道徳的動物日記

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ユーモアのダークサイド(読書メモ:『笑いと嘲り』)

 

 

 先日に江原由美子の「からかいの政治学」を読んだ流れで、前々から図書館で見かけてタイトルだけは知っていたこの本も中古で購入して読了*1

 著者のマイケル・ビリッグは心理学者であると同時に左翼であり、本書で展開されるのも「批判心理学」である。訳者あとがきによると批判心理学とは「現在の主流の心理学に対する批判的な諸勢力の総称」であり、量的研究や実験室研究より質的研究とフィールドワークを重視する派閥であるようだ。それだけでなく、本書のなかでもハーバート・マルクーゼが何度も登場するように、フランクフルト学派の「批判理論」に影響された、(左翼的な)政治的問題意識をもって既存の心理学の「中立性」を擬似的なものだとして弾劾したり修正したりするといったことを目的にした学問であるように思える。

 そして、著者が本書でとくに問題視するのは「ポジティブ・イデオロギー」であり、具体的に批判の対象となるのはポジティブ心理学自己啓発(セルフヘルプ)心理学などだ。このテの心理学が資本主義に尖兵扱いされることはいまに始まったことではないが、著者によると、現代でユーモアのダークサイドが無視されてユーモアはとにかくいいものだとされているのもポジティブ心理学とかが原因であるらしい*2

 そしてユーモアのダークサイドを明かすために、本書の第1部では「歴史的見地」としてホッブズやスペンサーにベルクソンフロイトなど歴代の哲学者たちによるユーモアについての理論が紹介された後に、第2部では「理論的見地」として著者自身のユーモア論が展開される。

 ……まず、本書は、文章は冗長だし主張は繰り返しが多いしで、読みものとしてはかなり退屈でおもしろくなかった。また、ポジティブ心理学が好きなわたしとしては著者による批判や敵意は不当なところが多く感じられた。というか、ポジティブ心理学の本はいくつか読んできたけれど、そもそもそれらの本で「ユーモア」がそこまで強調されていたり讃えられていたりするイメージはない。また、自己啓発の本でユーモアが強調されるとしたら、それは「どうにもならない出来事に対する悲しみやロクでもない他人に対する怒りに振り回されないように、自分の身に起きたひどいことを笑い飛ばせるユーモアを持とう」といった類のものではないだろうか*3。その種の自分に向けたユーモアにも批判の余地はあるかもしれないが、一般に「ユーモアのダークサイド」と聞いてイメージされるもの、そして本書の著者も問題だと思っているであろうものは、他人に向けたユーモア……とく「からかい」と表現されたり「嘲り」と呼ばれたりするものだろう。それらは自分に向けたユーモアとはかなり隔たりがあるように思えるし、からかいとか嘲りとかをポジティブ心理学の本で取り上げろというのは無理筋なように思える。

 本書を通じて、どうにも著者は「「笑い」と「嘲り」は区別できずにつながっているものであるから、「嘲り」の存在を無視して「笑い」を肯定する議論はダメなのだ」と言いたいようだ。しかしやっぱり区別は可能だろうし、「「嘲り」はダメだけど「笑い」は大切だよ」という議論はできるように思える。そこらへんの著者の前提が断定的であったり問題意識が強すぎたりすることも本書を読むのがしんどかった原因だ。

 

 それはそれとして、本書の議論のなかで意義深いと思ったところを取り出してみよう。

 まずは第2部のほうから。この部では、ユーモアは「社会秩序」に関する機能に基づいて二種類に分けられる、といったことが論じられる。ひとつめは「懲罰的ユーモア」であり、秩序に反した言動をしたりその場のルールやコードをふまえない振る舞いをしたりした人をからかったり嘲ったりすることで、笑いの対象になった人に恥ずかしさや屈辱感を与えて言動や振る舞いを抑圧させて、現状の社会秩序を強化するという機能をもつものだ。ふたつめは「反逆的ユーモア」であり、こちらは秩序そのものやそれに従う人々、または権威を持つ人などを笑いの対象にすることで、秩序を批判したり撹乱したりする機能をもつ。

 ……とはいえ、あるユーモアを懲罰的であるか反逆的であるかと簡単にカテゴライズできるとは限らない。また、一見すると反権威的でアナーキーでいい感じのイメージが抱かれがちな反逆的ユーモアも実は、そんなによいものではないかもしれない、というのが本書の議論のポイントだ。

 

まず、二つの種類のユーモアを区別することができる。懲罰的ユーモアと反逆的ユーモアである。どちらも嘲りの形を取ると考えられる。懲罰的ユーモアは社会ルールを破る者を嘲笑い、そうすることでルールの維持に役立つと考えられる。反逆的ユーモアは社会ルールを嘲笑い、そして今度はルールを疑い、反逆すると考えられる。懲罰的ユーモアは本来的に保守性をはらみ、他方反逆的ユーモアはラディカルな側にいるだろう

[…中略…]

懲罰的ユーモアと反逆的ユーモア、ないし抑圧的ユーモアと抗争的ユーモアの区別は、理論的に有用かもしれない。しかし、ある特定のユーモアをいずれのタイプにはっきり分類するのは困難なようだ。われわれのジョークやわれわれ以外の者たちのジョークを分類することには、倫理上、個人上、イデオロギー上の広範な気遣いを伴うので、こうした分類は問題を含む可能性がある。

[…中略…]

フロイトが言ったように、人は自分の笑いを良いものと考えるように動機づけられていて、そのためおかしいと思うものについて利己的で自己欺瞞的な主張をするものだ。もし反逆的ユーモアか懲罰的ユーモアに、文化的ないしイデオロギー的な価値があると言うなら、賛同と反論の両方が見つかりそうだ。

[…中略…]

人種差別的ジョークや性差別的ジョークを言う人はしばしば「政治的正しさ」の求めるものに反逆しているのだと主張して、自分自身を、いたずら好きで、抗争的で、無力な側に位置付けることがある。学者でさえこの方針を採ることがときどきある。[チャールズ・]グルナーはユーモアの心理学的分析の中で、いくつかの会議で男性が女性に色目を使っている風刺漫画を見せたことにふれている。これは「政治的に正しい」女性たちからの苦情をもたらした。グルナーは言う。「こうした苦情を言うレディーたちは風刺漫画のユーモアを好まないだけでなく、理解すらしない」。グルナーは自己弁護する中で、いわゆる「政治的な正しさ」のもつ社会的権力に注意を向けているが、これは「政治的な正しさ」への反逆を理由にして、物議をかもす右派的なもの言いを正当化する人たちと同じことをしている(…)。グルナーの批判者たちは彼のことを、彼自身が考えているよりも力があり、高圧的と見ていることだろう。このような議論においては自分自身の力は奇妙にも見えないものだ。というのは、力とは常に他人の側にあると主張されるからだ。権力をもつ人でさえ、自分のユーモアは権力を行使しているのではなく疑っているのだと理由をつけて、ユーモアを正当化することができる。

これが、なぜ懲罰的ユーモアを保守的であるとはっきり述べ、また反逆的ユーモアを客観的にラディカルであると述べるのに慎重でないといけないかの理由である。それほど単純ではないのだ。否認、自己欺瞞、ひとりよがり、これらの影響がすべてあり得る。懲罰への反逆を好ましいとするイデオロギー的風潮がある時は特にそうだ。

 

(p. 358 ~ 361)

 

…反逆とユーモアを等号で結ぶことには困難がある。社会が課す諸要求にそむくような反逆の感情やユーモアの愉快さは、必ずしも反逆の政治行動と等しくはない。このことは後期資本主義の状況がうまく説明する。そこではジョーク的な反逆の地位は高い。それはメディアの娯楽作品で非常に賞賛される。こうした作品は視聴者に、全面的に反逆的になることを勧めているのではない。というのは、視聴者の反逆も時代の道徳的規範に従っているからである。スイッチをひとひねりすれば(そしてクレジットカードで適正料金を払えば)、いつもの面白おかしい、嘲笑でいっぱいの番組を楽しうことができる。こうした義務的な消費が私たちに権威らしきものを嘲笑させ、絶えず昨日の作品への不満を必要とする経済状況において私たちに絶え間なく反逆を感じさせ、それを楽しませる。

 

(p.370)

 

大人になった男たちはしばしば学校に通っていた頃の話をするのが好きで、自分は生意気でいたずら好きだったと言うものだ。昔気質の教師の、尊大で不合理な権威をばかにして笑うのが、彼らは好きだ。このような話をしている時、彼らは教師にではなく男子生徒の方に感情移入している。

 

(p.372)

 

このような文化的風潮においては、古くさい時代遅れと思われたい人はほとんどいないし、清教徒のように厳格な人と思われるなんてとんでもないことだ。この文化に「幼稚症」のような要素がもしあるなら、それは、ユーモアのない厳しい親よりもいたずら好きの子どもの立場の方が一段と心地よく、望ましいとされていることに明らかだ。若者以外の誰もが若くあらねばならない。[…中略…]今はプラトンの時代ではない。傲慢さではなく、いたずら好きの方が魅力的な性質なのだ。

どうやら反逆的ユーモアは保守的機能を果たすので、左派の批評家はユーモアに関して難しい立場にいると知らされることがある。「市場」への順応が絶え間ない革新を命じている場合、順応主義者たちの方がラディカルなジョークをするようだ。今日、度が過ぎるコメディアンに対する異論の多くは、左翼的なコメディアンについてのものではない。ある意味、会話の規範を守るよう強く主張し、身体障害や非異性愛的嗜好や外国の市民権をもつ人たちを表現する伝統的な用語を使うのが許されないことを指摘しようとしているのが、左派である。こうした状況では、平凡なコメディアンが簡単に勇気ある反逆者の立場を採ることができ、彼らは言ってはならないことを口に出し、伝統的なカーニバルの道化師のようにずけずけ話し、世間体という制限規範を逸脱する。彼らはユーモアを欠く権威者の正統性に抵抗するいたずら好きの子どものように見えることがある。そしてこうした侵害がそれほど目に余るものでないなら、社会が制限するものを嘲笑することに加わるようにとの誘惑はかえって魅力的でさえある。ただのジョークさ。笑いなさい。笑いなさい……でもその楽しさは強制されていない。

このことが左派を守勢の側に置きかねないのは滑稽なことだ。右派とは基本的にユーモアを欠くものだ、と左派の人たちは長い間聞かされてきた。けれども今日の右派は、最高によくできた、そして最高にふざけたジョークのいくつかをもっている。大統領が自分を嘲笑して金持ちや権力者から拍手をもらっている時に、誰が彼の言い間違いを嘲笑うことができるだろうか?[…中略…]ジョッキーたちはあらゆる社会のしきたりに反抗する生意気な少年たち(とたまに生意気な少女たち)であり、特にリベラルなしきたりに反抗している。彼らはそのようなことをする過程で名声と富を獲得することができる。「政治的な正しさ」に反抗しているのだ、と彼らは何度も主張するだろう。そのような主張が彼らのユーモアといたずら好きの反逆者としての仮面を保証するかのように。

 

(p.425 - 427)

 

 このあたりの議論は、現在の日本にもいろいろと通じるところがあるものだ。90年代サブカルゼロ年代2ちゃんねるの「露悪的」な風潮、「日本のコメディアンは強いものには歯向かわず弱いものばかりをいじめている」といった批判など。ちょっと前の「人を傷付けない笑い」ブームやその反動(?)としての「悪口漫才」について考える際にも参照できるかもしれない。

 わたしの頭に浮かぶのは、やはり、「女性差別的な文化を脱するために」オープンレターでの「からかい」批判の件と、それに対するSNS上でのもろもろの批判や反動など。オープンレターで批判されていた対象は「ボーイズクラブ」文化であるという指摘はちらほらとなされていたが、ネット上で「からかい」や「嘲り」をしている人たちからは、男子中高生的なノリを楽しんでいたり、自分たちについて「いたずらっ子」的なセルフイメージ(あるいは「道化」とか「トリックスター」とか)を抱いているであろうと察せられることはたしかにある*4。また、とくにグルナーのくだりは日本の大学教授でも似たようなことを主張している人間が思い出されるところだ。そして「オープンレターは風刺文化の否定だ」という言説もちらほらと出ていたし、「リベラル/フェミニストはいまや権力の側にいるのだから、自分たちが彼らや彼女らをからかったり嘲ったりするのは反権力的な風刺行為である(から立派な行為なのだ)」みたいなことを、詭弁として主張しているだけでなく本気で思っている人もいるのだろう。

 実際のところ「権力」というのは曖昧なものであり、見出そうと思えば何にだって権力を見出すことはできるという面はある。そして誰にだって「自分は権力を持っていなかったり権力にいじめられていたりする弱者である」と自認することはできるから、誰にだって「自分のユーモアは反逆的なものだ」と主張することはできてしまう。もちろん、なにが権力でありだれが弱者であるということを厳密に特定する主張を論じることもできるだろうが、そもそも風刺や反逆的ユーモアに価値を見出すこと自体を止めるのが……本書の主張も半ばそうであるように……賢明であるかもしれない。

 なお、批判理論であるはずの本書が、批判理論を批判していた『反逆の神話』での主張に接近しているのも興味深いところである*5

 

 第1部では、まずトマス・ホッブズなどによる「優越理論」が紹介される。ホッブズは人間は地位や権力をめぐって争うものであり、ユーモアについても「嘲り」の側面を強調しながら「人間の笑いは優越感によって引き起こされる」と論じいた。要するにユーモアとは基本的にロクでもないものだという主張だ。また、ホッブズの他にも、過去の思想家にはミソジラスト(笑い嫌悪家)が多々いたのであった。

 ジョン・ロックをはじめとする十八世紀の思想家たちはコーヒーハウスとかに行って民主的になったり社交的になったりしたので、笑いをネガティブなものと捉える「優越理論」に反発して、嘲りではなく「ウィット」に注目した「ズレ理論」を提唱した。「ズレ理論は笑う人の動機に笑いの原因を探すのではなく、笑いを引き起こす世界のズレた特徴を特定しようとした」(p.99)。

 ……しかしズレ理論は優越理論とは逆に笑いのポジティブな要素を強調するあまりに、笑いを無害で上品なものと捉えすぎて、笑いが持つことのある有害さや下品さを丸々無視してしまった。「ウィットのある紳士は利口で、賢く、陽気である。決して人を辱めるいじめっ子ではない」(p.113)とする一方で、下々の者が遊園地に行って道化を見て笑うことはズレ理論の対象にはならなかったのである(そして、「われわれ」の笑いは上質だが「彼ら」の笑いは低質である、という自己中心的な二分法は後の思想家たちにも引き継がれる)。また、紳士同士のパーティーで互いに冗談や皮肉を言い合うやり取りは誰も傷つかない知的で上品なやり取りであるように見えても、そのなかにはやはりからかいや嘲りなどが混ざっていたのだし、冗談に冗談で言い返せずに傷付いていた紳士もいただろう、といったことが本書では指摘されている。

 ヴィクトリア朝時代にはハーバート・スペンサーとアレクザンダー・ペインがダーウィンの進化論に基づいた生理学的・心理学的なユーモアの理論である「放出理論」を提唱した。これは「拘束からの解放が神経エネルギーを増加させて笑いを引き起こす」といった理論で、現代の目からは他の理論に比べても疑わしいように思えるが、彼らの理論は笑いは「解放」や「反逆」、あるいは他者に対する「攻撃」などに関連することを指摘したという点で現代の議論にもつながる貢献を残している。

 1900年には、アンリ・ベルクソンが著書『笑い』にてユーモアが社会の規律に関して持っている機能について本格的に論じた。ベルクソンがとくに注目したのは笑いの「懲罰的」な側面である。一方で、1905年のジークムント・フロイトの著作『機知ーーその無意識との関係』では笑いの「反逆的」な側面が強調された。

 

 最後に、第1部のなかでも印象的に残った箇所……そして本書の著者も重視しているであろうポイント……を引用する。

 

ベルクソンフロイトの著作を早くから読んでいた読者の一人で、この響き[「一つの底意図」]が意味するものをよくわかっていただろう。他のところで彼は、自分のアプローチをフロイトのそれと結びつけることができると指摘した。秘密の意図というフロイトのアイデアは、社会行為者が自分の行為の社会に及ぼす作用に気づかないかもしれない、ということ以上を含意する。それは隠れた秘密も含意している。笑いの場合、ベルクソンはこの秘密が何かをほのめかしている。われわれの隣人に屈辱を与えようとする、口にはされない意図があるという。

[…中略…]

このように言うことから、社会生活において快適に活動するためには人は自己認識から自身の行為の諸側面を隠す者である、と言うまでは短いステップである。ベルクソンの主張を構成する要素は、そのような可能性を示唆している。笑いの快楽は、同情の欠如ないし信条の瞬間的な麻酔状態に依存する。笑う人は笑いの残酷さを深く反省したりしない。笑いの対象となる人に屈辱を与えようとする願望は、認められも口にされもしない。疑われたなら否定される。これが秘密の意図であり、これは他人に隠しているだけでなく、自分自身にも隠しているのである。

 

(p.232 - 234)

 

*1:

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

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*3:「現代ストア哲学」に基づく『ストイック・チャレンジ』にもそのようなことが書いてあった。

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*4:

hokusyu.hatenablog.com

*5:

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