道徳的動物日記

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やっぱり恋愛には"能力"が必要だよね(読書メモ:『性の倫理学』)

 

 

 基本的にはあまり面白くもなく、参考にもならない本だ。

 日本の応用倫理というものは古びるのが異様に早くて、90年代やゼロ年代の前半に出た本はもう使いものにならない場合がある。このシリーズを監修している加藤尚武の応用倫理の本も、いまとなってはキツいことが多い。ここでいう「古さ」とは理論や学説の古さではなくて、感性の古さである。現在の人々が規範的な問題を扱うときに発揮されるような慎重さや目配りや配慮というものが、一昔前の本にはまったく欠けていたりするのだ。

 また、この本は「倫理学」の本でありながらも、土台となる発想がフロイトラカンなどの精神分析であるところがよくない。人間の思想や行動についての精神分析の説明が正しいとは限らない……というか、精神分析は間違っていると考える人の方が現代ではもはや多数派であるだろう……から、それを前提としたうえで規範に関する議論をされても、前提が正しいかどうかわからないのだから受け入れることが難しくなってしまうのだ。

 

 とは言いながらも、この本にはいくつかの明確な利点がある。

 そのひとつは、「性行為」や「恋愛」という、わたしたちの多くが日頃から悩んでいる問題について、真正面から取り上げているところだ。

 

性という主題が倫理学にとってやっかいなのは、次の二つの理由による。一つは、性行為においては、主体と対象の関係という枠組みで考察できないということである。性行為は人間と人間の営みであり、それぞれが主体であり、かつ相手にとっての対象でもある。この複雑さは、他に例をみないほどの特殊な複雑さだ。これが、パイの分け方ならば、パイが対象で、パイを獲得しようとする人間たちが主体である。ゲームのルール作りならば、勝敗(とその帰結)が対象で、プレイヤーである人間たちが主体である。ところが、性行為においては、人間たちが主体であり対象である。

(……中略……)

性という主題が倫理学にとって扱いにくいもう一つの理由は、性的快感という特殊な快感が問われてくるということである。哲学は伝統的に性行為を人間の動物的本能に関連付けて、いかに動物的本能を理性で制御するかという発想を採用してきた。しかし、性的快感は、本能だけでは語れない。これは、「猥褻か芸術か」という議論について考察してみればすぐにわかることだ。もしも性が単に動物的本能にすぎないならば、エロチシズムと芸術の関係をどう説明するのか。聖書や神話に題材をとったエロチックな作品のことを、どう評価するのか。

(p.2 - 3)

 

 しかし、性の問題は倫理学からすれば扱いにくい題材だとしても、一般の人々からすれば、性や愛に関してこそ倫理的な悩みが発生するものだ。

 社会や政治に関する問題と縁がなく、そういうことを考えずに日々を過ごす人はいまだに多数派であるだろう。社会人になったら、就いている職業によっては倫理的ジレンマに直面するかもしれないが、そのようなジレンマが発生しない職業もたくさんある。友人や家族との関係についても、善や悪の問題が関わってくるような悩みが発生することは珍しいかもしれない。……それらに比べると、性や愛に関する道徳的な悩みは、多くの人にとって身近なものだ。なんのかんの言っても性愛関係は家族関係や友人関係とは一線を画すところがあり、他のことでは悩まないような人でも、「好きな人を傷付ける/傷付けられた」とか「恋人に嘘を吐く/嘘を吐かれた」といったことについては深刻に悩んでしまう場合があったりするものである。

 

 しかし、「性の倫理学」やそれに類するタイトルが付けられた論文集やアンソロジーみたいな本は日本でもいくつか出版されているが、それらを手にとってみても、LGBTに関する話題やフェティシズムに関する話題、あるいは性暴力や性差別などのシリアスな社会問題に関する文章ばかりであることが大半だ。なぜか、ヘテロセクシュアルで【ノーマル】で、とくに暴力的でも差別的でもない人々のセックスや恋愛における倫理的な悩みに関する考察が不在である場合が多いのである。現代における性や愛に関する倫理学的な言説空間では、マジョリティの悩みという【真ん中】が、ドーナツみたいに空洞となっているのだ。

 

 それに比べて、この本では、恋に関する問題がそれなりに真剣に取り上げられている。

 以下のような文章は、人によっては凡庸に感じられるかもしれないが、含蓄がなくもないだろう。

 

このように死は重く深遠なテーマであるのだが、恋愛にも死という契機が含まれていないだろうか。そう、告白である。「好きです」と告白して受け入られたならば、昨日までの恋わずらいは跡形もなく消えて、生命のすべてが燃え立つような気がするだろう。逆にふられたならば、自分の存在のすべてを失うような気がするだろう。もちろん失恋したからといって、心臓が止まるわけではない。しかし、失恋から立ち直るのは、もう一度生き直すに等しいことではないか。恋愛には生と死の振幅が含まれている。

(p.27)

 

恋に破れた人の傷心はどのようにして癒されるのか。ここには、振る人と振られる人とがいる。この不均衡はどうしようもない。ふつうの人間関係であれば、「私にとってもっとも大切なのは私自身である、相手にとってもそうであろう、だから相手のことも私は尊重しよう」という具合に、自己愛の置き換えとでもいうやり方で相互尊重への道が開ける。

しかし、恋の場合は自我リビドーは対象へと出払っているので、自己愛の置き換えというやり方は使えない。「お互い、相手を人格として尊重する恋をしましょうね」とう教えがウソくさいのは、「人格」という概念がそもそもふっとんでいるのが恋だからである。恋する側と恋される側とでは、心の余裕が違うのである。

(p. 88 - 89)

 

 また、この本のなかでは恋愛とは「駆け引き」の要素を伴うものであり、「人間関係のスキル」が必要とされることが前提となっている。

 

恋愛術の基本は、相手を「落とす」ことである。お目当の人にいかに接近するのか、いかに間合いを詰めるか。「落とす」テクニックは、ハンティングの用語で語られる。また、「落とす」という言葉は、守りの堅固な要塞や城を攻略して攻め落とすことのようでもある。

(p.90)

 

駆け引きには失敗がつきものであるし、自分が狩られる場合には逃げやかわしのテクニックも必要である。「落とす」テクニックというと特殊な技術のようだが、よく考えてみたら、人間関係全般に通じるスキルの延長線上にあるのではないだろうか。

(……中略……)

いわゆるモテない人というのは、もしかしたら、こういう人間関係全般に通じるスキルが発展途上にあるのかもしれない(念のために言い添えると、人間関係全般に通じるスキルが調和よく身に付いている人などあり得ない。誰もが程度の差はあれ不調和であり不十分なのだ)。

私たちは人間関係のスキルを、親戚づきあいやご近所とのつきあいや、学校や職場での経験などから「なんとなく」身につけていくか、恋愛の場合には、それまでに身につけてきた人間関係のスキルが、いわば人生最大級の試練に遭遇するのである。

(p.94)

 

そして、仕上げとなるのは、相手の気持ちや考えていることを読み取るスキルであろう。言葉に出して言う以外にも、顔色や態度によるメッセージがある。それを読み取ることは大変難しいことだと思う。文化が違えば表情やジェスチャーの意味を読み取ることは困難になる。同じ文化のもとでも、こういう読み取りのスキルには個人差が大きい。読み取りのスキルが低いと、「気が利かない」と思われたり、誤解されて不必要に相手を傷つけてしまったりする。

(p.98)

 

 さらには、著者は「恋愛術の核心には確かに既存のジェンダーを参考にするという方針がある」(p.99)と認めている。男性が女性に対してアピールできる魅力は「男らしさ」に、女性が男性に対してアピールできる魅力が「女らしさ」にあるということも、ある程度のところまでは前提とされているのだ。……とはいえ、著者はフェミニズム系の人であるようなので「男らしさ/女らしさ」を全肯定するわけではないし、「そこにだけ目を付けていると、作戦としては成功しても、ジェンダー差別を再生産して、男女ともに、かえって自分の首を絞めてしまう」(p.99)ことにも留意している。しかし、現実の男女は相手に対して互いに「らしさ」を求めているということは、否定されていないのだ。

 

 結局のところ、この本のなかでは"「男らしい男」とは、「女にとっての望ましい男」というよりは「男たちから認められ、羨ましがられる男」である"(p.102)としたうえで、房術について書かれた章では"もしも女性からも奉仕して欲しいならば、まず女性に奉仕しなければならない"(p.108)とされるのだが。

 

 また、以下の引用部分も、最近のアカデミックなフェミニズムではなかなか見かけないような言説であるだろう。

 

努力不足。こういう言い方をされたら、男性は次のように答えるかもしれない。「じゃあ、どうしたらいいんだよ。言ってくれ。言うとおりにするから」。これは、家事分担の話し合いで夫たちが口にする台詞とそっくりである。いちいち事細かに言われなくても、何をすべきか自分で考えることが当事者の自覚というものではないか。指示さえしてくれたら履行するというのでは、まるで自分が当事者ではないみたいである。

それに、セックスの場合には、ここをこうしてああしてと、指示したことをしてもらって快感を得るものだろうか。女性の体は自動販売機ではない。お金を入れてボタンを押したら缶ジュースが出てくるような具合にはいかない。それに、ここにはプレゼントの心理とも言うべきものがある。「欲しいものを言ってくれたら、それを買ってくる」なんて、子どものお使いじゃあるまいし、そんなプレゼントが嬉しいだろうか(物にもよるが)。プレゼントというのは、気に入ってくれるかと悩みながら選んでくれたから、嬉しいのである。セックスにおける女性の喜びが「三の三倍」になるためには、「私も知らない私の気持ちよくなることをして欲しい」というプレゼントの心理に答える努力が必要である。

(p.67)

 

 この箇所はとくにネット上で弱者男性論者やミソジニストが仮想敵とするような「女性の側に都合のいいことだけを言って、男性にのみ要求をおこない責任を課そうとしてくるフェミニスト」のイメージそのまんまであり、反感の対象となるところだろう。

 また、現代の(アカデミック寄りの)フェミニストの多くも、上記のような主張には眉をひそめると思う。著者の主張には、「セックスにおいては女性は受動的な存在である」というステレオタイプを肯定して補強する危険性が含まれている。さらに、「言葉で確認すればいいものではない」という主張は、口頭での明示的な合意のないセックスは性暴力であるという昨今の考え方とは相反するところがあるはずだ。

 

 ついでに言うと、第4章で行われる男性の性欲に関する著者の分析はかなり的外れである。「マザコン男性」はダメだと言いきったり「男は犬であるという仮説を立ててみよう」と言いだしたりするところも、いかにも昔ながらの雑で無神経なフェミニズムという感じだ。最近のアカデミックなフェミニストたちは、対象が男性であっても、こういう無神経な言い方はしないものだろう*1

 

 とはいえ、この本で展開されているような素朴で雑なフェミニズムが間違っていて、最近のアカデミズムにおける洗練されていて気配りの届いたフェミニズムが正しいかというと、それはまた別の問題だ。近年のフェミニズムジェンダー論は、想定される弱者やマイノリティや被害の問題について気配りを行い八方美人的な主張を行うことに腐心するあまり、現実の場面における行動の指針となったり問題を解決したりするようなプラグマティックな主張を展開することからはどんどん遠ざかっている印象がある*2

 

 ところで、「恋愛やセックスには駆け引きをしたり相手の要求を察知したりするためのスキルや能力が必要とされる」という考えてみれば当たり前の言説は、近年では、フェミニズムや左派の側からも弱者男性論者やミソジニストの側からも、両側から嫌われるようになっている。

 サンデル教授の『実力も運のうち』が爆売れしている事実が示すように、現代では「能力主義」は資本主義と並んでみんなから憎まれて否定される対象となっているために、【議論】においては、とりあえず能力主義や資本主義を否定しておけば有利なポジションに立つことができる*3。そういう意味では、昨今のフェミニストたちが「フェミニズム新自由主義化」を嘆くことも、インターネット論客やブロガーの人たちが「現代の恋愛は能力主義に裏打ちされたものだ」とことさらに主張することも、賢しらさという点では変わりないように思える。

 しかし、いくら【議論】においては有利な主張であっても、それにプラグマティックな価値があるとは限らない。イデオロギーがどうであろうと、実際問題として、ふつうの男女の恋愛においては「らしさ」が多かれ少なかれ求められるものであるし、能力やスキルが必要とされるものだ*4。男性であっても女性であっても、若い子たちにはまず『性の倫理学』くらいに素朴な主張が展開されている本を与えてあげたほうが、本人たちの人生にとっては有意義であるかもしれない。

 

 

*1:だからと言って昨今のフェミニズムにおける男性に関する分析が正しいかというと、わたしはまったく的外れなものであると判断しているのだが、それについては別のところで書いた。

*2:これはフェミニズムに限らず、左派やアイデンティ・スタディーズ系の人たちによる規範的な主張の全般に見られる傾向でもある。

davitrice.hatenadiary.jp

*3:この風潮に対するわたしの意見を展開した記事はこちら。

davitrice.hatenadiary.jp

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*4:セックスの際には男性の側が積極的に奉仕することも、まあだいたいの場合においては男女の双方にとってプラスになるだろうから、それを要求することは筋の悪い主張ではない。