道徳的動物日記

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読書メモ:『哲学人 生きるために哲学を読み直す』

 

 

 

 著者のブライアン・マギーはオックスフォードやケンブリッジを学んだ経歴を持つが、アカデミシャンや職業的な「プロ哲学者」ではなく、あくまで在野の人間としてテレビ番組(とそれを書籍化した対談)などを通じて哲学や哲学者・思想家たちを大衆に紹介してきた人。しかし、それと同時に、本人は人生を通じて哲学的な問題について考えてきて、一部のプロ哲学者たち以上に「本物の哲学」の問題と取り組んできたり関わってきたりしたという自負があるようだ。本書では、著者が哲学に目覚めた経緯とオックスフォーで行われていた(当時の)「分析哲学」に対する失望、ケンブリッジで学んだりアメリカに行ったりカントやショーペンハウアーなどの著作を読み込んでいるうちに哲学への情熱を取り戻していったという経緯、テレビ業界に参入して哲学者たちを紹介する番組を企画・放送してそれが成功したこと……などなどがわりと時系列に語られる、自伝的な著作だ。残りのうち四分の一はマルクス主義フロイト精神分析を含む二十世紀中盤〜後半の思想の潮流や「本物の哲学」に関する著者なりの整理や紹介、そして残りの四分の一は分析哲学分析哲学者に対する悪口である。

 マギーによる分析哲学への悪口はおそらく不当なものであるが、とはいえ、いまでも(プロ哲学者すらをも含む)多くの人が分析哲学に対して感じる物足りなさや浅薄さや本質からズレていそうな感じをうまく表現できているし、的を得ているところもありそうだ。また、リベラリストを自認するマギーはマルクス主義に対しては愛憎半ばした感情を抱いているようだが、「大陸哲学」に対しては分析哲学に対して以上に容赦がない。

 

その浅薄さにもかかわらず、いや、むしろ浅薄さに助けられて、大陸哲学は英語圏にある多くの大学の哲学部に侵入しつつあり、その一部を支配してきた。文学部にも影響を及ぼし、心理学、人類学、社会学などの学部にも食いこんでいる。拮抗する大陸派と分析派とのあいだで、争いが進行中のところもある。大陸哲学に引かれる人に、かつてマルクス主義に引かれた人が多いのは見逃せない。大陸哲学の諸派はたいてい同種の集団心理を共有し、異分子の威嚇や排除をはじめ、同一のいただけない振る舞い方をする。私見では、分析哲学のほうがはるかに好ましい。分析は哲学において適切で有用だからでもあり、分析の訓練は間違いなく教育に役立つからでもある。精神鍛錬の一形式として見ると、大陸哲学は逆効果で、学生に邪道めいたやり方で自己表現することを教える。生きた言語ではなく死んだ専門用語を、簡潔ではなく大仰に、明晰ではなく曖昧に用い、合理的論証よりも修辞法を選ばせる。大陸哲学は学生に、考えさせるのではなく、偽ものとなる訓練をさせるのに熱心であり、そうすることで彼らの精神を堕落させるのである。

 

(下巻、 p.326)

 

 わたしもいちおう在野で「哲学紹介者」みたいなポジションになっているし、言語とか論理とか命題とかを取り扱う昔ながらの分析哲学はいかに難しそうでさっぱりわからないから苦手だし、最初は文学や芸術に心を惹かれていて哲学はむしろ見下していたけれど学部生時代の終わり頃に考えを改めたというくだりについてもわたしも似たような経緯を辿ってきたので、マギーにも共感できるところがあるかと思って読み進めていた……が、全然共感できなかった。よく考えたらオックスフォードとかケンブリッジとかに行けたりしてカール・ポパーとかバートランド・ラッセルとかその他スター哲学者たちと親交を紡いでBBCのテレビ放送を企画できるような人はイギリスのなかでもエリート中のエリートであり、そんな人間と自分を重ね合わせられるわけがなかったのである。

 また、三十代の半ばになって中年の危機を経験したマギーはようやく「人生の意味」という問題に関心を示すようになり、それ以前にも自由という価値に対する関心は高かったようであるが、基本的には彼の哲学的関心は認識論とか存在論といったいわゆるガチ哲学的なものであって(倫理学とか価値論とかではないということ)、多くの子供の頭に一度は浮かぶような存在とか時間とかに関する疑問を突き詰めていくために哲学に関わるようになった……という経緯は、プロの哲学者としても有りがちなものであるのだろうが、あんまり共感できない。Wikipediaで経歴を見ていると庶民生まれであり家族関係も万全とは言えなかったようであるが、自伝要素が強いはずの本書でもその辺りはオミットされていて、哲学者たちが関わるもの以外の人間関係や社会生活でマギーの身に起きた問題とか生じた悩みとかがほとんど触れていない。そのために、抽象的な哲学とか政治活動とかに耽溺していられたのも生活や家庭に苦労や問題がなかったから(あるいはそれらの問題からの逃避のためか)、という印象を抱いてしまったのだ。

  1930年生まれの著者が1997年に書いた著作であることを差し引いても、本書にはジェンダー的な視点がほぼ皆無であることや女性の哲学者たちがぜんぜん取り上げられていないことも印象的だ。また、マルクス主義がたびたび登場するとはいえ、階級とか貧困とかの問題はさっぱり出てこない。ここら辺は、2020年代の現在のスタンダードに慣れていると違和感とか物足りなさを感じるところだろう。そして、オックスフォードの分析哲学者たちについて視野が狭かったり身内間で自己満足していたりすることを鋭く批判しているマギー自身が、かなり狭い範囲の人々や物事としか関わっていなかったのではないか、という疑いもつい抱いてしまう。