道徳的動物日記

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読書メモ:『意志の倫理学:カントに学ぶ善への勇気』

 

意志の倫理学――カントに学ぶ善への勇気 (シリーズ〈哲学への扉〉)

意志の倫理学――カントに学ぶ善への勇気 (シリーズ〈哲学への扉〉)

  • 作者:秋元康隆
  • 発売日: 2020/01/27
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

 カント「哲学」の入門書は数あれど、カント「倫理学」の入門書はほとんど存在しないので、この本は実にありがたい。

 こっちは「倫理学の本でいつも出てくる"義務論"ってカントの議論に基づいているらしいけれど、具体的にはどういうことなのだろう?」ということを知りたくて入門書を探しているのに、カント「哲学」の入門書だとアンチノミーとか空間論や時間論とか、倫理とあまり関係なさそうな部分の解説がセットでついてきてしまうので、読んでいてまだるっこしかったのだ。

 

 特定の理論に限定しない倫理学全般の入門書ではカント的な義務論が功利主義や徳倫理と並べて紹介されることが多いが、紙幅の都合などから「それぞれの倫理学理論はどのような問題意識を背景にしており、どういう理路で成立しているのか」ということに関する解説は薄いまま、各理論の長所と短所や、「特定の問題について各理論を応用して考えるとどうなるか」ということについて解説されることが多い。

 通常の学問における「理論」の扱いとしてはそれでいいかもしれないが、よく指摘されるように、義務論や功利主義や徳倫理の提唱者ではそれぞれの問題意識どころか扱っている対象すらまったく異なっているところがある。ひとくちに「倫理」といっても、意志と行為と人格のそれぞれに関する議論は、様子がかなり異なってくるものだ。そのため、ひとつの理論を対象にして、その内側に分け入って解説する本も必要となるのである。

 

 この本の第一部や第二部では「善意志」や「傾向性」などのキーワードを用いながら、カント倫理学の基本がかなりわかりやすく説明されている。

 冒頭の用語集にて、「仮言命法」と「定言命法」、「完全義務」と「不完全義務」などの概念が表の形式でまとめられているのも便利だ。本文の最中にもイラストによる解説が大量に挟まれており、わかりやすい。

 

『意志の倫理学』というタイトル通り、カント倫理学では「意志」がとにかく重要であるようだ。

 

 

先ほど例として挙げた「見返りを求めて」「下心から」 といった利己的な欲求のことを、カントは「傾向性」(独:Neigung)と呼びます。(日本語でも、ドイツ語でも)見慣れない表現ですが、漢字を見て分かるように、これは「傾き」という意味であり、人間は油断をしていると、自らの欲望の方に転がっていってしまうというニュアンスがあるのです。この利己的な感情である傾向性に発した行為が、倫理的価値を持つということはありえないのです。

では我々は、どのようにして傾向性から行為することを避けることができるのでしょうか。ーー傾向性とは、自然に発する感情(感性)です。人は感情の赴くままに動いている限り、傾向性を抑えることはできません。その傾向性を抑えるために必要なのは、(感情の対概念である)理性なのであり、具体的には、それに発する意志(独:Wille)なのです。

(……中略……)

道徳的な善さとは、先ほど挙げたような、それ以外の良さとは根本的に異なり、無制限に善く、絶対的な価値を有するのです。そして、その道徳的善の正体とは、利己的である傾向性に由来しない純粋な意志、すなわち、善意志(独:gutter Wille)に他ならないのです。

(p.35 - 37)

 

 また、主体性も、カント倫理学においては重大なポイントになるようである。

 

…我々が則るべき最上位の格率の実例として、カントは以下の三つを具体的に挙げています。

一:自分で考える。

二:(人々と交流する際に)自らあらゆる他人の立場になって考える。

三:常に、自分自身と一致した考えをする〔自分自身を誤魔化すような考え方はしない〕。

(p.149 - 150)

 

 大学生の頃に石川文康の『カント入門』を読んだときにも思ったが、カントの考え方は、功利主義や徳倫理に比べるとある種のアツさがある。実存主義的であるし、物語的でもあるのだ。

『意志の倫理学』では著者がかなりカントにのめり込んでいることがうかがえる。また、「はじめに」や第五部などで紹介される個人的なエピソードからは、著者本人がかなりアツくて善人であることが伝わってくる。著者の人格やタイプとカント倫理学の特徴が共鳴して、その魅力がよく表現された本になっていると言えるだろう。

 

自らがいかに生きるべきか考え、それを行動に移すのに、一部の人のみが有するような特別な才能や能力など必要ありません。そこで必要となるのは誰もが本来それを行使する権能を持つ「勇気」(独:Mut)と「決意」(独:Entschilebung)なのです。その本来「やろう」と意志さえすれば誰もができるはずのことを、やろうとしないことは「怠惰」(独:Faulheit)と「怯懦」(独:Feigheit)に他ならないのであり、その責任は本人に着せられるのです。

(p. 253)

 

 ただし、魅力的であることと、妥当であることや正確であることはイコールではない。

 カント倫理学はわたしたちに「意志」や「勇気」を持って「自分で考えること」を要請するが、その要請を満たせられたら、わたしたちの行為の結果がどうであったり判断にミスが含まれていたりしてもわたしたちは道徳的で有り得る、ということになる。これは、わたしたちの意図がどれだけ素晴らしくても結果が悪ければダメだとする功利主義や、そもそも道徳的な人間で有り得るかどうかが性格や能力の観点から厳しくジャッジされる徳倫理に比べれば、ずいぶんと優しくて理想主義的だ。だからこそ、不安や頼りなさも感じるのだ。

 たとえば、「カントの功績は、誰もがなんとなく分かっていることを理論的にまとめ、それを文字に起こそうとした点にあるのです。我々はそこから学ぶことによって、より自覚と確信に満ちた生き方ができるようになるのです。」(p. 92- 93)ということは、カント倫理学の弱点を示している可能性もある。倫理や道徳について"誰もがなんとなく分かっていること"ではなく"誰もがなんとなくそうであってほしいと願っていること"を、"理論的にまとめている"のではなく"理論付けて正当化している"と解釈することもできるからだ*1。……これはわたしのオリジナルの発想ではなく、ジョシュア・グリーンが『モラル・トライブズ』で行なった批判である。

 

インタビュアー:道徳的な問題について自分たちは感情ではなく理性を用いて解決している、と哲学者たちは誇ってきました。ですが、あなたは著書『モラル・トライブズ』のなかで、理性の支持者のなかでも最も象徴的な存在であるイマニュエル・カントの議論の内実を効果的に暴いています。カントの議論の多くは、彼自身が暮らしていた文化に由来する感情や直感を難解な言葉で正当化したに過ぎない、とあなたは書いています。カントの主張のなかであまり有名でないものには、現代ではその結論を真面目に受け止められないような主張…例えば、マスターベーションは「自分の体を手段として使用する」から道徳的に不正である、という主張…がありますが、カントの有名な議論(訳注:人権についての主張など)も、マスターベーションについての議論と根本的には変わらない、とあなたは主張しています。これについて、人々はどのように反応しましたか?

 

グリーン:お察しの通り、私の議論をまったく気に入らない哲学者たちもいます。ですが、一部の人々の考えを変えることはできたとは思いたいです。私が著書のなかで書いているような議論や主張に初めて直面するが、読む前から既に特定の立場には立っていなくて、そして科学を理解できる人なら、私の議論を読んでこのように言います。「うん、たしかに筋が通っているね」と。

 

 

 この本の第三部ではカント倫理学の細かいポイントまで分け入りながら、「カントの至らなかった点」について補いつつ著者なりに訂正・補修したバージョンの新・カント倫理学が提示されるのだが、ここは、カント倫理学に深く賛同している人以外にとってはあまり興味の惹かれないパートであろう。また、第四部では他の倫理学説とカント倫理学が比較されるのだが、ここではミルやアリストテレスロールズの議論が比較のためだけに取って付けたように紹介されている感があって、いまいち面白くない。

 一方で、カントの啓蒙思想や教育論が紹介される第五部は教育者としての著者のスタンスや矜恃なども感じられて、なかなかに面白かった。

 

 

*1:

davitrice.hatenadiary.jpヌスバウムによる「性的モノ化」論もカント主義的なものであったが、それについて江口さんが「単なるヌスバウム自身の道徳的選好、あるいは 彼女の性的な選好の表明にすぎないのではないか」と示唆していたことも、すこし思い出した。性の問題に限らず、生命倫理などのほかの応用倫理の問題においても、カント主義的な議論は理性的なものというよりかは「道徳的選好」を表明しているだけに思えるときがある。