道徳的動物日記

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ジェンダー論が男性を救わない理由

 

Lonely at the Top: The High Cost of Men's Success

Lonely at the Top: The High Cost of Men's Success

 

 思うところあって、トマス・ジョイナーの『Lonely at the Top: The High Cost of Men's Success(てっぺんで一人ぼっち:男性の成功の高い代償)』を数年ぶりに読み返している。

 2017年に、この本の内容を紹介する記事を書いた*1。そのしばらく後には、社会学者の平山亮による「男性が自殺するのは支配欲が原因」発言を批判した*2。そして2019年には「有害な男らしさ」概念がフェミニズムジェンダー論の文脈で流行するようになり、「有害な男らしさ」概念についての批判記事を書いたり、流行の発信源のひとつと思しきレイチェル・ギーザの『BOYS 男の子はなぜ「男らしく」育つか』を読んだりした*3

 ジョイナーにせよ、平山やギーザにせよ、「男性が直面している問題」であったり「"男らしさ"や、男性に特有な価値観や行動様式が本人たちに与える影響」という物事を取り上げている点では共通していると言えるだろう。

 しかし、ジョイナーと平山・ギーザとの間では、その議論の内容に大きな違いがある。ジョイナーの本では問題が生じる原因や構造について正確に分析されているし、提示されている解決策も妥当で実践可能なものだ。その一方で、平山の言説やギーザの本では問題が生じる原因や構造の分析がまるで的外れであり、解決策も美辞麗句で彩られているわりに曖昧で具体的に実践する方法がとんと見えてこないものとなっているのである。

 取り上げている問題は同じでも、ジョイナーと平山・ギーザとでは、問題への取り組み方がまったく異なっているのだ。そして、平山やギーザのような言説の問題は、それが「ジェンダー論」の典型的な枠組みから脱せていないことにある。

 世の中には「男性学」や「メンズリブ」について書かれた本が数多く存在するが、その大半もやはり「ジェンダー論」的な枠組みに従って書かれているために、的外れな分析と役に立たない解決策しか提示されていない。そして、わたしの見たところ、男性にとってジェンダー論が役に立たない理由は、ジェンダー論がフェミニズムイデオロギーに拘束され過ぎていることにある*4

 

 具体的に述べると、ジェンダー論は「原因の分析」と「問題設定」および「解決策の提示」のそれぞれにおいて、フェミニズムイデオロギーの影響を受けてしまっているのだ。一見すると男性による男性のための議論である「男性学」ですら、実際にはフェミニストたちの規範に従ったものとなっている。そのために、ジェンダー論は男性を救わないものとなっているのだ。

 

「原因の分析」に対するフェミニズムの影響:問題の"原因"はあらかじめ決まっており、それ以外の"原因"を分析することは許されない

 

 フェミニズム的な発想の大半は、社会構築主義や「反・本質主義」を前提としたものだ。そのため、男性と女性のそれぞれに特徴的な思考や行動や志向、「男らしさ」「女らしさ」などはすべて社会や文化によって構築されたものである、とされる。なので、男性たちの問題を引き起こしている男性ならではの価値観や行動パターンなどについては、社会という「外」から押し付けられたものであることを認識することで、そこから脱却して問題を解決することができる……という風に議論がすすむことになる。

 社会構築主義的な考え方と対になるのが、「男性と女性のそれぞれに特徴的な思考や行動や志向は、生まれた時点から備わっている生得的なものである」という考え方だ。この考え方は、進化心理学を代表とする心理学や、あるいは脳科学などの研究で示された証拠によって、大なり小なり裏付けられているだろう。

「男性と女性との違いはすべて生物学的に決定されており、社会や文化は何も影響をもたらさない」という主張であれば極端であり、間違っているだろう。だが、「男性と女性との違いはすべて社会や文化に決定されており、生得的な違いなど存在しない」という主張も同じように極端で間違っているはずだ。まともに本を読んできて、まともに人間を観察してきて、まともに物事を考えてきた人であれば、「男性と女性との違いには、生物学的な側面も社会構築的な側面もどちらも存在するな」と判断するはずである。だから、性別が関わる問題についてまともに考えようとしたら、「生物学的な原因と社会的な原因がどちらも存在する可能性がある」ということを前提としたうえで、より細かで具体的な問題における生物学的な原因と社会的な原因をそれぞれ分析しつつ、どちらの原因も考慮したうえでの解決策を検討する……という道筋になるはずなのだ。

 ところが、ジェンダー論の大半では、生物学的な要因はほとんど丸々無視されて、社会構築的な要因ばかりが取り上げられることになる。ギーザの『BOYS:男の子はなぜ「男らしく」育つか』では、「本当に"生まれつき"?―ジェンダーと性別の科学を考える」という章題で、わざわざ一章を割いて「生物学的な原因は存在しないと見なして、社会構築的な原因だけを分析する」という宣言がなされていたくらいだ。

 しかし、問題を解決しようと本気で思っているのであれば、問題の原因をあらかじめ指定することは、どう考えても悪手のはずである。もし問題の原因が指定されていないところに存在するとすれば、その原因を分析して扱うことができなくなり、有効な解決策を提示することも不可能になるからだ。

 ……逆に言えば、ギーザのようなフェミニストは、男性の問題を本気で解決する気はない、ということなのである。それよりも、社会構築的主義的で「非・本質主義」なフェミニズムイデオロギーを展開して披露することの方が重要なのであろう*5

 

「問題設定」および「解決策の提示」に対するフェミニズムの影響:男性は"強者"であり"加害者"であるから、手放しで救済の対象にしてはならない

 

 フェミニズムとは、社会構築主義や「非・本質主義」であるだけでなく、「家父長制」や「男性の特権」などの概念を前提とする考え方でもある。

 これらの概念は、男性を「強者/加害者/抑圧者/搾取者」などと位置付けて、女性を「弱者/被害者/被抑圧者/被搾取者」などと位置付ける。弱者や被害者であるということは、逆に言えば、悪いことをしていない無謬の存在であるということだ*6

 さらに、フェミニズムの理論に従えば、「男らしさ」や「女らしさ」なども、単なる社会構築物であるだけでなく、家父長制や男性の特権を強化するという目的のために作られたものであるとされる。

 すると、弱者である女性たちは、強者である男性たちから「女らしさ」を強制されている存在として扱われる。「女らしさ」は男性たちの利益のために作られたものであり、女性には不利益や抑圧をもたらすものとされる。だから、女性が「女らしさ」の束縛から解放されたり女性に特有の苦悩が解決されることは、手放しで肯定される。女性が不当に被らされている被害を解決して、不正で不平等な状態を正当で平等な状態にまで是正することだと見なされるからだ。

 しかし、「男らしさ」に悩む男性たちの問題を解決することは、手放しでは肯定されない。家父長制概念や特権概念に基づいて考えると、男性はけっきょく強者である以上、「男らしさ」も男性たちに利益をもたらすために作られたものだ。そのなかで「男らしさ」にマッチせずに悩む男性がいたとしても、不利益な「女らしさ」を強制されている女性たちの苦悩に比べれば、大した問題でないとされてしまう。

 そして、女性たちが被っているより深刻な問題を解決せずに男性たちの被っている問題を先に解決してしまうことは、現在の不正で不平等な状態を悪化させてしまうことであるので、認められない。だから、男性の問題は解決するにしても女性の問題とセットで同時に解決するか、あるいは先に女性の問題が解決するまで「順番待ち」するべきものであるとして扱われてしまうのだ。

 さらに、家父長制概念や特権概念は、男性にも「被害」や「苦悩」が発生することがあるという事実を認めることすらを原理的に拒否してしまう。たとえば、「男性の自殺率が高い」という事実はどう考えても男性側の「被害」の存在を示しているはずだが、平山は自殺の原因すらも「男性が支配の志向にこだわり続けてしまうことが原因だ」ということに帰着させて、男性側の「加害」の問題であると言い張った。

 平山ほど極端ではなくても、「男性は特権を持ちゲタを履かされている存在である以上は、男性が自らの被害や苦悩を訴えることは特権を自覚しない存在の甘えた言動であり、まずは女性の被害や苦悩に目を向けるべきだ」という言説はよく見かけるところである。

 

 そもそも、「家父長制」や「男性の特権」などという概念の妥当さや正確さ自体が、まず疑われるべきだろう。わたしとしては、これらの概念はかなりイデオロギー的なものであり、現実に起こっている問題を分析するうえではほぼ的外れなものであると思っている。

 さらに、仮にこれらの概念が妥当で正確なものであるとしても、個人としての男性が感じている被害や苦悩の問題を解決するという文脈では役に立たない。これらの概念が役に立つとすれば、「男性」という集団や属性としての責任を問い、「男性は強者であり加害者の立場であるからこそ、女性たちや社会に対してこれこれこういうことをしなければならない」という「べき論」や規範的な議論を論じようとしている場合であるだろう。

 しかし、被害感情や苦悩を抱いている個人に対して「べき論」を述べ立てたところで、問題の解決に寄与しないことは明白だ。そこで必要とされるのは、その個人の抱えている問題を解決するための実際的な議論であるからだ(とはいえ、ジェンダー論に限らず、ある場面において規範的な議論と実際的な議論のどちらが必要とされているか、ということはいともたやすく混同されがちであるのだが)。

 実のところ、女性の抱えている問題にすら、フェミニズムジェンダー論は大して役に立たない結論しか導き出せないことが多い。前述したように社会構築的な原因だけしか分析しないために問題の全体像を把握できないということもあり、社会制度やメディア・創作物における表現や家庭・学校での教育などの漠然とした話題に関する議論に終始して、個々人のレベルの問題に対応した解決策を考えることを怠ってしまいがちであるからだ。……とはいえ、女性にとっては、とりあえず問題を社会と男性の責任に帰することで「あなたは悪くない」と言ってもらえたり、性差別がない社会を達成するための展望を述べられて(実現可能性はともかく)エンパワメントしてもらえたりするといった、「気晴らし」としての効果はあるかもしれない。だが、男性にとっては、ジェンダー論は気晴らしにもなりはしないのだ。

 

 

 上述したようなジェンダー論の問題をふまえたうえでジョイナーの本を読み返すと、そのまっとうさが以前よりもよく理解できる。

 ジョイナーの議論の道筋をごく短くまとめてみよう。

 

 (1)解決すべき問題の設定:多くの男性は人生の後半になればなるほど強い苦悩を感じるようになり、自殺率も男性は女性より高い。これは問題である。

 

 (2)問題の原因の分析:(a)男性の苦悩や自殺の原因は、男性が女性に比べて、歳を取るにつれて孤独になりやすいことにある。

(b)男性が孤独になりやすい原因は、まず、男性は女性に比べて他人に対する関心が欠如しており地位や物質に執着しやすく自己防衛的である、という生得的な傾向にある。そして、ここに社会的な要因が加わって、多くの男性が他人との関係やコミュニケーションを維持する方法を学ばないまま成長してしまうことも、孤独をもたらす原因となっている。

 

(3)問題に対する解決策の提示:高齢になっても他人との関係やコミュニケーションを維持するための、具体的な生活習慣の提示など。

 

 重要なのは、ジョイナー自身が自殺に関する心理学的研究の第一人者であり、また彼自身の父親が自殺したという事情もあって、「男性の自殺」という問題を真剣に捉えていることだ。

 そのため、ジョイナーの議論はイデオロギーに左右されない。例えば、ジェンダー論なら(1)の問題設定の時点で揉めかねないところを、ごく素直に問題設定している。(2)についても、生物学的な原因と社会的な原因のどちらかにあらかじめ限定することなく、両方の原因を冷静に考慮している。そして、(3)では規範的な主張ではなく実際的な主張がなされている。「社会がこのように変えることで、男性の問題も解決される」などの大言壮語を吐かずに、個人としての男性たちがそれぞれに実践できる具体的なライフハックを提案していることは大切だ。

 

 男性の問題だとかジェンダーの問題だとかに関わらず、なんらかの「問題」を取り上げて、「問題」について分析して、「問題」に対する解決策を提示する、という議論をするのであれば、ふつうはジョイナーの本のようになるはずだろう。

 しかし、世の中の「問題」に関する様々な言説が、ふつうのものではなくなっている。イデオロギーだとか思想の流行とか学界や業界の力関係・人間関係に左右されてか、見当外れな分析と的外れな解決策に満ち満ちている状況にあるのだ。

 この状況に我々はどう立ち向かうべきかというと……批判的思考を学んで他人の行なっている議論の前提や立論について論理的に整理する能力を身に付けるとか、なるべく多くの本を読んで「うさんくさい議論」を嗅ぎ分ける嗅覚を鍛えるとか、それくらいしかないのかもしれない。

 

 

*1:

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

*3:

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*4:同じような主張をしている記事:

fuyu.hatenablog.com

*5:『BOYS:男の子はなぜ「男らしく」育つか』は、そのタイトルとは裏腹に、「男の子」の方を見て書かれた本ではないという印象が強かった。結局のところ、フェミニストのママ友に向けて書かれた本でしかなく、「男の子」はフェミニズム的なイデオロギーを展開するためのコマやダシとしてしか扱われていなかったのだ。

*6:マジョリティ女性vsマイノリティ女性やシスヘテロ女性vsレズビアン女性・トランスジェンダー女性という構造になると、女性も「無謬の弱者」であるとは限らなくなるし、現代のフェミニズムはこれらの問題についても意識的であることは事実であるのだが。