道徳的動物日記

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男性が自殺するのは「支配欲」が原因だって?

 

wezz-y.com

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 今日は、Wezzyというサイトに掲載された社会学者の平山亮のインタビューについて取り上げようと思う。タイトルからも察せる通り、男性が感じる社会的なプレッシャーや苦痛を問題として取り上げるタイプの「男性学」に対して平山は批判的なのであるが、インタビューを見ていると「男性学」への批判が行き過ぎている箇所や男性が感じるプレッシャー・苦痛についてあまりに無頓着で鈍感なのではないかと思わされる箇所が所々にある。引用しつつ反論したいと思う。

 

 とりあえず、私が最も問題に思ったのは、【2】の3ページ目に掲載された以下の箇所。

 

――(註:"男性学"学者の)田中俊之さんは『男がつらいよ』(KADOKAWA)の中で、日本人男性の自殺率の高さを取り上げ、日本の過剰労働を紐づけて「男の生きづらさ」だ、とまとめているように読めました。自殺するほど男は追い詰められているのだと言わんばかりです。

 

平山 男性の自殺率は、もともとは、男性が追い詰められたときに取る選択がなぜ自殺なのか? ということを問うためのデータだったはずです。例えば、男性が自殺に向かうのは、支配の志向を手放せないからだ、という説明があります。つまり、経済力や社会的地位によって他者を支配できなくなったとき、自分がコントロールできる最後の相手として選ぶのが自分自身である。自分自身を自分の自由にできることを示す究極の手段のひとつが、自殺なのだという説明です。つまり、自殺率のデータは、男性が支配の志向にこだわり続けてしまう問題を反省的に問うためのものであって、それを「生きづらさ」の指標にするのは適切とは思えません。過剰労働が心身を蝕む、という主張には賛成しますが、自殺率を「生きづらさ」の指標にすると、男性よりも自殺率の低い女性は、こんな性差別的な社会でも「生きづらく」ないということになります。田中さんもまさかそんなことは思っておられないでしょう。

 

――辛いから自殺に向かうんだと単純に説明する「男性学」がもてはやされる状況は、むしろ暴力的に見えます。もちろん、ある特定の男性の中には男性というジェンダーだけでなく、経済、障害、国籍、人種などさまざまな社会階層があって、それが深刻なダメージを生む可能性も重要な課題なので、そういう議論を、という話ならわかりますが。

 

平山 自分の言動を、社会による期待みたいな「外から来る何かのせい」にすぐに繋げるのは慎重になった方がいいです。男性学も本来は、自分のなかの何が原因なのか? っていう内省的な取り組みのはずだったのに、そこが省略されて構造に原因を求めるばかりで、かえって自分自身の志向を問い直す方向から外れてきている気がしますね。フェミニズム・女性学の姿勢を、私たち男性はもう一度真摯に学び直すべきですよね。男性は、フェミニズム言語化してきた「社会による『らしさ』のプレッシャー」についてだけを濫用してきたように思います。

 

 この箇所における平山とインタビュアーの議論に対する私の疑問点は以下の通り。

 

・「男性の自殺率は、もともとは、男性が追い詰められたときに取る選択がなぜ自殺なのか? ということを問うためのデータだったはず

 

 まず、この主張がよくわからない。素人考えだが、金銭や人員などの様々なコストをかけてまで自殺率についてのデータが集められるのは、「男性が追い詰められたときに取る選択がなぜ自殺なのか?」という(やや抽象的で何の役に立つのかよく分からない)問いを問うためというよりも、男性の自殺の原因を特定して対策を取り自殺率を減らす、という疫学的で実用的な目的のためであるように思える。

 なにより、あるデータがある特定の目的のために集められたものであるからといって、別の目的のためにそのデータを使用してはならない、ということはないはずだ。たとえば「女性はなぜストレスに対する耐性が低いか?」ということを問うために集められたデータがあったとして、そのデータを「女性はなぜ生きづらいか?」ということを問うために援用するのには何も問題がないように思える。

 

・「例えば、男性が自殺に向かうのは、支配の志向を手放せないからだ、という説明があります。つまり、経済力や社会的地位によって他者を支配できなくなったとき、自分がコントロールできる最後の相手として選ぶのが自分自身である。自分自身を自分の自由にできることを示す究極の手段のひとつが、自殺なのだという説明です

 

 この箇所には最大の疑問を抱いた(平山は「〜という説明がある」という主語が明確でない形でこの議論を挙げているが、少なくともインタビュー内ではこの議論に対する批判を加えておらず、男性の自殺率に関する他の説明を挙げている訳でもないので、平山自身がこの議論に対して賛同している、平山自身の主張である、と私は判断する)。

 …私は心理学や医学を専攻した訳ではないので自殺という問題について専門的な知見を持っている訳ではないが、少なくとも、自殺について研究している専門家によって書かれた本や記事を何冊か読んだことはある。たとえば、『なぜ人は自殺で死ぬか(Why People Die by Suicide)』や『頂上で一人っきり:男性の成功の高い代償(Lonely at the Top: The High Cost of Men's Success)』を著した心理学者トマス・ジョイナーの議論についてはこのブログでも紹介したことがある*1。また、「男性の自殺率はなぜ高いか」という問題について直接的に扱ったものとしては、ネット上ではGuardian誌の記事Independent誌の記事が無料で読める。…たとえばジョイナーの著書では、生物学的な性差と社会的なジェンダー規範やプレッシャーとの両方のために、男性は女性に比べて他人に自分の弱みをさらけ出して共感を求めるのが難しく負の感情を溜め込みやすいということ、また友人を維持したり他人と定期的にコミュニケーションを取り続けるのが苦手であり孤独になりやすいということ、そして負の感情を溜め込んだり孤独になることはアルコール依存症などの自己破壊的な行動に結び付きやすく自殺も引き起こしやすい、ということが論じられている。

 自身の父親を自殺で失ったジョイナーの著書は自殺という問題について真摯に向き合って書かれたものであったし、素人である私が読んだ限りでは特に理論が破綻していたり疑わしく感じられる箇所はなかったし、理論を裏付けるための研究結果やデータなども充分に引用されているように思えた。一方、平山は「男性が自殺に向かうのは、支配の志向を手放せないからだ」という「説明」を挙げているが、その「説明」がどのような根拠や理屈で正当化されるかは論じていない。もしかしたらインタビューの時間や紙面の都合のために掲載されていなかっただけで何かしらの根拠はあるのかもしれないが、あったとしてもその内容はかなり疑わしくて説得力のないものだろう、と私は推測する。本当に「支配の志向」なり「支配欲」なりが男性の自殺率の高さの原因なのだとしたら、フェミニズムジェンダー論に限らず自殺について扱う心理学や医学などでも取り上げられるはずだが、私が今まで読んできた限りでは自殺の原因を「支配欲」だと論じる主張は見たことがない。結局のところ、平山の主張は、男性の行動をなんでもかんでも「支配欲」で説明する結論ありきのフェミニズム理論の一種でしかないだろうと推測する*2

 実際、私も精神的に辛い時期には自殺という選択肢が頭によぎったこともあったが、当時の自分が感じたり考えていたことを思い返してみても、孤独や社会的プレッシャーを強調するジョイナーらの理論は自分の状況にも合致していた一方で、平山による「経済力や社会的地位によって他者を支配できなくなったとき、自分がコントロールできる最後の相手として選ぶのが自分自身である」とか「自分自身を自分の自由にできることを示す究極の手段のひとつ」とかいう説明は全くピンとこない。そもそも元から経済力も社会的地位がほとんどなかった私には支配できる相手もいなかったんだから、「他者を支配できなくなったとき」もクソもなかったという感じだ。…私個人の話は置いておいても、社会的地位・経済力の高い男性が他人に対して支配力を発揮できる立場にいたり実際に他人を支配しているということはあるかもしれないが、その力がなくなったら自殺を選択してしまうほどに「他人を支配すること」に依存している男性は仮にいるとしてもごくごく稀であるように思える。

 以上のことをふまえれば、「支配への志向」によって男性の自殺率の高さを説明する平山の議論を支持する理由は、私には全く見つからない。

 

 ・「つまり、自殺率のデータは、男性が支配の志向にこだわり続けてしまう問題を反省的に問うためのものであって、それを「生きづらさ」の指標にするのは適切とは思えません

 

 先述したように、あるデータは一つの目的にのみ使われるべきであり他の用途で使われるべきではない、なんてことはないだろう。そして、もし仮に男性の自殺の原因が「支配の志向にこだわり続けること」であっても、自殺を選択するほどにこだわり続けなければならなかったとしたらそんな生はかなり生きづらいだろうし、結局、男性の自殺率を持って男性の「生きづらさ」を論じることが不適切だということにはならないはずだ(この点に関しては、以下の方のツイートを参考にした)。

 

 

 

 ・「過剰労働が心身を蝕む、という主張には賛成しますが、自殺率を「生きづらさ」の指標にすると、男性よりも自殺率の低い女性は、こんな性差別的な社会でも「生きづらく」ないということになります。田中さんもまさかそんなことは思っておられないでしょう

 

 残念ながら、私は田中の著書を読んだことはない。しかし、田中へのインタビュー記事を読む限りでは、田中は「男の生きづらさ」について論じてはいても「女性は生きづらくない」という主張はしてないように思える。そもそも、わざわざ「生きづらさ」の指標を一つに絞る必要はないのだし、自殺率の他にも精神疾患の発症率なり日々のストレスについてのデータなりの様々な情報をまとめて用いればいいのであって、「生きづらさ」の指標の一つとして自殺率を用いることは女性の「生きづらさ」を無視することに直結しない。平山による田中への批判は非論理的な藁人形論法でしかないだろう。

 

 ・「――辛いから自殺に向かうんだと単純に説明する「男性学」がもてはやされる状況は、むしろ暴力的に見えます。もちろん、ある特定の男性の中には男性というジェンダーだけでなく、経済、障害、国籍、人種などさまざまな社会階層があって、それが深刻なダメージを生む可能性も重要な課題なので、そういう議論を、という話ならわかりますが

 

 これは平山ではなくインタビュアーの発言だが…私は日本の「男性学」の議論をフォローできている訳ではないが、一般論として、自殺についての議論の多くでは「経済」という要素は重要視されているだろう(例えば、アベノミクスや反緊縮政策を支持する議論では「自殺率が減少するから」という点が強調されることが多いし、自殺者を減らすには何よりも経済政策が大事だ、というのもよく言われるところだ)。また、インタビュアーの言い方には「貧乏人なり障害者なり外国人なり人種マイノリティなりの弱者がダメージを負ったり自殺をすることは深刻な問題だし懸念するが、マジョリティ男性がダメージを負ったり自殺をすることなんて大した問題じゃないしどうでもいい」みたいな気持ちがあるんじゃないかと邪推させられてしまう。

 

・「自分の言動を、社会による期待みたいな「外から来る何かのせい」にすぐに繋げるのは慎重になった方がいいです。男性学も本来は、自分のなかの何が原因なのか? っていう内省的な取り組みのはずだったのに、そこが省略されて構造に原因を求めるばかりで、かえって自分自身の志向を問い直す方向から外れてきている気がしますね。フェミニズム・女性学の姿勢を、私たち男性はもう一度真摯に学び直すべきですよね」 

 

 内省的な取り組みも大事だというのは正論であるし、社会構造についての議論と内面や個人レベルでの議論は並立して行われるべきではあるとは私も思う。もっとも、フェミニズムや女性学は男性学以上に「外から来る何かのせい」にして「構造に原因を求めるばかり」な学問であるように思えるが…。

 

  

・また、【2】の4ページ目に掲載された以下の議論もかなり気になった。

 

フェミニズムがやってきたことって、他の女性が抱える問題を「他人の問題」として切り離して見ず、「これは、この社会で女性として生きる者の問題だ」「だから私自身の問題なんだ」と、「わたくしのこと」として引き受けるところから始まったんですよね。そして、主観的と言われることを恐れず、当事者性ばりばりでやってきた。でも、男性が男性問題を考えるときって、「わたしとは違う男性が起こしてしまった問題を、彼のようになるはずのない男性のわたしが解決してあげる」という姿勢が目立ちます。そういう他人事の姿勢で、客観的に、俯瞰的に見ることができることが優れているという価値観から、男性は全然抜け出そうとしていないです

 

 男性学も、男性が抱える問題(自殺率の高さなど、受動的で被害的な側面の強い問題)については当事者的な問題意識を持って取り組んでいるだろう。一方、フェミニズムにおいても、女性が起こしてしまった問題(犯罪など、能動的で加害的な側面の強い問題)についてそれほど積極的に取り組んでいる印象はない。

 

 また、強姦や性犯罪などの「男性が引き起こす問題」について平山は「加害者を自分と切り離して怒るのではなく、自分が普段している行動と照らし合わせて考えてみてほしい」とか「男性が当事者性をもって性犯罪の問題を見ない限り、この問題は解決できません」とか述べたりしているが、なんとなく正論のように聞こえるような主張かもしれないが、では具体的にはどのようなことを実践すればいいのかと考えてみるとかなり不明瞭である。性犯罪やDVについて調べて知識を得て、何も問題ないと思っていた自分の行動や言動が実は相手の心や体を傷付ける暴力や犯罪であったかも知れないと反省して予防に努める、というのは全ての男性が実践すべきことだと思うし、私自身もできる限り実践しようとは努めている。…が、実際問題として私は誰かを強姦したこともしようと思ったこともないし、どこかである男が別の誰かを強姦したとしても、その犯人が自分と同じ男であるからというだけの理由で私が当事者性を持つことはかなり難しい。おそらく、レイプ・カルチャーについての議論が想定されているのだとは思うが…。

 

そういう他人事の姿勢で、客観的に、俯瞰的に見ることができることが優れているという価値観から、男性は全然抜け出そうとしていないです

 

 別の箇所でも平山は「男性が優位の社会では、何かを訴えるときの「合理性」や「論理性」の判断も男性がすることになる。「合理的」で「論理的」じゃないから訴えが通らないのではなく、男性にとって受け入れにくいものが「ちゃんとしていない」という評価を受けてしまう、という男性バイアスがかかります」などと書いているが、これはいわゆるトーン・ポリシングについての議論や、「理性/感情」の二項対立を云々するフェミニズムの議論を意識しているのだろう。しかし、このテの議論は社会運動界隈やフェミニズム界隈ではすっかり定着してクリシェとなっているくらいだし、「合理的や客観的とされている議論も実は既存の権力関係が反映された恣意的なものに過ぎないんだ、だから合理性や客観性なんて気にしなくていいんだ、根拠とか理屈がなくても感情や当事者性を持って好き勝手いいんだ」という発想につながるのがオチだし、私としてはいい加減に見飽きていてうんざりしている*3。客観性や論理性よりも当事者性を重視した結果、「男性が自殺するのは支配の志向のためだ」みたいな胡散臭い主張に辿り着くのだとしたら、やっぱり客観性や論理性の方が大事だし当事者性なんて役に立たないじゃんとしか思えない。

 

 

その他、インタビュー記事への全体的な印象は以下の通り。

 

・本題とはあまり関係ないが、「男らしさ/女らしさ」に関して触れている箇所にせよ「性欲」に関して触れている箇所にせよ、平山もインタビューも生物学的要因について一切検討しておらず典型的な社会構築論に沿って話をしており、なんだかなあ、という感じ。

 

・「男性学」に対する平山やインタビュアーの議論を簡単に要約すると「現在の社会では男性は社会構造的に権力者の立場にいて女性を抑圧しているのであり、男性と女性とは非対称な立場に立っているのだから、フェミニズムによる女性の生きづらさや女性の被害経験についての議論と男性学によるる男性の生きづらさや男性の被害経験についての議論は等価ではない、男性はまず自分が加害者の立場に立っているということを自覚するべきだ」というところだろうか。

 …これが「男性/女性」という性別間ではなくて「白人/黒人」などの人種間、または「日本人/在日」などの国籍間での非対称性や加害-被害関係についての議論であれば、私としてもまだ同意できる。 しかし、社会における性別間の権力構造というものは生物学的な性差や男女間のプライヴェートな関係や家庭関係などの要素が絡んでくるという点で人種間や国籍間の権力構造以上に複雑なものであるし、男性と女性が共犯関係となって現在の社会構造を維持しているという側面も大きいだろうし、現在の社会構造において不当に被害を受けている男性も存在すれば不当な利益を受けている女性も存在するだろう。

 それ以前に、平山やインタビュアーの議論は、現に(自殺を考えるほど)苦しんでいる男性に対して「お前は強者であり加害者であるんだから弱音を吐くことが許される立場じゃない、我慢しろ」と言っているようなものであり、何の解決や救いにもならないし、結局のところ男性に対する社会的プレッシャーを強化して自殺者を増やすだけの言説であると思う。

 とはいえ、私も、 Twitterなどで一部の論客が行っている「弱者男性」論などについては開き直りに過ぎない非論理的な暴論であると判断しているし、そこに含まれている露骨な女性差別には嫌悪感を抱いている。

 そもそもフェミニズムジェンダー論の主眼は女性と男女の双方を社会的プレッシャーから解放して自由で健康な生き方ができるようにすることにあるはずだろう。女性は女性として生きること特有の辛さや「女らしさ」のプレッシャーについて思う存分に論じて異議申し立てすればいいと思うし、男性は男性として生きること特有の辛さや「男らしさ」のプレッシャーについて思う存分に論じて異議申し立てすればいいと思うし、女性の異議申し立てと男性の異議申し立てとはゼロサムゲームの関係にあるのではなくて相互に強化する関係にあるはずだ。平山にせよ「弱者男性」論者にせよ、男女の異議申し立てをゼロサムゲーム的に捉えているために、不毛で非生産的な主張をする羽目になっているのだと思う。

 

追記:かなりキツい口調での批判記事を書いてしまったが、一般論として、口頭で行われるインタビューというものは著者による編集が自由にできないために論文等に比べて論理がおかしくなるのは仕方がない側面もあるし、またインタビュアーや編集担当者の力量なり思惑なりに左右されるという側面もあるものなので、このインタビュー記事のみに基づいて平山を強く批判するのは不適当であったかもしれない。

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*1:

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*2:先述したように、自殺を「支配欲」で説明する議論は、私は今回の平山のインタビュー以外で見聞したことがないし、おそらく珍しい議論であると思う。しかし、強姦などの性犯罪について男性の「支配欲」で説明するフェミニズムの議論は有名であり、そしてその議論はかなりの疑念や批判に晒されている。

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*3:私の意見としてはこれとかこれとか。また、以下の記事もこの論点に関係している

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