道徳的動物日記

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「恥辱」と法、ヌスバウムによるJ・S・ミル論(読書メモ:『感情と法』③)

 

 

 

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

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 前回からだいぶ間が空いたが、「恥辱感」をテーマにした4〜6章とジョン・スチュアート・ミルの自由論やジョン・ロールズの政治的リベラリズム論について再考する最終章もなんとか読み終えられたので、メモっておく*1

 

 ……とはいえ、「恥辱」に関するヌスバウムの議論にも「嫌悪感」についての彼女の議論にあったのと同様の問題を感じてしまったし、だんだんと飽きてきて読み進めるのが面倒になっちゃった。

 これまでにも書いてきた、わたしがヌスバウムの「感情」論に対して感じる疑問は以下の通り。

  • 生理的な「感じ(感覚経験)」に関して論じることは早々に切り捨てて、「思考」に関連するものとして「感情」を定義している。また、各種の感情を定義によって切り分けれるものとして扱っている。しかし感情について論じるうえで「感じ」を扱わないことには片手落ちという以上の問題があるように思えるし、思考に関連するところだけに注目したり定義によって切り分けたりする時点で「感情」というものの本質からはだいぶ離れた議論になるように思える。
  • 自分の議論の都合に合わせて「善い感情」と「悪い感情」を都合良く切り分けている。
  • 「善い感情」(たとえば「怒り」)については、通常ならその感情には当然含まれると思われる非合理的な側面や問題のある側面などを無視して、合理的かつ道徳的に望ましい側面だけを取り上げた定義になっている。また、「それって感情ではなくほとんど理性と一緒じゃない?」と思わされるような記述も多い。
  • 「悪い感情」については「人間性を否定する/人間性から逃避する」ものと記述しているが(原題も Hiding from Humanity である)、感情についてこのように表現したり議論したりすることは余りに文芸的であり、現実の感情の生物学的/生理学的な機能や側面を軽視し過ぎているように思える。
  • ヌスバウムは「自分の議論は心理学などの経験的な知見に基づいている」と主張するが、精神分析がベースとなっている箇所がかなり多いのでちょっと信用できない。

 

「恥辱」に関するヌスバウムの議論では、「恥辱刑を復活せよ」という共同体主義者たちの主張への反論から始まっていることもあって、アーヴィング・ゴッフマンによるスティグマ論がたびたび参照されている。また、「嫌悪感」は規範的に認められるポイントがほとんどない「悪い感情」だと論じられていたのに対して、「羞恥心」については建設的な場合もあり得る、と論じられている。具体的には、比較的裕福なアメリカ人がバーバラ・エーレンライクの『ニッケル・アンド・ダイムド -アメリカ下流社会の現実』を読んだら「労働者たちにこんな辛い思いをさせる自分たちの社会は不正で間違っている」と感じるだろうし、そんな社会でのうのうと安楽な生活を享受している自分たちのことを恥じる、そして社会を改善すべきだと認識できるようになる(だからこの場面での羞恥心はよいものとして機能している)……といった議論がされるのだが、それって「羞恥心」ではなく(理性的な)「反省」なのではないだろうか?

 また、ヌスバウムは羞恥心とは「自分は脆弱性や欠点を備えた不完全な存在である」と認識させられることであると定義しており、社会が「異常」を定義したりマイノリティに恥辱を感じさせて彼らの生活や行動の様式を抑圧する背景には「自分が不完全な存在であることを認めない」という「ナルシシズム」の影響がある、といった議論が行われている(他者を「不完全」と定義して攻撃したり抑圧したりすることで自分たちの不完全さからは目を逸らす、みたいな)。……しかし、ここらへんの議論では「嫌悪感」のとき以上に精神分析がベースとなっているし、不完全性を認める認めない云々の議論もやっぱり文芸的過ぎて「感情や感覚ってそんなものじゃないでしょ」と思わされしまう。

 第5章第2節における「恥辱系は「群衆の正義」であり、わたしたちが法に求めるような不偏不党性や熟慮が存在しない(からダメだ)」という議論、有名人は公の場で屈辱を受けやすいという指摘や「恥辱系は個人に対しては不適切であるが害のある組織に対しては適切であるかもしれない」という指摘などは昨今のキャンセル・カルチャーの是非にも関連するものであって、それなりに興味深い。……とはいえ、「恥辱形を復活せよ」という主張のほうが現代のリベラルな(日本)社会に慣れ親しんだわたしたちにとっては寝耳に水というか意外性のある発想であり、当然受け入れ難いが、そのぶん興味深くはある。それに比べると、恥辱系を批判しようとするヌスバウムの議論は当たり前に聞こえ過ぎて退屈だ(同様の問題は「嫌悪感」のパートにも存在した)。

 そして、第6章の議論はもはや「感情」はほとんど関係なくなっており、アメリカの社会問題に関するさまざまなトピックや争点(若者の非行とか同性愛とか人種差別とか)についてリベラリストフェミニストなら当たり前に言うであろう主張が羅列されている感じになっていて、かなりつまらない。

 いちばん印象に残ったのは、第4章第3節で、「男性(男子)は自分の感情を自覚したり自分の欠点や不完全性を受け入れたりすることが苦手である」という問題を、ミルの『自伝』も絡めながら論じるくだり。ここの議論には説得力を感じた。……とはいえ、女性のフェミニストによる男性論としてはいまやごくありがちなものなので、新鮮味はまったく感じられない。

 

 第7章では、ミルの功利主義論は一貫性がなく矛盾が多々含まれていたり、ミル自身が「社会の効用(の総計)」を無視した主張をしていることも多いという(ミル論としてはよくある)指摘がなされたうえで、ミルの理想を体現する理論は功利主義ではなくカント主義ひいては政治的リベラリズムではないか、といった主張がなされている。

 この議論自体には、とくに問題がないと思う(ミルの主張には一貫性がないことはわたしも感じるし、彼の主張に無理に一貫性を見出そうとしたり功利主義と整合させようとしたりするよりかは、ヌスバウムがやっているように「ほんとうに言いたいことや重視していることはこっちでしょ?」と別の道筋を提案するほうが建設的だとは思う)。ミルの自由論を「真理に基づく正当化」と「人格に基づく正当化」に切り分けたうえでどちらの議論にも苦しいものがあることを指摘するくだりもオーソドックスではあるがとくに間違っているとは思えない。

 ……だが、ヌスバウム自身の政治的リベラリズム論を主張するくだりは、共同体主義に対する批判には賛同できるとはいえ、まあやっぱり凡庸で新鮮味がない。本書のウリである、「感情」論とリベラリズムを接合しているあたりも、そもそもその「感情」論に本書を読んでいるあいだずっと疑問を抱かされたわけだから、ありがたみがなかった。

*1:このテーマだと次は『法と感情の哲学』を読みたいので引き続きご恵投を募集します。

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