道徳的動物日記

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「自由」にケチをつけるな(読書メモ:『自由の命運 : 国家、社会、そして狭い回廊』)

 

 

 

 もう図書館に返却してしまって読み直せないので、浅い感想をメモ的に残しておく。

 

『自由の命運』は経済学の本(制度論の本)であり、様々な時代における世界各国の社会の有り様や国家システムを紹介しながらどういう国では経済や行政がうまくいってどういう国ではうまくいかなかったか、ということが論じられるのだが、その議論の内容は記述的であるはずなのに規範的な趣が強い。

 著者たちが強調する価値とは「自由」だ。これは「解題」で稲葉さんも書いていたのだと思うのだが、前著の『国家はなぜ衰退するのか』では様々な制度について分析した結論として「経済が反映したり社会がうまくいくためには自由が必要だ」という議論が提出されていたのに対して、『自由の命運』ではそれを前提とするところから議論が始まっているのである。

 

『自由の命運』で展開される議論とは「国家制度が全くない社会と国家の権力が強すぎる社会のどちらでも、どちらも人々は自由や幸福に生きることはできず、イノベーションインセンティブが阻害されてたりそもそも経済活動を行うという意欲を失ったりしているから経済が発展することもない」ということである。国家制度が全くない社会は「不在のリヴァイアサン」、国家の権力が強すぎる社会は「専横のリヴァイアサン」、そして国家制度がほどほどであり上手く機能している社会は「足枷のリヴァイアサン」と呼称される(市民社会の側がリヴァイアサンに対して足枷をはめている、という意味)。

 国家のシステム(法律とか行政とか)が全く存在していなかったり機能していなかったりする社会では、人々は安心して商売したり貯蓄したりすることができない。無法状態であるから、自分の財産がいつ奪われたり契約が裏切られたりするかがわかったものではないからだ。

 ただし、国家がない場合にも、人間の社会には道徳というものがある。どんな集団にも平等主義的な「規範の檻」というものが存在しており、ある人が他の人に比べて多大な力を獲得しようとしたり富を独り占めしようとしたりしたときには、国家システムではなく慣習や伝統に基づいた制裁が行われたり、「他人から抜きん出ようとする者にはバチが当たる」という迷信を信じ込ませることでそういう行動があらかじめ封殺しようとされるのだ。……しかし、「規範の檻」の力が強い社会ではイノベーションは全く起こらず、インセンティブも歪められてしまう。結果として経済成長というものがほとんど起きず、そのような社会は現在であっても貧困状態で惨めに暮らしている。「規範の檻」は一見すると平等主義的で善いもののように聞こえるかもしれないが、平等主義的な規範がガチで徹底されている社会なんて実際には惨憺たるものだということだ。

 しかし、歴史上、数多くの社会では、財産を貯めて権力を身に付けることで「規範の檻」を破るエリートたちがあらわれて、国家が築かれてきた。国家があることで、安全を保証して、人の足を引っ張る規範も封じ込めて、安全で自由な経済活動を保証することができる。……しかし、権力を持つエリートたちは、往々にして利益誘導をはかりたがるし、国家にとって不安材料となるような市民たちの自由を徹底的に抑圧する。この状態の国家が「専横のリヴァイアサン」だ。専横のリヴァイアサンであっても、無法状態の社会や規範の檻に封じ込められた社会に比べると、たしかな経済成長は存在する(専横的経済成長)。しかし、その成長は長続きしない。国家が恣意的に権力を振るってしまうと、イノベーションとかインセンティブとかはやっぱり機能しないためだ。

 したがって、リヴァイアサンには足枷を嵌められなければならない。足枷を嵌めるのは市民たちだ。国家の権力に対抗できるだけに充分に市民社会が機能している国では「足枷のリヴァイアサン」が成立して、国家はその役割を適切に果たして、めでたくちゃんとした経済成長が達成される。……しかし、市民社会の力が強くなりすぎると国家の機能が弱まって「不在のリヴァイアサン」に傾くし、かといって国家の力が強くなると「専横のリヴァイアサン」に逆戻りだ。どちらの力も固定的なものでなく、弱まったり強まったりしながら綱引きをしている。この綱引きのあいだにあらわれる「狭い回廊」のなかに位置している国のみが、ちゃんと経済成長できるのみならず、市民たちは規範の檻からも国家からも抑圧されずに「自由」を味わうことができるのだ。

 

 現代では賢しらな思想家さんとかライターさんほど「自由な個人という近代的概念は破壊された」とか「自由に伴う代償を直視しなければならない」とかほざいて、「自由」に疑問を呈したがる。サンデル先生の『実力も運のうち』も、ある意味では「規範の檻」を現代アメリカ社会に復活させようとする試みだとみなすことができるだろう*1。しかし、『自由の命運』では、無法状態になったているアフリカの諸々の国々や規範の檻に雁字搦めにされているインド、国家の恣意によって市民が弾圧され生命も奪われてきたインドやナチスドイツの例を紹介しながら、「自由が存在しない国ってマジでやばいことになりますし、誰も住みたくないですよそんな国」ということが再確認される。これは考えてみれば当たり前のことであるはずなのに、現代のわれわれが済むような国では「自由」は水や空気のように存在するものとして受け止められているから、つい「自由ってそんなに良くないんじゃないの?」という意見のほうが注目されてしまうのだ。

 というわけで、「自由」の価値を経済学や制度論の観点から再確認させてくれるということで、この本にはなかなかの意義があると思う。だらだらと各国や各時代のエピソードを紹介する箇所が続いて読みものとしてはあまり面白くないのだが、中国やインドの問題について書かれていたり女性参政権運動を通じて市民が自由を獲得していく様子について書かれていたりする箇所は著者らの熱意や使命感があらわれていて、そこの部分は読んでいても面白い。

 

 ……とはいえ、先述したように、著者らの議論は「自由は重要だ」という規範意識に引っ張られている気がする。それがもっとも議論に問題を引き起こしているのは、中国について論じている箇所であるだろう。

『国家はなぜ衰退するのか』では「中国の経済成長は近いうちに止まるよ」と論じていたのに、実際には中国の経済成長は継続している*2。『自由の命運』でも「結局のところ中国は自由が保障されていない専横のリヴァイアサンであり、いつ経済活動が共産党政権の恣意で制限されるかわからないからインセンティブは機能せず、イノベーションはそのうち頭打ちになって、経済活動も止まるはずだ」という議論が繰り返される。しかし、ここの部分は説得力がなく(だって中国の人たちの多くは自由なしでも楽しんで生きているようだし、それで経済活動もうまくいっているらしいという事実があるんだし)、著者らの願望を表明しているようにしか思えない。中国に関する章の最後ではウイグルの強制労働の話を持ち出して「ほらやっぱり中国なんてロクなもんじゃないでしょう」ということが確認されて、それには同意するんだけれど、中国政府が非道なことをしているかどうかと経済成長が続くかどうかはまったく別の話である(別の話じゃないと言うのならそこを論証しなければいけない)。

 

 この本は全体的にはフランシス・フクヤマの『政治の起源』『政治の衰退』にもっとも近い*3。原始的な「規範の檻」が平等主義的であることはクリストファー・ボームの『モラルの起源』に詳しい*4。また、中国のような自由のない社会ではほんとうの意味でのイノベーションは起こらず研究だって頭打ちになるはずだという(願望込みの)議論にはティモシー・フェリスの著書『自由の科学(民主主義、理性、法の支配)』を思い出した*5。そして、ジョン・ロールズの『正義論』をはじめとする、「自由」に関する政治哲学の規範的な議論とあわせて読んでみるべきでもあるだろう。