道徳的動物日記

倫理学、社会科学、時事問題、世相などについて論じます。

社会的制裁のなにがよくないのか

anond.hatelabo.jp

 

 普段ははてな匿名ダイアリーの投稿にはあまり反応しないのだけれど、最近の事例についてはいろいろと思うところがあるので、昨日にTwitterに下記のような投稿をした。

 

 

 

 

 

 言いたいことは上記のツイートにだいたい書いているが、ついでだしもう少し書いておこう。

 

 

allreviews.jp

 

note.com

 

 

ネットリンチ」について書かれた本の原題は「So You've Been Publicly Shamed」で、Public-shaming とは「公の場での吊し上げ」という意味。個人的にはネットリンチという単語は字面がキツくて意味が限定的になり過ぎてしまうので、public-shamingやcall-outにあたる日本語があればよいと思う。

 

gendai.ismedia.jp

 

 集団的な吊し上げや非難に含まれる問題点のひとつは、その非難の内容が間違っていたり吊し上げが行き過ぎていたりする、ということが後から発覚しても、そのことに関する責任をだれも取らないということだ。

 たとえば、スティーブン・ピンカーアメリ言語学会の「フェロー」の地位から除名することを求めるオープンレターが提出されたとき、日本の言語学者社会学者や哲学者などのなかにもオープンレターに対する賛意を表明した人がいたが、わたしや他の数人の人たちが「オープンレターのなかで書かれているピンカーに対する批判はいずれも不当である」ということを指摘した後にも、賛意を示していた人がそのことについてコメントをした様子は見受けられない。つまり「ピンカーは悪くてムカつく奴だから、彼を批判するオープンレターには正しいことが書かれているっしょ」という程度の安易な気持ちで、一個人を差別主義者と糾弾して公的立場を引き下げることを求める文面に賛同していたわけである。……そういうことをする人たちは(わたしとかほかのピンカー擁護派の人たちに比べて)「リベラル」や「人権派」の立場にいて普段から反差別や社会的公正に関するメッセージを積極的に発しているタイプの人たちであるという事実は、やはりグロテスクであるように思える。

 

・「いじめ」にもいくつかのタイプがあり、立場的・身体的・知的な弱者に露骨な暴力を振るったり屈辱を与えたりするタイプの「いじめ」もあれば、集団内では相対的に弱者でない人を吊し上げたり仲間外れにしたりするタイプの「いじめ」もある。

 前者のほうが被害者が受けるダメージが深刻であり、弱者を標的にしているという点で悪質さもあるかもしれない。しかし、後者のタイプの「いじめ」であっても、被害者が深刻なストレスを受けて心に傷を負うことには変わりない。

 今回の件でも、いくつかの有名人が「ネットリンチの行き過ぎはよくない」という趣旨の発言をして、「お前はいじめっ子の味方をするのか」「自分にも後ろ暗いことがあるから擁護しているんだろう」と非難されている。しかし、有名人というものは社会的立場や能力が高かったり創造的で個性的な人格をしたりしているものであり、だからこそ、先の分類における後者のタイプの「いじめ」を受けた経験があるものだ*1。全国のいじめ被害経験者は過去に行われた「いじめ」の被害者に同情したから小山田を非難しているのと同じように、一部の有名人は現在に行われている「いじめ」の被害者に同情したから彼を擁護しているのであろう。

 

・繰り返しになるが、社会的制裁という現象においては責任を取る人がだれもいないので、この現象は必然的に「行き過ぎ」になる。「どの程度までの制裁を与えることが妥当であるか」という調節を行う権限を持つ人もいないし、「どのような対応がなされたら制裁を収めるか」という「ゴール」を定義する権限を持つ人もいない。とくにネット社会では、ある個人に対する制裁がいちど始まったら、みんなが飽きて忘れるまではずっと続くことになる。

 厄介なのは、たとえば近年では性的加害行為に対する#MeToo運動がそうであったように、社会的制裁の現象によってその後の社会の道徳基準が引き上げられて、これまで見過ごされてきた行為が懲罰の対象になり、以降はその行為の被害者が減るという「望ましい事態」がもたらされる可能性もある、ということだ*2。実際のところ、これまでの歴史においても、社会の道徳的進歩というものは多かれ少なかれ社会的制裁によって実現してきたのかもしれないし、それがなければわたしたちは現在よりもずっとひどい社会に住んでいたのかもしれない。

 とはいえ、どんな社会的制裁も行き過ぎになると考えれば、対象となる人は不当に過多な制裁を受けてきた……つまり、ある種の「被害」を受けてきた、ということになる。このことには不当さや不正義が含まれているはずだし、すくなくとも気の毒なことではある。

 このようなことを考えると、よっぽどのことがない限りは、有名人であろうと犯罪者であろうと、自分と関係のない個人に対して怒りを示したり懲罰を求めたりする言動をおこなうということ自体をする気があまりなくなる*3。特にネットやSNSには、個人のものとして投稿した意見であっても、同じような意見を投稿している人が他に何百人や何万人もいたりすると、意見の集合体が「壁」となって意見の対象者にとっては暴力として機能する、という側面があるからだ。

 また、実際のところ、大半の人はどんな問題についても自分と関わりなければいちいち怒らないし、ましてやネットにその問題についての意見を投稿することもない。Twitterにせよヤフコメにせよはてなにせよ、ついつい忘れてしまうが、そんなところに意見を書く人は日本人のなかでもごくわずかだ。そのような人たちのことを「民主主義の社会の一員として社会に対して抱くべき関心が欠けている」と非難することはできるかもしれない。……しかし、自分と関わりがなく自分が責任を取れるわけでもない問題について意見を表明しないということも、それはそれで美徳であるだろう。

 

・ほかにも色々とモヤモヤすることはあるのだけれど、まあ以前に書いた下記の記事のなかでも言いたいことはいっている。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 上記の記事でも書いたが、ネット上での非難というものは「ネタ」化や「大喜利」化しやすいということは、特にグロテスクだ。

 小山田の件は深刻な「いじめ」が関わっているという点でネタや大喜利にしている人はほとんどいないようであるが、もう少し気軽に叩きやすい対象……たとえば、『100日間生きたワニ』の映画やIOCのバッハ会長はネタや大喜利の対象とされているようである*4。たとえば、「バッハ会長との王様ゲームで最終的にバッハ会長が日本刀で斬られてしまう感じの命令を出したい」という趣旨のツイートを見かけた。他愛のないネタであると言うこともできるかもしれないし、この日本語のツイートをバッハ会長本人が見かけて傷つくという事態もまず起こらないだろう。それでも、ある実在の個人の死を連想させる文言を面白おかしいものとして投稿するというのは、考えてみればひどい話であるのだ。

 

*1:「壁と卵」発言でも有名な村上春樹が「いじめ」について書いた作品といえば「沈黙」であるが、そこで描かれている「いじめ」も後者のタイプのものであることは示唆的だ。

murakami-haruki-times.com

theeigadiary.hatenablog.com

*2:とはいえ、今回の件で、全国の学校からいじめ被害者が減るかどうかは疑わしい。(この件に関して専門的な知識があるわけではないので印象論になってしまうが、)学校でいじめが起こるのは、いじめが見過ごされていたり社会的に許容されていたりするからというよりも、学校という閉鎖空間やシステムに成長期や思春期という生徒たちの年齢などのほうにずっと強く原因があるように思える。

*3:もしかして忘れているだけで以前には自分でもそういう言動をしていた可能性は高いので、あまり強くは言えないけれど。

*4:

www.itmedia.co.jp