道徳的動物日記

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解釈としての法(読書メモ:『一冊でわかる 法哲学』)

 

 

 

 『福祉国家』『ポピュリズム』『移民』に引き続きオックスフォードのVery Short Introduction シリーズの邦訳書を紹介するシリーズ第四弾。今回は『法哲学』である。

 

『一冊でわかる』と銘打ってはいるが、内容はなかなか難しい。これはこの本自体の問題というよりも、法哲学という学問そのものの難しさ、あるいはわたしの興味関心とか思考パターンが法哲学という学問と相性が悪い、というところに原因があると思う。同じように社会の制度とか規範的な問題を扱う道徳哲学や政治哲学は問題ないのだが、明文化された法律というものを扱っているせいかどうにも議論が細かく些細かつ厳密であったりメタ的であったり抽象的であったりして苦手なのだ。とくに本書に第二章でも紹介される「法実証主義」は法哲学のなかでも特に王道かつ本流であるようなのだが、ジェレミーベンサムの主張くらいなら理解できても、H.L.A.ハートやハンス・ケルゼンのあたりになるともうサッパリである。

 

 第一章「自然法」では古代から近代の西洋哲学者たちによる法哲学理論が駆け足気味に紹介されたのちに、現代の自然法論者であるジョン・フィニスの議論が紹介されている。訳者あとがきによると、ここでフィニスが登場するのは法哲学の入門書としてもけっこう独特であるようだ。

 第三章「解釈としての法」では一章丸々使ってロナルド・ドゥオーキンの議論が紹介されているが、このブログの熱心な読者ならわかる通り昨年からわたしはずっとドゥオーキンに関心を抱いているので、この章はありがたかった。

 

…厄介な難事案を生み出すという点は諸々の法体系の特徴であり、裁判官はそうした事案において、法はいかにあるべきかという問いに解答を見出すために、「現に存在する法の厳密な文言を超えたところまで目を向けるべきかどうか」を考える必要に直面することとなる。言い換えれば、裁判官というものは、道徳的主張にも似た論拠が主役となるような、そうした解釈のプロセスへと携わっているのである。こうした法の解釈的次元は、ドゥオーキン理論の根幹をなす要素である。法実証主義に対するドゥオーキンの攻撃は、そこで提唱される法と道徳の分離など不可能であるという主張を前提とするものにほかならない。

したがって、ドゥオーキンからすれば、法はーーハートが主張するようにーールールだけから成り立つわけではなく、非ルール的基準とドゥオーキンが呼ぶものもまた法の構成要素となる。難事案について判断を下さなければならないとき、裁判所は判決にたどりつくために必ずこういった(道徳的、ないしは政治的な)基準ーーつまり、原理や政策ーーに訴えかける。(ハートがその姿を描き出し、また前章でも論じられたような)法原理と道徳原理を峻別するための「承認のルール」といったものなど存在しない。「何が法か」ということの判断は、不可避的に、道徳的=政治的配慮に依拠しているのである。

[…中略…]

このようなわけで、難事案にあって裁判官は原理へと訴えかけるのであるが、そこには、彼自身が所属する共同体の政治制度や過去の様々な決定からなる一つの体系にかんする最善の解釈、これについての裁判官自身の捉え方も含まれる。つまり、裁判官は「私が下す決定は、法=政治体系の全体を正当化してくれるような最善の道徳理論の一部となり得るか」と問いかけなければならないのである。すべての法的問題には、ただ一つの正解だけが存在し得るのであり、裁判官はそれを発見する義務を負っている。裁判官がもたらす解答は、彼の属する社会の制度並びに憲法の歴史に最も適合し、さらに道徳的にも正当なものであるという意味で「正しい」ものとなる。したがって、法的な議論と分析は、諸々の法実践についてその最善の道徳的意味を見出そうとするがゆえに、「解釈的」と呼べるのである。

 

(p. 70 - 72)

 

 このほかにも、「切り札としての権利」論や、「正義」「公正」「手続き的デュー・プロセス」を重視する政治的道徳してのリベラリズムなど、ドゥオーキンの考え方の中心的な要素が本書では紹介される。また、本書によると、ドゥオーキンは法やコモン・ローを解釈の必要な物語だと見なしており、裁判官は物語を書き足していく作者や進行中の物語を読み解く解釈者のような存在だと捉えているようだ(自分自身の信念や直感に応じながらも、法律の伝統の範囲内で積極的な解釈理論を展開することが裁判官には求められる)。

 さらに、本書ではドゥオーキンによる「インテグリティとしての法」の議論も紹介されている。それによると、法は「平等な存在としての共同体の全成員に向けて語りかける」(p.83)ものである。全市民の権利や平等をきちんと考慮して、最大多数の最大幸福とか効率とかのために個人を蔑ろにしないからこそ、法は市民に対して権力を行使できるほどの正当性を持つ。さらに、共同体の成員たちはそのような法の下で生きるときに初めて相互に承認しあって連帯意識を持つようになり、共同体は「真の」共同体となる……といった主張をドゥオーキンはしているようだ。そして、そのような法律はリベラリズムの理念に基づくものであることも前提となっている。

 

司法の働きを文芸批評のプロセスになぞらえることにより、法、ならびに裁判官がそこで担う根本的な役割にかんする前向きな描写はますます際立ったものとなる。そして、政治的共同体を原理の連合体[アソシエーション]と捉えるドゥオーキンの構想は、大いに魅力的なものである。それは、ほとんどの社会は到達できないかもしれないが、多くの社会がそれを目指して進むことを誰もが望む、そうした状態にほかならないからである。

 

(p.85)

 

 たしかにドゥオーキンの議論は理想主義的で魅力的だ。また、政治哲学や道徳哲学の議論にも近いため、わたしにとって理解しやすく受け入れやすいものである。……とはいえ、プラグマティズムやリアリズムを重視する法実証主義の議論に比べると隙が多そうな議論であるし、リベラリズムや強めの権利論を前提としているという点で議論の余地もかなり多いだろうし、どれだけ論理的であったり論証がしっかりしていたりするかは定かではない。とくに法哲学の議論として見るなら、(法実証主義者たちのそれに比べると)怪しいところが多そうな気もする。

 

 第四章の「権利と正義」の前半では、ウェスリー・ホーフェルドによる権利と義務の「法的関係」の議論が簡潔に紹介されていおる。権利というとついつい天賦人権論とか国家に対する個人の絶対的な権利のようなものが頭に浮かび、その文脈で「権利には義務が伴うのというのは間違いだ」と言いたくなってしまうが、法律的には「(Xさんの)権利」には「(Yさんの)義務」がきちんと伴うのである……というのがホーフェルドの議論のあらましだ(実際にはホーフェルドの図式では説明しきれない権利や義務があるということにも本書では触れられているが)。

 後半では功利主義とその現代法学バージョンとしてのリチャード・ポズナーなどによる「法と経済学」の議論が紹介されて、後半ではジョン・ロールズによる「公正としての正義」の議論が紹介される。ここらへんはいまさらこのブログで紹介するようなものでもないだろう(「現代の功利主義者はみんな選好充足主義者になっている」、といった記述には原著が出版された2006年という時代性を感じたが)。

 

 第五章の「法と社会」ではエミール・デュルケームマックス・ウェーバーなどの古典的な社会学者たちによる法理論が取り上げられたのちに、カール・マルクス階級闘争論が取り上げられて、マルクスは「法の支配」どころか「人間の権利」概念にも批判的であったことが指摘されている。その後にユルゲン・ハーバーマスミシェル・フーコーも簡潔に紹介されているが、本書におけるフーコーに対するスタンスはやや冷淡だ。

 第六章の「批判的法理論」の前半ではジャック・デリダジャック・ラカンを含むポストモダン法理論が取り上げられるが、結論部分で「ポストモダン法理論はかなりの支持者を集めたが、それが法にかんする私たちの理解に大いに役立ったかどうかについては疑念を差し挟まざるを得ない」(p.158)と書かれているなど、やはり冷淡なスタンスがとられている。この扱いについては訳者あとがきでも「若干もったいないように思われる」と残念がられているが、しかしまあ実際に役に立たなかったんでしょう。

 後半の「フェミニズムの法理論」ではリベラル/ラディカル/ポストモダン/差異派それぞれのフェミニズム理論が紹介されており、法哲学との関連性は薄い気もするが、紹介自体は簡潔かつ分かりやすい。また、最後には「批判的人種理論」が取り上げられているが、数ページとはいえこの本が翻訳された2011年の時点ではかなり貴重な解説であったと思われる。