでなく、中絶される女児の数を減らしたり女性の生存確率を上げたり児童婚を防いだりするのにもつながるということだ。著者の専門分野のひとつが開発経済学であり研究対象の地域としているのは南アジアであるため、本書でもインドをはじめとして性差別的な文化・慣習が強く残っていたり途上国であったりする地域での研究事例がたびたび取り上げられる。読んでいる最中は「日本や欧米のような先進国とは状況が違い過ぎて、いまここで起こっている問題について考える手がかりにはならないなあ」とも思ったが、そもそも経済・労働面での最低限の性的平等が確立しないことには女性の生命そのものが脅かされるという事実を再確認することは有益であるだろう。

 また、女性の収入やスキルと結婚の関係という話題でゲイリー・ベッカーによる「結婚市場」理論が紹介されたり、リプロダクティブ・ライツに関連してスティーヴン・D・レヴィットとスティーヴン・J・ダブナーの著書『ヤバい経済学』で有名な「望まない出産の中絶を認めることで犯罪件数が減った」という事例が取り上げられたりするあたりも、人文学ではなく経済学によってジェンダーを扱った本ならではだと思った。ベッカーの理論がミシェル・フーコーに批判されていることは有名だし、レヴィットたちの「中絶合法化→犯罪率低下」理論もあまりにドギツくて取り上げたがらない著者のほうが多そうだ。なお、レヴィットたちの理論には当時から批判があったようだが、2020年に検証を行ったところ当初の主張が裏付けられたそうだ。

 

 さて、レヴィットたちに関連して、以下のような記述があった。

 

レヴィットたちは因果関係を裏づけるエビデンスを示しているだけで、何が倫理的に正しいか、どうあるべきかという判断をしていません。

中絶は認められるべきか、堕胎は殺人とみなされるべきか、人によって意見は異なるでしょう。ただ中絶を望む女性たちが一〇代である、貧しい、シングルマザーとなる可能性が高いといった特徴をもつことは各種データから明らかです。そのような環境に生まれた子どもの人生に、困難が伴うだろうということは想像に難くないでしょう。レヴィットたちが示した実証結果は、もっともらしいといわざるをえません。

(…中略…)

中絶合法化によって犯罪率の低下がもたらされたという結論の理由、つまり犯罪者予備軍が生まれなかったから、が、衝撃的であるため、嫌悪感を抱く気持ちもわからないではありません。しかし、これらの直感的にも納得できるエビデンスを提示されて、それでも反対するようであれば、中絶が禁止されることで不利益を被る人たちへの責任ある対応が必要でしょう。中絶を望む女性たちが中絶できないことに対して、またそのことによって生まれる子どもたちに対しても、満足のできる政策を提示できなくては、中絶禁止支持者は無責任といわれても仕方がないはずです。

 

(p.154 - 155)

 

 先述したように本書では「経済学は規範ではなく事実を判断するための学問だ」といったことが強調されているのだが、このあたりの文章には、明らかに著者の規範的な判断…妊娠中絶は禁止されるべきでない、それでも中絶を禁止するなら被害を受ける人には相応の補償をするべきだ…が含まれているように思える。この本に限らないのだが、一部の新書本など(そのなかでも経済学や社会科学者の本)では、「べき論」そのものやそれにスレスレの議論をしているのに最終的に「〜すべきだ」と主張することだけはしないという「逃げ」の感じられる文章が含まれていることが多い。編集者の指示か学者たちに特有の流儀かは知らないけれど、こういうのはけっこう苦手だ。

「べき論」と言えば、本書の8章では少子化の問題も取り上げられるのだが、この章の記述は「少子化は解決されるべき問題だ」ということが暗黙の前提になっているように思えた。また、そもそも本書の本題である経済・労働面でのジェンダー格差についても、日本では専業主婦業願望を持っている(保守的な)女性が多くいるという事実には(序章などで触れられているとはいえ)もっと踏み込んでほしかったし、先述したようにフェミニズムジェンダー論の文脈でも「そもそも経済や労働の領域において女性が男性と対等に活躍できるようになることが女性を本当に解放するとはいえない」という主張がなされるようになったことも多少は意識してほしかったもしれない。

 結局のところ「ジェンダー格差は改善されるべきだ(また、少子化は改善されるべきだ)」という判断自体は本書の前提となっているのだから、一般論というレベルでもいいからあるべき将来の社会像やジェンダー格差解消を目指す理由などの目標をまずはっきりさせたうえで、事実に関する知見をどんどん紹介していくという構成にしてくれたほうがよかったように思える。

 

 その他の感想は箇条書き。

 

・序文の時点で「エビデンス」や「因果推論」などの経済学(社会科学)的な思考の基本、また「ランダム化比較試験」や「自然実験」などの具体的な手法が紹介されるため、「経済学入門」という側面もある。

 

・本書における「エンパワーメント」の定義は以下の通り。

 

…エンパワーメントとは、自分の人生をコントロールできることと広く理解されています。女性が、進路、就職、結婚、出産など、人生の大きな分岐点だけでなく、日常生活のあらゆることに対して、自由に決められ、自己実現を感じられることが、エンパワーメントが実現した状態といえるでしょう。

(p.43)

 

 また、「あとがき」でも以下のように書かれている。

 

女性だろうが男性だろうが、自分の能力を十分に活かせ、真に活躍できる社会を建設していくことが、いまの私たちの大きな責任でしょう。

(p.210)

 

 これらの定義や主張の背景には「リベラル・フェミニズム」的な考え方(というかごく基本的なフェミニズム)があるだろうし、その考え方にはわたしも全く同意するが、「自己実現」や「活躍」を重視するのは「ネオリベ」だという批判が頭をちらつくところだ。

 

・日本のジェンダー格差や少子化の元凶として強調されるのが「「女性は家、男性は外」といったジェンダー規範」(p.209)である。これ自体は「そりゃそうだ」という感じでたいして目新しくはないが、本書では「男性は外で稼ぐべき」「女性は家事や育児に専念すべきだ」といったレベルの主張すら日本には未だ根強く残っていることが示されており、改めて数字を見るとギョッとする。

 

・女性のSTEM進学率の低さについては「能力の性差はない(だからステレオタイプやアンコンシャス・バイアスが原因だ)」という論調になっているが、この話題については「能力」ではなく「志向」の性差(対モノ志向/対ヒト志向)のほうがよく取り上げられているはずなので、そこが無視されている点はかなり気になった。……それはそれとして、本書でも取り上げられているロールモデル効果などを考慮すると、政治についても教育についてもある程度までのクォータ制アファーマティブ・アクションが認められるべきだと思うけど。

 

・7章ではネットで人気の「一夫多妻制は出生率を上昇させる」論が取り上げられており、人類学者による「競争仮説」(出生率上昇)と人口学者による「代替仮説」(出生率下降)なども紹介されているが、どっちつかずな感じ。

 

・同じくネットで人気な「高学歴女性は結婚や出産をしなくなる」論については、東アジアや南欧では学歴と結婚や出産は相反するがジェンダー平等が進んでいる北欧では大卒の方が結婚率や子どものいる確率が高く、アメリカはその中間だとされている。ジェンダー規範が弱くて、離婚した女性が労働市場に復帰しやすかったりシングルマザーの支援が充実したりしている国の方が、高学歴の女性も出産しやすいそうだ。このトピックに関連する著者の見解はWeb上でも公開されている。……とはいえ、「ジェンダー規範」という仮定はなんだか万能に過ぎる気もするし、この件についてはいろいろと反論できる人もいそうだ。

 

www.ide.go.jp

 

・ネット民からは嫌われがちであり、専門家からも慎重な判断が必要だとされているジェンダー・ギャップ指数については*1、(政治・経済の項目は)「日本のような先進国のジェンダー格差を表す指標としては、多くの人びとの感覚に近い」(p.12)と肯定的に評価されている。これについてはわたしも同意できる。