道徳的動物日記

倫理学、社会科学、時事問題、世相などについて論じます。

「弱者男性」でありたがることのなにが問題か

gendai.ismedia.jp

 

 ↑ 「弱者男性論」に関するわたしの記事が講談社現代ビジネスに掲載されてからちょうど一ヶ月になるが、この記事をきっかけに「弱者男性論」が盛り上がったようで、SNSや個人ブログに匿名ダイアリーなどで、弱者男性について書かれた文章がいくつも登場することになった。

 そのなかでも特に重要なのは、文春オンラインに掲載された杉田俊介さんの記事だろう。

 

 

bunshun.jp

 

 また、はてなブックマークでは以下のツイートに数百以上のブクマが付いている。

 

 

 

 

 

「はまりー」さんのこのツイートはなかなかに興味深いと思うので、これをテコにしてちょっと考えてみよう。

 

 上記のツイートは批判しようとすればいくらでも批判できるものではある。

 たとえば、「誰かがおれを愛してくれないかなとぼーっと思い煩う」という表現は弱者男性に対して侮蔑的で攻撃的なものであると言えるだろう。

 また、このツイートの論調について、「"つらい"と言っている人に対して、その"つらさ"の原因を他人や社会ではなく自分のなかに見い出させたうえで、自分が工夫することによって解決することを求めているものだ」と指摘することもできる。はてなブックマークのコメントでも示唆されている通り、もっと具体的であり社会的に問題視されているトピック(女性や外国人などのマイノリティへの差別に絡んだ問題や、貧困に絡んだ問題など)についてこのような論調で議論してしまうと、ただちに「自己責任論」や「新自由主義的発想」として批判されてしまうはずだ。

 

 実際のところ、弱者男性に特有の"つらさ"とは「異性からの承認を得られないこと」であると考えた場合には、クロワッサン的なテクニックや思想に基づいて生活を工夫してラクにすることでその"つらさ"を解消できるかどうかは、かなり微妙であるだろう。

 わたし自身、異性のパートナーが長期間いなかった時期に、料理を工夫したり酒を節制したり早起きして筋トレする習慣を取り入れたりすることで生活のクオリティを上げる試みを実践していたことはある。すると、たしかに日々の気分は良くなったし、「今日は家に帰ったらなにを作ろう」とか「きょう酒を飲まずに早寝して、明日は早起きしてこんなことしよう」などと1日単位で計画を立てながら生活することでメリハリの効いた毎日を過ごせられて、なにかしらの幸福感や自己肯定感を得られているという実感が抱けたものだ。

 ……しかし、それによって異性のパートナーがいないことの孤独感が埋め合わせられたかというと、そうではなかった。「生活のクオリティ」と「パートナーの存在」は、どちらも幸福感や自己肯定感に関連しているとはいえ、本質的には別のレイヤーに属するものだ。それぞれから得られる幸福や自己肯定などの感覚の質もかなり異なるものであるように思える。たとえてみると、睡眠欲と食欲くらいにはちがう。どれだけたっぷり寝ても空腹は満たせないし、いくら食べたところで睡眠時間が足りていないならしんどいままだ。同じように、個人的な生活のレベルをいくら上げたところで、パートナーという社会関係が存在しないことによるつらさは残り続けるものではないだろうか。

 とはいえ、食欲と睡眠欲のどちらかひとつが満たせている方がどちらも満たせないよりかはマシであるように、パートナーもおらず良いクオリティの生活も過ごせていない人生よりかはせめて後者だけでも実現できている人生のほうがマシであることには変わりない。実際、酒を飲み過ぎていたり運動が足りていなかったり野菜を食べていなかったり日光を浴びていなかったりするせいで心身が不健康になっている人がやるべきことなのは、酒を控えたり運動をしたり野菜を食べたり日光を浴びたりすることなのだ。彼がパートナーが欲しがっているとしても、まだそれを求める以前の段階にいるとしか言いようがないのである。

「自分で解決できる問題は自分で解決すべきであり、他人を必要とする問題にはその後に取り組むべきである」と指摘することは、多少パターナリスティックに聞こえるとしても、正論であることには変わりない。なにより、この指摘は有効だ。だれがどう文句を付けたところで、クロワッサンを読んで家事を軽くしようとしたり冬の食卓をラクしておいしくしようとしたりする実践に踏み出せている人は、そうでない人よりかは幸福に近付いているはずなのだ。

 

 ある人がなにかの問題に苦しめられているとして、大概の場合は、性格や行動や考え方などのその人自身の「内側」にも原因があるし、他人や社会や時代などの「外側」にも原因がある。内と外のどちらにより強い原因があるかは場合によるだろうし、問題について分析する際の枠組みとか物の見方とかにもよっても判断が変わってくるだろう。そして、「自己責任論」批判が盛んな現代では、本を読んでいたり議論が好きであったりする人たちの間では、「外側」にある原因を強調して個人の責任を問わない物言いが好まれるようになっている*1

 しかし、問題の原因が外にあるということは、問題の原因が内にある場合と比べて解決が困難になるということでもある。単純に言って、他人や社会を動かすことは、自分を動かすことよりも何十倍も難しいからだ。「自分のつらさの責任や原因は、自分の内側ではなく外側に存在する」と言ってもらえることで、ある種の安心や救いは与えられるかもしれない。しかし、「自分の外側に原因があるのだとすれば、自分がなにをどうがんばったところで、問題は解決できない」という考えも同時に浮かぶものだろう。したがって、他人や社会に対する敵意や怒りを抱いてしまうだけでなく、無力感も生じてしまうことになるのだ。

 

gendai.ismedia.jp

 

 昨年の秋頃には、ジョナサン・ハイトとグレッグ・ルキアノフの著書『アメリカン・マインドの甘やかし』について紹介する記事が講談社現代ビジネスに掲載された。この本ではいわゆる「反ポリコレ」的な議論が展開されており、わたしの書いた記事の内容も「反ポリコレ」的なものとして受け止められたようだ。

 たしかに、ハイトとルキアノフは、現代の若者やマイノリティが「弱さ」を強調して「被害者意識」を抱きがちであることが生じさせる問題について議論している。彼らの議論のポイントは、弱さや被害を強調されることは学問のあり方や民主主義などの社会的な制度に良からぬ影響を与えるだけでなく、若者やマイノリティたち当人の精神的健康にも支障を生じさせる、という点にあった。

 

さらに、マイクロアグレッションのような概念は、学生たち自身の精神的健康にも良からぬ影響をもたらす。他人に対する非難を優先して自分の感情の正当性を吟味することを怠らせるだけでなく、「自分が被害者である」とか「自分は傷つけられた」といった意識が他人を批判する根拠になると思わせることは、そのような意識を積極的に持つように本人を動機付けてしまうのである。その結果、学生たちは、「自分は被害者である」という意識から逃れなくなるのだ。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/77812

 

 そして、現代のアメリカではマイノリティたちの主張に呼応するかたちでマジョリティたちも自身の弱さや被害を強調し始めたことにより互いに足を引っ張りあう泥沼的な状況が生じている、ということも『アメリカン・マインドの甘やかし』のなかでは論じられているのだ。

「弱者男性論」のなかにもハイトとルキアノフが批判するような「虚弱性の不真実」や「感情的推論の不真実」が含まれていることは、言うまでもないだろう。

 

fuyu.hatenablog.com

 環さんによる上述のブログ記事では、「(ネット論客が行うような一部の)弱者男性論のなかでは、"弱者男性"という言葉は、フェミニズムに対するカウンターという文脈で用いられている」ということが指摘されている。

 実際、一部の弱者男性論者たちは、「弱者男性論とはフェミニズムに対する異議申し立てである」「自分たちはフェミニズムの議論のミラーリングを行なっているだけであり、弱者男性論に対して指摘される問題点はすべて裏返せばフェミニズムにも当てはまるものだ」と言ったことを公言しているのだ。

 もちろん、フェミニズムと弱者男性論はどっちもどっちで同じレベルの議論をしている、とはわたしは考えていない。現代ビジネスの記事でも書いたように、男性と女性のそれぞれが感じているつらさの種類やそのつらさが生じるにいたった経緯とはそもそも異なっているものだ。客観的に見て、女性側のつらさは男性側のつらさよりも「外側」に原因が存在するところが大きい。現代のフェミニズム運動に「感情的推論の不真実」や「虚弱性の不真実」が含まれていることは否定できないが、とはいえ、社会の制度や構造が男女不平等の実際の原因になっていることを指摘して、さらには社会運動を通じてそれを改善してきた/改善し続けているという功績も、たしかにフェミニズムには存在しているのだ。

 一方の弱者男性論はその出発点が「フェミニズムに対するカウンター」であるために、結局のところ、議論のための議論に終始している。弱者男性論がフェミニズムのような功績を残すことはこの先もないだろうし、弱者男性論者たち自身も、本心では自分たちの議論がなにかしらのかたちで社会を変えられるとは思っていないだろう。

 厄介なのは、議論のための戦略という観点だけで見れば、マジョリティである男性の「弱者性」を強調するのはたしかに有効であるということだ。現代の議論の状況は、弱者性や被害者性を「切り札」として使うことを許してしまっているからである。……しかし、先述したように、自分たちの弱者性を強調することは無力感につながり、自分たちの問題に自分たち自身で向き合って解決することから遠ざけてしまうのだ。

 要するに、弱者男性論は、当の弱者男性たちを問題解決から遠ざけて不幸にするという代償を生み出している。その見返りに得られるのは、インターネット上の議論でフェミニストたちを"論破"してちょっとした優越感に浸れるとか、益体もない愚痴を匿名ダイアリーに書き込んだりはてブやTogetterのコメントで揚げ足を取って憂さ晴らしできたりするとか、そんなのだけだ。弱者男性論は「個人を幸福にすること」も「社会を変えること」のどちらも志向していないために、いくら唱えたところで、いつまで経っても「出口」に辿り着きようがない。そのような思想や議論には存在意義がないのだ。

 

アメリカン・マインドの甘やかし』の著者であるハイトは、古代からの哲学や思想と現代の心理学を合体させることで、『しあわせ仮説』という自己啓発の名著を生み出した。この本のなかでは古代ギリシア的な「徳」の理念や現代の認知行動療法が積極的に肯定されており、自分の「弱さ」よりも「強さ」に目を向けてそれを日々の生活のなかで活かしていくことや、自分で対処できる問題についてはつべこべ言わずに自分で行動を起こすことの重要性が強調されている。

アメリカン・マインドの甘やかし』を読んだあとに『しあわせ仮説』を読み返してみると、ハイトの議論の一貫性や、その議論のバックボーンにある「徳倫理」の骨太さがよく理解できるようになった。わたしが思うに、弱者男性についてもその他のマイノリティについても、いま必要とされているのは、「弱さ」を肯定したり自己責任を否定したりする議論ではなくその逆である。もちろん、「強さ」や自己責任を強調する議論ばかりになってしまったら、それはそれで問題が生じるだろう。しかし、ネット上で繰り広げられるような低レベルなものにせよ思想や文学の場で繰り広げられるようなハイレベルなものにせよ、今時の「議論」には徳や強さの価値を認める視点がちょっと足りてなさ過ぎるのだ。

 

しあわせ仮説

しあわせ仮説

 

 

*1:

非正規的で「弱者」的な男性たちには、もしかしたら、男性特権に守られた覇権的な「男らしさ」とは別の価値観――たとえば成果主義能力主義や優生思想や家父長制などとは別の価値観、オルタナティヴでラディカルな価値観――を見出すというチャンス=機縁が与えられているかもしれないのだ(もちろんそうした著作や思想はすでに様々にあるが、それらを具体的に点検していくことは、別の場で行おうと思う)。

 もはや、そういうことを信じていいのではないか。いや、「私たち」はそう信じよう。

 誰からも愛されず、承認されず、金もなく、無知で無能な、そうした周縁的/非正規的な男性たちが、もしもそれでも幸福に正しく――誰かを恨んだり攻撃したりしようとする衝動に打ち克って――生きられるなら、それはそのままに革命的な実践そのものになりうるだろう。後続する男性たちの光となり、勇気となりうるだろう。

https://bunshun.jp/articles/-/44981?page=5

 このブログ記事の本題とは外れるので脚注で言及してしまうが……上記に引用した、杉田さんの記事の結論部分については、わたしとしては賛否半々な気持ちを抱いている。既存の「価値観」を否定しながら自身の「弱さ」をテコにして新しい価値観を示そうとしたり、「弱さ」を否定することなく逆転的に前向きな生き方の実践に接続させる、といった発想はたしかに感動的ではある。また、ある程度までならそのような生き方も実現可能であるだろう、とも思う。……しかし、上述の発想には、いかにも思想好きで文学好きな文系人が有り難がりそうな「お話」や「綺麗事」という感じもつきまとう。このブログの他の記事でもいろいろと書いてきたが、わたしは「能力主義」をはじめとする「覇権的な価値観」の正当性や自然さを一概には否定しない立場であるし、それに対抗して人工的に作られる「オルタナティヴでラディカルな価値観」とは結局のところ持続性がなく頼りのないものであると考えている。だから、「弱者の"弱さ"を肯定する」というタイプの主張よりも、「弱者であってもセルフヘルプによって"強さ"を身に付けられる」というタイプの主張の方が有効であると思うのだ。