道徳的動物日記

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リベラリズムにとって「手続き」と「平等」が大切な理由(読書メモ:『リベラリズム:リベラルな平等主義を擁護して』)

 

 

 ジョン・ロールズなどの特定の思想家の解説本や思想史の本ではなくリベラリズムの「理論」への入門書が数少ないことには先日にも言及したが、今月の上旬にめでたく邦訳が出版されたポール・ケリーの『リベラリズム:リベラルな平等主義を擁護して』は現代の英米政治哲学におけるリベラリズム理論へとしっかり入門させてくれる、稀有な本だ*1

 

 本書でとくに中心的になるのが、ジョン・ロールズに由来する「政治的リベラリズム」と、ロナルド・ドゥオーキンなどに代表される「リベラルな平等主義」である。

 

…私は、本書の主題はリベラリズムと呼びうる多様なアプローチのうちの一つであるとだけ主張する。私は、規範的政治理論としてのリベラリズム、もっと正確には、政治的リベラリズムと呼ばれうるものを扱う。政治的リベラリズムとは、もっと広いリベラルな伝統の中で、リベラルな平等主義的分配原理をその核心に据える一分枝である。それが政治的である理由は、自らの生をいかに生きるべきかについての諸個人の意見の多元性を受け容れることが意図されていることにある。政治的リベラリズムは、個人の道徳に関する完全な理論を提供するのではなく、代わりに現代のデモクラシー社会に見出される様々な道徳的および政治的視点に制限を課す。こうした制限は、各人格の平等な地位と扱いに対するその核心たる規範的な関与(コミットメント)によって決定される。生活の様式ないし三人称の〔第三者に対する〕道徳的要求(他者がどう生きるべきかについての私の考え)は、それらが他者の平等な地位の承認と両立可能な限りにおいてのみ、公共的理性として受け容れられうる。

(…中略…)

ここで注意すべき重要なことは、政治的リベラリズムは道徳的懐疑主義を含意するものではない、ということである。政治的リベラリズムは、道徳化された政治理論である。それは、すべての個人の平等な道徳的価値と地位の承認に由来するが、この見解はまた、現代の民主的な社会における道徳的諸見解の理にかなった〔…〕多元性という事実を仮定すると、道徳的主張の範囲に制限を課すことをも要求するのである。

 

(p.16 - 17)

 

 一般的に、リベラリズムは基本的には人々の多様な価値観や生き方の自由を肯定するが、それが他者に危害を与えたり他者の基本的権利を侵害したり、あるいは人々の共同や平等を成立させている状況を破壊したり社会そのもの存続を危うくさせたりするなどの危険性がある場合には人々の自由を制限することも必要とする。このとき、「どういう条件があればだれかの自由を制限することが認められるか」とか「人々の価値観の多様性に左右されない、より根本的な原理とはなにか」とかいったことについて、リベラリズムを主張する人はできるだけ「中立的」または「不偏的」に判断しようとする(そして中立的/不偏的な判断をすることは可能であることを前提とする)。これに対して、リベラリズムの批判者はそんな中立的・普遍的な判断はできっこないし中立や普遍という見せかけで特定の価値観を押し付けるものだ、と反論する。

 本書では、リベラリストたちが中立性や不偏性を確保するための理論や道具立てを第3章「社会契約論」で解説したうえで、そのようなリベラリズムの営みに対する批判を第6章「政治的リベラリズムはどのように政治的なのか?」と第7章「偽りの中立性と自民族中心主義」で取り上げている。6章で扱われるのは闘技的政治論者からの批判、7章で扱われるのはコミュニタリアンアイデンティティ・ポリティクスの理論家からの批判である。

 第3章では、ブライアン・バリーという政治哲学者による「二階の不偏主義」の理論がとくにフィーチャーされている。この理論は要約するのがちょっと面倒なのだが、特徴としては以下のような感じ。

 

このようなリベラルな平等主義が持つ政治的特性の重視は、不偏性としての正義の理論が二階のレヴェルにおいてしか適用されないというバリーの主張に示されている。つまり、契約論的アプローチが適用できるのは、意思決定権の分配と限度を決定する規則を構築するレヴェルにおいてであり、実質的な政治的・道徳的決定のレヴェルではないということである。この二つのレヴェルは、次のように区別できるだろう。憲法の一階の規則とは、たとえば黄色の二重線の上に駐車してはならないというように、特定の行為を命令あるいは禁止するものである。二階の規則は、憲法上のより高次の規則であり、一階の法律に制約を加える権利と意思決定権を分配する。

(…中略…)

同じく重要なのは、二階の不偏性というこの理念を採用したとしても、各主体がどのように行為すべきかを熟慮する際に、「理にかなった拒絶可能性」のテストを直接行う必要はないという主張である。このような仕方でバリーは、自身の理論が、標準的な不偏主義者の議論に対するおびただしい数の批判、すなわち特別な義務や個人としての全一性(personal integrity)、他者への配慮のための余地をもたず、あまりにも要求が厳しいといった批判を克服していると述べる。二階の概念の下では、不偏性の理念は規則と意思決定権の体系、つまり憲法に適用されるのであり、どのように行為するかについての個人の意思決定には適用されない。

 

(p.88 - 89)

 

 また、ケリーやバリーは、異なる人々の間で意見の不一致が生じたり利害が対立したりする問題について「基本的権利」に訴えて対処しようとするタイプの解決策(ロバート・ノージックヒレル・スタイナーなどのリバタリアンや初期のドゥオーキンの主張していたもの)は「理にかなった多元性の事実の承認」を否定するものだとして、それよりも「手続き的な解決策」が必要であると主張する。

 ケリーが例に出すのは、妊娠中絶の権利が法律で認められた過程の、英米での違いである。米国では司法による憲法上の権利が[2022年まで]確立していたが、これは米国最高裁が不必要に政治化してしまったがゆえの独断的な判断であり、中絶を認めない人たちにとってはこの判断に納得できる余地はなかった。一方の英国では中絶の権利は国会での議論などを経たうえで立法府によって認められて、その過程では中絶賛成派と反対派のどちらもが議会での議論やロビー活動などを通じて自分たちの意見を主張することができた。中絶を認める法律が制定されたところで中絶反対派の意見は変わらないかもしれないが、法律の決定に至る手続きの構造自体はフェアであったりルール違反がなかったことは認めざるを得なくなる。また、中絶賛成派のほうも、法律上で中絶が認められたからといって「中絶は善か悪か」という道徳的問題が解決したと主張することはできず、法律上の権利に関する決定はあくまで暫定的なものであるということを賛成派と否定派の両方が理解して認められるのである。

 

このように手続きというものは、正当で理にかなった意見の不一致がありうる問題に対して最終的な道徳的解答を与えるのではなく、むしろ必要に応じて意見の不一致を決定に導くのである。このようにして二階の不偏性を擁護することは、究極的な目標についての多元性の事実という考え方とは矛盾しない。たんに多元的な状況下で画一的な信念や判断や価値を押しつけることで生じうる潜在的な対立に代わるものとして、不偏的な憲法を承認しているにすぎないのである。

(p.94)

 

 政治的リベラリズムは特定の(道徳的)価値観を正しいとは前提しないが、「各人格の平等と多様な価値観を尊重すべきだ」とか「理にかなった合意を重視したうえで利害の対立はこのように調停されるべきだ」とかいった規範的な主張は行なっている。6章で取り上げられるジョン・グレイやシャンタル・ムフなどの闘技的政治論者たちは、政治哲学がこのような規範的主張を行うこと自体を批判する。彼らは、主張が客観的であったり論理的であったりすることは政治にとって対して重要ではないし、リベラリズムが手続きを踏まえたうえでの理にかなった合意を重視することは政治の本質を履き違えており、むしろ政治を抹消するものであると主張するのだ。

 

彼[グレン・ニューイ]がまず行うのは、政治理論と政治哲学との区別である。多くの政治理論家にとって、両者の間に厳密な区別は存在しない。政治理論とは政治学科で教えられる政治哲学であり、政治哲学と哲学科で教えられる政治理論であるにすぎない。ニューイは、そうではなくて、政治哲学は規範的政治理論という装いの元に通用している哲学とは異なる位相にあると主張したがる。この点でニューイにとって政治哲学とは、概念上の区別・基準・知識の基盤、すなわち正義や政治的アソシエーションの条件といった問題について一次的な規範的理論化を行うとき、われわれが活用しているものに関心を寄せる二次的活動なのだ。

(…中略…)

こうした〔政治哲学に実践志向を求める〕傾向性を克服するために、政治理論は規範性やなされるべき事柄ではなく、ありのままの政治を体系的に分析することにいっそう注力しなければならない。こうしてニューイは、ジョン・ダンのような批判者と同様、あるべきだがいまだ存在しないものではなく、むしろ政治の現実に焦点を合わせることで、政治理論がより政治的なものになる必要があるのだと主張する。

 

(p.173 - 174)

 

しかし、政治とは何だろうか。ニューイは政治についての一つの説明を提供しているが、これは彼にとっては争点になりえないとしても、リベラルな政治思想にとっては依然として問題含みなものだ。政治についての(彼曰く)論争の余地なき説明は、以下の三点から構成されている。

政治とはまず、現実の政治を構成するものについての絶えざる意見の不一致によって特徴づけられる。したがって、「政治とは何か」という問いは、実際のところすこぶる論争的な問題である。これは政治思想史と通例呼ばれるものがカバーする事柄の多様性からも理解可能だろう。おそらくニューイはこの主張によって、政治それ自体の所在についての観念に異議を申し立てる議論の広さをほのめかしている。フェミニストによる「個人的なことは政治的なことである」という主張はよく知られている。その目的は、アカウンタビリティをめぐる集団的決定に委ねられるべき問題の範囲を拡大することにあるが、これはフェミニズムに反対する伝統主義者が家族のような特定の領域を政治の埒外に置きたがるのとまったく同じである。

(…中略…)

政治の第二の特徴は、われわれが政治的なものとして同定できている事柄の領域内でさえ、依然として恒久的な意見の不一致が存在することである。ここでの問題は、政治的なものの概念の範囲というよりも、政治を可能かつ必須なものにするにあたり縮減することのできない、意見の不一致という観念そのものにより深く関わるものだ。よって、国家は社会的協働の公正なシステムとして秩序づけられるべきだという点では同意をみたとしても、はたしてそれが何をもたらすのか、またその構想の下で誰が何をすべきなのかについては、広範囲にわたる不一致の可能性が残されている。

(…中略…)

政治がもつ最後の特徴は、それが権力行使に関連するということである。権力は政治の一側面であるが、記述的なものを犠牲にして規範的なものに没頭することによって見えなくなるようだ。リベラルな規範理論は、現実がどうあるべきかという問いに関心を寄せるのだが、こうした問いに囚われることで、どのようなものであれ、なぜこの現実がそうなっているのかという問いを看過してしまう。

 

(p.175 - 179)

 

 闘技的政治論者に対するケリーの反論は、まず、彼らは「政治」というものの範囲や定義を恣意的に狭めているということだ。たしかに政治にはニューイが記述したような特徴やカール・シュミット的な「友敵関係」などのあまり理想的でもなければ合理的でもない要素は多々含まれているだろうが、それと同時に、合意や理性といった要素も政治には含まれている。闘技的政治論者はシュミットやマキャヴェリのような思想家を持ち出したがるが、政治思想史には、政治の暗黒面と輝かしい側面の両方を包括的に論じた思想家たちもいっぱいいたのである(ジョン・ロック、ジェイムズ・マディソン、モンテスキューなど)。

 より根本的な反論としては、「意見は常に不一致になる」とか「理にかなった合意は成立しえない」というのは誇張であり、意見がある程度まで一致することとか何らかの合意が成立するということはこれまでにも起こり続けた、という指摘がなされる。実際の政治において情念が優先される傾向があったり権力闘争で物事が決まったりする場合があるからといって、理性や合意を放棄するのは産湯と共に赤ん坊を流すようなことであるのだ。……ここら辺の議論は、倫理学者が相対主義者やニヒリスト・アモラリストに対して規範倫理学理論を擁護するときとかなり近いものを感じた。

 第7章においてはコミュニタリアンアイデンティティ論者からの「すべての認識や理性は文化やアイデンティティに状況づけられているから中立性や普遍主義は幻想だ」といった批判や通約不可能性に基づく批判が主に取り上げられているが、これに対する反論も「文化やアイデンティティに依存しない認識や理性は可能であるし、実際にこれまでにもそういうものは存在してき担だからそれに基づく合意は可能であるだろう」といったもの(これもまた倫理学者が文化相対主義者やフェミニズム倫理学に対して反論するときの議論とかなり近い)。とはいえ、この章ではアイリス・マリオン・ヤングやセイラ・ベンハビブなどの一般的にはかなり左派とされる「差異の政治」論者が、ときとして保守・右派寄りになるコミュニタリアンたちと同様の主張を提起しているという点が再確認できたのが収穫であった*2

 

 さて、副題通り、本書では自由と同じくらいかそれ以上に「平等」が重視されている。

 第2章「リベラルな平等の源泉」は思想的な内容になっており、不偏性を重視する平等主義の背景には功利主義や社会契約論の伝統があることなどが強調されて、政治哲学の本としては珍しくR・M・ヘアの「不偏的な観察者」理論も取り上げられている。ケリーはジェレミーベンサムについての著作もあるので、功利主義には詳しかったり好意的だったりするのだろう。とはいえ、結局、功利主義は非人格的な理論であるという点がダメであり社会契約論の方が優れているというロールズ的な結論になっているのだけれど。

 第4章「リベラリズムと自由」では積極的自由・消極的自由・共和主義的自由の三種類の自由概念や、諸々の具体的な自由の優先順位といった問題について取り上げられている。

 第5章「リベラリズムと平等」では平等概念が改めて論じられているが、ここではロールズ以上にドゥオーキンの議論(「運の平等主義」)が主に取り上げられており、G・A・コーエンによる批判もあわせて紹介されているのだが、これまでに読んできたドゥオーキンの議論の紹介のなかでもとくにわかりやすい部類であった。ロールズの理論で個々人の責任がどう扱われるかというのはいまだによくわからないのだが(どうにもロールズも責任という概念自体は認めているようなのだが、本書でも指摘されるように「基本財の公正な分配という問題設定の範囲内に限るならば、責任と選択の問題はまったく無関係である」(p.143)ともされている)、本書ではドゥオーキンが責任と正義や平等の問題を結びつけたということを強調するおかげでロールズとドゥオーキンの違いがわかりやすくなっているし、『平等とは何か』で取り上げられていた様々な具体例とその含意が簡潔に紹介されているところもよかった*3

 ……とはいえ、本書を読んでいて妙に引っかかるのは、「リベラルな平等主義」では平等が自由よりも優先されるようであるということだ。それなら本書のタイトルは「リベラリズム」ではなく「エガリタリアニズム(Egalitarianism )」にすべきでないか。

 

リベラルは、自由を重視しないのであればリベラルとは言えない。だが政治的リベラルにとって自由を価値あるものにするのは、同時に自由を平等な配慮と尊敬の要求に従属させるものでもある。

(p.126)

 

 上記はケリーに限らずロールズやドゥオーキンすら認めるものであろうが、それなら、なぜ「リベラル」や「自由」といった単語を自分たちの立場を示すものとして持ってくるかがよくわからない。「平等を重視する自由主義者」ではなく「自由も重視する平等主義者」と称した方が正確なのではないのだろうか。

*1:

davitrice.hatenadiary.jp

*2:先日に紹介した論文「契約論的社会正義」においても、ケリーはコミュニタリアンマイケル・ウォルツァー)と差異の政治論者(ヤング)の議論を取り上げたうえで批判や反論を行なっている。

davitrice.hatenadiary.jp

*3:

davitrice.hatenadiary.jp