道徳的動物日記

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「有害な男らしさ」論のイデオロギー

 まとまった文章を書く気力がないので、最近の議論を見ていて思ったことをだらだらと。

 

 日本のインターネットでは「男のつらさ」とか「男性の孤独」というトピックは周期的に話題になるが、今月は特にそれらの話題についての議論が盛んだ。

 議論のきっかけは、noteで公開された「男性のつらさの構造」という記事であるようだ。

 

note.mu

 また、「男性のつらさ」という話題からは離れるが、今月は「有害な男らしさ」についての議論もちらほらと目にするようになった。例えば、例えば、月頭に公開された、池田小学校殺人事件の犯人である宅間守について分析した記事ははてブ数も500を超えており、かなり多くの人の目にとまったようだ。

 

gendai.ismedia.jp

 

「有害な男らしさ」の解決策としては「文化や教育を変化させたり、男性が自分の弱さや苦悩を素直に表明できる環境を作ることで、男性を有害な男らしさから解き放とう」という提案が主張されることが主であり、「男性のつらさ」については「孤独な男性同士が相互承認しあえるような空間を作ろう」という提案が主であるようだ。

 しかし、どちらの解決策も、耳触りはよいが具体性も現実味もない理想論でしかないように思える。

 

 後者の「男性のつらさ」論に対しても色々と思うことがあるのだが、それは次の記事で書くとして、今回は「有害な男らしさ」に関する議論について私が思っているところを示そう。

 

 まず、「有害な男らしさ」をめぐる議論はフェミニズムジェンダー論に基づいたものが大半であるようだ。そのため、「科学的知見(特に、生物学的・進化心理学的知見)を無視する」というフェミニズムジェンダー論にありがちな弱点を抱えてしまっている。

 

「有害な男らしさ(toxic masculinity)」という概念が注目されるようなったきっかけは、アメリカ心理学協会(APA)が"少年と男性に対する心理的治療のガイドライン"を公表したこと、それと関連して、剃刀ブランドの「ジレット」が"有害な男らしさ"を問題視するCMを公開したことにあるだろう。

 しかし、そもそもAPAが発表したガイドライン自体が、科学ではなくイデオロギーに基づくものと一部の心理学者からは批判されている。 保守系のWebメディアのQuilletteでは12人の心理学者たちによるAPAのガイドラインへの反論コメントをまとめた記事を掲載しているし、かのスティーブン・ピンカーによる反論コメントもニューヨークタイムスのオピニオン記事で引用された。ピンカーによると、"有害な男らしさ"についてのAPAのマニフェストは2つのドグマに支配されている。「生物学的性差は存在しない」と、「感情を制御することは悪であり、感情を解放することは善である」というドグマだ。

 

 上述した宅間守についての記事も、ピンカーの指摘しているドグマに嵌まっているように思える。

 たとえば記事の前半では「犯罪者の大半が男性である」ことが指摘されている。その指摘自体は事実であるが、重要なのは、「犯罪者の大半が男性である」という傾向は国や時代を問わずに普遍的なものであることだ。どんな社会やどんな文化であっても共通する傾向であるなら、その傾向が生じる原因を社会や文化に求めることはできない。実際、男性は生来的に女性よりも暴力的であること、その理由は進化心理学の観点から説明できるということ、は既に様々な場所で論じられている(ついでに言うと、暴力の加害者だけでなく被害者になる可能性も男性の方が女性よりもずっと高く、そのことについてもやはり進化心理学的な解説が多くの場所でなされている)。

 

 以下の段落では、該当の記事のイデオロギー性が如実に表れている。

 

 性暴力とは、加害者の抑えきれない生理的性衝動が引き起こす行動ではなく、他者を支配することへの心理的欲求行動です。誰かを貶めて自分の有力感を得たい、相手に強いという印象を与え、抑うつ気分を払拭したい、自分自身への怒りを発散させたい、そのために彼らは性器を武器として相手を力でコントロールするのです。

 

「性暴力は性的衝動ではなく支配欲に基づいて行われる」と言うのはフェミニズムの定番のイデオロギーだが、このイデオロギー生物学者たちによって何年も前から否定されている。しかし、フェミニストたちは生物学者たちの知見に取り合おうとせず、「支配欲」イデオロギー固執し続けているのだ。上記の記述も、犯罪の原因についての客觀的な分析というよりかは信仰告白のようなものである。

 

 ある男性が「有害な男らしさ」によって周りの女性や男性を傷付けていたり、自分自身を苦しめているとすれば、それはセラピーや医療などを通じて解決すべき問題だろう。ある集団内で「有害な男らしさ」が蔓延していて人々を苦しめているとすれば、それもなんらかの方法で対処して解決すべき問題だ。しかし、ある問題に対して適切な対処法を施して解決するためには、その問題の原因についての正確で客観的な理解が必要となる。しかし、「有害な男らしさ」論はフェミニズムジェンダー学の文脈から取り上げられてしまったために、理解や分析とイデオロギーが混ざってしまっているように思われる。