道徳的動物日記

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読書メモ:『分配的正義の歴史』

 

 

 

 数年前にも読んだことあるはずだが内容はまったく覚えていない。

 思想史の本ではあるがその主張と主張と明快だ。現在では当たり前に思われている「(功績 meritではなく)必要性に基づいて、すべての人が、一定の財を分配されるべきである」という分配的正義の捉え方はアリストテレスの時代には存在せず時代を通じて普遍的な考えということではなかったということ、分配的正義に関する現代の捉え方は近代前後から様々な思想家の考えを通じて徐々に作られていったということを示すのが、本書の主な内容である。また、アダム・スミスイマヌエル・カントにフランソワ・バブーフなどの思想家たちが正義についてそれぞれに発展させた考えが最終的にジョン・ロールズに集約されていき、ロールズが提示した考えには様々な思想家たちの残滓が存在しているということを示す……という構成になっているので、スタートからゴールを意識しながら読んでいけばついていきやすい議論だともいえる。

 

 著者によると、近代的な分配的正義の発想は以下のようなことを前提にしている。

 

(1)単なる社会や全体としての人類ではなく、各個人が尊敬に値する善を備えている。また、個人は自分自身の善を追求する際、当然ながら一定の権利や保護を与えられるべき存在である。

(2)一定の物質的な財の割り当ては、すべての個人に帰すべきものの一部であり、あらゆる人間が受けるに値する権利と保護の一部である。

(3)あらゆる個人が一定の物質的な財を受けるに値するという事実は、完全に非宗教的な言葉によって合理的に正当化されうる。

(4)一定割合の財の分配が実行可能であり、それを実現するために熱心に取り組むことは、馬鹿げた目論見ではないし、友情を押しつけようとする場合のように他人の目標を阻害することでもない。

(5)単なる私的な個人や組織ではない国家こそが、そのような分配を保障すべきである。

 

(p.10)

 

 本書でもとくに印象的なのはスミスに関するくだりだ。近代的経済学の創始者でもある彼は、貧民は他の立場の人々と等しい人間であり美徳や能力の面でも劣らないことや貧民とそうでない人の違いは生まれつきのものではなく環境や習慣によってもたらされていると主張しており、『法学講義』という著作のなかでは貧民の「気品」に満ちた姿を描いて彼らの労苦が社会の枠組み全体を支えていると強調するなどして、人々の貧民に対する態度を変えて同情や共感の対象に含めようとしたのである。

 また、カントが「すべての人間は合理性を備えており彼ら自身に価値があるので、その他の違いに関わらずすべての人間は等しい尊厳や権利などに値する」といった主張をしたことは定番だが、本書では以下のような記述が印象的だった。

 

…カントは『道徳形而上学言論』のなかで、道徳的な行為の三番目の例として、我々のすべてが自分たちの「能力」や「資質」を発展させなければならないという義務について語っている。…(中略)…人間の「涵養」こそが社会の究極目的であるという理想を保持したドイツの思想家たちの全世代ーーフンボルト、シラー、ゲーテヘーゲルーーに対して影響を与えることになったものである。そのような理念は、以上のような多くのドイツの思想家たちの信条が消え去った今日においても、なお我々の身近なところに存在している。ウィリアム・O・ダグラスがウィスコンシンヨーダー裁判の反対意見のなかで、もし「ピアニストや宇宙飛行士や海洋学者」になる機会が得られるような教育を受けていなければ、ある人の「全生涯は、発育を妨げられ、歪められるかもしれない」と記したとき、ダグラスは、たしかに意図的ではないが、その主要な源泉の一つがカントにあるところの、人間本性に関するロマンティックなドイツ的見解と同じことを述べたのである。

このような見解は、分配的正義にとって重要な帰結をもたらす。というのも、人間の能力を発展させるには、多数の物質的な財と社会制度が必要だと考えられるからである。そこで、もしある人間の人生の価値というものが、彼ないし彼女の能力の発展を必要とするのならば、そのとき社会は、さもなくばそれらを獲得できないかもしれないすべての人間に対して、そのような能力を発展させる物質的環境を提供する必要があるのかもしれない。たしかに、自分がどんな能力を持っているのかを知るうえで必要となる教育や機会を、すべての人間に確実に付与する必要があるだろう(ダグラスがウィスコンシンヨーダー裁判で求めたのはこれである)。このような見解にしたがえば、もし人類が単に社会によって良いとされる一連の不変の仕事と義務を履行するだけの存在だとすれば、彼らが適切な生活を手に入れることはないのである。そうではなく、彼らが自由に発展し、自ら価値があると考えるすべての能力を展開できるところの、彼ら自身の豊かな「人生計画」を叶える必要があることになる。

 

(p.111 - 112)

 

 上記の発想はロールズにも、そしてロールズ以後のマーサ・ヌスバウムにも大いに見られるものである。

 また、スミスによる「貧民と他の人の違いは生まれつきではなく習慣や環境の産物」論や、カール・マルクスによる「社会制度は人間の欲望や選好に影響を与える」「人生の展望や社会や政治に左右される」「努力するという能力や意思を持てるかどうかも社会の産物」といった議論もロールズヌスバウムの理論には取り入れられている。これはロールズの平等原理にも関連しているし、具体的な個々人の行動や能力や結果などの「功績」に応じた分配をする以前にスタート地点を平等するための分配が必要になる(構造的な不平等を是正できなければその不平等な構造に左右される功績に基づく分配は正当化できない)、というのは現代の政治哲学の基本となっている。思想史を追いながらここらへんを再確認できるのが本書の良さだ。

 

 ちなみに、本書では功利主義者たちも(出番は少ないが)登場する。ジェレミーベンサムやJ・S・ミルと並んで日本ではまだまだ目立たないヘンリー・シジウィックも取り上げられ、「公正な分配」や正義に関する彼の議論もロールズに影響を与えていることが指摘されている。また、功利主義者たちは社会の改革が可能だと思っていたこと、そしてたしかに功利主義者たちは改革運動を実現したということは、分配的正義はもはや「馬鹿げた目論見」ではないということを示したという点で重要である。