道徳的動物日記

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読書メモ:『自己陶冶と公的討論:J.S.ミルが描いた市民社会』

 

 

 

 先日に読んだ『醜い自由』と同じく、ミルの著作(『自由論』がメインだが『功利主義論』なども登場する)を扱った専門的な本。また、『醜い自由』と同じく、論理的な一貫性がなく折衷的だと批判されがちなミルの議論に一本筋を見出して擁護するという試みがされている。主に扱われているのは、ミルが「市民社会」についてどのように考えたのか、個人が討論や政治に参加することがなぜその個人にとっての「幸福」や「自由」につながるか、という問題だ。

 

これまで市民をめぐるミルの議論に注目してきたが、その中心にあるのは参加を通した公共精神の陶冶という考えであった。ミルの理想とする市民は公共精神を身につけており、公共精神はミルの考える自由な社会にとって不可欠なものであった。ただミルはそうした理想をただ押しつけようとしたのではなく、一方で自由を保障し、他方で義務を課すことによって、市民が自ら陶冶によって公共精神を身につけるプロセスに期待している。そして、その期待を支えているのは、市民が参加によって変わりうるというミルの確信である。ミルによれば、実際に身につくかどうかは参加してみないとわからないということになるのだろう。しかし、感情を養うのは行為であり、公共精神を備えた市民は参加によって生み出されるといえる。

(p.45)

 

…ミルがエリート主義なのかという点については、ミルが市民の自己陶冶を主張することで何を問題にしているのか、という点に注目する。先に性格形成について触れたが、人間の行為における因果法則の影響を認めるミルにとって、性格は行為の原因にあたり、個々の行為に一定の方向づけを与える。性格についてミルは「欲求と衝動が自分自身のものである人、自分自身の育成によって発展させられてきた本性のあらわれが、彼自身の欲求と衝動になっている人は、性格をもつ」と言っており、他の人びとの伝統や慣習ではなく、その人自身の性格が行為の規則になっている人のことを「個性」をもつ人と呼んでいる。ミルが当時の社会に対して憂慮しているのは、性格や個性の素材となる欲求や衝動がそもそも生じにくくなっているという事態である。ミルは随所で活動的な性格、精力的な性格の望ましさについて触れ、また知的、道徳的資質と並んで活動的な資質を重視している。なぜなら、そうした性格は「怠惰で無感覚な性格よりもつねに多くの善をうみだしうる」からである。こうしたミルの主張と、これまで検討してきた市民の問題を重ね合わせるならば、理想的な市民の問題は個性の発展の問題でもあり、そこで考えられている「個性」は、ミルにとって何ら特別なものではなく、誰もが手にしうるものと言える。それゆえ、ミルに対しエリート主義という批判はあたらず、また『自由論』の主要な論点が「意見と行動の多様性」及び「性格の多様性」であることを考慮するならば、ミルがある特定の理想的市民像を押しつけているということにもならないと思われる。

(p.68 - 69)

 

…ミルが「行為者」にとって発展させることが重要な意味をもつと考えたと思われる個々の能力についても検討したい。それらは「欲求と衝動」「感受性」「知的能力」「想像力」の四つの能力である。

 

…性格をもつだけでなく、欲求と衝動が強く、さらにそれらが理性の支配下にあるとき、その人は精力的な(energetic)性格をもつということになり、そうした人間であることをミルは推奨するのである。こうした主張の背景には、文明化した社会で「人間本性を脅かしている危険は、個人的衝動と選好の過剰ではなく、不足している」というミルの認識があるといえるだろう。

 

…私たちは行為を通して、さまざまな感覚を得、経験を重ねていく。…経験を自分自身の仕方で活用し、解釈するためには、そうした経験を受け取るということ、そして経験から得られる快苦を受け取ることができ、そしてさらに、それらを享受できるということが条件となってくるのである。

 

…ミルにとってなぜ「真理」が重要かというと、真理を知ることが、真理に基づいて行動しようとする気持ちを抱かせる早道だと考えているからである。つまり、真理を知ることによって、私たちは正しい動機を形成することができる。それを所有していることによって、人はよく活動でき、そして、それが功利原理の適用にとって不可欠である、と考えているためである。

 

…想像力は、他人の経験を理解することやその人の表面に出てこない(まだでてきていない)性質を知るために必要とされる。また、それは自分自身にとっても同様である。つまり、自分自身を観察する、そして内省することを通して、自らを理解する上でも必要なものであった。ミルにとって想像力とは、外部世界を認識する「観察」とならぶもう一つの認識能力として、もつことが重要なものであった。

 

(p.93 -97)

 

では、あらためて「卓越生」の主張とはどのような主張なのだろうか。この点については、先にも何度か取り上げている「生活の技術」という考え方が参考になる。「生活の技術」については、ごく簡単な説明にとどめるが、行為や好意のあり方を評価する枠組みとして、「道徳性」「慎慮/政策」「審美」という三つの二次的な価値原理を採用し、それぞれ「正しさ」「便宜」「美または高貴さ」を評価の対象とする。いま私たちが問題にしている性格の「卓越性」は「審美」の領域の問題であり、その「美」や「高貴さ」といったことが評価の対象となるのである。それゆえ、性格の理想をかかげ、それ自体を目的として自己陶冶する際に求められる「卓越性」は、個人の裁量にまかされるものであり、決して他人によって強制されるような事柄でなく、個人の目的として望ましいということになるのである。ミルはこの「美」の分野を、「知性と知的能力」「良心と道徳的能力」とならぶ第三の分野として「それらに従属すべきものであるが、質的にはほとんど劣ることがなく、実際、人間性の完成にとって、なくてはならないもの」として重要視している。そこで必要とされる能力が「共感能力」と「想像力」であり、ミルが感情の陶冶で意味していたのもこの分野の問題であった。

 

(p. 123 - 124)

 

まず、前節において確認したのは、ミルの自由の擁護論は、本人の幸福の増大または幸福の一部として、また、社会の利益や進歩といった視点から擁護されているということであった。また、本節で確認したように、危害原理と小売原理は並列的な関係ではなく、役割としても、異なるレベルにあり、ミルにおいては、階層的に理解されているということであった。つまり、ミルの自由の主張の背景には功利主義的な、つまり、幸福への考慮があるということであり、自由は幸福の手段として、あるいは、幸福そのものとして求められているということになる。そして、このことから導きだせることは、私たちが本書において取り扱っている市民社会についても、ミルは、功利主義に基づく市民社会を、あるいは全体の幸福という観点から市民社会を考えているだろうということである。

 

(p.158)

 

また、ミルによれば、人間は誤りうる存在でもあった。それゆえ、自身の意見を、他者の意見と対照することによって、訂正し、完全にするという習慣を身につける必要がある。私たちは、自身に向けられる意見に対し、こころを開き、相手の言うことをよく聞き、相手に正当なところがあればそれを受け入れ、相手の誤りを説明することが求められ、そのプロセスを通して、自身の意見の確実性を手にすることができるのである。このプロセスの中には、他者の意見を受け入れ自分の意見が変わるということが含まれている。これは、公共精神を身につけるプロセスとして、ミルが市民に対して求めたことでもあった。

 

(p.185)

 

 本書を読んでいてまず印象に残るのが、ミルは人間が受動的であることをまずいと思っていたこと、(理性によって制御されることが前提になるとしても)「欲求と衝動」は性格や個性の発展に欠かせないと考えていたことである。これは、政治参加の機会の乏しさや「民主主義疲れ」などとあわせて、「他人と違う意見を言うことを恐れて、権威や規範に順応的で、無気力でガッツに乏しい」といわれる最近の日本の若者の問題点を考えるうえで重要になるかもしれない(現在30代前半である私の世代からこのような傾向は存在していたから、もはや「若者」に限定できることではないかもしれないが)。

 また、ミルによる自由の擁護論は「個人の幸福」という観点からだけではなく「社会の利益や進歩」という観点からも主張される、という点はやはり重要だろう。本書を読んでいても、「個人の幸福」だけで自由を擁護するのは難しい……ミルの人間観はやはりかなりエリートで有能な人間像を想定したものであるように思えるし、自己を陶冶することや公的な討論を行うプロセスに耐えられない人は相当多いように思える…からこそ、社会の利益という観点から自由を擁護することのほうが今後は重要になっていくんじゃないかとわたしは思う。

「公的討論が自己陶冶につながって、個人を幸福にして社会も良くする」という発想はほとんど「熟議民主主義論」そのままであり、したがって、熟議民主主義に対するシニカルな批判はミルも直撃することになるだろう。わたしは熟議民主主義についてはいまだにスタンスを決めかねており、一部の冷笑家のように熟議を丸ごと否定したり馬鹿にしたりするつもりはないのだが、ジョセフ・ヒースの『啓蒙思想2.0』やサンスティーンのリバタリアンパターナリズム論やサイバーカスケード論なんかを読んでいると「誰でもかれでも議論に参加させてなんでもかんでも意見を言わせればいいってもんじゃないよな」と思えてしまうこともたしかだ。もっとも、これは熟議民主主義自体の問題というよりもSNSやネット(あるいはマスコミ)というメディアの問題かもしれないけれど*1。本書に収録されている「座談会」では「哲学カフェ」について肯定的に取り上げられているけれど、わたしは哲学カフェもロクなものではないと思っているし……。

 

「卓越性」に関する議論のところでアリストテレスの思想と比較したり共通点が述べられているところも印象に残った。『ロールズ正義論入門』を読んだときも思ったけれど、「善の多様性」や「個性」を擁護するはずのリベラリズムが、ふつうの思想以上に「卓越性」や「徳」を肯定せざるを得ない、というのは面白いと思う。

 おそらく、リベラリズムにしても功利主義にしても、論理的な矛盾のなさや分析哲学的な一貫性だけを重視するなら卓越や徳の概念を捨てたほうが有利であると思うんだけれど、不利になるとしてもそこから目を逸らさないことのほうがほんとうの意味で妥当な倫理学とか社会論とかを考えるためには重要なのだろう。