「公共哲学」と書くと見慣れない人も多いかもしれないし、本書の第一章では他の哲学ではなく「公共哲学」に特有の課題とは何かということが解説されてもいるが、まあ実際には第二章で大衆論にざっと触れられたり第三章でアーレントやハーバーマスが登場するところを除けば、ほとんど(英語圏における)「政治哲学」や「正義論」の入門書などと同じような内容。第九章で社会保障論が取り上げられたり、第十章と第十一章で民主主義論が取り上げられているところはまあ特徴的かもしれない。
十四章約300ページのなかにかなり多くの議論や思想家が詰め込んで紹介されており、内容は充実してはいるのだが駆け足になっていて踏み込みが足りない感が強い。基本的にはバランスが良い内容になっているが、「ネオリベラリズム」という単語やトランプ元大統領を雑に登場させて批判対象にしているあたりはやや左がかっていて気になるところ。また、「公共哲学とは何か」ということは第一章で解説されはするが、読者がなぜ公共哲学を学ぶべきかということや公共哲学のおもしろさとはなにか、といったことはほとんど解説されておらず、なんというか惹き込みや動機付けや面白みに欠けている*1。入門書というよりも、先生の講義を受けながら授業で読むことを前提にした教科書という趣が強い気がする。
というわけで個人的にはあまり高く評価できない本ではあるのだが、公共哲学なだけあって昨年から気になっている「公共的理性」という言葉がたびたび登場したり解説されたりするところはタメになってありがたかった*2。
強制力をそなえる公共的な制度は、特定の価値観にもとづく理由によってではなく、価値観を異にする人びとが共に理解し、受容しうる理由によって正当化されなければならない。利害関心や価値観が異なっていても理解可能、受容可能な理由は「公共的理由」(pubice reason)、そうした理由にもとづく法や政策の正当化は「公共的正当化」(publice justification)と呼ばれる。
(p.30 - 31)
また、カントやハーバーマスの議論を紹介するくだりでも、公共的理性に関連するポイントが触れられている。
カントは「啓蒙とは何か」において、啓蒙を「理性の他律」から「理性の自律」へと向かう全公衆共同のプロジェクトとして描いた。「自分で考えること」は「他者と共に考えること」を不可欠としており、そのためには、「自らの思考を公共的に伝達する自由」つまり言論の自由が妨げられてはならない。カントのいう公衆は一国の市民には閉じられず、「本来の意味での公衆」は国境をはじめ何らかの境界による拘束を被らない。市民は、「国家の市民」であるとともに「世界市民」でもある。
カントが提示する「理性の公共的使用」とは、全公衆に向けた理性の使用(推論と意見の公表)であり、自らの属する集団の利害や価値観によって制限を被ることはない。むしろ、カントにとって「公共的」という言葉は、既存の境界を脱する動きを含意している。興味深いのは、国家の官吏による理性の使用は「私的使用」と解されていることである。私的であるとは自らが属する組織の規範や規則に拘束されていることを意味している。ある税吏は国家の規則に従って粛々と税を徴収しながらも、当の税制が不当であるという意見を「自ら自身の人格において語る」ことができる(「人格」とは責任が帰される主体という意味で用いられる)。組織の私的利害を超えて公益のために語ることは、こんにちでは法によって保護される権利となっているが、その着想をカントに見ることができるだろう。
(p.40 - 41)
討議デモクラシーにおいて重要なのは「理由」=「論拠」(Argumente)の力である「数の力」や「金の力」ではなくもっぱら「理由の力」にもとづいて相互の了解を目指すことが討議的な意見-意思形成の基本線である。その際注目したいのは、「ほとんどの人が受け容れているから」というのは妥当な理由とはみなされない、ということである。討議においては、現に妥当(通用)している規範それ自体が本当に「妥当性」をもっているか否かが問い直されるのである。通常のコミュニケーション的行為においては、現に妥当している規範にもとづいて行為調整が行われる。しかし、男性優位のジェンダー規範や異性愛中心の規範がそのような過程を辿ってきたように、長く妥当してきた規範が問い返されることもある。
討議は、理想的には、「理由の力」以外のすべての諸力が無効化され、参加者が「よりよい理由のもつ強制なき強制」によってのみ動かされるような、反省形態のコミュニケーションである。もちろん現実には理由をめぐる検討にもさまざまな力は作用するし、討議を尽くすだけの時間も得られない。しかし、社会のさまざまなところで並行して行われる討議は、断続的ながらも、吟味・検討を経てより妥当とみなされるようになった理由を、政治文化に蓄積していくことができる。そのようにした蓄えられた「理由のプール」はそのつどの意見 - 意思形成の資源となるとともに、ありうる立法の幅に一定の制約を課していく。
(p.69 - 70)
政治的公共圏は、市民が「法の共同起草者」として民主的な自己立法に携わる場であり、そこでは、自ら自身に対して執行ないし適用される法を正当化する理由をめぐって、公共的理由の検討が繰り返される。つまり、市民は制定される法を通じて他の市民を支配しうる立場を占めているのであり、恣意的な支配を避けるためには、法は、世界観を異にする市民もまた受容しうる理由によって正当化さなければならない。政治的公共圏において、市民はそのような理由を特定すべく協働的かつ競争的に理由の探究を行なっているのである。ある法の制定が時間的な圧力のもとで行われることは避けられないが、やがてその法の誤りを正すためにも理由の検討は続行される必要がある。
そうした理由の検討にもとづく自己立法の実践が社会統合を導くためには、理由の力以外の「強制力の排除」だけではく、誰もが排除されないという「包摂」、誰もが対等な発言の機会をもつという「平等」、誰もが自他を欺かずに相互の了解を目指して発言するという「誠実性」が意見 - 意思形成の過程に備わっていることが(理想的には)求められる。もちろんこれらの条件が十全に充たされることは現実にはないが、この規範的理想に照らせば、どのような逸脱が法を制定する過程にはたらいているかを明らかにすることができる。
(p.71 - 72)
他にもよかった点を述べておくと、重要ではあるが日本語で紹介される機会があまりないロバート・E・グッディンによる功利主義に基づいた公共哲学(政治哲学)の議論が紹介されているところはありがたかった。また、フェミニズムやケアの倫理の議論を取り上げるだけでなく(他の理論に対してもしているのと同じ程度に)批判もしているという点はバランス感覚があってよかったと思う。