道徳的動物日記

倫理学、社会科学、時事問題、世相などについて論じます。

インターネットで「言論」は成立するか?(『啓蒙思想2.0』読書メモ⑦)

 

 

 

政治的言説の質にインターネットが与える長期的な影響はまだはっきりとわからない。これはテクノロジーが急速に変化しているからでもあり、伝統的なメディアーー特に新聞ーーに対する影響がまだ定まっていないからもである。当然ながら、ツイッターには字数の制限があるため、合理的な討論には不都合だ。それは言葉による平手打ちのけんかを助長している。ツイッターが課す驚くべき「スピード欲求」もまた、合理性の立場から見ると破滅的である。だからジャーナリストや専門家がいまや毎日何時間もつぶやいたり、つぶやきを読んだりに費やしているのが、よいことであるはずはない。

ブログにはもっと大きな可能性があって、明らかに政治文化の重要な要素になった。しかし興味深いことに、合理的な討論をつづけたいと考えているブログやメディアのサイトは、「荒らし」という他人を怒らせることだけが目的でコメントを投稿する連中を積極的に検閲しなければやっていけない。

(……中略……)

そのうえ、インターネットが復活させた文字主体のコミュニケーションはつまるところ回線容量の制限の結果にすぎないのかもしれない。どんどん大量のデータが送りやすくなるにつれて、ビデオの重要性が着実に高まっている(だから、いまやただブログに記事やコメントを投稿するよりビデオをアップロードして、周りに「お返し」ビデオのアップを求めるような状況だ)。視覚メディアの多用への移行は、まさしく期待される言説の質に影響を与える。いずれ過去一〇年間を振り返ったとき、それこそ技術的制約のせいで長文メッセージを打って送りあい、ブログに文字コメントを残すしかなかったゆえに、公的な言説の「黄金時代」として懐かしむ、というのは充分ありうる話だ。

(p.398 - 399)

 

啓蒙思想2.0』の原著が刊行されたのは2014年だが、この頃からTwitterが言論に与える影響の問題点は認識されていたわけだ。そして、YouTube花盛りな現在の惨状をふまえると、動画メディアへのアクセスが容易になることで言論の質がさらに低下することを危惧するヒースの意見は、まさに正鵠を射ていたのである。

 私見を述べると、インターネットが言論の質を低下させるのと同じように、マーケティングも言論の質を低下させる。「消費者にリーチして、金を稼ぐ」ことを目的にした時点で、虚偽や誇張を含まずに事実に基づくことに対して負のインセンティブがはたらいしてしまい(虚偽であろうと消費者にウケることを言ったほうが儲かるからだ)、間違いを指摘されたらそれを受け入れて意見を変えたり反対陣営の言うことに耳を傾けたりすることもしづらくなる(党派性に阿った極端な意見を毎度同じように言い続けるほうが、固定客をつかまえて商売になりやすい)。そして、インターネットとマーケティングがあわさってしまうと、もう最悪だ。

 

 noteのような「定期購読」システムは、ふわふわしたエッセイやマニアックで罪のない趣味に関する文章ならともかく、政治や社会問題に関わる文章については、アフィリエイトブログよりもさらに有害なものとなりやすい。そもそも、大学やマスメディア会社などに所属しておらず組織のリソースも使えないひとりの個人が、政治や社会問題について党派性に左右されない有益でオリジナルな知識や知見を定期的に提供することは、ほぼ不可能に近い。それよりも、特定の立場に偏った意見を言ったほうが「読者」を獲得しやすい。だが、途中から意見を変えたり指摘を受けて反省したりすると、せっかく獲得した読者が失われてしまう。読者は、同じような意見をこれからも言い続けることを期待したからこそ、「定期購読」を開始したからだ。さらに、マガジンをハイスペースで定期的に更新しなければ、やはり読者が定期購読をやめてしまうおそれがある。だから、noteのマガジンで書かれる文章は、必然的に粗製濫造なものにならざるを得ない。

 さらに、新規読者をマガジンに流入させて購読させるためにはTwitterでの「宣伝」活動や、マガジンの無料部分での「釣り」をするなどの努力や工夫が必要とされる。政治や社会に関する話題であれば、批判対象となる「敵」をつくって戯画的に表現したりバカにしたりすることで、同じ「敵」を持つ人たちを同調させて党派心や部族主義を煽ることが、もっとも手軽で効果的な宣伝手段となる。そして、noteを購読するまでには至らない人たちも、「宣伝」や「釣り」は目にするので多かれ少なかれ部族主義を煽られて、そして攻撃の対象となっている「敵」の側も黙ったままではいられないから、結果として言論の質は共倒れ的に大幅に低下することとなる。……既存のブログメディアや「買い切り」形のweb記事、新聞や雑誌やテレビなどの旧来のマスメディアにも同様の問題は存在するだろうが、個人の記事を「定期購読」で売るシステムではその問題を激化させやすいということだ。

 

 よく、Twitterに漫画を掲載している人が「出版社の編集者がついたけれど、フォロワーが30,000人を超えないと商業出版はできないと言われた」という嘆きを投稿することがある。漫画というフィクションや料理のレシピなどの他愛のない情報ですらバズることに特化した「底辺の競争」が起こっており、その結果として漫画やレシピ自体の質が低下したりバリエーションが乏しくなったり扇情的な内容や極端な味付けになったりする、という問題が指摘されている。

 ……そして、政治・社会・道徳などの話題について論じる学者・ジャーナリスト・批評家までもが「フォロワーが30,000人を超えないと商業出版はできません」と言われるようになったとすれば、どれだけ悲惨な事態が待ち受けているかは目に見えている。誰も彼もが、フォロワーを増やして維持するために、左か右か自称中立かのどれかの極に触れながら、本人も信じていないような怪しい意見を連呼するようになるはずだ。

 逆に言うと、政治や道徳に関する問題について事実を追求したうえで誠実な主張を(論文などのかたちで)発表するという行為に、「読まれるかどうか」「売れるかどうか」「ウケるかどうか」ということに関わらず、(実績や地位などの)見返りを与えるシステムが(一応は)担保されているアカデミアという制度は、やはり必要であるのだ。

  

 ついでに書いておくと、昨今では文筆家や編集者、読書家や学問ファンまでもがこぞってYouTubeやラジオをはじめている。しかし、学問的な本に書かれているような知識や議論とは、さまざまな情報や理論を前提としたうえで多かれ少なかれ込み入った論理を展開したうえで成立するものであり、それを理解するためには、結局のところ本を読んで論理の展開を追うしかない。アカデミックな学術書だけでなく、ポピュラー・サイエンスの本ですらそうだ。『啓蒙思想2.0』では、テレビの草創期にはテレビが学校の代わりになることが期待されたこと、そして実際にいくつものドキュメンタリー番組が作られたにも関わらず、その期待が完全な失望に終わったことが指摘されている。同じように、YouTube(やラジオ)が本の代わりになるということは、絶対にないだろう。

 メディアの変化によって最近の若者が本から遠ざかって動画ばかり観るようになっているとしても、若者に知識や議論を伝えたいと思うなら、必要なのは送り手たちが本の「劣化版」である動画メディアに手を出すことではなくて、受け手である若者たちに本を読ませることであるのだ。