道徳的動物日記

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【2023年版】キャンセル・カルチャーのなにが問題か

(6/14追記:トークイベントをやりましたのでよかったら視聴(※チケット購入)してください)

 

 

 

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 本日開催の「左からのキャンセル・カルチャー論」に備えた、要約・メモ的な記事。もっと早く書きたかったんだけど、開催数時間前とかなりギリギリの公開になってしまった。

 

1・(法律的な)手続きを無視した攻撃であること

 

 英語で書かれたキャンセル・カルチャー批判本のひとつに、アラン・ダーショウィッツによる Cancel Culture: The Latest Attack on Free Speech and Due Process(『キャンセル・カルチャー:言論の自由とデュー・プロセスに対する最近の攻撃』)というものがある*1。この本自体は大して面白いものでもないのだが、副題にはキャンセル・カルチャー二大問題が示されているといえる。

 キャンセル・カルチャーが問題を起こしたとされる個人から仕事や職位や自己表現の機会を奪う、そうでなくてもその人の評判を下げたり名誉を剥奪したりするものであるとして、それらはあくまで市民が自分たちの裁量で自発的に行うものであるため、警察や検察などの公的機関による捜査もなければ裁判によって事実関係が争われたり法律や判例に基づいた処罰が下されたりするわけでもない。

 そのため、冤罪の問題は常に起こり得る(例:草津町長の性加害疑惑ジョニー・デップのDV疑惑。また、微妙なところだが小山田圭吾のいじめ問題についても冤罪であったという論調が強くなっているようだ)。

 また、冤罪でないとしても、法律や判例などのルールや慣習などが存在しないため、同じようなことをした人でもキャンセルされたりされなかったりするなど、恣意的なものとならざるを得ない。

 そして、キャンセルを求める側は「権力を利用して弱者に加害した人に対する抗議や処罰」といったことを意図していても、実際には非常勤であったり新人であったりするなどの立場の弱い人のほうがキャンセルの影響を受けやすく、常勤であったりベテランであったりするなど立場が強くて権力が確立している人ほどキャンセルの影響を受けづらいという、ある種の逆進性が存在する。つまりキャンセル・カルチャーは「弱いものいじめ」になりやすいのである*2

 法律的な処罰はさまざまな手続きを経てからでないと下せられないこと、法律のプロセスが手続きによって雁字搦めにされていることは、冤罪・恣意性・逆進性といった問題に対処したり予防したりするためでもあるはずだ。「法外」の領域で、手続きを伴わずに行われるキャンセル・カルチャーは、これらの問題から逃れられることが原理的にできないかもしれない(「キャンセルをする人々の良心に呼びかける」といった方策もあるかもしれないが、人々の良心なんてあてにならないからこそ手続きが存在すべきであるとも言える)。

 

 ただし、「キャンセル・カルチャーは法律的な手続きを経ずに処罰をしたり抗議をしたりするものであるからダメだ」と言い切るわけにはいかないことにも留意すべきだ。

 このポイントにしては晶文社の記事のほうで書いたが*3、そもそも、社会には「法律」ではなく「道徳」(あるいは「評判」や「政治」など)に任せられる領域も存在すべきである。「法律によって裁けない問題は放置すべきだ」という主張は「そのような問題も裁けるようにするために法律を追加したり改正したりすべきである」という主張を招き寄せて、警察権力や国家権力などの拡大と市民の自由や自治・自律の減少につながる。ある領域までは法律が介入すべきでなく、市民同士の自由な批判や抗議に任せられるべきである(批判や抗議の対象になった人がなんらかの不利益……経済的・職業的な不利益も含む?……を被ることも許容されるべきである)というのは、おそらく、民主主義社会ではごく基本的なことであるだろう。

 また、自由や自治が減少するとしても法律が制定されたり改正されたりするべき場合もある。そして、「法律が改正されるべきだ」という合意が形成されるためには、法律の外側、「道徳」の領域での運動がまず必要になる。たとえば近年では性的加害や性交渉の同意に関しては国外でも国内でも罰則を伴う法律の制定や改正が議論されたり実行されたりしているが、それは望ましいことであるかもしれない……これまでに放置されてきた被害者が救済されたり、新たな被害を予防しやすくなったりするかもしれないから。だが、近年に「性的加害や性交渉に関して罰則を強化する必要がある」という合意が社会に形成されるためには、#MeToo運動が必要であっただろう。問題なのは、性的加害というのが密室で起きるものであったり性的な同意には曖昧な性質であったりすることや性被害者の告発は疑われやすいという傾向への配慮などから、#MeToo運動は「冤罪」を引き起こしやすいということだ(上述した草津町長やジョニー・デップの冤罪問題も#MeTooと地続きである)。……しかし、「冤罪を引き起こしてきたから#MeToo運動はなかったほうがよかった」と主張することも困難である。同じことはキャンセル・カルチャーにも当てはまるだろう。

 

2・言論の自由表現の自由を抑圧すること

 

 Free Speechは「言論の自由」とも「表現の自由」とも訳される単語であるが、キャンセル・カルチャーがそれを抑圧する、というのは多くの人が問題視してきたことだ。

 わたしが書いてきたいくつかの記事では、アカデミックな言論の自由が侵害されるということをとくに批判してきた*4。わたしの意見を端的に要約すると、事実に関しても規範や価値に関しても、制度の外側で創出されるものよりも正確で質も良い「知識」や「議論」を創出するための制度がアカデミアなのであり、そしてその制度を保つためには、差別的なものであると批判されている言論であっても……一定以上の論理性があるとかなんらかの証拠に基づいているとか査読を通過するとかの手続き的・形式的な要件をパスするものであれば……自由に提出できる必要がある。逆に、一部の言論が差別的であるという理由で規制されているなら、アカデミアで創出される「知識」や「議論」には疑義が生じてしまう。正確で信頼できる知識が得られないことは単に損失でもあるし、社会問題などに対して適切な対処を行うことができなくなるなどの弊害も生じる。また、アカデミアが議論創出の場として信頼できないとなると、より質が低くて利害関係も介入してくる、信頼性の低い制度(論壇やマスメディア、SNSなど)から創出された議論に頼らざるを得なくなってしまう。

 とくに価値や規範に関わる議論は、SNSや一部のメディアなどで行われる議論はポレミックで弊害の多いものになりがちであり、だからこそアカデミシャンや知識人・言論人は論争を呼ぶ話題や危険な話題についても議論が行える良質な環境を担保する努力が求められる*5。とはいえ、実際には、アカデミックであったり知的であったりする環境でこそ言論の自由が実質的に制限されていることが多いようだ。アカデミックな概念や理論のなかには一般的・日常的な感性や考え方に比べて「危害」や「差別」を拡大解釈するものも多く、それらを真に受ける人が多いというのも一因だろう*6。アカデミシャンや言論人の多くは教育者でもあるから学生たちの安全のために危険な言論を諌めたり牽制したりするという職業的な配慮もあれば、ただ単に良心的な人が多いという面もあるかもしれない。そして、アカデミシャンも知識人も他の人たちと同じように集団を形成して集団のルールや風潮(「危険な言論をしているやつを相手にするな」など)に従ってしまうという傾向があり、言論の自由を守るという規範よりもローカルなルールや風潮を優先してしまう、ということも問題の大きな要因になっているだろう*7

 

 アカデミックな言論に限らない、より広い範囲の表現の自由についても、キャンセル・カルチャーによってそれらが抑圧されることにはいろいろな問題がありそうだ。さまざまな形の表現が撤回を求められたり萎縮させられたりすることは、個人の自由や自律の侵害であると言えるし(自由の道徳的擁護論)、表現の範囲が狭められて表現物の多様性が乏しくなることは表現の受け手にとっても損失である。また、民主主義社会においては人々には質の低いポレミックなものであったとしてもいかなる言論や表現を実践する自由があり、それを制限することは正当化できないと論じることもできるかもしれない(手続き的正当性の議論)*8。さらに、表現を規制したところで人々の頭の内側にある疑問やアイデアまでをも制限することは不可能であるから、差別的な発想や危険な考えであっても表現を認めたうえで反論によって是正するように努めたほうがよく、表現を規制することにはむしろ差別的な発想を地下に潜らせて力を蓄えさせるおそれがある(そしていつか深刻な害として噴出するかもしれない)、という懸念もある(「ガス抜き」理論と言おうか)。

 とはいえ、表現の自由を擁護する議論の多くも、表現の自由は絶対的なものではなく他の価値や原則と並び立つものであるとしているし、ときには比較衡量の結果として表現の自由を制限することも認めている。わたし自身も、質の低いポレミックな議論の自由を認めることにどれだけの価値があるかは疑問に思っているし、芸術的な創作物やフィクションに諸々の性的表現といったものの価値についてもかなり低く見積もっているほうだ。なんらかの表現について価値を認めないことと、それらを表現すること自体を認めないこととは全く別の問題だとも言えるかもしれないが、すくなくとも表現の自由の絶対主義者になるつもりはわたしにはないのである。

 

 なお、言論の自由表現の自由のほかに、キャンセル・カルチャーは人格の自由を抑圧する、という議論もできるかもしれない。キャンセル・カルチャーには些細なことや過去のことであっても抗議や批判の対象にするという特徴があるが、キャンセル・カルチャーの影響力が強い社会では一部の性格的特徴を持つ人たち…空気が読めない、怒りっぽい、頑固である、異性に対する関心が強い、性欲が強い、毒舌、諧謔的、などなど……は生きづらくなったり、自分の個性を発達させてそれにしたがった生き方をすることができなくなったりするかもしれない。性格的特徴によって引き起こされる問題へのペナルティが増すためだ。

 もちろん、社会においては他人に危害を加える性格的特徴は多かれ少なかれ抑制する必要があるし、基本的には、社会が進歩するにつれて人々が抑制すべき要素も増えていくものでもある。人々の個性や多様性は尊重しなければならないとはいえ、共生や協同も考慮しながらのバランス取りも必要だ。……とはいえ、集団内の様子がおかしくなっていたり社会の状況が悪くなっていったりするときには、空気の読めない人や頑固な人の存在がブレーキになったり、怒りっぽい人が問題を明らかにして解決するための引き金を引いてくれるかもしれない。異性に対する関心や性欲が強い人のほうが優れた芸術作品や表現を生み出すという昭和的な発想にも一理あるかもしれないし、毒舌な人や諧謔的な人でないと表現できない物事もあるだろう。彼らの性格に問題があるからこそ生み出された作品をわたしたちは享受しているかもしれない。……要するに、個性や人格を抑圧することは、抑圧の対象となる人々に不利益を与えるだけでなく社会全体にとっても多かれ少なかれ損失を与えるかもしれない、ということだ。

 大雑把な話になるが、キャンセル・カルチャーに限らずポリティカル・コレクトネスの風潮や左派的・反差別的な議論一般において、人間の在り方の多様性とか「善の構想」の多様性などを認めない傾向が存在する。「キャンセル・カルチャーやポリコレを唱えている人は似非リベラルだ、真のリベラルではない」といったクリシェ的な議論もこのことを懸念するものだろう。……これについてもわたしの考えは微妙だ。結局のところ程度問題であり、度を越した人格的特徴を持つ人が生きづらくなるのはやはり仕方がないことだとは思うが、抑圧が過剰なものにならないように寛容やゆとりを持った対処も必要だとも思う。

 

3・みっともない

 

 ここに関してはまだわたしも考えを詰め切れていないのでオマケ程度に。

 たとえば、過去の記事では以下のようなことを書いている。

 

たとえば、不祥事が発覚して話題になっている芸能人についてSNSやニュースサイトのコメント欄で非難することは、ふつうに考えれば本人にとって時間のムダでしかないことだ。一般市民が生活のなかで芸能人と関わる機会はほとんどないものだし、社会的非難が集まったことによりその芸能人がテレビに出なくなったところで、わたしたちの生活になにか大きな変化がもたらされるわけでもない(テレビ番組の出演者が入れ替わって、番組が前よりつまらなくなるか面白くなるかというだけだ)。しかし、「非難」という行為には美徳をアピールする効果や「報酬」が伴うことを理解すれば、キャンセル・カルチャーや社会的制裁に加担する人が存在する理由も理解できるようになる。

(…中略…)ネット上で他人を非難する際には、現実の集団で他人を非難するときのような「覚悟」が必要とされないことにも、問題が伴っている。非難の対象も、非難の様子を眺めている第三者たちも、会社や学校のように現実的な利益を共有する集団の仲間ではない。所詮は他人事であり、称賛する側も無責任になれるからだ。さらに、今時はほとんどのSNSに「いいね」ボタンやシェア機能が設定されていることは、自分の言葉で表現する手間を省いて他人の投稿に賛同の意を表明することを可能にした。これらの要素により、インターネット上で他人を非難することは、現実の集団内で他人を非難することよりもずっとお手軽に称賛を得られやすくなっている。「称賛中毒」となる人が出てきても無理はないのだ。

II-1 キャンセル・カルチャーのなにが「イヤ」なのか? – 晶文社スクラップブック

 

 この記事ではキャンセル・カルチャーと美徳シグナリングの関係を指摘した。また、『アメリカンマインドの甘やかし』では、アカデミアでキャンセル・カルチャーが起こりやすい理由がデュルケームの「集合的沸騰」論と絡めて論じられていた*9

 

 キャンセル・カルチャーは民主主義の営みの延長線上にあるものだとはいえ、やっぱり、多くの人は嫌悪感を抱いている。デモ活動やストライキをはじめとして他の民主主義的な営みも批判や嫌悪感の対象となりやすいし、そのような場合には批判をしたり嫌悪感を抱いたりしているほうが間違っていることが大半だろうが、キャンセル・カルチャーに対する嫌悪感はそうではないかもしれない。

 安全圏から相手を叩くことで称賛を得ようとすることや、熱に浮かされた集団が個人を犠牲にしながら自分たちの結束を固めることは、やっぱりロクでもない。それらの行為が民主主義的には必要とされていたり、政治的なイデオロギーによって正当化できるものであったり、最終的にはより多くの人々を幸福にする帰結につながるなどの理由から道徳的・規範的に認められる場合ですら、別次元の問題として、それらの行為にはロクでもなさが存在する。端的に言ってそのような行為をしている人は人間としてみっともないと思うし、わたしはそんな奴と友達になりたくない。

 ……ここでわたしが想定しているのは「徳倫理」的な問題であったり、あるいは美学的な問題であるかもしれない。このような問題は言語化や理論化も難しいのでなかなか取り上げられないが、考えるに値するポイントであるかもしれない。