道徳的動物日記

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インセンティブ、不平等、トリクルダウン(読書メモ:『正義論』③)

 

 

 知っての通り、ジョン・ロールズは『正義論』で「社会的・経済的不平等は、それが最も恵まれない人たちにとって利益になる時にのみ正当化する」とする、「格差原理」を提案した。格差原理は、ときに平等のために過度の全体的な損失を要求することもあるが、逆に、不平等の増大を黙認することもあり得る。

 後者の問題については、平等主義と見なされることの多いロールズの考え方であることをふまえると、違和感を抱く人も多いだろう。

 なぜロールズが不平等の拡大を容認するかについては、広瀬巌による『平等主義の哲学』の第一章で以下のように解説されている。

 

彼の論証は、不平等を容認するためのパレート論証ないしインセンティブ論証として知られている。ロールズによれば、適切な不平等を許容することは、すべての人に対して、より大きな努力をして自らの才能を発展させるインセンティブを与えることになる。結果として、分配できるパイがより大きくなり、最も境遇の悪い集団はそうでなかった場合と同じかより高い水準へと辿り着ける。ロールズは、完全な平等性を捨てることによって全ての人の境遇がより良くなりうるのであれば、完全な平等性を維持することに固執するのは不合理であると主張するのだ。これこそ、ロールズの格差原理が、それが社会の最も境遇の悪い集団を代表する個人の期待を最大化するかぎりは、不平等の増大を黙認できる理由である。

 

(『平等主義の哲学』、p.30)

 

 また、本章の「注」では、インセンティブ論証とトリクルダウン理論が混同されやすいことが指摘されている。

 

一見すると、ロールズの不平等を容認する論証は、典型的には不平等を全く気に掛けない人々によって支持されるトリクルダウン理論に似ている。だが、格差原理はトリクルダウン理論とは区別されるべきである。トリクルダウン理論が主張しているのは、企業および富裕層にとっての減税その他の経済的便益が、経済全体を改善することを通じて、結果的に社会のより貧しい成員たちを益するだろう、ということである。だが、トリクルダウンが社会のより貧しい成員たちを益する保証はどこにもない。

 

(『平等主義の哲学』、p.47)

 

『平等主義の哲学』によると、分析的マルクス主義者であるジョシュア・コーエンは、「『正義論』における原初状態の市民たちは正義に適った社会を作って暮らそうとしているのだから、インセンティブとそれによって結果的に生じる不平等という発想を持ち込むのはおかしい(正義に適おうとしているのだからインセンティブがなくても努力するはずだし、その果実を他人に分け与えるはずだ)」といった指摘をしているようである*1

 

 ロールズによるインセンティブ論証については、以前に紹介したアダム・スウィフトの『政治哲学への招待』のなかでも取り上げられていた。そのなかでも印象的な批判を引用しよう。

 

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平等主義者の聖人ではなく、現実の人間が住んでいる現実の世界に立ち戻ろう。現実世界の記述として、またもしわれわれが経済的不平等を一掃したなら、起きるであろうことの予測として、お馴染の説明はかなり的を射ているように思われる。すなわち、人々は、経済的なインセンティヴによって動機づけられているのであって、何らかの不平等がないと、システムは崩壊してしまうであろうというのである。しかしこの説明を、人々がどのように行動するかの記述としてではなく、また経済的なインセンティヴの欠如に対応して、人々がどのように行動するかの予測としてでもなく、不平等の正当化として考えたらどうだろうか。正当化は、どのように機能しているだろうか。正当化は、人々が、利己的に、経済的報酬への欲望によって動機づけられているという事実に訴えかけている。より厳密に言うなら、人々は、最も不遇な人の福祉を最大化するようには、動機づけられていないと仮定している。もしそうなら、人は、どのような仕事であれ、長期的に見て、最も不遇な人に最も益となるような仕事をーーそれをすることでどれぐらいの報酬が得られるかを顧慮することなくーーするであろう。何か奇妙なことが、どこかで生じているに違いない。もっとも恵まれない人の利益を最大化することに関心があると主張し、また同時に、実際にそうした人の助けになることをするためには、インセンティヴとなる報酬が必要だと主張するような個人には、どこか統合失調症的なところがある。

[…中略…]

おそらく、今日のイギリスやアメリカを特徴づけている不平等は、人々の利己的な動機づけを所与として正当化されている。しかしながら、未解決の問題は、そうした動機づけそれ自体が、正当化されるかどうかということである。もしそうでないとすれば、インセンティヴに基づく議論は、不平等についての真に完全な擁護論を提供してはいない。せいぜいそれは、不平等が必要悪であることを示しているだけである。私の子供を人質に取った者に、お金を渡すとき、私は正当化されるかもしれない。しかし、そこから、譲渡後の報酬の分配が、正当化された分配であるという結果が引き出されるわけではないのである。

[…中略…]

人がそのような正当化を支持し、同時に、インセンティヴとしての報酬を受け取っている自分自身が正当化されると主張するとき、疑わしい不整合が生じている。

 

(『政治哲学への招待』、p.176 - 178)

 

「どこか統合失調症的なところがある」とは印象的な表現である。

 ロールズの議論は道徳的な目的のためになされているが、『正義論』においてはできるだけ合理的な前提……つまり個人は(友愛があったり正義感覚があったりするとしても)自己利益を追求する存在だ、という点から出発したうえでそれでも社会に正義を実現するためにはどうすればいいか、ということが論じられている。合理性と道徳性は必ずしも相容れないわけではないが、矛盾が起きないように調停を突き詰めていくほどに、結果として登場する原理や枠組みはキメラ的なものとなるのだろう。

 スウィフトが行っている批判はコーエンによる批判と同じような問題意識に基づいているのだろう。また、マイケル・サンデルが『実力も運のうち』のなかでロールズの「正当な期待」論を批判していたくだりも、ほぼ同じ内容だ。

 つきつめて言えば、「格差原理によってインセンティヴと平等が両立するというの、理屈の上では正しいかもしれないけれど、理屈の上でしかなくて、実際には格差原理は「おれが金持ちになったのはおれの才能や努力の結果で当然のことだし、才能がなく努力もしない貧乏な奴らに金が対して分配されないのも当然なことだ」といった傲慢で非友愛的な態度をもたらしますよね?」という批判である。インセンティブ論証とトリクルダウン理論理論上は異なるが、実際にはインセンティブ論証に基づいた社会構造や規範はトリクルダウンに基づいた社会構造や規範と同じような発想や言動を人びとにもたらすだろう。

 サンデルの本を読んだときにはこの批判に納得がいかなかったが、スウィフトやコーエンも同様の批判をしていると知ってわたしもこの批判に対して正当性を感じるようになってきた。

 とはいえ、やはり、インセンティヴは必要だしそれがなければ社会の富は増えず総合的に見て全ての人の状態が悪くなる、というのも事実だろう。ロールズの議論が統合失調症的であるとしても、それはこの事実を正面から見据えたうえで、逃げ出さずに取り組んだからである。一方で、サンデルのような共同体主義者やコーエンのようなマルクス主義者の議論はこの問題に対処できているかというと、そんなことはない。現実から目を逸らしてインセンティブの存在そのものを否定したり、「共通善」といった具体性が皆無で有効性も不確かであるお花畑な概念を持ち出したりするのが関の山だ。

 結局のところ、多少の不整合や偽善や傲慢さをもたらすとしても、ロールズの議論のほうが支持できるものだと思う*2

 

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 なお、『正義論』の「事項索引」を見ても、「インセンティブ」という事項は掲載されていない。「正当な予期」という事項は掲載されており、以下のような場面で使われている。……しかし『正義論』はおそろしく内容や文章がわかりづらい本であり、しばらく読んでいても、批判者たちが指摘するような「インセンティブ論証」をロールズが実際に行っているかどうかということ自体について、わたしは理解するのに手間取ってしまった。

 

さて本書で述べてきたように、基礎構造こそが正義の第一義的な主題となる。もちろん、どのような倫理の理論も正義の主題のひとつである基礎構造の重要性を認めているにせよ、あらゆる倫理の理論がその重要性を一様に評価しているわけではない。<公正としての正義>において、社会は相互の相対的利益(ましな暮らし向きの対等な分かち合い)を目指す協働の冒険的企てだと解釈される。基礎構造は諸活動の枠組みを規定するルールの公共的システムであって、このシステムは人間が力を合わせて便益の総量を拡大生産するように彼らを誘導し、かつ収益の取り分に対する一定の権利要求を承認のうえ各人に割り当てる。人が何を為すかは、公共的なルールが当人にどのような権利資格を付与したかによって決まり、ある人の権利資格は当人が何をするかによって決まる〔という循環関係が成立している〕。複数の権利要求ーー正当な予期に照らして人びとが取り組むものごとが、それらの権利要求を決定するーーに敬意を払うことを通じて、結果として生じる分配へとたどり着く。

 

(『正義論』、p.116、強調は引用者による)

 

…正義にかなった協働のシステムが公共的諸ルールの枠組みとして与えられ、関係者の予期がその枠組みによって構成されると仮定した場合、自分の生活状態を向上させる見通しをもって、当該のシステムがその報酬を与えると公言していることがらを為した人びとは、自分たちの予期が満たされることに対する正当な権原・資格(entitlements)を有している、ということ。こうした意味において、運や財産に相対的に恵まれた人びとは自らの相対的に望ましい境遇を保持する権利を持っている。言い換えると、彼らの権利要求は社会の諸制度によって確立された正当な予期であって、それらの予期を充たす責務を共同体(周囲の人びと)が負うことになる。けれども、ここでいう功績(desert)は〔他者や共同体の承認を基盤とする〕権原・資格という意味にほかならない。この意味での功績は、協働の制度枠組みが現に作動していることを前提としており、この制度枠組み自体が格差原理に則って設計されるべきか、それとも別の基準に従うべきかという〔制度設計の〕問題を考える上での重要なつながりを何ら有するものではない。

 

(『正義論』、p.139 - 140、強調は引用者による)

 

*1:あなたが平等主義者なら、どうしてそんなにお金持ちなのですか』ほしいです。

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*2:なお、ロールズは不平等それ自体は友愛に反したり自尊を奪ったりするという点で問題であると見なしているが、「不平等それ自体は全く問題でない」と断言するハリー・フランクファートやスティーヴン・ピンカー的な意見にも一定の説得力はあると思う。

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