このブログではめずらしく個人的な思い出話。
91年生まれ大反省会をしたい。わたしは91年生まれで今年30になる。若者と括られてきたけど、明らかに今の世代と全く育ってきた景色が違うことを感じる。政治家と言えば小泉首相、まだ日本は経済的にすごいと習ったし、嫌韓本が本屋に並び、ネットは2chにニコニコ、メディアは「オネエ」を笑っていた。
— 永井玲衣 (@nagainagainagai) 2021年7月5日
当時K-POPを色んな人が恐れていたのを覚えている。学問といえば受験勉強、フェミニズムはヒステリー、社会運動は危険、資本主義は疑えないもの。数え切れないイメージが潜在的に内面化されているはず。ここをしっかり毒出しして反省しないと、これからの世代を抑圧してしまう。ここが分水嶺だと思う。
— 永井玲衣 (@nagainagainagai) 2021年7月5日
↑ Twitterでこういう投稿をみかけて
わしも89年生まれなので半分くらいは同意や共感はできるんだけど、「勝手に世代を代表して反省会を始めるんじゃない」という反応もごもっとも過ぎるな
— デビット・ライス (@RiceDavit) 2021年7月6日
学問や社会運動の意義とか資本主義は疑えるのかどうかとか、「ウチらの世代はこうだったからダメ」「いまはこの考え方がナウいから正解」みたいに世代やトレンドに成否を委ねるんじゃなくて個人が勉強して個別に判断するべきものだとしか思わないんだけど、まあそれがいちばん難しいのかもしれない。
— デビット・ライス (@RiceDavit) 2021年7月6日
↑ こうコメントしたついでに
そういえば「はてな村」論が話題だけれど、Twitterもなく2ちゃんもニュー速的な価値観が主勢だったゼロ年代では「サヨク」的な価値観はネットでは「はてな」にしか居場所がなくて、だからこそ避難所的な価値があったし、価値観的に孤立していた若者の心の支えになってはいたhttps://t.co/6rRwl2Bgqx
— デビット・ライス (@RiceDavit) 2021年7月6日
おれにとってのはてな村、ハックルとかシロクマとかアジコとかは存在は認知していたけれど興味の対象ではなく(失礼)、筆頭がhokusyuで、apemanとかinumashとかfont-daとかbuyobuyoとかhokke-ookamiとかflurryとかあのあたりなんだよね。
— デビット・ライス (@RiceDavit) 2021年7月6日
↑ こう書いた。
もうすこし詳しく説明すると、わたしがはてなブックマークを使い始めたのは高校3年生だった2006年頃で、2013年くらいまではたまにブコメを書いたりもしていた(当時とはIDは変わっている)。このブログをはじめたのは、たしか2014年。
上記のツイートの通り、10代~20代前半まではいまよりも「サヨク」であったわたしにとっては、はてなは心のオアシスではあった。リアルな人間関係については、中高生のときにも大学に入ってからも、同級生にサヨクがほとんどいなくて、ノンポリからマイルドなネトウヨ、あるいはガチのネトウヨしかいなかったからだ。実際のところ、大学院に入るまで、わたしは同世代の生身の人間で「サヨク」や「リベラル」に分類される人と会ったことがなかった。たぶん専攻する学科や所属するサークルを選んでいれば出会えていたのだろうけど、深く考えずに英米専攻に決めて何も考えずに文芸サークルに入ったのでそうはならなかった。社会学部や法学部にはリベラルな学生が確実にいただろうし、日本文学専攻にだっていなくはなかっただろうが、英米文学専攻はTOEICの点数を上げることを目的に入学する学生が9割だったので価値観とか思想とかそういうのはそもそも存在しなかった。文芸サークルならサヨクがいてもよさそうなものだが、文芸部とは要するにオタクの集まりであり、そして当時はオタクとネトウヨの距離はたしかにいまよりもさらに近かったので、サヨクはいなかったのである。
だが、はてなのなかにはサヨクがごまんといった。なんらかの事件やニュースがあるたびに、周囲の同世代の若者たちはわたしとは正反対の意見や感想を言ってくるので孤独感や不安感を抱いたが、はてなを覗けば、自分と同じような意見を持つ人がコメントを書いてくれているわけだ*1。
いわゆる「はてサ」の人たちのなかには、大学で研究している院生や教授である人もいれば、そうでない市井の人もいたと思う。しかしアカデミックな人たちの書く文章のほうが興味深いものであり、hokusyuやfont-da、apeman、あとkamiyakenkyujoなんかのブログは読み込んでいたものだ(いずれも敬称略)。
また、「はてサ」ではないアカデミシャンも昔からはてなに投稿していた。山形浩生や稲葉振一郎などの経済学者がいるし、森岡正博や江口聡などの倫理学者も一時期ははてなをやっていた。北村紗枝や大野左紀子などのフェミニストもいるし。はてなブログではないものの、内田樹のブログも昔はよくブクマが集まってホットエントリに上がっていたと思う。
というわけで、わたしにとっての「はてな村」とは、まず第一に「はてサの村」であり、第二に「アカデミックな場所」であった。しかし世間的にはそうではないようであり、近頃になっていろんな人が投稿している思い出話を読んでみても、そこに出てくる登場人物の大半は、当時から存在を認知していたがほとんど興味を抱けなかった人とか、その人の書く文章のなにが面白いのか当時から全然わからなかった人とか、2021年になって初めて名前を知った人とか、そんなのばっかりだ。
yomyomさんのまとめた「はてな出身の文筆家」の一覧を見ても、アカデミック系の文筆家って思ったよりも少ない*2。それよりもビジネスとかライフハックとかに役立つ情報をまとめられる人とか、雑学的な知識を要約してキャッチーに紹介できる人とか、奇特な経験をおもしろおかしく文章化できる人とか、カルチャーだとかトレンドだとかを伝えられる人とか、ジェンダーについてなにかしら言える人とか、日常のことをいい感じに素敵に表現できる人とか、ゲームとかアニメとかマンガとかについて詳しく話せる人とか、ありがちで当たり前な意見や感想に学問っぽい用語をまき散らしてなんか含蓄があるかのように語れる人とか、そういう人が多いようである。こういう人たちがnoteに流れるのは、そりゃ仕方がないことだろう。
また、わたしは当時からよく把握できていなかったが、世間的なイメージでのはてな村では「ゴシップ」とか「人間関係」とかも重要であったようだ。思い返してみると、はてなブロガー同士の論争をまとめたり仕切ったり、横やりを入れたり介入したりすることで存在感を発揮しようとするタイプのブロガーは、たしかにいた。あるいは、他のブロガーや有名人を罵倒することで人気を得てポジションを確立させようとするブロガーもいた。……でもゴシップってそもそも不毛なものだし、他人が罵倒しあうのを見て喜ぶのも下品なものだ。ほかのネット空間とはまたちがうはてなに独特の閉鎖性とか属人感とか「学級会」感については昔から「やだなあ」と思っていた。たぶん世間的にはそれこそがはてな村をはてな村たらしめている最大の要素なのだろうけれど、わたしはそんなの最初から求めていないのだ。
……とはいえ、このブログをフォローしているならお察しできていると思うが、いまではわたしも「はてサ」的な思想には賛同していない。というか、八割方は否定しているし、はてサの人たちの大半にももはや反面教師としての価値しか見出せなくなっている。これは、学部や大学院を通じて自分でいろんな本を読みつづけて、ようやく自分の頭で物事を考えられるようになった結果だ。考えてみると当たり前の話だが、アカデミックなものを求めるなら、ブログじゃなくて、海外のものとか古典とかを含めて最初から本を読んどけばいいのである。
では自分はどういう理由でブログを書いているかというと、「自分が考えたことや、読んだ本の内容の整理したい」いうことと「話題になっていることについて自分でもなにか言ってみたい」ということと「人々を啓蒙したい」ということとが混ざっている。社会人になって時間や可能性が限られるようになってからは、自分の考えや意見を記録して発信することの価値は以前よりもさらに強く感じられるようになった。そして、他人を啓蒙することも、冗談じゃなく重要だと思っているし、ある種の使命感は抱いている。様々な本を読んでいると、世の中で普及したり流通したりしている知識は思った以上に限られていて、かなり多くの知見や議論がほとんど知られることもなく埋もれていることに気付かされるためである。
というわけでこのブログの内容は読んだ本や海外の議論についての紹介とそれについての自分のコメントがメインとなっており、たまにネット上の出来事やニュースについて自分なりの意見を書くのがサブ、という感じになっている(以前は翻訳記事もよく投稿していたが、最近はやっていない)。そして、このような目的で運営するぶんには、はてなブログはなかなか優れている。カテゴリ機能とかリンク機能、関連記事の機能とかはnoteに比べて優れている印象があり、記事と記事とを連携させてブログにひとつの「知識のかたまり」みたいなイメージを持たせやすいのだ。そして、記事が溜まれば溜まるほど、自分のブログが強固な「城」として育っていくように感じられて、そこもいい。
逆に、noteではどれだけ文章を書いても自分のページが「城」とはならず、常に他のライターたちと並列させられて十把一絡げに扱われる感じがある。昨年の前半にはこのブログの記事とは毛色の違うエッセイや愚痴を投稿するためにnoteをやっていたが、noteの設計や思想は以前からずっと気に食わない。文章の商品感や消費感が強すぎる。初心者向けに「読まれる文章」や「売れる文章」をご丁寧に指導してくるところも鬱陶しい。そしてライターたちの側からnoteに適応して「エモい」文章を量産しているのも情けない。たぶんマネタイズをするうえではnoteが最善なのだとは思うけれど、あんなのやめたほうが格好いいと思う。もちろんはてなにだってアフィリエイトで稼ぐのに特化したロクでもないブログはいっぱいあるのだが、浅ましさやみっともなさがわかりやすいぶん、お洒落に偽装されているnoteよりずっとマシだ。
はてなが衰退している理由のひとつの理由としては、ブックマークのシステムが以前よりもさらに分極化しやすい構造になっており質が劣化した、ということも挙げられている。これはたしかにそうだろう。
ブログを書いている立場からすれば、自分自身もブログをやっている人や大学で教えていたり本を書いていたりする人からの批判については受け止めて考えようという気が湧くが、ブコメだけをやっている人から批判されても基本的には鬱陶しいという感情しか湧かないものだ。前者については本人が自分の考えや思想をどこかで「論」としてまとめているから潜在的に議論の相手とみなせるが、後者については脊髄反射的で場当たり的な意見しか存在しないので議論の相手にはならない。そして、現在のはてなでは、おそらく昔よりも、ブログを書かずにブコメだけやるという人が増えている。ブロガーにとって以前よりもさらにストレスフルな状況になっていることは疑いもないだろう。……とはいえ、それも慣れてしまえばわりとどうということもなかったりするのだけれど。