道徳的動物日記

倫理学、社会科学、時事問題、世相などについて論じます。

人種差別は「本能」ではない(『啓蒙思想2.0』読書メモ④)

 

 

 

 心理学者のジョナサン・ハイトは、『社会はなぜ右と左にわかれるか』などの著作や諸々の記事などで、人間には「部族主義」の本能(バイアス)が備わっていることを何度も強調している*1。他の点ではハイトの主張を批判している哲学者のジョセフ・ヒースや心理学者兼哲学者のジョシュア・グリーンですら、人間に「部族主義」の本能が備わっていることは認めている。

 そして、部族主義は、しばしば人種差別主義の原因となる。ただし、部族主義は必ずしも人種差別主義を引き起こすわけではない。部族主義それ自体は本能に根差したものであるが、部族主義が人種差別主義として表出されるかどうかは、状況や環境による。これが、『啓蒙思想2.0』の13章の前半でヒースが行っている議論のポイントだ。

 

 一部の心理学者は、実験の結果を用いながら、「わたしたちは他の人種に対する偏見を抱いている」ことを、ことさらに強調する。よく話題になるのが、「黒人の顔によるプライミング刺激」を示す「潜在連合テスト(IAT)」を用いた実験だ。

 

www.bbc.com

www.natureasia.com

 

 実際、わたしたちが他人と関わるときには、人種や性や年齢や身体的特徴に関して反射的で無意識的な「パターン認識」や「ステレオタイプ化」を行って相手のことをカテゴライズする、という点はヒースも認めている。ただし、ステレオタイプ化やカテゴライズ化自体は、ネガティブなものであるとは限らないとも指摘している。

 

「人種差別」という問題についてのヒースの主張の要旨は、以下のようなものだ。

 

…人種差別は生まれつきか教えこまれるものかという古くからの議論がある。疑いなく証明されてきたのは、人々が集団に分かれて内では連帯感を高め、外の人には敵対心を抱くのは、ほとんど生まれつきで、非常に変えにくい性質であることだ。たとえ互いにそっくりな人たちや、通常は地位やアイデンティティを示している標識を取り去った人たちを集めても、何らかの差異が認められ、競争に基づく比較がなされていく。そして理性は、このような分類には根拠がないと告げているかもしれないが、本能はこれに強い感情的な意味を付与することができる。このことは、人はたとえ生まれつきの人種差別主義者ではないとしても、生まれつきの自集団中心主義ではあるという見方を裏づけている。

これは悪い知らせだ。しかしよい知らせもある。内集団バイアスは生得的かつ心理的に強力である一方で、人が内集団と外集団を区別するときに注目する特徴は固定されていないらしいということだ。心理学者がくり返し発見してきたことだが、人間の集団成員性は非常に操作されやすく、当人たちも重要ではないと承知している特徴に呼び起こされがちである。「X」とか「W」とグループ名をつけるだけでも有効だ。集団的アイデンティティと区別を決定づけるのは、絶対的な意味で「重要」な特徴ではなく、どんな特徴であれ判断の時点で最も際立った特徴のようだ。

このことは、内集団バイアスの強さにもかかわらず、人は生まれつき人種差別主義ではないと示唆している。進化論の視点から見れば当然のことだ。地理的に遠くに住む人々との交流はなかったから、進化的適応の環境には異人種というものは存在しなかった。人が人種差別に陥るのは、集団が形成されて人種が際立つことによってである。ほかのアイデンティティの基準が与えられたならば(例・カブズのファンか、ホワイトソックスのファンか)、もはや人種差別主義ではなくなるだろう。話す言葉が違うなど、どんな場合にも無視しがたい際は、もとより際立っている。しかし人種の違いはこの種のことではない。だから人種の違いから転じて、ほかの区別を与えてやるだけで、内集団の連帯システムをだますことは可能になる。

(p.382 - 383)

 

ここの人種の心理学に関する非常に鋭い洞察がある。重視されるのは個人間の差異より、私たちが意味を与えるために選ぶ差異なのだ。これは人種についてのよい知らせである。問題を克服するための最良の方法は、ひたすら人種から気をそらすことかもしれない。人の気を引くものがほかになければ、人種を区別する身体的特徴が重視されるが、これは、そうした特徴から顕著性(salience)を除くことによって抑えられる。他者をグループ分けして、外集団に属する人たちに反感を抱くのをやめることは、おそらくどうしてもできない。だが、たとえこの人間心理の基本的特徴は変えられなくても、人々が互いに分類しあう方法が社会的にさほど有害ではなくなるように環境を操作することで、有効な回避策をとることができる。たとえば、肌の色のような遺伝的特質には目を向けさせずに、髪型のように自由に決められて象徴的な特徴に集中するよう促せばよい。髪型の利点は、たやすく変えられるので個人の区別にとって永続的な不利益にならないことである。

(p.385)

 

 ヒースによると、アメリカで「人種の統合」に成功している二つの組織が、「軍隊」と「スポーツチーム」である。これらの組織は、組織に対する排他的な忠誠心を構成員に要請することで、組織の内部では同じ集団の仲間であるという連帯感を醸成しているからだ。

 また、別の箇所では、ナショナリズムとは部族主義バイアスを狩猟採集民時代の小さな部族よりも大きな集団で機能させるための「トリック」や「装置」のようなものであるとヒースは論じている。ナショナリズムでは排他性が前提とされるが、それゆえに数百万人や数千万人や数億人もの国民が「一つの集団」にまとめられて連帯感を抱き、協力しあって、経済や諸々の社会制度が機能するようになる。狩猟採集民の集団の規模はせいぜい数十人から数百人であったことを考えると、これは驚くべきトリックであるのだ。

 

 人種や肌の色は決定的な差異ではないこと、それよりも「話す言葉」のほうがカテゴライズの指標とされやすいことは、日本で暮らす白人としての経験からも、実感をもって理解できる。日本における外資系の企業や外国人の集まるバーでは、白人・黒人・アジア人であっても英語が母語なら「外国人組」となり、「日本人組」から分離されやすい。そして、母語が日本語であり英語のスピーキングがヘタクソなわたしは、「日本人組」に入れられることになる。

 また、欧米人はしばしば日本の「部落差別」を不思議に思う。人種も国籍も一緒なのに、生まれた地域によって差別されるということは、欧米人には理解しがたいのだ。同様に、黄色人種として人種が共通しているはずの東アジアの国々がいずこ同士も仲が悪いことについても、不思議だと思われることが多い。しかし、人種が差別の「指標」となるのは普遍的な現象ではなく、逆に言えば欧米での黒人差別も日本における部落差別や在日コリアン差別も、根本にある「原因」や「性質」は同じものであると考えることができるのだ(もちろん、それらの差別が成立していった具体的な歴史的経緯や、差別のあらわれ方や制度のされ方はまったく違うのだろうけれど)。

 ちなみに、進化心理学者のジェリー・コインは、「人種」というカテゴリは社会構築的なものではなく生物学的に実在するカテゴリであると指摘しながらも、「人類の下位グループの分離はあまりにも最近に起こったことであるので、 "身体的な" 差異が進化するには明らかに充分な時間だったとしても、それよりも広大な遺伝的差異が進化するほどの時間はなかっただろう」と論じている*2。「反・ポリコレ」な議論を唱える人は隙あらば「人種差別という本能」や「(知的能力などに関する)人種間の生物学的な差異」などを主張しようとするが、「そもそも人類は"異人種"と出会うことがない環境に適応してきた」という距離的な事実と、「人種間で大きな遺伝的差異が生じるほどには、人種差の歴史は古いものではない」という時間的な事実を忘れるべきではないのだ*3

 

この視点から見ると、アメリカの真の問題はむしろ人種差別主義というより人種意識である(実際、他国人にとって、アメリカの異文化間関係で最も抑圧的な特徴は、国民性が人種差別的というのではなく、人種についてひっきりなしに考えたり話したりすることだ。階級についてひっきりなしに考えたり話したりするイギリス人の性癖よりずっとひどい)。しかも、このアメリカ文化の特徴は、白人も黒人も、保守もリベラルも、誰もが関与して関与して関与して維持強化されていく巨大な陰謀の様相を呈している。これは、この問題について進歩的な立場をとるアメリカ人のほとんどが、人種差別は直接に克服されねばならないと、それは人種的差異に対する感受性と意識を高めることでしか達成できないと考えているからだ。進歩的な黒人の政治運動の多くは、旧来の「肌の色で違いのない」社会という理想を拒絶し、ポジティブな黒人のアイデンティティを認識し支持するように強く求めて、同じことをした。これでは意図せずして人種差別を再生産するはめになる。たとえ本来の意図が、ポジティブな集団アイデンティティの創出であったとしても、最大の影響は、集団アイデンティティの基準として人種を際立たせていることで、これがまた人種のネガティブな評価の元になるのである。

(p.386)

 

  上記の箇所は、2016年のトランプの当選以降にすっかり盛んとなった「アイデンティティ・ポリティクス批判」の先駆け的な議論といえるだろう*4

 そして、これは以前にも指摘したが、現在の日本のインターネットでは「オタク」と「フェミニスト」によるアイデンティティ対立が見受けられる。……というより、「オタク」の側が「オタクという集団フェミニストという集団に戦争をしかけられている」というストーリーを構築することで、一方的に対立の構図を作っているというところが実情に近いだろう*5。あるいは、「理系」対「文系」というアイデンティティ闘争の構図も、くだらなくて他愛もないであると思いきや、けっこうな怒りや憎しみを煽っているようだ(これも、「理系」の側からほとんど一方的に対立の構図を描いているフシがある)。アメリカにおける人種のアイデンティティ・ポリティクスのような「善意」や「大義」もなければ、ナショナリズムのような「実益」もないという点で、この種類のアイデンティティ対立は不毛なものであるとしか言いようがないだろう。

 

 今回まとめた論点ついて、ヒースがより掘り下げて論じている記事はこちら。

 

econ101.jp

*1:

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

*3:「人種というカテゴリは社会的構築物である」という「ポリコレ」側の主張が「反・ポリコレ」を刺激している、というところもあるだろうけれど

*4:

davitrice.hatenadiary.jp

*5:わたしが見たところ、フェミニスト表現規制などについて賛成したり要請したりすることはあるし、「男性という集団に対する、女性という集団」というアイデンティティ対立の構図をフェミニストが描くこともあるが、「オタク集団に対する、フェミニスト集団」という構図をフェミニストの側が描くことはほとんどない。