道徳的動物日記

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「犬笛」としてのオープンレター

 

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女性差別的な文化を脱するため」のオープンレターはもう半年以上前に発表されたものだけれど、このオープンレターで取り上げられている呉座勇一氏が日文研から「停職一か月」や「準教授取り消し」の処分を受けたこと、そしてその処置が不当であるとして呉座氏が日文研を提訴したことを受けて、ふたたび話題となっている。

 

mainichi.jp

 

www.kyoto-np.co.jp

 

 わたしは、「キャンセル・カルチャー」の問題については、このブログだけでなく講談社現代ビジネスにも記事を書きながら、何度も取り上げてきた*1。だから、発表された当初からこのオープンレターやその背景にある事件には関心を抱いてきた。しかし、このブログでは取り上げてこなかった。まず背景にある事件がかなりややこしい構造となっているうえに事実関係を把握するのも困難であること(散発的な誹謗中傷が鍵付きのTwitterアカウントでなされていたことが一因だ)、そして、このオープンレターには問題点や批判されるべき点があると思いながらも理解できる点や共感できる点も多々あるという、曖昧で両義的な感情を抱いてきたからだ。

 しかしまあ最近の流れを受けて以前よりもさらにモヤモヤするところが出てきたので、思うところを書き出しておこう。

 

 呉座氏による提訴は先日になされたばかりであり、言うまでもなくその結果はまだ出ていないのだが、提訴されたことを受けて「呉座氏になされた処分はやはり不当だったのではないか」という声が高まっている。そして、オープンレターが出されたことが処分の一因(や根本的な要因)になっていると考えている人たちが、オープンレターの発起人たちや賛同者たちに対する批判をおこないはじめている。

 その批判に対して、オープンレターの発起人たちのなかには「オープンレターのなかでは呉座氏に対する処分は求めておらず、日文研が呉座氏に対して不当な処分を下したとしてもそれはオープンレターによる批判とは何ら関係がないし、オープンレターの発起人や賛同者が責任をもつことではない」といった反論をおこなっている人たちがいる。

 

 わたしとしては、どちらの意見にも共感できるところがある。

 まず、原則論として、「だれかを批判することと、批判された人が所属する組織からどんな処分を下されるかは関係がなく、批判者が処分に関する責任をとる必要はない」というのはその通りだ。「お前が批判したアイツが会社からクビにされたから、お前が責任をとれ」という理屈が通じるなら、「批判」という行為のリスクが高まり過ぎて、だれかにどんな問題があったりだれかがどんな悪いことをしていたりしても、だれもそれを批判することができなくなってしまう。そんな社会はあまりに不健全だし、危うい。

 

 しかし、個人による批判ではなく、約20名の発起人と約1300名もの賛同者によるオープンレターともなると、話は異なってくるようにも思える。20名や1300名という「数」は、「批判」以外の性質をオープンレターに与えるはずだ。「こんなに数多くの人間が呉座氏の言動を問題だと思っているんだぞ」「”研究・教育・言論・メディアにかかわる多くの方”が、呉座氏のことを批判しているんだぞ」という「空気」が生成されることは避けられない。

 オープンレターのなかでは、「呉座氏はアカデミアから排除されるべきだ」「呉座氏にアカデミックな地位を与えるべきでないし、教職の立場につけるべきでもない」といったことは主張されていない。しかし、Twitterを見てみると、研究・教育・言論・メディアにかかわる人たちの一部には、単に呉座氏の言動を批判するにとどまらず呉座氏がアカデミアにとどまることを疑問視したり教職につくべきでないと主張したりしている人もいた(呉座氏の名前や該当の事件が直接言及されることもあれば、間接的に示されることもあった)。そのなかにはオープンレターの賛同者もいた。

 呉座氏に対する批判が勢いづいて、苛烈な処分を求める声が出るようになった背景には、オープンレターが発表されたことが確実に関わっているだろう。そして、「約1300人が賛同しているオープンレターに書かれている、呉座氏に対する批判」と「オープンレターの外側における、呉座氏に対する苛烈な処分を求める声」は一緒くたになって、「研究・教育・言論・メディアにかかわる大量の人間が呉座氏に対する処分を求めている」という、ひとつの「空気」を作っていったように思える。そして、その「空気」が、日文研による呉座氏に対する処分に影響していた可能性はかなり高そうだ。

 

gendai.ismedia.jp

 

 考えてみれば、このSNS社会で「大量の”業界”人による賛同の署名が付与された公開声明」がどのように機能して、どのような効果をもたらすかということは、ほとんど自明であるかもしれない。

 とくに、オープンレターのなかでは「キャンセル・カルチャー」という単語が(否定的な文脈で)登場していることは重要だ。アメリ言語学会でスティーブン・ピンカーに対してオープンレターが提出されたことに代表されるように、海外のキャンセル・カルチャーではオープンレターを用いることは定番になっている(ピンカーに対するオープンレターでは彼をアカデミック・フェローの立場から除名することが明示的に要求されていた、というポイントはあるけれど)。そして、オープンレターの発起人のなかには、海外のキャンセル・カルチャーの状況について知っている人もいるだろう。つまり、「海外ではオープンレターがどのように用いられてきて、どのような効果を持ってきたか」という知識をもったうえで、あえて呉座氏に対するオープンレターを作成したとも考えられる。

 そうだとすれば、オープンレターはいわゆる「犬笛」として機能してしまったかもしれない。オープンレターのなかでは「呉座氏に対する苛烈な処分」は要求されていないが、大量の署名付きのオープンレターを公開することによって「呉座氏に対しては強く批判してもいい」とみんなに思わせて、苛烈な処分という結果につながる。そして、その結果は、オープンレターの発起人たちが多かれ少なかれ予測していたことであるかもしれない。

 

 オープンレターのなかでなされている、『フォロワーたちとのあいだで交わされる「会話」やパターン化された「かけあい」』や「からかい」のもつ問題や差別性の指摘は優れているし、オープンレターで示されている問題意識にはわたしにもいろいろと賛同したり共感したりできるところはある。だからこそ、オープンレターが含んでいる(かもしれない)問題には、わたしとしてはかなり気持ち悪い感触を抱いている。

 そもそも論として、約20人による共同作成ではなくて、個人としての意見を書けばよかったのではないだろうか。

 また、オープンレターの賛同者たちも、研究・教育・言論・メディアにかかわる人間であるなら、自分の肩書で自分の意見を表明する機会や立場にも自分の意見を文章にする能力にも、ふつうの人たち以上に恵まれているはずだ。Twitterとかではなく雑誌や  Webメディアや個人のブログなどで、個人が自分の責任でそれぞれに、呉座氏に対する批判なりアカデミアにおける「女性差別的な文化」なりへの批判を展開すればよかったと思う。なにかを批判するなら、自分の名前と自分の意見を明示して自分で責任をもつくらいのことは、最低限求められるのではないだろうか?「批判」が「処分」につながってしまうおそれがあるような事態ならなおさらだ。