道徳的動物日記

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左派の思想と自己啓発が相反する理由(読書メモ:『生き抜くための12のルール:人生というカオスの解毒剤』)

 

 

 海外では大ベストセラーになった本であり、日本でも熱心に薦める人が何人かいたので、ほしいものリストから送ってもらった。

 しかし、結論から言うと、かなり期待はずれ。

 

 著者のジョーダン・ピーターソンは心理学者で、前著の Maps of Meaning: The Architecture of Belief は神話や宗教に関する著作であるようだ。

 そして、「インテレクチュアル・ダーク・ウェブ」で「反ポリコレ」な論客としても有名である*1

『生き抜くための12のルール』はタイトル通りの自己啓発書であり、ポリコレとか政治とかが直接的には関わらないが、後述するように、そこで書かれている人生指南の内容は左派的な思想とは相反するものだ。

 そして、ビジネス書的な自己啓発書に比べてかなり分厚く、その内容は実に「衒学的」である。ひとつのルールについて説明されるたびに、聖書だとか神話だとかドストエフスキートルストイなんかの古典文学だとかニーチェの哲学だとかが延々と引用される。この本の最大の欠点はこの「衒学」の部分であり、一行で表現できそうなシンプルなことについても文学や宗教や哲学でいちいち大層な味付けをして表現するので、とにかくくどくて冗長になっている。

「12のルール」の具体例は「背筋を伸ばして、胸を張れ」とか「あなたの最善を願う人と友達になりなさい」とか「自分を今日の誰かではなく、昨日の自分と比べなさい」とかである。これらのルール自体はもっともらしく、他の数多ある自己啓発書でも書き尽くされてきたことであり、誤っているわけではないが目新しさがあるわけでもない。この本の特徴は、これらのありふれた自己啓発指南にもったいぶった衒学的な説明が加えられることで、さぞや大層なものであるかのように演出されていることだ。

 わたしとしては、衒学的な本は必ずしも嫌いではない。スティーブン・ピンカーの『暴力の人類史』とかジャレッド・ダイヤモンドの『銃・病原菌・鉄』とか、ああいうのはむしろ好きな方だ。しかし、ピンカーやダイヤモンドの本が衒学的になっていたのは、自説の論証や補強のためであったり、読者に自説をわかりやすく伝える具体例を示したりするためであった。

 その一方で、ピーターソンの衒学は、あくまでも「演出」のためにしかなっていないのである。もともと書かれていることは難しくもなければ常識に反することでもないのだから、妙な具体例なんて出さなくても明確にすっきりと自説を書いた方が読者にも伝わりやすくなるはずだ。また、聖書や文学から引用したところで、それがピーターソンの主張のどこをどう裏付けるかというのも、わたしにはよく分からない。心理学の知見の引用もそれなりに含まれており、そちらについては多少は主張の裏付けになっているとは思うのだが、そこで引用される知見はかなり古典的でありふれたものであり、知的好奇心をそそられるものではない。

 したがって、学問的な自己啓発書を読むのならこの本じゃなくて諸々のポジティブ心理学の本や現代版ストア哲学の本を読んだ方がいい。あちらには大層な演出は含まれていない代わりに、心理学や哲学の知見がすっきりとわかりやすく示されているので実用的なだけじゃなく読書の喜びもきちんと得られる。一方で、「学問的な知見について知ったり正確な知識がほしいんじゃなくて、とにかく自己啓発されたいんだ」という人であったとしたら、こんな分厚い本をわざわざ手に取らなくても他に候補がいっぱいあるだろう。

 

 というわけで、この本そのものの評価は、わたしのなかではかなり低い。

 しかし、先述したように、この本で書かれていること自体は、目新しくはないものの、誤っているわけでもない。

 そして、「反ポリコレ」な論者によって書かれているためか、「自己啓発書」というものにもともと含まれがちな保守性やリバタリアニズムがかなり強いかたちで表れている点は、なかなか興味深い。

 たとえば、ルールのひとつは「世界を批判する前に家のなかの秩序を正す」だ。

 また、以下の引用箇所は、左派の人ならとうてい書かないものだろう。

 

誰かを助ける前に、なぜその人が困っているのかを知るべきだ。はなから、その人が不当な状況や搾取の被害者であると仮定すべきではない。その可能性もあるが、高い可能性ではない。わたしの経験では、臨床患者やその他の例からみて、そんな単純な話だったためしはない。それに、起こったひどい出来事がすべて、被害者の個人的な責任ではないという話を鵜呑みにするとしたら、その人はあらゆる過去において(さらには現在や将来において)、動作主体ではないとみなすことになる。その人の力を全面的に剥ぎ取っているわけだ。

 (p.114)

 

不幸を見せびらかすことが、ある種の武器なのかもしれない。自分が待ちぼうけて沈み込む一方で上昇していく人々を見て、憎悪のなかからそんな武器を生み出した可能性もある。自身の罪を、不適切さを、懸命に生きようとしていないことを立証する代わりに、世界の不公正さを証明しようと、不幸をアピールしているのかもしれない。苦しみをそういう証明に使っているのなら、いつまででも苦しみを受け入れる気になっているも同然だろう。それは「ビーイング」への復讐なのかもしれない。そんな立ち位置にいる者に、誰かが友情を差し向ける必要があるだろうか?

(p.115)

 

 自己啓発の基本は、「他人や社会を非難したり変えようとしたりするのではなく、自分を変えようとするべきである」ということにある。いまいる環境が自分に適していないなら、その環境を変えようとするのではなく、自分の問題点を改めるか別の環境へと自分から移動するかのどちらかを行うべきだ。ロクでもない人間が周りにいるなら、その人が改心することを期待するのではなくて、さっさと縁を切って新しい人と付き合うべきである。

 そして、大半の自己啓発書は、多かれ少なかれ自己責任論的である。自分の人生の舵は自分が取るべきだ、とされるのだ。

 自己啓発書が「批判」よりも自己改善を志向して、他責よりも自責を強調するのは、個人の人生という見地から考えれば、大半の場合においてそちらの方が生産性も実現可能性も高くて、効率が良い選択肢であるからだ。

 

 一方で、左派の思想では、問題の責任を個人よりも社会や構造に見出して、「大きな枠組み」に目を向けることが推奨されて、自己責任論は忌み嫌われる*2

 そのため、左派からすると、自己啓発書やポジティブ心理学は、リバタリアニズム的でネオラリベラリズム的なイデオロギー装置に思えてしまうのである。

 たしかに、みんながみんな自己啓発を実践すると、社会や構造を批判して変えようとする人はいなくなってしまうだろう。そうなると、現状の不正なり不平等なりが放置されてしまう。だから、マクロな単位で見れば、社会を批判する人が一定数存在することは必要なのだ。

 しかし、個人の人生というミクロな単位で見ると、左派の思想は不適応的な側面が多い。自分ではなく周りを変えようとする行為が成功する保証はないし、成功するとしても時間がかかる。

 さらに言えば、左派の思想は他責を推奨するために、人から活力やモチベーションを奪ってしまう。結局のところ、自己責任論を信じて「自分の人生は自分で舵を取るべきだ」と思っている人の方が、成功に向かって努力する意志を持ち続けられるのだ。

 具体例をあげると、インターネットでは「文化資本」の格差について貧乏人や田舎者が恨み言を書き連ねるのが昔ながらの定番となっている*3。「文化資本の格差」的な現象が実際に存在すること、そこに不平等や不正義や不公平が含まれていることはたしかだ。……しかし、同じように「文化資本がない人」同士の間では、文化資本の格差について不平不満を言い続ける人と、自分に与えられたカードで割り切って勝負をできる人とでは、後者の方がずっと有利であるだろう。社会問題の存在を表現する概念について知ってしまうこと自体が足枷となる、という可能性すらあるのだ。

 左派の人は自己啓発を「資本主義的」なものであると思っていることが多い。しかし、自己啓発の思想が適応しているのは、資本主義ではなく世界そのものである。おそらく、どんな構造の社会においても、意志力や活力のある人がそうでない人よりも成功や幸福に近いことは変わらないのだ。

 

 主張の内容が正しいかどうかとは別として、左派の思想は「被害者性の文化」や他責志向と結びやすく、その主張に賛同する人の精神や生活によからぬ影響をもたらす、という副作用があることは意識されるべきだろう*4

 ついでに書いておくと、一昨年くらいからやたらと流行するようになってきた反出生主義をわたしが警戒しているのも、同様の理由によるものだ。哲学的には反出生主義は興味深く検討に値するものであるし、特に動物倫理の分野においては、具体的な行動や政策の是非について考えるうえで避けられないものである*5。だが、「個人の考え方や心理に与える影響」という観点で見てみると、反出生主義は左派の思想よりもさらに他責的な傾向へと人々を導いて活力を奪うものであることは間違いない。反出生主義の思想は、「二分割思考」「マイナス思考」「過度の一般化」「拡大解釈」など、うつ病に特有な「認知の歪み」とあまりにも相性が良すぎるのだ*6。そして、反出生主義がミームとして広まることで、多くの人々がうつに導れたりうつが悪化したりしてしまう危険性は、かなり高そうである。だから、公衆衛生的な観点からすると、反出生主義についてあまり語られ過ぎるのもどうかと思うのだ。