道徳的動物日記

倫理学、社会科学、時事問題、世相などについて論じます。

「独学」がダメな理由(『啓蒙思想2.0』読書メモ⑧)

 

 

 

どうやって正気を取り戻すかを考えるとき、合理的思考の根本的な特徴をおさらいしておくことは役に立つ。時間がかかる。注意力が求められる。言葉に基づいている。意識的。非常に明示的。またワーキングメモリに依存しているせいで活動が妨げられやすい。したがって、論理的思考の中間段階をメモ書きするといった外部化から恩恵を受ける。どうしてこの思考様式がすっかり環境に支配されてしまっているのかは分かりやすい。スピードという単純な問題だ。理性の遅さについて考えてみよう。ある考えや主張はかなり簡単なものでも、説明するのに優に一〇分から一五分はかかる。しかも教室という恵まれた環境の外で、きちんと座って、何かを説明する人に耳を傾けるよう強いられること(リモコンでチャンネルを変えたり、フェイスブックをチェックしたり、話の腰を折ったりはしないで)は驚くほどめったにない。宗教上の説教が大切な例外だ、という人もいる。ただし、話題の範囲はとても限られがちだ。つまり、人は学校教育を終えると、断片的には伝えることのできない新しいものごとを学ぶ機会はほんのわずかしかない、ということだ

(p.355,強調は引用者による)

 

 ヒースが具体例として挙げるのが「自由貿易のメリット」である。「比較優位」などの概念を前提とするデヴィッド・リカードのモデルを理解すれば、国際貿易がなぜ(原則として)二国間のどちらをも豊かにするかということが理解できる。しかし、「賃金水準が大きく異なる二国間の貿易でも、豊かな国の賃金に下げ圧力が生じない」という状況はきわめて直感に反する。そして、リカードのモデルはさほど複雑でないとしても、ある人が「リカードのモデルを理解しよう」という意志を持ったうえで理解可能な状態になることは、かなり不自然なことである。具体的な物事を脱文脈化して、ある程度の過程を受け入れたうえで、「二つの財を交換する、二人の関係」について抽象的に考えなければならないからだ。このような行為には、抽象的に考えることのみならず、「片方の人の取り分が増えたら、片方の人の取り分は減るはずだ」というゼロサムゲームを前提とした「基本的演算バイアス」という日常的な直感に反して考えることも必要とされる。

 リカードのモデルに限らず、「議論」を理解して「学習」することには、日常的な会話ではありえないような「前提」や「条件」を理解したうえで自分の直感に反する思考をおこなう、という不自然(で苦痛)な行為が要請される。また、このような行為には、かなりの量のセルフコントロールが必要とされる。そして、学校の「教室」とは、学習に伴う負担を減らすために設計された環境であるのだ。

 

教室の重要な特徴の一つが、学生は授業の邪魔をしてはならないとことだ。質問があれば手を挙げさせられ、なおかつ教師には「あとで。このポイントを説明してから」と言える特権がある。これは議論の持続という点では、実は非常に重要なことだが、およそほかの社会的状況ではひどく不自然で落ちつかない。リカードでも、ほかのなんとなく込み入った議論でもそうだが、たとえばディナーパーティーの席で説明しようとしたら、いくつかの社会慣習を破らずにするのは不可能だとわかるだろう。そもそも、なにしろそれだと長い時間しゃべりすぎて「退屈な人」にならざるをえない。それに、口を挟んでくる人というのは必ずいて、たいていは勇み足で異論を述べたり、冗談を言ったり、議論から脱線した問題を提起したりする。あいにく、間が悪くならずに一〇分間でも話しつづけられる「自然な」社会環境などはほとんどない。認識すべき重要なポイントは、こうしてそれがこの環境で伝えることのできる種類の考えかどうか、ふるいにかけられているということだ。

(p.357)

 

 教室に限らず、「書き言葉」、つまり「本」も学習を可能にすることができる例外的な装置である。理解するのに一〇分や二〇分では済まないような議論については、本が必要とされる。たとえば、ヒースによると、「進化論」を理解するには最低でも一時間はかかる。進化論は「数十億年」という時間のスケールが大前提となっているが、わたしたちが時間について持っている時間の長さの「感覚」は、「十年とはどんな長さか」や「百年とはどんな長さか」ということくらいまでなら判断できるが、それ以上は「すごく長い」ということしかわからない。したがって、万年や億年かかることが当たり前である自然選択のメカニズムを理解するためには、理論とともに数々の証拠が掲載された本を参考にしながら、「心」ではなく「頭」で受け入れるしかないのだ。

 テレビでは草創期から数々の自然ドキュメンタリー番組を放映してきたが、そこでは進化論が正しいことは前提とされているが、進化論の考え方についての説明は一切ない。尺が足りないだけでなく、動画で視聴したところで理解できるような考え方ではないためだ。その一方で、学校に通った人たちは、教科書という本の助力を得ながら、国際貿易や進化論についての理解を得ることができる。「学校」とはカリキュラムだけではなく、社会環境でもあるからだ。

 

このため、社会で合理性を育むという点では、伝統的な正規学校教育に代わるものはない。旧式な教育環境に関して権威主義だと批判されたことの多くーー教師による教室管理、整然と並べられた机、読書課題、問題集、しめきり、テスト、そして最後に成績評価ーーは、同時に集中力、計画性、目標達成についてセルフコントロールの不足を補うように作られた、外的な足場と見なすことができる。当然のことながら、特権を濫用する教師もいる。けれど教室での学習の利点を知るには、独学の人としばらく会話してみるだけでいい。独学者に最もよく見られる特徴は、規律のなさーーとかくよい考えと悪い考えを区別できないのに加えて、落ちつきのない認知スタイルである。確証バイアスはとりわけ深刻な落とし穴だ。伝統的な教室とカリキュラムの利点の一つは、自分以外の人が系統立てたとおりに教材を学ばされ、最初から共感できることだけでなく抵抗のある考えをも理解できるようになることだ。自学自習には選り好みしたくなる誘惑があるから、そのせいで独学者はとりわけ確証バイアスと陰謀論に陥りやすいようだ

(p.359、強調は引用者による)

 

 わたし自身、大学院の後半から現在に至るまでほとんど「独学」のみでやってきた人間であるので、ヒースの指摘はじつに耳に痛い。自分のことは棚に置いてほかの独学者の人を観察してみても、たしかに、確証バイアスの餌食になっている人は多そうだ。

 ちなみに、独学者にありがちな特徴のひとつが、自分にとっての「スター」や「カリスマ」となる学者や思想家を発見して信奉するあまり、教科書による体系的な知識ではなく、スターやカリスマの価値観やイデオロギーや好き嫌いに振りまわされることである。カリスマ学者自身は体系的な知識を前提としたうえで自分の思想を打ち立てているはずだが、前提となる体系的な知識を持っていない独学者は、カリスマの言っていることを場当たり的で表面的にコピーした劣化版にならざるを得ない。

 

 とはいえ、独学者にとっては幸運なことに(?)、近年のアメリカの人文学や社会科学では「カリキュラムの破壊」が取り沙汰されるようになっている*1

 また、教師を招かずに学生同士が対等な立場で参加して発言する「読書会」は日本の大学に独特な文化であるが、教師の代わりに「よく知っている詳しい上級生」がファシリテーターになるとしても、読書会からは「教室」が持つような種類のメリット(バイアスを抑え込む「不自然」な思考を強制して、自分が興味のないことまでをも学ばさせられること)が失われることは明白であるように思える。

 見方によれば、読書会とは、「独学」を十数人で一緒におこなうことに過ぎない。レジュメを作成してきて議論をおこなう必要があるために独学よりも知識は定着しやすいだろうし、他人が参加することで自分の思いこみやバイアスや間違いが指摘されるというメリットもあるが、参加者の問題意識や価値観が共通していると、知識の選り好みや確証バイアスはむしろ悪化する可能性も高い(エコーチャンバーなりフィルターバブルなりサイバーカスケードなりは、ネット環境だけで起こるとは限らないのだ)。「読書会文化」が日本の(人文系)知識人にもたらしている負の影響についても、どこかのだれかに調査や分析をしてもらいたいものだ。