道徳的動物日記

倫理学、社会科学、時事問題、世相などについて論じます。

読書メモ:マーサ・ヌスバウムによる「性的モノ化」論

davitrice.hatenadiary.jp

 

↑ ひと月ほど前にこのブログに掲載した記事でも間接的に取り上げた、マーサ・ヌスバウムによる「性的モノ化」論文について、以下の書籍に収録されているバージョンを読んでみたので、感想や考えたことを書いておこう。

 

 

Sex and Social Justice

Sex and Social Justice

 

 

 この論文のポイントは、ポルノグラフィティやセックスにおける性的モノ化を一概に「悪い」とみなすキャサリン・マッキノンやアンドレア・ドウォーキンの主張、その背景にあるイマニュエル・カントの議論を取り上げながら、性的モノ化が悪いかどうかは文脈により、ときによっては『チャタレイ夫人の恋人』で描かれるような「ワンダフルな」性的モノ化が成立する場合もあり得る、と主張されているところにあるだろう*1

 ヌスバウムは「モノ化」という言葉が意味し得る具体的な事柄を七種類に分けてリストアップしたうえで、そのなかでも「相手を道具として使用すること(instrumentality)」にはたしかに道徳的な問題があるが、他の種類のモノ化は許容され得る、と論じるのだ。

 

チャタレイ夫人の恋人』では、コンスタンス・チャタレイという女性と森番のメラーズという男性のそれぞれが相手の性器に名前を付けて、互いの性器を求め合う場面が描かれている。この状況について、「セックスの当事者の双方が互いの個人性(individuality)を放棄して、互いのことを性器に還元して扱っている」とヌスバウムは表現する。

 カントであれば、相手の人格ではなく性器という身体の部分だけに注目して相手を扱うことは非倫理的であると言うだろう。しかし、ヌスバウムによると、コンスタンスとメラーズが行なっているモノ化は対称的で相互的であり、相互の敬意や平等を前提として成立しているものであるからOKだ。むしろ、セックスの最中に自律性(autonomy)や主体性(subjectivity)を放棄することは、セックスに含まれる自然な喜びを存分に味わえることにつながり得る。相手のことを受動的(passive)な存在として扱ったり、自発的な行為者性(agency)や能動性(activity)を認めずに不活性(inertness)な存在として扱うことも、セックスにおいては許される可能性がある。性生活においては、相手の感情的・身体的な境界に侵入する(penetration)という行為が重要な価値を持つ場合もあるからだ。

 とくに女性の場合、セックスにおいて自律性を放棄してモノ化されて喜びを味わうことは、人生全体を充実させたり自由にすることにつながるし、自己表現を実現する生き方をするためのエネルギーとなり得る、という風なことをヌスバウムは主張している。

 ただし、セックスにおける性的モノ化がよいものとして認められるためには、行為の当事者同士が互いに尊重しあう関係性が成立していることが前提とされる。そのため、「相手が誰であってもいい」という匿名性を前提とした乱交的なセックスは問題視される。また、相手との関係について物語的な歴史(narrative history)を築いていない状態でセックスをすることは、相手の人格に対する敬意や配慮が背景に存在しないということなので、そのセックスは互いが相手の身体を欲求を満たす道具として使用するという行為以外のなにものでもない。これは道徳的に許容されない悪い意味での「性的モノ化」であるのだ。

 

 というわけで、ヌスバウムによれば、相互の敬意や配慮が成立しており対等で信頼のおける恋人関係や夫婦関係であれば、ふたりのセックスのプレイの一環として性的モノ化が行われることはOKとされるのだ。一方で、よく知らなかったり信頼関係が成立していなかったりする相手との行きずりのセックスや乱交は、どんなプレイであるかに関わらずそのセックス自体が性的モノ化であるためにNGとなり得る(実際にはヌスバウムは「行きずりのセックスや乱交は道徳的に認められない」とまでは主張しておらず、「道徳的に問題がある」と示唆している程度であるのだが)。

 カントであれば「すべてのセックスは、性的欲求を満たすために相手の身体を道具として使用する行為であるから、性的モノ化行為であり、すなわち不当な行為である」と主張しそうなものだ。……それに対してヌスバウムは「すべてのセックスは性的モノ化であるが、正当な性的モノ化もあり得る」と主張しているのか、それとも「セックスはプレイによって性的モノ化を含まない場合と含む場合に分けられるが、後者であっても正当であり得る」と主張しているのかは、ちょっとわからない。

 一般的な男女のセックスに、『チャタレイ夫人の恋人』のように互いの性器に名前を付けて呼びあったりするなどのプレイが含まれるとは限らないだろう。すくなくともわたしはそんなプレイをしたことはない*2

  また、ヌスバウムは、セックスにおいて自律性や主体性を放棄することはワンダフルさとか自然な喜びとか生のエネルギーとかを得るために必要である、そのようなプレイは道徳的に許容されるだけでなく積極的に行うことが推奨される、というくらいに思っているようだ。この感覚もわたしにはちょっとわからない。ベッドの上であっても相互の自律性や主体性を尊重しあいたいという生真面目さや誠実さ、あるいはセックスのときだけ関係性をガラリと豹変させることに対する気恥ずかしさや照れから、そういうプレイを実践しないカップルは多くいそうなものである。そのようなカップルは、互いの性器に名前をつけて呼び合っているカップルに比べて、ワンダフルさや喜びやエネルギーに乏しい性生活を過ごしているのだろうか?

 

 ところで、この論文で批判の対象となっているカントの議論について、ヌスバウムは以下のようにまとめている。

 セックスに関するカントの分析の中核となっているのは、性的な欲求(傾向性)は人のことをモノとして扱ってしまうことについての非常に強力な動因となる、という考え方である。性欲の存在は、「異性のことを自分の性欲を満たすための道具として扱うという行為」を誘発しかねない。相手をそのように道具扱いしているときには、快楽を満たすという目的のために、相手がどう思っていたりどう感じていたりするかは気にならなくなる(相手の主体性の否認)。また、相手に命令して振る舞いをコントロールしたくなる(相手の自律性の否認)。このことは、男性に限らず女性にも当てはまる。したがって、性欲に導かれてセックスすることとは、男女の双方が互いを道具として扱いあうために自分も道具として扱われることを許容する、自分のことも相手のことも非人間化(dehumanize)する行為であるのだ。

 セックスによる自他のモノ化に対するカントの解決策とは「結婚」である。結婚とは男女が相互に尊重することを法的な制度によって促進するものだ。婚姻関係にある者たちが相互に築く尊重は堅固なものであり、セックスによって相互を道具扱いした程度では崩されなくなるから、セックスは「無害」とされるのである。

 

 カントの主張は男女の双方に当てはまるものだとはいえ、彼の議論はやはり男性的なものであるように思える。というのも、「自分の性的な欲求が、異性の主体性や自律性を否認するという非道徳的な行為につながってしまうかもしれない」ということについての警戒心や恐怖心を抱いているのは男性の方が多いはずであるからだ。

 性犯罪をおこなう人の大多数が男性であるほか、通常のセックスにおいても、相手のことを身体的・精神的に傷付けてしまうリスクは男性の方が高いものである*3。逆に、男性の側がセックスによって傷付けられるということは、あり得なくはないが珍しいことだ。だから、大半の女性は、相手が未成年であったりよっぽど年齢差があったりしない限りは「自分の性欲によって相手のことを傷付けてしまうかもしれない」という恐れを抱かずに生きているものだろう。

 カントの主張は明らかに抑圧的であり、現代の感性からは受け入れ難いものではあるが、その主張は保守性とか非近代性というよりかは生真面目さゆえの潔癖性に由来するものであるように思える。

 言うまでもなく、ヌスバウムはカントのように結婚を絶対視してはおらず、婚外交渉まで否定しているわけではない。とはいえ、セックスにおける性的モノ化が許容されるためには相互を尊重する関係や二人のあいだの物語的な歴史が必要であるとして、行きずりのセックスや乱交を問題視する彼女の議論は、なかなかに保守的である。大衆的というか小市民的でもあり、現代で哲学とか文学とか芸術とかをやっているようなタイプの人はそうそう主張しない議論ではある。その一方で、「結婚前のカップルであっても愛があるならセックスしてもいいと思うけど、行きずりのセックスや乱交はよくないものだ」という意見は、かなり多くの人が共感するであろうごく一般的なものでもある*4。カントが当時のヨーロッパにおける一般的な価値観に理屈を付けて正当化したのと同じように、ヌスバウムは現代の先進国における一般的な価値観に理屈を付けて正当化している、とも言えるかもしれない。

 

 やや余談になるが、「モノ化という問題については、文脈がすべてなのだ」(p.227)とヌスバウムが言い切っているところは面白い。たとえば、就職の面接を控えた女性に対して「君は美人なんだから、写真を送るだけでも合格するに決まっているよ」という言葉を与えることは、通常ならば相手のことを能力や人格を無視して外見(性的特徴)に還元する侮辱的な行為になりえるが、恋人同士のピロートークや気心の知れた友人同士の会話なら言われた本人を喜ばせたり嬉しがらせたりする行為になり得るのだ。

 実際問題、性や恋愛の問題なんて(あるいは人間関係の問題全般について)、文脈やニュアンスがすべてであるだろう。しかし、アカデミックなものにせよインターネットにおけるアマチュアなものにせよ、「議論」というものにおいては「文脈」や「ニュアンス」というものはとにかく理解されない。したがって、「愛のあるセックス」なんて存在せずセックスそのものを加害行為とみなすか、「愛のあるセックス」も行きずりのセックスも乱交もセックスという点では同価値とみなすか、どっちかの極に振れてしまい、現実性や常識からかけ離れた主張がメジャーとなってしまいがちなのだ。

 ヌスバウムの議論にも独特の偏向は感じられるし「それってお前の好みの問題じゃん」と言えるところもなくはないのだが、彼女なりに真面目に誠実に中道的で妥当な着地点を見出そうとしている様子は伝わってきて、好感が抱ける。これくらい常識的な議論がもっとメジャーになってほしいものだ。

 

 

*1:わたしはポルノグラフィの問題には基本的に関心がないためにマッキノンやドウォーキンの議論にもあまり興味がなく、なのでこの二人の議論についてはこの記事では特に紹介しない。

*2:こういうのはそもそも「平均」や「普通」というものがどこあるかが誰にもわからなくて論じづらいことではある。わたしの経験上、セックスにおいて相手のことを性器に還元して扱うという行為は、「男性→女性」よりも「女性→男性」においてずっと一般的なのではないかという気がする。行為の際に性器に視線を向けたり、相手の性器について言及したりするのは、女性側のほうがずっと頻度が高いからだ。

*3:わたし自身、このリスクをかなり意識している方だ。以前に付き合っていた女の子で、(おそらくAVの見過ぎが原因で)行為の最中にこちらの加虐心を煽る言動を行ってくる相手がいたものだが、「プレイであっても傷付ける真似事なんてしたくないんだから勘弁してくれよ」としか感じなかったのでノラなかった。しかし、お互いに信頼関係が成立しているのであれば、行為の最中にはそういう道徳的配慮は捨てて性の喜びを味わうことに専念するべきだ、というのがヌスバウムの言いたいことであるかもしれない。

*4:そういえば、ヌスバウムの主張に基づけば、不倫や浮気であっても愛(相互の信頼や尊重)があるなら認められそうなものだし、乱交はダメでもお互いによく知り合う相手同士なら複数人での性的関係も認められそうなものである。ここら辺は人によるだろうが、「愛があるなら不倫も仕方がない」はわりと一般的な価値観であるような気がしなくもない。