先ほどの記事の続き的な内容。先ほどの記事ではオープンレターが持つ「効果」や「意図」について論じたが、こちらでは、オープンレターに書かれている内容自体について思うところを書いてみる。
このような呼びかけに対しては、発言の萎縮を招き言論の自由を脅かすものであるいう懸念を持つ方もいるかもしれません。近年では、そうした懸念は「キャンセル・カルチャー」なるものへの警鐘という形で表明されることがあります。すなわち、問題ある発言をした人物が「進歩的な」人びとによる「過度な」批判に曝され責任を追及されることが、非寛容と分断を促進するという懸念です。
しかしながら、こうした懸念が表明される際にしばしば忘れられているのは、「問題ある発言」が生じてくる背景に差別的な社会の現実があるということです。差別を受ける側のマイノリティにとっては、多くの言論空間はそもそも自分にとって敵対的な、安心して発言できない場所であり、いわば最初から「キャンセル」されているような不均衡な状況があります。
「キャンセル・カルチャー」批判派であるわたしとしては、やはり、上記の部分にいちばん反応してしまう。たとえば、"「キャンセル・カルチャー」なるもの"という書き振りからは、言外に「キャンセル・カルチャーなんてものは存在しないか、あってもたいしたことがないものであるし、それについて警鐘を鳴らしていたり懸念していたりするやつは的外れであったりロクでもなかったりするんだ」というメッセージを感じなくもない。穿ち過ぎかもしれないけれど。
いずれにせよ、「差別を受ける側であるマイノリティは、最初からキャンセルされている状況にある」と主張する、後段の部分のほうが問題だ。
「差別的な文化」の存在によって女性をはじめとするマイノリティは不当な非難や中傷を受けやすく、そのためにメディアやSNSなどでも発言を委縮させられやすくて、学問的議論に参加するためのハードルも上げられている、というのは、その通りだと思う。とはいえ、それは、公的な場で発言することや学問的な議論へ参入することについての障壁がマジョリティよりも(不当に)高くされているということであって、発言の場が奪われていたり議論に参入することが不可能になっていたりしているということではない。
一方で、キャンセル・カルチャー(やノー・プラットフォーミング)の目的は、キャンセル行為によって対象の発言の場を奪うこと、すくなくとも公的な場や権威を持つ場において発言する機会をなくそうとすることにある。究極的には、「問題ある発言」をする人物を議論の場から排除することが、キャンセル・カルチャーの目指すところだ。
もちろん、マイノリティの発言障壁が高くされていることも、「問題ある発言」をする人物がキャンセルされそうになることも、どちらも問題だ。しかし、問題の性質はかなり異なる。だから、「差別を受ける側であるマイノリティは、最初からキャンセルされている状況にある」というのは、本質からズレた、不用意なレトリックでしかない。
そして、「問題ある発言」をする人物をキャンセルすればマイノリティの発言障壁が低くなるということでも、もちろんない。しかし、上記に引用した部分は、「マイノリティの発言障壁を低くすること」と「問題ある発言をする人物に発言の場が与えられること」がまるでゼロサムゲームであるかのような印象を与える文章になっているように思える。
ちなみに、「マイノリティは最初からキャンセルされている」的な問題意識については、わたしも現代ビジネスに掲載した下記の文章のなかで触れている(4ページ目と5ページ目)。それでも言論の自由や自由な討論は重要であり保障されるべきだ、というのがわたしの主張だけれど。
日本語圏では以前から、ツイッターを中心にSNSやブログにおいて、性差別に反対する女性の発言を戯画化し揶揄すると同時に、男性のほうこそ被害者であると反発するためのコミュニケーション様式が見られました。たとえば性差別的な表現に対する女性たちからの批判を「お気持ち」と揶揄するのはその典型です。今回明らかになった呉座氏の発言も、大なり小なりそうしたコミュニケーション様式の影響を受けていたと考えられます。そこでは、差別をめぐる問題提起や議論が容易にからかいの対象となるばかりでなく、場合によっては特定の女性個人に対する攻撃までおこなわれる一方で、自分たちこそが被害者であるという認識によってそうした振る舞いが正当化され、そうした問題点を認識することが難しくなります。これにより、差別的な言動へのハードルが極めて低くなってしまうという特徴があるのです。
要するに、ネット上のコミュニケーション様式と、アカデミアや言論、メディア業界の双方にある男性中心主義文化が結びつき、それによって差別的言動への抵抗感が麻痺させられる仕組みがあったことが、今回の一件をうんだと私たちは考えています。呉座氏は謝罪し処分を受けることになりましたが、彼と「遊び」彼を「煽っていた」人びとはその責任を問われることなく同様の活動を続け、そこから利益を得ているケースもあります。このような仕組みが残る限り、また同じことが別の誰かによって繰り返されるでしょう。
これらの段落で想定されているのは、いわゆる「弱者男性論者」たちのことであろう。すくなくとも、呉座氏と直接に絡んでいた御田寺圭(@terakei07)のことが想定されているのは、確実だ。ほかにも、小山晃弘(@akihiro_koyama)や永観堂雁琳(@ganrim_)のことも想定しているのかもしれない。
「弱者男性論」についてはわたしも常々問題であると思っており、折に触れて批判してきた*1。とはいえ、批判のなかで個々の「弱者男性論者」を名指しして取り上げてはいなかったこともたしかである。
しかし、自分のことは棚に置いてしまうけれど、オープンレターに関しては、はっきりと御田寺たちの名前を出すべきだったと思う。呉座氏については名前を出しているんだし、背景の事情を多少なりとも知っている人なら「あいつらのことだ」とすぐにわかる内容だし、実際に本人たちもオープンレターで自分たちが非難の対象となっていることに気が付いてやいのやいのと反論しているのだから。
もちろん、相手の名前を明示することは相手との「論争」が本格的に始まってしまうということであり、オープンレターの発起人たちは負担やリスクを負うことになる。でも、約20名の連名(+約1300名による賛同署名)による公開書簡という強力な手段を用いて人を批判するなら、それくらいの負担やリスクは覚悟すべきだと思う。なにより、本気で「女性差別的な文化」をなんとかする気があるなら、インターネット上で女性に対する「からかい」や女性をダシにした「遊び」を煽動している本丸である、弱者男性論者たちと対峙することは避けられないだろう。
だから、「ネット上のコミュニケーション様式」と「アカデミアや言論、メディア業界の双方にある男性中心主義文化」の両方が問題であるとしながらも、呼びかけの対象を「研究・教育・言論・メディアにかかわる者として、同じ営みにかかわるすべての人」に限定して、「中傷や差別を楽しむ者と同じ場では仕事をしない」や「距離を取る」などの内輪における間接的な制裁を提言しているところは、陰湿であると同時に逃げ腰でもある。
わたしが見たところ、事件の原因の大部分は「アカデミアや言論、メディア業界の双方にある男性中心主義文化」ではなく「ネット上のコミュニケーション様式」のほうにある。呉座氏はたまたまアカデミシャンであったが、ほかの業界の男性であっても、パーソナリティの欠陥や思慮の浅さが原因となって「ネット上のコミュニケーション様式」に疑問を抱くことができずに「からかい」や「遊び」のつもりで差別的言動や誹謗中傷を繰り返す、というのはいくらでも起こり得る(起こっている)事態だ。だから、解決すべきは「ネット上のコミュニケーション様式」のほうであるし、そのためにはもっと堂々としていて表立った議論などの手段が必要であるように思えるのだ。
……とはいえ、現実問題として、弱者男性論者たちはアカデミシャンではなく、コンプレックスや差別を煽ったうえでnoteやYouTubeで言動を売って稼ぐ「商人」だ。だから、彼らのことを名指ししたり表立って議論したりすることで結果的に彼らの注目度を上げて「商売」に加担することになってしまう、という危惧は理解できる。
しかし、その代わりとして、商人ではなくアカデミシャンであるがゆえに言動に責任や誠実さが求められる、つまり逆説的に地位や立場が弱い状況にあった呉座氏だけがオープンレターにおいて明示的に批判されてしまう(その結果として職が奪われかねない状況に陥っている)という、いわば「生贄」にされるという顛末になってしまったことも否定できない。これはこれで、不公平さや不誠実さが存在するように思える。