道徳的動物日記

倫理学、社会科学、時事問題、世相などについて論じます。

読書メモ:『反逆の神話:カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか』(前半)

 

 

 

  数年ぶりに読み返しているが、やはり面白い。著者であるヒースの嫌味さや性格の悪さが存分に発揮されている。

 全体の論旨ももちろん重要なのだが、細かい部分でのネチネチとした指摘や皮肉がたまらなくて、都度引用したくなる。なので、おもしろいところを引用したうえで、自分のコメントや感想を付け加える形式にした。全体の論旨が気になる人は他の人の書評や感想を探せばよい。

 

 

「抑圧の政治」は「搾取の政治」と似ている。ただし、違うのは、抑圧の政治では不正の源を社会的ではなく心理的なものと考えるところだ。したがって、まず必要なのは、具体的な制度の変更ではなくて、抑圧された人たちの意識の変革である(だから初期のフェミニズム運動で「意識覚醒」グループが絶大な人気を博した)。政治は、依存症回復プログラムに似てきている。昔ながらの富と貧しさへの関心はいまや「うすっぺら」と見なされている。

(……中略……)チャールズ・ライクは『緑色革命』に書いている。「革命というものは文化的でなければならない。なぜなら、文化が経済的・政治的機構をコントロールするのであって、その逆ではないからだ。いまは生産機構が自ら気に入ったものを生産し、人々にそれを買わせている。けれども、文化が変革されれば、機構はその変化に従わざるをえない」。誰も特別なことだとは思わなかった。ビートルズが「レボリューション」で「憲法」やほかのそういう「制度」を変えるより「むしろ自分の心を解放」したほうがいいと主張した時代だったから。

ここに、社会制度と、文化と、そして最後に個人心理学のあいだの階層的依存関係で、社会が機能している様子が見てとれる。文化と心理学が、制度を決定づけると考えられている。だから経済を変えたければ文化を変えることが必要だ。そして文化を変えたければ、基本的に人々の意識を変えなければならない。ここから、二つの決定的な結論が導かれる。第一に、文化的な政治のほうが伝統的な分配の構成の政治よりも根本にかかわる、ということ。どんな非順応主義の行為も、たとえそれが伝統的な意味で「政治的」とか「経済的」とされるものとは関係がないように見えても、重要な政治的結果をもたらすと考えられた。第二に、そしてもっと役に立たないのが、人の意識を変えることは、文化を(いわんや政治経済システムを)変えるより重要ということだ。

(p.71-72)

 

 2020年現在の左派や若者たちがカウンターカルチャーにどれだけ影響を受けているかはわからないが、「政治や経済ではなく、文化や意識を変える方が重要だ」的な発想ではいまでも目立つところである。ヒースも指摘していることではあるが、文化や意識を変えることは政治や経済を変えるよりも「簡単」であること、また地道な政治的活動に比べて文化的活動は「楽しい」こと、などが大きいだろう。

 ちなみに、活動だけではなく、議論や執筆というレベルでも、文化や意識について取り上げることは政治や経済について取り上げることより簡単だ。政治や経済について語るうえでは明確なエビデンスが求められたり諸々のお固い資料や統計を集めなければならないが、文化や意識については頭のなかでちょろちょろっと考えるだけで論じることができる。だれだってなにかしらの文化に日々触れているからなにか言えるような気になるし、意識なんてもともとがほとんど証明不可能なものだから逆になんだって言えるというものだ。

 

麻薬取締法に対するカウンターカルチャー流の見方の根底には、アルコールも含めて、薬物の作用に対するとんでもない解釈があった。マリファナが精神を解放するとの考えは、マリファナで頭がぼーっとなった人くらいしか信じないようなことだ。まともな人なら、マリファナ使用者が世界でいちばん退屈な話し相手だと知っている。もっと言えば、アルコールは麻薬や幻覚剤よりは破壊活動的じゃないと何となく考えるのは、アルコールの歴史に対するひどい無知の表れだ。

(……中略……)共産主義者アナーキストも、アルコール依存になるよう労働者に説いてまわったりはしなかった。彼らには、もっと公正な社会を創り出すには、もっと広く国民の協力が必要になるとわかっていた。だがアルコールは断じて助けにならないと。残念ながら、ヒッピーはそれを苦い経験を通して知ることになる。

(p.73-74)

 

 Twitterを眺めているとストロングゼロを飲むことがなんらかの反体制的行為であると思っていそうなアホがいまだにいたりするし、自分が学生の頃には、さも誇らしげに大学の構内で酒を飲んでいる連中をよく目にしたものだ(自分もそのなかのひとりだったけど……)。

 また、「カウンターカルチャー的な思考は、犯罪については若干の認識の甘さをもたらしただけだが、精神病に関してはとんでもなく美化してきた」(p.166)。これも、一昔前の日本のインターネットのことを考えさせられる一文だ。「メンヘラ」がやたらと美化される傾向があったし、特に女性のメンヘラには逆説的な規範や体制への反逆を見出す風潮もあったような気がする。

 

多くのフェミニストは早くから気づいていた。「自由恋愛」がこの社会における大規模な女性の性的搾取を可能にしてしまったのだ。フェミニストの当初の考えは、男は抑圧する側だから、男女関係を律するルールはすべて男に都合がいいように操作されたはず、ということだった。そんなルールの多くが明らかに女性の防衛のために、女性を男性から守るために作られたという事実は、なぜか見落とされた。社会学者でフェミニストカミール・パーリアは八〇年代に、こうしたやかましい古くからの社会慣習の多くは、実のところレイプの危険性を減らす重要な機能を担っていたのだと指摘して、騒動を巻き起こした。同様に、昔ながらの「できちゃった結婚」ルールは、子供の父親としての責任を男性たちに取らせた。この規範が崩れてきたことも、西洋世界に「貧困の女性化」が広がっていることの主要因である。

実際、もし男性の一団に理想のデートのルールを考えるように頼んだとしたら、たぶん性革命によって出現した「自由恋愛」にそっくりの設定を選ぶことだろう。女性の感性に配慮しなくてよければ男はどういう性生活を送ろうとするのかを調べるには、ゲイ浴場を見学すればいい。しかし、このような可能性は、主としてカウンターカルチャー的分析の支配力のせいで黙殺されていた。女性は抑圧される集団であり、社会規範は迫害のメカニズムであると、カウンターカルチャーは主張した。だから解決策は、すべてのルールを廃止することだ。したがって、女性の自由は、すなわち社会規範からの自由と同一視される。

結局、これは悲惨な同一視だった。そのせいで全く受け入れがたい状態が理想的な解放と称されたばかりか、現実に女性の生活の確かな改善につながりそうな改革の受容を「取り込み」や「裏切り」として斥ける傾向を生み出した。どうしてここまでひどく道を誤ってしまったのだろう?

(p.79-80)

 

 

 #MeToo運動に象徴されるように、現在のフェミニズムの主流は「ルールからの逸脱」ではなくて「ルールの改定、新しいルールの作成」であるように思える。フェミニズムに反対する人たちも「新しいルールは女性にとって有利で男性にとって不利に過ぎる」とは批判するが、ルールが必要なことについては同意しているのだ。

 …… とはいえ、既存のルールを「明らかに女性の防衛のために、女性を男性から守るために作られた」と認めたうえで肯定することは、「家父長制」とか「異性愛規範」の存在などを主張するフェミニストにとっては、認知的不協和をきたす。お仲間からも怒られてしまう。だから、既存のルールをかたちだけは否定したりポーズとしての批判をくわえたりしたうえで、それとほとんど変わらない新しいルールを主張する、という光景を目にするような気がする。従来の規範をそのまま認めることはNGなのであり、諸々の「配慮」をしていることを示さなければいけないのだ。

 また、自分がもはやルールに守られなくても安全な強者の側に属していると自覚している人たちが、相変わらずルールの撤廃を求めたり新しいルールの追加に反対したりする、という光景もまたよく見かけるところかもしれない。

 

……意味のない、もしくは旧弊な慣習に異を唱える反抗と、正当な社会規範を破る反逆行為とを区別することは重要だ。つまり、異議申し立て逸脱は区別しなければならない。 異議申し立ては市民的不服従のようなものだ。それは人々が基本的にルールに従う意思を持ちながら、現行ルールの具体的な内容に心から、善意で反対している時に生じる。彼らはそうした行為が招く結果にかかわらず反抗するのだ。これに対し逸脱は、人々が利己的な理由からルールに従わないときに生じる。この二つがきわめて区別しがたたいのは、人はしばしば逸脱行為を一種の異議申し立てとして正当化しようとするからだが、自己欺瞞の強さのせいでもある。逸脱行為に陥る人の多くは、自分が行なっていることは異議申し立ての一形態だと、本気で信じているのだ。

(p.93-94)

 

  このコロナ禍でマスクをつけず、あまつさえノーマスクで集団化してデモをおこなってそれを正当化しようとする人たちのことが連想されるだろう。「ていねいな暮らし」に対する拒否反応そうだ。ヒースは左派のカウンターカルチャーと右派のリバタリアニズムの類似性を指摘しているが、コロナ禍ではむしろ右派の方が目立っているところだろう。

 

……そうして、あらゆる社会規範に対する反逆は肯定的に評価された。だが、こうした考え方の最大の帰結は、ほかのどこよりアメリカの、礼儀正しさのあきれるほどの減退だった(いまや「ありがとう」と言われたら「どういたしまして」と答える代わりに「うん」とつぶやくお国柄だ)。誰でもよく考えればわかることである。作法の衰退は人間を自由にするどころか、反社会的な態度(と政治方針)に利するようになっただけのことに思われる。
(p.108-109)

 

 これはアメリカ映画を見ているとよくわかる。あいつらすぐにFuckっていうし、アメリカ映画に出てくる若者は未成年飲酒や大麻や窃盗や自動車泥棒などの犯罪をしない方がめずらしい。アメリカという国の文化や歴史には興味があってもアメリカに行ったり住んだりしたくないなと思うのはこのせいだ。
 そして、マイノリティ文化が「作法」や「秩序」を無視・軽視する傾向にあることもカウンターカルチャーの影響があるのだろう(既存の作法や秩序はマジョリティの押し付けで抑圧、と見なしてしまうから)。そして、作法や秩序に欠けているために、その文化内で暮らす人々の教育やキャリアにも影響を与えてしまうおそれがある*1

 

……ムーアにとってコロンバイン高校銃乱射事件は単なる犯罪行為にとどまらず、アメリカの社会と歴史の告発だった。

(……中略……)ムーアによれば、カナダ人はありとあらゆる銃を持っているが、銃による暴力はほとんど起こらない。したがって、問題の「根本原因」をもっと掘り下げることが求められる。アメリカに存在する「恐怖の文化」が元凶だ、とムーアは言う。

(……中略……)ムーアは、銃規制は重要ではない、カナダには数百万挺の銃があるが、銃による暴力がほとんどないのだから、と主張する。この論は不正と言っていいほど率直さを欠いている。カナダにはきわめて厳しい銃規制法があることに、ムーアは言及していない。
(……中略……)つまりカナダとアメリカの最大の違いは、文化的ならぬ制度的なものだ。むしろ文化の違いは、法律と制度の違いの結果である。カナダ人が恐怖の文化のもとで生きてないのは、アメリカとは違うテレビ番組を見ているからでも、奴隷制の遺物がないからでもなく、しじゅう撃たれる心配をしなくていいからなのだ。
(p.164-166)

 

 

 社会問題の原因を文化などの「深い」ところに求めるか、制度などの「浅い」ところに求めるか……という構図は、ブラック・ライヴズ・マターに関する議論(警官による黒人の射殺の原因は、制度的レイシズムという"深い"問題であるか、警官による銃の発砲機会がそもそも多いという"浅い"問題であるか)についても繰り返されているところだろう。

 

*1:エイミー・ワックスによる「ブルジョワ文化」の議論にも関係がありそうだ。

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