道徳的動物日記

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法律に「感情」が必要である理由(読書メモ:『感情と法』①)

 

 

 

 本書の序章や第1章などでまず強調されるのは、「感情はともかく非合理的であり、法的なルールを作るうえで感情に配慮することは常に間違いだ」(p.6)とする世間に広く普及した考え方や、刑罰というものは「犯罪を抑止する効果という観点」からでのみ考えるべきでありそこに被害者や加害者の感情を考慮する余地はないとする(功利主義に代表されるような)見方などの「非感情主義」は誤っており、この社会に法が存在することに感情は大きく関わっている、という主張だ。

 

…反感情主義的な立場のさらに大きな問題点は、それが、実際には、己の目的を達成できないことにある。その立場は、一方で、犯罪者の心情を判断しないという点においては感情を排除するが、他方のより根本的な点、すなわち、なぜ犯罪への罰則が存在するのかを説明する点においては感情に言及している(たとえば、ミルは功利主義者ではあるが、やはり感情によって法の根本を説明する必要があると考えていた)。懲罰の抑止的な役割は、ある種の行為がなぜ悪いのかについての理由なしには説明できない。そうした説明は、人間の脆弱性と私たちの成長繁栄への関心に必ず言及せざるをえない。しかし、そうした時には、すでに感情を扱い、それを評価してしまっているのである。もしある犯罪者が人間の命や成長繁栄に深刻な暴行を行なったならば、まさにそのように判断すること自体が、その暴行が恐るべきものであり、怒りの適切な対象であることを意味している。

第1章で詳しく論じるが、そうした感情の内容そのものが評価的な判断を含んでいる。また、人は、評価判断に対応する感情を持たないことには、そうした判断を矛盾なく行うことはできない(死が自分にとってきわめて悪しきことだと判断しながら、その人が死を恐れないなどということがありうるだろうか。どんなに人が自分は死に対する単なる恐怖心は克服していると思い込んでいたとしても、そんなことは実際にはありえない。そう私は思う)。したがって、反感情主義的な功利主義の犯罪抑止論は、本当のところでは、感情に依拠せずにはすまないのである。それは、犯罪者の心理状態という、たった一つの分野で感情に依拠するのをやめただけである。そして、このように感情を否定することは奇妙なことであり、不公平に思われる。というのも、私たちは死を恐れるのは道理に適ったことだと判断するのだし、そうであるからこそ、殺人を罰する法を正当化するのに恐怖心を根拠とするからだ。そうだとすれば、なぜ、ある人が行なった推定有罪の行為を評価するのに、その人の恐怖が理に適っていること reasonableness〔その恐怖が生まれて当然であること〕が評価に関係してはならないということになるのだろうか。

そうした考察は以下のことを示唆している。すなわち、ある種の感情とその感情が理に適っているということに実質的な規範的役割を与えない法体系などは、想像困難なのである。そうしたものがあるとしても、少なくとも、現行の法体系とは完全に異なったものとなるだろう。この点が、反感情主義の提案の最大の問題点である。さらに、その提案は、あらゆる感情に「非合理的」という烙印を押してしまうが、それは不明確で説得力がない。「非合理的」とは、ごまかされやすい言葉である。私たちが魚や人間の乳幼児が「非合理的」だという時には、「思考に欠けた」ということを意味するだろう。第1章で論じるが、その意味では、すべての感情は「非合理的」だとすることには、まったく説得力がない。実際に、感情はじつにしばしば思考ーー世界のなかで私たちにとって重要なことについての思考を含めてーーと結びついている。私たちは、まったく思考しない生物、たとえばエビを想像したときに、そうした生物に、悲嘆や恐怖や怒りが本当にあると思えるだろうか。私たち自身の感情は、時に非常に複雑な、私たちが案じている人々や事物についての思考を内包している。たとえば、悲嘆とは、単なる「体が苦しい感じ」などでは、ほとんどありえない。その悲痛な性格は、自分の生活のなかで日頃から大切であった故人への思いを抜きにしては、説明がつかない。同じように、たとえば、怒りや恐怖のような、法において最も頻繁に引き合いに出される感情には、明らかに思考が結びついている。もし私が恐怖から脅迫に屈してしまうならば、その恐怖は、私の体中にショックを与える単なる電気パルスではない。苦痛を伴ったその恐怖の特徴は、私が被るだろうダメージについての予測から来るものである。

 

(p.10- 12)

 

  上記の引用部分でも強調されているように、感情とは「思考」が伴うものであること、また感情とは理に適っている場合があり得るものであるということが、本書の議論における重要なポイントだ*1

 なんらかの感情が「理に適っている」というのは、簡単に言えば「そんなことをされたら怒っても仕方ないな」とか「そういう事情があるなら恐怖心を抱くのももっともなことだ」とかいった判断がなされるような場合だ。また、感情は「信念」…事実がどうであるかは別にして、なんらかの対象や物事や状況などについてその人が抱いている知識や認識や把握など…にも関連している。つまり、相手に関して持っている信念はその相手に対して怒りを抱くかどうかを左右するし、自分が置かれている状況について抱いている信念は恐怖心を抱くかどうかを左右するだろう。

 実際の法律や裁判などにおいても、当事者が抱いている信念は、事件や事故に関する事実とは別に考慮されている。たとえばある犯罪行為について「故意」が問われるかどうかには、行為したときの状況や行為の対象に対して行為者が抱いていた信念が関わってくるだろう(非俗な例を挙げると、未成年と性行為をしても相手が未成年であると知らなかった場合は罪にならない可能性があるが、「もしかしたら未成年かもしれない」程度の認識を持っていたなら「未必の故意」が問われる可能性もある)。また、以下の引用部分は、DVの恐怖から夫を殺害したジュディ・ノーマンという女性の裁判に関するものだ。

 

彼女の恐怖は、彼女が自分の置かれた境遇を見る仕方に基づいていた。彼女の場合は、自分の生命と安全が夫によって脅かされているものとして自分の境遇を見ていたのである。この事件をめぐる裁判の両陣営は、夫が自分に深刻な身体的危害を与えそうだという彼女の信念が理に適っているかどうかについて意見が対立している。双方とも、それが真実かどうかの問題は持ち出していない。きっと、彼女の信念が未来についてのものであり、そうであるかぎり、真実かどうかは確かめようがないからだろう。問われていたのは、彼女の過去の経験や彼女が手にすることのできた証拠に基づいて、自分の生命や身体の安全が脅かされていると信じることが理に適っているかどうかということにある。

 

(p.32 - 33)

 

 本書における「感情」はかなり合理的なものとして記述されている。感情のなかに含まれている信念が強調される一方で、わたしたちの多くが感情と聞いたときにまずイメージするであろう、「感じ」という要素はかなり軽視されている。ここでいう「感じ」とは、人が経験する身体的な感覚や反応のことだ。たとえばわたしたちは自分がイヤだと思っているものやムカついている相手を目にしたときに、身体のなかにネガティブで不快な「感じ」が生じるだろうが、その感じは単純に「怒り」や「嫌悪感」と定義できるものではないかもしれない。……イヤさにはいろんな種類があるし、ムカついている相手には怒りと同時に嫌悪感やその他の感情に連なる感覚を抱くものだろう。また、「怒り」や「嫌悪感」と表現できればそれがどういったものであるかは他人にも多かれ少なかれ伝わるだろうが、「感じ」そのものは通訳不可能であり、他人に伝えることはできない。

 こういった「感じ」については、法律に関する議論には含めるべきでない、とヌスバウムは(アリストテレスを参照しながら)論じている。

 

…信念は、感情そのものの一部となっていると思われるのである。言い方を換えれば、もし、私たちが怒りのような感情を定義して、怒りにとって絶対的に不可欠なこと、他の苦しい感情から怒りを区別させるようなことすべてに言及しようとするなら、怒りがどんなふうに感じられるかということを挙げただけではうまくいかないことがわかるだろう。そうアリストテレスは示唆している。否定的感情の多くが、かなりよく似た苦痛の感じを伴う。恐怖心、哀れみ、ねたみ、そねみ、怒りなど、私たちはこれらの感情を、それぞれに特徴的なタイプの感じに結びつけ、信頼できるやり方で区別することなど本当にできるのだろうか。それらを区別しようとすれば、それぞれに特徴的な信念を持ち出してくる必要もあると思われる。恐怖心は、未来に差し迫った良くない可能性についての信念を含む。怒りは、不当になされた被害についての信念を含んでいる。憐れみは、他人がひどく苦しんでいることに関する信念を含む、などなど。同じことが、いわゆる肯定的感情についても言える。それらはすべて何らかの快い感じと結びつけられるかもしれないが、愛、喜び、感謝の念や希望をこうした良い感じだけと関連づけ、それぞれに特徴的な一連の信念に言及しないで区別しようとするのは、実際難しいだろうし、まず無理だろう。

いやそれどころか、アリストテレスよりさらに歩を進めて、感じは感情を定義する際に本当は大して役に立たないのだと指摘しても良いだろう。というのは、あるタイプの感情に結びつけられる感じは、人によっても、また同じ人でもその時々によって、大きく変わるからである。ジュディ・ノーマンの恐怖心を考えてみるとよい。彼女が自分の生活を恐れている間、たぶん、万華鏡のように移ろいゆく一連の感じを抱いただろう。それらを想像することだけでも難しい。ときには、おそらく、震えもしたろうし、動機もしただろう。また、呆然としたり、脱力感を感じたりするときがあったかもしれない。そして、もし、このことが比較的単純な感情である恐怖心について言えるならば、悲嘆や怒りを経験している人についてはなおさらあてはまる。それに、人は十人十色である。ある人は、煮えくり返るような感じと結びついた怒りを経験するだろう。別の人は鈍いうずきを経験するかもしれない。では、愛はどうだろう。友人であろうと、子どもであろうと、またパートナーであろうとも、誰かを愛するという経験は、確かにたくさんの感じを伴う。しかし、愛にはいつもある特定の感じが含まれているに違いないというのであれば、あまりに限られすぎた話である。

事実、時おり感情は、それと結びつけられるような特定の感じがなくても現れることがある。私たちの信念の多くが、ずっと意識されないまま働いて、行動を動機づけているということを認めるのに、何も感情の抑圧というややこしい説明を必要とするわけではない。落としたものは地面にぶつかるという信念、私の演台は堅い物体で手が通り抜けることはないという信念、もし私が演台を動かしたいならばそれを持ち上げて押さなければならないという信念、これらの信念や、他にも数えきれないくらい多くの信念が、たとえ意識されていなくても、講義の間、私の行為に影響を及ぼしている。感情についても同じことが言えるのである。親を亡くしたことの悲嘆、自分の死に対する恐怖心、子どもへの愛、それぞれが私の生活という織物に染みついていて、たとえ四六時中それを意識していなくても、ということは、それに結びつけられる特有の感じの状態に気づいていなくても、多くのさまざまな行為を説明してくれる。

だとすれば、感情に関わる思考を、単なる随伴物や因果的な先行条件とみなすわけにはいかない。感情を同定するなり定義するなりして感情同士を互いに区別するために思考が必要とされるならば、思考は、これこそ感情であると言えるものの一部をなしているのであって、まさに感情本体を構成しているということを意味する。さらに、思考は、感情の構成要素である感じが変化、変動しやすいのに比して、より安定していて分析しやすいと思われる部分でもある。そこで、私たちはこう結論すべきであろう。アリストテレスと法の伝統が、感情に含まれる思考に焦点をあて、その思考が理に適っているかどうかについての問題を問いかけるとき、正しい方向を向いていたのだ、と。

 

(p.34 - 36)

 

 さて、「感じ」について云々することはやめて「信念」や「思考」に関わるもの(のみ)として「感情」を扱おうとするヌスバウムの方針には、いろいろと限界もあれば危ういところがあるように思えるし、『感情と法』を読んでいてもずっとわたしには納得できないところがある。上述の引用部分についても、結局のところは、議論を行いやすくするという都合のために「感情」を定義して、議論の対象にしづらい「感じ」という要素を排除しているだけなのでは、という気もする。

 たしかに、法律や法体系に関する議論の文脈で「感じ」を持ち出すことは困難だし、逆に信念や思考に関わるものという限界を定めておけば「感情」という要素について有意義に論じることができる、というのは『感情と法』のその後の章でも実践的に示されていることだ。そして、『感情と法』は基本的には法律や法体系に関する本なのだから、それでいいとも言えるだろう。……とはいえ、わたしたちの個人的な生活や人生、私的な集団、あるいは政治や社会といった法律よりも曖昧で広い領域などに関わる場面での「感情」について考える際には、ヌスバウム(やアリストテレス)の定義ではかなり多くのものを取りこぼすことになるようにはずだ(そしておそらくヌスバウムは法律や法体系に関わる場面以外についてもアリストテレス的な定義によって感情を論じようとしている)。

 たとえば、腹の底から生じる「感じ」は、怒りであるか嫌悪感であるか(あるいは悦びであるか愛情であるかなど)が未分化であってもわたしたちの気分状態を左右したり行動を突き動かしたりするパワーを持つし、その「感じ」を「これは怒りだ」「これは嫌悪感だ」と同定するなり定義するなりしても、定義すること自体はわたしの気分状態や行動にさほど影響を与えるわけでもない。また、自分の抱いている「感じ」に名前を与えて、信念や思考に関わるものとして合理化しようとする行為自体に、ジョナサン・ハイトが「感情という尾が合理性という犬を振り回す」と表現している人間心理の傾向に陥る危険が潜んでいるように思える。つまり、自分の感情について「わたしは嫌悪感を抱いている」「わたしは怒りを抱いている」と自ら定義を行うこと(またはそれを他者に向かってパフォーマンス的に主張すること)自体に自己正当化の側面があり、自分に生じた「感じ」を美化したり自分にとって都合の良い側面しか見なかったりする事態をもたらす可能性があるように思えるのだ。

 

 感情が「理に適っている」かどうかということについて、(アメリカの?)法律や法体系において重要になるのが、「常識人」についての想定だ。

 

……法は、被告の感情が実際に常識人の感情であると示すことを被告に要請していないが(それは絶望的なくらい主観的で不確実な探求となろう)、被告の状況が、常識人であったとしても極端に激しい怒りやそれに関連する感情が引き起こされただろう、と言えるような状況だったと示すことを要請している(さらに、被告が何らかの強い感情のもとにあったと示すことを要請している)。理に適った挑発であることを示すには、被害者によって被告に対して何らかの攻撃的行為もしくは加害行為がなされ、その行為があるレベルの深刻さに達していることが常に必要とされている。その内幕はおそらくこういうことだろう。私たちは、理不尽な殺人を助長するような社会規範を掲げたくない。そして、概して、私たちは、正当防衛のためになされたのではない殺人を容赦しない。常識人なら、挑発された状況でも、けっして実際に私刑を加えるようなことはしないだろう、と私たちは考えている。しかし、自分自身や愛する者たちへ一定のタイプの被害が与えられたときは、常識人でも憤るという事実を一般の人々や法に認知してもらいたいのであって、だから、法理のなかに、そのような状況で暴力行為に及んだ人のための軽減措置を組み込みたいのである。殺人行為が正当化されるわけではないが、それに対してより軽い罰を与えるという意味で部分的には弁明される。その理由は、単に、その人の感情が理解できるからというわけではない。感情の影響下に選択される行為ではなく、当の感情自体が適切だということである。

気をつけなければならないが、[セックスしていたレズビアンを殺した男性である、スティーブン・]カーは嫌悪感を抱いていなかったとか、彼の嫌悪感は極端に強くはなかったとか、あるいは、この嫌悪感は殺人を誘発しなかったなどと、カー事件の判事は言っているわけではない。判事が言っているのは、そうではなくて、これらは常識人の反応ではない、ということである。道理をわきまえた常識人ならば、嫌悪していようとしていまいと、暴力を振るってしまいそうになるほど感情に圧倒されなかっただろう。法には、こんなふうにして、何が道理をわきまえた人を極端な感情へと駆り立て、何が駆り立てないのかについてのモデルが含まれている。

 

(p.49 - 50)

 

 また、「常識」とはなんであるか、どんな感情なら「理に適っている」と言えるのか、ということは時代や社会によって変わることもヌスバウムは指摘している。たとえば「不倫をした妻を夫が怒りのあまりに殺害することは仕方がない」として情状酌量するという判断は、過去(のアメリカ)なら認められていたが、現代では「妻は夫の所有物であるという差別的な発想が含まれている」として、そんな判断をした裁判所は大いに批判されるだろう。逆に、ドメスティック・バイオレンスという問題の深刻さに関する世間の理解が深まるにつれて、重度のDVを受けていた妻が夫を殺害することに関する裁判所の判断にも情状酌量は含まれやすくなると考えられる。……要するに法とは社会の「規範」を反映するのであり、そういう点でも、人々の感情や価値観とは無縁の法律を作るというのは考えられないということだ。

 

 ここまでは刑事裁判の被告人に象徴されるような「裁かれる側」である個人の感情を法律はどう扱うか、というトピックが主になっているが、『感情と法』では「裁く側」である人々……裁判における陪審員から、なんらか法体系を成り立たせる社会の一員としてのわたしたちみんなまで……の感情というトピックも大いに取り上げられている。たとえば第一章の後半では、(「つめたいもの」としての法律というイメージからはある意味でいちばん縁が遠そうな)「同情」という感情が判決手続きなどを通じて法律に組み込まれていることが指摘されている。また、第2章と第3章で主に展開されるのは、「嫌悪感は不適切で理に適っていない感情だから法律に組み込んではいけないが、怒りは適切で理に適った(ものになり得る)感情であるから法律に組み込むべきである」という議論がなされる。ここでの議論については今回紹介したもの以上にいろいろと(良くも悪くも)考えさせられて、コメントしたいことがあるのだが、それについては次回の記事で。

 

*1:ちなみに本書の序章などでヌスバウム古代ギリシャやローマのストア哲学を感情をできる限り人生から排除することを目指すものとして否定しているが、ジュリア・アナスによるとむしろストア派こそが「感情それ自体が、人がそれに基づいて行為を決定するある種の理性なのである」と主張していたようだ。とはいえヌスバウムの解釈のほうが一般的なストア派のイメージには近いだろう。

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