道徳的動物日記

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「だれを好きになるか」を批判の対象にしていいのか?(読書メモ:『すごい哲学 世界最先端の研究が教える』

 

 

 献本してもらったので読んだ。十数人以上の若手日本人哲学者が「サステナブルなファッションを選ぶにはどうしたらいいか?」や「小説を読むことで人はやさしくなれるのか?」といった具体的かつ詳細なトピックについて、(主に海外の)最新論文を紹介しつつ3〜5ページで短く論じる、という本。

 全体的に執筆者たちは自分の書いているトピックについて距離がとれており、冷静であっさりした文体が多い。「まえがき」では「少し変わった哲学の入門書」とされているが、哲学の考え方や方法を体系的に学べる教科書といったものでもない。全体的なとりとめのなさから、「哲学・倫理学の与太話集」といった表現のほうが合っている気もする。

 

 とくにわたし自身の生活や人生経験に関わるものとして興味のあるトピックを挙げると、「マッチングアプリで好みでない人のタイプを書くのは差別か?」(長門裕介)と「「アジア系フェチ」に何の問題があるのか?」(木下頌子 )。前者に関しては現代ビジネスで記事にもなっている。

 

gendai.media

また、イギリスのグラスゴー大学のロビン・ゼンは、これまでに差別されてきた特定の人種だけが負わなければならない心理的な負担も問題にしています。つまり、他人からの評価が上がったり下がったりした場合、白人であればそれを単純に「自分のこれまでの行いによるもの」と考えればいいのに対して、これまでに差別されてきた人種は「自分のせいなのか、人種のせいなのか」「差別と考えるべきか、無視するべきか」といちいち悩まなければならない、というわけです。

このことはプライベートな空間、つまり誰とデートするか、といった場面でも当てはまります。

 

(p.17)

 

 また、ロビン・ゼンの議論は後者でも紹介されている。

 

…ゼンによれば、イエローフィーバー[アジア系女性を好み、アジア系の女性とばかり付き合う白人男性を揶揄するのに使われる言葉]の道徳的な問題を理解するには、こうした好みが本人の人種差別的な考えに起因するかどうかという問題だけでなく、多くの人がこうしたこの好みをもつことの社会的影響を考慮することが必要なのです。

例えば、ゼンは、多くの白人男性たちがイエローフィーバーをもつことは、アジア系女性に大きな心理的負荷を与えると指摘しています。ゼンによれば、白人男性に好かれるアジア人女性は、「本当に自分のことが好きなのか、それともアジア系だったら誰でもよいのか分からない」という疑念をもつことを避けられません。そして、こうした疑念による心理的負荷の問題は、仮にイエローフィーバーの男性が人種差別的な考えをもっていなくても生じる問題です。

さらにゼンは、多くの白人男性がイエローフィーバーをもつことは、仮にこうした人々が差別的な考えを持つわけではないとしても、結果として社会的ステレオタイプを強化してしまうと論じます。実際、「イエローフィーバー」という言葉が流布しており、白人女性を好む「ホワイトフィーバー」という言葉は見当たらないことから、少なくとも英語圏の社会の中に、「従順なアジア系女性と、そうした扱いやすい女性を好む白人男性」といったステレオタイプが流通していることは間違いなさそうです。こうした状況で、多くの男性がアジア系女性をまさにアジア系であることを理由に好むことは、こうした社会的なステレオタイプをさらに強固にするように思われるのです。

以上のように、ゼンは、イエローフィーバーの道徳的問題を、それがもたらす社会的影響に注目して明らかにしようとしています。こうしたゼンの観点は、「性的な好み」という、しばしば個人的な問題に還元されがちなものの問題を考える上で、とても貴重なものだと言えるのではないでしょうか。

 

(p.135 - 136)

 

 さっそく苦言を呈することになるが、本書は「海外(ほとんどが英語圏)の論文で行われている議論を紹介する」というコンセプトであるがゆえに、日本の一般読者の生活や問題意識とは乖離した内容になっている章も多い。

 たとえば、日本におけるマッチングアプリについて「人種」が問題になることなんてほとんどないだろう。「「背の高い人」に対する好みをアプリの中で表明することは、通常はそれほど道徳的に悪いことだとは思われていないでしょう。」(p.16)と書かれてはいるが、SNSなどでもわたしの実際の友人たちとの会話においても、身長の高低で相手を選ぶことに関する議論のほうが人種よりかはまだしも話題になっている。

 そして、なんといっても恋愛・結婚のパートナー選択に関して日本で話題になっているのは、女性が男性を選ぶ際の「年収」という要素だ。

 いわゆる「弱者男性論者」の人たちが、女性たちが年収の高い男性と結婚したり恋愛したがりする傾向を「上昇婚」志向として批判する、という問題についてはわたしもこのブログや他メディアの記事で何度か扱ってきた*1

 この問題に関する現在のわたしの意見は、以下のようなものである。

 

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しかし、その理由がなんであろうと、「女性は(高収入であっても)自分より収入の高い男性と結婚したがる」という傾向はあくまで統計的なものだ。おそらく、女性の上昇婚志向は低収入な男性が結婚できないという状況を生み出す原因のひとつではあるだろう。しかし、個人としての女性たちが、自分たちの性別の統計的な傾向が原因で生じている問題の責任を負うべきだとは限らない。

そもそも、とくに恋愛や結婚という事象においては、だれと恋愛してだれと結婚するかを選択する自由は、個人が有意義な人生を過ごしたり幸福を感じたりするうえで核心的なものとなり得る。「意に沿わない相手と結婚するくらいなら独身であるほうがマシだ」という信念は女性にとっても男性にとっても一般的なものであるはずだ。

高い収入や高学歴、あるいは社会的地位を異性に求める女性がいるという事実は、多くの男性にとっては不愉快なものである。しかし、男性が異性に対して行う「選り好み」も、多くの女性にとっては不愉快に感じられるだろう。

 

 この考え方はごくごくオーソドックスなリベラリズムに基づくものでもある。

 自由というものは人間にとって特別に大事なものなので、「他人を傷付ける自由」や「他人の自由を妨げる自由」といったものでない限り、制限してはいけない(これは「危害原則」と呼ばれる)。

 そして、個々人の「だれを好きになるか」あるいは「だれと結婚するか」という選択はとくに重要なものであるから、それを制限したり操作したりしようとする社会はひどく抑圧的である。

 また、すくなくとも一昔前までのリベラリズムでは、不愉快に感じたり悩んだりする程度のことは、自由を制限するのを正当化できるような「危害」にカウントされていなかった、ということも失念すべきではないだろう*2

 

 しかし、「アジア系女性フェチの白人男性」を批判するロビン・ゼンの議論を認めるなら、「高収入男性を求める(低収入男性を回避する)女性」を批判する弱者男性論も認めなければいけないことになりそうだ。

 アメリカにおいてアジア系であるのと同じように、日本において低収入であることも「心理的な負担」やその他諸々の精神的葛藤やストレスを生じさせているはずだろう。また、日本には現に「高収入の男性と、そうした男性を好む女性」といったステレオタイプが流通していることは間違いなさそうだ。こうした状況で、高収入の男性を多くの女性がまさに高収入であることを理由に好むことは、こうした社会的なステレオタイプをさらに強固にするように思われる。それがもたらす社会的影響を考えたら、女性の「上昇婚」も道徳的に問題だと批判できるのはないだろうか?

 ……もちろん、わたしとしては、ゼンから批判される白人男性たちも弱者男性論に批判される女性たちも、「社会的影響なぞ知るか」と言って批判を突っぱねるのが正しいと思う。

 

 また、日本で生まれ育ち日本に暮らしている白人男性としては、本邦には欧米の「イエローフィーバー」とは逆の現象…つまり「白人男性(または外国人男性全般)を好み、白人の男性(外国人男性)とばかり付き合う日本人女性」が存在することは指摘しておきたいところだ。ちなみに、数は少なくなるかもしれないが、「黒人男性を好み、黒人の男性とばかり付き合う日本人女性」もしっかりと存在している。

 さらに、一般論として、恋愛においては多くの場合に女性のほうが「選ぶ側」になりやすいことも指摘しておこう。ごく当たり前の現象として、(一定の年齢までの間は)女性のほうが男性よりも言い寄られる機会や相手から好きになられる機会が多く、パートナーの候補が複数人存在する。そのなかから誰を選ぶかというのは本人の選択だ。すると、白人男性とアジア系女性が付き合うことで「社会的ステレオタイプ」を強化させてしまうことの責任は、ある程度以上はアジア系女性の側にも存在するように思われる。

 話を日本に戻すと、わたしは「白人男性を好み、白人の男性とばかり付き合う日本人女性」のことを一概に否定したくない。なぜなら、女性に比べて「選ばれる側」の性であり、さらに収入や身長など他の要素はパッとしない身分としては、自分の人種のおかげで異性と出会えたり付き合えたりするチャンスが増えるのはラッキーなことであるからだ

 わたしとしては、相手に対して「本当に自分のことが好きなのか、それとも白人だったら誰でもよいのか分からない」という疑念をもつことよりも、モテないことのほうがよっぽどつらい。日本に住んでいるほかの白人男性たちのなかにも同じような人はいるだろうし、欧米に住むアジア系女性のなかにすら「イエローフィーバーのおかげでモテてラッキーだわ」とあっけらかんに捉える人はいるだろう。

 

 そして、ゼンの議論の大前提になっている、「本当に自分のことが好きなのか、それともアジア系だったら誰でもよいのか分からない」という疑念をもつことによる「心理的負荷」という問題も、冷静に考えたらよくわからない。

 だって付き合っているんでしょ?うじうじと一人で疑念を持たずに彼氏に聞けばよくない?もちろん相手ははぐらかしたりごまかしたりするだろうけれど、態度や言動や表情から「やっぱりこいつはわたしそのものじゃなくてわたしの人種が好きなんだな」と判断できることもあるだろうし、そうしたら別れたらいいじゃん。相手に対して本音を聞こうとするための勇気や、相手の本音を推し測って察するための知恵は、人種とか性別とか関係なく恋愛をする人には必要とされるものだし、勇気や知恵を持たないことのツケは本人が被るべきでしょ。若い人同士の恋愛だったら互いに成熟していないから難しいかもしれないけど、人種の問題に関わらず若い人同士の恋愛って難しくて失敗が付きものだし、そこから教訓を得て成長するのが人間というものだし。

 わたし自身の経験を振り返れば、「わたしが白人だからこいつはわたしと付き合っているんだな」と判断できる相手もいれば、「人種以外のところに魅力を感じてわたしと付き合っているんだな」と判断できる相手もいた。さらに、前者についても、恋愛を通じて「白人であること」以外のわたしの魅力を相手に伝えたり、何度もデートしたり会話したりして関係性を築くことで、「キミが白人であることをついつい忘れちゃうわ」「いつの間にかキミの人種を意識しなくなった」と言ってくれるまでに至ったケースもある。

 ……わたしの友人には身長が190cm近い高身長男性がいるが、彼も「高身長男性を好む女性たち」に関して同様の経験をしているようだ。そして、もちろん、欧米に住むアジア系女性にだって同様の経験をすることはできるはずである。むしろ、出会った当初や付き合いはじめた当初のイメージや偏見を乗り越えて互いに理解を深めて、「相手はどんな人間であるか」を知りつつ「自分はどんな人間であるか」ということを知ってもらえるのが、恋愛の醍醐味というものであろう。

 恋愛とは個人と個人が行うものであり、二人のあいだで生じる問題について他人が関与するのもおかしいし、他人の責任にするのもおかしい。結局のところ、「社会的影響」や「社会的ステレオタイプ」を云々すること自体が、根本的にナンセンスではないだろうか。

 

『すごい哲学』はあくまで海外の議論を「紹介」する本であり、たとえばロビン・ゼンの議論を真に受けたり信じたりすることを読者に強制する本ではない。イエローフィーバーを一概に否定しないラジャ・ハルワニの議論が紹介されているなど、多少はバランスが意識された内容になっていることもたしかである。

 しかし、本書のなかでも倫理学や規範論が関わるいくつかの章を読んでいると、「哲学」の魅力がむしろ失われてしまう危険性も感じる。

 社会に存在する物事や現象の多くにはたしかになんらかの「悪さ」が存在しており、最近の英語圏分析哲学では細かで見過ごされがちな「悪さ」を取り出して言語化して論文にするというのが盛んであるようだ。それ自体が問題だとは言わない。細かな問題の言語化も含めた「知識」や「議論」の数が増えること自体は、わたしも歓迎する立場である。また、物事や現象の「悪くなさ」を言語化して反論の論文を書く、ということも行われてはいるだろう。

 ……とはいえ、本書を読む一読者としては、社会や生活の細かなことについて「あれも悪い」「これも問題だ」「それも差別や抑圧と言えるかもしれない」とばかり書かれているのを目にしていると、哲学や倫理学とは世の中を窮屈にして人間から自由を奪うために存在する学問であるかのように錯覚させられてしまいそうになる*3。わたしはまだ多少なりとも哲学に関わってきているからいいが、この本を通じて初めて哲学に触れる読者の場合には、「哲学って細かいことについてウダウダ文句をつけるウザい学問なんだな」という印象がさらに増すおそれがあるだろう。

 おそらく、ポリティカル・コレクトネスや「社会正義」が華々しい英語圏の論文が主な元ネタであること、また執筆者たちが若手中心であることも問題の一因であるかもしれない。

 また、本書の前書きでは「デカルトヘーゲルといった昔の哲学者もほとんど姿を見せません」(p.02)と誇らしげに書かれているが、個人で分厚い単著を書いているタイプの哲学者の骨太な議論があまり紹介されていないのも難点ではある。エラい哲学者の単著というものは…アリストテレスの『ニコマコス倫理学』にせよジョン・スチュアート・ミルの『自由論』にせよジョン・ロールズの『正義論』にせよピーター・シンガーの『実践の倫理』ですら…社会や人生について考えるための「土台」や「軸」を提供するものであり、自由や危害といった問題についても個々のケースで右往左往せず総合的に判断するための道筋を提供してくれる。それは、「悪さ」発見ビジネスにもなりつつある「世界最先端の研究」とは一線を画すものだ。

*1:

gendai.media

*2:

s-scrap.com

*3:まさに世の中を窮屈にして人間から自由を奪うことを目的とする分野である、動物倫理について散々書いてきた自分が言えることでもないけれど。