道徳的動物日記

『21世紀の道徳』発売中です。amzn.asia/d/1QVJJSj

「公共道徳」と「私的倫理」(読書メモ:『J・S・ミル:自由を探究した思想家』)

 

 

 

 この新書に関しては先日に前夜祭的な記事を書いている。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 また、『自由論』についてはこのブログやWebメディアに掲載した記事などでもたびたび登場しているが、ミルの研究書についてはこれまでにも以下のようなものを読んできた。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 本書の構成は、第一章から第三章まではミルの伝記的事実や思想が形成されていった過程が解説されて、第四章から第六章までは主著である『自由論』『代議制統治論』『功利主義が順番に解説されて、第七章で晩年のミルの著作と伝記についてまとめる……というもの。

 先日に読んだ『J・S・ミルと現代』に比べるとミルの哲学的な議論に関する解説がずっと多く含まれているのと同時に、章や節の構成が整然としていて内容も理解しやすくなっている。これは著者自身の能力とか研究の発展とかにも由来しているだろうが、日本の新書文化が成熟したりレベルが高くなったりしたということも大きいだろう*1

 

 本書のなかでもわたしがとくに惹かれたのは、まず、ミルの思想には(父のジェイムズと同じように)「ストア派」的な側面があったことが何度か触れられている点。そして、ミルの功利主義論では「公共道徳」と「私的倫理」が区別されているということがわかりやすく解説されている点である。

 

[「精神の危機」後のミルについて]第一に、「新しい人生理論(a theory of life)を採用するようになったことである」(…)。「危機」の経験に懲りずに、またしても「理論」なのかという印象を与えかねないが、しかし、それは実際のところは、たんなる理論的知識ではなく、むしろ生き方の基本姿勢と言えるものだった。これがミル自身の実感と切り離せない基本原理として、その後の思想の展開において大きな役割を果たすことになる。

第二の影響としてミルが挙げているのは、「感情の陶冶(the cultivation of the feelings)」を重視するようになったことである。陶冶とは簡潔に言えば、素質や能力を開発することを指す。feelingsと複数になっていて、陶冶の対象にはいろいろな感情があるという含みが込められている。後で示すように、それらの中には道徳的な感情も含まれるが、それだけではないところが重要である。

 

(p.50)

 

…ミルが獲得した精神のバランスについては、もう少しコメントを加えておく必要がある。このバランスは、同じ次元の異なる要素が均衡するという意味ではなかった。改革のための活動的な生活は、現実には苦闘の生活とならざるをえない。これとは別次元の世界に「感情の陶冶」の中心はある。活動的な生活は、感情の平穏を得るための手段でも目的でもない。また反対に、感情の平穏も、活動的な生活の手段でも目的でもない。両者は交換不可能なものとして捉えられている。これは、世界を政治や公共道徳一色で塗りつぶすようなタイプの理論とは、まったく異質な捉え方である。むしろ、政治や道徳は別の世界を見据えることで、人間の生活を豊かにし、それとともに、政治や道徳に節度や限界を与えて健全化する捉え方だと言えるだろう。

 

(p. 64 - 65)

 

…法律や社会制度、さらに教育という観点から見る場合には、作為と不作為のあいだには、実のところ、重要な境界線があるとミルは考えている。つまり、他人に危害を与えてはならないという不作為の指示は、社会が強制すべき事柄である。しかし、他人を幸福にすべきだという作為の指示は、社会が強制すべき事柄ではない。教育においても、両者の違いに応じた配慮が必要になる。これは、ミルが『自由論』で自由原理として、つまり、個人に対する社会の干渉の範囲を定める原理として力説していた点に他ならない。

個人がしてはならないことは、社会が義務として定め強制する。望ましいものとして個人に期待される行為は、社会の中で推奨され賞賛されはするが、強制はされない。この区別は、『功利主義』において、先ほど取り上げた有徳な人の自己犠牲をめぐる考察との関連で、はっきりと主張されている。たしかに、有徳な人は、自分の幸福を犠牲にしてまでも、自ら進んで自分以外の人や社会全般の利益のために行動する。しかし、功利主義は、有徳な人のこうした自発的な自己犠牲を、公共道徳の義務としては要求していない。功利主義の道徳は、誰に対しても自己犠牲を要求する過酷な道徳だという批判は、誤解にもとづいている。

功利主義の立場では、公的な効用つまり社会全般の利益を害さない行為の動機が、他者への配慮という立派なものか、自己中心的な利益かは、公共道徳の観点からは問わない。もちろんそれは、人柄や品位の評価という個人道徳の観点から見れば大きな違いである。しかし、功利主義は、これら二つの観点を混同していない。はっきり区別している。

 

(p.238 - 239)

 

特定の誰かが権利を持っているときは、その権利を尊重する義務が、その人以外のすべての人間にある。処罰の感情は、この義務を実際に怠った人間に対して生じる。しかし、他者にかかわらない領域でのプライベートな都合・不都合に対する判断は言うまでもなく、自発的献身や慈善の場合でも、そのような処罰感情の前提になる権利・義務の関係は存在しない。だから、たとえば街頭募金をしなかったからといって、特定の誰かの権利を侵害したとして処罰されることはない。慈愛も正義のどちらも、広い意味では道徳的な事柄ではあるが、両者にはこのような大きな違いがある。その点をまったく無視して「道徳のすべてを正義で一括り」にする(…)のは誤りである。

 

(p.245 - 246)

 

 手前味噌ながら、上記のような「公共道徳」と「私的倫理」の区別は、わたしも『21世紀の道徳』を書いているうちにいろいろと考えるようになったことである*2。というか、道徳や倫理について研究していたり考えていたりする人ならだれでも避けることができないテーマであるのだろう。

 ミルによる「作為」と「不作為」の区別や公私の区別自体が現代ではややナイーヴに見えるところもある。たとえば貧困や差別に関する「構造」に関する議論を持ち出せば不作為も実質的には作為だと言うことができるかもしれない。また、ピーター・シンガーの「池で溺れる子供」の思考実験に基づく海外援助義務論は、他者を幸福にするというよりも危害から救うための、自己犠牲というほどではないが作為ではある行為(募金など)は、社会によって強制されるというわけではないが個人に要求される義務である、という議論だが、これはミルの区別にはちょうど当てはまらないように思える*3。……とはいえ、なんにせよ、ミルによる作為/不作為や講師の区別は議論のスタートラインとしては多くの人にとって理解も支持もしやすいものだろう。

 

 また、感情の陶冶や道徳感情といったトピックの他にも、「権力心理学」や「国民性格学」などの心理学的な物事についてミルが様々なかたちで考察していたことが本書ではたびたび触れられている。ミルは経済学者としても知られており、経済の法則については(当時における)科学法則と同じくらいに確固たる法則を論じることができたが、性格という物事についてはさまざまな知見を蓄積してはいたが科学といえるような理論や法則を打ち立てるまでには思索を発展し切らなかったそうだ。とはいえ、人間の感情や人格のメカニズムについて(できるだけ事実や経験的知識に立脚しながら)精確に知ろうとすることは、経済や政治のメカニズムについて精確に知ろうとするのと同じくらい、規範を論じるうえでは大切なことである。

 だが、現代ではこのことが失念されており、人間の本性をまったく無視した規範論を主張する人が学者のなかにも多々いる。過去の哲学者たちは政治哲学や公共哲学と経済学を分離させずに「政治経済学」としてまとめて考えていたのが学問の専門化や分業化によって現在ではそういう議論が難しくなったのと同じく、過去の哲学者たちは倫理学と心理学を分離させずに論じようとしていたのが現在ではそういう議論は一部でしかなされていないという問題があるのだろう*4。よくある意見だが、精密で専門的になった代わりに断片的でタコツボ化した現代のアカデミックな議論に囚われずに視野を広げておくためにこそ、昔の哲学者たちの大雑把で総合的な議論にも定期的に触れる必要があるのだろう。

 なお、ミルは決して感情主義者や生物学的決定論者ではなく、性格や感情を理性の力で制御するというストア派的な考えも持ち合わせているようだ。また、「人間の思索能力」は社会変化の要因としても抜きん出たものであると論じている(p.116)。心理学を重視する一方で理性の役割も高く評価して、社会変化も理性によってもたらされるという考え方は、後にシンガーが『拡大する輪』で論じたりスティーブン・ピンカーが『暴力の人類史』で論じたりする議論に通じるものだ。『自由論』や『代議制統治論』とあわせて、ここらへんについても、ミルは現代の理性主義的リベラルの元祖だと言うことができるだろう。

 

 最後に、本書では『女性の隷従』についてはちょっとしか紹介されていないが、その内容はなかなか印象的だった。

 

…女性という人類の半数を占める部分にかんしては、多少は緩和されてきているものの、隷属状態が続いている。原初の社会に存在した力による支配服従の権力関係は、家庭というミクロのレベルで長らく存続してきた。そうしたミクロな権力関係が、伴侶である女性よりも自分は強くすぐれていると男性に思い込ませる。この思い込みは、感情に深く根付いているために、理性的批判をかたくなに拒むのである。他方で、強者に服従する習慣は、女性から自分の能力を発展させる機会を奪い、その性格を受動的で視野の狭いものにしてしまう。こうして、男性の権力的支配が存続し、慣習や制度にも反映し続ける。ミルはこのように、権力心理学を援用した性格形成論によって、女性の生まれながらの劣等性を否定するとともに、女性を従属させる習慣や制度が根強く残っている原因を説明した。ミルはさらに、功利主義の立場にもとづいて、女性の能力を活用する社会的利益と個々の女性自身の幸福という二つの視点から、自由と正義の原則が全面的に適用された社会の実現を訴えたのだった。

 

(p.252 -253)

 

 ミソジニーの原因をミクロな権力関係に基づく心理や性格形成に求めるミルの議論は生々しくて説得力があり、現代の日本でもいろいろと思い出させるものがあるところだ。

 

*1:ただし、「内容が理解しやすくなっている」とてもそれはわたし自身が哲学の本やJ・S・ミル関連本を比較的熱心に読んでいるからであって、そうでない人にとってどこまで理解しやすかったり、あるいはJ・S・ミルという人に惹かれさせたり彼の思想の意義が伝わったりする内容になっているかどうかはわからない。というのも、あまり知らない分野や苦手な思想家に関する最近の新書…とくに中公新書…を読んだときには「新書だってのに知識のあるマニア向けの内容で入門になっていないじゃん」と思わされることも多いからだ

*2:

gendai.media

*3:

ethicalhedonism.blog.fc2.com

*4:

davitrice.hatenadiary.jp