道徳的動物日記

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読書メモ:『ロールズ正義論とその周辺 コミュニタリアニズム、共和主義、ポストモダニズム』

 

 

 マイケル・サンデルの『実力も運のうち』は案の定ベストセラーになって、この度は文庫版も出版された*1。しかし、『実力も運のうち』でなされていた議論についてわたしはかなり批判的だし、この本を読んで以来はサンデルやコミュニタリアニズム全体に対して疑問を抱くようになった*2。そのため昨年からの政治哲学の勉強の一環としてサンデルの『自由主義と正義の限界』を読んだうえで、『リベラル コミュニタリアン論争』も約一年前に読んだのだが、後者の本ではサンデルの議論の問題点が簡潔にまとめられていた記憶がある(読書メモを取れていないのでそのうち読み返すつもり)*3

 そして、サンデルに対する批判をもっと読みたいので調べていたところで評判を聞いた、『ロールズ正義論とその周辺』を(近所の図書館に置いていなかったからわざわざ相互貸借サービスを利用して)借りて読んでみたのだが……残念なことに、ここ最近にわたしが読んできた本のなかでもぶっちぎりの悪文で読みづらい。というのも、サンデルに対する「批判」の域を超えた「悪口」や下らない嫌味や皮肉、要領を得ない比喩表現や高尚ぶるだけの意味しかない修飾語に翻訳すればいいだけの無意味な英字表現が、全ページにわたって延々と頻出し続けるからだ。これらがあまりにノイズになり過ぎていて、議論の筋や文章の意図を追っていくことすらしんどくなってしまった。

 サンデルに対する悪口を言うだけならまだ許せるが(それもよくないが)、ここまで悪文であると読者であるわたしまでもがナメられている気がしてしまう。ストレスも溜まるし時間の無駄だし、『リベラル・コミュニタリアン論争』を読み直せばいいやという結論に達したので、途中で読むのを放棄しました。……とはいえ、せっかくわざわざ借りてある程度のページ数は読んだのだから(そしてもう二度と手に取ることはないだろうし)、読めた範囲で重要そうに思ったところのメモだけは取っておく。

 

[『リベラリズムと正義の限界』におけるサンデルのロールズ読解について]…「善」と「正」の関係がまずい。多分に意図的であるような気もするが、ロールズ善論の基本構造を無視する言説が多い。「正は善に先立つ」、これだけでは何も理解したことにならない。まずは、ロールズ善論が「二層構造」(two-tiered structure)をもつことを押さえなくてはならない。すなわち、

(1)薄く一般的な善論ーー幸福一般の理論。人間は幸福を追求する存在である。そのために、種々の社会的基本善(social primary goods)や合理性を必要とする。

(2)厚く特定的な善論ーー特殊な幸福の理論。個人ないし集団が追求する確定的な善に関わる。包括的な哲学や世界像に裏打ちされている。

そこで、ロールズ善論と正義論の構造を明記すると、(1)は正義論に先行し、(2)は正義論のあとに来る。つまり、「一般的善は正義に優位し、正義は特定的善に優位する」というのがロールズにおける善と正の正確な関係である。ロールズ正義論は(1)において「目的論」(ヒューム)をとり、(2)において「義務論」(カント)をとる。読者には、そもそも正義の二原理がどういう原理であったかを思い起こしていただきたい。それは、「公正な環境下でもっとも合理的に幸福を追求するときに、個人が従う行動原理」であった。幸福(一般的善)の追求は正義の前提である。以下、サンデルの体系的なロールズ誤読は、かかる基本構造の無理解によっている。我々はつねに、一般的善と特定的善を峻別しなければならない。ちなみに、サンデルの基本的な主張は、「厚く特定的な善が正義に先行する」ということである。

だから、「自我は目的に優位する」(主体は条件に先立つ)も同じである。一般目的としての幸福ーー上記(1)に相当ーーは自我に優位する。それはその存立条件でさえある。自我が優位に立つのは、厚く規定された特定の目的ーー(2)に相当ーーに対してである。

サンデルが、「ロールズはヒュームとカントを和解させることに失敗した」と断定するのは、彼がロールズ善論の二層構造を無視して、あらゆる善を十把一絡げにしているからである。

 

(p.96 - 97)

 

義務論的自我は一切の目的や価値に先立ってアプリオリに個別化された自我である。対して、格差原理は「共同資産」(自然的資質の共同所有)を前提としており、ひいては相互主観的な共同主体を想定する。従って、義務論的倫理は格差原理と両立しない。[←格差原理に関するサンデルの批判の要約]

[…中略…]

格差原理が共同資産論、ひいては共同主体論を前提するという誤解は、すでに過去のものである。[…中略…]共同資産論は格差原理の一解釈(モデル)であってその前提ではない。個人主義的な【方法論】によって演繹された格差原理が、強く共同的な社会(共同資産社会)をその「モデル」、すなわちある種の【存在論】としてもちうることの論証は、【方法論】的個人主義者にとってはその輝かしい成功を意味するのだが、【方法論】と【存在論】の区別が付かない人々には、奇天烈なサーカスとうつるのである。

また、社会的協働の産物を「社会のもの」と見なすにあたって、「共同主体」のごとき神秘的な実態を捏造する必要はない。「みんなで作ったものはみんなのもの」という幼稚園的倫理で十分である。

 

 

(p.100 - 101)

 

こうしてロールズをdichotomyの一極に押し込んだサンデルは、ロールズに「何もかもダメ」の烙印を押して終わる。きっかけはやはり、原初状態のトラウマである。たかだか【方法論】でしかないものに【存在論】(哲学的人間学)を読み込み、ロールズの人格論・自我論を都合よく創作してしまった。バランスを失ったロールズ批判は結局パラノイアの域を出ていない。「構成的」(constructive)への妙なこだわりは、アトムとしての自我がそれを受け入れない、という妄念の裏返しである。

 

(p.107)

 

 上記の引用部分はいずれも第二章から。また、第二章の終盤では、ロールズ自身もサンデルによる「自我の構想」批判を一蹴したことが指摘されているほか、「ロールズが政治的リベラリズムに転向したのはサンデル(をはじめとするコミュニタリアン)の批判を受けたからだ」という世間の通説が誤りであると論じられている(コミュニタリアンの批判を真に受けたなら「包括的リベラリズム」の方向に進んでいたはずなのに、ロールズが実際に進んだのは真逆の方向だった)。

 サンデルによる「自我の構想」批判が些細な論点をあげつらう難癖みたいなものだとは、わたしも『自由主義と正義の限界』を読んでいるときにぼんやりと感じていたことだ。それを明文化して指摘されたこと自体はありがたい(だからといって「トラウマ」とか「パラノイア」とかいった表現を使う必要は皆無であると思うが)。

 

 あと本書のよかったところを探すなら、「包括的教条」や「哲学」といったものを一切拒む、ドライで冷徹なプラグマティズムとしての「政治的リベラリズム」の姿が描き出されていること。リベラリズムを支持する人であってもわたしを含めた大半がどこかに「卓越」とか「徳」の余地を見出したがるところだが、リベラリズムはあくまで異なる価値観や利害を持つ人々の協力を成り立たせるための社会契約に過ぎないのでそれ以上のものを求めるんじゃないよ、みたいな突き放した考え方が感じられた(ちゃんと読んでいないので違うかもしれないけど)。

 宗教とリベラリズムの関係に関する以下の指摘も覚えておきたい(あくまで「ロールズ型リベラル」の考え方であり、マーサ・ヌスバウムもウィル・キムリッカも同意しそうにないものだけど)。

 

宗教問題に対する「ロールズ型リベラル」の反応は、要するに「触らぬ神に祟りなし」である。そもそもリベラリズムは阿鼻叫喚、地獄絵図の宗教戦争から生まれたのだから、宗教というものはそれが市民社会を破壊してしまわない範囲でノータッチ、が一番いいのである。正統派のユダヤがその宗教的行為によって部隊を全滅させてしまう恐れがあるのなら、上官はその行為を断じて許すまい。そうでないならひたすら「忍」の一字ーーローティの言う「慇懃な無視」(a being neglect)ーー、それがリベラリズムの歴史的教訓であり「寛容」(耐えること)の真意である。

 

(p.136)

 

 あとはまあ熟議民主主義論に対する以下の批判も印象的だった(この批判は『実力も運のうち』での「共通善」論にも当てはまるものだろう)。

 

熟議がつねに人々の公共精神を喚起し、そのpreferenceを変容・収斂させ、いつも望ましいコンセンサス(あるいはその近似点)に導くというバラ色のシナリオが描けるのなら、人民の絶対主権もよろしかろう。さすればリベラリズムも無用であろう。しかし、リベラリズムはこの手のユートピア思想とは無縁である。シェルドン・ウォーリンのいわく、「以下我々の課題の一つは、後者〔リベラリズム〕の伝統を前者〔democratic radicalism〕から解き放つこと、そして、リベラリズムがしらふ(sobriety)の哲学であり、恐怖から生まれ、幻想からの覚醒(disenchantment)を糧に育ち、人間の条件は苦痛と不安の状態であり今後もまたそうであろう、と信じる向きにあったことを証することである」。リベラリズムは熟議を妨げない(いな、促進する)。大いにやったらよろしい。だが、ユートピア思想にはついて行けない。具体的な制度論をもたず、ただ熟議の精神論を鼓舞し、ひたすら公共精神をたのみとするようでは、かなり興ざめである。そこに見出されるのは、せいぜい精神注入ないし根性デモクラシー(そしてその背後でくすぶる人間改造論)でしかない。

 

(p. 208 - 209)

 

 ちなみに、著者は「哲学者」が政治に関してなにか特権的な役割を持てる、という発想も批判しているようだ*4。この点に関して、サンデルが経済学者や官僚による「テクノクラシー」は批判するくせに政治哲学は重要だと論じるのは自分の分野を特権視しているだけだよな、と感じたことを思い出した。