道徳的動物日記

倫理学、社会科学、時事問題、世相などについて論じます。

不平等は避けられなさそうです(読書メモ:『暴力と不平等の人類史―戦争・革命・崩壊・疫病』)

 

 

 かなり長くて重たい本。経済史の本でありがちな、大量の具体例を紹介しながら同じような話が何度でも何度でも繰り返される内容なので、細かい部分は流し読みでよいと思う。

 そしてこの本で繰り返されるテーマとは「暴力……それも大量の人命を失わせるような徹底した暴力のみが、ある社会の経済的平等を増させる唯一の方法である」というものだ。

 ポイントは「徹底した暴力」であるということ。

 たとえば「革命」については、ちょっとした農民蜂起や反乱は歴史のなかで何度も起こってきたが、その成果はあっという間に失われて不平等が戻ってしまうのであり、ロシアや中国で行われたような共産主義革命くらいに大量の人命を犠牲にするほどのものでなければ意味がない(それですら近年では革命の成果が失われて不平等が再拡大している)。オキュパイウォールストリートどこらかBLMでも生ぬるいのである。

 疫病も、百万人とか千万人とかの単位で人(と家畜)を殺すような黒死病スペイン風邪くらいにならないと経済的平等を促進しない。人が死にまくって労働力の価値が大幅に変わったり経済が崩壊するくらいになってから、ようやく、格差は縮まる。というわけで、残念ながら、新型コロナウィルスがいくら流行したところで平等化はすすまないだろう(むしろ格差は拡大しているようだ)。

 戦争をしたからといって経済的平等がすすむとは限らないが、国家総動員して総力戦した第一次世界大戦第二次世界大戦では参加したそれぞれの国で平等化すすんだ(この本のなかでは第二次世界大戦後の日本における平等化について一章を割いて論じられている……そして、第一次世界大戦は欧州には平等化をもたらしたが、ちょっとしか関わらなかったアメリカや日本では不平等が進行していたのだ)。「希望は、戦争」は一面の真実をついてはいるが、太平洋戦争の時代に戻る覚悟がなければ言っちゃいけない*1

 古代に西ローマ帝国が滅亡したときのように国家制度が崩壊した場合、いろんなことがメチャクチャになりみんながひたすら悲惨な目にあうが、上流層たちの資産も失われるおかげで運がよければ経済的平等は実現する。

 つまるところ、「徹底した暴力」は経済的平等化の必要条件ではあるが十分条件ではない。多くの人が血を流して、死に、残された人たちもひどい思いをして、建物とか文化とが破壊されても、経済的不平等が残る場合はあるということだ。

 

 さらには、現代の社会では、戦争・革命・崩壊・疫病(著者が言うところの「四騎士」)ですら、もはや経済的平等を実現させる力を持たなくなっている。

 

それでも、歴史は平等化についての2つの重要なことを教えてくれる。ひとつめは、急進的な政策介入は危機に際して行われるということだ。世界戦争や大恐慌の衝撃や、また言うまでもなくさまざまな共産主義革命が、平等化政策を生んできたが、いずれもそれぞれの状況に多くを負う措置であり、背景が異なれば、少なくとも同じ規模での実行は難しかった。2つめの教訓はさらに単純明快だ。政策に決定によってできることには限界があるということだ。社会における物質的不均衡の圧縮は、たびたび暴力的な力によって進められてきた。それは人間の制御を超えた力か、あるいはこんにちでは実行可能な政治目標の範囲をはるかに超えた力である。こんにちの世界では、平等化の最も有効なメカニズムはどれも作用していない。「四騎士」馬から下りたのだ。そして、正気の人間なら、彼らの復帰を決して望まないだろう。

(p.553)

 

 実際のところ、現代ではもう総力戦は行われない。軍事技術の急速な発展により戦争はサイバー化しており、戦闘員は少数精鋭となっていて、徴兵制はもはや時代遅れだ。核戦争が起これば話は別だが、おそらく起こらない。そして、共産主義革命が実現したのは世界大戦のおかげであり、大規模な戦争のなくなった社会には革命も存在しないのだ。そして、こんにちの先進国や発展途上国ローマ帝国のように滅亡する可能性は薄い。なんだかんだ言って、現代の国家体制とはきわめて強固なものだ。貧困国が国家破綻して内戦が引き起こされる事例はあるが、それも平等化には結びついてこなかった(総力戦による対外戦争と内戦はまったくの別物である)。そして、現代の世界では過去のように疫病による(数千万人単位の)大量死が引き起こされる見込みは薄いし、仮に大量死が起こったところで過去のように低技能労働者の価値が引き上がるとは考えられない。

 

 この本を読んでいると、人類の社会に不平等は付きものであることを、いやでも思い知らされる。

 

著しい不平等にはきわめて長い歴史がある。2000年前、ローマ帝国で最も裕福な世帯の私財は、1人当たりの平均年収のほぼ150万倍に達していた。これは、現代のビル・ゲイツと平均的なアメリカ人の財産の比率とほぼ同じである。何と言おうと、ローマ時代の所得の不平等の全体的な大きさは、アメリカのそれとあまり変わらなかったのだ。

とろが、ローマ教皇グレゴリウス1世の時代(西暦600年ごろ)までに莫大な財産が消滅し、貴族階級に残されたなけなしの資産は、借金せずにすむようにと教皇が与えてくれる施しだけとなった。このケースのように、時として不平等が減少することがあったのは、多くの人が貧しくなるとしても富裕層は失うものをより多く持っていたからである。別の例では、資本収益が落ちる一方で労働者の暮らし向きはよくなることがあった。たとえば黒死病に襲われたあとの西欧では、実質賃金が2〜3倍に跳ね上がり、労働者が肉とビールの夕食をとるようになる一方で、 地主は体面を保つのに必死だったという有名な話がある。

(p.5)

 

 とはいえ、『自由の命運』でも論じられていたように、最初から平等でありつづける社会には経済成長が存在しない*2

 

狩猟採集民の必要最低限の生活様式と、平等主義的なモラルエコノミーが結びつくと、どんなかたちの発展も許さないような強固な障害が形成される。 理由は単純で、経済成長を果たすためには、イノベーションと余剰生産が促されるようにするために、所得と消費にある程度の不平等が必要だからだ。成長がなければ余剰は生まれにくいから、それを何かに充当することも後代に受け継がせることもできない。モラルエコノミーが成長を阻害し、成長の欠如が余剰生産とその集積を阻害する。

(p.40)

 

 この本の結論は下記の通り。

 

……われわれはさしあたり、現在持っている頭脳と肉体と、それらが作り出した制度でやっていくしかない。それはつまり、将来の平等化の見込みは薄いことを意味する。ヨーロッパ大陸社会民主主義国が高税率と幅広い再分配の込み入った制度を維持し手直ししていくのも、アジアの裕福な民主主義国が税引前所得を異常なほど平等に配分し続け、不平等化の高まりといううねりをせき止めるのも、容易なことではない。そのうねりはグローバリーゼーションの進行につれて激しさを増すばかりかもしれない。前例のない人口動態の変容がその圧力に加わるからだ。それらの国々が現状を維持できるかどうかは疑わしい。不平等は至るところで徐々に高まっており、その流れが現状を覆そうとしていることは否定できない。現在の所得と富の分配を安定化するのがますます難しくなるとすれば、より公平な分配を目指す取り組みはどんなものであれ、必然的にさらに大きな障害にぶつかるはずである。

何千年にもわたり、歴史は、不平等の高まりあるいは高止まりの長丁場と、潜在する暴力的圧縮を繰り返してきた。1914年から1970年代あるいは80年代までの60〜70年間に、世界の経済大国と、共産主義体制に屈した国々の双方が、歴史上最大級の大幅な平等化を経験した。その後、世界の多くの地域が次の長丁場となりそうな期間に突入し、継続的な資本蓄積と所得の集中に回帰した。歴史的に見れば、平和的な政策改革では、今後大きくなり続ける難題にうまく対処できそうにない。だからといって、別の選択肢はあるだろうか?経済的平等性の向上を称える者すべてが肝に銘じるべきなのは、ごく稀な例外を除いて、それが悲観のなかでしか実現してこなかったことだ。何かを願う時には、よくよく注意する必要がある。

(p.562-563)

 

 幸いなことに、「不平等」は「不幸」とはイコールではないし、「不正義」ですらないかもしれない。「経済的不平等は重大な問題ではない」というピンカー的な発想は気休め以上の意味を持つはずだし、まじめに考えるに値するはずだ*3

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 ところで、『暴力と不平等の人類史』にせよ『自由の命運』にせよ、ピンカーの『暴力の人類史』のような本に比べるとリーダビリティは低く、登場する具体的事例の描き方や引用も凡庸というかあまり印象的ではない(というか、良くも悪くも、ピンカーのように人の感情を刺激して印象に残るようなかたちで持論を展開できるのは、ジャーナリストはともかくアカデミシャンとしては稀であるだろう)。

 とはいえ、『暴力と不平等の人類史』や『自由の命運』を読んでいると、経済というものが人々の生命や幸福に直接的に結びついていること、そして地位や権力や尊厳に対する意志や執着こそが社会を動かす大きな力となっていることを、まざまざと思い知らされる*4。結局のところ、人間にとって経済と権力は「生」と直接的に結び付いてるのであり、生ぬるい理想論や口先だけの要求が通じるような領域ではないのだ。お金のことや将来のことをあんまり考えずにのんびり気楽に本を読んでいるとついつい忘れてしまうけれど、金や権力とそれに関わる人々が持つエグさやタフさというのはものすごいものであるだろうし、SNSハッシュタグをつけて意見を発信したり象牙の塔のなかで思想のお勉強をしたりしていても世の中の金や力の「本丸」を傷つけることは何一つできないし何も変えることはできない、ということは折に触れて思い出すべきであるだろう。

 

*1:総力戦が金持ちに対する課税とそれを通じた格差縮小を促したことについてはケネス・シーヴとデビッド・スタサヴェージの『金持ち課税』でも論じられており、『暴力と不平等の人類史』のなかでも彼らの研究がたびたび紹介されている。

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

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*3:興味深いことに、「世界は平和に向かっており戦争はどんどんなくなっている」というピンカーの「合理的楽観主義」の主張は、『暴力と不平等の人類史』でも否定されているわけではない。

*4:たとえば、革命について論じられている章では、14世紀フランスのジャックリーの乱における、貴族たちに反乱した農民たちによる虐殺、そして貴族たちによる徹底した報復について言及されている。血で血を争う反乱すらも最終的にはエリートの勝利となり、経済的平等を達成するうえではほとんど意味はなかったが、その後に黒死病が訪れて事態が変わったわけだ。