道徳的動物日記

『21世紀の道徳』発売中です。amzn.asia/d/1QVJJSj

ポピュリズムとリベラル・デモクラシー(読書メモ:『ポピュリズム デモクラシーの友と敵』

 

 

 

 昨日の『福祉国家』に引き続き、オックスフォードのVery Short Introduction シリーズの邦訳書を紹介するシリーズ第二弾*1

 

 ポピュリズムとはそもそも捉えどころのない概念であり、定義すること自体が難しい。これは、「ポピュリズム」はリベラリズムリバタリアニズム共同体主義のように提唱者が明白で支持者も「自分は〜イズム(〜主義)を支持している」と自認できるような「自称」的な理論や概念ではなく、問題があるとされるものを名指しして批判するために使われる「他称」的な概念であることに由来している(そのほかの「他称的な概念」としてわたしの頭に思い浮かぶのは「新自由主義」「キャンセル・カルチャー」「弱者男性論」などなど)。

 

混乱の一端は、ポピュリズムというレッテルを、人なり組織なりがみずから称することは滅多にないという事実からくる。それよりも、他者の特徴とされ、ほとんどの場合に否定的な意味合いを帯びる。

(p.9)

 

 

 というわけで、どのような運動や傾向や主義主張がポピュリズムであるのか、政治家や社会運動家のうちどんな人がポピュリストであるのか、ということは研究者などが「外側」から分析して定義しなければならない。その定義の仕方についても、定義する人の関心や専門分野などによって様々なアプローチがあり得る。

 本書におけるポピュリズムの定義は著者たち曰く「理念的アプローチ」に基づいており、具体的には下記の通りだ。

 

ポピュリズムを定義づける特質について学者のあいだで見解がまとまらなくてもなお、あらゆるかたちのポピュリズムが「人民」の心に訴え、「エリート」を糾弾する類のことを何かしら含むという点では、全体的に意見が一致している。したがって、ポピュリズムには必ずエスタブリッシュメント[既成特権階層]への批判と庶民への阿諛が含まれている。そう述べてもさほど異論の余地はなかろう。もっと具体的に述べるなら、本書ではポピュリズムを、社会が究極的に「汚れなき人民」対「腐敗したエリート」という敵対する二つの同質的な陣営に分かれると考え、政治とは人民の一般意志ヴォロンテ・ジェネラール)の表現であるべきだと論じる、中心の薄弱なイデオロギーと定義する。

「中心の薄弱なイデオロギー」というポピュリズムの定義は、その概念がしばしばもつと言われる順応性を理解するのに役立つ。イデオロギーとは、人間と社会のあり方ならびに社会の構成や目的にかんする規範的な理念の集合である。簡単にいうと、世界がどうあるのか/どうあるべきなのかという、物の考え方のことである。「中心の強固な」あるいは「中身のつまった」イデオロギー(たとえばファシズム自由主義社会主義)とは異なり、ポピュリズムのように中心の薄弱なイデオロギーは限定的な形態をとるのであって、表向きは必然的に他のイデオロギーと結びついたーー場合によっては同化したーーようになる。むしろポピュリズムは、必ずといってよいほど他のイデオロギーの要素と結びついており、それらの要素は大衆により広く訴える政治的計画を進めるうえでなくてはならないものである。したがって、ポピュリズム自体は、現代社会の生み出すさまざまな政治問題に対して、複雑な解決策も包括的な解決策も示すことはできない。

これはつまり、ポピュリズムがきわめて多種多様なかたちをとることがあるということであり、そのかたちはポピュリズムの核心となる概念がどのようにして他の概念と表面上結びつき、それぞれの社会にとって多かれ少なかれ魅力的な解釈の枠組みを形成するかによって異なる。こうして見ると、ポピュリズムとは各個人が政治情勢を分析・理解するのに使用する一種の頭に描いた図式(メンタル・マップ)のことだと解さねばならない。ポピュリズムは、首尾一貫したイデオロギーの伝統というよりもさまざまな理念の集合なのであって、現実の世界では全く別の、場合によっては相矛盾するイデオロギー同士が組み合わさって現れるのである。

 

(p.14 - 15)

 

 簡単に言えば、ポピュリズムの特徴とは二項対立的な図式に基づく反エリート主義多元主義ということだ。

 ポピュリズムについて扱った書籍といえばヤン=ヴェルナー・ミュラーの『ポピュリズムとは何か』を思い浮かべる人が多いだろうが、ミュラーポピュリズムに対してかなり批判的であった*2。一方でポピュリズムについて肯定的な論客といえば、本書にも登場するエルネス・ラクラウとシャンタル・ムフが代表的だ*3。本書の著者たちはいうと、どちらかといえばポピュリズムに対しては批判的だが、「ポピュリズムは(リベラルではない)民主主義に連なるものである」「ポピュリズムはリベラル・デモクラシーに対してマイナスの影響だけでなくプラスの影響も与える」といった議論もされている。

 

(修飾語の付いていない)デモクラシーのもっとも優れた定義は、人民主権と多数派支配の組み合わせでありそれ以上でもそれ以下でもない、というものだ。したがってデモクラシーには直接と間接、リベラルと非リベラルのものがありうる。じっさい、デモクラシーという単語の語源そのものが、人民の自治、すなわち人びとが支配する政治体制という考えを指しているのである。「最小限の」定義のほとんどが、デモクラシーをまず第一に競争型選挙で統治者を選ぶ手法だとみなしているのも、偶然ではない。したがって自由で公正な選挙は、デモクラシーの決定的な特性と符合する。暴力的な闘争で統治者を入れ替えるかわりに、自分たちを治める者は多数決の選挙で選ぶべきだと人民が合意するのである。

しかしながら、日々使用されるほとんどの場面で、デモクラシーという単語が実際に意味するのはデモクラシーそのものではなく、リベラル・デモクラシーなのである。(修飾語の付かない)デモクラシーとリベラル・デモクラシーとの主な違いは、後者がひとつの政治体制のことを指し、人民主権および多数派支配を尊重するだけでなく、表現の自由や少数派集団の保護といった基本的人権の保護をもっぱら取り扱う独立機関を設けている点にある。基本的人権の保護にかんしていえば、汎用的なアプローチというものは存在しないので、結果としてリベラル・デモクラシー諸国の各政府が採用している制度的な手段は、きわめて多様である。たとえば強力な成文憲法最高裁判所をもつもの(米国など)もあれば、どちらももっていないもの(英国など)もある。こうした差異があるにもかかわらず、すべてのリベラル・デモクラシー諸国は、その特徴として「多数者の暴政」の台頭を避ける狙いで、基本的人権の保護を目的とした制度機関を有している。

 

(p.122 - 123)

 

…手短に言うと、ポピュリズムは本質的には民主的だが、現代世界において支配的なモデルであるリベラル・デモクラシーとは相性が悪い。ポピュリズムでは「(汚れなき)人民の意志」を縛るものは何もあってはならないと考え、多元主義という概念を、ひいては少数派の権利とならんでそれを守るはずの「制度的保障」をも、基本的に受け付けない。

実際面では、ポピュリストたちは人民主権の原則を持ち出して、リベラル・デモクラシーのモデルに本来備わっている、基本的人権の保護に努める独立機関を批判することが多い。なかでも標的にもっともされやすい機関は、司法とメディアである。たとえばベルルスコーニは、法廷への出廷を繰り返してもう何十年にもなるが、裁判官たちが共産党員の権益を守っている(「赤い法服」という言葉はここから来た)とよく非難していた。純然たるポピュリズムの流儀に則って、彼は次のように述べている。「国民によって選ばれた者を裁判官が不法に破滅させようとすることなど、確実にできなくなるよう、政府は努力を続け、議会は必要な改革を行うだろう」。案の定、政権を握ったポピュリストたちは、国営メディアを政権の御用機関に変え、残った数少ない独立系メディアの拠点を閉鎖したり妨害したりして、メディアの環境を一変させることが多い。もっとも最近のところでは、エクアドルハンガリーベネズエラがこれに当てはまる。

リベラル・デモクラシーは、多数派支配と少数派の権利とのあいだで円満な均衡を見いだそうとするものだが、ポピュリズムはその内在的な緊張関係に付け込む。重要な争点において両者はかち合う(差別禁止法を考えてみよ)ことから、現実世界においてそのような均衡を達成するのはほぼ不可能である。ポピュリストは、多数派支配の原則を破ることをデモクラシーの理念そのものの侵害だと批判し、究極の政治的権威は、〔官僚など〕選挙を経ていない集団ではなく「人民」に帰せられるものだと論じる。突き詰めるならば、ポピュリズムは、支配者を支配するのは誰かという問題を提起しているのである。デーモス〔市民・民衆〕の力を制限する、選挙を経ていない機関を一切信用しない傾向があるため、ポピュリズムは民主的過激主義へと、あるいはもっとうまい言い方をするならば非リベラルなデモクラシーへと発展することがある。

 

(p.124 - 125)

 

 上記のように論じたうえで著者たちが指摘するのは、ポピュリストたちによるリベラル・デモクラシーへの批判にもときには的を得ている場合があるということ……つまり政府やメディアやその他の権力を持った独立機関が腐敗しているという事態が実際に起こっていたり、実際にはすでに十分な力を持っている少数派に対する過剰な保護や利益供与を行うがあまりに公益を損なう結果がもたらされたりするという事態が起こっていたりすることは、確かにあるのだ。

 というわけで、リベラル・デモクラシーを守ろうとする人々も、ポピュリストやポピュリズム支持者からの異議申し立てを頭ごなしに否定するべきではない。たとえば実際に政治汚職が起きている場合には透明性のあるかたちでしっかりと調査を行い訴追して制裁を加えることは、「いわゆる「体制」がひとつの同質的なエスタブリッシュメントによって完全に支配されているわけではないと人民に示すことにもなる」(p.164)。また、ポピュリズム政党に政権を取らせないために既存政党が同盟を組むことも、「やっぱり既存の政治家たちはみんな自分たちの利益を守るために共謀している、庶民の敵なんだ」と思わせてしまう点でポピュリストの思う壺になってしまうので避けるべきだそうだ。

(ちなみにここで私が気になるのはアメリカの司法積極主義についてだ。司法積極主義は汚職や腐敗がなくてもその根本的な性質が明らかにエリート主義的であって、多数決や「人民の意志」とは相反するものであるように思えるが、ポピュリズム的にはダメなのだろうか。実際、中絶の是非をはじめとした重大な問題が最高裁判所の判事に委ねられる(しかもその人選は任命時の大統領がどの政党であったかといった偶然的な要素に左右される)というのは、右も左も関係なく一部のアメリカ人を苛立たせていそうな気もする。また、より俯瞰して見れば憲法自体も…たとえ「国家から人民を守る」という目的で制定されているとしても…ポピュリズムとは相反するものなのだろう)。

 

 著者らは政治体制を権威主義に近い(民主主義に反する)順に「完全な権威主義」「競争的権威主義」「選挙民主主義」「自由民主主義」と四つに分けて並べたうえで、ポピュリズムは「自由民主主義」を権威主義の側に近づけてしまう一方で「完全な権威主義」を民主主義の側に近づける効果を持つ、とも指摘している。つまり、ポピュリズムは「競争的権威主義」と「選挙民主主義」の間を揺蕩っているという感じだ。そして、理想的な民主主義はおそらく「選挙民主主義」と「自由民主主義」の間に存在するのだろう。

 

 残念ながら本書で主に取り上げられるのは南北アメリカやヨーロッパであり、日本だけでなく他の東アジアの事例はほとんど登場しない。ポピュリズムという問題に関して日本の読者の多くが気にするのは、たとえば、維新の会がポピュリストと言えるかどうかであるかということだろう。……そして、本書の議論の枠組みから見れば、維新はまあ明らかにポピュリズム的である*4。ただし、最近の日本におけるポピュリズム(っぽいもの)といえば維新にせよ小泉旋風にせよいわゆる「新自由主義」的というか「小さな政府」的というか、公共サービスを削減したり民営化や福祉切り捨てを推進するものが多いというイメージがあるが、欧米におけるポピュリズムはトランプを含めてむしろ「新自由主義」的では全然ないということ……移民や少数派に対しては敵対的であるが、「自分たちは多数派や中流階級の福祉や労働環境を改善するために闘っているのだ」という主張を行なっているところ……は、言われてみれば当たり前であると同時にやはり意外な感じがある。

 

 この点に関しては、訳者あとがきにおける下記の議論が印象に残った。

 

…結局のところ、「トランプが大統領選の焦点にしたのは不平等ではなく、経済が自分たちにとって親の場合と同じようには期待に応えるものではないと感じる労働者たちに彼は直接訴えたのだ」(二〇一六年十二月八日WP記事)。つまり、彼は格差を解消するとは言っていない。その格差を不当に生んでいるーー競争を妨げているーーとされる既得権益を罵倒する一方、貧しくともみずからの力で豊かになれる「アメリカン・ドリーム」を再び(!)と主張したのである。

その後、同選挙[2016年のアメリカ大統領選挙]については詳細なデータ分析がなされたが、じっさいトランプを大統領に押し上げたのはどの階層かは「中流階級」の定義にも左右されるし、一概に言うことはできない。しかし、同階級のその意味で相対的な格差が、米国史でも異例の大統領の就任を可能にしたのは確かだろう。そして、そのポピュリズムの動因になったのが、<期待の格差>だということを見逃してはならない。同趣旨の報道をした米紙は、「人びとの幸福は自分の生活の相対的な地位にひどく影響を受けるものである」と、心理学の知見を交えて説明している。そして、目の前にいる親ほど、その心理に影響を与える存在はいないという(二〇一六年十二月八日NYT記事)。上の世代を見て、自分はそれ以上、また悪くても同等な生活ができると期待しながら、それが叶わないときの落差による失望は大きく、彼は(以前から)同等な境遇にある他の人間よりも自分が不幸であると感じるものである。

[…中略、アーレントトクヴィルの議論が紹介されている…]要するに、事実上の絶対的あるいは客観的な格差よりも、想像上の相対的あるいは主観的な格差のほうが総じて人間の情念を刺激し、とりわけ社会経済に関わる憎しみは人を暴力的にしてきた。それに対して、社会改善、改革と称してむやみに期待値を上げるのは得策ではない。

アメリカの例に戻れば、斜陽産業を財政的に援助することはそれに従事する労働者を一時的に助けるだろうが、現実にはーーかつてのような全産業の業績が上向きの高度成長自体でもなければーーバラマキには限りがあり、それによって他の成長産業との溝がますます開くなかで、前述のような格差が解消されることはない。いや、むしろ期待が失望に転化すれば、その種の格差は開いていく可能性が高い。そうだとすれば、そうした政策は有権者の怨恨を倍化させかねない。それはポピュリストにとっては好都合かもしれないが、当該の有権者にとって良い結果だとは言えない。

 

(p.188-189)

 

  バラマキといえばMMTであり(?)、MMTといえば「れいわ新選組」で、「れいわ新選組」といえば日本における「左派-反ネオリベ-ポピュリズム」の代表的な存在だ。MMT(というか経済政策とかマクロ経済学全般)についてわたしはあんまり詳しくないので大したことは言えないのだが、バラマキ政策とポピュリズム的な熱狂って色々と関係ある(そして注意すべき)ものかもしれない。

 トランプ当選以降、(表向きには)トランプ自体は否定しながらもトランプ支持の背景にあるポピュリズム的な動向を肯定したり、あるいはトランプに投票した有権者たちの気持ちには寄り添ったりする、という議論や書籍がいくつか提出された。

 たとえば、マイケル・リンドによる『新しい階級闘争:大都市エリートから民主主義を守る』では、「民衆 VS エリート」や「労働者 VS 新自由主義」といった、ポピュリズム的な単純化された(そしてかなり疑わしい)二項対立的な図式が無批判に用いられていた(そして、『新しい階級闘争』の解説を行なってい中野剛志もまた、日本における「右派-反ネオリベ-ポピュリズム」の代表的な論客だと言えるかもしれない)。また、マイケル・サンデルが『実力も運のうち:能力主義は正義か?』で行なった「リベラリズム」批判や「テクノクラシー」批判にも、似たような単純化を感じたものだ。

 

toyokeizai.net

 

gendai.media

 

 ほかにも、ポピュリズムは政治だけに限られないかもしれないし、たとえば日本におけるColabo騒動とかインターネット論客とかを分析するうえでも本書の枠組みは有用かもしれないと思ったりした。……とはいえ、あまり話を広げるのもアレなので、今回はここで終わり。

 

*1:

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

 

余談だが、ミュラーのこの本は発売してからしばらく経った後に、会社員としての仕事が忙し過ぎていてこのブログも休止していた状態のときに仕事の合間を練ってがんばって読んで「勉強になったな」と感じた記憶がある。…しかし、最近になって同じくミュラーの『民主主義のルールと精神』を読んでみたらこちらは高慢ちきで断定的な主張が続くわりに中身がほとんどないひどい本であり、がっかりしてしまったものだ。

*3:

 

 

 

*4:実際に維新がポピュリズムであるかどうかは専門家からも異論があるようだし、丁寧に考えるならこのような細かい議論も必要だろうが、でもまあ大雑把に定義すればやはり維新は(本書で定義されるところの)ポピュリズムであるだろう。逆に細かく論じようと思えば、本書で取り上げられているドナルド・トランプについてもラテンアメリカやヨーロッパの諸々の政党や政治家についても「一般的にはポピュリズムだと言われているが実はそうではないのだ」という議論もできてしまいそうなものだ。はてなとかTwitterとかでは逆張ったり賢ぶったりするために文脈を無視して「世間では〇〇だと言われているけれど専門家の細かい議論を見ると実は〇〇ではないのだ」と言いたがる人も多いが、それはそれで議論や思考を停止する物言いになりかねないことにも注意したい。

www.buzzfeed.com